――これは、世界をひっくり返すトンデモパワーを手に入れた涼宮ハルヒという爆弾女と、  
キョンという間抜けな仇名を持った平凡な俺と、宇宙的未来的超能力者的な仲間たちとが織り成す、  
突っ込み所満載の関西ギャグ物語。  
 
 野生動物対野生児の激突から一夜明けた翌日の放課後、見慣れないボードゲームの盤面を挟んだ  
俺の対面に座る制限付き超能力者の古泉一樹は、爽やかな笑みを浮かべて申し訳なさそうに詫びを  
入れるという器用な芸当を俺に披露してくれていた。  
 「……それは大変な目に遭った事ですね。この近辺でイノシシが極ありふれた動物であっても、  
やはり危険動物である事には変わりありません。その危険因子を涼宮さんから排除できなかった事は  
『機関』として真に遺憾な話です。今後は涼宮さんが登下校される時イノシシに襲われないよう、  
お望みなら『機関』は全力を挙げて山狩りをする事を約束しますよ。その時は山に一個軍団ほど投入  
する事も、『機関』の力をもってすれば簡単です」  
 発音こそ明瞭で爽やかな印象を与えるが、セリフ回しは無駄にクドい。これが古泉の話し方だ。  
 部室で俺の説明を聞く前に、こいつも噂ぐらいは耳にしてる事だろう。昨夜学校近くの住宅街で、  
キョンという間抜けな仇名の男が女の声で罵倒されていた、という噂だ。ライダーとかヒーローとか  
臭いとかエロキョンとか視姦とか獣欲の限り汚して犯して嬲り倒すといったハルヒの罵声は、  
俺が危惧した通り周辺住民の耳に届いていたらしい。それでもって今朝までには、北高の全生徒に  
知れ渡る結果となってしまった。  
 物騒な単語が飛び交っていたはずなのに、どうして誰も警察に通報しなかったのか。それとも  
SOS団の悪名は、俺の知らぬ間に随分前から学校外にまで広まっていたのか。考えるのも恐ろしい。  
 登校して自分の席に座り、後ろのハルヒに一声掛けようと振り向けば、うちのクラスの全員が  
遠巻きに俺とハルヒを眺めてやがった。連中のざわめきの中から、第二位とダブルスコア以上の  
差を付けて最も多く聞こえた言葉は何だと思う。「ついに」だとよ糞忌々しい。  
 素数とその倍数と1のつく数の時だけアホになる、つまり常にアホな谷口なんか、  
「キョンなんぞに先に童貞卒業された」とかほざきながら泣き喚いていたな。机に突っ伏した  
奴の後頭部を、当然のように思いっ切り殴ってやった。  
 さよなら俺の平和な人生。一年ほど前に俺の手を離れて無限遠点まで行っちまってたそいつが、  
とうとうこの世から存在ごと消滅してしまった。再び俺の手に戻る機会はもう永遠に訪れない。  
呼び戻すのは死者を蘇らせようとする愚行に等しい。せめて今は過ぎ去った美しい平和な日々  
という奴に哀悼の意を捧げてやろう。  
 「おめでとう涼宮さん」と歩み寄った佐伯と阪中から祝福を受け、赤面して硬直するしかなかった  
ハルヒのマヌケな姿に、僅かながら溜飲を下げたものだ。一矢報いた感はあるが所詮一矢は一矢、  
致命傷じゃない。相討ち共倒れどころか、俺の受けたダメージの方が遥かに大きかったんだが、  
その辺をあいつは理解しているんだろうかね。ところで『佐伯』『阪中』って、あいうえお順では  
『涼宮』に近いよな。二年にもなって積極的に話す女子がそれって、ハルヒの奴今ごろ新入生かよ。  
 「いい加減にあなたも気付いていい頃でしょうが、涼宮さんの動揺も相当のものだったと思います。  
それでも僕から一言、祝福の言葉を述べさせて頂いても宜しいでしょうか」  
 心底楽しそうな爽やかハンサムスマイルを俺に向けて古泉は言った。うるさい少しは黙れ古泉。  
お前の後ろで黙々と本を読む長門の態度を少しは見習ってもらいたいね。  
 「そうですね。僕には彼女の心が読めませんが、長門さんが今日読んでいる本はよっぽど  
面白いんでしょうね」  
 お前もそう思うか。今日の長門はいつになくページを早く捲るもんな。三十秒に一度ずつ紙を捲る  
長門だが、宇宙人のあいつがその気になれば、秒間数ページを一気に視覚情報として脳裏に  
焼き付けるのも朝飯前である。敢えてゆっくりと読書に勤しむあいつは、月並みな表現だが  
心から本を愛しているんだろう。  
 
 ところで改めて訊くが古泉、たかがイノシシ相手に一個軍団投入する『機関』って何なんだよ。  
大体軍隊を動かすのにどれほどのヒトモノカネが必要だと思ってるんだ。費用対効果で言うなら、  
地元の猟友会に頼む方がよっぽど安上がりで確実だと子供でも解るだろ。それでも軍隊使うのか。  
生徒会選挙の時にやったアホな規模の現ナマ実弾投入といい、どんな組織なんだよ全く。  
 ああ『機関』の成り立ちや基本思想は前に聞いたから結構だ。そうじゃなくて、例えば普段は  
ハルヒの子守以外にどんな活動をしてるんだ。せめて組織の正式名称ぐらい出さないと、どっかから  
突っ込みが入っても俺は知らん。それこそハルヒが巡回してる動画サイトで偶然発見した、  
グランドチャンピオンとか四万十川料理学校とか頭頭<<トウズ>>とかと同レベルのネタ設定にしか  
ならないぞ。関係ないがハルヒの奴、そのサイトのログインパスを俺の本名に設定してやがったな。  
冗談のつもりで試したら一発で割っちまった。  
 「『機関』は『機関』ですよ。それで僕もあなたも、僕たちを知る人々も全く不自由しない。  
何の問題がありますか?」  
 前々から森さんや新川さんたちが普段どんな仕事してるか疑問に思っていたんだが、今ので解った。  
あの人たち普段はお笑い芸人やってるのか。やっぱり大手お笑い興行会社なんだなお前の親玉は。  
さぞかし薄給で苦労してるんだろうよ、お前も森さん新川さん多丸さんも。キャシィ塚本先生の  
サイン辺り、お前の親玉なら頼めば用意してくれそうだな。  
 「容易な事です。『機関』は例の興行会社にも顔が利きますのでね。おっと、今のはシャレの  
つもりで言ったんじゃありませんよ」  
 そう弁解した古泉は、笑顔のまま無駄なまでに白い歯を輝かせてみせた。爽やかだなお前。  
クソ寒いダジャレよりも、今のお前の爽やかな仕草の方がギャグとしてちゃんと機能してるぞ。  
 「お褒め頂いて光栄です。なにしろ僕は道化師を演じなければならない身ですからね。最高の  
賛辞を頂きました」  
 ああ全くその通りだ。爽やかさも度が過ぎるとコテコテのお笑いにしかならない。お前の  
キャラクターがそうだ。お前は爽やかさが売りのボケ担当だ。  
 「それは涼宮さんが望まれたからですよ。爽やかなイメージの転校生、いや元転校生と言うべき  
でしょうね。もう転校生属性は失われてしまいましたが、とにかく涼宮さんにとっての爽やかな  
イメージだけは維持しなければならないんですよ。いやはや辛い所です」  
 辛いとか何とか言っておきながら、古泉は爽やかな笑顔を崩さない。尊敬に値するプロ芸人根性だ。  
 
 話は少し横に逸れるが、ここでコアな地方ネタについて語ろうと思う。  
 俺たちの住む地域で土曜昼からオンエアされる喜劇番組では、たまに首都からやって来た爽やかな  
青年役の芸人が登場する。その爽やかな青年役は、舞台の常連出演者や観客に向かって、これでもか  
これでもかと己の爽やかさを執拗にアピールするのだ。これは爽やかさを強調するギャグなのだが、  
他所では絶対通用しないし、解らん人には絶対解らん。俺もこの手のベタでクドいギャグは好かん。  
 だがハルヒの転校生に期待するイメージというのは、正にこの手のコテコテな爽やかさなのだった。  
古泉の言動はそのイメージに沿った物にすぎない。何だかんだ言ってハルヒも、小学生ぐらいまでは  
例の興行会社の喜劇を毎週観て育った子なんだな。  
 
 それよりもだ古泉。物語の復習も終わった事だし、いい加減に話を進めよう。  
 「『機関』は『機関』ですよ」  
 それは今さっき聞いた。天丼ギャグは御腹一杯だ。  
 「……続けさせて下さい。『機関』は『機関』、僕は僕です。常に全ての考えが一致するとは  
限らない。僕個人の意見としても、山狩りなんて必要ありません。実際に涼宮さんは、あなたに  
迫ったイノシシという危険をご自分の力で追い払った。野生動物程度の危険など、涼宮さんの  
例の力の前では大した障害にはなりませんよ。涼宮さんに対するその位の信頼感というものなら、  
この一年ほどの間に僕にも備わって来たという自負はあります」  
 ちょっと待て古泉、今ハルヒの力と言ったな。じゃあ何か、ハルヒがイノシシを追っ払ったのは、  
ハルヒのトンデモパワーが炸裂したからなのか。鳩が全部白くなったり、みっみっミクルビーム  
だったり、秋なのに桜満開サクラ子爵だったり、シャミセンがバリトンの利いた『ええ声』で喋ったのと  
同じ現象が発生したとお前は言うのか。  
 
