ねえ  
 
ヒトとしては「親」っていう共通項をもっているのに、その「親」から与えられた「仕事」がどうしようもなく相容れないね  
 
わたしはほとんど本なんか読まなかったからわかんないけど、あなたの読んだ物語の中にはそういうお話もあったのかな  
 
もしそのお話の彼らが和解し合えたのなら、わたしたちに少しの希望も生まれるのに  
 
 
閉鎖空間から現実に帰った俺は、へとへとになって自宅へと転がり込んだ。  
状況が大きく動いたこと自体は喜ばしいが、あまりにも大きすぎだ。もう少し小出しにしてほしい。  
シャワーのあとソファーになだれ込んだが、それを見計らうがごとくケータイが鳴る。  
俺はミニテーブル上のそれをつかみ上げ、相手を確認することもなく受けた。ある程度の予想はできる。  
 
「もしもし」  
「ご無事ですか?」  
第一声がそれか、古泉。  
「まるで何があったかわかってるような口ぶりだな」  
なんとなく皮肉っぽい口調にしてみる。  
「詳細はわかりませんが、あなたの存在がこの世界から数十秒程度『消失』していたことは観測できました」  
そっか、そんな短時間なんだ、とか思いつつ俺はコトの説明をした。  
 
俺が全てを語り終えると、古泉はフーッと考えるような音を出して、言った。  
「僕は御役ごめん、といったところですかね」  
「まじめにやれ」  
しかしまあ同じことを考えるもんだな。  
「冗談です」  
ニヤリと笑ったのがありありと分かる声。  
「しかし、あながち悪ふざけとも言い切れませんよ。あなたが閉鎖空間に入れるようになり、その収拾を朝倉涼子がつける……」  
もっともらしく間を空ける。  
「僕の入り込む余地などありませんね」  
その通り、と言いたいところだ。しかし人間は自虐はよくても他人から同じことを言われるとムカつく、とよくいうので、言わないことにした。  
「朝倉を信用してもいいと思うか」  
途端に電話の向こうの空気が冷える。  
「油断はできませんが、そのままにしておいて良いと思われます」  
信用できるかはわからない、ってことか。  
「もしあなたに危害を加えることが目的だったとしたら、閉鎖空間ほどおあつらえ向きの場所はありませんからね」  
古泉が「危害を加える」と言ったとこで俺の脳裏に寒気が走った。  
「そういやあいつは、佐々木の閉鎖空間は『常時展開型』とか言っていたが、ハルヒとは違うものなのか?」  
ふむ、と置いて。  
「佐々木さんについては専門外なので迂闊なことは言えませんが、涼宮さんについていえば、閉鎖空間は彼女の精神が不安定になると生み出されていました」  
天井のシミが人の形に見える。  
「それは思うに、涼宮さんの隙を見計らって『力』がそのアイデンティティを発揮しようとしていたのではないでしょうか?そして佐々木さんは」  
俺の下の階にいるんだよな、コイツ。  
「それほど精神力が強くないというか、自分に自信がないというか、隙が大きいのでは」  
なるほど、それなら説明がつくな。  
「お前にしちゃ分かりやすかった。感謝しといてやる、古泉」  
「ありがとうございます。お役に立てて、何よりです」  
 
それじゃな、と電話を切ろうとするとコイツにしては珍しい慌てた声で止められた。  
「なんかあんのか」  
一転して気持ち悪いほどに落ち着いた声は、こう告げた。  
「この件――特に朝倉涼子の件は、長門さんには伝えない方がよいかと思われます」  
どうして、と言おうとして、俺は朝倉の言葉を思い出した。  
(だけどそれは、あくまでも主流派の話……)  
その間を縫って、古泉が続ける。  
「察するに、長門さんの派閥と朝倉涼子の派閥は敵対関係にあります。そして仮にも朝倉涼子の派閥が我々寄りである以上、『アサシン』の存在を向こうに知らせるのは得策ではないかと」  
長門を「向こう」と言い切った古泉に若干の失望を感じたが、全勢力にとってこの件は超A級の一大事で余裕がないんだろう。俺の危機意識が甘すぎるのだろうか。  
よって、今回は古泉を不問に付すことに決める。我ながら偉そうだ。  
「だが、もう俺はお前に喋っちまった。長門や情報統合思念体ならお前の頭の中くらい簡単に読みとっちまうんじゃないのか?」  
「それがですね、恐らく『力』は奇妙な情報操作を行っていて、この『ゲーム』の内容は、あなたの体験したことはあなた以外にはわからないようにしてあるみたいなのですよ」  
で?  
「そしてあなたの口から出たそのことに関する情報も、一瞬の『音声』としてしか情報になりえない――つまり、直接話を聞いた人でなければ知りえない。『情報』の原子レベルでは解読できない」  
前言撤回。わかりづらくなってきたぞ。  
「簡単にいえば、あなたが、僕が、この話を誰かに聞かせない限り、文字で伝えない限り、あなたの体験、今回でいえば朝倉涼子の存在を知っているのはあなたと僕の二人だけ、ということです」  
まあわかったことにしておこう――って。  
「随分と重い役割与えちまったな」  
「いえいえ、共に問題を解決していく同志ですからね。ありがたいくらいですよ」  
最後に、今更な質問をする。  
「お前は、俺の味方か?」  
やれやれ、と言わんばかりの間が空いて。  
「今更ですね」  
 
通話を終えたケータイを握ったまま横たわっていると、すぐにまたバイブの振動。何も考えずに出る。  
「もしもし」  
「わたし」  
一気に肩口が冷えたのは、たぶんノースリーブを着ていたからだけではない。  
「午後11時23分52秒から、あなたの存在がこの空間から35秒間消失した。安否の確認」  
それにしては随分と冷たい声だな。高一の春を思い出すぜ。  
「ああ、俺は大丈夫だ。心配してくれてありがとな。」  
「そう」  
そのまま沈黙。まるで俺からの説明を待っているような。聞き出さなきゃいけない、でもそんな仕事したくない、という葛藤のような。  
「……」  
「……」  
二行分の三点リーダの後、俺は根負けして口を開いた。  
「なんだかわからんが佐々木の閉鎖空間に行っちまったんだ。でも何事もなく出てこれたから安心してくれ」  
嘘じゃない。間の説明をしていないだけだ。  
再び三点リーダを置こうかと用意した頃に、長門は短く答えた。  
「そう」  
心配して電話してくれたなら、怪我の治った犯人を尋問するかのような雰囲気をどっかにやってくれ。  
その後も微妙なやり取りをギクシャクとして電話は切れた。ああ、いっそ懐かしいね。  
 
それなりにヘビィな電話で疲れ切ったボディに嫌というほど追い討ちを喰らった俺は寝床へ。ケータイでアラームを設定していると性懲りもなく電話が来た。  
今度は相手を確認する。心の準備の大切さはさっき学んだばかりだ。  
そして露骨に眉をしかめてみせる。誰が見ているわけでもないというのに。  
「なんか用か、ハルヒ」  
ワザとぶっきらぼうに、つうか疲労困憊だから地かもしれんがとにかく出ると、あからさまにムッとした空気を身に――いや声に纏って、団長様が降臨された。  
「久しぶりの相手にそれはないんじゃない?SOS団の団長がただのヒラ団員兼雑用係且つ足手まとい心得キョンに電話してあげたんだから、あんたはテレビ電話で土下座した姿をあたしに見せるくらいはしなさいよ」  
どんだけ俺の立場は落ちてんだ。  
いったい何を言い出すのかと身構えていると、電話口から二度三度咳ばらいが聞こえた後妙に煮え切らない声が届けられた。  
「最近、どうしてんのかなぁ、って思って。」  
「は?」  
思わず、思った通りの最短疑問詞が噴き出す。  
「だって!あんた全然あたしに報告してこないじゃない!渋谷のセンター街に幽霊がいるとか、原宿には山姥がいるとか、新宿にはデイダラボッチがいるとか、なんかないのっ?!」  
最後のひとつには流石の俺も震えたね。原宿のヤマンバは昔はいたんだろうな。今でもごく稀に見るけど。  
「あんた、ちゃんと不思議探索やってるんでしょうね?いくら一人だからって、大事な団活を忘れてたら承知しないわよっ?!」  
「スマン、完全に忘れてた」  
そんなことしなくても残念ながら俺の周囲は正常なものが異常であるかのように異常で囲まれている。できることならお前と代わってやりたい。可及的速やかに。  
すると電話口からツバが飛んできそうなほどの勢いでハルヒがまくしたてた。鼓膜が景気よく破裂する。いや、嘘だけど。  
「このバカキョンっ!!あんたいっぺん女性専用車両に飛び込んでフクロにされてきなさいっ!!だいたいあんたはSOS団としての自覚が足んないのよっ!!」  
「ヒトを性犯罪者にするな」  
さっきから小さい「つ」とイクスクラメーションマークを大量生産してやがるなとかどうでもいいことを考えていると、うっかりハルヒの言葉を聞き落とした。  
「スマン、なんだって?もっかい言ってくれないか?」  
電話口からプルプルという擬態語がまるで聞こえてきそうな時間の経過の後、然るべくしてハルヒは怒鳴り散らした。なんだか早口で。  
「だから、あんたは毎週日曜日、不思議探索の結果をあたしに定時連絡しなさいっ!!」  
「お前、一人暮らし学生のケータイ料金がいかに生死を左右するかわかってんのか?」  
俺の反論が功を奏したか、ハルヒはむぅ、と急に黙り込んだ後、むすくれたように言った。  
「それじゃ百万光年譲ってあたしが電話してあげるから、あんたはそれなりの手柄を立てなさい。ハチ公の動く瞬間くらいは欲しいところね。飼い主が帰ってきた瞬間ならもっといいけど」  
都庁がテトリスのブロックよろしく横向きに浮いてた瞬間なら見たんだがな。  
なんであたしが……とかブツブツ言うハルヒをなだめすかしていると、いきなりテンションの上がった声が電話口から発射され俺の鼓膜をブチ破った。嘘だって。  
「そういえばあんた、夏休みの最初の方はそこに残るの?それとも帰ってくるの?」  
ふむ、夏休みといえばそんな話題も上がるだろうな。つーか今まで何も考えてなかった俺がおかしいか。  
「おそらくは残るだろうな。なんの予定も考えてなかったし、そっちに戻るとしても八月の後半になると思う」  
するとハルヒはふーん? 、となにか企む様な顔を絶対していそうに語尾を上げた。ヤな予感。  
「そ。わかったわ」  
「お前、なんか企んでないか?」  
こう言われて「ハイソウデス」なんて答えるヤツは早々に脳を改造した方がいいと思う。いや、絶対じゃないけど。  
無論ハルヒはなんでもないと言った。そう答えるのが筋であり、この後になんかやらかすのも筋であろう。  
一体どんな悪事をやらかすのだろうかと逡巡していると、やけに落ち着いた声が耳に入ってきた。精神の浮き沈みが激しいな、今日。  
「ホントはもっと言いたいことあるんだけど……」  
あるんだけど?  
「また今度にするわ!あんた疲れてそうだし」  
コイツにヒトを気遣う心が生まれたのは死ぬほど嬉しいがしかし、気にならせといて話を切るのは気遣いが足りないと言わざるをえない。  
しかしまあコイツの言うとおり完全にへたっていた俺は追及するのをやめといた。  
珍重されるべきお心遣いだったし。  
 
