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SOS式夢十夜
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第一夜
こんな夢を見た。
腕組をして枕元に座っていると、仰向きに寝た長門が、静かな声で「もう死ぬ」と言う。
確かに『温かい血の色がほどよく差して』と言えるほど顔色が良いわけではないが、それはいつもの事であり、自分から見ると、とうてい死ぬような状態には見えない。
しかし長門は静かな声で再度、「もう死ぬ」と言う。
「そうか、もう死ぬのか」と上から覗き込むようにして聞いてみた。長門は瞼を開き、その感情の表れにくいただ一面の真黒な瞳に、自分の姿を鮮やかに浮かべながら「死ぬ」と答えた。
『ならばやはり死ぬのであろうよ』と思いながらも、口からは「まさか死ぬんじゃないだろうな」と言葉が出た。
それに対し「でも死ぬ。仕方がない」と眼を閉じながら長門は答え、自分は『仕方がないのか』と思い、元の場所に座り、腕組をしながら黙る事にした。
しばらくして長門はその吸い込まれそうなほどの黒い瞳に、再度自分の姿を映しながら言った。
「死んだら、埋めて欲しい。特別な事はしなくていい。待つ必要もない。ただ、覚えていて欲しい」
自分はただ頷いた。それだけしか出来ないのだと悟った。
頷く自分を見て長門は目を閉じる。睫の間から頬へこぼれ行く一滴。
『これは涙なのだろうか?』などと詮無い事を考える。
―――長門はもう死んで「大却下!」
声と同時に障子が開かれ、夜の匂いと共に、月の光を背景に、ここに居るはずのない、来るはずのない神様がやってきた。
「何だ?」というこちらの問いに「死ぬのを却下」などと返しながら、長門の枕元に神様は立つ。
座り込み、沈黙。神様は動かない長門の髪を愛しむように撫でるだけで、他には何もしようとしない。そして何も起こらない。
開け放たれた障子から月の光と土の匂いが入り込んでくる。それでも何も起こらない。
それで自分は『やはり、どうしようもないのだな』と納得してしまった。泣きそうになった。
涙を堪えるために、星の破片でも探そうかと外を見る。
そこに一輪だけ、ふらふらと頼りなく揺れながらも、しっかりと咲く百合の花があった。
遥の上からぽたりと露が落ち、花が揺れる。
視線を上げると、暁の星がたった一つ瞬いていた。
『ああ、また会えたんだな』と、何故かこの時思い、一滴の水が自分から零れ落ちた。
第二夜
こんな夢を見た。
ある寺の一室で、自分は朝倉と正座で向合っていた。
灯りは行灯だけである。そもこの部屋には行灯しかない。床も壁も天井も、硬くもなく柔かくもない何かに覆われているようだ。
『はて、何故自分はこんな何もない部屋を寺の一室であると判断したのだろうか?』と疑問に思ったが、『今はそれよりも朝倉を何とかしなきゃならん』と思いなおした。
そこでまず自分は、「お前はインターフェイスだろう。だったらアレくらい簡単に理解できないとおかしいぞ」と朝倉に問うた。
自分の言葉に苦い表情を浮かべる朝倉。おそらくはアレについて考えているのだろう。
「アレが理解できないのであればお前はインターフェイスではない。ただのインターフォンだ」と挑発する。
顔を真っ赤にしてぷいと向こうをむく朝倉。どうやら怒ったらしい。
「ははっ、怒ったな。口惜しければアレが何だか言ってみせろ」と自分は言った。
アレを理解したうえで自分を斬るか、理解できないままインターフォンとなるか。
インターフォンとなれば自分の勝ちであるが、怪しからん事に朝倉がアレを理解してしまったら自分の負けである。
いささか分の悪い賭けではあるが、得られるものは多いであろう。
朝倉は急に立膝になり、座布団の下をごそごそと撫で回したあとで満足したように座り込む。
きっと床下のナイフを確認したのであろう。怪しからん。ものに頼る限りアレからは遠ざかって行くばかりだというのに。
