ありきたりなラブソングのように「キミ」がいてくれればいい  
 
願っていたのはそれだけだった筈なのに  
 
 
 
彼女が立ち去った後も俺はその場に立ち尽くしていた。  
いい加減に水が革靴に浸み込み気持ち悪いのだが、移動することに頭が回らない。  
かといって状況を整理しようとしても、理性を感情が揺さぶる。  
誤解を恐れず全てを要約すれば、佐々木が俺に会いたかったがためにSOS団が合格できなかったということになる。  
無論そんな要約などクソくらえだし、誰一人として責める権利も責められる必要もないのだが。  
やっぱ、気が滅入る。  
まとまらない思考を、そうやって二十分ほどこねくり回していただろうか。そろそろ俺は雨の重さに疲れ果て、帰宅することにした。  
街灯がアスファルト色の水たまりをを銀に装飾していた。  
 
とてもじゃないが晩に何か作る気にはなれず、自宅近くのスーパーで適当なものを買っていくことにした。  
ああ、最近の自動ドアは手を触れないと開かないのか。  
有線放送と店員の気の抜けた挨拶に出迎えられ、俺は総菜コーナーへ歩を進める。  
その途中、お菓子売り場の通路を何とはなしに見やると。  
うえっ、て口に出して言ったのなんて初めてじゃないだろうか。  
そこには先程さんざん捨て置けない事実と投げ捨てたい責任を押し付けてくれた肉体が、その時にすら見せなかったような真剣な目つきでチョコレートを物色していた。  
マズイ。  
あれが佐々木だろうとそうじゃなかろうと、今会うのは気マズすぎる。  
俺は逃げるように惣菜のもとへ走り、えり好みする暇もなくただ弁当っぽい容器をひっつかんでレジへ突入した。もちろんお菓子売り場を迂回してだ。  
げっ、俺高菜嫌いなんだよな。  
そーいや、あいつこの辺に住んでるのか?  
 
少し古ぼけた鉄階段をカン、カンと響かせ、俺の足はアパート二階の自室へと辿り着いた。  
鍵をかけ、買ったばかりの机に鞄と弁当を放り投げると、ため息混じりに椅子へ体が倒れた。  
濡れたスーツを着たままで何とも気持ちが悪い。  
俺は疲れた体に鞭打ってそれをハンガーにかけ、シャワーを浴びることにした。  
随分と待ってやっと出てきたお湯に少々癒されつつも、俺は心底不安だった。  
ハルヒの変態パワーが自我を持っているなんて。しかもあろうことか、「世界征服でもしよっか」などとのたまいやがった。まるで「今夜は鍋にしよっか」ぐらいのノリで。  
挙句の果てに、その結果は俺の努力次第。もう、突っ込んでもキリがない。ならやめとこう、うん。  
ヤケクソ気味にシャワーから上がり、背広から携帯を取り出すと五件もの着信が入っていた。入学式のときにマナーモードにしたまま忘れてたんだな。  
相手はSOS団の懲りない面々と鶴屋さんと家族から。  
なんつーか。  
ありがたいね、こういうの。  
本来ならかけ直す順番などどうでもいい――いや、訂正。朝比奈さんにイの一番――なのだが、事態が事態なだけにまず一番の情報筋っぽい古泉から。  
電話はスリーコールで取られた。  
「待っていましたよ」  
変わらない丁寧さ。いきなりタメ語にされたらそれはそれでムカつきそうだが。  
「ああ、すまない。ちょっとケータイのこと忘れてた」  
ケータイ片手に頭を乾かす。  
「もう、伝わってるんだろ?」  
向こうの背筋が伸びるのが伝わってきた。  
「ええ、こちらは大騒ぎですよ。僕たち『機関』に限ったことではないでしょうが」  
「だろうな」  
「まさか知らぬ間に『力』が佐々木さんに移動していたなんて」  
「それに自立した意思を持っていた、ってこともだろ?」  
「もちろんです」  
電子レンジに高菜弁当を入れる。  
「単刀直入に聞くぞ、まだまだ電話しなきゃいけない相手がいるからな」  
タイマーをセット。レンジが低く唸り始めた。  
「俺は、どうすればいいと思う」  
「すみませんが、今のところなんとも。いかんせん情報系統が混乱していて、調査時間も十分ではありませんでしたし」  
まあそんなもんだよな、とか少しガッカリしつつ、古泉が続けるのを聞いた。  
「この情報が役に立つかどうかはわかりませんが、佐々木さんは高校二年生の春以降に通院歴があります。なんでも、記憶にところどころブランクを感じるとか」  
過熱が終了した。チーンと間抜けな音がなる。  
「僕の考えでは、この時に『力』が佐々木さんの体を支配していたのではないかと思われます」  
「あいつの話じゃ、ハルヒに押し込められてた時もあいつは意識があるように言っていたが」  
「それが、普通の人間と『力』との違いなのではないでしょうか」  
そう考えるしかないんだろうな。  
「それじゃ、何かわかったらまた連絡してくれ」  
「わかりました。そちらも、なにかありましたらお伝えください。お気をつけて」  
ああ、と返事した後電話を切った。  
 
高菜弁当をレンジから取り出しテーブルにのせる。  
さて、次は。  
リダイヤルする。  
「……」  
「よっ、長門」  
さすがに早いな。ワンコールで取りやがった。コイツにワン切りは不可能かもしれん。  
「情報はすでに伝達されている」  
「ああ、だったら話は早い」  
ふたを開ける。高菜の匂いが部屋に充満した。うぅ。  
「俺はどうすればいい?」  
受話器の向こうからはしかし、何の反応もなかった。聞こえてないのかな。  
「なあ、長門。お前個人の考えでいいから、予想なり対処なり、なんかないか」  
正座してピンと背筋を張った宇宙人の図が思い浮かぶ。あいつの部屋に座布団はあったよな。  
シンプルイズベストとは言ってももうちょい何かないとさみしいような長門の部屋の全体図を脳内に完成させてもまだ向こうからの返事がないもんだから、俺は何か言おうとして口を開いた。  
そのときだ。俺の話ってプレスされることが多いな。  
「わたしからは何も言うことはできない」  
あー、そっちもまだ情報が集まってないのか?確かに急な話では……  
 
「情報統合思念体は今回の件に対し状態の維持及び経過の観察を決定した」  
すまん、なんだって?  
がんばれば俺にも解りそうだがあまり好ましくなさそうな話を理解するのは気が進まないんで、もっとかみ砕いて言ってくれるか。  
 
「わたしは今回あなたを助けられない。あなたが進化の可能性へ勝利することは、進化の可能性における絶好の機会を逸し、再び事態を停滞化させることに他ならない」  
 
俺はアメリカンコメディーよろしく電話を床に落とそうと(そんなのアメリカンコメディーじゃない、ていうなら謝る)し、この後にも電話がたまってんのにケータイ壊しちゃマズイので止めた。  
マジか。正真正銘有言実行一刀両断深謀遠慮にマジか。  
「わたしという個体からすればあなたを助けたい。しかし情報統合思念体は、今回の件――進化の可能性がそれ自体独立した思考を持ち合わせているという事態に興味を持っている」  
古典の辞書を朗読するがごとく面白みのない音が電話口から漏れ続ける。  
「だから、わたしからは動くことができない。進化の可能性を観察するヒューマノイド・インターフェースはすでに派遣されているが、あなたとの接触を行うことは禁じられている」  
行動早いな。  
「わたしの当面の任務は涼宮ハルヒの事後観察」  
お前は離れられないってことか。  
 
