「長門有希」
「長門さんとやら。こいつはこの部室を何だか解らん部の部室にしようとしてんだぞ、それでもいいのか?」
「いい」
「いや、しかし、多分ものすごく迷惑をかけると思うぞ」
「別に」
「そのうち追い出されるかもしれんぞ?」
「どうぞ」
十二月の下旬、北高からの坂を下りながら、俺の二歩後を歩く奴とのはじまりを思い出していた。
もうあれから何年たつのか、と思ったが実際はまだ二年もたっていない。
しかし高校に入ってからは時の流れが速い分少し前のことでも大昔に感じるというし、そうでなくとも俺の高校生活にはいろいろとありすぎた。
それにしても、そのやりとりを寸分狂わずに覚えているというのは自分でも驚きだ。
変な女二人に挟まれて自分でもワケのわからん事をしているもんだと当時は思っていたが、俺の脳みそはそういうことについてはオートセーブ機能が付いていたらしい。
つい先日の試験結果を思い出し、どうせならそっちにその秘めた力を発揮してほしいもんだと苦笑した。
今朝の天気予報通り空は厚い雲に覆われ、身を切るような寒さがコート越しに迫る。
坂を駆け上がる向かい風につられて、俺は後ろを見やった。
はためくダッフルコートに揺れる前髪、その奥にある、現在の気温よりは少し暖かめの、黒目がちの瞳。
福笑い以外万能の少女が、歩きつつ俺と文字の両方を器用に追っていた。
「有希、今年のイブあいてる?」
「あいてる」
「あなたの家は?」
「あいてる」
部室に入ってくるなり長門に聞いたハルヒは、いかにも期待通りの回答が得られた、という顔で部室の全員に向きなおり
「えー、今年のイブは全員有希の家に集合!みくるちゃんも古泉君もオッケー?」
狭いんだからそんな大声でなくともみんな聞こえるわ。
そして俺にも訊け俺にも。社交辞令の一つもできんと立派な大人にはなれんぞ。
「訊いても訊かなくても一緒のことを訊くほど、あたしも野暮じゃないの」
朝比奈さんや古泉、そして長門だって訊いても訊かなくても一緒だと思うが。
「というわけで、キョン?あんたは有希の家にツリーを持って行きなさい」
そういってハルヒは、いつの間に出したのやら、クリスマスツリーの入った箱を指差した。去年この部室で使ったヤツだ。
「なんでまた」
と、俺は思ったし、言った。
「あんた、本物の馬鹿?ツリーのないクリスマスパーティなんてバイクに乗った坊さんよりも興醒めじゃないの」
うわ、コイツホントに馬鹿を観る眼で見てきやがった。そんな眼は谷口あたりに向けてこい。
「いや、そうじゃなくてだな。なんでわざわざ長門の家でやるんだ?またここでやればいいじゃないか」
発言した後で、俺は自分がえらく常識のない人間になってしまっていたことに気付いた。むろんその責任はあいつに帰属する。ああそうだとも。
するとハルヒは小難しそうな顔をしながら
「それはあたしとしても苦渋の決断だったんだけど、あのこ憎たらしい生徒会長が」
まるで風呂場のカビのことでも話すような声で
「イチャモンつけてきて。まったく、三年なんだからちょっとは勉学に勤しみなさいよ。大学落ちたら喉が裂けるまでわらってやるわ」
何とも意外な理由を告げた。
「なんだ?お前にしちゃえらく聞き分けがいいな」
お前なら彼が現れて最初の言葉の母音を発音する時点でドロップキックの一つはかましてそうだが。
「あたしだってあんな奴の言葉に従うのは業腹だけど、せっかくの楽しいクリパにチャチャ入れられるのもなんだし。戦略的撤退よ」
ふむ、俺とは逆に、こいつにはすこしずつ常識というものが備わってきているようだ。
それは喜ばしいこととして、俺はもう一つの疑問をぶつけた。
「じゃあ、何で俺だけだ?古泉を手伝わせても構わんだろ?」
たぶん一人でも運べないことはないだろうが、箱のでかさと逆ハイキングコースを考えたら中々大変そうだ。
「だめ。実は隣町の雑貨屋にすっごいお洒落な飾りやらお菓子やらがあって、今からあたしとみくるちゃんは選別、古泉君にはそっちの荷物持ちをしてもらうことになってんの」
ネットサーフィンでもやってる時に見つけたんだろな。
「だーかーら、あんた一人で持ちなさい。もちろん有希は鍵を開けてもらわなきゃいけないから一緒だけど、女の子に手伝わせるなんて醜態、頼むからさらさないでよね」
ハルヒは長門の頭を撫でながら