「それじゃ、ちゃんと学校行くのよ?」  
「はいはい」  
「不思議探索も全力でやりなさいよ?」  
「へいへい」  
「たまにはそっちから電話しなさいよ?こっちだってケータイのお金バカになんないんだから」  
「ほいほい」  
母親のようなことを言うな。  
「……なんかムカつく返事だわね」  
うん、俺も悪ふざけが過ぎたと思う。  
「ハルヒ」  
「なによ?」  
照れるね。  
「電話、ありがとな」  
「バッカ、あたしは当然のことをしたまでよ」  
さっきと言ってること違わないか?、とは思ったが口にはしない。  
団長様がヒラに電話するのは、特例中の特例とか言ってなかったか?まあどうでもいいけど。  
「団員とのコミュニケーションは必須だからね!」  
あいつが指をさす姿が目に浮かぶ。  
 
「あんたはSOS団の一員なんだから!!」  
その言葉によくわからない安堵を覚えたのは、また別の話。  
 
 
どこか遠くで壁に銃弾が打ち込まれている。  
(……、……)  
一枚づつ壁はぶち抜かれ、段々と俺の傍に音は迫ってくる。  
(……、……)  
はて、俺はいったいなんて名前だっただろうか。この破裂音は俺の名とよく似ている気がした。だが、しばらく呼ばれていなかった名前。  
(…ョン、キョン)  
残り一枚隔てた意識の壁の向こうで、装填される弾丸が変わった。認めちゃいない、でも、もう逃げられない、俺のあだ名。  
 
「キョン、いつまでキミは寝てるつもりなんだい?」  
自分でも情けなくなるようなうめき声が口から洩れたことだろう。今聞こえたカバの欠伸みたいな音がそれだ。  
寝汗にまみれた最悪の寝起きは、時間を確認することでぶっ飛んだ。もうすでに朝イチの授業は始まっている。  
もつれる足で懸命にインターホンへかじりつき、謝罪と「あと三分待ってくれ」を叫んで俺は再び格闘し出した。  
最初に手が触れたデニムとシャツを着る。そこそこに顔を洗う。なおざり(おざなり?どっちでもいいや)に歯を磨く。教科書を鞄に叩きこむ。  
たぶん本当に三分で準備を終えた俺は玄関を破壊せんとする特殊部隊よろしくドアへダッシュし、朝の光を背負っているはずの佐々木の姿を見た瞬間腰を抜かした。  
「おはよう、キョン」  
優しく口角の上がった紅い微笑みの上に、小人の被るような黒のハット。  
ショートヘアをツーテールにまとめ、そこから見え隠れする耳には拘束具のようにいくつもピアスが「埋め込まれて」いる。  
声が通り抜ける喉には、葬儀用の大事な花束を締め付けるようにリボンが。  
全身には夏の陽気を拒む深海のようなゴシックドレスが纏わりつき、しかしアクセントの白が暑苦しさを全く感じさせない。  
黒炭から生えた象牙のように際立った細い指には鎧の指輪。その鎧が握るのは剣ではなく盾。日差しから身を守るにしては豪奢すぎるものだが。  
時代や絵画から抜け出した「お人形さん」が突然玄関にやってきた、という感じ。  
総括するに、ゴスロリってやつだ。  
――こういう衣装自体は、別に初めて見たわけじゃない。  
SOS団ではハルヒが似たようなモンを朝比奈さん、長門、そんで自分に着せていたし、こっちに来てからはそういうファッションのヤツもゴマンと見てきた。  
ただひとつ、目の前にいるコイツは他との決定的な違いがある。  
やさしいながらもどこか頽廃的な雰囲気は、「流行りだからやってみましょ」という感じのSOS団や自称オシャレさんには決して作り出せない。  
 
返事することさえ忘れ見とれているのか呆れているのか何を考えているのかわからん俺に、握るだけで折れてしまいそうな腕が差し出された。  
「嬉しい反応だね。もしこのまま何事もなかったかのように振舞われたら、僕は恥ずかしさで溶けていたところだよ」  
そんな格好を見せつけられたら諸葛亮孔明だって驚きで鶴翼の陣を崩すに違いない。  
目の前の手を握り立ち上がる。華奢な指にそぐわない鋼の指輪が俺の手を甘噛みした。  
「さて、どうせ急いだところで一限の授業は絶望的だしのんびりと行こうじゃないか」  
それもそうだな、と相槌を打つ。後でのんびりと、追及してやろうじゃないか。立ち話じゃ辛いほど長くなりそうだからな。  
 
 
「さて……と」  
俺達はキャンパス近くのファーストフード店に腰をおろした。次の授業は四限であり、時間なら腐るほどあるってワケだ。  
ちなみに俺達は隅っこの隅っこにいる。このゴスロリ少女は良くも悪くも視線を集めすぎるからである。  
電車内で一緒にいるときは恥ずかしさを感じればいいのか誇りを感じればいいのか全くもって誰かに教えてもらいたかった。  
まあそんなことはどーでもいい。  
オレンジジュースを可愛らしくすすっている良家のカラスへ、俺は単刀直入に突きつけた。  
 
「お前、佐々木じゃないだろ?」  
「ご察しの通り」  
「どうせばらすウソなら最初からつくな、紛らわしい」  
「今日は一度も自分を『佐々木さん』とは主張してないから、嘘をついたことにはならないんじゃない?」  
 
上のやり取りからも分かるように、やはりコイツは佐々木じゃなかった。ところで、いい加減に呼び名が欲しい頃なので真に勝手且つ月並みではあるがコイツを「裏佐々木」とでも呼ぶことに決めさせていただく。  
「まだちゃんと居やがったか。俺は、てっきり飽きてどっかに行っちまったかと思ってたよ」  
「なーんにもまだ達成してないのに、居なくなれるもんですか」  
二限の途中な時間帯ということで店内に人はまばらだ。とんちきな格好をしてとんちきな話をしている俺達にとっては都合がよい。  
「で、なんでまた急に出てきたんだ」  
「心当たりはありまくりでしょ?」  
そうだな。運の悪いことに昨日の記憶はまだ無くなっちゃいない。  
「佐々木さん、昨日なんだけど新宿に買い物に行ったのね。さて帰ろうかと駅前に行ったら、そこに誰が誰といたと思う?」  
合衆国大統領と北の将軍様がいたら大騒ぎだろうな。  
「それを見た佐々木さんはとてもがっかりしました。悲しくなりました」  
「ちょっと待て、なんだって俺と朝比奈さんが一緒にいるのを見ただ」「あ、白状した」  
しまった。  
「まあそれはわかりきった答えだからどうでもいいとして」  
話を途中で潰された俺は改めて反論する。  
「えーっとな、俺と朝比奈さんが一緒にいたことは認めよう。だけどな、佐々木はそのくらいで心乱すようなヤワなヤツではなかったはずだ」  
ニヤリと笑った裏佐々木が何か言おうとしたその時、頼んでいたフライドポテトとハンバーガーが運ばれてきた。店員が裏佐々木の異様な服装と俺とを一瞥し、怪訝な顔をして去って行く。  
話を潰される不快感を味わった裏佐々木は、苦々しい表情になってポテトをひとつ摘む。なぜか俺はニヤけた。  
「佐々木さんだってあなたと朝比奈さんの間にはやましいことは何もないって感覚で分かるわよ」  
「何もない」ってのも、それはそれで悲しいことだがな。  
「でもそれだけじゃ終われないのが感情の不思議、ってヤツじゃない?」  
知らんわ。  
「ともかく佐々木さんはイライラを募らせて、閉鎖空間で巨人――私の力の一部――を暴れさせたのね。おとなしい顔して行使した力は涼宮さんの倍近くだったから、人は見かけによらないものね」  
あの深海のような空間にいた、暗黒の巨人を思い出す。配色を間違えた雪のように散っていったその体。  
「あなたが閉鎖空間に入ってこれたのは知ってる。むしろ、ちょっとお仕置きでもしようかと、あなただけは入り込めるようにしたのね」  
俺があの巨人は角を持っていたかどうか考えていると、不意に目の前のゴスロリ少女が視線をがんじがらめにしてきた。顔をそむけられない。  
「ところでちょっと聞きたいんだけど」  
「なんだ」  
内心かなりビビりながら聞き返す。  
「あの閉鎖空間の中に『誰か』いなかった?」  
朝倉の存在はバレているようだが、それが誰かまではわからないのだろうか。もしそうなら、教えちゃいけないことな気がする。  
震えるな、俺の全部。  
 