「ごめんなさい」  
電話回線を通って変換されても、俺には長門の声に申し訳なさそう成分が読み取れた。  
「いや、謝ることはない。お前はハルヒの子守を頑張ってくれ。それと、近況報告はちょくちょくやるから、俺が寂しい時は相手になってやってくれ」  
返事はなかったが、肯定の意はなんとなく。  
「じゃ、またな」  
返事を待つ。最後に声くらいは聞いておきたい。  
 
「気をつけて」  
 
高菜は嫌いなんだが気苦労と空腹感から思いのほか箸が進み、あっという間に平らげてしまった。同時に、忘れることができていた苦悩が大挙して押し寄せる。  
「長門が動けない、か」  
呟いた声に力がなかったことが自分でも嫌なほどわかる。  
ハルヒに力がない以上現在のSOS団が持つリーサルウェポンは間違いなく長門だった。それが失われたとなると、ただでさえ苦しい状況は一層困難になる。  
そうか、古泉はいつもどおり協力的なので意識しなかったが、『力』の根源がハルヒじゃなかったってことは各勢力にとって相当な変化なんだな。  
俺はコトの重さを改めて認識しつつ、グダッてばかりもいられないので再びケータイに手を伸ばした。  
 
「あ、キョンくんですか」  
「はい。お久しぶりです、朝比奈さん」  
 
早くも多少癒された。  
「お話は聞いています」  
一変して声に緊張感が生まれる。  
「現在わたしたちも調査を行ってはいますが、未だ有力な手掛かりはありません」  
半ば予想はしていたが、やっぱりチト辛いね。  
「わたしのいる未来から――どれくらい先かは禁則事項なんだけど――とにかくだいぶ先の未来からこの時代を観測してはみたんだけど、今回の件に到達すると情報が遮断されているの」  
受話器は不安げな声を伝え続ける。注いでいた茶からいつの間にか湯気は消えていた。  
朝比奈さんの声が止まったのを感じ、俺は言葉をはさんだ。  
「朝比奈さん」  
「はい?」  
「あなたは、俺の味方ですか」  
えっ、という言葉を伝えた後受話器は沈黙する。  
俺は長門のことを伝えた。  
「そうなんですか、長門さんが……」  
「はい。それで、朝比奈さんのグループの立場はどうなのかなって」  
ふふふっ、と天使の声が笑う。  
「わたしはいつだって、キョンくんの味方ですよ」  
心の底から安堵した。  
「ありがとうございます。そう言って頂いて随分と気が楽になりました」  
思わず頭を下げる。相手には見えていないというのに。  
「どういたしまして。あっそれと、キョンくん」  
はいはいなんでございましょうか。  
「せっかく二人とも都内に住んでるんだから、近々どこかで会いましょうよ」  
もったいなきお言葉、ありがたく頂戴いたします。  
「はい、直接お話もしたいですし。それじゃ早速ですけど、今週の日曜なんてどうでしょうか」  
善は急げというしな。  
「ごめんなさい。その日はちょっと外せない用事があるの。それに、よく考えたら手続きとか未来との交信とかで何かと忙しいんでした」  
申し訳なさそうな声が受話器から六畳一間に響く。なるほど、勢いに任せて予定を忘れていたとは、なんとも朝比奈さんらしい。  
「いえ、大丈夫ですよ。朝比奈さんの都合の良い時に呼び出してくれれば」  
あなたに指定された日は元旦よりも絶対です。親の死に目に会えなくとも我慢しましょう。  
 
朝比奈さんとの通話を終え、俺はソファに寝っ転がった。買ったばかりなのでスプリングの弾みがよい。  
あとはハルヒと鶴屋さんと家族か。今月は電話代が早くもヤバそうだ。  
やれやれ。  
 
ガードレールが、カーブミラーが、マンホールが前から後ろへと流れ去ってゆく。  
朝日は爆走する俺を朗らかに照らしていた。  
寝坊だ。  
間に合うか間に合わないかというギリギリの。  
もう少し早く起きていたらドタバタしながらも確実に間に合っていただろうし、もう少し遅く起きていれば確実に遅刻だったので開き直りもできるが、今回はまさにボーダーだ。  
言い忘れていたが俺の住んでいる町は大学からかなり遠い。  
急行に乗っても三十分くらいかかる。それもひとえに家賃のせいだ。  
大学周辺とかはアホみたいなボロアパートでも平気で七・八万する。東京め。  
と、説明しているうちに俺は駅へと辿り着いた。  
定期を改札に叩きつけ、ホームへとひた走る。  
朝の喧騒の中階段を落ちるように降り、発車寸前のドアと人の壁へと体をねじ込ませた。  
駅員の注意が聞こえたが、申し訳ないと思いつつも知ったこっちゃない。  
今の俺の行いは混み合った車内の被害者からすればとんだ迷惑なんだろうな。自分がやられたら大層嫌な目で見そうだ。  
 
走り出した電車はいくつかの駅を通過し、割と開けていそうな町で数度停車した。  
左右のドアが入れ替わりで開き、いつの間にか俺はさっきとは反対側のドアの方へ移動していた。  
しかしこう、満員電車ってのは嫌なもんだね。北高への強制ハイキングも相当ウンザリものだったが、それはまだ健康的に消耗させられていた。  
こっちはジワジワとなぶり殺しにくるような。  
ところてんでスコポンやられるかシュレッダーでギリギリ轢かれるかの違い。自分でもよくわからん喩えだ。  
ほれ、こうしている間にも足元の勢力争いは激化し、さながら仁義なき戦い広島抗争のごとき血みどろの縄張り争いが繰り広げられている。  
俺は壁際に追いやられたが、目の前の小柄な女性が俺と電車の隅に押しつぶされないように一生懸命体を突っ張った。  
すると、吊皮を掴んでいない方の掌に誰かが握る感触。どうも、目の前の女性の手。彼女は外を向いているため顔は見えない。  
ヤバい、痴漢と間違われたら俺の一生は早くも一笑に付されることに、って下らないこと言ってる場合じゃない。  
なんとかして体を離そうとする俺に、女性はゆっくりと顔を向けた。  
はい、時間止まりました。  
 
佐々木でした。  
 
思わず口調も変わってしまうほどの衝撃、お分かりいただけるだろうか。  
たかだか満員電車くらいで昨日起こったコトの重大さを忘れていた俺もどうかしているが、ここで現れる佐々木も十分反則だ。  
ジャッキーよろしくガラスをぶち破って外に飛び出したくなったがしかし、その衝動は佐々木のイレギュラーな表情によって消え去る。  
中坊の時から見せてきたとらえどころのない笑みでも、昨日見せたダークさでもなく、うつむき加減の赤く染まった顔。  
その目は何かを訴えるように俺と自分の腰のあたりを行き来している。  
俺は無理矢理体をねじ曲げ、そのあたりに目をやった。  
人の林の間から、不自然に伸びる黒い袖。  
そのスーツから無機質に生えた腕が、その腕の先が裂けるようにして突出した薄汚れた五本指が、電車の腕とはまるで無関係に動き回る。  
白いワンピースの腰の下で。  
それを確認した瞬間俺の視界はどす黒く染まったが、満員の車内で殴りかかるわけにもいかないので何とか自制してその腕の持ち主を睨みつける。  
視線だけで人が殺せるならそいつを十回は殺せた自信がある。  
ハゲあがった眼鏡のそいつはギョッとして腕を離した。俺の親父と一緒くらいのトシじゃねえか。  
俺としてはこのままそのハゲを社会的に抹殺すべく断罪して警察に引き渡したかったが、あまり騒ぎにすると佐々木が余計ヘコむかもしれないのでやめておいた。  
その代り、震えていた細い指に俺のを絡ませる。  
佐々木の顔が、安心したように赤いまま緩んだ。  
 
 
電車はやっとこさ目的地に到着し、俺達は搾り出されるようにしてホームへと降り立った。途端に人の波が押し寄せてくるが、なんとかやり過ごし改札へとその流れに乗る。  
外に出た俺と佐々木は小走りでキャンパスに向かう。  
 
