五月雨ブッキングスクランブル  
 
「梅雨ねえ」  
 木曜の三限目。古典の授業中、ハルヒのつぶやきが俺の背中に降りかかった。ちょうど小雨が降り出してきたところだからか、その言葉には若干の湿り気が付帯しているようでもある。  
 俺は特に返事をしたりもせず、教壇で数百年前の日本語を呪詛のように唱え続ける国語教師の顔を漫然と眺めていた。昼休みまではまだしばらく時間がある。寝るには持って来いの環境である。  
「ねえキョン。あんた最近佐々木さんに会った?」  
 …………。  
 まどろんで船を漕ぎかけた俺の意識が、針でつつかれたように唐突な覚醒を促された。バラードを奏でるのに持ってこいのテンポを刻んでいた心拍は一気に三倍に跳ね上がる。  
 しかし俺はそれを顔には出さず、  
「何だよ急に。会ってねえよ」  
「あっそう」  
 気だるい時間の会話はそれきりで終了した。俺はハルヒがまだ何か突っ込みを入れてこないか心中で迎撃体制を整えていたものの、それはまったくの徒労に終わった。冷や汗と引き換えに眠気はどこかへ消えてしまい、何か損したような気分になる。  
 しかしまあ、相変わらず常人とは桁外れに直感のあるヤツだ。  
 ハルヒの十分の一ほどの勘を持ち合わせている方ならお解りかもしれないが、俺はつい昨日佐々木に会ったばかりである。心臓が早鐘を打っているのはその証拠で、とっさに俺が嘘をついちまったのにも当然だが理由がある。  
 それじゃ早速だが、その回想から始めるとするか……。  
 …………  
 ……  
 …  
 学校帰りだった。  
 ハルヒや古泉、長門に朝比奈さんといういつものSOS団の面々と別れた俺は、このところ週五のペースで降っている雨をうっとうしく思いつつ、傘をさして早足ならぬ早ペダルで帰途についていた。  
 ハルヒが世界を真っ二つに分裂させちまうという、春一番も真っ青な暴風吹き荒れる一台珍事は、すったもんだの末に半ば現状を維持する形でいちおうの収束を見た。  
 異世界人まがいの新一年生の正体には驚愕することしきりだったし、旧友佐々木が連れてきた奇矯な面々、周防九曜に橘京子、未来人藤原の思惑が縦横無尽に絡み合っての騒動には慨嘆しっぱなしだったが、  
それもこれも発端はハルヒだったわけで、俺としては今さらとやかく愚痴を言うつもりはない。  
 思うに、自分が今を楽しんでるって自覚がある上で懸案事項たる問題に立ち向かうってのは実に健全な状態であり、つまり今の俺は毎日が楽しくて仕方ないわけだ。  
 ドタバタのフィナーレを祝福するように催された鶴屋邸での八重桜花見大会も、そりゃあたいそう趣のあるイベントになったしな。  
 鶴屋さんが蔵から引っ張り出してきた着物をSOS団の三人娘が着てみたり、代々の歴史と伝統を感じさせる五月人形を拝見できたり、各人が持ち寄った柏餅をたらふく平らげたり、とかく貴重なひとときだった。  
 このようにして、奇妙奇天烈な不可思議現象と、どこにでもあるようなささやかな年中行事やら日常やらを交互に味わっていくことこそが、今の俺が自分の立ち位置を存分に謳歌できていると感じるゆえんなのである。  
 などと恒例の一人反省会を脳内にて実施していたからだろう、注意力が散漫になって、突然出てきた人物の存在に気がつかなかった。  
「おっと」  
「うわ」  
 急ブレーキをして衝突を避けた矢先、よろけて倒れそうになる自転車をなんとか片足で止めたものの、持っていた傘が地面に落ちた。解ってるつもりだったが雨の日の片手運転はやっぱり危ない。  
「すんません」  
 傘を上げて謝辞を述べた俺の口はそのままぽかんと開きっぱなしになった。  
「おおこれは。ご無沙汰しております」  
「新川さん?」  
 ばったり会ったのは新川さんに相違なかった。  
 
 一瞬誰だか解らなかったのは、見慣れた執事姿でもスーツ姿でもなかったからだ。初老の皺が目尻に浮かぶ新川さんは普通に普通の私服姿だった。  
 カジュアルなダークブラウンのベストはどこかのブランド物だろうか。出で立ちだけ見ればその辺を歩いてるちょっとおしゃれな男性と変わりない。  
 俺は一度チャリを止めると、傘を拾いながら、  
「どうしたんすか? こんなところで」  
 ここは閑静な住宅街だった。あと二分も歩けば俺の家に着く。こんなところで新川さんに出くわす理由に特別な心当たりがないが。  
 新川さんは小雨の鬱陶しさをまるで感じさせない微笑をたたえながら、  
「今日は用事もありませんから、市内を散歩していたところです。あいにくの空模様ではありますが、これはこれで風情があります」  
 と、渋みのあるバリトンボイスでおっしゃった。  
「散歩……ですか」  
 新川さんはこのあたりにお住まいなんだろうか? だとすれば今まで顔を合わせなかったのが不思議なくらいだが。  
 疑問が次なる疑問を手招きした。  
「そういや新川さん、普段は何をなさってるんですか?」  
 『機関』の内情がどうなっているのか、そういえば真面目な話を一度も聞いたことがない。俺がいつでも聞けると思ってたからなのか、はたまた古泉がうまい具合にはぐらかしてきたからなのか。  
 ともかく、森さんに多丸さん兄弟、そしてこの新川さん。ハルヒの力によって集まることになっただろう面々がオフの時間(ってのもアレだが)に何をしているのか、今さらながらに少し興味があった。  
 新川さんは古泉のそれに深みの成分を加えたような笑みで、  
「一般の方々となんら変わりはありません。一日が始まれば、すべきことをして、次の日を迎える。それだけです」  
 と、具体的には何も明かさない内容を述べて、  
「すみませんがそろそろ行かねばなりません。失礼いたします」  
 いつもの慇懃な礼をして去っていった。  
 上背のある後姿を五秒ほど見つめながら、俺は新川さんがまだ会社勤めをするような歳かどうか、だとすれば役職はどのへんで給料はいかほどかなどとケッタイな想像を膨らませていた。  
 とまあそんなことはどうでもいい。いやよくはないが、本題とは関係ないのである。問題はこの後だ。  
 雨足が若干強くなってきたため、俺は再びママチャリのペダルを漕いで自宅へ急いだ。今度は通行人や自動車と衝突することのないよう、注意しながら。  
 そのおかげか、自宅に通じる最後の角を曲がった直後、玄関前に誰かがいることに気がついた。何となくの雰囲気で妹の友達だろうかと推測をつけたが、それは大きな間違いだった。  
「げ」  
「あら、お帰りなさい。待ってました」  
 その人物はブラウンのブレザーにチェック柄のスカートという出で立ちだった。早い話が学校の制服だ。どこのものだか記憶になくもないが、混乱のせいもあって咄嗟には頭から出てこない。  
 その人物は見覚えのある傘から片手を出して、  
「雨、止みませんね。そういえば前に集まった時もこんな天気でしたっけ」  
「何しに来た」  
 できることなら会いたくない顔ベスト3に入っている人物である。表情も心境もたちまち曇天の空模様になる俺へ、  
「あら、愛想がないんですね。初めて会ってからもうかなりのものだし、そろそろ少しくらい打ち解けてくれてもいいんじゃないですか?」  
 淡い色の傘がくるりと回る。  
 麗しの先輩、朝比奈さんを二月に誘拐した一味の首魁、橘京子が立っていた。  
 
 降りしきる雨の中、俺は心中で警戒のサイレンを鳴らしつつ、  
「知り合いをさらった人物に親しく接しろってほうが無理な話だろ」   
「だから。もうあんなことはしませんって、何度も言ってるじゃないですか」  
 橘京子はせせら笑いのような声をかける。進級を破滅的に祝うような春先の一件以来、まともに顔を合わせるのは初めてである。古泉からその後の動向だけは風の噂程度に聞いていたが。  
「今度は何を企ててんだ」  
「また。すぐにそういう陰謀めいた方向に持っていくの、やめてもらえませんか?」  
 無駄に愛嬌のある口調も相変わらずだ。これで何も企んでないほうが詐欺ってもんである。  
「今日は今までのお詫びに来たのです。謝罪ってほど大それたものでもありませんけど」  
 そんな間柄になった覚えも、なるつもりもない。どっちかっつうと犬とサル、あるいはハブとマングースでもいいが、そっちのほうが近い関係だろ。  
「それをちょっと、小指の先くらいでいいから解消しようと思って来たのです。お時間、大丈夫ですよね?」  
 橘京子は首をちょっと傾げて視線をこちらへ向けた。時間はあるが誘拐犯につき合うゆとりはないね。  
「あるんですね。よかった!」  
 
「…………」  
 これまで、俺のお人好しレベルはせいぜい常人に毛の生えた程度だと思っていた。  
 しかし本日づけで善人クラスまで昇格せねばならんようだ。  
「何でついてきちまったんだ」  
 溜息と愚痴が同時に漏れる。ブッダ並の悟りを開く日も遠くないのかもしれん。とうとう俺も開祖にまで登りつめたか。  
「独り言漏らすのはクセなんですか?」  
 傘越しにこっちを振り返る橘に、俺はぶしつけな視線を投げ、  
「ほっとけ」  
 いったい何が好きで元来た道を引き返さねばならんのか。  
「どこに行く気だ」  
「いつものところです。すっかりお馴染みの」  
 二度目のため息が漏れた。前方を歩くお下げ髪にではなく、そのフレーズだけでピンときちまった自分にだ。  
「何しに」  
「着けば解ります」  
 それを今知りたいんだが。  
「また会合じゃないだろうな」  
「ちょっと違います」  
 ちょっとってのが気になる。  
「いいから黙ってついて来てください」  
 今にして思えば、どうして断らなかったのか我ながら不思議だった。みすみす戦地へ地雷を踏みにいくようなものじゃないのか、これは。  
 
 果たして着いたのは予想に違わず、SOS団御用達として近々市内観光ガイドにも紹介されそうな(冗談だが)、お馴染みの喫茶店だった。  
 店に入るやテーブルの一つから手が挙がった。橘京子は、まるで陽子に引き寄せられる電子のようにふらふらとそこまで誘引される。  
「や。僕のほうが先だったね」  
「ごめんなさい。待たせちゃいました?」  
「佐々木?」  
 先に座っていたのは佐々木だった。激しい既視感に捉われた俺は用心深く店内を見渡したが、他に知ってる顔は見えなかった。いつかのようにネガティブな取り巻きがいるわけではないらしい。  
 俺は佐々木に向き直って、  
「学校帰りか?」  
「まあね。今日は塾もないから、こうしてちょっとした息抜きもできるってものさ」  
 佐々木もまた制服を着ていた。一年ぶりの再会以来、折を見て何度か顔を合わせるようになってはいたものの、高校の制服姿の佐々木を見るのはこれが初めてだった。落ち着いた色合いのブレザーとスコットタイ、座席の傍らには学校指定のものと思しき学生鞄が置いてあった。  
「用ってこれか?」  
 と、俺はここまで無用の水先案内人と化していた橘京子の方を見て言った。佐々木とは異なる制服を着た超能力娘は、妙に嬉しそうな笑みでこくんと頷いた。  
「まあ、まずは座ってください。さ、遠慮なく」  
 佐々木の向かいに座った橘京子は、佐々木の隣を俺に指し示した。  
「何の真似だよ」  
「何の? さて何でしょう。あ、すいません、ホット三つお願いします」  
 花咲く季節の躁病患者のように楽しげな橘京子はちょうど通りかかったウェイトレスにオーダーをした。念のため確認したがウェイトレスは喜緑さんじゃなかった。アルバイトを辞めたのだろうか。  
「キョン、もう少し肩の力を抜いたらどうだい。それじゃまるで張り込み中の刑事だ」  
 
 佐々木に言われ、俺は必要以上に険しくなっていた眉根をもみほぐした。  
 いかんいかん。ここしばらく目立った出来事がなかったことによる反作用か、無意味なまでに不思議アンテナの感度が鋭くなっているようだ。ハルヒが知ったら驚喜乱舞しそうだな。  
「これで全員なのか。まだ奇天烈なゲストがいるんじゃないだろうな」  
 言うまでもなく藤原と周防九曜の理解不能ツートップのことである。敵陣に切り込んでゴールを決めたら、自陣じゃなく敵陣の得点がマイナスになりそうなくらいには行動の読めない奴らだ。  
 尋ねられた橘京子は古泉の女版みたいな微苦笑モードで、  
「いません。どっちもこの頃集まりが悪くて」  
 そりゃ喜ばしい。集まって密談した挙句、時間と空間を超越した二尺球を破裂させられちゃかなわんのでね。盆以外の花火炸裂大会はハルヒ一人で十分だ。  
「まあまあキョン、過ぎたことはいいじゃないか。実を言うと、僕も今日橘さんに呼ばれた理由を知らないんだ。楽しみにしていたところさ」  
 俺は恐々としてるが。  
「そう?」  
 佐々木は喉の奥でクックッと笑った。この仕草だけは中学時代からまったく変わっていない。  
 