「さあな、誰も見てねえよ」  
 
何が起こったかわからなかった、といういい加減手垢のつきまくった表現を使うことをお許しいただきたい。  
 
まずは、感触だった。  
俺の顔の右側をクーラーの風が撫でていった。そう思った。それくらいに静かだった。  
しかし風と思ったそれは、どういうわけかいつまでも黒く細長く俺の横にとどまり、目玉だけ動かしてそれがフリルつきの袖だと理解するのに一瞬を要した。  
全身から冷汗が、まるで示し合わせたかのように溢れ出す。  
右頬をひときわ太い雫の伝う感触が、ナメクジの這うように不快に感じる。  
喉はさっきまでジンジャーエールを飲んでいたことも忘れているようだ。  
振り返ると、俺の背後にあった壁から人間の腕が生えていた。ゴスロリの服のそれは、そのまま目の前の少女につながっている。  
不可解だったのは、壁に一切の亀裂も傷も見当たらないことだった。素人の作った合成画像のように、手首から先だけが壁に飲み込まれて消失している。  
 
「嘘は良くないなあ、ウソは」  
 
エイプリルフールの日、息子にわざと騙されたあと楽しげにたしなめる母親のように言った。  
セルロイドの人形のように動けなくなった俺に、もう一本の腕が伸びてきた。情けないことだが、俺は目をつむる。当たり前だ、こちとら拷問に耐える訓練を受けた諜報機関の人間なんかじゃない。  
そのままこれから俺の身に起こることを想像し、恐怖と共になんか俺ってよく死にそうな目に遭うなあとかやけに冷静に嘆息していると、さっきと同じ右頬を擦る感触がして結局イマージェンシーモードに引きずり込まれた。  
「目を開けて」  
心底嫌だった。首を振って拒絶することもできず、折れそうなほどに奥歯をかみしめる。  
「開けて」  
「開けてどうなる」  
「いいから」  
「よくない」  
「それじゃ、わたしがあけてもいい?」  
それはもっと嫌だ。  
敵の手にかかるならば自ら舌を噛み切らんとする姫君の覚悟をもって、ゆっくりと目を開けた。そういや、舌噛み切ったくらいじゃ死ねないんだっけ。  
幼稚園児のぬり絵のようになった世界で目を凝らし、必死で状況を確認する。同時に何も見たくないという、怖いもの見たくなさも顔を出す。  
 
目の前の裏佐々木は、無言だった。手にはポテトをタバコでも持つかのようにつまんでいる。比較的長めのそれの両端には、緑色のソース。  
何をやろうというのか、それへの興味以外は不思議なことに一切消えていた。  
相変わらずいたずらっぽい眼をしている。  
指先でポテトをクルクル弄んだあと、その一端を咥える。  
ガタンという椅子の音。  
狂ったように流れる黒人ラップ。  
近づいてくるゴスロリ人形の整いすぎた睫毛。  
遊園地のようにとっ散らかっていた色彩が、段々と日常のそれに戻ってくる。  
間近に迫ったルージュの紅。  
しかし、それが咥えたポテトの先端に見たソースの色は、緑ではなくなっていた。  
むしろ、迫ってくる唇より幾分暗い――  
 
薔薇を貪ったなら、こんな味がするだろうか。  
 
「『誰』とは訊かないわ。『誰か』、いたんでしょ?」  
「……ご察しの通り」  
「どうせばらすウソなら最初からつかないで、紛らわしい」  
 
そのまま立ち去ろうとする裏佐々木。俺は顔の右側に触り、傷は跡形もなく塞がっていたが何か纏わりつくような感触を覚え、その手が血にまみれていたの見て呆然と――  
いや、あいつには言わなきゃならないことがある。呆けてる場合じゃない、という声が体の底から聞こえ、俺はそれに従ってヤツを追いかけた。  
ドアから出たところで裏佐々木の肩を掴み、振り向かせる。店に入ろうとしたカップルの迷惑そうな顔が見えて、俺達は駐車場の隅に移動した。夏の日差しが痛い。  
「何か用?」  
不機嫌な声と目に射られ、体が竦む。だが、これだけは言わなくてはならない。  
「おまえ、その服は自分で買ったのか?」  
心底アホを見る目。そんな事を訊きに来たのかと。さっきの雰囲気から、どのツラ下げてそんなこと訊くのかと。  
「いえ?佐々木さんがあなたを喜ばそうと思って買っちゃったんだけど、勇気がなくて着れなかったみたい。それをわたしが、あなたへの目印に着て来たってワケ」  
そんなんで俺が喜ぶと思ったのか、あのバカは。  
「そのピアスは?」  
俺はシロガネまみれになった形の良い耳をつまんだ。  
ぴくん、と裏佐々木の体が震える。  
「わたしが買って、わたしが付けたのよ。何か文句、あるの?」  
耳から手を離し、改めて肩に手をかける。右手は血まみれなので左手で。  
「お前が何買おうと着ようと勝手だけどな」  
裏佐々木の眉が歪む。  
 
「佐々木の体に傷をつけるマネはすんな」  
 
蝉の合唱が不協和音になる。  
固まっていた空間を切り裂いて、裏佐々木はにっこりとほほ笑んだ。  
そのまま両腕を俺の背中に巻きつけ、抱きついてくる。やめろ、暑苦しい。  
「今のはちょっと、よかったわよ?見直したわ」  
「わかったから離せ、暑い」  
 
今日初めて見せた「嬉しそうな」顔のまま、裏佐々木は話し始めた。  
「いやー、おどかしてごめんね? 佐々木さんが可哀想であなたにムカついてたから、ちょっとやっちゃった。あと、ピアスはフェイクだから安心して!」  
マジで、やられちゃったかと思ったわ。  
裏佐々木は一人でうんうんと何かを納得し、  
「とりあえず、佐々木さんも大事にされてるみたいね。それじゃ、ごほうびあげよっか」  
もらうのはやぶさかではないな。「一撃」、とか以外なら。  
期待三割不安五割その他二割で待っていると、裏佐々木は両手を合わせた。そこから一閃、太陽にも勝る光が木々を渡り、蝉の声が止んだ気がしたがまたすぐに鳴き始めた。  
「はい」  
差し出された掌には、指輪があった。裏佐々木が今身につけている、鎧のように広い範囲を覆うヤツ。  
「このアーマーリングには」  
そんな名前があるんだな。  
「わたしの力が一回分込められてるの。強く思いを伝えれば、一回だけ願いが叶う」  
突然、とんでもなく便利なものを手に入れちまったな。これさえあれば……  
「でも、『今すぐこのゲームに勝ちたい』とか、そーいうチートなお願いはダメだからね! まあせいぜい、わたしを巡る勢力との駆け引きにでも使ってね」  
ばれたか。  
「それじゃ、叶えてくれる願いを増やせ、っていうのはどうだ?」  
「いいわよ」  
いいのかよっ!  
「でも百個とかはさすがに無理だから、二つにするのでいい?」  
なんか知らんがありがたい。つーか、えらいあっさり許可したな。  
「わたしはランプの魔人とかみたいにケチケチしたくないの」  
その割に願い事は一つ分少ないけどな、とは言わないことにした。  
「ちなみにその指輪、薬指限定だから」  
子供の様な事をするな。  
「じゃ、わたしは引っ込むから、後のこと宜しくね? ちゃんと誉めてあげなきゃダメだよ?」  
なにを、と聞きかけた途端裏佐々木の体が崩れ落ちる。俺は慌てて支えた。  
「……ん」  
十秒もしないうちに、少女の目が再び開いた。そのままぼんやりと焦点の合わない瞳で見つめられ、俺はだいぶ心拍数を上げた。  
「ここは……どうして、キミが……? 顔から血が……」  
そう口走った矢先、爆発音でも聞こえそうなほど急激に佐々木の顔が真っ赤に染まった。  
「どどど……ど、どうして、キミが?! なんで、僕、僕は、わ、この服をっ?!」  
アー、ソーイウコトダッタンデスネー、ウラノササキサン。  
その後、半狂乱となった佐々木を落ち着かせたり、おさまったらおさまったで、上目づかいで服の感想を求められたりして、結局俺達はその日の授業を全てサボった。  
やれやれだ。  
 