 「おや、違うと仰るのですか?あなたの話によると、涼宮さんは母イノシシに何か話しかけていた  
らしいじゃありませんか。動物に言葉を喋らせる事が可能なら、人間の言葉を動物に理解させるのは  
もっと容易い事です。そうは思いませんか?」  
 気が付いたら俺の視界一杯に、古泉のニキビ一つシミ一つない色白な爽やか笑顔が広がっていた。  
男の癖にモチ肌だなんて、どこまでも爽やかだなお前。分かったから、爽やかさを強調せんでいい。  
顔を近付けるな。口からモンダミンの香りがするんだよお前は。香りの強さだと、部室に来る直前に  
お口クチュクチュやってたみたいだな。爽やかキャラの為にはそこまでやるのかよ。ギャグのつもり  
なら止めとけ。他所に行ったらゲイに間違われても文句は言えんぞ。  
 「別に構いませんよ。要は僕の本質である、道化師としての役割さえ理解して頂けるなら  
それで十分です。僕が同性愛者か異性愛者かという問題は、道化師という僕の本質の前には  
大した事ではありません」  
 芸の為ならゲイ扱いも厭わぬか。古泉お前こそ真の芸人だよ。何なら俺からお前の親玉に、  
お前のギャラを上げてくれるよう頼んでやろうか。それ位してやってもいいと認めてやるから、  
とにかく顔を離せ……  
 視界一杯に広がった爽やかなニヤケスマイル、というビジュアル的には毒物でしかない物から俺を  
救い出してくれたのは、横から俺の鼻先に突き出された専用の湯呑だった。  
 
「……はいキョンくん、お茶です」  
 耳を優しく擽る天使の声に惹かれて見上げれば、メイド姿の天使が俺に微笑みかけていた。  
朝比奈さんだ。なんでこの人部室にいる時はいつもメイド服なんだろう。キャラ作りの一環だと  
ハルヒは言ってたが、それでも学校にメイド服という組み合わせはコテコテすぎるだろう。  
朝比奈さんは何をお召しになっても見目麗しいお方だし、メイド服も最高に似合ってらっしゃるから、  
間違っても疑問を口にする事はないが。  
 古泉の十分の一程度の適度に爽やかな笑顔、つまり自分にとっての精一杯の爽やかさでもって、  
愛らしい上級生メイドさんに微笑み返す。朝比奈さん、今日は笑顔が一段と素敵ですよ。  
 「ありがとうキョンくん。でも褒めてもお茶ぐらいしか出せないわよ。熱いから気を付けてね」  
 すみません朝比奈さん、男は女の前では道化にもなれるんです。お茶ぐらいって、朝比奈さんに  
淹れて頂いたお茶こそ、人類の至宝に喩えるべきです。温度、濃度、手に心地よい茶器の重み、  
いずれも素晴らしい朝比奈茶を是非とも頂きましょうぞ。湯呑を受け取ろうとして、朝比奈さんの  
細くて華奢な指に触れる。「きゃっ」と愛らしい声を上げる朝比奈さんが先輩だなんて、  
事実とはいえ未だに信じられない。  
 湯呑の中から湯気とともに立ち昇るふくよかな煎茶の香りとを味わって、おもむろに一口啜る。  
うむ美味い。今日の茶はいつにも増して美味い気がしますよ朝比奈さん。もしかして何かいい事でも  
ありましたか。  
 「もう、キョンくんったら全然素直じゃないのね」  
 古泉にも湯呑を渡しながら、朝比奈さんは俺を振り返って少し拗ねてみせた。全然恐さを感じない。  
むしろ嬉しそうに年下の男の子をからかっているようにも見えて、本当に愛らしいお方だ。  
 すみません朝比奈さん、俺のどこが素直じゃないのか全然分かりません。ですがあなたが喜ばしく  
思う出来事であれば、俺もそれを心から喜びましょう。だから教えて下さい。俺は何に対して  
素直になればいいのでしょうか。  
 「うふふ。分かってるクセに。キョンくんも、ようやく自分の気持ちに気付いたんだなって……」  
 紙の捲れる乾いた音が、俺を至福の一時から呼び醒ました。  
 
 小さく悲鳴を上げて朝比奈さんが縮込まる。音の発生源に目を遣れば、長門がパイプ椅子に  
座ったままハードカバーに目を落としている。長門の姿には、特に普段と変わった点は見られない。  
 だが朝比奈さんは、猛獣と遭遇して怯える小動物のように、おずおずと俺と古泉の下から離れて  
行った。前から思っていたんだが、やっぱり朝比奈さんは長門が苦手なんだろうか。もしかしたら  
俺の知らない所で、宇宙的未来的な確執でもあるのかね。平和な日常の中では忘れがちだが、  
古泉も腹に一物抱えてそうな親玉に仕える身の上だ。本人らの感情は別にして、それぞれの親玉の為  
に三つ巴の戦いを繰り広げている事もあるだろう。  
 まあ仮にそうだとして、俺には誰か一人に肩入れする気はない。皆大切なSOS団の仲間だからな。  
 気を取り直して茶をもう一口啜る。明日の気温も平年を上回ります、なんて前日の天気予報では  
そう言ってたが、森田さんも二日連続で予想を外す事もあるもんだね。夕方になって冷えてきたのか、  
熱い朝比奈茶の有難みが普段の三割増しに感じられる。  
 「朝比奈さんのお茶が美味しい、という意見には僕も賛同します。しかしそんなに寒いですか?」  
 古泉は俺に言うと、手にしていた湯呑を奴が持って来たゲームの盤面脇に置いた。ふっ、と吐いた  
爽やかな溜息が如何にもワザとらしい。絵柄的にシュールだ。悪い事は言わないから止めとけ。  
明らかに爽やか路線のやり過ぎだ。  
 「職業病だと思って頂きたいものです。話を続けましょうか……」  
 さらりと流しやがった。まあ良いだろう、俺もお前の爽やかさを語るのに飽きて来た頃合だしな。  
 「動物が人語を解するという事が、現実的な考えだと思いますか?ましてや相手はイノシシです。  
我が子を守る為には、野犬を殺し人間を病院送りにする事も厭わない危険動物ですよ。我が子を  
害する恐れのある相手に、わざわざ睨めっこ勝負なんて仕掛けますか?その間子供は無防備に  
なるんです。わざわざ子を危険に晒す可能性の高い選択肢を採るより、手っ取り早く相手を  
攻撃する方が合理的でしょう。例えばそう、あなたを……あなたが話してくれた内容は、  
もしかしたらあなたが負傷入院するという物語に上書きされた出来事なのかもしれません。  
他ならぬ涼宮さんの手によって」  
 という事は何か。イノシシが睨めっこ勝負の土台に立ってくれたのも、ハルヒがトンデモパワーを  
発揮した所為だと言うのか。本来の俺は今頃病院のベッドの上で朝刊の地方欄を開き、その片隅に  
ひっそりと目立たない記事になって掲載された自分の本名を間抜け面で眺めている筈だって、  
古泉お前はそう言いたいのか。  
 ギャグだとしたら最低だ。極くありふれた野生動物一匹の為に世界は改変されましただなんて、  
それこそ最低のブラックジョークじゃないか。ハルヒの気迫が母イノシシに通じたと考えた方が  
まだマシだ。何があいつに猛獣との睨めっこに勝利する程の気力を与えたのか、俺には到底想像も  
付かないがね。  
 悪いが俺は賛同できない。お前の話には根拠がない。イノシシにとっての合理性を根拠に挙げる  
つもりなら、無用な戦いを回避するのもまた合理的な選択肢じゃないか。母イノシシが死んだら、  
親離れもできていないウリボウはどうなる。野垂れ死には避けられん。動物はシビアな野生の世界に  
生きているんだ。子供さえ無事なら、自分から攻撃を仕掛けるなんてリスクの高い行動を避けるのも  
賢明な判断だ、と主張できるだろう。  
 だいたい俺と古泉のどっちが正しいのか、誰も証明できないんだぞ。お前の方が俺より正しいと  
言い張るつもりなら、何か証拠を出せ。ハルヒが変態パワーを使ったと、俺も認めざるを得なくなる  
確かな証拠をな。  
 古泉の奴は、目だけ0円スマイルを保ったまま唇を窄めやがった。お前意外と負けず嫌いなんだな。  
 