 ちょうどオーダーのホットコーヒーが運ばれてきたところで、橘京子はようやく本題を切り出した。  
「デートしませんか?」  
 何か口に含んでいたら即刻吹き出していただろう。カップに手をかけたところだったのは幸いだ。  
「何つった?」  
「だから、デートしませんかって。意味通じてませんか?」  
 いや、国語も英語もここ最近は平均点に届くかどうかってくらいの成績を収めているし……ってそんなんじゃない。意味は通じてるとも。そうじゃなくて。  
「デート?」  
 佐々木も意外だったらしい。単語の意味を忘れたような表情を一秒ほど浮かべたのち、首をわずかに傾け、  
「誰がするの?」  
「もちろんあなたたち二人です!」  
 橘京子は満面の笑みと共に言い放った。近くの客がチラチラとこちらを見る目が痛い。  
 衆目を知ってか知らずか、佐々木はそしらぬ顔で柳眉を上げて、  
「僕が?」  
 自分を指差した。  
「はいっ」  
 橘京子はあっさりと首肯。俺も佐々木に倣い、  
「俺と?」  
「ええ」  
 なぜ。  
「だから、この前のお詫びに。お互い色々と大変だったじゃないですか。だから」  
 だからって何がだからなのだろう。ちっとも文脈が繋がってないぞ。  
「もうコースも決めてあります。なんにも心配いりません」  
 そう言うなり、橘京子は自分の鞄から近場の観光スポットやらレストランやら博物館やらテーマパークやらの資料およびパンフをやたらめったらに広げ始めた。その鞄は四次元空間にでも繋がってんのか。  
「心配ないどころか心配しかねえよ。なぜ俺が佐々木とデートせにゃならん。お前そもそもデートって言葉の意味本当に解ってんのか」  
「あなたが知ってるのにあたしが知らないわけないじゃないですか」  
 小癪な一言を放った小娘は、  
「ね、佐々木さん。どうですか? もちろん資金はあたしが持ちます。全部」  
「全部?」  
 佐々木は少し驚いた様子で訊ねた。橘京子は結った髪が跳ねるほど深く頷いて、  
「安心してください。やましいことは一切ないですから」  
 いかがわしさ満点である。これで怪しくないと言うなら今から俺は路上のキャッチセールスに片っ端から快諾してみせることができるだろう。  
「お前の話が今までやましくなかったことがあったかよ」  
「どうですか? 佐々木さん」  
 無視かい。  
 
 あっさり拒否すると思いきや、意外にも佐々木は考えるように顎を引いた。アメジストのように透き通った瞳を橘京子に向けた佐々木は、  
「いつ?」  
 おいおい待ってくれ。  
「佐々木、まさか行くつもりじゃないよな?」  
「さすが佐々木さん! 乗ってくれると思ってました」  
「お前は口を挟むな。佐々木、血迷うな。お前らしくもない」  
 この言葉に佐々木はぴくっと眉を動かして反応する。  
「さてキョン。キミが今ここにいるのはどうしてだろう」  
 湖面のような瞳がこちらに向いた。俺は思わず心臓を押さえそうになる。さて、何でだろうな。  
「気づいたらついて来てたんだ。行き場を無くした捨て犬が思わず通りかかった子どもについていくような感じというか」  
「へえ?」  
 佐々木は面白いものを鑑賞するような目を向けながら、  
「僕は近頃少し退屈していたんだ。春先の毎日がこれまでに比してかなり刺激的だったものだからね」  
 クスッと笑う佐々木の表情は、俺に本音の吐露を促しているように見えて仕方がない。  
「言いたいことがあるなら言ってくれ」  
「別に? ただ、こういう息抜きがどれだけ貴重なものか知らないのは少し浅はかだったかなと思うんだよ。特に、春以前の僕自身に対して教唆したい事柄でもある」  
 口の端がむずむずと痒くなってくるのは何の効能だろう。さっき刑事みたいだと言われたばかりだが、今度は一転して自白を強要される被疑者のような心境だ。  
 落ち着くためにコーヒーを飲もうとした矢先、  
「本当は行きたいんでしょ?」  
「うあっつ!」  
 橘京子の茶々が入った。何つうタイミングで口出ししやがる。火傷したじゃねえか。  
 誤魔化しのようにカップを置いた俺は無意味に腕組みして、  
「よし解った。時間をくれ。二日でいい」  
「そんなに?」  
「これでも譲歩してるほうだ」  
 冷静な頭で考えないことには何かしらの後悔を生みそうだ。  
「解りました。それじゃ佐々木さん、また連絡してくださいね」  
「解った。キョン、返事は僕にしてくれればいいよ。橘さんには伝えておくから」  
 橘京子と佐々木は、それぞれに趣の異なる笑みを浮かべて言った。  
 …  
 ……  
 …………  
 ということがあったのである。今にして思えばありゃいったい何だったんだというくらいに意味不明な提案だった。あまりの精神的衝撃に、その後どうやって自宅まで帰ったか覚えていないほどだ。  
「どうかしましたか? 妙に難しい顔をしていますが。そんなに効果のある一手でしたか」  
「ん?」  
 俺は今現在の状況を認識すべく周囲を観察した。  
 放課後で、文芸部室である。正面のテーブルには連珠盤。聞こえたのは、梅雨の湿気と無縁の無駄に爽やかな古泉の声だった。  
「何でもねえよ。ほら」  
 と、俺は一手を指して手の平を上向けた。古泉はいつもの如才なき姿態とともに沈思黙考の構え。  
「なあ古泉」  
 気を取り直して俺は質問する。  
「お前、例のあれがない時は何してるんだ?」  
 
「あれとは?」  
「ほら、お前は時折『機関』とやらの非常勤任務に出向いてるだろ。それ以外の時間はどうしてるのかと思ってさ」  
 古泉は盤上に目を向けたまま背もたれに身を預け、  
「これまでに何度か申しましたように、普通の高校生と何ら変わりない生活を送っていますよ。そういう部分こそが大事なのでね」  
「それはあの新川さんとか森さんも一緒なのか?」  
 ここで古泉は目線をこちらに向けた。一度瞬きして、  
「詳しくは話せませんが、まあさほど変わりありませんよ。むしろ違っていた場合どんな生活をしているのか、僕が知りたいくらいです」  
 区切りのいいところで古泉は一手を指した。  
「じゃああいつらはどうなんだ。橘京子とその仲間連中は」  
 二月。二人になった朝比奈さんとお使いRPGをこなしていく際に起きた誘拐事件。そこでの顔ぶれをぼんやり思い出しながら俺は言った。  
「さほど我々と変わらないのではないでしょうか。見た目は普通、というのはあなたもご存知の通りですね。そういう側面が肝要なのはあちらとて同じでしょう」  
 俺は肩をすくめて嘆息した。  
「さきほどから様子が変ですが、何かあったのですか?」  
 古泉は元名優の初老探偵が浮かべるような優雅な笑みを振りまいた。  
「言っただろ、何でもない。ただこのところ妙に静かだと思ったもんでね。いったい連中は何をやってるんだろうかと勘繰っただけさ」  
 俺は窓辺で文庫を読み進める長門を見ながら言った。ちょうど二ヶ月前、周防九曜の妙ちきりんな力のせいで寝込んじまった姿を思い出す。  
「想像以上に厄介な展開でしたからね。向こうもうかつに次の手を打てないのではないでしょうか。たとえ涼宮さんの力によるものであったとしても、世界が分岐してもう一人の僕やあなた、涼宮さんが生まれるのはもう懲り懲りですよ」  
 それは俺も同感だ。同じ時期の記憶が二種類あるのは気持ち悪いったらない。  
「まだ昨年末のように、何者かの力によって模造記憶を植えつけられていたほうがましだったかもしれませんね」  
 とはいえ世界改変もごめんこうむりたいが。  
「佐々木に力を移すとか言ってたのは結局どうなっちまったんだ?」  
 その問いに古泉は静かに首を振った。  
「繰り返しますが、僕に解るのは涼宮さんに依然として力が宿っているということだけです。あなたのご友人については何も。そうでなければ、そもそも橘京子の一派を異端視したりはしなかったでしょうね。それはあちらも同様です。  
彼女たちは佐々木さんについて解る代わりに、涼宮さんと、彼女が発生させているだろう様々な現象について体感的に理解することができないのです」  
 古泉の話によれば、世界をどうにかるほどの謎パワーは今もハルヒにあるらしい。春からこっち、閉鎖空間の発生頻度は少しずつ減っているものの、時々思い出したように《神人》が暴れるのだそうな。  
「決着を見ていないのは確かです。あいにく僕は未来人ではないので、この先どうなるのかは解りませんが」  
 と、古泉は目の端で朝比奈さんを見た。このところ心なしか成長した気もする俺の先輩は野郎二人の目線に気づかず、長門から借りた魔女の物語に没頭している。そういや大人版の朝比奈さんともご無沙汰だな。質問したい事柄が山のようにあるのだが。  
 
 結局、古泉にもハルヒにも昨日の一件を明かすことはなかった。つうか言えなかった。「橘京子に乗せられて佐々木とデートするかもしれない」なんて話せばどうなるか解ったもんじゃない。  
「じゃあどうすんだ、俺よ」  
 夜、自室の机でハルヒ謹製の英語問題集を前に、俺は呻っていた。  
 何か引っかかる。  
 別に、佐々木とどこかへ出かけるってだけならさして後ろめたいことはない。あいつが『親友』と言ったように、俺だって佐々木を親しい友人として認識している。友人と連れ立って休日に気晴らしに出かけるのはいたって普通の行動だ。  
 デート。  
 問題はその一単語である。橘がふざけてるのか茶化してるのか知らんが、デートってのは通常恋人同士に使う言葉であって、友人の間柄にある二人に用いるものではない。  
「キョーンくんっ!」  
「のわっ!」  
 呻吟していた俺の眼前に受話器が差し出された。  
「電話だよー」  
 妹である。シャミセンの出入り用に開け放したドアから侵入を果たしたらしい。  
「誰から?」  
「サキちゃん!」  
 受話器を受け取った俺は口を真一文字に結び、シャミセンを追いやる時と同じ仕草で妹を部屋から退散させて、電話に出た。  
『や。相変わらず妹さんは元気でいいね』  
「まるで成長の兆しがないから、最近逆に心配になるぞ」  
 
 電話越しの佐々木は笑うような間を置いて、  
『あれだけ純真無垢でいられるのも貴重じゃないかな。羨ましいね』   
 もしかして、俺がヒネクレてる分妹にピュアな心が行ってしまったのか?……あるかもしれない。俺は溜息つきつき首を振った。  
『考えてみたかい?』  
 屈託ない調子で佐々木が言った。何のことか思い出した俺は、幾分真面目さを取り戻して、  
「本気で行くつもりなのか? あいつに話を合わせたとか、そんなんだったら遠慮なく断っていいと思うぞ。何なら俺が返事してやってもいい」  
 ややあって、  
『それはないね。橘さんは僕の大切な友人だ』  
「友人ね」  
 この二ヶ月の間に佐々木の橘京子に対する認識は知人から友人に昇格したらしい。  
 俺はハルヒや鶴屋さんとは微妙に異なるベクトルで明るい橘京子の笑顔を思い浮かべだ。  
 確かに悪気はなさそうだが。それは前回も一緒だった。  
「しかしだな。こう言っちゃ何だが余計な提案だったぞ」  
 俺がそう言うと、佐々木は少しの間何も話さなかった。何か考えているような気配があって、  
『彼女は健気なんだよ』  
 と言った。何を思っての発言なのか、すぐには判別しかねる。  
『藤原や周防さんは彼女がいなければ集まらなかっただろうね』  
「別に――」  
 集まってくれなくてよかった、と言いかけるのを慌てて止めた。  
 ――僕には彼女たちしかいないんだ。他に寄ってきてくれた人はいなかったよ。  
 春、佐々木が呟いた言葉が不意に蘇った。  
「いやすまん。しかし俺としてはさ」  
『日曜日の午前十時、いつもの駅前で』  
 そう言って電話は切れてしまった。単調な機械音だけが、受話器を手にした俺の耳朶を打っていた。  
 