そんなこちらの思いも知らず、朝倉は自分を見て言う。
「12時」
時間指定。愚かな事だ。時間に縛られる限り、アレからは遠ざかって行くばかりだというのに。
それから朝倉は正座をしながら息を止めてみたり、荒い呼吸を繰り返したり、自傷行為に及んだりしていた。
自分はその間、『アレって何だったかなあ?』とぼんやりと考えていた。
いつの間にかは分らないが、気付くと朝倉は、静かな笑みを浮かべたままじっとこちらを見つめていた。
アレに辿り着いたかどうかを聞こうとしたところで12時の鐘が鳴る。
次の瞬間床を突き破って飛び出してきたナイフが、自分の首と胴体を永久の別れに誘った。
くるくると宙を舞う首で『アレとは何か?』と問うと、朝倉は変らぬ笑顔でこう言った。
「先手必勝」
自分自身に合掌しながら『はて、どうやって自分はこんな扉も窓も無い部屋に入ったのであろうか?』と考えた。
第三夜
こんな夢を見た。
もういい年になるWAWAWAを何故か背負っている。たしかに同級生のWAWAWAである。
ただ不思議な事に、いつの間にかWが一個無くなってAWAWAになっている。
「いつAWAWAになったんだ?」などと聞いても、「い、いいい、いいだろ、べ、べ、べべべべ」などと背中で慌てているだけである。
正直、同級生ながらかなりうっとおしく感じる、というか普通に重い。
「いいい、今にもっと重くなるぜ」
捨てたい。うむ、捨てよう。そう決めた。
進行方向に良い感じの森がある。野生のWAWAWAを帰すのにはちょうど良い場所だろう。
「分るのか?」と問うと「当然」と返ってくる。
道順が分るのなら後が面倒になるかもしれないが、まあ今はAWAWAだから大丈夫であろう。
「そ、そういや、ちょうどこんな晩だったな、な?」
「何が?」と問うと、「し、知ってるくせに」などと嘲るように答えた。すると何だか知っているような気がし出した。確かにこんな晩で、もう少し行けば分るように思える。
別に分っても分らなくても何の問題もない事のように思えるが、雨も降ってきた事だし、体が冷える前に早くこれをどこかに捨ててしまいたいので先を急ぐ事にした。
雨はさっきから降っている。曖昧模糊な自分の過去、現在、未来の中で唯一確かな事は、背中にWAWAWAがくっついている事だけである。
そうして今はAWAWAである。自分はたまらなくなった。
「こ、こここ、ここだ。ちょうどその杉の根の所だ」
雨の中にAWAWAの声が響き、自分は覚えず留まった。森という闇の中、一間ばかり先にあるそれは、自分には何故だか信号機のように見えた。
「そ、その杉の根の所だったよな?」
「ああ、そうだな」と適当に返す。
「ぶ、文化五年の辰年って、何年前だっけ?」
知らないし、どうでもいい事であると思われた。
「お、御前がおれを殺したんだろう?」
「いや、そんな記憶はないぞ」と言うと同時に背中のAWAWAが急に石地蔵のように重くなった。
『ああ、これで正当防衛が成立するな』と思い、信号機らしき物の根元にAWAWAを投捨て、家に帰って風呂に入り、寝ようとしたところで布団の中にWを見つけたので捨てた。
そして自分は、窓から放り捨てたWが無事にAWAWAと再会する事を祈りながら眠りについた。
第四夜
広い部屋の真中、机の上に碁盤を置いて、古泉が一人碁をうっている。
右手で黒石を、左手で白石をうちながら、たまに両手でお茶を飲んだりする。
『何をしているんだろうか?』と自分が思ったところで、お茶を持ってきたメイドが空になった湯飲みに御代わりを注ぎながら、
「何をしているのですか?」と聞いた。古泉は御代わりのお茶を一気に飲干して、
「何をしているように見えます?」と逆に聞いた。メイドはそれだけで全てを理解したらしく、ただ笑顔を浮かべるだけであった。
黒石がかろうじて勝利を収めたところで、メイドはまた、