 古泉の奴は、目だけ0円スマイルを保ったまま唇を窄めやがった。お前意外と負けず嫌いなんだな。  
 「確かにあなたの仰った通り、僕は涼宮さんが能力を使ったという確証までは持っていません。  
なにしろ例の空間も発生しませんでしたからね。あなたは既にご存知ですから釈迦に説法といった  
具合ですが、あの空間は涼宮さんが……」  
 皆まで言うな。あの変態空間は、あいつの機嫌が極限まで悪くなった時にしか発生しない。しかも  
お前の超能力は例の空間が出ない事には発動せず、その場合お前は俺と同じ一般人にすぎない。  
現に映画の時だって、怪奇現象が実際に発生するまではハルヒの異変に気付かなかったじゃないか。  
 などと俺が反論している間に、古泉の奴は盤面に目を落として駒を進めていた。逃げたなこいつ。  
そんな俺の考えを見透かしたようなタイミングで、古泉の野郎は盤面から顔を上げ爽やかにニヤケて  
みせた。ええい爽やかだな。  
 「お互いに根拠のない主張を譲り合わず、水掛け論に終始するのは僕の望む所ではありませんので。  
それでも僕としては、涼宮さんが力を発揮してくれた、と信じたいのですよ」  
 なら勝手に信じていればいい。だがな古泉、どうしてお前はハルヒの力が発動したという事にした  
いんだ。  
俺としては物語の上書きだなんて物騒な話は御免蒙りたいんだが。  
 「涼宮さんの言葉を借りるとすれば……そうですね、彼女ならこんな風に言うんでしょうか」  
 古泉は盤面から顔を離して俺を向き、額に掛かった前髪をこれ見善がしに指先で掻き上げて言った。  
 「『そっちのほうが面白いじゃないの』」  
 
 どうです、と言わんばかりに首を傾げた古泉を無視して、俺は再び湯呑を手にした。  
 まったくハルヒ語録に古泉のクドい爽やかポーズが加わったら、本当に悪趣味でしかない。  
これじゃ強大な力を持て余し遊び半分で弱者を虐げる、自意識過剰な悪役みたいだよ全く。  
 しかし今のハルヒの口真似だが、抑揚や発音が恐ろしくあいつの特徴を捉えていたのには感心する。  
良くも悪くも古泉一樹は、この一年でSOS団に馴染んで来たって事かね。ある種の感慨と共に部室  
を見渡し、朝比奈茶をもう一口啜る。  
 ……ふむ、濃ゆい。  
 お茶の話じゃなくて、部室の面々を指して言ってるんだ俺は。  
 下らないボードゲームに興じる爽やかイケメン、その後ろでパイプ椅子に腰掛けて規則正しく  
紙を捲り続ける小柄な無口少女、さらにいそいそと茶菓子まで用意してくれる、部室専属の愛すべき  
巨乳メイドさん。宇宙人未来人超能力者という非日常的な情報を無視してなお、俺の目に映る  
日常的な彼らの姿は三者三様に強烈な個性を放っていた。しかし統一感がなさすぎる。  
 不思議な要素萌え要素を、これでもかこれでもかと過剰に詰め込んだ結果、出来上がったあいつの  
望む世界は、不気味なまでに関西特有の極彩色で強調されたライトノベルだった。そんな趣さえ  
感じられるが、しかしこういうコテコテな光景に日々の安らぎを感じる辺り、俺もハルヒと  
根は同じなんだろうな。断じて認めたくないものだが。  
 いや朝比奈さんのお茶も濃いぞ。以前に俺は濃い味の茶が好きだと朝比奈さんに伝えた事があるが、  
その翌日から朝比奈さんは健気にもお茶を濃い目に淹れてくれるようになったのだ。その心遣いが  
嬉しくて、俺は前にも増して茶をゆっくり味わって飲むように心がけている。文字通りの喫茶という  
奴だな。  
団長の好み?そんなの知らん。どんなに高い茶も三秒で飲み干すハルヒは、この俺よりも茶に暗い。  
だが気配りの出来る朝比奈さんの事だ。勢いよく飲んで舌や喉を火傷しないよう、団長には薄くて  
温めに淹れるという、石田三成のような努力を俺の知らない所で払っているのかもしれない。  
 
 「あなたの番ですよ」  
 俺が愛らしい上級生について考えを巡らせようとする機を見透かしたように、古泉は持っていた  
賽子を俺の鼻先に突き付けた。掌に載せていたのならまだ許そう。だが親指と人差し指で賽子を摘み、  
顔を傾けて爽やかに微笑むのは格好の付けすぎだ。視覚的な毒物なんだよお前のスマイルは。  
お前俺に何か恨みでもあるのか。それとも愛らしい朝比奈さんに想いを馳せるのがそんなに  
悪い事なのか。  
 「それが『想いを寄せる』の言い間違いでない事を切に願いますよ、僕は」  
 お前は余計な事を言うな古泉。仮に俺が朝比奈さんに想いを寄せていたとしても、お前に  
とやかく言われる筋合はないだろう。恋愛は個人の自由だ。他人の恋路を邪魔する奴は、  
馬に蹴られて死んじまえ。  
 古泉は肩を落として爽やかに溜息を吐くと、力なく首を横に振った。俺何か変な事を言ったのか。  
 「あなたが本当に平穏な日常を望んでいるのか、考えれば考えるほど疑問が深まりますね。  
先程あなたは僕の意見を物騒だと仰いましたが、僕に言わせればあなたの方が遥かに危険な  
思想の持ち主です。この話が涼宮さんの耳に入ったら、世界がどうなると思ってるんですか。  
人知れず世界を守るヒーローとしての努力が、あなたの不用意な一言で全部台無しになるかも  
しれないと考えると胆が冷えますよ」  
 そうだろうな。今日はやけに冷えるもんな。  
 「やれやれ」  
 今のは俺ではない。古泉の奴が俺の口癖をマネたんだ。一年も付き合っていると、余計な癖まで  
伝染るんだろうかね。深呼吸して姿勢を直した古泉の笑顔に、何か諦観の念が込められていたような  
気もする。  
 「涼宮さんの話題を僕とやり取りする時だけ、あなたは僕の役割を平気で取り上げるんですね。  
あなたがそういう人物なのは存じ上げていた筈なんですが。まあいいでしょう。今はゲームの  
時間です」  
 そうゲームだ。古泉が持ち込んだこのゲームだが、つい遊ぶのを忘れてしまう程つまらん  
代物だった。古泉ならもっと気の利いたゲームを持ち込む筈なんだが、今日に限って何故  
こんな物を持って来たんだ。  
 「どうしたらあなたに勝てるのか、ずっと考えていました。そしてある結論に達したという訳です。  
将棋であっても運の要素が新しく加われば、勝負に紛れが発生します。運を味方に付ける事に成功す  
れば、ひょっとしたら僕が勝つかもしれません。それでこのゲームを持ち込んだんですよ」  
 なるほどそういう思惑か。古泉にしては考えたなと感心する一方で、その運とやらに見放されたら  
どう仕様も無いなという、そんな二つの思いを胸に秘めて奴から賽子を受け取った。  
 「御健闘をお祈りします」  
 そりゃどうも。俺が振った賽の目は四。続いて回したルーレットの針は、ピンク色に区切られた  
枠を指して止まった。まずまずの出目といったところか。  
 「いえ、中々に効率的ですよ。出目を無駄にしなくて済みますからね」  
 古泉を無視してピンクの駒を四個だけ進める。一応言っておくが四マスの間違いじゃない。  
駒を四個だ。  
 自分の番が終わり、古泉に賽子を手渡す。無駄に軽やかな手付きで賽子を受け取った古泉は、  
指に摘んだそいつを祈るようなポーズで額にかざした。なあ古泉、それ必勝祈願か何かのつもりか。  
 奴の出目は六。  
 いい出目じゃないか、と喉の奥まで出掛かった励ましの言葉は、得意げな爽やかスマイルの前に  
霧散する。大きく腕を振り、これまた大袈裟な動作でルーレットを回す古泉。針が指した色は、  
無情にも歩の一個しか駒のないまつざきしげる色。  
 何だよまつざきしげる色って。おかしいだろこのゲーム。  
 古泉の奴は案の定というか、0円スマイルを保ったまま唇の端だけを歪めて苦笑い、なんて  
使い道のほとんど思い浮かばない器用な芸当をやってのけた。  
 
 芸はいいから早くそのまつざきしげる色の歩兵を動かせ。悩んでも覆水盆に返らず、  
出目をやり直す事は出来ない。負けず嫌いのハルヒでさえ、最近じゃこんな下らない事で  
世界を引っくり返す暴挙には出ないぞ。早くしろ時間の無駄だ。  
 そもそもこの狂ったゲームを持ち込んだのは古泉、お前だ。このクソゲーの製作者が  
何を考えてチェスや将棋の駒数を敵味方百個ずつに増やしたのか、その将棋に賽子と  
ルーレットなんて運要素を付け加えたのか、何でまつざきしげる色なんて色があるのか、  
俺には理解できないし、また理解したくもない。  
 こんな突っ込み所だけで構成されたゲームを部室に持ち込んで俺を誘ったのはお前だ。  
最後まで付き合ってやるから、お前も白黒付くまでこのゲームをきちんと全うしろ。  
 爽やかな笑顔を保ちつつも、賽の目とルーレットと盤上の駒とを未練がましく見比べていた  
古泉に見切りを付け、俺は奴の背後でハードカバーに目を落とす長門の姿を視界に捉えた。  
 おい長門――  
 