 子機を放り出すと、俺はベッドに仰向けに寝そべって天井を見上げた。  
 佐々木は佐々木で何か思うところがありそうだった。一方的に電話を切るなんてことがこれまでにあっただろうか。単に橘とのつきあいで話に乗るようなタイプでもないだろうし。  
「しかしまあ、よく降るもんだ」  
 窓の外は今日も雨降りだった。例年にないくらい今年の梅雨はよく雨が降る。そういや去年はどうだったかなとしみじみ回想した俺は、ハルヒと閉鎖空間から帰ってきてもう一年経ったのかと思い至った。  
 あの時は俺も若かった、なんて言いたくなるくらいには遠い昔に感じる出来事だ。閉鎖空間やら情報統合思念体やら、常識を超越した存在の数々を受け入れることができずにいた、一年前の自分。  
 ピリリリリリ――、  
 電話が鳴った。子機じゃなく携帯のほうだ。日中マナーモードにするのを忘れていたことにヒヤヒヤしつつ、俺は電話に出た。  
『もしもし?』  
 この一年最も聞き慣れた声がした。  
「ハルヒか?」  
『ええそうよ』と言ったハルヒは続けて、『キョン、あたしの作った問題集ちゃんと解いてるでしょうね?』  
「ああ」  
 解いてるさ。進捗状況ははかばかしくないがな。仮にも中間でそれなりの点取れたのは、やたらと山が的中するこのハンドメイド問題集のおかげだ。  
『そう。ならいいのよ。あんたはこっから先平均以下の点を取らないようにするんだからね。目標は学年上位三十位以内キープよ』  
 そりゃまた随分とハードルが高いな。  
『国木田レベルまで引き上げたげるって言ったでしょうが。あたしは言ったことは必ず実行するのよ。文武両道がSOS団のモットーなんだから』  
 文武両道ね。何度か聞かされてきたことだ。あの活動内容のどこらへんに「武」の文字が適用できるのかさっぱり解らんが。  
『うっさいわね。つべこべ言うんじゃないの』  
 ここでハルヒは一度息継ぎするような間を置いて、  
『それはそうと、あんた次の日曜日ヒマ?』  
「…………」  
 さてな。何かあったような気がする。  
 
『どうせ何もないでしょ? 日曜の朝十時、いつものとこに来なさい』  
 日曜日、十時。いつものところ。  
「ハルヒ、その日はちょっと用事があってだな」  
『何? 家族と出かけるとかそんなん?』  
「ああいや、そういうわけじゃないんだが」  
『じゃあ決まりね。市内探索するから。一ヶ月以上ご無沙汰だったでしょ』  
 そういやそうだな。班分けしないで回るようになって一回か二回やったきりだ。  
『だから集まるわよ! あたしの勘では、この長雨に油断した不思議な出来事が今頃市内にはびこってるところよ』  
 俺は降雨の中意味もなく巨大UFOが市内上空をインメルマンターンする様を思い描いて身震いした。裂けたアスファルトからは得体の知れない触手が伸びてのた打ち回っている。世紀末だ。  
『そういうことだからよっしく。グッバイ!』  
 通話終了。例によって小気味いいほどに一方通行だ。断る隙もない。  
「ちょっと待て」  
 俺は壁にかかったカレンダーで日付を確認した。日曜日。約束の時間は午前十時。佐々木の予定と綺麗にブッキング。  
「………………」  
 俺は初対面時の長門ばりに三点リーダを連続させた。このまま三日後を迎えれば俺は打ち首になりかねない。そう思うや背筋がぞくぞくと冷えた。  
「やれやれ」  
 などと悠長にしている場合でもないだろう。たぶん。  
 
 翌日の昼休み。  
「キョン。顔色が悪いようだけど大丈夫?」  
 国木田の声が鼓膜を素通りする。俺は箸の端を噛んで半眼で正面を眺めていた。  
「ああ」  
「ほんとに? 具合悪いなら保健室に行ったほうがいいよ」  
「ああ」  
「ほっとけ国木田。どうせまた涼宮がらみで何かあったんだろ。ったく懲りねぇよなあ」  
「ああ」  
 別段聞きたいとも思わない谷口の声もまた耳を素通りした。  
「あああ」  
 俺は本気で考えていた。  
 どうやって日曜日を乗り切ればいいか?  
 約束の順番から言ってハルヒに断りを入れるのが筋ではあるのかもしれない。しかしどうやって? 家族の用事ってイイワケは使えないうえ、ちょっとやそっとの嘘じゃあいつには余裕で看破されちまう。  
 勘の切れ味にギネスレコードがあるなら、あいつはその後百年単位で塗り替えられない記録を作ることができるだろう。  
 じゃあ佐々木の方に断りを入れるか?……いや。それだって考えものだ。佐々木は佐々木で卓抜した洞察力を持っているんである。  
 もしハルヒの予定を優先させてのキャンセルなんてことが解ったらあいつは密かに悲しむかもしれん。そういう感情を一切表に出さない奴ではあるにしろ。  
 
 という具合に煩悶しつづけること半日。  
「…………」  
 昼休み。部室で頭を抱える俺を、読書中の長門が琥珀のような瞳で見ていた。  
「長門、お前は何かに迷ったりすることはないのか?」  
「?」  
 俺の質問に長門は首を三ミリほど傾けた。  
「いや、別に深い意味はないんだ。ただ、お前はいつも自分の意思を曲げないなと思ってさ」  
「……」  
 長門は読みかけていた本を伏せると、誤差範囲程度に顎を引いて、  
「ある」  
「え?」  
 それきりまた読書に戻ってしまった。  
 
 いったいどういう状況で長門が迷ったりするのか気になったものの、さしあたって問題になるのは俺の頭を独占することしきりの二択課題であるから、俺は首を振って解決策を再考することにした。  
「……」  
 時折長門がこちらを気にしていたような気がしたのは思い過ごしだっただろうか。  
 
「キョン? 聞いてんの?」  
 放課後、ハルヒの声がいやに強く響いた。  
「ああすまん、何だっけ?」  
「再来週のフリマに出展するものの候補、何かあったら意見出しなさい」  
「特にないな」  
「あんた今何も考えずに答えたわね。罰則を科すわよ」  
「あーすまん。妹が遊ばなくなった人形セットとか、ほとんど新品のまま投げたシュミレーションゲームとかでいいか?」  
「既製品ね。まあいいわ。枯れ木も山の賑わいっていうし」  
 人に出品強請しておいてそれかよ。  
 とか思ってる間にハルヒは朝比奈さんに標的を変更した。前回同様大量の衣類が破格の安値で出回ることになろう。すでに瞳が潤みかけているスウィートメイドさんに幸あれ。  
 正面を向くと古泉が真顔で俺を直視していた。何だよ。  
「隠し事ですか? 関心しませんね。あなたはさほどポーカーフェイスが得意でもないようですし」  
 玲瓏な声が響く。さて何のことだか。  
「涼宮さんが三度呼ぶ間、あなたは完全に思考の檻にこもったままでしたよ。あなたをそこまで悩ませる案件とはいったいどのようなものでしょうか」  
 それでも俺は口を開かずにいた。  
 ここで古泉に心情を吐露してしまえば、最終的に佐々木との約束を反故にしかねない……そう思った。  
 古泉は完全にハルヒの味方だ。俺がハルヒの機嫌を損ねるような選択をしようとすれば、何か問題が起きる前に止めてくるかもしれない。  
 無論、俺だってこのSOS団がホームであり、それはこの先だって変わらない。春先の橘京子の申し出――ハルヒの力を佐々木に移送する――をすっぱり断ったのもそういう理由があったからだ。  
 そうは思うものの。  
 電話越しに佐々木が発した声を思い出すと、どうしても今回の約束を断るのは避けたかった。いわく名状しがたき感覚。  
 
 古泉の執拗な視線攻撃を無言の体とともにやり過ごした俺は何とか帰宅時間を迎えた。当然だが問題のほうは何一つ片付いていない。  
「それじゃ日曜日に駅前で。キョン、遅刻もダメだけど早すぎてもダメよ」  
「何だそりゃ」  
「奢りになるのを避けたいからって、一時間も前から待ち伏せてるのは反則ってこと」  
 お前いつだったか、自分がビリにならないためなら前日から泊り込みしてでも待ってやるとか言ってなかったか。  
「それは意気込みの話よ。実際にやるかは別ね」  
 相変わらず理屈の通じない奴である。  
 言うだけ言うと、ハルヒはさっさと踵を返して走り去った。俺を含む残った面子も三々五々に解散し、さて帰るかと自宅方面へ足を向ける、  
「……」  
 すっかり帰ったと思ってた長門有希がこちらを見ていた。  
「長門、どうした?」  
 長門は俺というより、その向こうにある空間に穴でも開けそうな視線を数秒に渡って送っていたが、  
「……」  
 結局何も言わずに帰っていった。何だったんだ?  
 俺は首を捻りつつ頭も捻って、軽やかとはいえない足取りで自宅を目指した。  
 
 突然だが、人には決められた時間までにやっておかなければならない雑事ってものが何かしらあるもんだ。それは有形無形を問わず目の前に現れ、本人の意思を問わず難題を突きつける。  
 身近なところで言えば定期試験なんてのがそれにあたる。学生やってる以上どうやったって避けられないが、期日は残酷にも確実にやって来るんである。  
 慌てて準備するくらいなら事前に対応策を練っておくのが定石ってものだが、そうほいほい片付けられるんならそもそも問題にはならず、ついぞロクな対策を講じぬままに本番を迎えてしまい、  
結局甚大な被害とともに瀕死寸前になることも何度かあった。  
 失敗は成功の母である、とは発明家トーマス・エジソンの言葉だったか。まことにその通りで、何も学ばないのであれば以降も同じ失敗を繰り返すに違いなく、先人の言葉とはかようにありがたい響きを伴う福音のごとき――、  
「キョンくん。どしたの? ぼーっと立ったまま」  
 階段から降りてきた妹が声をかけた。おう、出かけるのか。  
 
「うん。ミヨちゃんとこ」  
 そうか。次はぜひ遊びに来いよと言っておいてくれ。  
「うんっ。じゃあねキョンくん」  
 傘を持った妹は、ドアを開けてぱたぱたと出て行った。外は小雨だったが、俺にとっては中南米辺りを旋回中のサイクロンがまかり間違って目の前に現れちまったくらいの荒れ模様に思える。  
「なぜだ」  
 気がつけば約束の日を迎えていた。  
 俺は何ら対策を講じることもないまま、ぼさっと玄関に突っ立っている。  
 手遅れである。処置なしだ。俺は今から処刑場に向かうのかもしれない。なぜこんなことになったのか? この二日間の己が行動を振り返っても取り立てて反省点が見当たらないように思えるのはなぜだ。  
 これまでのトンデモ現象を何とか乗り切ってきた自信と言えば聞こえはいいかもしれない。しかしそんなものはこの場においては砂上楼閣ですらない。嵐は既に俺の行動圏内を全域包囲しているのだ。  
 俺は十字を切るキリスト教徒の心境で、爆心予定地へと大いなる一歩を踏み出した。  
 
「どういうこと」  
 鼓膜と心臓を稲妻のようにつんざく声が俺を出迎えた。  
 いや、実際はそこまで深刻なトーンじゃなかったのかもしれん。が、二ヶ月前と同じような顔ぶれが揃ってる場面にまたも出くわして、平然としていられるほどの肝っ玉は俺にはないらしかった。  
 そこにいたのはハルヒと古泉、佐々木と橘京子、それとなぜか未来人藤原の計五名だ。  
 前回と顔ぶれが微妙に違っている。欠員は周防九曜と長門、そして朝比奈さんか。  
 なぜ今日に限ってSOS団三人娘のうち二名がいないのかさっぱり解らなかったが、悠長にそんなことを訊いている暇はなさそうだった。  
 俺を除く五名の傘がパラボラアンテナみたいにこちらへ向いた。俺に向かって一言発したハルヒを見ていた佐々木が、  
「キョン、僕も訊きたいところだ。先約があったとは聞いていなかった」  
 俺は責任の追及に対して舌が回らなくなる政治家の気分を存分に味わいつつ、  
「あー、佐々木。そっちが先約で合ってる。後から入ってきたほうがこっちだ」  
 と、なるたけプレッシャーにならない対象を視線で探すと、古泉の形骸のような笑みにしか行き当たらなかった。朝比奈さんの不在が悔やまれる。  
 何ら心の安寧を得ることもないまま俺は第二波による攻撃を受ける。険のこもった調子でハルヒが、  
「あらそうだったの。キョン、用事ってこれね。ははん、そりゃ市内探索もできっこないわね。時間までピッタリ一緒なんだから」  
 だから断ろうとしただろ。  
「はっきり言わなきゃ解んないじゃない」  
 お前が一方的に電話を切ったんだろうが。  
「それでも後から言うチャンスはいくらでもあったんじゃないの?」  
 う。それはだな。  
「とにかく全面的にあんたが悪いわ。こんの優柔不断、スットコドッコイ」  
 ハルヒは俺の良心をバックドロップで投げ飛ばした挙句ロケットランチャーで見事に狙撃粉砕した。ライフゼロ。  
 眉を正弦曲線のグラフみたいにねじ曲げたハルヒは、  
「もういいわ佐々木さん。こいつをどこへでも連れてってちょうだい。顔も見たくない」  
 おいおい。  
「そう? 何だか悪い気もするけど」  
「いいのよ。遠慮しないで。罰則を考える時間も欲しいとこだしね。さ、古泉くん。こんなバカはほっといて行きましょ」  
 ハルヒは古泉の手を引いた。SOS団きっての微笑みキングは取るべき態度を一瞬決めかねたものの、最終的に団長に付き従った。  
 去り際、俺に非難するような、警告するような視線を飛ばしてきたのが癪だ。  
「キョン。僕が言うことでもないかもしれないが、友人は大切にした方がいいよ」  
 佐々木は普段と何ら変わりない穏やかな口調と表情で言った。  
「いいんだ。あいつもそろそろ年相応の分別を身につけたっていい頃だ」  
 