「何がしたいのですか?」と、古泉に聞いた。古泉は碁石を黒白一緒くたに片付けながら、
「あそこへ行こうと思います」と外の湖を指差した。
古泉が茶の礼を言い、表に出た後で、メイドは碁石をちゃんと黒白に分けなおした。一部の碁石は黒白混ざって灰色になっていた。それでもメイドは笑顔だった。
古泉は池に向ってゆっくりと歩く。荷物は何もなく、笑顔のままで。ただ自分には、その瞳の奥には確かに何かがあるように思えた。
池の近くの柳の木の下に子供が三・四人いた。古泉は笑顔のままでポケットから御菓子を出して子供達に配りながら言った。
「これから僕は赤い玉になりますから、見ていてくださいね」
そして古泉は呪文を唱えるわけでもなく、儀式を行うわけでもなく、ただ真直ぐに湖の中心へと歩を進めた。
「今になる、玉になる、きっとなる、世界になる」
唄いながらざぶざぶと湖へと入っていく古泉。子供達は皆、次の遊び場所へと行ってしまい、それを見守る者はいない。それでも古泉は、
「深くなる、夜になる、僕になる、僕でいる」と唄いながら、どこまでも真直ぐに歩いて行った。
そうしてついに、頭まで水につかり見えなくなってしまった。
自分が覗きこんだ時、古泉は湖の中で赤い光となって巨人と戦っていた。一人だけだった。
絶望的に見える戦いを一人で行っている古泉を、自分はそうして何もせずに、ただじっと見ていた。
ぼちゃん、という音がしたので顔を上げると、ちょうどメイドが湖に飛込んだところであった。
湖全体に波紋が広がったが、やがて消えた。自分は結局、ただじっと見ているだけだった。
そうして二人共、とうとう上がって来なかった。
第五夜
何でもよほど古い事で、神代に近い未来と思われるが、どこかの馬鹿が戦をして当然のように負けかけた時に、運悪く生捕となり、敵の大将の前に引き据えられた。
西洋の礼服に革の帯を締めて、それへ棒のような剣をつるしている髭軍団の中心で、制服で丸腰のまま高笑いをしている、腰をゆうに越えるほどに長い黒髪の女性、鶴屋さんがいた。
鶴屋さんを取囲み、守るかのように立並ぶ黒服達。なるほど、どうやら彼女が敵方の大将のようである。
自分は虜だから、腰をかけるわけにはいかない。草の上に胡坐をかく。履いているのは市販のどこにでもある運動靴であった。
鶴屋さんは篝火で自分の顔を見て、「死ぬにょろ? 生きるにょろ?」と聞いた。処刑か屈服かという事であろうと判断し、自分は一言「死ぬ」と答えた。
「敵である自分は死んで、あたしのために生きるってこったねっ!」と鶴屋さんは言い、自分はそこでようやくどちらを選んでも間違いであった事に気付いた。
自分は右の手を楓のように開いて、掌を鶴屋さんのほうへ向けて、眼の上へ差上げた。『待て』という合図である。
その頃でも恋はあった、のかどうか自分は知らないが少なくとも友情はあった。なので、「自分は味方に持つ友情を裏切れない」と言う事が出来た。
鶴屋さんは「んじゃっ、夜が明けて鶏が鳴くまでに味方が迎えに来たら解放だねっ!」と言った。『それで良いのだろうか?』と疑問に思ったが口には出さなかった。
鶴屋さんは腰をかけたまま、篝火を眺めている。自分は草の上で仲間を待っている。夜はだんだん更けていく。
篝火が崩れ、焔が揺れ動く度に、黒服が来て新しい枝をたくさん火の中へ投込んでいく。あたりで動くものはそれくらいだ。
この時味方の少女は、裏の楢の木に繋いである、白いシャミセンを引出した。鞍も鐙もつける余地のない裸シャミセンであったが、少女は構わずに飛乗り、白い足で太腹を蹴った。
篝火で赤く染まった空めがけてシャミセンが物理法則を無視して文字通り飛んでくる。
少女は細い足でしきりなしにシャミセンの腹を蹴っている。シャミセンの足音は本当に宙で鳴っている。それでもまだ、篝火のある所まで来られない。
すると真暗な道の傍で、たちまち「こけっこう」という鶏の声がした。御腹がへっていた少女は鶏を探して食べようと方向転換した。