「……そこまで。すみやかに筆記用具を置いてください」  
終わった、終わりましたよお母さん。  
夏休み直前の関門、定期試験の最後の教科を終え、俺はボールペンをベーブ・ルースの動体視力をもってしても確認できないほどの速度で黒板へ投げつけようかと思ったがやめた。  
代わりに、コロコロと情けない音をたてて机に転がすペン。似たような寂しい音が講堂の至る所で聞こえる。ついで溢れ出す溜息と半笑いと自嘲。俺は溜息役だな。  
そしてコイツは……。  
「どうだったかい?」  
いつものかわらぬ微笑をソロで演奏している。  
「ご察しの通り」  
肩をすくめた俺に、喉にモノの詰まったような音を立て笑う佐々木。  
「ほう、それでは上々の仕上がり、を示唆しているということで了解してよいのかな? 僕の立てた予想は当たらずとも遠からず、大同小異の異口同音だったと思うのだが」  
最後の慣用句の使い方は間違ってると思うが、佐々木のことだから言葉遊びの一環だろうな。  
「確かにどっかで見た様な語句ばかり出てきたけどな、それより先に行くことがなかった」  
目をマンガのように細めて、佐々木はたしなめる。笑ってるだけなのか?  
「む、それでは、今度からキミがちゃんと知識身に付けたかしっかり確認してあげないとな」  
「そこまでお前に迷惑かけたくないわ。俺のレポートだって、ほぼお前の助言で出来上がっているようなもんだし」  
あれがうまいこと評価されてなければ単位は軒並み暴落する。  
「いやいや、キミの切り口は斬新で、とても僕の思いつかないことを書き出す――多分教授にも。ただ、少し論旨を明快にしてあげているだけさ」  
鞄を担ぎ、俺達は会場を後にする。学生であふれた階段を流れ、外に出て夏の日差しを全身で受けた。こっちには蝉が少ないな。地元じゃ今頃、某ガキ大将のごときリサイタルをあちこちでやってるだろうに。  
地元――地元か……。あいつら、元気でやってんのかな。  
「キョン?」  
顔が近い。  
「いやね、その瞳に郷愁を感じたもので。キミはいつ頃あっちに戻るんだい?」  
鋭いにもほどがあると思う。  
「そうだな、八月の後半になるかな。佐々木、お前は?」  
「僕は今年は帰らない。バイトがたてこんでいてね」  
「そうか」  
ちなみに佐々木はウェイトレスなんぞをやっていた。働きぶりを観察に行ったときは、顔が手にしたパフェのイチゴと変わらんくらいの色になってたな。まあバイト中の姿を知人に見られるのは恥ずかしい、ってのは分からんでもないが。  
追記しておくと、ああ見えてかなりのドジである。油ものを引っ繰り返し、モップを取りに走りだすとそこにできた「魔のスケートゾーン」で自分も引っ繰り返ったとかなんとか。  
「キョン?なにやら僕にとって不名誉なことを吐露したりしていないかい?」  
鋭いにもほどがあると思う。  
 
試験は六限にあったので、下宿先の駅に着くころには夕日も沈み切り闇が迫っていた。点滅する街灯が俺の影をカメラのフラッシュのように何度も何度も作り出す。  
佐々木は例のバイト(古泉のとは違うぞ)ということで別れてきた。  
コンビニ弁当をぶらさげ、階段を上る。とりあえず夏休み始まりってことで、ささやかにお祝いでもするか。  
財布から鍵を取り出し、鍵穴へ入れる。ひねればガチャリと音が――しなかった。  
「閉め忘れたかな……不用心な」  
そうひとりごちてノブを握り、回し、引っ張った。  
とたん。電気がついた。  
嫌な予想が一瞬の内に数個作り出された。いくら危ない目によく遭うからって、それとは別に怖いもんは怖い。  
だが恐れは、瞬きする間もなく消え去った。  
 
「えっへっへー!! 驚いた?」  
聞き間違えることも、忘れることもあるはずのない声。  
「勝手にお邪魔してしまい誠に申し訳ありません」  
見間違えることも、忘れることもあるはずのない顔。  
「ごめんなさいキョンくん。でも、喜んでくれるかなって思って」  
嗅ぎ違えることも、忘れることもあるはずのない空気。  
「ひさしぶり」  
 
SOS団が、そこにいた。  
 
「みんな……」  
「フフン。ヒラ団員一名の為に全員で集まってあげたんだから、あんたはこの恩に報いるために自分の毛で機を織るくらいはしなさ……」  
「勝手に入ってんじゃねーッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」  
とうぜんだろ、当然。久々にここまでシャウトしたわ。  
 
 
 
「……ったく、そもそもどうやって侵入したんだよ。鍵掛ってただろ?」  
「古泉君の知り合いに鍵屋さんがいるっていうから」  
「すみません、涼宮さんがどうしてもというので……」  
「……部屋の番号なんて教えてたっけ」  
「情報収集は得意」  
「……ちょうど試験の終わる日に、よく狙いすましたかのごとく押しかけたもんだ」  
「ごめんなさい、時間関係はわたしの分野ですから……」  
きっと犯罪だということを認識させてあげるのが、友だよな、みんな。つーか朝比奈さん、その発言はさり気にアウトじゃないですか?  
そんなこんなで、SOS団の集会が久しぶりに決行された。俺の家で。そこで団長が取り出したるはニッカ。ついでアサヒ。  
「おいハルヒ、お前酒は呑まないんじゃなかったのか? 呑むな呑ますな」  
この団において、酒が入っても正常に動作できる者は一人だっていないはず。合宿の悪夢を思い出す。  
古泉はどうなんだろ? どうでもいっか。  
「いーでしょ、せっかくみんなそろっためでたい席なんだし」  
めでたいのはお前の頭だ。  
「それに、あれからもう四年もいくらも過ぎてるんだからちょっとは耐性も付いてるわよ。それじゃ、SOS団の結束を祝って、かんぱーい!!」  
そんなもんかね、と思って口をつけた。あとはもう、わかるだろ?  
ハルヒの酒乱ぶりはあいかわらず、もとい、激しさを増していたようであり、飛び跳ねてはロフト部分の低い天井に頭をぶつけて大笑いし、かと思えば急にグスグス泣き出したり、もうわけがわからん。  
朝比奈さんはたぶんパッチテストでひっくり返るんだろうな。コーラでも酔うかもしれん。その割に意識はなんとか保っていたから、少しは成長したってとこか。  
この前は、酒に見せかけて紅茶でも飲んでたのかな。任務中だったし。  
長門はビールがお気に召さないのかウィスキーばっか呑んでいた。さらに某ネコ型ロボットよろしく次々と異次元から酒類を取り出し、状況はさらに悪化。  
そんなことに情報統合思念体の力を使うんじゃありません。  
「飲んで」  
うわ―懐かしいなーおい。  
「古泉、お前は大丈夫そうだな。やっぱ強いのか」  
「いえいえ、あまり量をとっていないだけですよ。誰かひとりはお世話できる人がいないといけませんからね」  
どーでもいーけどな、それ、俺じゃなくて掃除機だぞ。  
 
さっきまで俺の部屋だった空間は今や、モアイは裸足で逃げ出しロゼッタ=ストーンはうっかりバランスを崩しバミューダ=トライアングルは頂点が二つ増えるような異空間となりつつあった。  
宇宙人、未来人、異世界人……はいないか、超能力者が酔っ払って好き勝手に変な空気をまき散らしてんだから、当たり前っちゃ当たり前だ。ハルヒの望んだ全ては今ここにある。  
当の本人は暴れまくってそのにおいに気付かない訳だけども。  
なんで俺は冷静に分析なんかしてられんのかって? そりゃお前、古泉も言ってたじゃないか。誰か一人はお世話役がいるって。  
その「介抱役」の権限を最大限に利用して、女性陣にイタズラシヨウナドトハケッシテオモッテイナイノデスヨ。マジデ。  
それでは手始めに、状況描写を終えた直後に昏倒した朝比奈さんを毒牙に――もとい――毛布でもかけましょうか。  
 
――ピンポーン  
 
なんだこの少年誌にありがちな展開は。ここはそーいうの全部オッケーなんだぜ? わざわざ焦らすなよ。  
玄関に赴く。なんだかんだいってやっぱ少しは足がふらつくな。  
相手の確認もせずに鍵をあける。よい子はマネしないよーに。  
 