 長門は俺の呼び掛けには応じなかった。読書に集中していても、長門は注意力を失う奴じゃない。  
絶対に聞いている筈だと分かっていたので、もう一度長門に話しかけた。たかが駒一つ動かす事も  
出来ずに固まっている古泉は、ここらで一旦視界からご退場願おうか。  
 長門、長門さん。読書大好き長門さん。昨日俺が遭遇した災難について、是非意見を聞かせてくれ。  
長門はパラパラと捲れるハードカバーに目を落としたまま、唇だけを動かして淡々と語ってくれた。  
 「情報統合思念体は、涼宮ハルヒによる情報の改変を観測できなかった。私も情報に対して改変が  
行なわれた痕跡を感知していない。恐らく情報の上書きが行なわれた可能性は極めて低いと  
考えられる」  
 だろうと思ったぜ。古泉の冗談とも本気とも付かない戯言よりも、長門の簡単な説明の方が  
ずっと親切だ。あいつは憶測で物を言うが、長門は基本的に事実を述べる。何か意見を付け加えるに  
しても、必ず事実を元に考えを展開してくれるから、自分の頭で良し悪しを判断する事もできる。  
つまり聞き手にとってフェアな物言いなんだよな、長門の喋り方って。情感に乏しく聞こえても、  
中身の薄い古泉の発言よりはずっと参考になる。ありがとう長門。お前の解説は世界一、  
いや宇宙で一番的確だよ。  
 「ただし……」  
 ただし何だよ。長門にしては引っ掛かりを覚える物言いだ。言いたい事があるならハッキリ言え。  
俺の声に促されてか、それとも自分から言いたかったのかは判らないが、とにかく長門は高速機械  
――名前は思い出せないが、銀行とかに備えてある紙幣を数える為のアレだ――のようにページを  
捲りながら珍しく饒舌な口調で話を続けた。  
 「涼宮ハルヒの行なった情報改変が、彼女自身が個体として持っている能力に上乗せされる形で、  
ごく僅かに発動された可能性も残されている。この世界に科せられた物理的な制約情報を変更せず、  
かつ情報改変による世界への影響が誤差範囲に留まる場合は、情報の改変量が私たちインター  
フェースの検出限界を下回る。その結果として、私たちが情報改変の有無を感知できなかったという  
事態も、可能性として完全に否定まではできない。その仮定をもとに推測を進めると、涼宮ハルヒが  
自身の情報干渉能力に気付いた可能性がある。情報統合思念体の気付かない内に、彼女が自律進化を  
遂げていたとしたら、彼らはそれを感知できるレベルまでインターフェースの能力を向上させようと  
するだろう」  
 
 パタリ、とハードカバーが閉じられる音がした。普段なら団活の終了を告げる合図なんだが、  
まだ団長も登場していない。長門は残りの時間をどうやって暇潰しするつもりなんだろうか。  
もしかして今日はもう一冊ぐらい読むつもりなのかね。  
 両手に閉じた厚物を固定したまま、長門は微動だにしなかった。窓から差し込む柔らかな光に  
照らされた長門の姿は、まるで一種の芸術作品だ。肖像というより、どっちかと言えば果物カゴの  
油絵に代表される静物画の印象が強いが。  
 長門よ。そのままの姿勢でいいから、俺の話を聞いてくれないかな。元々は聞き齧りの知識で、  
しかも親友の受け売りだ。その親友も、元はある大学の先生のブログから引用したと言ってたな。  
退屈なのは分かっているが、ほんの少しだけ付き合ってくれ。ハルヒの反則能力や、お前の親玉の  
事情云々は別として……  
 
 『有る』ということを証明するのは簡単だ。たった一つでも例を挙げれば、それで十分だからな。  
しかし『無い』ということを証明するのは非常に困難になる。全ての例を調べ上げ、『有る』  
という可能性を完全に潰して、それで初めて『無い』と証明した事になるからだ。  
 悪魔の証明、と親友は言ってたな。今朝俺が挑戦した数学小テストも、悪魔の証明問題だった。  
見事に玉砕したよ。谷口のアホを笑えねえ。言い訳するつもりはないが、全部の例が最初から  
与えられているなんて、現実乖離も甚だしい。  
 話が外れそうになったが、つまりはそういう事だ。お前の親玉でさえ、全ては知らないんだよ。  
さもなくば、わざわざお前を生み出してハルヒの調査なんかする訳がないからな。だがお前は実際に  
四年前この世に誕生し、そして俺たちと出会った。最強宇宙人のお前を遥かに凌ぐ高次の存在、  
言ってみりゃ神様モドキみたいなお前の親玉でさえ、『無い』事は証明できないって訳だな。  
 長門はようやく首だけを俺に向けた。どこまでも澄み渡った黒檀の瞳が「何を言っているの」  
とでも言いたげに暖まっている。ようやく俺の話をまともに聞いてくれる気になったか。いい兆候だ、  
続けよう。   
 『無い』ことを証明するよりも、別の『有る』ことを証明してから考えを組み立てて行く方が  
ずっと合理的だ。全ての例を虱潰しに調べ上げる場合より、圧倒的に素早い判断を正確に  
下せるからな。お前のハルヒセンサーに限界があるなんて初耳だったよ。だがそれでも  
普段のお前なら、見つからない物はひとまず『無い』と判断して、こんな風に言うはずなんだよ。  
 ――涼宮ハルヒによる情報改変の痕跡は見られなかった。彼女による情報干渉の可能性は  
極めて低い――  
 わかるか長門。『無い』ことにこだわる長門有希なんて、本当にお前らしくない。大体だな、  
『無い』ことを前提にした推論というのを、世間では妄想って言うんだよ。万事合理的な  
長門にしては、有り得ないまで思考が迷走しているじゃないか。おかしいよ。  
 本の読み方にしてもそうだ。お前なら十数秒もあれば、本一冊の文字情報を読み取るのには  
十分だろう。だがお前は敢えてゆっくりと読むんだ。まるで読書にともなう全ての行為を  
楽しむようにな。文字情報だけじゃない。活字の字体やインキの擦れ滲み、紙の折り目や破れ目、  
長年蓄積した染み黄ばみ、紙の表面に走る繊維の目までを、視覚のみならず触覚嗅覚まで  
動因して愛するんだ。一ページに一分ぐらい掛けて、ゆっくりとな。  
 今日のお前は色々とおかしな点が多過ぎる。お前の無愛想は出会った頃と変わらんが、  
しかしある感情がお前の無表情の下で渦巻いているのが、今の俺には判るんだよ。  
 ハッキリ言おう。長門、お前は一体何に対して苛立っているんだ。  
 
 「べつに何も」  
 無表情のまま、長門は真っ黒な瞳を俺に向けて素っ気無く言う。そのまま何分ぐらい経過したか。  
長門との睨めっこ勝負で、元より俺に勝ち目など無かった。喉の渇きを覚えたのを幸いに、俺は  
長門から目を離す。分かったよ長門、俺の負けだ――  
 淹れてから結構時間が立つのに、湯呑からは未だに湯気が立ち昇っていた。流石は朝比奈茶だ。  
冬に逆戻りしたのかと錯覚するほど肌冷えのする日は、朝比奈茶で暖を採るに限る。  
 真っ白な湯気を吐き出す湯飲みを手に取り、中身を一口含む。  
 
 氷が入っているんじゃないかと思うほど冷たい液体を、口から吹き出しそうになるのを堪えて  
何とか喉の奥へと送り込んだ。たとえ冷めても朝比奈さんが心を込めて淹れてくれたお茶だ。  
吹き出すなんて勿体無い。できるかそんな事。しかし氷水みたいに冷たいのに、なんで湯気が  
立っていたんだよ。俺が目を離した隙に、誰かドライアイスでも混入させたのか。いや違う――  
 長門、お前の仕業だな。こら目を逸らして本を開けるな。その本今さっき読破したばっかりだろ。  
ちゃんと俺を見て、俺の話を聞け。朝比奈さんの淹れてくれたお茶を冷たくしたのはお前だな。  
冷蔵庫に入れて保存してた訳でもなきゃ、朝比奈さんにも古泉にも、ここまで茶を冷やす事なんて  
できっこないんだよ。しかも冷蔵庫に入れてた訳でもない。よしんば冷蔵庫に入れていたとしても、  
たった十分足らずでここまで冷やせる事は不可能だ。こんな魔法みたいな芸当が可能な人物は、  
お前以外には部室に居ないんだよ。金田一探偵を呼ぶまでもなく、犯人はお前だ。  
 椅子を蹴飛ばして叫び終わった途端、視界に舞う無数の真っ白な粒子が長門の姿を掻き消した。  
 