「こけっこう」と鳴いたのは鶏ではなく鳴真似をしたWAWAWAであった。それを煮て食べるうちに少女は自分の事を忘れた。
今日は自分と鶴屋さんの祝言である。WAWAWAが敵かどうかは、今の自分にはもう分らない。
第六夜
運慶が我校の校門で朝比奈さんを刻んでいるという評判だから、登校がてら行ってみると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
校門の前六間より始まる人込みが目障りだったので、斜に斬捨てながら中央に向かう。いつから集っていたのかは分らないが、鎌倉時代でないのは確かだ。
見ている者は、みんな自分と同じく、我校の関係者である。その中でも三年生が一番多い。進路が決って退屈だから立っているに相違ない。
「大きなもんだねっ」と一部を指して言っている。
「人工的に拵えようとしたら、よっぽど骨が折れると思うのね」とも言っている。
そうかと思うと「へえ、朝比奈さんですね。今でも朝比奈さんを彫るんですね。へえそうですか。わたしはまた朝比奈さんはみんな未来のばかりかと思ってましたよ」と言ったWAKAMEがある。
運慶は見物人の評判には委細頓着なく鑿と槌を動かしている。いっこう振向く事はないが、よく見ると運慶は朝比奈さんであった。
自分は『どうして朝比奈さんがこんな事をしているのだろうか?』と思った。『どうも不思議な事があるものだな』と考えながら、やはり立って見ていた。
しかし朝比奈さんの方では、不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。その態度を眺めていた友人が、自分の方を振向いて、
「さすが朝比奈さんです。眼中に僕達はいませんよ。天使はただ自分のみという態度です。天晴れですね」と褒めているのかどうか微妙な事を言出した。
疑問に思い、友人の方を見ると、友人は、すかさず、「あの鑿と槌の使い方を見てください。いつ彼女自身を彫ってしまわないか心配でなりません」と言った。
見ると、朝比奈さんの指には何枚も絆創膏が貼られている。それでも彼女は腕を止めない。
堅い木を削り、厚い木屑が飛ぶ度に、小ぶりな鼻が、くりっとした瞳ができあがっていく。
「よくああ無造作に鑿を使って、思うような鼻や瞳ができるもんだな」と、自分はあんまり感心したから独言のように言った。すると友人が、
「いえ、あれは鑿槌で鼻や瞳を作るのではありません。あの通りの鼻や瞳が木の中に埋っているのを掘出しているだけなんですよ」と言った。
『はたしてそうなら誰にでも出来る事だな』と思い、急に自分も朝比奈さんを彫ってみたくなったから見物を止めてさっそく部室へと向った。
部室には鑿と金槌しかなく、手頃な木が無かったので、とりあえず机を彫ってみる事にした。
自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めてみたが、不幸にしてそこにはシャミセンしかいなかった。その次のにはルソーしかいなかった。三番目のはWAWAWAだった。焼いた。
机だけでなく床や天井、壁も彫ってみたがどれもこれも朝比奈さんを隠しているものは無かった。何故かWAWAWAが一番多かった。焼いた。
そうしてついに、今の時代の木には到底朝比奈さんは埋っていないものだ、と悟った。
それで朝比奈さんがこの時代に来た理由もほぼ分った。
第七夜
何でも大きな船に乗っている。
この船が毎日毎夜少しの絶間なく黒い煙を吐いて波を切って進んで行く。けれどもどこへ行くんだか分らない。そして凄まじい音である。WAWAWAと音を立てる。自分はたまらなくなった。
どうやら船は太陽を目指して進んでいるようである。しかしこの太陽は西から昇ったり北に沈んだりするので、その度に方向転換が必要となるようである。
その理由が知りたくなったので、あるとき自分は船の男を捕まえ聞いてみた。
「この船は何故太陽を目指すのですか?」