「やあ、夜分遅くに申し訳ないね」  
 
異世界人の容器である疑惑が強いヤツ参上。これでカードは全部揃った。  
ゆったりとした白のワンピースに、ちょっと外に出るとき履くようなサンダル。そう、同じアパートの二階に行くには申し分ない格好。  
「単位取得の有無は置いておいてとりあえず夏休みの開始を共に祝おうと赴いたわけだが……」  
部屋の奥にいる、古泉と長門の頭をアメリカンクラッカーよろしく振り回しているハルヒを一瞥したんだと思う。  
「どうやらお取り込み中らしいね。先客、それも大事な親友とは、僕も星の巡りあわせの悪いものだ」  
気にした風もないような表情を浮かべる佐々木。だが、町をひとりで歩く時のように平坦な瞳には隠しきれないツギハギが見て取れた。俺も長門や古泉で鍛えられたさ。  
「なにいってんだ。これだけ近くに住んでるんだから、いつだってまた来れるじゃねえか」  
佐々木の手には酒瓶。ブルータス、お前もか。  
「時間は……」  
時間は……なんだ?  
疑問符をわかりやすく浮かべた顔をした俺に、いつもの微笑にほろ苦さを加えたオトナ向けの表情で、手を振ってこたえた。  
「いや、なんでもない。こっちの話さ。そうだね、また今度お邪魔するよ」  
「つーかお前も混じればいいじゃねえか。祝い事は多い方が楽しいもんだ」  
すると佐々木は中国に住む仙人のように悟りきった顔をして  
「思い出の中に他人は無用さ。では……」  
と男の俺でも惚れそうなほどにキメて立ち去ろうとしたが  
「あああああああーーーーッッ!!!!!!!!!! もしかして佐々木さん―――ーッッ?!!! ってゆーかもしかしてお酒――ー――――ーッッ?!!!!!!!」  
「す、涼宮さん――ー――ーーーッッ?!!!!!」  
そうは問屋が卸さなかった。うるさい。隣人から文句言われるのは俺なんだからな。  
猿のようなスピードで部屋からヒト科ヒト類ヒト(分類が正しくなくても文句言わないでくれ)のはずであるハルヒが玄関へ躍り出て、チーターのようなスピードでヒト科ヒト類ヒトのはずのハルヒが酒を佐々木ごと巣穴へ持ち帰った。  
まさか現代に酒呑童子が蘇るとは、柳田国男も腰を抜かすだろう。  
 
すっかり酔いの醒めてしまった(もともとそんなに酔っちゃいなかったが)俺は溜息一つドアを閉めた。  
部屋に戻った時には既に佐々木はリンゴのように真っ赤だった。お前、そんなに弱くて大丈夫か? ハルヒが無理やり呑ませたっぽいけど。  
「ほらほらー、いい感じで酔ってきたところでキョンの近況を赤裸々に告白してもらうわよ―――ーッッ?!!! モザイクもイニシャルもなしだかんねーーーッッ?!!!」  
ハルヒ、酒のせいだとは思うがお前、キャラ変わってんぞ。さすがに、なんというか、その、イタい。  
その後ハルヒの尋問は二時過ぎまで続き、最後には二人とも強風にあおられたハードルのようにパタンと倒れた。  
古泉と長門は佐々木を興味深そうに見つめていたが、二人の目つきは喩えるならマーライオンを見るそれだった。「ああ、アレが有名なマーライオンね」くらいの。そして興味を失ったかのように眠りこける。  
G級問題人物が目の前にいるのにその体たらくはなんだと、上司でもないのに叱りつけたくなった俺は正常なはずだ。  
かくて俺の部屋(だったはずの場所)には五人分の死体が転がり、ついでアパートの指定の場所軽く三杯分くらいのゴミが散乱していた。これって、お約束だよな。  
仕方なく片付けを黙々と開始し、こんなことなら俺も酔って寝ちまえばよかったと後の祭りを力いっぱい盛り上げ、不意に頬を熱いものがつたえばギャグとしては古典を踏襲したことになるなと下らないことを考えていた。  
まあとりあえず、美少女四人の寝顔を見れて役得だったということにしておこう。古泉には白い布を被せておいた。  
寝るときは目を閉じなさい、長門。  
 
   
 
さて、と。  
どうにか部屋を「立つ鳥跡を不本意ながら濁す」くらいの状態に戻し、パソコンに謎のフォルダ「negao」が追加され、これで最後にしたい溜息をついたころには四時を回っていた。うっすらと空は白みつつあるような気さえする。  
もーダメだ、もームリとひとりごちて寝床のあるロフトへの梯子に手をかけた瞬間、寒気が脊髄を打ち抜いた。ゴキブリがいるんじゃないかという時の悪寒より百度は低いヤツ。  
梯子を握ったまま停止する俺。安い壁掛け時計が身の程を知った音をたてる。  
世界は確実に今も動いている。  
止まっているのは、俺。  
――俺が行ったところでどうなる? 「アイツ」も、もう来るなと言ったじゃねえか。朴念仁の役立たず、足手まといの三重苦が俺のあそこでの立場だ。  
なるほど、全くの正論で弁解の余地もない。上院下院共に反対者ゼロで国会を通過だ。  
だが、だけどな。  
ぐっすり眠れないのは御免だ。  
新聞屋を出し抜いた階段の金属音がベッドタウンに鳴り響いた。  
 
「入ったはいいが」  
今度の場所はすぐ近く。なんたってアパートの目の前だ。今回も侵入する時の気持ちの悪い感触はちゃんと味わったが、同じことを二度三度説明すんのも野暮なので割愛させていただく。  
というか思い出したくない。古泉や橘と来た時はなんともなかったのにな。  
「ホントにできることってなんにもねえよな」  
そびえ立つ巨人を前にしてしみじみそう思う。ショッカーがサシで仮面ライダーと戦うにしても、もうちょっと勝ち目があるだろう。  
テレビで見た屋久杉のように巨大な足が俺をスタンプしようと持ち上げられる。アレに踏まれたら死ぬよなあと、急行列車を見て「アレに轢かれたら死ぬよなあ」と考えるように能天気な感想しかなかった。  
って。  
逃げろよ、俺。  
 
こんな世界まで来て、なんでわざわざ逃げ回っているのか自分でも本当に理解ができない。ああ、敵情視察ということにしておこう。賛成多数、ハイ可決。  
道路の両脇のアパートをぶち壊しばらまきながら巨人が追ってくる。足音はしないが、瓦礫の落ちる音で追跡されていることが不気味に分かる。  
今回はどの辺で袋小路に追い込まれるんだろうかと相変わらず状況を理解していなさそうなことを考えていると  
「また来たの?」  
呆れを通り越した声が、頭上から。さほど大きくない声のはずだが、雪崩れ落ちる瓦礫を避けて俺の耳へ狙いを澄ましているがごとく明瞭に聞こえた。  
つい先日までは二度と聞きたくない、聞くこともないと思っていた声。  
しかし、再会したときのそれは、過去二度俺を襲った時までと違ったように思えた。  
その感じが本当かどうか知りたくて、ここに来たのかもしれない。  
返事はしないでおく。  
「もう……余計な仕事が増えるから来るなって言ったのに」  
お茶くみにコピー、シュレッダーと雑用ばかりの新人OLがさらにゴミ捨てを任せられたような呟き。  
 
「それじゃ、今回はあなたが当番ってことで!」  
 
それが一転し、人差し指を立ててウィンクしている図が脳裏に鮮明に描かれるほど楽しそうな声に変わる。  
 
へ?  
いまなんつった?  
俺?  
マジで?  
いや、なんもできないって。  
マジで。  
俺が古泉みたいになったとか?  
……違うね。念じたけどダメだったね。  
つまり、アレか。俺に死ねと。  
人を頼りにするような甘ちゃんは死んじまえと、そーいうことか。  
 
「―――めんどうごとは――――たのしい………わたしは」  
 
瓦礫のスモッグが止んだ。ごちゃごちゃしてた頭の中が黒一色で塗り潰される。  
 
「――長い――あいだ――――退屈……しすぎた―――――――――――」  
 
俺は足を止める。いや、足が止まったのは、果たして俺の意志だったんだろうか?  
なんの音も聞こえない。背後に渦巻いていたどす黒い殺気も消えた。  
代わりに、暗黒が霧のように立ち込める。全身を質量の伴った闇が凍りつかせる。  
「……やっぱりあなたの方が情報連結解除の速度、精密さ、威力、どれも上みたいね。悔しいなあ」  
かつてさんざん俺を苦しめたヤツの声でもこれほどまでに安心するとは、人生何があるかわかったもんじゃない。−273.15℃よりは融点の方がマシ、そういうことにしておいてくれ。  
勇気を出して振り返る。首がちゃんと動いたということは、俺の体は物理的には凍りついていたわけではないらしい。  
いた。  
屋根の上には朝倉が、まるで自慢の新商品を見せつける販売員のような顔をして脚をぶらぶら、腰かけていた。  
だけど違う。この、冥王星に単独で着陸した時のような寒気は。  
 