 ――なんじゃこりゃあっ。  
 親父が晩酌の度に口走る、大昔の刑事ドラマにあった若い刑事の殉職シーンみたいに叫んじまった。  
間違いなく、今の今まで俺は部室にいた筈だった。黒褐色に古びた旧校舎の部室で、暖かな色の  
西日に照らされつつ、朝比奈さんの淹れてくれたお茶に舌鼓を打ち、古泉の持ち込んだゲームに興じ、  
静かに本を読む長門が紙を捲る音で時の刻みを数えるという、怠惰ながらも贅沢な至福の時間を  
満喫していた筈だった。  
 壁や窓や出入り口は消滅し、三百六十度パノラマな世界は上下左右前後水平垂直どこを見渡しても  
――  
 雪、雪、雪。  
 気が付いたら乾燥粉末みたいなサラサラに乾いたバージンスノーに膝まで埋もれ、数メートル先も  
ブリザードに霞んではっきりとは見渡せない。天井の代わりに広がった空を見上げれば、これでもか  
これでもかと降り頻る大粒の雪。森田さんでも二日連続、実質三回も予報を外すこともあるもんだね、  
ここ数日の的中率だけを論えば、良純とタメを張れるいい勝負だ。いや違う。道理で寒いと思った、  
こんな猛吹雪が吹き荒れるぐらいだもんな。じゃなくて――  
 ブリザードの勢いが衰えるにつれ、辺りの様子がハッキリと見渡せる。  
 俺の対面に座って爽やかな笑みを浮かべる少年、その後ろでパイプ椅子に腰掛け読破した本を開き  
文字に目を落とす小柄な無口少女、いそいそと茶菓子まで用意してくれる、部室専属の愛すべき  
巨乳メイドさん。  
 SOS団の団活風景が、そっくりそのまま雪山に移植されちまっていた。主人不在の団長席には  
三角の役職プレートに、去年の今頃は最新機種だったデスクトップ。あああんなに雪まみれに  
なっちまって、低温と湿気で本体が駄目になっちまう。ウェブ閲覧に興じる癖にウィルスも  
スパイウェアもロクにチェックせず、定期的なファイルの整理もディスクの最適化作業もせず、  
それどころかクッキーすら消さないハルヒのバカに代わって、俺がきちんと管理してきたというのに。  
あの機体も今日でサヨナラか。代わりの機種って幾らぐらいするんだろう。それともハルヒの事だ、  
またコンピ研から最新機種を収奪するつもりかもな。その時は全力でもって止めなきゃならん、  
ああ俺の気苦労ばかりが増えて行く。  
 
 「どうしました?あなたの番ですよ」  
 猛吹雪に晒されても全く崩れない古泉の笑顔が鬱陶しい事この上ない。お前寒くないのかよ。  
それよりも古泉、こんな状況に置かれてもよくゲームなんか続けられるな。お前の神経は  
どんな造りをしてるんだ。  
 「これは御無礼、しかしあなたも最後までやり遂げると仰ったばかりじゃありませんか」  
 さあ、と古泉は掌に賽子を乗せて俺に差し出した。  
 「いっその事、ここでビンタを倍にしませんか?」  
 古泉の爽やかスマイルの奥に、何やら嫌らしい光が差したように思われた。ええい古泉、  
麻雀劇画の真似より先に、お前はゲームの基本から勉強し直せ。いつも俺に負けてるだろお前は。  
大体ゲームを続けようにもだな、盤面も駒もルーレットも雪に埋もれてるじゃないか。雪を  
除けようとしても駒が動いちまう。続行不可能だと判らないのか。  
 それから頭の上に十センチも雪を積もらせたままで、爽やかスマイルを浮かべるんじゃない。  
ギャグを通り越して最早ホラーにしか見えないぞ。怖いよお前、雪を払えよ。  
 それと朝比奈さん。大変申し上げ難いのですがあなたもです。笑顔が麗しいのですが、  
メイドキャップと肩の上に積もった雪を振り払って下さい。それとお茶菓子は探さなくても  
結構です。それどころじゃないでしょう。雪ですよ。文芸部室でまったりと午後の一時を  
過ごしていたのに、いきなり雪が降った事を、あなたは不審に思わないのですか。  
 俺を見上げて小首を傾げた朝比奈さんの姿に、俺の心臓が十六ビートのリズムを刻む。だが、  
 「……えっ?雪ってお家の中でも降るものじゃないの?」  
 常識を斜め上四十五度に飛び越した朝比奈さんの一言で、俺は真っ更な雪面に自分の顔型を  
クッキリと刻印した。そう言えば朝比奈さんは未来人だったな。立ち振る舞いだけで心癒す、  
愛らしい上級生メイドという印象ばかりが先行しがちだが。それにしても今の一言はないですよ  
朝比奈さん。あなたついこの前、俺と一緒に雪山で遭難したばっかりでしょう。おかしいと  
思わないのですか。こんな吹雪の中で、あなたは寒くないんですか。  
 「でもこの前は、寒い山の中で振る雪だったから冷たかったんでしょう?今はお部屋の中だから、  
雪が降ってもちっとも寒くないわ。ひょっとしてキョンくん、寒いの?それなら、また暖かいお茶を  
淹れてあげるわね」  
 ――ってあなた本当に寒くないんですか。ならば身を縮込めてガタガタ震えてるのは俺だけですか。  
やっぱりこの雪長門の仕業だったんだな。何で俺だけが糞寒い思いをしなきゃいけないんだよ。  
 どうでもいい話ですが、朝比奈さんの居た未来では科学技術がどんな風に進歩してるんでしょう。  
船が浮力で浮いてなかったり、室内で冷たくない雪が降るような未来って、どんな世界なんですか。  
 俺が聞くと朝比奈さんは、唇に指を宛てて『静かに』のポーズを取り、ウィンクして俺に言った。  
 「禁則事項です」  
 
 この台詞も久し振りに聞いた気がする。彼女の仕草に心拍が二十四ビートまで跳ね上がった所で、  
もう一度ブリザードが視界を完全に覆い隠した。ああマイエンジェル朝比奈さん、生きていたらまた  
お目に掛かりましょう。まずはこの世界を元に戻すのが先です。  
 おい長門――俺は部室を雪山に変えた張本人の姿を探す。何でお前はこんな事をしでかすんだ。  
何か俺に言いたい事でもあるのか。だったらちゃんと俺に話せ。いきなり人を凍り付かせようと  
するなんて、普段のお前の言動と比べたらまるで高校生と四歳児ほどに違う。一体何に腹を  
立ててるんだ――  
 
 長門有希はいつの間にか、俺の傍らに立っていた。彼女の大好きな本も、今は手にしていない。  
相変わらずの無表情を保ったまま、黒曜石の輝き程度に温まった瞳で俺を見上げている。  
今の長門からならば、彼女が頬を膨らませアヒルみたいに唇を尖らせている表情でさえ、  
容易に想像できそうだった。まるでハルヒだな。妹といい長門といい、俺の周りの女性陣は  
みんな揃ってハルヒ菌に感染していく宿命か。  
 長門よ、まずはこの吹雪をなんとかしろ。お前が発生させたんだ、消すのも簡単だろう。  
 長門は応えなかった。それどころか吹雪はさらに勢いを増し、俺と長門を取り囲むように  
渦巻き始める。  
 「あなたが涼宮ハルヒの話題を口にする度に、私の中で制御しきれないノイズが発生する。  
あなたと出逢った頃の私であれば、それは単なるエラーとしてデリートされていた。でも今は違う」  
 長門はそこまで言うと、ほんの一歩だけ前へと踏み出した。その気になれば長門の華奢な体を  
抱き留めてやる事も可能な距離だが、そこまで手は回らない。寒さに震える自分の身体を抱き締め  
奥歯を鳴らすのに精一杯だったからな。   
 「あなたは私の中に芽生えたノイズを、感情であると認識させてくれた。あなたの友人が  
私自身ではなく、情報統合思念体を見ていたと知った時のノイズが、『残念』であったと  
理解できたのもあなたのお陰」  
 そうですかい、お前にも人間らしい感情が芽生えてたって事だな。そりゃ結構な事だ。寒くて  
鼻水も出ないよ。鼻の中で凍っちまって、息をするのも一苦労だ。  
 「だから私は全てを受け入れる。エラーはエラーとして、今後はデリートせずに受け止める。  
もう私自身がシステムの暴走を恐れる必要はない。あなたという個体の存在が、私の存在を支えて  
くれるから。あなたが認めてくれた私という個体の感情を、これからは大切にしたいと思う……」  
 感動的な台詞だな長門。ハルヒをこの場に呼んで、今のお前の発言を全部聞かせてやりたい気分だ。  
あいつこそお前の無愛想を一番心配してた女だからな。お前の成長を心から喜んでくれるだろうよ。  
 だがな、やってる事はメチャクチャだ。感情を大事にするのと、感情のままに行動する事は全然  
違うんだぞ。今のお前の精神は四歳児のそれだ。感情任せで、やっていい事と悪い事の区別がついて  
ない。自分が間違った行動を取っていると自覚しているのなら、その感情は抑えとけ。  
お前にならできるはずだ。15498回もの夏休み無限ループを耐え切ったお前の精神が、  
どうしてそれぐらいの事に耐えられないと言うんだ。大体お前が俺のお蔭で感情を知ったと言うなら、  
何でその俺をさまよう冷凍人間に仕立て上げようだなんて危険な事を企てるんだ。  
 待て長門。何か返事をするつもりなら、ちゃんと言葉にして俺に伝えろ。  
 俺に非難の眼差しを向けて、無言のまま周りの気温を下げるんじゃない。吹雪の勢いを上げるな。  
もうバナナで釘が打てる温度を通り越して、吐く息の二酸化炭素が凍っちまうぞ。こんな状況で  
防寒具も無しに、俺よく生きていられるよな。マジで手足の末端の感覚が無くなって来た。  
本格的にヤバい。一刻も早くこの場から、有希女もとい雪女の下から離れなければならん。  
 八甲田山で悲運の最期を遂げた帝国陸軍第八師団の歩兵みたく、俺の命運が尽きようとしていた、  
まさにその時だった。  
 