「いい有希?もしキョンが弱音一つでも吐こうモンなら、銀河の彼方まで蹴り飛ばしてやりなさい」
できなくはない、とか言えるのが恐ろしい。
「わーかったよ!運べばいいんだろ、運べば!」
「申し訳ございません」
古泉が慇懃に頭を下げる。
「いいよ、どうせお前の役回りも荷物持ちだ。せいぜい腕がちぎれない程度に買い物を抑えてもらえ」
「お気遣いありがとうございます。善処いたしましょう」
「それじゃあたしたちは早速いってくるから、キョンと有希もよろしくね。キョン、二人だからって有希にいたずらしちゃダメよ!」
いらん世話だ。
「キョンくん、お願いします。がんばってくださいね」
ええ、あなたの応援があれば俺はアトラスの代わりに天を支えることをも厭いません。
んで、話は冒頭に戻る。
坂を下りきった途中長門がコンビニに行きたいとのたまい、近場に手頃な店がなかったので商店街によることにした。
長門はスーパーマーケットに入っていき、俺は店の外で休憩がてら待つことにした。手がびりびりいってやがる。
「……」
この三点リーダは俺のもんだ。
街はどこかの団長様の脳内同様すっかりクリスマス一色であり、ジングルベルやら何か聞いたことのあるクリスマスソングやらが漂い、きらびやかなシグナルがあちこちで踊っている。
向かいのケーキ屋ではトナカイの格好をした売り子が必死に宣伝をしていて嫌なものを思い出した。そういうもんはサンタの格好でやりやがれ。
ふと、記憶が忘れてしまいたいデジャビュを通り過ぎた。
「そういや、あれからもう一年か……」
そんなつもりはなかった独り言は、白い煙と共に消える。
直後、長門が音もなく店から出てきた。手には大量のレトルトカレーとキャベツ。
コイツは、手間がどうこうというより、普通にこれが好きなんじゃないだろうか。
「んじゃ行くか」
首肯。
商店街を抜けると辺りはもう真っ暗になっていた。光の中心にいるとそれがわからないもんだな。
俺は再度振り返って長門を見た。別になんのことはない。ただ喧騒にさっきまで包まれていた分、急に自分の鼓動が聞こえて驚いただけだ。
長門の肩越しに街の灯が揺れる。逆光で表情はよくわからなかったが、おそらくは俺のよく知る長門で間違いない。
俺は歩を止め、長門が並ぶのを待った
「なあ、長門」
風は、やんでいた。でも、寒かった。
「なに?」
顔を上げるだけでなく、ちゃんと言葉を使ってくれたことに、どうしてか気づいた。
「あれから、一年だな」
「そう」
「もう、無理はしてないか?」
「してない」
二人の言葉は白く白く響く。そしてここから去っていく。
「でも」
でも
「……エラー、の発生は継続している。その処理には今のところ問題はない。」
囁く声を途切れさせぬようとしているがごとく、長門は言葉を紡ぎ続ける。
エラー、という言葉を使うのに抵抗を感じたかどうかはわからない。
ただ、その部分が遅く聞こえた。
「ただ、これからも、問題が起こらないという保証はない。わたしの異常動作の可能性も否定はできない。情報統合思念体の」
たどたどしくも言葉を、白い息を吐き続ける。
まるで素人がピアノを弾くように。
「バカ野郎」
ちなみにこれ、俺な。長門がこんな口が悪くなったらいやだ。
いつのまにか下を向いていた長門の顔が、再びこちらを見上げた。もう逆光はない。
「俺は、俺たちはおまえがどんなになったって助けるって言っただろうが。俺たちはおまえを頼りにしてる。だから、お前も俺たちに頼ればいい」
ああ、またでかいこと言っちまった。さんざん口先だけで終わった前例があんのに、いつもいつもその時だけは総てを護れる気でいる。
人が背負ってるものなんて軽くはないのに。
でも、長門は
「そう」
まるでその言葉を待っていたように、というのは思い上がりだろうか、とにかく返した。
やや高めの温度で。
二人を包み込む沈黙。
商店街から長門のアパートまではそう遠くないはずだが、まだ半分も来ていなかった。
しかし、その伸びた時間が、俺にはたまらなく心地よかった。ツリーの重みも冬将軍も、薄れていた。
幸せな時間は長くは続かないというが、長く続く時間が幸せということはあるようだ。
商店街の飾りと対照的な光を放つ街灯の下、俺と長門の靴音が重なる。
まだ何も知らなかった、去年の十二月十八日。