 何の思考も解さず口から反発の言葉が出た。意味もなく腹立たしかった。去年の映画撮影で朝比奈さんをかばう時に感じた怒りの縮小版みたいなむかつきがする。  
 大体いつも一方的なんだ。ハルヒの奴は。そのために俺がどれだけ振り回されてきたと思ってる。  
「あの、それじゃ出発していいですか?」  
 口を開くタイミングをずっと計っていたのか、橘京子が控えめに提言した。  
「おう。どこへでも行ってくれ」  
 ハルヒと古泉が消えた方角を睨みながら俺は言った。  
 なぜだろう、いつもならあんなハルヒの態度もひっくるめて余裕で腹八分目まで飲み込んでるはずが、今日はどうにも虫の居所が悪い。ハルヒに負けじと俺もガキってことか。  
「それじゃ行きましょう。今日はいい日になりそう」  
 橘京子は、五月雨の煩わしさなどまるで感じないような機嫌のよさで他三名を先導する――。  
 って、  
「お前は何でここにいるんだ?」  
 一連の会話に産毛の先ほども加わらなかったネガティブな野郎が随伴しているのを発見して、俺は問うた。野郎こと藤原は、  
「既定事項」  
 とだけ言って顔を背けた。不服そうに傘を差す姿がマイナスオーラをよりいっそう増幅させる。  
 まったく溜息も出よう素振りだったが、この時の俺は別段不快な気もしなかった。これだけ雨が続けば憂鬱にもなろうものだ。こいつがずっとこの時代に留まってるとは到底思えないが。  
 歩き出してすぐ、思い出したように佐々木が、  
「そうだキョン。涼宮さんといえば、彼女はあれからキミの勉強に関して何か措置をとったのかい?」  
 暗雲の下でも透き通った瞳がこちらへ向く。  
「ああ。おせっかいにも俺の成績グラフは下げ止まりだ」  
「よかったじゃないか」  
 そのはずだ。実際何か礼のひとつでもできんものかと思案してたとこだった。  
 が、  
「どうせいつかは予備校に行くだろうし、それまでの悪あがきにしかならないけどな」  
 裏腹のセリフばかりが口をつく。さっきのやり取りといい、どう考えても悪いのは俺の方なのに、どういうわけか否を認める気になれなかった。  
 いいさ、ハルヒは古泉とよろしくやってろ。長門が生み出した世界じゃあいつらは形だけでも彼氏彼女だったんだしな。どうにでもなればいい。  
 今ごろハルヒはさぞご立腹だろうが、ご機嫌取りは古泉の十八番だ。おあつらえむきだろう。  
 
 果たして橘京子が俺たちを連れて行ったのは、遠くの市街などではなかった。  
「なあ」  
「はい?」  
「何でよりにもよって市内散策なんだ。もっと他に行くところがいくらでもあっただろ」  
 俺たちが歩いているのは、小雨ぱらつく川沿いの並木道だった。映画撮影や朝比奈さんとの奔走でさんざんお世話になった遊歩道だ。  
 俺の質問に橘京子は、  
「確かにそれも考えました。けど、あなたにとって一番新鮮なのは、いつもの場所を違うメンバーで回ることじゃないかって思ったのです」  
 さも愉快と言わんばかりに笑顔を浮かべた。見たとこ今まで会った中でもことさらに今日は楽しそうだ。  
 新鮮どころか舌の上の苦虫が毒素を倍にしたような感覚だったが、俺は特に何も言わなかった。  
 橘京子いわく、どうやらこれは形式的ダブルデートを模したものらしい。まるでそんな気分に浸れないのは俺も藤原も同じらしかったが、  
「こんなんで本当に気晴らしになるのか?」  
 
「なっているよ。電磁誘導の法則を発見した時のファラデーはこんな心境だったのかもしれないね」  
 佐々木は楽しげだった。ファラデー。誰だそりゃ。俺にはさっぱり理解できないが。  
 俺の反応に佐々木は「何でもないよ」と言ってクスクス笑った。どうやら本当にこの状況を享受できているらしい。つくづく立派な精神構造だ。  
 橘京子は群れの中心で目の役割を果たす黒い稚魚めいたリーダーシップで、俺や佐々木をあちこちと連れまわした。コースはハルヒが日頃巡ってる場所とまるで行かないような場所とが半々だった。  
 
 しかし、  
「完全にお前の趣味だろ」  
「どうしてですか? 全然そんなことありません」  
 市内にわずかしかない映画館にやって来たところだった。こってこての海外恋愛映画は、橘京子以外他に誰一人趣味にしてるとは思えんシロモノである。  
「帰らせてもらう」  
 藤原が本日二言目となる呟きを漏らして立ち去ろうとする。  
「待ってください」  
 にこにこ笑いの橘京子が襟首つかんで引き戻す。  
「放せ現地民」  
「嫌です未来人さん。この前もその前もてんでかみ合わなかったじゃないですか。今度は少しくらい協力する姿勢を見せてくれてもいいと思いますけど」  
「協力? はっ」  
 藤原は肩をすくめて嘆息した。二ヶ月前に見た時よりは幾分くつろいだ態度に見えないこともない。藤原は続けて、  
「いい加減にその虫唾が走る言葉を捨てたらどうなんだ。え? 僕がお前に力を貸す意味など微塵もない」  
「少なくとも今日一杯はつき合ってもらう約束です」  
 橘京子はそう言うと藤原をハンドバッグのように手繰り寄せた。  
 引っ張られた未来人野郎は顔面を起き抜けの低血圧が浮かべる表情そっくりに歪めたが、やがて渋々といった風情で付き添い役の任に戻った。  
 
 明らかな橘京子の謀略により俺と佐々木は隣の席になった。  
 上映五分前、橘京子は俺に、  
「映画館は上映中真っ暗になりますから、佐々木さんに何かイタズラするならチャンスだと思います」  
 と、意味不明な耳打ちをして俺の首を九十度捻らせた。何考えてんだこいつは。  
 さて、映画のほうは俺もテレビで時折CMを目にしていた程度には宣伝費を使っており、主演の役者も顔や名前くらいは知ってた。  
 ど真ん中直球ストレートの脚本に手垢がついてそうなくらいべったべたな演出だったが、佐々木の向こう隣からあからさまにすすり泣く声が聞こえてきたのには閉口するほかない。  
 一番奥で藤原がどんな顔してんのかちょっと見たかったが。  
「へえ。人はこうして恋に落ちるものなのかい?」  
 鑑賞というより分析するような眼差しでスクリーンを眺めていた佐々木が、こちらを横目で見てささやいた。そう言われても俺に真っ当な恋愛経験がないのはお前も知っての通りだ。  
「あれ。てっきり高校に入ってから変わったのかと思っていたが」  
 どういう意味だ。ハルヒのこと言ってんなら見当違いも甚だしいぞ。  
「そうか。これは失礼」  
 丁重に詫びた佐々木は続けて、  
「でも、他に気になる異性の一人や二人いてもおかしくない年頃じゃないのかい?」  
 ふと朝比奈さんと長門の顔が浮かんだ。しかし、直後脳内モニタの向こうからハルヒが現れてあかんべして消えた。俺は首を振って、  
「普通に高校生活を歩んでればそうなってたかもな」  
 若干の間があって、  
「普通に、ね」  
 それきり佐々木はスクリーンへと視線を移し、後は何も言わなかった。俺は少しだけ引っかかるものを感じつつも、上映が終わる頃にはその疑念をまるっとどこかに忘れてしまっていた。  
 
 映画が終わり、四人で連れ立って(ってほど足並み揃ってないが)劇場を出ようとした矢先、  
「あ」「あ」  
 これから入場するらしいハルヒと古泉にばったり会った。そういやあっちも市内探索に向かうところだったのだ。この二時間ばかりの間にすっかり忘却していた。  
 すれ違いざま、ハルヒと俺は闘犬のように険悪なアイコンタクトをしながら、  
「お楽しみね」  
「ああ、おかげさまでな」  
 交わした視線からバチバチ火花が散る。ついでだ、気になってたことを訊いておこう。  
 
「朝比奈さんと長門はどうしたんだ?」  
 ハルヒは飛びかかる寸前の闘牛みたいに息荒く、  
「急用ができて来られなくなったのよ。あんたと違ってちゃんと昨日のうちに電話が入ったけどね」  
 悪かったな。どうせ俺は優柔不断だ。  
「まるで反省してないみたいね。ここで謝辞のひとつでも述べたらちょっとは免罪してやろうかと思ったけど、期待したあたしがバカだったわ」  
 あまりに一方的な言語攻撃に俺が反駁しようとした矢先、  
「涼宮さん、わたしが無理を言ったのよ。彼は悪くないわ」  
 突如佐々木が口を挟んだ。俺もハルヒも瞬きして佐々木を見た。佐々木は長いまつ毛に縁取られた瞳をわずかに細め、  
「忙しいことは知っていたのに押し切ってしまったのはわたし。ごめんなさい」  
 不意に中学時代の佐々木がフラッシュバックした。クラスメイトの岡本を初めとする女子連中と話す際、佐々木はこうして普通の女言葉で交流していたのだ。  
「……佐々木さん」  
 ハルヒは取るべき態度を決めかねるようにしていたが、やがて固めていた拳骨をほどいた。  
「ちょっと」  
 俺の右肩がとんとん叩かれた。見ると古泉がいつの間にか俺のすぐ傍に来ていた。忍びかお前は。  
「いいですか」  
 止める間もなく、副団長は俺の手首を引っ張ってロビー脇に連れて行った。  
「何しやがる。放せ」  
 古泉はちょっと痛いくらいに手に力を込めていた。  
 人の往来がない廊下まで来ると、古泉は俺の手を解放してこちらへ向き直った。  
「どういうつもりですか?」  
 その口調には明らかに険があった。たった一言で非難されたことが解る。俺は意識的に渋面を作って、  
「見ての通りだ。佐々木と先約があったんだよ。断れなかったんじゃなく断らなかった」  
 きっぱりと言った。古泉は溜息のような吐息を短く漏らすと、  
「涼宮さんに当てつけるような真似をせずともよいでしょう。彼女の言っていたように、早いうちにSOS団の予定をキャンセルしていれば、まだこんなことにはなりませんでしたよ」  
「またハルヒか」  
 俺は言った。今日に限ってはあいつの味方になる気はさらさらない。  
「後から入った予定を断らなかったのは悪かった。けどな、あいつのまるで成長してない態度には腹が立ったんだよ」  
「それはあなたも同じです」  
 咎めるような口調とともに古泉は言った。俺はえもいわれぬ罰の悪さを感じる。  
「どうしたんですか? あなたらしくもない。まるで映画撮影の時の繰り返しを見ているようです。とにかく、明日でもいいですから涼宮さんにはっきりと謝ってください。愚痴ならその後でいくらでも聞きますよ」  
「断る」  
 俺がそう言うと、古泉は何か言いかけてから首を振った。  
「戻ります」立ち去りかけた古泉は振り返り、「あなたと佐々木さんが一緒にいる二人。我々のほうで監視していますから、不用意な真似はできないはずです」  
 では、と言って古泉は足早に戻っていった。  
「やれや――」  
 出かかった口癖を止めたのは、てんで真剣味のない自分にうんざりしたからだ。  
 