佐々木の顔はまだほんのりと赤いが、そこに浮かんだ微笑は間違いなく佐々木のものだった。  
やっぱ、励ました方がいいのかね。  
「お前もチカンにあったりするんだな、佐々木」  
言ったそばから自分もセクハラまがいの発言をしたような気がしてひどく申し訳なく思った。コトがコトだっただけに。  
確かに佐々木はどこかの誰かさんと同じく黙っていればかなりの美形である。もっとも、本人がそれを気に入っているかは別として。  
しかしその中身や思考からしてチカンにでも遭おうものなら、人間という種の性に対する態度と考察を中世ヨーロッパの例を引き合いに出しつつ解説し、相手を興醒めさせるくらいの芸当をやりかねないと思っただけだ。  
ついでに刑法の第何条かは知らんが強制わいせつ罪の解説も。  
「僕としても上京するにあたってそれなりの心構えはしてきたつもりなんだが、いざとなると何もできない自分が悔しくて仕方なかったよ。ゲイ・ボルグで突き刺されたように、僕のちっぽけなプライドはズタズタだ」  
名前は聞いたことあるが、効果が解らん。  
「そもそもゲイ・ボルグという槍はケルト神話の英雄ク・ホリンの使用していた武器で、刺された敵の体内で三十もの棘が開くという代物だった。最近では別の解釈も……」  
いや、そこまで説明してくれなくても十分なんだが。  
とはいえ佐々木なりの照れ隠しなのかもしれないと思い、俺は適当に聞き流すことにした。話している内容自体にはさしたる意味を持っていないのだろう。  
 
「やはり僕も、所詮は女だということか。生物学的にも精神的にも」  
 
雑踏と車とカラスたちの宴の中、その声だけがノイズをすり抜け俺の耳に入り込んだ。  
だんまりをきめていたはずなのに、この言葉は俺に何か言わなければいけないような気にさせる間を造り出した。  
別の話題、別の話題。  
そういえば。  
「そういえば」  
二人の声が重なり、俺達は顔を見合わせて苦笑した。  
佐々木はどうぞとばかり掌をこちらへ返す。やけになめらかな動きだった。  
「お前はどこに住んでんだ?同じ電車だったが」  
佐々木は駅の名前を告げ、俺は露骨に口も目も丸くした。いや、丸くなってしまった。  
横断歩道の白線が、視界の端で手作りの映写機のように映っている。  
キミは?と目線で問いかけてくる。白い輪郭が昇りきった朝日に閃いた。  
俺は手で頭を覆いたくなる衝動をこらえ、答えた。  
先ほど目の前の相手の口から出たのと、同じ駅名を。  
 
困ったな、である。  
最寄り駅が同じということで芋蔓式にお互いの住所を明かしていくと、佐々木は俺と同じ町、同じ番地、同じアパートの一階に住んでいることが判明した。  
ウソだろ、おい。  
偶然にしては、出来すぎている。やはり、アレか。  
佐々木の中の神様の力か。  
しかしこの場合、どっちが力を行使したことになるのだろうか。佐々木か、それとも「彼女」自身か。  
遥か向こうの教壇では教授が評定の付け方や授業の進め方をレクチャーしていたが、そんなことは気にも留めずに俺は熟考していた。なんの為に全速力で準備してきたんだか。  
しかしどれほど心此処に有らずであろうとも、頭の中の悩みについて独り言を言うことは避けなければなかった。なぜかって?  
それは、俺の右隣りのヤツに聞いてくれないか。シラバスに対し微笑を浮かべている珍妙なヤツに。  
 
「しかしまあ大学にアパートに学部に授業の取り方にと、よくもこう偶然が重なったものだね」  
俺は佐々木と二人で学食ランチだ。懐かしさが妙にこそばゆい。  
「いつかキミにトンネル効果の例を引用して確率と不可能について述べたかとは思うが、憶えているかい?」  
大学とはいっても学食はやっぱ混むんだな。高校の時とあんまり変わらん。二人分の席は、なぜかこれ見よがしに空いていたが。  
「こんな偶然の積み重ねがあると、キミの言ったように万物の起こる確率はゼロではないのかもしれないという気になってくる。事実ではあるんだけどね」  
うんうん、やはり一人暮らしでは野菜が不足しがちだからな。俺は普通なら頼みもしないサラダを注文したというわけ――  
 
「キョン?」  
 
気がつくと佐々木の目にショートレンジからの一撃を食らわされていた。。俺はメデューサにやられた戦士よろしく動けなくなる。  
「どうしたんだい?先ほどの講義時間中も何やらうわの空だったと記憶しているが、体調でも思わしくないのかい?」  
相も変らぬ微笑をたたえたその顔だが、底の知れぬ鳶色の双眸だけが訝しげに揺らいでいた。  
「ああ、いやすまない。ちょっと考え事を」  
嘘ではない。ホントのことを言ってないだけだ。  
「それは嘘ではないだろうが、本当のことも言ってないないと邪推する。どうだろうね?」  
かなり意地の悪い笑みに変えてきた。  
でもこれは、間違いなく佐々木の表情だ。  
俺は吊革にぶら下がるようにだらしなく両手をあげ、佐々木は満足げにオムライスを頬張った。ちくしょう。  
佐々木が喋っている間に食べ終えてしまっていた俺はお冷を口に含む。  
目の前のそいつが食べるのをなんとなく見ていると、不意に佐々木は上目づかいで視線を合わせてきた。ちくしょう。  
 
しばらくそうしていると佐々木の顔はほんのりと赤みがかって、その手はオムライスに入れたスプーンを持ち上げた後ふらふらと宙に遊ばせた。何してんだ。  
それでも俺は静観を続けていたら、ううとかああとか呻いて佐々木はそれを自分の口に入れた。なぜそんな目で俺を見る。ちくしょう。  
俺は逃げるように佐々木の分のコップも持って、お冷を注ぎに行った。  
男子学生の哄笑。女子学生の談笑。銀食器の反響。館内放送の残響。  
それらが不規則に入り乱れて交錯した食堂で、俺と佐々木の時間だけが緩やかな放物線に乗っかっていた。  
 
 
それから二ヶ月ほどは、何事もなく過ぎ去っていった。  
俺は観察も兼ねて佐々木と行動をほとんど共にしていたが「彼女」……って、やっぱりカッコ書きにしないと判りづらいよな?しかし意外とめんどくさい。  
誰かいい考えがあったらこっそり耳打ちしてくれ。採用させていただく。  
 
すまん、謎の電波を受信した。話を元に戻そう。  
ともかく、「彼女」が現れることはなかった。高校時代のことをそれとなく聞くふりをして通院していたことは聞き出せたが、ここ二ヶ月ほどは何もないという。  
何もないということは、事態は悪くなっていない代わりに良くもなっていないということだ。ジリ貧、という見方をすれば事態は悪化していると言える。  
もちろん「彼女」の存在は伏せておいた。理性レベルでは「必要ない」と言っていた力だから、余計な心配をさせるのもナンだ。  
 
ただ「彼女」からあんなことを言われたせいか、佐々木の言動が気になって仕方がない。見れば見るほど、そんな風に思えてくる。  
そんな風ってのは、あえて解説なしの指示語だけで勘弁していただきたい。決してミスではない。仕様だ。  
 