船の男は怪訝な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、
「何を言っているのですか?」と問返した。
「だって、ほら、太陽を追いかけているじゃないか」
船の男はにこやかな笑顔を浮かべたまま向うの方へ行ってしまった。よく考えると、船の男の後にはWAKAMEが立っていたように思えた。
「あれが太陽だなんて、人間ごときが決められるわけないでしょう」と、水夫が大勢声を揃えて言った。よく見ると水夫達の後にWAKAMEがいた。自分はたまらなくなった。
自分は大変心細くなった。いつ陸へ上がれるか分らない。そうしてどこへ行くのだか知れない。ただWAWAWAと音を立てて波を切って行く事だけは確かである。
そして水夫は全てWAKAMEに操られている。自分は大変心細かった。『こんな船にいるよりいっそ身を投げて死んでしまおうか』と思った。
乗合はたくさんいた。たいていは異人のようであった。
手すりに寄りかかって泣真似をしている者がいた。自分に「アナタハ、カミヲ、シンジマスカー?」と尋ねてきた者もいた。ピアノを弾きながら歌を唄いつつ、観客から御代を徴収している者もいた。
けれども結局、それらの後には全てWAKAMEがいた。自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬ事を決心した。
それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛込もうとした。そこで急に命が惜しくなった。心の底からよそうと思った。
けれどもそこで背中を押され、自分の足は甲板を離れ、厭でも応でも海の中へ入らなければならなくなった。
既に自分がいない甲板で、WAKAMEがにこやかに手を振っていた。
そのうち船は例の通り、WAWAWAと音を立てて通り過ぎていった。
自分が『どこへ行くんだか分らない船でも、やっぱり乗っている方が良かった』と悟りそうになったところで、船がWAKAMEと音を立てだした。
目を逸らす。水の色は黒かった。
黒い波の方へ静かに落ちて行きながら、自分は最初から間違いであった事をようやく悟った。自分はたまらなくなった。
第八夜
床屋の敷居を跨いだら、白い学生服を着て固まっていた数人のキョンが、一度にいらっしゃいと言った。
真中に立って見回すと、いつもの部室のようである。自分がいつも座っている椅子の前に、鏡が六つ立てられていた。
腰をおろす。ここは部室であるが、鏡が六つあるせいで、たいていの場所は見る事が出来るようであった。
キョンが神様キョンに連れられて通る。双方とも得意のようであった。神様キョンの事はよく知っていたので、自分は見ないふりをした。
キョンが喇叭を吹いて通った。喇叭を口にあてがっているので、頬ぺたが蜂に刺されたように膨れていた。あるいは蜂に刺されたのをああやって誤魔化しているのかもしれぬ。確認しようとしたが、もう通り過ぎた後だった。
まだ御化粧をしていないキョンが出たところで、白い着物を着た大きなキョンが自分の後へ来て、鋏と櫛を持って自分の頭を眺め出した。
自分はこり気味の肩を竦めながら、「どうだろう、物になるだろうか?」と尋ねた。白いキョンは、何も言わずに、手に持った琥珀色の櫛で軽く自分の頭を叩いた。『頭は関係ないだろ』と思ったが言わずにおいた。
鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで目をみはっていたが、鋏が鳴る度に黒い毛が鏡の見たい場所に飛んで貼付くので、面倒くさくなってやがて眼を閉じた。黒い毛は、自分の瞼目掛けて飛んでくるようになった。
眼の奥に髪の毛が入らないようにぎゅっと瞼を瞑っていると、白いキョンが「あんたは表のキョン売りを見たかい?」と話掛けてきた。
自分は見ていないと言うと、急に白いキョンが「危ねえ!」と言った。