「――あなたの――瞳は……とても――澄んでいた―――――のに……」  
右の耳が、気温の変化を察知した。  
「………散らかって――いた―――――――のに」  
黒目は先走って前を向き、顔がそれに遅れてゆっくりゆっくりと、戻る。  
「――――――今は――わたしの――服と……――同じ――いろ………」  
放置され続けた日本人形、葬儀屋の鞄、鏡の裏側、消した直後のテレビ画面、えとせとらえとせとらえとせとら。  
さまざまな連想が浮かび、そのどれもが目の前のブラックホールに飲み込まれていく。  
そろそろ正体を明かそうか。いやスマン、「正体」なんざわからん。まず、いったいどっちが姓か名か、だいたいコイツに対し「名前」なんて既存の概念がどれほどの意味をなせるのだろうか。  
しかし今日では掃除機にさえ名前と商品コードが付いている。識別番号レベルでもあった方が便利なのは確かだ。  
 
道の上に、俺の目の前に、朝の来ない夜の中心に、周防九曜の髪が風もないのに揺れていた。  
 
 
「彼女はあなたに危害を加えたりはしないわ」  
「うそつけ」  
似たようなやり取りが前回もあったな。というかいつの間に、朝倉とこんなに会話するような仲になってしまったんだろうか。  
俺と朝倉は道路の真ん中で議論していた。言わずもがな、俺の手足は封じられている。好きにしろよ、まったく。  
「言ったでしょ?はじめとは状況が何もかもが違うの。彼女があなたの敵だったのは、あなたが長門さんに与していたから。今長門さんはあなたの味方じゃないし、周防さんはあなたの敵でもない」  
佐々木は「九曜さん」と呼んでいたか。まあそんなことはどうでもいい。  
人間国宝の人形遣いが操っているかのような滑らかさで朝倉は髪をかきあげ  
「むしろ立ち位置でいえば、あなたにずっと近いわ。『進化の可能性』の暴走を阻止せんとする一派。天蓋領域の今回のロールはそれ」  
話題の当事者――周防九曜は、いつかの喫茶店でのごとく我関せずを決め込んではいなかった。俺の脳みそのしわの本数を数えるように、朝倉の水晶体での光の屈折具合をチェックするように、碁石のような黒い目は向けられていた。  
これは想像だが、コイツが他者にこれほどまでの注意を傾けたのは初めてではないのだろうかと思う。心なしか「目」の使い方がぎこちなく感じたからだ。初めてルアーで釣りをするような、イースタングリップで握るような。  
この想像は、当たらずとも遠からずとなることを予言しておこう。  
それとなく九曜を観察していた俺の視線は、朝倉のそれに絡めとられる。  
「閉鎖空間に入り込む技術、情報解析度、解除度、どれをとっても情報統合思念体を凌駕しているわ。ヒューマノイド・インターフェースとしての潜入・諜報能力は劣るみたいだけど」  
蝶を追いかける子供を見るような目をして九曜を眺める朝倉。  
「尖兵としては申し分ないわね」  
ふうん、と俺が興味がなさそうに聞こえるように返したが、朝倉の言葉には続きがあった。なにやらアンニュイな表情を浮かべる。  
「と、思ってたんだけど……」  
けど、なんだよ?  
「最近、妙なのよね……この子だけじゃなくて、わたしもなんだけど。任務に差し支えるほどではないけどエラーが発生して、処理の必要が二人とも多くなったのね」  
エラー。  
「わたしたちは本体から切り離された『末端』だから、自分でエラーを消去しないといけない。あまりそっちに比重が傾くと……」  
エラー。長門が「エラー」と呼んでいたもの。SOS団に入団し、自分が模して造られた、「ニンゲン」というものと触れ合うことで蓄積されていったもの。  
それは感情だった。とするともしかして、こいつらにもそれが芽生え始めたとでもいうのだろうか。  
宇宙人同士、それも違う宇宙人同士でも、触れ合えば感情が生まれるのだろうか。  
いや待て待てよ、落ちつけ、俺。冷静になれ。  
この朝倉涼子は長門と親が同じだからともかくして、寄りに寄り切って周防九曜に感情なんか芽生えるものか。さっき感じた夜の吹雪のような悪寒は、とても人の心を持った奴がもたらすことのできるものとは思えない。  
だがしかし、佐々木は確か「九曜は他者を認識するのが苦手」と言っていた。それはあの喫茶店で旧佐々木派と会合した時の態度からも明らかだ。  
いま九曜は、曲がりなりにも他人に注意を向けることができている。それは、考え方によっちゃ重要な変化ではないのか?  
 
でも、と、また別の俺が口を挟む。  
朝倉はもともと「委員長役」として活発なモデルを与えられた。そう考えれば、なるほど長門よりも早く感情を手に入れられるかもしれない。  
然るに九曜は、お世辞にも活動的とは言い難い。光陽園女子の制服を着ちゃいたが、天蓋領域だってこいつが標準以上の学生生活を送ることは期待していなかっただろう。  
ゾウリムシだって繊毛を動かすが、コイツには手足を動かす必要があるのかさえ怪しい。  
そんな二人が、こんな短時間で、感情と呼ばれるものを得ることができるのだろうか? 強烈なメンバーに囲まれたSOS団にいてさえ、長門が「そのようなもの」を見せたのは……多分夏休み頃、約三か月は必要とした。  
俺がここにはじめてきたのはつい最近、その時はまだ九曜は居なかったから――  
「ねえ聞いてる? 聞いてないでしょ」  
ちょっと待て、俺は今珍しく結構まじめな事を。  
 
「はあ……」  
溜息をついたその顔には、笑みを張り付けるだけでは絶対に作れない「何か」が明らかに存在していた。  
「――――――――――右側の……ヒトは――――左側の――――ヒトの………言うことを――聞いて………あげて」  
文字通りに受け取ればたしなめることを意味するそのセリフは、明らかに俺に対して、意思を明確にして、向けられたものだった。  
 
いかんいかん、情にほだされるな。  
そうとも、時間だ、時間。  
こんな短期間で、事もあろうにこれらが、感情を得ることなど考えられん。  
「九曜はいつ頃現れたんだ?結構仲良く」  
おいおい、「仲良く」だって。とっさに出た言葉とはいえ、自分でも可笑しくなる。  
「やってるみたいだが」  
「あなたが帰ってから周防さんがやってくるまで……この時空では七十年間くらいだったから……そっちの次元に換算すれば、すぐね」  
すぐね。七十年が、すぐね。……って。  
「ちょっとまて。お前の感覚じゃ、ここに来てから一体どれぐらい経ったんだ?」  
朝倉は「昨日の三時間目の授業はなんだった?」と言われた高校生のような顔をして  
「時の流れは完全に一致してはいないから厳密なコト言えないけれど、およそ百年くらいじゃないかしら。周防さんは?」  
「……星が――――十字を――――切ったから………二万二千回――宙は―――まわった――――?」  
俺に訊くな。朝倉にも訊くな。  
「まあだいたい六十年くらいらしいわよ?情報統合思念体と天蓋領域で、観測している太陽や銀河が『同じもの』で『同じ数』だとしたら、だけど」  
俺的にいえば教育勅語や終戦の世の話となった。頭の中を蒸気機関車やアメリカ軍のジープが駆け回る。  
それ以前に、とりあえず意思の疎通ができていることに驚嘆する。  
「それじゃあお前ら、ウン十年間も、こんな暗いとこで?」  
俺はこんな日光の全く差さない世界にぶちこまれたら気が滅入ること請け合いだ。  
「暗いは――――怖い……?」  
「そう。別にわたしは太陽の光なんて浴びる必要はないから問題ないんだけど……どうかしたの?」  
俺は額に手をあてた。なんて気の長い話だ。ハチ公の時代から、今や犬と人間が会話できるような機械が発明されるくらいだから、それだけあれば宇宙人もコミュニケーション能力の一つや二つ発達させるだろう。  
「お前ら、退屈じゃないのか?」  
情報統合思念体宇宙人は、首を横に振った。天蓋領域宇宙人は、手品を見るような視線を俺に向けていた。  
「仕事は多かったし、巨人が出ないときはお話してたし、そうでもなかったわよ?」  
俺はいつだったかいけすかない未来野郎が言った、「ゼロ次接遇」とかいう単語を思い出していた。  
「――あなたは……夜の裂け目を――――――舐めたくて――来たの……?」  
思いがけない方向から攻撃が来た。質問を質問で返しちゃいけないと親に言われ……なかったんだろうな。  
「あっ、そうそう。なんでまたここに来たの?また助けてあげなきゃいけなかったじゃない。そんなにお礼、言いたいの?」  
なんかコイツらいいコンビじゃねえか――そんなことも考えながら、俺は言い訳を探していた。  
 