隠れていたものが見えた、十二月十九日。
背負うものが増えた、十二月二十日。
俺にもコイツにも、それらはすっかり当てはまるのではないだろうか。
そんな事を考えていると、視界の端に何かが映った。
間髪入れずに次がきた。俺は天を仰いだ。
「雪……」
呟きは大量の綿雪と交錯して消える。街灯は次々と白を映し出す映写機へ様変わりしていた。
普段は雪なんて寒くてだるくてやってられないが、今日はなぜだかわくわくする。
昔の俺は、いつもそうだったんだろうか。
すると、ふと雪がやんだ。しかし遠くの方では白が築かれていく。
みると、長門はいつのまにか鞄から折り畳み傘を出し、俺の頭の上にのせていた。傘のカーブに綿雪が降り積もる。
「長門……」
正直死ぬほどうれしかったのだがしかし、当の本人は雪ざらしのままだ。コートの肩が白く染まっていく。
男としてそれは見過ごせない。
俺は腹を切る思いで告げた。
「長門、非常にその心づかいは嬉しいのだが、おまえが寒いのはダメだ。俺はいいから自分に使いなさい」
「まかせて」
その言葉の使い方は間違ってないか、という前に、長門は半身になって俺に身を寄せてきた。カレーとキャベツの入った袋とカバンが俺の背中に当たる。
うう。その体制は、じゃなくて体勢は非常につらい。なにがつらいかって、顔は近くなるわ腕に胸はくっつくわ。
しかしどでかい箱を抱えた状態で何ができるわけでもないので、俺はおとなしく従うほかなかった。
落ち着いてみれば、これほど麗しい状態も中々に堪能できない。この際だ、心ゆくまで堪能させてもらおう。
「雪……」
今の状態が俺の人生幸せランキング何位だろうかと思案していると、長門が不意に呟いた。
白の吐息が前を霞め、孤独にのぼっていく。
我に返ると、あれほど激しかった雪もすっかり途切れ途切れになっていた。
にわか雪、っていう言葉はあるのかな。
もうすぐ長門のマンションにも着きそうだ。
「……」
長門は、――これは俺の欲目だろうが――名残惜しそうに傘を畳んで鞄にしまった。おーい、びしょ濡れだぞそれ。
そして左手に鞄とスーパーの袋を持ち、右手を二、三度握ってはひらいた。
ずっと外気に触れていたそれは真っ赤になっていた。普段の長門からは絶対に見られない色だ。
コイツも寒いとか思うのかな。
長門はコートのポケットに手を――
――どうせなら、幸せランキングぶっちぎりの一位にしないか?
頭の中で囁いたのは、天使か悪魔か。
俺はツリーの箱を無理やり右手で抱える。うはっ、重っ。
そして
キュ
「……」
あいた左手で、長門の右手をそっと握った。
冷たいものがこれほど気持ち良く感じたことはない。真夏のコンビニが冷たいものランキング一位だったが、どうやらその記録までぶっちぎってしまったようだ。
我ながら、思い切ったことをやったもんだ。多分今、俺の顔は寒さや重さだけの理由ではなく真っ赤なはずだ。
これで振りほどかれたら悲しいな〜、なんて縁起でもないことを考えていると
「……」
いつか感じた、まるで生まれたばかりのハムスターをつまみ上げようとしているような、小さな力。
幸せだなぁと、迂闊にも思ってしまった。
だってそうだろ?
ピンク色の雪なんて、そうそう見られるもんじゃないぜ。
「長門」
「なに?」
さっきと同じやり取り。手は繋いだままで。
「おまえは、黙って消えるなよ」
止んでしまった白を思い出し、切にそう思う。
命令でなく、確認でなく、祈りに似て。
「わからない」
「わたしはわたしの異時間同位体との同期を遮断した。未来を知ることは不可能」
届かないものが、祈りだとでも言うんだろうか。
「でも」
でも?
握る力がウサギくらいになる。
「わたしはここにいる」
街灯に照らされ光る白いコトバ。
これもまた、コイツがいつか言った言葉。
でも今回は、誰の代弁でもなく、明かなる自分の意思表示。
あくまでも現実に根ざした分析の下、やっとひねり出した、最大限の譲歩。
自分には明日さえも誓えない。でも、今この瞬間だけは誓える。そういう、ギリギリの光。
「そうか」
「そう」
俺たちはマンションにつき、手を放した。
再びちらつき出した雪に振り返り、長門はエレベーターのボタンを押した。
扉が閉まる。
いっそのこと長門の部屋が七百八階にあればいい、とか思いながら、俺は防犯カメラを眺めていた。