 いつものように扉が乱暴に開かれ、百ワットの満面の笑みを浮かべた団長様が乱入してきた。  
 「ゴメンねっ!ちょっとクラスの子と駄弁ってたら遅れちゃった!もうみんな揃ってる?」  
 そう、扉をだ。雪山に扉なんてあろう筈もない。気が付いたら俺は、程よく年季の入った黒褐色の  
床の上で、釣り上げられ酸欠状態から逃れようとする魚みたいに手足をバタバタと泳がせていた。  
 無意味に爽やかさを強調した0円スマイルを浮かべてボードゲームに興じる古泉、古泉の湯呑と  
俺の湯呑とに新しく淹れ直したお茶を注いで回る部室専属の愛すべき巨乳メイドさん、そして  
マイナス百九十六度に冷めた眼差しで俺を見下ろす小柄な無口少女。  
 俺の愛すべきSOS団の穏やかな日常がそこにはあった。直前まで何事もなかったように  
振舞っている古泉、朝比奈さん、そして長門。アホみたいに藻掻いていたのは、雑用係の俺  
ただ一人。  
 
 ――最大奥義、「静かにしていた過去<<リバース・エンド>>」。  
 
 撲殺天使ドクロちゃんの世界にしか存在しないと思われていた技が、しかし確かに俺の目の前で  
展開されていた。本当にあったんだな、けど何で俺だけ効果範囲に含まれないのか、もしかして俺の  
立ち位置は草壁桜くんと同じなのか、などと思いつつ顔を上げた俺の目に飛び込んで来た光景は――  
 エミルマ・カナノ・トーカス――知らない人は知らなくても何の問題もない、先を続けよう。  
 すらりと伸びた色白な太腿と、それを辿って行った先にある薄手の黒いレース地と、その布地に  
包まれた余計な贅肉を一切感じさせない長門のヒップとを、視界の外へと遠ざけながら俺は素早く  
立ち上がる。  
 おい長門、お前いつからそんな大胆なモノを穿くようになったんだよ。切り込みが深すぎるんだよ  
その下着。しかもだな、その黒レース地の面積はどうなってるんだ。尻も半分しか覆ってないし、  
股間の布地に筋が食い込んでるし、腰の部分に至ってはほとんど紐じゃないか。  
 無愛想な無口少女に挑発的なハイレグカット、なんてアンバランスな組み合わせは正直言って  
目に毒だ、古泉の安物スマイルとは指向こそ違うものだがな。お前の穿いているその下着は、女性が  
男性を誘惑するため世に生み出された代物だろうに。有機アンドロイドのお前も、ついに人間として  
異性の目を意識するようになったのか。  
 だが一体誰の気を惹くつもりで、お前はそんなの着けてるんだ。大体長門はまだ四歳だろう。  
お前には早すぎます――  
 ……などと団長様の前で長門に説教する度胸など、最初から俺には無い。それ以前に長門はいつの  
間にか、状況が飲み込めないまま首を傾げるハルヒの傍らに立っていた。  
 移動した痕跡は全く見当たらない。瞬間移動でもしたのか。そうなんだな長門、お前なら  
やりかねないし、物理的にもお前の移動速度の説明は付かない。ハルヒが全く気付かず、  
朝比奈さんや古泉が一切指摘して来ないのが救いと言えば救いだが。  
 無表情のままハルヒの上着の裾を摘み、くいくいと小さく引く様子が、ま母親に呼びかける幼子の  
動作にも似て、見た目には庇護欲を刺激される。  
 「……有希、どうしたの?」  
 中学生どころか、下手をすれば小学生程度の背丈しか持たない長門を見下ろしてハルヒが尋ねると、  
長門は黒真珠のような瞳の中にハルヒの姿を納めて、それから俺を一瞥する。  
 それでもって長門は、天地を引っ繰り返して崩壊に追い遣りかねない、全くシャレにならん事を  
小さくぽつりと呟きやがった。  
 
 「あの人が……私の大事なモノを……」  
 大事なモノって何なんだ、俺が長門の大事なモノをどうしたんだよ。  
 俺の質問に答えもせず、舌足らずな口調でハルヒに告げた長門は、そのまま俯いてハルヒの胸に  
音も無く顔を埋めた。胸元のリボンが長門の衝撃で弾んで揺れるのも、スレンダーな割に  
出る所の出たハルヒならではの光景かもな、などと感心している場合か。  
 ぎゅっとハルヒの細い腰を抱き寄せた長門を、ハルヒの奴は呆気に取られた様子で見守っていたが、  
 「そうなの……」  
乳飲み子をあやす母親の様な声でそう言うと、アッシュグレイの髪を労わるように撫で始めた。  
ゆっくりと俯いて長門の肩甲骨辺りに手を伸ばし、強く抱き返す。意思疎通を行なっているようだが  
おいおい一体何を分かったというんだハルヒ。  
 まさか、と信じたくない感情で一杯だが、とんでもない誤解をしてるんじゃないだろうな。  
 「辛かったでしょう……苦しかったでしょう……」  
 頭を垂れたハルヒの顔は前髪に隠れてよく判らなかったが、啜り上げる音がハルヒの前髪越しに  
はっきりと聞こえた。  
 「あなたは我慢強い子だけど、泣きたいなら我慢なんかしないで泣いた方がいいのよ。その方が  
あなたの為なの。うまく言葉にならないっていうなら、落ち着いた後でちゃんと話を聞いてあげる」  
 長門の短い毛髪の上で、水滴が二つ三つ跳ねる。汗か、それとも涎か、いや違う。  
 ……涙?!  
 あの涼宮ハルヒが泣いているだと。バカな。ハルヒはどんなに悔しい思いを胸の内に秘めていても  
涙を流す奴じゃない。どんなに辛くともどんなに悲しくても……  
 泣かないとまで言い切れるだろうか。傍若無人を絵に描いたような、どこに出しても恥ずかしい  
アホ女ではあっても、しかし俺の知っているハルヒは感情を押し殺した女じゃない。良くも悪くも  
情感だけは誰よりも豊かな奴だ。何の役にも立たないけれど、その点だけは俺が保障する。  
 だがこいつが一体何に涙しているのかまでは、俺には皆目見当が付かない。というより無意識の  
深層で、理解を拒んでいるような違和感を覚えないでもないが。その違和感が嫌な感触を伴った  
冷たい汗として背中を一筋走る。  
 ハルヒがゆっくりと顔を上げた瞬間、希望という名のシュレディンガーの猫は死んだ。  
いや確率で言うと、そいつは箱に入れられる前に死んで白骨化していたんだろうが、それでも  
俺だって人間だ。一縷の希望に縋り付きたい気持ちは俺にだってあるんだよ。  
 眉間に力を込めて作った表情を、俺は今後一生忘れる事はできないだろう。今度は眠りに  
就こうと瞼を閉じる度にハルヒの視線を思い出し、一睡もできない状態に追い遣られるかもしれん。  
早晩精神に回復不能な変調を来し「ここはどこですか開けて下さいよ」と爽やかにコクピットの  
キャノピーを叩く自我崩壊した己の姿なんか思い浮かべるのも御免蒙りたいが、しかしそんな風に  
廃人と化しても決して不思議ではない。  
 「あんた……有希が大人しいのをいい事に……」  
 般若、いや夜叉に喩えるのも生温く思われるような、俺を焼き尽くす凄まじい熱量を孕んだ怒りが  
一気に解放された。  
 
 「あんたあたしを妄想の中で汚して犯して嬲り倒すのに飽き足らず、とうとう現実の女にその  
際限ない獣欲を直接ぶつけるようになったのね!しかもその狙いを、大人しくて自分に都合の  
いいように扱えそうな有希に向けたのよね!可哀想な有希、あんたが大事なモノを奪ったって、  
あんたが有希をレイプしたっていう事じゃない!あんた自分の欲望が人を傷付ける事があるって  
知ってるの?!知らないわよね、所詮あんたも男だもの!」  
 真っ赤に腫れた両目から流れ出る涙を、拭おうともしない。冷たく燃える青い炎が、ハルヒの  
瞳の中で吹き荒ぶのが見て取れる。いや冷たいどころか青い炎は鉄をも溶かす熱量を誇るんだ。  
ガスバーナーと同じ理屈で、温度の低いイメージの色に騙されて触れたら、一瞬にして指が  
蒸発してしまう。そんな炎だった。  
 華奢な長門をしっかりと胸に抱き寄せる姿は、まるで娘を性犯罪者から遠ざける母親のようだ。  
娘もとい長門はといえば、相変わらずの無表情で俺を見つめている。だがなあ長門よ。  
 その無表情な仮面の下で、お前が勝ち誇った様子で『ざまあみろ』と見下しているのがわかるんだ  
よ。  
あかんべえしているのが見て取れるんだよ。  
 助けろ古泉。と言うかお前、何で貴様の爽やかな笑顔のニヤケ具合が当社比三十パーセントアップ  
してるんだ。  
 