たとえば、今のこの状況。  
午後の授業を終え晴れて自由の身となった俺は、近くの本屋から本を引っ張ってきて大学近くの公園で読んでいた。それが長門の貸してくれたSFモノの続編だったのは、ホームシックのようなものなのだろうか。  
しかし読みはじめて幾許もたたない内に  
「おや、珍しいねキョン。読書かい?」  
すっかり聞き慣れた声が斜め上三十五度から降ってきて  
「隣に失礼させてもらうよ」  
すっかり見慣れた微笑が俺の右で小規模に炸裂した。ちくしょう。  
ところで、なんで俺と同じところに?大学から帰る方向にあるとはいえ、通りから路地に入ったわかりづらい場所だ。  
ああ、偶然か。  
偶然だよな。なら仕方ない。  
「確かに失礼だな、こう見えても俺は割と本は読む方だ」  
やや強がりの添加物を含んだ俺の声が午後三時の公園に浮かぶ。ブランコには少女とその母親の姿。  
 
「お前こそ、読書か?」  
佐々木の手にした文庫本を顎で指し示す。手の中で曲がったその表紙のタイトルは、カバーに覆われてわからない。  
「そういえば、お前が本を読む姿はほとんど見たことないな」  
しかしあの知識の豊富さから鑑みるに、相当な本の虫であるはずだ。  
「ああ。僕は本を読むときに集中していたい性質だからね。あまり人前で、況や騒がしい所で読みたくはないのさ」  
控え目な化粧が木漏れ日に映える。目は物憂げに閉じ、長い睫毛が高校までとは違う雰囲気を醸している。  
「こちらに来てから見かけること顕著なのだが、満員電車の中で吊皮も何も掴もうとせず本を読みふける人は一体どういうつもりなんだろうね。自分は絶対倒れないとでも思っているのだろうか」  
それはまあ、そうだな。そんな奴に限って電車が揺れると全体重をこっちにかけてきたりして、迷惑ったらありゃしない。  
佐々木はクツクツと笑った。夏を目の前にした太陽に焼かれ、雨上がりの地面からは湿った熱気が立ち込める。  
「一瞬、急ブレーキでも掛けてくれないかと願ってしまう穢い自分自身に気付いて呆然とすることがあるよ」  
同意の相槌を打とうとしたが、右肩に心地よい重さを感じて止められる。かすかなシャンプーの香りが、木陰の風に流され俺の前を走り抜けた。  
「人に迷惑をかけてまで読むべき本など、ありはしないのに」  
言ってることとやってることが矛盾してないか、佐々木。  
「そうでもないさ。先ほどの電車の件では本を読もうとして結果人に寄りかかる者の話だったが、今の僕はキミに寄りかかりたくて寄りかかっている。目的と行動は、なんら乖離していない」  
屁理屈じゃないのか、それは。ついでにいえば、本を読む気はないんだな?  
「無論僕の行為をキミが迷惑と感じるようであれば、僕はキミに詫びてここを立ち去ろう。どうかな?」  
そんな柔らかそうに笑ってる奴に迷惑だなんて言えるものか。  
俺のだんまりを許可の意と受け取ったらしく、佐々木はそのまま姿勢を変えなかった。何分もたたないうちに、葉と葉の触れ合う音のなかへ穏やかな寝息が混じる。  
「どうすりゃいいんだ……」  
幸せそうな佐々木の寝顔と対照的に、俺は一向に進展しない状況を憂いていた。  
乗り手のいなくなったブランコが、ただ風の吹くまま揺れていた。  
ちくしょう。  
かわいいじゃねえか。  
 
後日古泉や長門と連絡を取ってみたものの、有力な情報を得ることはできなかった。  
なんつーか、マズイ。このままダラダラと時が経過していけば、それこそ負けへの最短距離だ。  
そもそも、長門も古泉も朝比奈さんも元々はハルヒを観察するための集団所属なのだから佐々木に対してアウェーであることは間違いない。  
かといって佐々木専属の集団はすなわち俺達SOS団の敵。やすやすと情報をくれるとも思えないし、まず借りを作りたくもない。  
ないない尽くしでどうしようもない。  
手詰まり感が日に日に強くなっていく気がして、俺は相当参っていた。  
 
しかし、今日の俺は少しばかりテンションが高い。何故かって?  
それは元ミス北高(公式記録ではないが満場一致だと俺は信じて疑わない)にしてSOS団専属メイド且つ俺の天使である朝比奈さんと、とうとう会えるからである。  
なんだかんだと先延ばしになって俺から要求するのもなんか悪いし、という知り合いが疎遠になる王道のパターンに日々おびえていた俺の気持ちを察してか、いやそうに違いない。  
ともかく、朝比奈さんが連絡をくれた。俺はケータイに無限の感謝を込め、耳にあてた。懐かしくもかわいらしい声が俺の脳髄を焼き払う。  
ビバ、科学。  
会話中俺の脳はエマージェンシーレベルマックスを発令し、まともな思考など出来ぬままその女神の告げる待ち合わせ事項を俺の指は記録というバレエで表現した。文法に間違いがあっても気にしないでくれ。  
そして電話終了後、メモを七回悦に入りながら見直し、八回目に妙なことに気付いた。  
   
場所 新宿駅東口を出たとこの広場  
時間 九時  
 
いつから朝比奈さんは歌舞伎町の女王になったんだ?まさか十五から、ってことはあるまいな。  
すまん、今のは妄言だ。  
 
んで、約束の場所、約束の時間五分前に俺と朝比奈さんはかちあった。お互い律儀なもんだ。  
朝比奈さん(大)が出てくるんじゃないかと内心ヒヤヒヤしていたが、間違いなくちっこい朝比奈さんだ。あいかわらず庇護欲をそそられる。  
今日の朝比奈さんは大人になったという主張だろうか、大きく胸と背中のあいた服(名前はわからん)にポニーテールといういでたち。どうやら俺を殺すつもりらしい。  
「お久しぶりです、キョンくん。ちょっと見ないうちにたくましくなりましたね〜」  
ええ、あなた一人くらいなら包み込めるようになりました、とかは言いたいけど言わない。謙遜で返すのがオトナってもんだ。そうだろ?  
「いえいえ、そういう朝比奈さんは、相変わらずかわいいですね」  
後で思い返して歯が浮くようなセリフは言いたかないが、大丈夫か?俺。  
朝比奈さんはフフフと笑って、俺の手を取った。彼女にしては珍しく、割と強めに引っ張っていく。たくましく……なったのか?  
「それじゃ行きましょ〜!お店はもう予約してあるんですよ!」  
自分では苦笑いをしたつもりだったが、多分過去最大級にニヤケ面でマヌケ面なはずだ。古泉や谷口にに文句が言えないほどの。  
すれ違っていく顔が全て羨望と嫉妬に変わっていくことに優越感と恐怖を覚えつつ、アーケードをくぐる。路上には変な出店やらホスト風の男やら黒人やら。すげえ街だ。  
……って、朝比奈さん?どこに向かってるんですか。そっちは赤いゲートがあって、そこから先は愛憎と欲望の都市新宿の真骨頂ですよ?  
「こっちにすっごく美味しいお店があるの。一度キョンくんに食べてもらいたくて!」  
突っ走ってらっしゃる。こっちを向いてすらくれない。  
あんなとこでまた誘拐でもされたら本当に打つ手がないからあまり危険な地域には行きたくなかったが、もうなるようになれだ。  
と、半ば自暴自棄気味ながらも夢心地で引きずられていく俺だったが、横断歩道の途中で背中をある感覚に突き刺された。  
その一瞬我に返り辺りを見渡すものの、あまりの人の多さにそれ以上の感覚を引き出せない。ネオンライトが行く人々の顔を、腕を、服を、思い思いに染め上げていく。もちろん、俺と朝比奈さんも。  
俺は諦めて前を向き、朝比奈さんと並んで歩きはじめた。赤い門に吸い込まれていく、二人の体。  
狭苦しい空を見上げてみる。ビルの先端を示す赤い光が、夜空の闇へてんでバラバラに反抗していた。  
 