「それじゃ、俺は帰るわ。向こうじゃ俺の部屋で五人ほど死んでるはずだから、埋葬しないといかん」  
「あら、解体したからってすぐに山に捨てるようなマネは止した方がいいわよ? なんなら情報結合の解除、してあげようか?」  
「――浴室には……血液が――――――よく―――似合う……――――」  
人間の高度な比喩表現だ。まだお前らにはレベルが高すぎたか。  
ケラケラと笑う朝倉。そんな風にも笑えるのか。  
――と、急に、業務上の微笑、になる。  
「注意して」  
「へ?」  
アホ面を晒してしまった。  
「巨人の出現頻度は減っているし弱体化も著しい。おそらく、彼女に残っている力は僅かばかり」  
俺の知らない間に、もうそんなに「仕事」を済ませたのか。熱心なことで。  
「だからこそ、『進化の可能性』は反撃に出てくるはず。それに私たちの対抗勢力――たとえば、情報統合思念体の主流派も、なんらかのアクションを間違いなく起こす。ここが正念場よ」  
俺は、裏佐々木の笑顔を思い出した。  
朝倉や九曜は、俺の立ち位置に近い。  
でも、近いだけであり、俺の望む結果とコイツらのもたらす結果はたぶん違う。  
俺は、問題は解決したいがアイツに居なくなって欲しくもない。でもそんな都合のよい話、ありえそうにない。だからこそ、朝倉達は最も「合理的な」解決策を採っている。  
それはわかる。頭では分かるんだが……  
「もうここには来ない方がいいわ。そんな気がするの。あなたが『ゲーム』に負けたら『進化の可能性』はきっと暴走する。それだけは避けなくちゃ」  
朝倉がデータに基づいていないことを言った。その時の俺は、その重要性に気付かなかった。  
 
 
閉鎖空間から脱出するため、イメージを集中させる。壁をすり抜けるように、だったっけ。  
「周防さん、任務以外の時はあなたもここから出ていいのよ? エラーの蓄積が余計進行するわ」  
落ち着いてゆく精神の中、二人の会話は、小石が池の底にぶつかった時のように鈍く、沁みた。  
「―――あなたは……出られない――――――それでは…………蒼すぎる――だから――……ここでいい――――――――」  
来た。壁に埋まる感触。  
その一瞬の中で、俺の脳みその隅っこは変に冷えっぽく、宇宙人たちのことを考えていた。  
九曜はいつでも出入りできる。それは多分、朝倉の言っていた「フィルター」の目よりも細かくなることができるからだろう。  
だが、九曜は出ていかなかった。「朝倉が出られないから」、つまり、「朝倉を一人残したくない」ということか。  
それは監視のためだろうか? 同じサイドにいたとしても所詮は別の派閥、そういうことか?  
――それとも  
俺の考えがそこから先に行くより速く、背中は「壁」を離れていた。  
 
戻ってきたからといって大した感慨もなく、俺はぼんやりと階段をのぼった。むしろあの空間に何か置き忘れて来たかのような、そんな空虚ささえ感じる。  
ヒトの心ってもんは不思議だな。あれだけ憎んでいた相手でも、そいつが今まで持っていなかった「こころ」を得たのだと考えただけで責めるに責められなくなる。  
助けてもらったから、現金だとも言えるが。  
そんな自分は甘すぎるのだろうか。  
感傷に浸る直前だった俺は、ドアを開けて正気を取り戻した。誰もかれもがのんきな顔で眠りこけているのを見て、やはり自分はそういうキャラじゃないよなと独り苦笑する。  
ところで最近宇宙人の性能がバージョンアップし、超能力者たちのお株をどんどん奪っていっているようだが、古泉や橘はヒマになることを喜ぶのだろうか?   
あいつのプロ意識なんて気にもならないが、仕事を取られてヘコんでいたらそれはそれで笑える。  
手近の宇宙人少女を眺める。さすがに制服着用ではないがキャミソールなんて自分から選ぶイメージがどうしても湧かなかったので、ハルヒのチョイスだろうとあたりをつける。いや、全然オッケー。  
中腰になって穏やかな顔をみる。いつのまにか、目はきちんと閉じられていた。  
なあ、長門。  
「あっちの世界」じゃ、朝倉と仲良くやっていたよな。  
あれも、お前が望んだことだったのか?自分から特別な力がなくなるのと同じように。だとしたら――  
「……」  
目が捕まった。ガン見してる最中にいきなり目を覚ますこともないでしょうよ、長門さん。  
長門は目を開けたその瞬間から起き上がった。まるで、この時を待っていたかのように。  
対する俺はというと、突然の出来事に身動きが取れなかった。一挙手一投足に黒目が反応する。  
どっかの伝統工芸品のように整った指が俺のシャツの襟をつかみ、ゆっくりと引きつけた。同時に、無表情な、俺が見ても完璧に無表情な顔が、近づいてくる。  
「な、長門……」  
「いいから」  
よくない。嬉しくないと言えばそりゃあ嘘だ。ただあまりにも脈絡がなさすぎる。  
だが俺も所詮は一介の彼女いない歴=年齢、誘惑に抗うには、あまりにも非力だった。  
ああもう、なんだか知らんがすべて任せようと自堕落になった俺の期待と不安ととは裏腹に――  
かぷ。  
「うごッッ!!」  
 
耳に噛みつかれた。予想外にも程がある。甘い空気もへったくれもねえ。  
「ば、バカ! 何考えてやがる」  
思わずでかい声が出る。そりゃちょっと期待したとか、どうせなら唇がよかったとか、でもこれはこれでまたマニアックなとか、言いたいことは多分いくらでも出てきたんだと思う。  
だがそれを言うよりもはやく、奈落が大口を開けた。  
「……―ん、……んるさいわよキョン、あ、あいたた……あたま、ガンガンするわ……」  
磁石のS極とS極のように離れる俺達。  
どうやらハルヒには見つからなかったようで心底ホッとした。もし目撃されていようもんならこの場で盟神探湯(くかたち、と読む。日本史の受験勉強の名残だ)を命じられていたことだろう。  
タイラントが目覚めたことで残りのゾンビも次々と復活してきた。皆一様に頭を押さえるので滑稽だ。  
それより、今の長門の行動はなんだったのだろうか。いくら如実に「こころ」を持っているのがわかっているとはいえ、基本的には、感情的な行動はしない。  
いまのが感情で支配された行動だとしても、それはそれで不気味だが。  
やや赤らんだ顔で誰にということもなくおはようと呟き、その後ハルヒが皆に言った。二日酔いのせいか勢いが薄い。  
「みんなお風呂も入んないで寝ちゃったのね……汗くさいったらありゃしないわ。キョン? 先にシャワー浴びるけど、かまわないわよね?」  
「俺は構わんが、朝比奈さんや長門、佐々木はどうだ?」  
俺がいかにも気を使った様な事を言うと、ハルヒは怪訝な顔をして  
「あら、女の子みんなで入れば問題ないでしょ?」  
 
「「えぇーッッ?!」」  
珍しく朝比奈さんと佐々木がハモった。長門が動じないのはご察しの通りだ。  
「お前、アパートのユニットバスがどれだけ狭いか知ってて言ってんのか?」  
するとハルヒはフフン、と不敵な笑みを浮かべようとしたのだろうが、ちょうど頭痛に襲われたらしく、情けなく表情を崩して  
「っつ、えーとね。全裸美少女四人が狭い風呂場でくんずほぐれつ……」  
想像してしまった。ところで十九歳って「美少女」も「美女」もどこかしっくりこない微妙な年齢だな。  
「これほど萌えるシチュエーションを見逃すなんて、あたしにはとてもできないわっ!」  
たぶんイメージほど良いものじゃないと思うんだけどな、実際。狭いし。  
 
 
「それじゃキョン? もし仮に覗いたりしようもんなら東京タワーの先端に突き刺さったグロいオブジェになってもらうからね!」  
ハルヒは三人をほぼ拉致するように風呂場へ引きずり込んだ。途端に響き渡る嬌声。隣人は何事だと思うだろうか。  
「やれやれ、涼宮さんのおかげで気兼ねなく対策が練れますね」  
お前生きてたのか。俺はてっきり死んだと思って喪に服していたぞ。  
古泉は二日酔いのせいでスキだらけのニヤケ面を浮かべていた。ここぞとばかりに攻め立てる。  
「爆弾が目の前にあるのに酔いつぶれる工作員ってのは、どうなんだ?」  
「言い逃れのしようもありません。上に知れたら、比喩ではなく首が飛びますね」  
なんつーか、「組織」は随分と時代錯誤的だな。  
「いい弱みを握ったもんだ」  
「勘弁してください」  
偽悪的に笑い合う。離れていたせいか、俺も寛容になっている気がする。  
さて、と置いて、俺は先程の状況を伝える。古泉は真面目な顔を頑張って作った。  
「天蓋領域がこちら側……ですか」  
「信じられんとは思うがな。俺だってまだ微妙だ」  
古泉のこの表情を、俺は以前見たことがある気がする。二日酔いだけでは済ませられない隠せない、疲れのにじみ出た色。  
「可能性としては、もちろん十分にあり得ることです。僕たちの知っているグループでも方向性を百八十度変えたところはゴマンとありますし、『組織』だって意見の統一には結構苦労しました」  
あの森さんや新川さんが敵に回るとは、ゾッとしないね。  
「まあ僕は『組織』の方向性がどうであろうと、SOS団、もとい、あなたの味方に付いたような気がしますが」  
「どうだか」  
そう茶化しながら、俺は結構深刻に悩んでいた。いま古泉が言い直したのもそれに関係することなのだろうか――SOS団が、思ったほど一枚岩じゃなかったってことだ。  
「正直、わけわかんねえんだよな。長門が味方できないって言うかと思えば、朝比奈さんは味方だと言った割に隠し事があるみたいだし、俺の仇敵がどっちも俺の側だと言って」  
自分のセリフで、俺は思い出していた。古泉が見せた表情、それは、高一の文化祭の頃だ。あの頃はまだSOS団内部でも所属グループ間のズレが明確で、一触とはいかないまでも三触即発くらいではあったな。  
「下手すれば、グループの存在意義が根底から問われる事態ですからね」  
どうしたものかとお互い黙りこくっていると、風呂場から何やらハルヒの絶叫が聞こえてきた。後を追うように、佐々木の焦った声。  
「勝ってる!胸は勝ってる!」  
「すっ、涼宮さんっ!」  
なにやってんだかあいつら、気楽でいいなあとかぼんやりしてたところで、古泉が口を開いた。  
「だからこそ、あなたがこの上なく重要なファクターとなっているのですよ。どの派閥に所属しているわけでもなく、それでいて、女神たちに最も大きな影響を与え得る存在――極論を言ってしまえば、この世界はある意味であなたの意志に左右されているのです」  
大げさな。もしそうなら、今頃俺はアメリカの宝くじで人生が五回あっても使い切れないほどの大当たりをかまして大金持ちになっているか、実家のタンスからミケランジェロの未発表作品を掘り出して大金持ちになっているわ。  
「あなたがそれを望んでいると『力』が知れば、難なく叶うことでしょう。しかし幸運なことに、あなたはひどく良識的です――自身では過小評価していますが。決して私欲だけを満たそうとすることは望みません」  
お前は俺を過大評価しているように思えるがな。  
 