 「まさかとは思っていましたが、しかしあなたの涼宮さんに対する想いがそこまで具体的な  
イメージを形作っていたとは驚きですね。ならばほんの少しあなたが踏み出すだけで、僕の  
命懸けの仕事もかなり減ってくれるでしょう。大丈夫ですよ、涼宮さんならきっと心からあなたを  
受け入れてくれる筈です。もしあなたにその覚悟があれば、頑張って僕に九ヶ月ほど完全な休暇を  
頂けませんか?月に一度の決まった仕事って、僕にとっても苦痛なんですよ。その代わりと言っては  
何ですが、職場復帰の際には『機関』の総力を挙げて盛大にお祝いさせて下さいね」  
 死ね古泉。貴様はいますぐその無駄に白い歯でヘソを噛み切って死ね。さあ死ね今すぐ死ね。  
貴様なんか死んじまえ古泉。それから朝比奈さん、あなた何で顔を真っ赤にしてるんですか。  
口元に手を宛てる仕草がこの上なく愛らしいのですが、今はあなたの姿に心癒されている場合  
じゃないんです。緊急事態なんですよ。  
 「えっと、その……えっちなのはいけないと思います!」  
 そう来ますか朝比奈さん。メイド服と相俟って最高に似合いすぎている台詞ですが、お笑いと  
しては落第点です。ネタ自体が使い古されてカビが生えてますし、何よりベタ過ぎなんですよ。  
 「でも、その、好きな人なら……やっぱりダメッ!そういう事はちゃんと、涼宮さんの気持ちを  
確かめなきゃダメよ。女の子と男の子とで、そういう事に対する考えはやっぱり違うと私思うの。  
涼宮さんとキョンくん、ちゃんとお互いの気持ちを確かめ合って、二人で一緒に問題を解決して、  
そうして初めて二人はひとつに……やだ、私ったら何言ってるんだろう?」  
 朝比奈さん。顔を赤らめながらも、あなたなりに大切な事を教えてくれようとなさってるんですね。  
けどそういう事って何ですか。なぜ俺が、なぜハルヒの気持ちを、どうやって確かめるんですか。  
どうでもいいけど今のフレーズ、汽車から変形したロボの合体テーマソングみたいで格好良かった  
ですよ朝比奈さん。  
 これで俺が夜な夜なハルヒをオカズに抜いているという噴飯物の与太話も、SOS団では  
既定事項か。畜生。いきもの。どうぶつ。アニモー。英語で言うとアニモー。先に言っておくが  
昨日は例外中の例外だ。一生の不覚だ。何たってハルヒのとんでもない秘密を聞き出しちまった  
からな、ハルヒ本人にはゲロした自覚は全くないが。何で俺って拳銃で頭ブチ抜いて死ななかったの  
かな、空しい行為が終わった後で。  
 しかし朝比奈さんも古泉も、長門をレイプしたとかいう妄言をスルーしてくれた分、まだマシだと  
考えるべきなんだろうか。当然だろう。情報統合思念体とやらが生み出した宇宙最強アンドロイドを  
無理やり手篭にできる人類なんてこの世に居る訳がないもんな。事を成す前に、トーチすら残さず  
存在ごと消去されちまうのが関の山なんだから。  
 だったら、分かってるなら何で助けてくれないんですか朝比奈さんお願いします。同性のあなたが  
仰る事なら、ハルヒも少しは耳を傾けてくれるでしょう。ただやっぱりあなたはハルヒの剣幕に  
押されて黙ってしまうんですね。  
 
 「違う……」  
 助け舟を出したのは、朝比奈さんでもニヤケエスパーでもなかった。ハルヒに縋り付いたまま、  
無表情に俺を眺める長門が、見た目の無口キャラそのままな舌足らずの口調でそう呟いたのだ。  
 ほんの一瞬だけ、怒りに歪んだハルヒの顔が普段通りの美少女に戻る。長門を見下ろして尋ねる。  
 「違うって、何が違うのよ?」  
 「私が、勝手に……」  
 長門がまたハルヒの胸に顔を埋めた。おい長門、それじゃハルヒの誤解を正せないだろうが。  
それとも何か、長門お前わざとやってるんじゃないだろうな。そうだろう、そうに違いない。  
何故ってお前、俺の前じゃ堰を切ったように雄弁に説明してくれるじゃないか。何でハルヒの前で  
だけ、お前は見た目通りの舌足らずな言葉遣いになるんだよ。猫被るのもいい加減にしろよ長門。  
 ハルヒの表情がまた涙に曇る。俺はお前のそんな表情だけは決して見たくないんだよ、って  
違うだろ。  
 「いいのよ有希。あなただって女の子なんだもの、男の子に興味を持ったり、好きになったりする  
事だってあるわ。けど悪いのはあなたじゃなくってキョンなんだから。あなたが異性に興味を覚えた  
のをいい事に、キョンは何も知らないあなたを毒牙に掛けたの。だから有希、自分を責めないで。  
それにこれはあたしの責任でもあるのよ。いつかこんな日が来るんじゃないかって心配してたから、  
SOS団では恋愛禁止って規則を作っておいたのに……」  
 
 ああ女の涙って、たとえそれがハルヒの物であっても心動かされるものなんだって俺は今学んだよ。  
けどなあハルヒ。どうしてお前は俺の事になると異様なまでの勘の良さを発揮する癖に、長門の心は  
百八十度間違った方向に解釈するんだよ。なんで長門が悲しんでるって思えるんだお前は。  
 長門を見ろ、見た目こそ普段通りのポーカーフェイスを保っているが、あかんべえでは  
飽き足らずにとうとうベロベロバーをする姿まで浮かべやがったぞ。  
 ハルヒお前はそんな生意気な態度に出た長門を庇うのか。まるでこづれ狼のおがみ一刀先生だ、  
もしくは薫と葵と紫穂を甘やかすバベルの局長殿だ。  
 お前は誤解をしている。長門の言う『大事なモノ』が何なのか俺には解らんが、それを  
女の貞操だと断言するのはあまりにも短絡的だと思わないのか。大体俺は長門に対して邪な思いを  
抱いた事はないぞ。  
 「黙れッ!」  
 部室の窓ガラスが、ハルヒの一喝に共振してイヤな音を立てた。なんつう肺活量の持ち主だ。  
 「確かに有希は発育が良くないわよ! 胸なんかその辺の小学生にも負けてるかもしれない!  
けどそんな有希の心と身体を弄んだのはあんたでしょ!このロリキョン野郎!」  
 言うに事欠いて何て事言いやがるハルヒ。長門がお前の胸と腰に目を遣って、それから自分の胸を  
確かめるようにペタペタ触ってるのが見えるだろ。無表情を保ったまま、お前を見上げる長門の  
視線が目に入るだろ。幼児体型だってハッキリとお前に言われて、長門が傷付いてるのが解らんのか。  
それにロリキョン野郎って何だよ。俺に幼女嗜好があるって事か。長門が幼女だっていう意味か。  
どっちにしても失礼極まりない発言だろうが。俺に対しても長門に対しても。  
 長門が自分の胸をもう一度ペタペタと触りだしたその隙に、ハルヒの奴が大股で床を踏み鳴らし  
ながら俺の方に向かって来た。心臓が止まるほどキツい視線で睨み上げられ、頬を打たれる  
鋭い痛みと共に脳味噌が激しく揺さ振られ、  
 「乙女のビンタ!ビンタ、ビンタ、ビンタ、ビンタ、ビンタ、ビンタ、ビンタ、ビンタ、ビンタ、  
ビンタ、ビンタ、ビンタ、ビンタ!」  
 格ゲーでも滅多に見られない乙女のビンタ十四連続コンボを喰らい、ダメージが足に来て  
フラ付いた所で、払い腰で容赦なく床の上に叩き付けられた。チクショウこんな事になるんなら、  
もっと真剣に体育の授業に取り組んでおくんだった、アホと巫山戯けている間に受身の練習だって  
できた筈なのに、なんて後悔しても時既に遅し。もっとも身体の平衡感覚を失った時点で、  
柔術の達人であっても受身などまともに取れる訳がないんだがな。  
 後頭部に衝撃が走り、そのまま胃の腑に圧力を受ける。ハルヒが胸の上に跨ってきたのか。  
ちょっとハルヒお前スカートが捲れてるだろうが。色は白か、白がいいんだよ、完璧なる白だ。  
頭のイカれた全身白づくめのパイロットみたいにハルヒの白さに注意を奪われる間もなく、  
マウントポジションから俺のネクタイを引きずり上げて来やがった。  
 ええい何が悔しいんだよハルヒ、団員が不祥事を起こした事か。んな不祥事はハナから起きてない、  
そう何度も言ってるだろう。信じてたのにって、お前が俺を信じてくれた事が一度でもあったのかよ、  
そんな事言う位なら最初から俺の言葉を信じろ。長門の方がいいのかって。比較の問題かよ、  
とにかく言葉を選べ、誤解を招くようなセリフはやめろ、お前が口走った単語を繋ぎ合わせると、  
端目からは痴話喧嘩にしか見えないだろうが。  
 