 ハルヒと古泉は俺らが見たのとは別の映画を上映してるホールに消えた。  
 俺と古泉が話してる間、佐々木とハルヒの間にどんなやり取りがあったのか、佐々木は語ろうとしなかった。橘京子は相変わらずご機嫌だったし、藤原は反対に不機嫌だった。  
 その後も、同じ市内なのによくもまあこれだけ色んな場所を巡れるもんだと思うほど精力的に、橘京子は主体性のない四人組の先導役を続けた。  
 俺はといえば、古泉とハルヒに無意味な反感を覚えたまま、落ち着かすに歩行継続。  
「つくづくあんたは物好きだな」  
 放浪のような散歩道の途上、嘲弄するような音色で藤原が呟いた。何がだよ。  
 
「早い話あんたは退屈だったんだろう。この二ヶ月間暇で暇で仕方がなかった。何か面白いことが起きないかと思っていた。だからあいつの――」と、藤原は顎で前方の橘京子を指して、  
「提案に飛びついた。疑似餌にひっかかる淡水魚みたいにな。違うか?」  
 鋭い刃で一突きするような的確さで藤原は俺の心中を言い当てた。俺が言葉を発せずにいると、藤原は口の端を嫌な感じに曲げて、  
「そこまでいくとただのバカだ。今に後悔するぞ。僕からのありがたい忠告だ」  
 お前の言葉をうやうやしく授かるつもりなどハナからないが、  
「どうしてそんな注意をわざわざ俺によこすんだ。仮にもお前は敵だろ」  
「ふ。愚劣な質問だ。駒を白黒に塗り分けるのは大昔の遊戯盤の上だけで十分だ。浅薄な計略に乗るつもりもない。誰かの恣意のままに動くのは僕の最も嫌うところだ」  
 と、謎のような台詞を吐いて藤原はまた黙ってしまった。とらえどころのない奴だ。  
 昼飯は日頃SOS団が行くよりも高級な店でとった。俺だったらワリカンでも入店を拒否したいくらいに値が張ってたものの、全部橘京子が持つのだからと開き直った。  
 会計時、額面は結構な数値に膨れ上がってるんじゃないかと思ったが、笑顔以外の表情を忘れたみたいに女超能力者はご機嫌だった。  
 店を出る頃には降っていた雨もにわかに上がり、傘を差さずとも平気だった。  
「それじゃ」  
 と、橘京子は一行の一歩前に出て、  
「あたしとこの人はここでおいとまします」藤原を指差して、「今日はありがとうございました」  
 俺と佐々木へしゃなりとお辞儀をした。  
「もういいのか? まだ午後いっぱい残ってるが」  
「いいのです。それじゃ、また」  
 橘京子は手を振って駅方面へと駆けていった。藤原の姿を探すと、ほんの一瞬の隙にもうどこかへ消えていた。せめて何か言ってから帰れよな。  
「さて。どうしようか?」  
 もちろん後に残ったのは佐々木ひとりである。佐々木は口の端に人差し指を当てて、  
「キョン、キミは今からでも涼宮さんのところへ行ったほうがいいんじゃないかな」  
「いいや」  
 ほとんど反射的に俺はノーと言っていた。  
「佐々木、俺は今日こっちに参加したことに何ら後悔はないぞ。ハルヒのあれはお前が気にすることじゃない」  
 佐々木は口を開きかけたが、思い直したように首を振り、  
「そうか。解った」  
 そしていつもの穏やかな笑みを浮かべ、  
「それじゃキョン。よかったら少し僕につき合ってくれないかな。本屋に行きたい。参考書をいくつか買っておきたくてね」  
「いいぜ」  
 
 書店は駅に唯一あるデパートの中に含まれている。日頃長門から借りた本くらいしか読まない俺にはそこまで馴染みのある場所でもないが、佐々木は週に一度は立ち寄る常連らしい。  
 品定めする中、佐々木は数学の問題集と物理の参考書を一冊ずつ手に取った。  
「数V……って、もう三年の内容やってるのか?」  
「え。ああ、うん。二年までの内容は一通り終わったし、後は復習だけだからね」  
 なんとまあ。目前のテストだけでひいひい言ってる身の上からすれば次元の違う話だな。  
 佐々木は他に必要なものがないか書棚を眺めつつ、  
「僕みたいな人は僕の学校にはいくらでもいる。僕より結果がいい奴も、悪い奴も。要領がいいのも、そうでない人もね」  
 その言葉には何か慣れないものを感じた。何だろうな、これは。佐々木は確かにここにいるのに、俺との間に金星と木星くらいの距離があるように感じる。  
「ああそうだ。彼、国木田はどうしている? 先日、名前が全国模試の順位表に載っているのを見つけてね」  
「お前を目標に自己研鑽するって話してたぞ」  
 俺は国木田が昼休みに佐々木の話をしていたのを回想しつつ言った。どうやら国木田は順調に鍛錬を続けているらしい。  
 佐々木は前髪が揺れる程度に顎を引き、  
「そうか。追い抜かれないようにしないといけない」  
 
「佐々木なら余裕だろ」  
 そう言いながら、棚に並ぶ書籍のタイトルだけで頭痛を起こしかけていた俺が視線を戻すと、佐々木は平積みになった参考書に目を落としたまま黙り込んでいた。  
「佐々木?」  
 明かりがついたことに気づいたような反応で佐々木は、  
「ん、何でもない。さて」  
 そう言うとレジへと歩いていった。何だったんだ?  
 
 買い物を終えた俺たちはデパートの下まで戻った。屋内から出た途端、ぱらぱらと水滴がかかる。  
「また降ってきたな。梅雨さえなければこの時期には何も言うことがないんだが」  
 俺は愛用して久しいビニール傘を広げて言った。かれこれ一ヵ月半使ってるせいかボロボロだ。コンビニで五百円そこらで売ってるシロモノにしちゃなかなかの好記録である。  
「キョン、そろそろ帰ることにするよ。今日は楽しかった」  
 背後から佐々木の声がした。  
「おう。またな」  
 そう言いながら振り返った時だった。  
 
「ごめん、キョン」  
 らしくない佐々木の言葉が耳に届き、俺がその意味を理解するより先に――、  
 
 何か、温かいものが唇に触れるのを感じた。  
 それが佐々木の唇だと気づいたのは、駅ビルの背後に広がる曇り空が、たちまちのうちに変色した後だった。灰色から、淡い黄色へ。  
 瞬間、辺りにいた一切の人の気配が消失した。  
 話し声、車の喧騒、飛行機の滑空音。すべてが見えない防音壁に吸い込まれたかのように、ぴたりと止んだ。  
 戦慄か、はたまた震撼か。一瞬のうちに全身が総毛立つのが解る。  
「佐々木……!?」  
 俺は落雷の気配を感じ取ったイヌワシのように佐々木から離れた。  
 佐々木はうつむいていた。すっと延びた前髪、その向こうに浮かぶ表情を読むのは、ここからじゃ困難だ。  
 俺は今一度周囲の状況を確認する。降っていた雨は完全に止み、あれだけ行き交っていた人の波は綺麗さっぱり消滅している。  
 雲も太陽もない空は、一面ぼんやりとしたクリーム色。鳥に飛行機、超人はもちろんのこと、超能力者だって飛んでやしない。  
 記憶をわざわざ検索するまでもない。全身がこの感覚を覚えている。ここは二ヶ月前橘京子に連れてこられた閉鎖空間だ。佐々木製の。  
「どういうことだ、これは」  
 そのまんまな感想が口からこぼれた。一足先によくできた真夏の怪談を聞いたかのように汗腺が開いている。嫌な感じだ。  
 なぜだか解らないが取り返しのつかないことになったような違和感がある。猫を噛む直前の鼠の気持ちが今なら解る。  
「キョン。『世界をどうにかしてしまう力』は、これで僕に宿ったはずだ」  
 抑揚のない平板な声で佐々木は言った。再度見ると、二年来の友人は顔を上げ、いつもと変わりない微笑を浮かべている。しかし、それがこの場においてはそら恐ろしかった。  
「そりゃいったいどういう意味だ。お前に力が宿るって?」  
「ああ」  
 佐々木は、ありもしない太陽を観測するように空を見上げた。  
「そうか、これが」  
 何も解らない。どういうこった。なぜ俺と佐々木がこの閉鎖空間にいる。橘京子の誘導なしに。  
「初めて見たよ。話には聞いていたけれどね。こうして来てみると本当だったことを実感する」  
「佐々木。どういうことか説明してくれ。何なんだ。これは」  
 
 詰問口調になる俺に、佐々木はとっておきの推理小説のあらましを語る時のように不敵な笑みを浮かべ、  
「涼宮さんの力を僕に移したのさ」  
 明瞭簡潔な回答を述べた。  
 
「そんなバカな話があるか」  
 バカな話し方をしていたのは俺の方だったかもしれない。が、さし当たってそんなことはどうでもいい。ハルヒの力を佐々木に移しただって?  
「冗談はよせ」  
「冗談じゃないはずさ。他にキミと僕がこの場所にいる理由が説明できないからね。それに、キミにはこういう状況に思い当たる節があるんじゃないのかい?」  
 何のことだ、と言いかけた俺はすんでのところで言葉を飲み込んだ。  
「さすがキョンだ。気がついたようだね」  
 今、俺と佐々木が何をしたか。  
 そして、以前、俺はハルヒに何をしたか。  
「橘さんの仮説はある程度正しいみたいだ。もともと論理による証明のしようがない話だったけど、傍証は揃ってきた」  
「なに意味不明なこと言ってやがる。さっぱり解らねえぞ。佐々木、お前は俺に何をしたんだ」  
「それはキミにも自明だろう。キスだ。扉を開けるただ一つの鍵が……キョン、キミだった」  
 微妙に既聴感のあるフレーズを佐々木は言った。  
 鍵。  
 それは俺がこれまでに何度か耳にした言葉だ。しかし、その意味は何一つ解らずにいた言葉でもある。  
「キミに口づけすることで『力』は僕に移るはずなのさ。今僕らがここにいることは、無事に受け渡しが済んだことの証だろう」  
 引き続き嫌な感覚が全身を支配していた。五感を超えたところにある直感のようなものが、この世界には俺と佐々木以外に誰もいないのだと伝えてくる。  
 しかし、感性がそう主張しても理性が全力で認識を拒んでいる。あってたまるか、そんなことが。  
「ちょっと待った。佐々木、どうしてお前がそんな条件を知ってんだ」  
「橘さんさ。彼女はキミと僕を恋人同士にすることに執心していたからね。直接言われなくともピンと来たよ。僕にも色々とアドバイスめいた提言をしてくれたから」  
 佐々木は周囲の様子をひとしきり観察していたが、やがてまたこちらを向いた。  
 そうか、そういうことだったのか。橘京子が言ってた受け渡しの条件ってのは。  
 しかし、それだけじゃ根本的なところにある謎が解決しない。  
「だが待て、佐々木。お前はそんな力を持ったら精神を病むとか言ってなかったか。どちらかといえば、お前は受け渡しに消極的だったはずじゃねえか。いったいどうしてこんな」  
 佐々木は大きな瞳を輝かせるなじみの表情を浮かべて、  
「そうだね。実のところ今でもそう思っているよ。別に僕じゃなくてもよかった」  
「どういうことだ」  
「この世界を形作る要素があと少し違っていたら、僕はこんな力を持とうとしなかっただろうってことさ」  
 佐々木は俺の記憶にあるどの表情とも異なる微細な笑顔に変化して、  
「限界なんだよ。何もかもね」  
   
 あらゆるものがたちまちのうちに消え去った世界の中で、佐々木は静かに話し出す。  
「たった一年と数ヶ月だったけれど、それだけで僕には十分すぎた。もうとっくに戻れないところまで来てしまっていた」  
 佐々木は目を細めて笑った。俺は圧倒的な何かに一切の動きを止められたままだった。  
 疑いの余地など寸毫もない。この危機感は、ハルヒと共に閉鎖空間にさ迷い込んだあの日の夜に匹敵した。  
「中学を卒業してキミと離れた後、僕は少しずつ自分が変わっていくのを感じていた」  
 解らない。どこが変化したって言うんだ。俺には中学時代のままの佐々木にしか見えないぞ。  
「それは……そうだね。僕がキョンにある種の懐かしさを感じるのと同じように、キミも昔の光景を重ねて僕と接しているということなんだろう」  
 佐々木は静かに息を吐いて、また話し出す。  
「僕が入った学校の連中は、内に野心を秘めた狡猾な人ばかりだった。もちろん外には一切それを出さないし、うわべは親切そのものさ。  
でも、入学して一週間もすれば解ってしまった。彼らは友人にメリットしか求めていない。デメリットをもたらす者がいれば、巧妙にそれを潰すんだってね」  
 述懐するように話す佐々木は、辺りをゆっくりと歩き始めた。  
「四六時中勉強のことだけを考えるような場所さ。休み時間の話題も自らのステータスを満たすためのものでしかない。将来を見据えた社交の場とでも言えばいいかな」  
 