「今回の件だってそうでしょう。もしあなたが心の底から『力』の消失、あるいは、単純にもとの持主へ返ることだけを望んでいるのなら、『力』もあなたの意思を汲み取るのでしょう」  
朝一番の蝉が鳴き始めた。遠くから車のクラクションが響いてくる。勝手にしゃべり続ける古泉モードは健在だ。  
「ですがあなたは『力』にも感情があることを知って、それを無視したくないと思っている。そんなあなたの、よく言えば「優しさ」、悪く言えば「甘さ」、に乗っかって『力』が少々おいたをしている――緊迫さを欠いた表現ですが、とどのつまりこういうことです」  
コイツは、どうにかして俺を聖人君子にしたいらしい。生憎そんな立派なもんじゃない俺にはいい迷惑なんだが。  
どんなかたちであれ「感情」を無視したくないっていうのは、そりゃそうだけどさ。  
話の矛先を変えることにする。  
「結局、俺はどうすりゃいいんだ?」  
「身も蓋もないことを言ってしまえば、あなたは今回『待っている』だけでも解決はしますし、逆にそれ以外の解法もないかと。朝倉涼子や周防九曜の作戦が成功すれば、概ねは終了です」  
口元から笑いが消えた。  
「ですが、危険なのはこれからです。焦った『力』や彼女が暴走することを望んでいるグループは、なりふり構わない攻勢を掛けてくるかもしれない。特に後者は、その可能性が極めて高い――どうかしましたか?」  
俺は知らぬ間に苦笑していたらしい。  
「いや、朝倉が同じこと言ってたな、と思って」  
古泉の顔から固さが消えいつものニヤケ面に戻って、陽気なメキシコのガンマンのように肩をすくめる。  
「浮気なら三人の女神にばれないようにやってくださいよ? 魅力的な女性が多すぎるので、仕方のないことではありますが」  
俺が憤然と抗議していると、女性陣が風呂場から出る音が聞こえた。もっと大事な話のほうに時間を割くべきだったような気がする。  
「それと――」  
早く言え。  
「最後の最後で、佐々木さんに『落ち』ないようにしてくださいよ?」  
んなこと、百も承知だ。  
 
 
そこは家主の貫録で古泉に風呂場の優先権を譲り、佐々木と朝比奈さんと長門は朝飯を買いに行き、部屋には俺とハルヒが残された。  
「なんだその顔は」  
「なによ」  
こいつのアヒル口も懐かしいな。俺はいつの間に懐古趣味者になっちまったんだろう。  
あまり鏡では見たくないような顔を浮かべていたと思われる俺をハルヒは見て、聞き取りづらい声でこう訊いてきた。  
「あんた、佐々木さんと付き合ってるの?」  
いきなり何を言い出すんだこの田ゴ作が。もうちょっとマシなことを訊きやがれ。もっとも、「マシなこと」があるとも思えんが。  
異端尋問で自分が魔女でないことを穏やかに主張する敬虔なキリスト教信者のような態度を取ると、ハルヒのジト目が幾分緩んだ。  
「まあ、確かに佐々木さんとあんたじゃ月とすっぽん、エッフェル塔と通天閣、ドンペリとホッピーね」  
言いたいことは分かるが、通天閣とホッピーも捨てたもんじゃないぞ。  
ところで――  
「さっさと本題に入れ」  
キョトンとするハルヒ。珍しい顔だな。目に焼きつけとくか。  
「なんか言いにくいことがあるんだろ? でもみんながいない時間なんて貴重なんだから、今の内に言いたいことは言っとけ」  
「あんた、意外と鋭いのね……」  
お前の表情はわかりやすいからな。  
ホントになんとなくなんだけど、と前置きしてハルヒは話し始めた。  
 
「古泉君と有希が」  
来たな。俺にとっても懸案事項だ。あいつらは、まだ何か隠してやがんのか。  
「二人とも元気がないっていうか、それを必死で取り繕ってるっていうか、そんな感じなの。なにか悩みでもあるのかしら?」  
心当たりはないか、そういう顔をしているハルヒ。  
埋めるぐらいあるんだけどな、言うわけにはいかんのだろう。  
「気のせいだろ」  
今はこれしか言うことができない。そんな自分に少し腹が立つ。  
無論満足するハルヒではなく、傍からは無責任の化身に見えないこともない俺を睨みつけた。長門や古泉の微細な表情が分かるなら、俺のこの心境も読み取れってんだ。  
「もうっ! あんたは二人が心配じゃないの?! 二人だけじゃない、みくるちゃんも疲れた顔してたし、訊いてもなんでもないって言うし……」  
ハルヒの顔が曇ってゆく。家族の癌が進行していくのを見守ることしかできない子供みたいだ。  
「あたしのSOS団は、どうなっちゃうの……」  
あれから十分ほど経過した。古泉はあとどれくらいであがるだろうか? 長門に朝比奈さん、佐々木は、あとどれぐらいで戻ってくるだろうか?  
「ハルヒ」  
俺の右腕はハルヒの頭を掴み、うつむいた顔を上げさせていた。  
「すぐに終わる。俺の勘だが、じきにみんな元通りになる。だから、お前はいつも通りふんぞり返っていろ。団長まで元気なくしたら、それこそダメだろうが」  
ハルヒの顔が一瞬クシャッと歪んだようだったが、それは多分気のせいですぐに不敵な笑みを取り戻し、頭にのせられた腕を掴み返した。  
「団長がヒラなんかに教えられてちゃ、確かに形無しね」  
そして痛いほどに力をこめられ、俺はギブアップを主張したのだが無視された。ルール違反だ。  
「今回は特別に感謝してあげる。特別なんだからね」  
殊勝なことだと感心していたが、ハルヒは唐突に怪訝な顔になる。また頭痛か?  
「あんた、えらいゴツイ指輪してるわね。こんな趣味だったっけ? しかも薬指って……」  
ぐあ、抜かった。  
チャイムと風呂場のドアの音がほぼ同時に聞こえてから、俺はようやく解放された。一体どう言い訳したのか、全く記憶にない。  
やれやれだ。こう呟けばいいってもんじゃないが。  
 
 
シャワーを五分以内で終えるよう通告された俺は怒涛の勢いで水シャワーを浴びるハメになり、夏とはいえ許容範囲なものか思案しながら律儀に五分で風呂場から出た。  
アパートの一室で年頃の男女六人が菓子パンを貪るという全米とはいかないまでも甲子園球場くらいは震撼させそうな事態が俺の部屋で発生した後、阿修羅の如く仁王立ちしたハルヒは不思議探索の開催を宣言した。  
久しぶりの団活はスペシャルゲストとして佐々木を迎え、いつもとは違い全員一緒に行動した。ハルヒの手にはしっかりとガイドブックが握られている。  
少なくともガイドブックは制覇すると断言していたが、いったい何日間俺の部屋に滞在するつもりだ、コイツら。  
どうせそれだけじゃ満足しないのだろうし、この団長様は。  
 
油断していた。こう言うしかあるまい。  
山手線全駅で最低一度は降り、探索を行ったのはまあよしとしよう。よくはないが、想定していた「最悪の事態」だ。  
だが、かのシェイクスピアは「最悪と言えるうちはまだ大丈夫」と言ったらしい。賢人の教えは時代も海も越えるということがよくわかった。  
過ぎたことをごちゃごちゃというのは全くもって情けない、そうだとも。  
だが、これだけは言わせてくれ。ハルヒ。  
某ネズミーランドの地下に潜入したって、巨大カジノなんかないぞ? きっと。  
 
 
 
期待した収穫が得られたのかは知らんが、ハルヒはほくほくがおで帰って行った。  
「今度はあんたが帰ってきなさいよ! お土産も忘れないでね!」  
ああ、そうだな。考えとくか。  
 
その前に、ひとヤマ終わらせないとな。  
 

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