今になって思えば、あのとき感じたものは視線だった。  
それも、一度どこかで感じたもの。  
今回は、その視線は笑ってはいなかったが。  
 
「ね、ね、おいしいでしょ?これもこれも食べてみてください!」  
朝比奈さんにより拉致された俺は、地下にある怪しげなバーに軟禁されていた。普通の人間が普通の感覚で普通に行動していれば絶対に寄り付かないようなところだ。  
というか、まずは入れない。入口には屈強な黒人のボディーガード二名。これ見よがしに黒服で、少しでも下手を打てばその丸太のような腕で駅まで吹き飛ばされること請け合いだ。  
そんな二人も朝比奈さんが来ると深々と頭を下げドアを開けた。俺達はマンガかゲームに出てきそうな古めかしいレンガの壁の階段を下って行った。照明がいちいち高そうな光を宿している。  
フロントにつくと支配人らしき人物が現れ、俺達は広間とは別のどでかい部屋に案内された。扉の上にVIPと書いてあったとかなかったとか。  
そして出てくる料理料理料理酒酒酒。素人目にも解る、金の無駄遣い。パフェの上で線香花火つけてどうすんだ。  
多分線香花火じゃないんだろうな、とは思ったけど正式名称がわからんしイチ凡人の目からすれば線香花火にしか見えん。  
そんな下らん事を考えている間にも、次々となんやかんや運ばれてくる。アリスのパーティみたいだ。  
何か出てくるたびに料金が頭の中で予測・計算され、まさかデートとは男が払うべきものなのだろうかと考えるとそれも食わないうちから胃に穴が開きそうな気分になった。  
そんな俺の表情を察してか、朝比奈さんは料金の心配はいらないと言ってくれたが。  
というか、朝比奈さん、去年何やってたんすか?  
まあ女性の過去を聞くのは野暮である……とこの場合逃げていいのかどうかだいぶ逡巡したが、今聞くべきことはそれではないと判断し止めることにする。  
だいぶ酒をいれられていた(朝比奈さんは全然酔っていなかった。なぜ?)がしかし、とある疑問とおそらくはその答えが頭に浮かんだ瞬間幾分か頭が醒めた。多少ふらつく頭に、店内の照明がサイケな模様を殴り書きする。  
ウェイターの曖昧な笑みがとある副団長を思い出させる。  
シャンデリアやら高そうな料理やらを見ては落ち着きのない朝比奈さんを確認、そしての確信。  
「あと何か食べてもらいたいものあったかな……?あっ、そういえば」  
 
「――朝比奈さん」  
 
こんな真剣な声を出せるとは俺自身驚きだ。そして朝比奈さんが驚かない訳、ない。手に持ったワイングラスがくらりと揺れる。  
酒入ってなかったら朝比奈さんにこんな口調で話しかけないだろうな。我ながらふてぶてしい。  
けれども酒の勢いともやもやとしたイラつきが俺の暴挙を助長する。  
時間が止まり、ジャズバンドの生演奏だけが世界を無視して鼓動していた。  
俺は朝比奈さんの目を見ることができないまま、質問を始めた。  
「なぜ、この店に来ようと思ったんですか?」  
「そ、それは、前ここに来て料理がおいしかったから!」  
「なぜ朝比奈さんが、こんな危なそうな町の地下のお店に来ることになったんですか?」  
「ええと……セ、先輩に連れてきてもらって」  
「佐々木の話をしなかったのは、なぜですか?まあ、俺も言い出し忘れていましたが」  
「わ、わたしも忘れてたんですよ!大事なことなのに、だ、だめですね!わたしったら……」  
質問をするたび、朝比奈さんの声がぶれていく。まるで、その手に持ったグラスの中の赤い液体のように。  
「それじゃ、最後の質問です」  
俺はそれまで履き慣れていない革靴を見ていたが、顔を上げた。視線が子犬のような瞳を貫く。  
そして、シャンデリア、いくらかもわからない酒、名前もわからない料理、地下何メートルかもわからない部屋の壁を見まわして、まるで独り言のように訊いた。  
 
「これは、朝比奈さん自身の意志ですか?」  
 
答えは、なかった。  
代わりに、すすり泣くような声がピアノの音に混じる。それは間接照明で怪しげに黒光りしていた。  
ああ、なんだかんだ俺って朝比奈さん泣かせてばっかりだな。問答無用因果応報電光石火で死刑台行き、かな。  
「やっぱり、キョンくんはすごいですね……隠しごと、出来ませんね」  
 
その後のことは都合によって省略させていただく。あまり語りたくないことばかりだったし、いい加減自己嫌悪に過ぎる。  
待ち合わせの場所と時間、そして店は未来からの指令だったらしい。なんでも、こうすることで何か重大な影響が発生するとのこと。もちろん「何か」は「禁則事項」だったが。  
問題は朝比奈さんの上司、つまり朝比奈さん(大)が、俺の味方かどうかわからないこと。言うまでもなく信じたいのだが、状況は私情だけで判断することを許していない。  
「ホントは、もっと普通のところで、普通にキョンくんとお話ししたかったのに……」  
俺は、朝比奈さんが呼ぶならいつだってどこにだって現れますよと言った。  
朝比奈さんは、最後に少しだけ笑ってくれた。  
酒に漬かった俺の脳みそは、紙芝居でも見るかのように眼前の光景をただ記録していた。  
 
朝比奈さんを地下鉄の駅まで見送り、俺は再び最初の待ち合わせ場所まで戻っていった。涼しげな風がタクシーのようにビルの間を吹き抜ける。  
明日は一限。ダラダラしている暇などなく、さっさと帰って寝るべきだ。先ほどのことで心労もたまっている。  
それなら、この歩みを続ける理由はなんだ?なぜ俺は歩き続けている。  
答えが出る前に、俺の足は止まった。俺の目は見ていた。  
同じような髪形の男を。  
同じような服装の女を。  
同じような高さのビルを。  
同じような底辺のゴミたちを。  
とても数え切れないほどの光を。  
それですら照らしきれない闇を。  
絶え間なく囁き怒鳴る音を。  
それですら隠しきれない静寂を。  
そのすべてが到達できない狭間に、俺は手を伸ばした。  
ズブリ、と、ありえないはずの擬音が俺の体を包み込む。  
目を閉じる。  
ドロドロに溶けた鉄をくぐり抜けたなら、こう感じるのだろうか。燃え尽きるような熱さが質量を伴って全身に殴りかかる。  
しかし、俺は止まらなかった。止まるわけにはいかなかった。  
 
唐突に、鼓動と呼吸以外のすべての音がやんだ。俺は目をあける。  
どこかで、こういう写真集を見た様な気がする。  
誰もいない、東京。金属音のような無が聞こえる。  
その中心に、俺は独りで生えていた。ビルの屋上の赤いライトだけが、ここでの動く全て。おっと、信号も動いているな。  
似たような空間には、何度か来たことがある。今となっても良い思い出とはならないが。  
酒の幻覚?  
それなら、何が起こったって問題ないな。現実じゃねーし。  
頭の中の冷えた部分ではしきりにそうじゃないだろと警告していたが、朝比奈さんに担がれていたというひねくれた考えがその言葉を無視した。  
それに、その言葉に耳を貸せば、いよいよ俺の手に負えない現実が非現実世界で俺を飲み込む。だから、何も認めたくはなかった。  
しばらくその場に立ち尽くしていたが、何も起こらないので仕方なく歩きはじめた。  
白い部分のはげかかった横断歩道を横目に車道へ出る。  
植え込みに散乱していたはずのゴミは跡形もなく消えていた。  
蒸し暑さだけ現実と虚構とが共有している。  
ややふらつく足で歩けど歩けどついに人っ子一人見つけることができず、スーツを着込んだ体は汗だくになってきた。  
それとは逆に酔いは段々と醒め、脳に響き渡るアラームは無視できないレベルとなってきた。  
 