 佐々木は一度立ち止まって、  
「まあ、そのくらいは中学の時から覚悟していたことだった。二年の時、学校を見に行って、自分がどういう高校を目指さなければならないのか知った。今のままではアイデンティティを保つことなどできないだろうと思った」  
 再び歩き出す。  
「そして僕は自らを律した。この言葉遣いは結果のひとつだった。精神の害となるような要因はなるべく避けなければならなかったから」  
「やっぱり意図あってのものだったのか」  
 佐々木は朗らかに笑って、  
「そうさ。あの言葉――恋愛感情は精神病の一種。これを言っていたのは涼宮さんだろう?」  
 ドライアイスを当てられたように背筋が冷えた。どうしてそれを知ってるんだ。  
 佐々木は別段調子を変えることもなく、  
「彼女には前に会ったことがあるんだよ。その頃の僕はこんな言葉遣いじゃなかったし、髪型だって違ったから、彼女は覚えていないかもしれないけどね」  
 ――髪を伸ばしたり切ったりするだけでもかなり印象は変化するものさ。  
 再会した時、佐々木はそんなことを言っていた気がする。  
「涼宮ハルヒ。彼女はある種、僕とは対極に位置している存在だ」  
 噛みしめるように佐々木は言った。俺は胸騒ぎのようなざわつきを感じる。  
「藤原の話では、キミと彼女が出会わない未来もありえたらしい。どういうわけかこうなってしまったがね。結果的に、キミは今僕がしたのと同じ方法で、涼宮さんに力を"与えた"」  
 ――――。  
 時間が止まった気すらした。佐々木の発言の最後のフレーズだけが頭の中でリフレインする。  
「藤原はこういう仮説を述べていた。キミが涼宮ハルヒに力を与えた時点から、三年前まで遡って世界は作られた。  
それはもともとあった時空に上書きされる形で。だから、今から四年以上前の、書き換えられていない時空との間には亀裂があってタイムトラベルができない――彼はそう言っていた」  
 あの未来人、佐々木にそんなことまで話していたのか。  
「そうさ。彼は僕にこう持ちかけてきた『お前に歴史を作り変えてほしい』ってね。ニュアンスとしては、四年前にあるという時間の亀裂を修復できれば、後はどうなろうと彼には関係ないようだったが」  
 佐々木は春先に一度それを試みたが、ハルヒが時系列を分岐させたせいで失敗に終わったことを明かした。  
「キョン。僕はキミと一緒にいたかった。これまで、キミほど話が合う相手は他にいなかった」  
 涼やかな声を聞きながら、俺はこれまでの佐々木がどのようにふるまっていたのかを思い返していた。  
「自覚していないかもしれないが、キミはかなり稀有な特性の持ち主だ。僕が自然の法則に反する現象について話をする時、唯一キミだけが純粋な好奇心をもって傾聴してくれた。  
中学三年にもなれば、普通は即物的なものにしか興味が行かなくなり、超常現象なんて見向きもしなくなる。でも、キミは違った」  
「!」  
 気がついた時には佐々木がすぐ近くまで歩いてきていた。  
 佐々木は、俺を抱擁した。  
 華奢な身体に、控えめな温度のある細い腕。  
「一年間、ずうっと辛かった。こんな感情は真っ先に捨て去るべきものだって、解ってたのに……」  
「佐々、木?」  
 その表情を見ようとするも、佐々木はより強く俺を引き寄せて、それを拒んだ。  
「親友」  
 佐々木は言った。俺は脈拍数の増加を感じる。  
「理性でそう解釈するのが精一杯だった。高校に上がって、ただ繰り返すだけの毎日がどれだけ単調で、味気なく、……苦しかったか」  
 佐々木は、俺の間違いじゃなければ……震えているように感じた。  
 肩に顔を押しつけてるせいで表情は伺えないし、声もくぐもってはっきりと聞こえない。しかし、密接した細い肩だけは、直接佐々木の心情を伝えてきた。  
「佐々木……」  
 どうすべきか迷った。はっきりと、俺は動揺していた。  
 この一年間、そんなことを思っていたのか、佐々木は。  
 触れたら割れてしまう水晶を扱うように、そっと佐々木の頭に片手を当てた。どれだけ男の言葉を使おうと、どれだけの感情を押し込めようとも、佐々木の内面はどこにでもいる普通の少女だったのだ。  
「キョン……キミはずるい」  
 肩に額を押しつけたまま、佐々木は微かに聞き取れるほどの声量で言った。  
 
「ずるい? 俺がか?」  
 佐々木は微かに頷く気配を見せ、  
「ずるい」  
 一息の間を空けて、  
「物事のいいところだけが、どういうわけかキミに向かっている。気づいているか? 今やキミはこの騒動の中心人物だ。涼宮さんでも僕でもなく、キミが。  
キミだけが、すべての不思議な現象を体感し、自らそれを打開する身にあるんだ」  
 俺は手を離していた。それはどうやったって目を背けられない事実だった。  
 そうだ。確かに、俺はこの一年、常識じゃ考えられないほど素っ頓狂でおかしく、面白い出来事に遭遇し、何とかそれらを乗り切ってきた。  
 数々の出来事に東奔西走しながら、ハルヒの命令に諾々と従いながら、SOS団の面々と放課後を過ごしながら、あまつさえ俺はそれを楽しんでいた。  
 生まれたての小鹿のような力で俺の胸を突いていた佐々木は、  
「キョン。うらやましいよ。僕はキミのようでありたかった。こんな風に屈折してしまうのではなく、不可思議な出来事に遭遇して、しかもそれらを信じてしまえるような人でいたかった」  
 俺の背に回していた両手を、ふっと解いた。  
「僕はいくつかずるいことをした。失敗しないための、功利的でアンフェアな手段を取った」  
 そう言うと、佐々木は俺から離れて、後ろを向いた。  
「世界を正常化しようと思う」  
 な、  
「何言ってんだ。佐々木」  
「元に戻すのさ。不思議なことなど何もない、元の世界に。もともとあってはならない力だろう、これは。これさえ……こんなものさえなければ」  
「やめろ!」  
 俺が叫ぶと、佐々木は振り返って、驚くほど綺麗に笑った。  
「やめる? それはどうしてだい? 涼宮さんから力がなくなれば、キミはもう余計なことで四苦八苦することはないだろう。普通の日常に回帰することができる。夢から覚めることができる」  
「しかしだな、それは……」  
「それは。何だろう? ……キョン、矛盾しているよ。見事なまでのパラドクスだ。キミは涼宮さんから力が無くなる日を待ちながらも、どこかでまだこんな日々が続けばいいと願っている」  
 たたみかけるように言い切った佐々木は、最後に、  
「違うかい?」  
「…………」  
 心臓を平手で思いっきり引っぱたかれたような、目の覚める痛みがした。  
 その通りだ。  
 俺はまだ、SOS団での放課後が、ハルヒたちと過ごす毎日が続けばいいと思っている。  
 そりゃ、ハルヒの力がいつまでもあってはもちろん困る。が、それでもまだ、もう少しの間終わりはこないだろうと、言わば高をくくっている。  
「図星だろう」  
 佐々木は笑みの色彩を変化させて、  
「キミの様子を見ていれば瞭然だったよ」  
 今さらながらに俺は思う。  
 俺はこれまで、佐々木の何を見ていたのだろう。何を知っていたのだろう。  
「溜息が出る。四月に再会したキミは本当に楽しそうだった。自分じゃ気づいていないかもしれないけど、涼宮さんといる時、キミは笑っていた。僕の知らないキョンがそこにいた」  
 佐々木は一歩一歩俺から遠ざかりながら歩いた。  
「僕が今まで何を見て、何を思っていたのか。知らなかっただろう?」  
 俺は無意識のうちに首を振っていた。解っていたら、今の俺はここにいなかったかもしれない。  
 佐々木は俺に背を向けたままで、  
「うんざりだよ、こんな毎日は。だから終わりにしよう。そして、この世界を理不尽なことの少ない場所へ作り変える」  
 
「佐々木、待ってくれ。お前は疲れてるだけなんだ。この世界だって捨てたもんじゃねえ。もっとわくわくするような――」  
「甘い考えですね」  
 俺でも佐々木でもない声がした。俺が催眠術を解かれた被験者のように周囲を見回すと、橘京子が通りの向こうから歩いてくるところだった。  
「ふふ。ようやくうまくいきそうです」  
 橘京子はエイプリルフールにとびっきりのウソをついた少女のような顔で、  
「四年。それがどれだけ長かったか、あなたには解らないでしょうね。解らないことばかりだから楽しんでいられたのです」  
 そぞろ歩きしながら、佐々木と俺の間に割って入った。  
「でも、それももうおしまい。あなたの代わりに、世界中の人が今より幸福になるなら安いものでしょ? あなたはもう十分に楽しんだのだから」  
「お前……、初めからこれが目的だったのか」  
 橘京子は今まで浮かべた中でも一番の、大輪の花が開くような笑みで、  
「はいっ。こういう結果になるのなら、はじめから佐々木さんに条件を明かしてしまえば早かったかもしれませんね。今となってはどっちでもいいことですけど」  
 橘京子は軽やかにステップを踏んだ。空中庭園を散歩するようにご機嫌な足取りだ。  
「世界は生まれ変わるのです。ようやくあるべき姿になるの。誰かのワガママに左右されることのない、居心地のいい場所に」  
「どうしてそんなことが解るんだよ。新しく作った世界が間違うことだってあるかもしれないだろ」  
 橘京子は意に介さず、  
「あなたにとってはそうかもしれません。だって、あなたはこれまでが楽しくて仕方なかったのだから」  
 悲劇のヒロインを演じるような困惑の面持ちで、  
「でも、世の中には佐々木さん以上に苦しんだり、困っている人が本当に沢山いるのよ。あなたはそれがまるで解っていません。自分の世界を壊されたくないだけ。……違いますか?」  
「……」  
 即座に「ちがう」と言えなかった。  
 今まであった世界が本当に誰にとっても居心地のいいものだと言えないことくらい、俺にだって解る。ハルヒと会う前の俺は、確かにもっと色んな不満があったりもした。  
 橘京子は無言の俺を模範解答を答えた生徒を見る教師のような目で眺めながら、  
「そう。もともと世の中はそんなに都合よくできていません。あなただって疑問に思ったんじゃないですか? どうして自分にとってこんなに面白い世界が待っていたのか。  
何によって、自分がこんなにも刺激的な毎日を過ごせているのか」  
 橘京子はモンシロチョウが蜜を吸う花を選ぶように歩きながら、  
「答えは簡単です。あなたと涼宮さんの願いが同じだったから。あなたの願いは、涼宮さんの願い。逆でもいいですけど」  
 橘京子は佐々木を見て、俺を見た。そののち小首を傾げて、  
「でも、涼宮さんだって最初の願いを完全に叶えたわけではありません。それはあなたが彼女を元の世界に連れ戻したから。  
そう考えれば、本当の意味で世界を思い通りに動かしたのは、実はあなたなのかもしれませんね」  
 何を言う。んなことあるはずがない。俺には変な空間に入る力も、時間を飛び越える能力も、魔法みたいな呪文を使うこともできない。  
「問題はあなたの属性じゃありません。立場です。他の誰でもない、あなたでなければならない理由。もう解っているんじゃないですか?」  
 今や確信犯そのものの橘京子は、つと遠くの空へ視線を固定した。つられて俺もそちらを見る。  
 ずっと遠いところ。周囲に広がる街並みの、そのまた向こうが仄かに光った。  
 橘京子は明けの明星みたいな遠方の光を眺望し、  
「始まったみたいです。もう少し待てば、この場所も変わるはずです。全てが生まれ変わるまで、それほど時間はかからないと思います」  
 俺は佐々木を見た。佐々木は両手を抱き寄せるようにして、彼方の一点が光る様子を見ていた。  
「佐々木」  
 俺は思い出したように言葉を継ぐ。  
「いいのかよ。これでお前は満足なのか。そんな簡単に一切合財を投げ出しちまうような奴だったのか、お前は」  
 すると佐々木は、まるで古いアルバムを懐かしむような瞳でこちらを見た。疼痛がする。  
「キョン。それは僕を思いやって言ってくれているのかい? 本当に? キミは自分の元いた世界を取り戻したいだけなんじゃないのか」  
「違う!」  
 俺は自分の手のひらを固く握って主張する。  
 