はっと眼を開けると、白いキョンの袖の下に自転車の輪が見えた。人力の梶棒が見えた。白いキョンは慌てる事なく鋏をちゃきちゃきと鳴らした。
そのとたん黒い毛が鏡に付き、自転車も人力車もまるで見えなくなった。見えないという事はいないという事である。鋏の音がちゃきちゃきする。
「餅屋ー、餅屋ー」と言う声が聞こえてきたので眼を向ける。鏡はもうほとんどが黒髪に覆われていて見えない。
唯一見えそうな部分を覗き込むと、キョンが息を切らしながら餅を買い漁るところであった。不思議な事に買っても買っても餅が無くなる気配はない。
餅屋が持っているのはたかだか15498個くらいだが、その15498個がいつまで勘定しても15498個である。
自分は呆然として、餅を買うキョンの顔と餅を見つめていた。すると耳の元で白いキョンが大きな声で「洗いましょう」と言い、返事を待たずに洗い出した。水が目に入り、自分は何も見えなくなった。
代を払って表へ出たところで、自分は自分がキョンである事を思い出した。とたん、周囲のキョンは皆キョンではなくなった。
「やはり髪を切ると清々しい気分になるもんだな」と歩き出す。と、門口の左側に、小判なりの桶が五つばかり並べてあるのを見つけた。
その中には赤いキョンや、斑入りのキョンや、痩せたキョンや、太ったキョンがたくさん入れてあった。そうしてキョン売りのキョンがその後にいた。
いつの間にか往来のキョンでない者は皆キョンに戻っていた。自分は振返り、再度床屋の敷居を跨ぐ事にした。
自分がそうしている間、キョン売りはちっとも動かなかった。
第九夜
世の中はいつも通りにざわついている。戦が起こるわけではないが、裸シャミセンが夜昼となく家の周りを暴れ廻り、それを夜昼となくWAWAWA共が犇きながら追いかけているような心持がする。
家の内はいつの間にか静かであった。どうやら妹と自分しかいないようである。両親はこんな夜なのに出掛けたようである。WAWAWAやシャミセンなら良いが、WAKAMEにだけは出くわさないようにと祈った。
一応妹に「親は?」と聞いてみた。今年小六になる妹はしばらく考えた後で、「あっちー!」と答えた。「何時帰るんだ?」と聞いてもやはり、「あっちー!」と答えた。将来が心配になった。
夜になって、辺りが静まったので、親でも捜そうかと表に出る。妹が「あたしもー!」と言いながら背中に負ぶさってきた。そしてそのまま寝てしまった。怪しからん。
どうやら雨が降っていたようで、湿った地面が自分の靴と擦れ合ってびちゃびちゃと不快な音を立てる。その音を聞きつつ妹を背負ったまま歩く。
二十間ばかり道沿いに進んだところで古い拝殿の階段の下に出た。WAKAME色に洗い出された賽銭箱の上に、大きなシャミセンがぶら下っている。昼間見ると、そのシャミセンの傍に『え、俺?』という額が懸っている。
鳥居を潜ると杉の梢で何故だかWAWAWAが鳴いている。自分はおもわずたまらなくなりそうであったが、妹が背中にいたので自重する事にした。
拝殿の前でシャミセンを鳴かせ、すぐに目を閉じ拍手を打つ。この時、何故かWAWAWAが急に鳴かなくなった。
どうやらシャミセンがカメレオンのように舌を伸ばしてWAWAWAを食べてしまったらしいのだが、自分はこの時目を閉じていたので、正確なところは分らない。
妹はシャミセンの鳴き声で目を覚まし、「『しゃーっ』でね、『グルグル』で、『ぱっくんちょ』なのー!」と、食べられるWAWAWAを見たらしく大喜びである。将来が心配になった。
妹を背中から降ろし、少しの間シャミセンに任せる。「好い子だから、少しの間待ってろな」と言うが、「シャミだ、シャミだー!」と聞く耳を持たない。怪しからん。
仕方ないのでシャミセンに「頼んだ」と言うと、妹に頬を擦り付けられながらも「にゃあ」と返事をした。それで自分は安心した。
それから自分は段々を下りて来て、二十間の敷石を往ったり来たり御百度を踏んだ。