頭から完全に酒が抜けきり、代わりに冷汗がちらほら見え隠れするようになり、俺はとうとう観念した。  
避け続けてきたこの答えこそが、おそらくは正しいのだろう。  
 
ここは、閉鎖空間。  
 
なぜ俺が一人で入り込めたのかなど「異議あり!」なポイントは腐るほどあるが、「酒の幻覚」が消えてほかの選択肢が出てこない以上これしかない。  
俺はこれを状況の進展というスカウターがはちきれんばかりの無理やりプラス思考にして自分を慰めることにした。  
一度そうと認めてしまえば、あとは随分と楽になった。  
犯罪者か。  
 
この閉鎖空間は、状況や感覚からいって佐々木のものだとは思うが、何だか様子が違う。  
前来た時はクリーム色だった世界が、寂しげな藍色に変わっていた。まるで海の底をひとり歩いているよう。  
そういや、一人で閉鎖空間に来るのなんて初めてだな。けっこう、気味が悪い。一粒だけ鳥肌が立ったような気分だぜ。  
くだらないことを考えながらも一通り歩き回ってみたが何も起こらず、途方にくれて俺はベンチに腰かけた。  
進展したかと思いきや、とんだブービートラップだ。溜め息何回連続で出るか数えて――  
 
あっ、ところで知ってるか?  
物語ってのは、「あきらめかけた、その時」に絶対何か起こるようになってるらしいぜ。木曜スペシャルとかでも、そうだよな。それが一番盛り上がるもんな。  
 
えっ?何が言いたいって?それは、お前。  
何か起きたに決まってんだろ。  
ここに来て初めて聞く、俺以外の者がたてる音。地球を踏み割るような、バカでかい。  
慌てて俺は振り返る。  
見上げれば口がマヌケに開いてしまうような、摩天楼。  
それがいくつも立ち並ぶスパイクヒルズ。  
てっぺんには何かを思い出させる赤い光。  
 
それらの中の一つがなぜか、地面と平行に浮いていた。あれ、都庁じゃねえか?  
 
ポカンと口が開いたのも、ビルがスカイ・フィッシュよろしく宙に浮いているのも、ほんの一瞬以下のことだったに違いない。  
しかし、瓦礫の塔と化したそいつがアスファルトにもんどりうって俺の鼓膜を震わすまでの間が、やけに長く感じられた。  
そのすぐ隣で、蛇のように長くクラゲのように不明瞭な「何か」が僅かに透けて見える向こうの空間を歪めていた。  
ウデ、うで、腕だな、ありゃ。  
あんな腕は、サルかヒトしか持たんだろう。しかしあんなでかい腕は、サルもヒトも持たんだろう。キングコングならどちらも満たしているが、顔を見ると生憎それでもない。  
もう、回りくどい言い方はやめよう。現実逃避も甚だしい。  
つーか、ここ現実じゃないけど。  
 
藍色の暗い世界の中でも容易にその姿を識別できるほどの、暗黒の巨人がそこにいた。  
 
俺がごちゃごちゃと解説をしてる間にも、そいつは次々とビルをなぎ倒して歩いていた。なんか黒くなってから凶悪さが増したような気がする。  
おい、佐々木の閉鎖空間ではあいつは出ないんじゃなかったのかよ!  
俺は朝比奈さん誘拐犯(名前など忘れた)の言ったことが、それだけでいいから真実であってほしかったと思った。  
……なんか、以前見た時よりもでかくなってないか、神人。  
というか、さっき見た時よりでかくなってないか。  
 
成長期か?  
 
俺のアホなボケは黒い巨人による、最寄りのビルの破壊という荒業によりツッコまれた。  
これだけは考えたくなかったんだが、近づいて来てやがる。  
ヤツの顔はノッペラボーだが、目があるのなら確実に俺を凝視している顔の角度だ。  
どうやら俺を殺す気らしい。  
比喩でもなんでもなく。  
「冗談はやめろ」  
こういうときには常套句しか言えない。  
当然俺は逃げる。当たり前と書いて当然だ。あんなん相手にできるか。  
え?漢字違う?すまん、今取り込み中なんでな。あとにしてくれ。  
しかしヤツの一歩は俺の三百歩、適当だが。  
そんな奴に鬼ごっこで勝てるほど、俺の足はカモシカじゃない。  
たとえそうであっても、どうしようもない限界が俺の前に《壁》となって立ちはだかっていた。  
体が、何もないはずの空間へそれ以上進まない。寒天のような感覚に押し戻される。  
初めて閉鎖空間に侵入したときに古泉と確認した、現実との境界。  
すぐそばにあるはずの電器屋の看板が、白々しく「激安セール」の文字を写していた。  
叩きつけた腕も、はじめはズブリといったがすぐに行きどまる。  
何度も何度も殴ってみたが、痛みのない代わりに手ごたえもない。  
くそ、これじゃホントにブービートラップ、言ってしまえばゴキブリホイホイじゃねえか。  
そうこうしているうちに破壊音が俺のすぐ後ろまで迫ってきた。振り返ると、闇は俺のほんの十メートル手前。  
腕の長さもちょうどそんくらい。  
 
ヤツが腕を振り上げた。  
その手が、まるでクイズ番組の解答ボタンを押すがごとく俺を叩き潰すイメージが浮かぶ。  
さっきから赤い玉になれはしないかと必死で祈ってるが、別に体のどの部分も光はしない。リミテッドな超能力者の中でも、さらにリミテッドだ。  
よかったな、古泉。お前はまだまだ必要らしいぞ。  
その前に俺がロストしそうだが。  
天を擦るほどに伸ばした腕は少し傾いたかと思うと、ジェットコースターの如く速度を上げて振り降ろされた。  
 
わりい、みんな。  
ゲームオーバーだ。  
 
走馬灯の一つでも見てやろうかと覚悟を決め、お呼びでないにもかかわらず一番手に名乗りを上げた谷口のアホ面が俺の脳を汚すと同時に、全身を衝撃が襲う。  
 
あっ、ところで知ってるか?  
物語ってのは、「あきらめかけた、その時」に絶対何か起こるようになってるらしいぜ。木曜スペシャルとかでも、そうだよな。それが一番盛り上がるもんな。  
 
恐怖に目をつぶっていた俺は、巨人がアスファルトを叩き割った音が聞こえたことと、自分の体が横向きに吹っ飛んだことに疑問を挟む余地はなかった。  
そして、二秒後に疑問を持った。  
なんでやねん。  
恐る恐る目をあけると、横向きに倒れた俺からは巨人が壁に足をつけて立っているように見えた。  
左半身が痛い。  
頭がグワングワン揺れる。  
口の中に鉄の味。  
瓦礫の割ける音。  
消えていた五感が殺到する。  
なんだか解らん。  
とりあえず俺は生きているらしい。SOS団在中に培われた順応能力の高さを活かし、すぐに逃げなければという信号が脳から下される。  
しかし、俺の体はどういうわけかすんなりと動かない。  
瓦礫かなんかにつぶされてるのかとも思ったが、それにしては柔らかい。  
それに、瓦礫には女子のいい感じの匂いなんかしないだろ?ついでに長めの髪の毛なんかも生えちゃいないはずだ。  
 
「まったく……何もできないくせに」  
 
どっかで聞いた声。  
どっかで見た制服。  
どっかで見た笑顔。  
 
俺は神人にハエの如く圧殺されそうになったことも忘れ、どっかの世界で一度問うた質問を、うわ言のように「そいつ」へこぼした。  
 
「どうしてお前がここにいる」  
最大級の恐怖よりも最上級の疑問が勝っていた。  
「朝倉、涼子」  
俺の口は忌まわしい呪文を唱えたかのように震えながら、動いた。  
真上にある信号がちかちかと無意味に点灯していた。  
 