「佐々木、元の世界だって捨てたもんじゃねえんだ。お前はストレスのはけ口を持ってなかったんだろう。この一年、満足に遊ぶこともできなかったんじゃないのか? 俺に言わせりゃそんなの間違ってる。本当は――」  
「いいよ、もう」  
 佐々木は俺の言葉を遮り、双眸を閉じて静かに首を振った。そこには諦観の念が浮かんでいるように見えた。  
「疲れたんだ。とてもね。それに、キミと違って僕の内面はもう随分と汚れてしまっている。この世界に何もなかったのは、それを僕が望んでいたからさ」  
 佐々木はわずかに目を開けて、路上の一点を見つめた。  
「元には戻れないんだよ。僕はもうキミの記憶している僕ではないんだ」  
 俺はというと、拳を固めたまま、何も言えずにただ棒立ちしていた。  
「……」  
 無力を感じる。  
 俺がこいつに何ができるというのだろう。  
 世界を取り戻す? 聞いて呆れるぜ。俺が何を言おうが、今ここにいる佐々木を救うことなんかできやしない。俺が日常を楽しんでる間、佐々木は一人で苦しんでいたのだから。  
 一年間。その間に俺が自分の世界観をまるごと転換されちまったように、佐々木もまた違う環境に染まってしまったのだ。俺には想像もつかない、別の「世界」に。  
 俺が自分の境遇を受け入れ、あまつさえ楽しんでいた一年間、佐々木は別の場所で、まったく逆のことを感じていたのだ。  
「佐々木……」  
 喉の奥に熱い塊が詰まっているみたいに、苦しかった。  
 俺が今ここでどうもがこうと、佐々木が過ごした一年間は戻ってこないのだ。それは過ぎ去った時間軸上の出来事でしかない。そこでは時間遡行ですら無為に終わるだろう。  
 過去をいくら変えようが、「今」ここにいる俺と佐々木には何の変化も起きないのだから。  
「すまねえ」  
 それしか言えなかった。これまであらゆる困難を乗り越えてきたと思ってた自信は、粉塵のようにどこかへ飛ばされて、消えた。  
 佐々木はこの場においてなお笑顔を浮かべていた。  
「いいよ。キミは何も悪くない。自制しきれなかった僕がいけないんだから。今僕のしていることは、僕がもっとも嫌う人種のする行為だ。自己を顕示する。人に迷惑をかける」  
「迷惑なんかじゃねえ!」  
 思いのほか大きな声が出たのは、そうでもしなきゃどうにかなっちまいそうだったからだ。  
「お前はそうやって人に迷惑をかけまいとしすぎなんだ。馬鹿野郎」  
 俺は言葉が詰まってしまわぬよう、一気に言い切った。  
「佐々木。お前、四月にハルヒの前で俺のことを何て呼んだか、忘れてないだろうな」  
 佐々木は口を微かに開けてぽかんとした。当惑したような表情を見るのは、中学三年から思い出しても初めてのことだった。  
 
「お前は俺の『親友』なんだろうが」  
 
 佐々木の大きな瞳が見開かれていく。  
「親友なら相手に迷惑かけて当たり前じゃねえか」  
 ちくしょうめ。  
「いいか、よく聞け、佐々木。仮に世界が全部生まれ変わって、記憶も何もかもなくなるようなことになったとしても、俺は必ずお前を見つけ出して、絶対にまた『親友』になってやるからな。  
お前が嫌だ、迷惑だと言ってもだ。迷惑かけるのが『親友』なんだからな」  
 自分でも何言ってんだかよく解らなかったが、そんなことはどうだっていいんだ。佐々木は聡い奴だ。滅裂でも十分解ってくれる。  
「……」  
 佐々木は浮かべる表情をどこかに忘れてきていた。  
 はっきりと動揺していることが、同じくらい動揺している俺にも見て取れた。  
「うう、うわああん」  
 急に橘京子が泣き出した。  
「何でお前が泣いてんだよ」  
「だって、だって……」  
 橘京子は自前のハンカチで目頭を押さえていた。まったくこいつは。助演女優賞狙いもいいとこである。  
 
「何ていい話なんでしょう。うえええ、えっく、わぁん」  
 橘京子はくしゃくしゃになって人の友情話に号泣していた。仮にも敵役がこれでは立つ瀬がない。おかげで俺の方が何言おうとしてたか忘れちまったじゃねえか。  
 俺が不覚にも吹き出しそうになっていると、目が合った佐々木もまた苦笑していた。できることなら、普段もそんな風に笑っててくれ。  
 橘京子が涙を拭って、顔を上げる――、  
「きゃあっ!」  
 その表情がたちまちのうちに蒼白状態になった。眼前にある一点を見つめて、肝をつぶされたように硬直している。  
 振り向く。  
「何だ、これは……!」  
 知らないうちに空間に亀裂が生じていた。オクスフォードホワイトの空は、鋭利な刃物で大きく引き裂かれたみたいにぱっくりと割れていた。  
 その向こうにはダークグレーに染まった得体の知れない深淵がある。  
「な……。あ……」  
 言葉を失したのは佐々木か、橘か。  
 裂け目の向こうから、見覚えのある、青白く発光する巨躯が覗いた。  
 《神人》――。  
 青白い巨人の上半身が、駅ビルのすぐ隣に現れた。小山のような立ち姿は、突然だったこともあり、その場にいたものの頭を真っ白にするのに十分な効果があった。  
 《神人》は空間の裂け目から上半身だけを覗かせ、腕の一振りで駅ビルを木っ端微塵にふっ飛ばした。  
「きゃあああああっ!」  
 橘京子が頭を抱えてその場にうずくまった。  
 なぜだ。どうしてここに《神人》がいる。ここは佐々木の生んだ閉鎖空間のはずだ。  
「佐々木! 俺から離れるな! 橘! こっちへ来い!」  
 脊髄反射のように口走った後、俺は片手で佐々木の手首をつかんだ。一瞬ぴくっと反応した後、佐々木は俺の手を握り返した。死んでも放さねえ。  
「あ……ああ……」  
 腰が抜けてしまったらしい橘京子は、両手で顔を覆ってかぶりを振るばかりだった。その場から一歩も動けないようだった。  
「キョン、橘さんを助けてくれ。お願いだ。じゃなきゃ、僕は……」  
 ――――。  
 《神人》の声なき咆哮が大気をマイクロ波のように震わせる。青白い巨人は、身体の全部をこちらへ入れようと躍起になっている。  
「橘!」  
 俺が叫んだちょうどその時、《神人》が再度拳を振るった。直撃を受けた建造物が轟音と共に倒壊し、破片が……こちらへ落下してくる!  
「橘さん!」  
「危ねえ!」  
 橘京子の頭上にコンクリート片の真っ黒な影が落ちる。  
 映像だけがスロー再生されたみたいにゆっくりに感じられたが、それは本当に一瞬の出来事だったはずだ。  
 巨岩ほどもあるビルの破片が橘京子のいた地面に激突した。  
 つんざくような衝撃音と濛々たる煙幕が同時に発生する。割れた小片が俺の耳元をヒュッと掠める。俺は咄嗟に佐々木の前に出た。  
 視覚はたった今目の前で起こった出来事を仔細に伝えてきたが、脳がそれを認識しようとしなかった。  
「たちばな、さん……?」  
 佐々木が呟いた。その声は今や少女のものにしか聞こえなかった。  
「橘……橘!」  
 呼んでみたが返事はない。ビルの傍ら、なおも《神人》は身を乗り出そうと必死にもがいている。  
 しかしそんなことはもはやどうでもよかった。眼前の巨大隕石みたいなコンクリート塊は、まともに食らったのならひとたまりもないくらいの大きさだ。まさか、そんな。  
 
「……危ないところでした」  
 
 何者かの静かな声が耳朶を打った。たちこめていた煙霧がゆっくりと晴れていく。  
「な、あなたは……!」  
 橘京子はその人に抱かれていた。気を失っているのか、お下げ髪と片手が力なく垂れ下がっている。しかし外傷はどこにもないように見えた。  
 
 俺はひとまず安堵するも、その安心はすぐさま驚愕へと変貌した。橘京子をいわゆるお姫様抱っこで軽々と持ち上げている人物。大いに見覚えがあるものの、大いに意外でもある。  
 
「新川さん!?」  
 
 そう。孤島と雪山でパートタイムの執事を演じ、誘拐事件の時には超一級のドライビングテクニックを見せた初老の長身男性、新川氏が悠然と立っていた。  
「どうしてここに?」  
 俺が質問すると、新川さんは油断のない目を上空、《神人》のいる方に向けながら、  
「説明は後でございます。早急に避難いたしましょう。こちらです」  
 そう言うと、橘京子を抱えたまま驚くほど俊敏な動作で俺と佐々木を先導した。  
「行こう佐々木」  
 佐々木は反射的に頷いた。手をしっかり握ったまま、俺たちは新川さんに続く。  
 直後、《神人》のラリアットがビルの残骸を打ち砕いた。ダイナマイトを爆破したみたいな衝撃が、空気越しに首筋を押す。  
「キョン。あれは何なんだ?」  
 明晰さを取り戻したのか、走っている最中、佐々木が言った。  
「ハルヒのストレスを具現化したものらしい。が、正直俺も詳しいことは解ってない。あれが今ここにいる理由も含めてな」  
「……。そうか」  
 後ろを振り返らずに走っていたため、その時の佐々木がどんな表情を浮かべていたのか、ついぞ俺は知ることがなかった。  
 
「ここまでくれば当座をしのげるはずです」  
 通りをいくつか走り抜けると、新川さんは立ち止まって呼びかけた。  
 橘京子を抱えていても呼吸一つ乱れていない新川さんや佐々木に対し、俺は緊急の短距離走にすっかり息が上がっていた。仮にも今をときめくヤングな高校生なのに面目ない。  
 まる二十秒かけて呼吸を整えた俺は、ようやく元いた場所を仰ぎ見た。そして驚いた。  
 今や空間の半分ほどが灰色に染まっていた。亀裂は相当な大きさに広がり、一跨ぎすれば《神人》がこちらへ来てしまいそうだった。周囲にあったはずの駅ビルは根こそぎ破壊され、跡形もない。  
 俺が何か新川さんに何か質問しようとすると、  
「来たようです」  
 新川さんは平静を保ったままで鋭く言った。見ると、灰色と白の狭間、空間と空間の境目から、針でつついたくらいのサイズで赤い光点が飛び出した。  
「これでもう大丈夫でしょう」  
 新川さんの言葉に俺はやたらと安心した。そしてしばしの間、突然の出来事を観覧した。  
 一年前、古泉に連れられて行った閉鎖空間で見た光景の別バージョンみたいな画がひたすら展開された。  
 違ったのは光の玉がただ一つしかなかったってことで、推察するまでもなくそれは古泉一樹本人だろう。佐々木はどこか陶然と一連の様子を見ていた。  
「……ん」  
 微かな声に気配を感じた俺は首を横向けた。新川さんに抱えられていた橘京子が突発的な失神から立ち直りかけたらしい。意外に早いな。  
「……あら? これはどういう……え? あれ。ああ!?」  
 短い間に橘京子の表情は数段階に変化した。カラフルな点滅信号みたいな百面相は、最終的に決定的な当惑に支配されたような羞恥めいた表情に収束した。たどたどしい視線が新川氏の元へ向かう。  
「お」  
 その直後に放たれた言葉が、俺を本日最大の衝撃へいざなった。  
 
「おじいちゃん……」  
 
 ……………………。  
 あー、うん。聞こえなかった。きっと建物の破砕音で鼓膜がいっちまったんだろう。でなきゃ俺の聴覚がこの奇矯な空間に捻じ曲げられておかしくなってるか、どっちかだ。  
「どうしてここに……おじいちゃんが」  
 二度目の発言も同じだった。ああそうか、やっぱり正常な俺の精神はここではないどこかへ旅立ってしまったんだなあ。ワームホールを通って違う宇宙へ旅立っちまったのかもしれん。  
「京子。怪我はないかな?」  
 新川氏は慈愛に満ちた眼差しで橘京子へ言葉をかけた。俺はというと、たった今発覚しかけた事実を一口たりとも飲み込めずにウンウン呻っていた。  
 