 息も絶え絶えに必死の反論を試みるも、やがてバカ力に任せたハルヒの鉄拳が振り下ろされる。  
目の中に蚊のような星が飛び、鼻腔の奥が熱くなった。痛みに呻き涙を滲ませた俺に向けて、  
なおもハルヒは鬼の形相で容赦なく拳を振るう。  
 「これは有希の怒り! これはあたしの怒り! これはあたしの怒り! これはあたしの怒り!  
これはあたしの怒り! これはあたしの……」  
 明らかにお前の分が多すぎるんだが、もう突っ込む気力も無くしたよ。この暴力女め、せめて  
泣くか殴るかどっちかにしろ。泣きたいのは俺の方だっての。  
 朝比奈さんが顔を蒼くしてヘタり込んでるのが遠くに見える。凄惨な暴力現場は朝比奈さんには  
刺激が強すぎる光景だろう。「見るな」と俺の掌で目を覆って差し上げられないのが残念です。  
これ見よがしに肩を竦めるのはやめろ古泉。何が「やれやれ」だ。それは俺のセリフだろうが。  
携帯鳴ってるぞ古泉。なんで着メロが必殺シリーズなんだよ。しかもそれ必殺5の『出陣』だろう。  
選曲渋いな。命懸けの仕事にはピッタリじゃないか。早く電話に出ろよ。世界の平和はお前の双肩に  
掛かってるんだろ。俺の事はいいから、お前は世界を救うんだ。早く行けっての。この場に留まって  
いながらハルヒを止めもしないのなら、いっそ部室から出て行っちまえ……  
 瞼が腫れ上がって瞬きするのも痛みが邪魔をして儘ならん。口の中に鉄っぽい塩味が充満して  
気持ち悪い。一撃ずつの重みは変わらない筈なのに、殴られる痛みはどんどん軽く感じるように  
なってきている。  
 β-エンドルフィン、チロシン、エンケファリン、バリン、リシン、ロイシン、イソロイシン……  
 駆け巡る脳内物質の力を借りて、苦痛を和らげているんだろうな今の俺は。命って素晴らしいな。  
もっともその命でさえ、風前の灯火でしかないんだが。  
 「彼は関係ない」  
 抑揚の乏しい女の声が俺の耳に届き、降り注ぐ鉄拳の嵐と着メロ『出陣』とがピタリと同時に収ま  
った。  
 
 今まで俺を殴っていた涼宮ハルヒは、一体何処へ行ってしまったのだろう。敢えてそいつを探して  
異世界を走り回ろうなどとは夢にも思わないが、しかし俺の胸に跨るハルヒの表情は別人だった。  
 唖然とした様子で口を半開きに、目を見開いて長門へと視線を向けている。とりあえず涙を拭け。  
こら袖じゃなくてハンカチを使え。お前仮にも女だろう、もう少し淑やかな言動は取れんのか。  
 「関係ないってどういう事なの?あたしとキョンの問題なのに、どうしてキョンが関係ないのよ」  
 滅茶苦茶でございますがな。俺と長門の問題を捏造した挙句、勝手に乱入して理不尽な暴力を  
働いたのがお前だハルヒ。しかも何で俺とハルヒの問題に摩り替わってるんだ。何度繰り返したか  
分からないがもう一度言おう、俺がいつどんな問題を引き起こしたって言うんだよ。  
 相変わらず無表情のまま、黒い瞳でハルヒの捉えていた長門が俺を一瞥する。普段なら澄み切って  
光沢さえ放つ長門の瞳だが、今はうっすらと埃を被ったように曇っていた。  
 ほんの些細な悪戯のつもりで線路に石を置いて、結果的に列車転覆なんて大惨事を招いてしまった  
小学生も、こんな感じの目をするんだろうな。  
 俺が見ているのに気付いて、長門は視線を床に落とした。やりすぎたと反省はしているようだが、  
謝罪する気ならきちんと言葉にして謝れ。さもないと反省の気持ちが伝わらんぞ。お前ついさっきは  
感情を大事にしたいって言ったじゃないか。ならばその感情を伝える事も同じ位大事なんだ。  
ほら長門、お父さん怒ってないから、きちんと謝るんだ。  
 
 「……ごめんなさい」  
 蚊の鳴くような声でそう呟くと、長門は俺の視線を避けるようにハルヒだけを向いて言った。  
 「彼と私の間には、あなたの想像するような事件も関係もない」  
 ハルヒは呆けた様子でがっくりと肩を落とした。あいつの脳に長門の発言が達するまで、  
たっぷり数秒の間を要したようだ。窓ガラスを振動させるほどの声量を誇るハルヒの奴が、  
まるで長門みたいにか細い声で自信なさげに訊き返す。  
 「だけど有希、さっきあなた自分の大事なモノがキョンに、って……」  
 自分に暴力を働いたハルヒと同じ心境なのはこの上なく業腹だが、確かにこいつの言う通りだ。  
ハルヒの質問は俺にとっての質問でもあった。改めて問うが、長門の言う大切な物って何なんだ。  
俺はそいつをどうしたって言うんだよ長門。  
 長門は瞳だけで俺を一瞥してハルヒに視線を戻した。えらく素っ気無いなオイ。俺とは  
口を利きたくないってのか、それともお前も後ろめさ位は感じるものなのか。  
 さあ答え合わせの時間だ。俺の予想する答えはベタすぎて、自分の口から説明する気にもならん。  
悪魔の証明問題なんかじゃなくって、こんな問題が期末試験に出てくれるならば、北高を主席で  
卒業できる自信すら持っている。自慢にも何もなりゃしねえ。そもそもハルヒの奴が、余りにも  
人の話を聞かないんだ。  
 ハルヒと同じ科白を繰り返すのは面倒だし、何より俺の腹の虫が治まらない。ここから先は暫し、  
ハルヒと長門の遣り取りに託そうかね。奥歯がガタガタ揺れているような感触も鬱陶しいんでな。  
 
 「この人は私の大切な物を教えてくれた、と言いたかった」  
 「その、大事なモノって?」  
 大切な物、と長門は言っただろう。いつも言ってる事だが、お前は人の話をちゃんと聞く  
癖を付けろハルヒ。些細な違いってのは、放置すると大きな誤解に繋がるんだぞ。その結果が  
柘榴みたく腫れ上がった俺の顔だ。お前がもう少し人の話を聞いてくれさえすれば、俺の  
苦労も災難も随分減ってくれるんだがな。  
 「仲間。友達。SOS団。自分の感情……あなたとこの人に出会うまで、私は大切なものだと  
知らなかった。その存在すら、私は知らなかった」  
 長門が恐ろしく緩慢な口調で訥々と語っている。言葉遣いだって、ハルヒがいない時とは大違いだ。  
 「じゃあ、何でちゃんとそう言わなかったの?」  
 「うまく言葉にできなくて……思うように、伝えられなかった」  
 こうやって喋っているのを耳にする限りは、寡黙で内気な読書少女が、自分の気持ちを伝えようと  
四苦八苦しているようにしか聞こえない。だが俺の前だったら今の科白も、  
「うまく言語化できなくて、意思の疎通に齟齬が生じてしまった」  
みたいな堅苦しい言い回しになるんだよ長門は。あくまでハルヒの望むように、長門は猫を被るんだ。  
古泉のクドすぎる爽やかキャラと同様に。  
 「……嘘は言っていない」  
 長門は俺に一言だけ投げかけて、再度そそくさと目を逸らした。なぜかハルヒの奴が力無く頷く。  
長門が自分に向けて喋ったのだと、勝手に解釈したようだ。つくづく自意識過剰な女だよ全く。  
 「信じるわ。有希ほど正直な子はいないもの。じゃあ有希、私が勝手にっていうのは?」  
 「あなたは優しい女……だからつい、あなたに甘えたくなった。あなたの気持ちを無視して、  
勝手に抱き付いてしまった」  
 「……そういう事なの。じゃあ、キョンは……」  
 ハルヒは阿呆みたいに口を半開きにしたまま二度三度頷くと、大の字になった俺を見下ろした。  
 ああハルヒの瞳に映る自分の顔が、この上なく痛々しい有様だ。目の周りに青アザは出来てるわ、  
鼻からも口からも流血してるわ。十五ラウンドをフルに戦ったロッキーでも、ここまで酷く顔面が  
変形する事はないだろう。何を痛々しい顔付きになってるんだハルヒ。これはお前の仕出かした結果  
なんだ。何か一言ぐらいあって然るべきだと思うがね。SOS団の団長というよりも、一人の人間として。  
 ハルヒの奴が俺の胸から立ち上がる。くるりと長門を正面に捉えて――  
 
 「もう、有希ったらカワイイんだから!」  
長門に駆け寄り抱き付いて、百ワットの笑顔で何度も何度も長門の無表情に頬擦りを繰り返す。  
 盛大にずっこける代わりに、パタリと意識を失ったよ俺は。  
 無実の罪で俺を殴り倒しておいて、ゴメンなさいの一言も無しかよ。長門が可愛けりゃそれでいい  
のかよ――  
 
 その後目が覚めたら保健室のベッドの上に横たわる自分の姿を見つけ、その上に馬乗りになった  
ハルヒがアヒルみたいに口を尖らせながら俺の傷の手当てをしていて、重いからどけと告げると  
また鬼の形相で睨まれて、俺を殴った理由をハルヒに問い質す内に再び殴られそうになったり、  
最後はぶつくさ文句を垂れながらもトマトみたいに顔を赤くしたあいつに手を引かれて、  
なんとか無事に帰宅できた訳だが。  
 その話はまた機会があれば、という事で勘弁願いたいね。  
 
<<終>>  
 

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