「細かい話は、後でね?」  
まるで放課後に人を呼び出しておいたがその前に問い詰められたのを軽くあしらうように茶目っ気たっぷりにそれだけ言うと、朝倉は俺の襟首を掴んで走り出した。  
そのまま、腕を振り下ろしたままの巨人の股の間をくぐり抜けて後ろ側に回り込み、百メートルほど離れた所で停止した。  
リアル市中引き回しを受けた俺はボロボロになっていた。  
が、そんなことはお構いなしに朝倉の手を振り払ってさらにワニに追われたフック船長よろしく十メートルほど後ずさった。そして絶叫する。  
「なんでお前がここにいやがんだ!」  
お前は一度目は長門に、二度目も長門に消されたはずだ。ここに長門はいないんだから三度目はない。つまりお前の出番はないはず。  
朝倉は返答する代わりに微笑のままやれやれといった風で肩をすくめ、良く出来た委員長のように優しく、絶対的に命令した。  
「そこから一歩たりとも動かないでね?」  
顔のパーツのない巨人が、ゆるりとこちらを向く。  
体内の発光部分が不気味にバウンドする。  
朝倉はそいつと対峙すると、野球のキャッチャーのような手つきをそいつに向けた。  
俺の鼓動の合間に、ブツブツとつぶやく声が聞こえる。  
 
次の瞬間、巨人の頭部が始めからなかったかのように消滅した。  
気にすることもなく巨人は立ち上がったが、全身が妙に泡立っている。よくよく見ると、ヤツの体越しに見える向こうの風景が徐々に鮮明になっていく様子がわかった。  
朝倉がマシンガンのごとく掌から針のようなものを飛ばし続けているらしい。  
黒い雪が巨人から散る。  
全身をアメリカのアニメで見る穴だらけのチーズのようにした巨人は、それでもなお近づいてきた。  
歩くたびに、体中が欠けてゆく。ゾンビか。  
「しつこいわね」  
生まれかけの小鹿が立つのを見届けているような声で言うと、朝倉の両腕が上がった。忘れられないビジョンが頭の中で無許可に上映される。  
光のない天に乞うような姿勢から朝倉の腕が発光し、蛇のように渦巻いたあと風穴だらけの巨躯へ突撃した。  
巨人は朝倉の奇形化した腕にがんじがらめにされ、もし口があったなら、つーか頭自体ないけど、閉鎖空間が新装開店せざるをえなくなるような絶叫でも上げただろう。  
そのまま十秒ほどもがいていたが、突然に全身が発砲入浴剤よろしく泡立って溶けた。  
カラスの羽が風に舞いあがったように。  
 
俺はいつだって逃げだせたはずなのに、良く出来たホラ―フィルムを怖いもの見たさでつい観てしまうようにそのまま固まっていた。  
脳内の情報処理装置は完全にフリーズ。  
バックアップの要請も受け付けられない。  
朝倉の腕が光を失い元通りになるのを見て、ようやく我に返った。  
長髪が揺らぐ。  
背中が胸に変わる。  
二つの目が俺を確認する。  
途端に、カナダあたりに放り込まれたような寒気。  
訊きたかったことも何もかもが消えうせ、代わりに絶望的なまでの死への恐怖が全身を突き動かす。  
ガタガタ震えながら後ずさりし、ほうほうのていで(こんな表現、イマドキ使うヤツいるのか?)立ち上がって逃げ出した。  
と、思ったが。  
「ほーら、何もしないから」  
という言葉が終るか終らないかのうちに、俺の体のパーツは突然動かなくなった。  
そのまま無様に転倒する。  
いつかのようにピクリとも、というわけではないが、寝袋に詰め込まれたような拘束感が襲う。  
アスファルトをのたうちまわった。硬い地面に叩きつけられる、ジタバタという靴の音。  
そして近づいてくる、革靴の音。  
バタバタカツカツ、それだけが無人新宿に響き渡る。  
それがだんだん大きくなる。  
死。  
死。  
死。  
その一文字が頭の中を駆け巡り、呼吸と鼓動がメタルのように大気を揺らし、全身から滝のように冷たい汗が零れ落ちる。  
あと四歩。  
三歩。   
にほ。  
いち。  
 
「死」って漢字、こんな形だったっけ?  
俺を見下ろしていた朝倉はしゃがみ込み、すっと右手を上げた。  
 
「ちょっと、お話しましょうか」  
額を柔らかいものが流れていった。  
 
「わたしはあなたに危害を加えるつもりはないわ」  
「うそつけ」  
朝倉の提案により始まった「お話」は、最初この話題から動くことはなかった。  
当たり前だ。  
二度も殺されそうになったヤツが、二度も殺そうとしてきたヤツの言うことなどカタツムリの角ほども信じられるものか。  
「俺に危害を加えないって言うなら、どうして動きを封じる必要がある。さっさと解きやがれ」  
もしこの様子が録画されていて後で見ようもんなら一生の汚点となりかねないほどにバタ足しながら凄む。  
無論、滑稽なだけであるが。  
そう感じたかどうかは知らないが朝倉は実によく出来た笑みを浮かべ  
「うん、それ無理」  
……そのセリフも慎んでもらいたい。  
「だって自由にさせたら、わたしの話なんて聞いてくれないでしょ?」  
繰り返す。当たり前だ。  
自由が確認できた瞬間に逃げ出す。  
「どうせそのままじゃ何も出来はしないんだから、おとなしく話を聞いて」  
とても可愛らしくなるように両手を顔の前で合わせ  
「ね?」  
茶目っ気たっぷりにウィンクした。  
「勝手にしやがれ」  
自棄になった俺は吐き捨てた。  
「もしちょっとでも変な動きをしたら、この舌噛み切ってやる。お前なんかに殺されてたまるか」  
身の程知らずとは俺のことをいうらしい。  
「それは困るから、その辺の筋肉も喋れる程度に封じてあるよ?よしんば噛み切れたとしても、死ぬほど痛いだけで死ぬことは不可能だけど」  
最悪の退路も断たれたワケだ。  
 
ビルの電気は一つたりとも点いていないのに、街頭やら信号機やらはちゃんと動作している。これは一体どういう具合だろうか。実に興味深い……  
「ちょっと、ちゃんと聞いてるの?」  
ああ、すまない。お前の話よりもこの閉鎖空間の電気の働きが気になってた。  
朝倉は文化祭の話し合いの時にちっとも参加しようとしない男子を見るような目つきで、溜息をついた。  
「だから、わたし達は今の事態に危機感を覚えているの」  
俺はお前に危機感を覚えているな。  
「長門さんは、あなたには加勢できないって、そう言ったんでしょ?」  
不承不承肯く。  
「情報統合思念体は進化の可能性――涼宮ハルヒの持っていた力自体が意志を持っていたことに非常に興味を持った。今までは、涼宮ハルヒの自我とあまりにも重複していたから発見できなかったけど」  
サラサラの髪がかすかに揺れる。  
「それが別の肉体へと移ったことで表面化した。観察すべきは、涼宮ハルヒではなく進化の可能性そのもの。涼宮ハルヒの鎮静化によって可能性を見失いつつあった情報統合思念体は、それこそ活発化した」  
活発な情報統合思念体とは、なんとも想像しにくいな。  
そこでふと思いだした。  
「それじゃ、長門の言ってた『進化の可能性を観察する別のインターフェース』ってのは、お前のことか?」  
朝倉は待ってましたとばかりにニンマリして  
「人の話は最後まで聞く!」  
お前に人の道を説かれるとはな。  
「たしかに、これまでにない展望が予見された。期待が大きく膨らんだ」  
ピンと人差指が立てられる。  
「だけどそれは、あくまでも主流派の話」  
 