 百万ボルトの衝撃に打たれた痺れが取れぬように、俺は回らぬ舌でこう質問した。  
「あのー、新川さん? もしかしてそこの橘京子女史は、そのー、もしかして」  
 
「私の孫にあたります」  
 
 時が止まった。サンダーストラック。バッターアウト。オーマイゴッド。  
 急速に脳の海馬が探さなくてもいい記憶を次々と参照した。つい最近橘京子が俺の自宅前に来た日、俺と新川氏がばったり会っていたこと。  
 二月、誘拐され救助された朝比奈さんを見る新川さんの眼差しが、まるで孫にでも向けるような色味を帯びていたこと。  
 あれはもしかして、孫がした行為に対しての憂慮が顕現していたってことか?  
「やだ。おじいちゃ、下ろして……ください」  
 あからさまに赤面している橘京子は、熱を計るような仕草で額に手を当てて静かに申し出た。新川氏は橘京子が無事だと判断したのか、そっと細い身体を開放した。  
「橘さんの、おじいさま?」  
 佐々木が興味深い目で新川氏を眺めた。いっぽうの橘は、ありもしない風を送るように顔をぱたぱた片手で煽いでいたが、  
「……はい」  
 えらい静粛に肯定の返事をした。  
 その間、俺たちの後ろでは古泉が《神人》相手に必死の攻防を繰り広げていたが微塵も眼中になかったことは言うまでもない。  
 
 さて。  
 それから後に起こったことにはさほど目立ったトピックはない。  
 つうのは嘘っぱちで、本当は十分にあるのだが、詳しく描写すると何かとアレなので、かいつまんで説明しよう。  
 まず、すっかり忘れられて孤軍奮闘していた赤玉古泉が、長期戦の末《神人》を撃破して俺たちの元へ帰参した。  
 古泉は俺と佐々木に諦念気味の視線を投げた後で、橘京子と新川氏を見て、やれやれとばかりにまた苦笑した。その仕草に鏡で俺自身を見てるような感覚がしたことには閉口するほかない。  
 原子核融合したような二つの閉鎖空間(片方は佐々木、もう片方がハルヒのだ。理由は後ほど)は、時空をひん曲げた戦犯たる《神人》を古泉が倒したことで対消滅し、俺たちは元いた世界に戻ってきた。  
 昼下がりの活気溢れる駅前広場にはハルヒ――俺は人生史上類を見ない戦慄と恐懼を覚えた――だけじゃなく、長門有紀と周防九曜のコンビまでもれなくセットでついてきた。心情的においしいともお得とも言えないオマケだったが。  
 これは週明けに長門から聞いた話になる。  
「周防九曜はあなたを単体攻撃の標的に認定し、この十三日間に渡ってあなたの半径二メートル以内に常時存在していた」  
 昼休み。文芸部室でのん気に飯食いながら長門の講釈に耳を傾けていた俺は、危うく頬張っていたブリの切り身を丸呑みしかかった。  
「んぐ! ……何だと、長門。そりゃマジか」  
「まじ」  
 と、長門はくだけた相槌を打った後で、  
「二ヶ月前、わたしを襲った周防九曜は、彼女自身によるわたしへの直接攻撃は無為だと認識した。その後、標的をあなたに変えた」  
 海洋深層水みたいな瞳で俺を見た長門は、  
「周防九曜はこの数日間、あなたの脳内組織に間接アクセスすることで判断力を鈍らせていた」  
 聞くほどに怖気の走る話だった。  
「周防九曜は自らに不可視遮音フィールドを展開し、あなたを常時監視下に置いていた」  
 淡々と語る長門は、やがて閉鎖空間が発生した日について言及した。  
「位相空間発生時、周防九曜はあなたとの接触を断たれた。あの日、わたしは喜緑江美里に会ったのち、周防九曜を見つけ、彼女の不可視遮音フィールドを解除した」  
 二ヶ月間の解析の結果、天蓋領域はどうやら本当に情報統合思念体とは構造基盤の異なる宇宙からやって来た存在であることが解ったらしい。  
 春先の喫茶店で喜緑さんと周防九曜が接触していたことで、喜緑さんは九曜の不可視フィールドをデコードするための糸口を入手していた。しかし、長門とは属する派閥が違ったために、長門は彼女からそれを受け取る必要があった。  
 長門がインビジブルモードの九曜に気がついたのはごく最近のことらしい。  
 
「素粒子レベルでの揺らぎを感知した」  
 あの意味深な目線はそういうことだったのか、と俺は納得した。  
「いったいあいつは何がしたかったんだ」  
 俺の問いに、長門は「目的は不明」と言った上で、  
「コミュニケートの一環であったかもしれない」  
 どんな友好手段だ。俺が外務大臣なら即決で破談にさせてもらいたいところだ。  
 ひとしきり話し終わった後、俺は今聞いた内容に身震いしながら、滞る箸を動かして昼食を続行していたが、長門がまだ読書に戻っていないことに気がついた。  
「どうした?」  
「図書館」  
「へ?」  
「今度、図書館に行く」  
 長門は窓からの薄明かりを細面に受けつつ言った。弁当食ってた俺は箸を止め、続く言葉を待ったが、長門は特に何も言わなかった。  
 何ともなしに俺は箸で自分を指して、  
「俺もか?」  
「……」  
 長門はまる一秒の合間を置いてから、静かに首肯した。  
 
 長門の意思表示がどういう心情によるものなのか大いに気になるところではあったが、古泉からも聞くべき話があったので、昼休みが終わらぬうちに俺は特進クラスの戸をノックした。  
「謝らなければなりませんね」  
 廊下の窓辺。久々の晴れ模様に、古泉は初夏を先取りしたような爽やか全開の微笑顔で、  
「今回はあなたと言うより僕の失着でした。警戒が足りなかったと言うよりは、想像力に欠けていた、と言うべきでしょうか」  
 敏腕の霊媒師や科学者だって宇宙人が光学迷彩まとって俺に憑依してるなんて想像はできないだろ。おあいこだ。  
「監視ってのは新川さんのことだったのか?」  
 古泉は微笑を苦笑にシフトしつつ、  
「ええ。新川さんは先日、お孫さん――すなわち橘京子の監視は自分に任せてほしいと『機関』に申し出ていたんです。何せ可愛いお孫さんですから。心配だったのでしょう。  
あなたに血縁関係が露見すると余計な混乱を招きそうだったので、これまで伏せていたんですが」  
 大いに混乱したさ。羽ばたけばそのまま空飛べそうなほどだ。  
「すみません。これはどういう筋書きなのか僕にも解りませんが、違う考えの下に集まった二つの勢力に、祖父と孫が分かれて所属することになってしまったのですよ。  
初め、橘京子は我々の側に新川さんがいることを知らなかったようです。新川さんも、最初は彼女を慮って、できるだけ接触することがないようにしていたんですが」  
 古泉は人差し指で唇をなぞり、  
「しかし。ふとした弾みで知られてしまいましてね。以来、意図せずして新川さんは彼女を影から見守るような役割についてしまったというわけです。  
こちらとしても向こうの出方を監視する立場の者がどうしても必要でしたから。器量のある新川さんがそこへ収まったのは好都合だったと。そういうわけです」  
 リアル足長おじさんか。確かに新川さんは底が見えないほどに器用だからな。あの運転技術は思い出すだけでも失禁しそうなくらい迫力があった。まだまだいくつもの特殊技能を隠し持っていそうだ。  
 色々想像は尽きなかったが、俺は目下思考の領域を寡占化されっぱなしな問題へ話題を変える。  
「もう一つ話があるんだが」  
 古泉は俺の意を汲んだ目で、  
「二つの閉鎖空間ですね」  
 俺は神妙に頷いた。放課後の団活を思うと今からブルーである。  
 推測がついているかもしれませんが、と前置きした古泉は、  
「あなたと佐々木さんが世界を作り変える瞬間、あの場に僕と涼宮さんが通りかかったのですよ。僕たちが何を見たのか、言うまでもなくお解りかと思いますが」  
 
 古泉、天気もいいし今から屋上行ってロープレスフルバンジーを敢行しようじゃないか。  
「遠慮しておきましょう。あいにく、僕にはそれより楽しいことがいくつもあるのでね」  
 朗らか極まるSOS団副団長二年目は、  
「あの瞬間に生まれた爆発力といったら、それはもうすさまじいものがありましたよ。新たな宇宙が生まれる瞬間に立ち会ったかと錯覚するほどの衝撃です。案外、あの時どこかで別の世界が生まれていたのかもしれませんね」  
 などと軽口まで叩き出した古泉に俺は、  
「勘弁してくれ」  
「ともかく、それによって涼宮さんの閉鎖空間が同時発生したわけです。最初、佐々木さんの空間とは別の位相に存在していたんですが、拡大する過程で三次元方向に移動、接触し、しまいには《神人》によって両者の間に亀裂が入ったようです」  
 古泉は新川さんと共にハルヒの空間へ侵入し、裂け目を渡って佐々木の空間へやって来た、ということらしい。  
「まさか新川さんも赤玉変身能力を持ってるんじゃないだろうな?」  
 ささやかな俺の問いに、古泉ははぐらかすように首を振った。  
「そうそう、橘京子の目論見も、ある程度検討はついていたんですよ。しかし――」  
 以下、古泉のイイワケが延々続いたので割愛させてもらおう。  
 「よもや市内探索の日とブッキングさせるとは」とか、「おかげで僕の身動きが」とか、清涼スマイルで誤魔化し続ける古泉を見ているのには薄情な楽しみがあったけどな。  
 
 つうわけで、結果だけ見れば世界は元通りになった。  
 これが既定事項だったのかどうかなんて考えたくもないが、果たしてあのまま佐々木が世界改変を成功させていたらどうなっていたのか、時々考えては寝つきが悪くなる微妙な年頃だ。  
「あんた。罰ゲーム三十連発を裸一貫で受ける覚悟はできてるんでしょうね?」  
 放課後、ハルヒが団長机の三角錐をかったんかったん揺らしながら俺に詰問する。  
 喜怒哀楽をまとめて百倍濃縮還元したような表情が浮かんで、俺にはそれが死刑執行人が鎌を研磨する姿に見えなくもない。俺は生唾を飲み下した。  
「すみませんでした。マジすまねえ。心より陳謝いたします。今後は一切このようなことがないように」  
「謝罪は一言にまとめなさい。そうすれば三十から二十九連発にオマケしてあげてもいいわ。あたしはこれでも物の解ってる団長だから。談合には一切応じないけどね」  
 二十九も三十も大差ないわけだが。そんなことを口にしたら即刻ダブルアップで罰則数を倍にされかねない。俺は口のファスナーを厳重に閉じて、不思議そうな顔の朝比奈さんに今際の笑顔を向けた。  
 
 数日後の夜。自宅。  
『それは難儀だったね。申し訳ないが傍目には傑作だ』  
 電話越しに佐々木のクスクス笑いが漏れる。  
「おかげで破産しそうだし、間違いなく身体のどっかがイカレる気がする。何か対応策はないか、友よ」  
『そうだねえ。……僕が同行して涼宮さんを説得するくらいしか思い浮かばないな』  
 受話器の向こうで、佐々木が悪戯っぽい笑みを浮かべている光景を幻視しつつ、俺は溜飲を下げた。どうやら俺は生まれつきイジり倒される宿命にあるらしい。  
 ハルヒや佐々木の他に神的存在がいるんだとしたら、それこそそいつに談合したい心境だ。  
 俺と佐々木はしばらくの間、電話越しにあれやこれやと他愛ない話をした。  
 やがて、  
『さてと、そろそろ切るよ。また今度』  
「ん。そうか。それじゃな。次に無事五体満足で会えることを願うぜ」  
 佐々木の小さな笑い声を聞き届けつつ、俺は受話器を置いた。  
 閉鎖空間から帰ってきて以来、こうしてたまに佐々木と電話するのが習慣になりつつある。  
 佐々木のほうは「あの時」の主張を話題に上げないものの、俺も佐々木もあれ以来何か共通の認識を持ちつつあるらしいことは、漠然と感じている変化のひとつだ。  
 それがまた今後何かしらのトラブルを生むんだとして、仮に俺がまるっきり対処できないような事態に陥ったんだとしても――俺は最後の最後までもがき続けてやるつもりだ。  
 SOS団も、佐々木との友人関係も、橘京子ら「敵」役とのムードもひっくるめてな。問題を起こしたければいつでもかかってくればいい。何度でも相手になってやる。  
「…………」  
 ああ、そうだ。  
 そういや今回朝比奈さんがまったくといっていいほど危機の警報を発していなかったな。  
 
 などと思っていたら、先日下駄箱にこんな手紙が入っていた。  
 
  ごめんなさい。うかつでした。  
  そこにいるあたしも、ここにいるわたしも、色々と立て込んでいて、あなたを助けに行くことができませんでした。本当にごめんなさい。  
  また今度、ちゃんと会ってお話ししましょう。  
   朝比奈みくる  
 
「……」  
 俺は、「会ってお話しする日」とやらが、ハルヒの罰ゲーム執行日や、佐々木と出かける日、長門と図書館に行く日、ひいては古泉が連珠十連敗記念に俺に奢ってくれる日、  
その他臨時で入りそうな諸々の予定と被らないことを祈りつつ、手紙を封筒に戻し、鞄にしまった。  
 例の決まり文句を言いながら、な。  
 
 (了)  
 

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