踏み終わったところで、特に願いが無い事に気付いた。仕方ないので、拝殿でシャミセンと一緒に熟睡している妹の、健やかな成長を願う事にした。
満天の星空の下、月光に照らされた妹を見ながら、自分は心よりそう祈った。
ところで、こういう風に最後の方は完全に忘れ去られていた両親は、どうやらWAKAMEの家で持成されていたらしい。
妹を寝かしつけて部屋に戻るとWAKAMEがいた。「お土産はわたしです」と言われた。
いろいろと台無しであった。
第十夜
自分は絶壁の天辺に立っている。ハルヒが腕を組んだままこちらを見つめている。
はて、自分はどうしてこんな所にいるのであろうか? 確か自分は仲間の少女が倒れたので見舞に行こうとしただけである。
そこへ「見舞物を買いに行くわよっ!」とハルヒが言出したのが全ての始まりであったと思う。その後、何故か電車に乗り、何故か原を歩き、何故か急に絶壁の天辺に辿り着いたというわけである。
そも電車に乗った時点でおかしいと気付くべきであったが、今更後の祭りであろう。
「やれやれ」と言いながら肩を竦めようとしたところで、「あんた、ここから飛込みなさいよ」とハルヒが言った。底を覗いて見ると、切岸は見えるが底は見えない。
「意味の分らない事を言うな」と辞退すると、ハルヒは「思い切って飛込まないなら、WAWAWAにWAWAWAせるわよ」と、自分を脅迫した。
WAWAWAれるのは嫌だったが『けれども命には代えられない』と思って、やっぱり飛込むのを見合せていた。
ところへWAWAWAが一人WAWAWAと唄いながら来た。自分は仕方ないので、持っていたホーミングモードと書かれた金属バットで、WAWAWAの鼻面を打った。
WAWAWAは「ごゆっくりー!」と言いながら、ころりと引っ繰り返って、絶壁の下へ落ちて行った。ほっと一息ついていると、また一人のWAWAWAが自分にWAWAWAりにやって来た。
やむをえず自分はまた金属バットを振上げ、WAWAWAがまた一人穴の底へ転げ込んだ。するとまた一人現れた。
ふと気が付いて向うを見ると、遥の青草原の尽きる辺りから幾万人の数え切れぬWAWAWAが、群をなして一直線に、この絶壁の上に立っている自分を目掛けてWAWAWAしてくる。自分は心から恐怖した。
けれども仕方ないから、近寄ってくるWAWAWAの鼻頭を、一人一人丁寧に金属バットで打っていた。
不思議な事に金属バットが体に触れさえすれば、WAWAWAはころりと谷の底へと落ちて行く。底の見えない絶壁を、逆さになったWAWAWAが行列して落ちて行く。
それを見て我慢できなくなったらしく、「もういいわ! あたしが行くわよっ!」とハルヒがこちらに突進してきた。
『こんなに多くのWAWAWAを谷へ落したかと思うと我ながら怖いもんだな』と別の事を考えていた自分は、それに気付くのが遅れてしまった。
気付いた時は既に、自分のバットがハルヒを谷の底へ突落すように動き出しているところであった。
『ああ、このままだと、ハルヒを谷の底へころりと落してしまうよな』と思ったので、バットの軌道を変えるために、自ら谷へと飛込む事にした。
絶壁の上で呆然とするハルヒを尻目に、逆さになった自分が谷底へと落ちて行く。
自分は『どうしてそんな、ハルヒのために自分から飛込むような真似をしたのだろうか?』と不思議に思ったが、考えるのが面倒くさかったので、「やれやれ」と言いながら肩を竦めて、目を閉じて、そしてバットから手を放した。
その手をしかと掴む者がいたので目を開ける。ハルヒであった。自分を追って飛降りたようであった。そうして二人、逆さになって落ちて行った。
『どこで間違えたのだろうか?』と考えるが、どうも自分とハルヒが出会った事自体が間違いであるようであった。
『なら、何も間違いはないな』と分ったので、そのまま二人、抱締め合ったまま、谷の底へと落ちて行った。
自分もハルヒも笑顔であった。幸せであった。