そのまま自分を指して  
「それまでの急進派は、『力自体が意志をもつ』ということに驚愕したの。考えてもみて」  
ふむ。  
「無意識の内に力を発揮する涼宮さんならこちらからのアプローチでコントロールできるかもしれないけど、なんでも自分の願いを意識的に叶えちゃう人が言うことを聞いてくれるかしら?」  
厳しいだろうな。  
「自覚のあるカミサマを怒らせようもんなら、進化の可能性どころか原始の世界まで逆戻りさせられかねない。世界を造り変えようとしたあのカラミティには、さすがの急進派もキモを冷やしたわ」  
頭の中に情景が浮かび上がってくる。灰色の世界、無数の「神人」、崩れ落ちる校舎、そして、ハルヒの意外と華奢な体。  
「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」  
朝倉の口が三日月形に吊り上がる。また一粒、俺の背中を冷汗が伝った。  
「主流派はあの危機を忘れ、再び世界を危険に晒そうとしている。世界を滅ぼされるくらいなら、進化の可能性など必要ない。それが、急進派の方向性。それを全うするため、わたしは再構成された」  
連続俺殺害未遂犯は手を後ろに組んでクルクルと回った。髪の毛がバレイのリボンのようにしなる。  
「新しいファクターにお互いが方向を百八十度転換させて結局また敵対するなんて、皮肉な話ね」  
そこで朝倉の話が途切れたので、俺は口を開いた。おっ、そういえばちゃんと開いたな。舌を噛むつもりはとうに失せていたが。  
痛いだけらしいし。  
「そういや、なんでお前は佐々木の閉鎖空間の中に入ってこられたんだ?ついでに俺も」  
佐々木の閉鎖空間に入るのは、あの憎き朝比奈さん誘拐犯の専売特許だったはずだ。  
朝倉は大きな瞳でニッコリとさも嬉しそうに笑いかけて。  
「まず普通の人がここに入れないのは、なんていうか……フィルターを思い浮かべてみて」  
俺の頭の中にコーヒーフィルターが出現した。  
「普通の人が入れない理由は、粒が大きすぎてフィルターの目を通り抜けられないから。古泉一樹や橘京子が入り込めたのは、その粒が常人よりも小さくなるような能力を与えられたから」  
俺ですら忘れていた朝比奈さん誘(以下略)の名を、直接関わりはないはずなのに朝倉は知っていた。  
「なるほど。それで、お前と俺は?」  
「進化の可能性はその自我を発揮する際に、フィルターの交換を行ったの。もっと網の目を細かくして、邪魔者たちが入り込めなくなるようするために」  
高校生のお姉さんが近所の小学生に算数を教えるような優しさをふんだんにちりばめた笑顔で  
「けれども、そこにひとつの誤算があった。フィルターを交換するためには、一度古いフィルターを取り外して無防備な瞬間が生じる。それがどれだけの刹那でも、進化の可能性が人間と同じ自我を持つ以上『時間』がうまれる」  
優雅に髪をすいた。夜は明けない。閉鎖空間だからか。  
「その瞬間をねらって飛び込んだ。理論的に可能なことなら全てが可能。それが、わたし達の力」  
 
賢明なる読者諸君には自明のことであろうが、誤解のないように念のため言っておく。これは朝倉を油断させるための演技だからな。素直なフリをしているだけだぞ。  
 
じゃあ俺は。なぜおれはここにいる。  
「あなたはさっぱりわからないわね。こっちが聞きたいくらいよ」  
この役立たずが、と思ったが口にはしない。人の頭の上のハエを追うより、だ。  
「強いて言うなら、佐々木さんにも進化の可能性にも気に入られているからじゃない?」  
墓穴か?墓穴だ。  
なんとも返せずうつむいた俺の視界が、めくれ上がったアスファルトを捉えた。  
「なんでここに神人がいるんだ?前来た時には影も形もなかったが」  
「進化の可能性が佐々木さんに移ったからよ。もともと『彼』は進化の可能性が作り出したエネルギーの一部。それを『殺し』ていくことで、わたしは進化の可能性の弱体化、ひいては殺害を達成する」  
そんな簡単に殺すとか言ってはいけません。実行力のあるお前は特に。  
「それと」  
「なに?」  
「なんで制服なんだ?」  
「この服装以外のデータがメモリに存在しなかったから」  
「なるほど」  
信じるも信じないも俺の自由。  
朝倉の瞳は、一部でそう語っていた。  
一部で。  
 
気がつくと俺の体は自由に動くようになっていた。人質に取られていた社長がやっとこさ開放されたように、全身で伸びをする。  
「随分と警戒心も解いてくれたみたいね」  
油断していた。迂闊な。自重せよ。可及的速やかに退避しなければ。  
でも、どこに?どうやって?  
「この閉鎖空間は常時展開しているタイプだから、あなたは自分が壁をすり抜ける姿をイメージすれば出ていけるわ」  
んなイメージ持てるか。  
「じゃあずっとここにいる?わたしは構わないけど」  
よし、やるか。  
ん?そういえば。  
「朝倉」  
瞳と瞳がかちあう。  
不覚にもきれいだと思った。  
「お前は出ていかないのか?」  
ふっと表情が緩んだ。苦笑い――これまでのどの笑いよりも人間臭い――をつくる。  
「言ったでしょ?もう最小単位のフィルターがかかってしまった」  
すっと目が閉じられる。俺はそんな朝倉を、見開いた目で見つめる。  
「わたしはもう出られない」  
 
なぜだろうか、ガンと頭をぶったたかれたような感覚に襲われた。  
「マジかよ」  
「本当よ」  
確かに俺はコイツに二回も殺されかけ恨みつらみも山ほどあるが、だからってそいつが一生こんなところに閉じ込められるのを喜べるほど単純でもない。  
俺はそれ以上何も言えなかった。  
しかし朝倉はまただいぶ嘘くさい笑みを浮かべ  
「可哀相って思ってくれるなら、ちょくちょく遊びに来てね!」  
とか言ってきやがった。  
無論、こう言うしかないだろ。  
「断る」  
それが、俺にふさわしい言葉。そうだろ?  
 
 
「んじゃ、な」  
俺は目を閉じた。壁をすり抜ける自分をイメージする。そういえば昔佐々木とこういう話になったような気がするが、何回以上ぶつかってもまだ不可能なんだっけ?  
ついでに、別れの一言。  
「礼は言わねえぞ。俺はお前に二回殺されかけたんだから、今日お前に助けてもらったのも入れて差し引きマイナスいちだ」  
「それじゃ、あと二回助けてあげた時にもらおうかしら、お礼」  
「来ねえよ、こんなトコ」  
沈黙。本当になんの音もしない。それはそれで集中し辛い。  
 
「来ないでね」  
何も走っていない道路に、誰もいないビルに、何処も埋まっていない空に、木霊した。  
目を開けれなかった。表情を見てみたかった。でも、今までにないものが見えそうで、怖かった。  
 
全身を、熱が包んできた。  
つむった眼球に、壁が埋まりこんだ。  
体がフィルターの目により原子レベルで細分化される、気がした。  
ほんのちょっと目を開けて見ようと思ったころには、俺の全身を声、クラクション、巨大スクリーンの効果音が包み、都庁はおそらく普段どおりであろう光を新宿の月と対比させていた。  
あの三日月は、下弦の月だったか上弦の月だったか。  
そして先ほどまで朝倉の立っていた場所には、ただタバコの吸い殻が汚水に沈んでいた。  
それでもその水溜りは、ネオンに照らされて七色の月を映し出していた。  
 

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