η‐0
突然降り始めた大雨の中、水しぶきを撥ねさせて煌びやかな光で彩られた繁華街を突っ切っていた。
宵の口の賑わいは消散して人気はほとんどない。日曜の深夜だから当然かな。
先を急ぐには好都合ではあった。この寂寥とした雰囲気はお世辞にも居心地が良いものじゃないけどね。
チラリと掠めた不安を振り払うかのように、地面を強く踏みしめる。スニーカーと靴下が汚れるのを気にかけてる場合じゃない。最終電車の発車時刻が迫っていた。
強い雨で折りたたみの傘はあまり役に立っていない。冷たく濡れた衣服が貼り付いて不快指数は高まるばかりだった。
少し駆けただけなのにひどく息が乱れていた。ふくらはぎが痛い。グリスが切れかかっているかのように節々が軋んで思うように動かない。塾通いですっかり身体が鈍ってしまっているようだった。
非難囂々の肺胞を宥めるために、大きく息を吸い込んでみる。前線が通過してるせいか生暖かい湿った空気が身体に流れ込んできて返って気分が悪くなった。……最悪だ。
日曜のこの時間帯は週明けに備えて身体を休めながらゆっくり過ごす、というのが理想というものだろう。だけど今の私はそれと正反対のことをやってしまっている。しかもそれが自業自得なのだから始末が悪い。こんな調子では今週も先が思いやられた。
……まったく、どうかしてる。
すべてが空回りの状況を開き直って嘲笑うかのように口の端を歪ませた。
上の空で聞き流してしまった塾の講義を取り返すためにファーストフード店の席で自習をやり始めたまでは良かったけど、どうしても解けない問題を意地になって考え込むうちに時間を忘れてしまうなんて……。
慌てて店を出てみれば外は大雨だった。運にまで見放されてるみたい。
この乱調は散漫な思考に因るものだ。先日返ってきた全国模試の結果には目を覆いたくなるような数字と志望判定が印字されていた。
ここ一ヶ月の私はまるで何かに囚われているかのように注意力に欠けている。
何かに……、なんて言いながら本当は分かっている。
心を惑わすようにふとした瞬間に浮かびあがる一人の顔。中学時代、『親友』として共に過ごした異性の君に私の心は揺れている。
進路の舵を切るたびに周りを取り巻く人物は入れ替わっていく。儚いかな、その時々で仲睦まじくても道を分かてば意図せずして疎遠になっていく。得てして交友関係とはそういうものだ。
そして彼も多分に漏れず人生単位で測れば会釈してすれ違っただけに過ぎないその大勢の中の只の一人。
そう認識していたにも関わらず、この心境はどういうことか。
中学三年の私は確かに彼のことを好意的に想いながらも、何もかも分かった風に割り切っていた。
だからこそ卒業式のあの日、去っていく彼を穏やかな気分で見送ることができた。
そしてあれから丸一年。
高校入学の安息も束の間、進学校で待っていたのは受験勉強の延長戦。明けても暮れても勉強の日々に嫌気がさしそうになりながらも、毎日を追われて彼と逢う機会も取り持てず徐々に彼を想うことが減っていった。
それを想定どおりと静観しながらも、寂寞とした想いにちくりと心を痛み始めた矢先に青天の霹靂が訪れた。
私の前に現れた超能力者を名乗る少女。そして彼女が連れてきた未来人、宇宙人を名乗る異邦の人物。
彼らが言うには私にはこの世の理を統べる神様のような力が宿っているという。
新興宗教の勧誘も巧妙になってきたものだと思ったのが第一印象。
だけど自称超能力者の彼女の口から『親友』の名前に出ては、さすがに動揺は免れなかった。
聞けば彼もまたこの奇怪な事変に深く関わっているという。
超能力少女が持ってきたばかげた話は、真偽はどうであれ退屈過ぎる私のこのライフスタイルに一石を投じるに足りて、促されるままに駅前の駐輪場で彼との再会を果たした。
小難しい薀蓄を回りくどく語る私にあけすけに向き合ってくれる彼の性質は全く変わってなかったけど、少し背が伸びて顔つきが精悍になっていた。なにか大きな経験を乗り越えて成長を遂げたような、根拠もなくそんな印象を受けた。
さしたる感慨もなく、沸き立つこともなく、いつもの調子で取るに何気ない会話を交わして惜しむこともなく別れた。
それは日常に埋もれて然るべきはずで、まさかあの瞬間が転機になっていたなんて思いもよらなかった。
自分の感情がこんなに当てにならないものかと愕然としたよ。恥じる思いだね。
焼けぼっくいに火がついている。
一年前はそういった感情を明確に自覚してなかったとはいえ、省みれば結局はそういうことなんだろう。
語弊こそあれ、これが最も的確な表現なんだと思う。
ただ、火種は――――、彼ではなく彼の傍にいた一人の女子。明朗快活で裏表がなくて、生命力に溢れた笑顔が素敵な娘だった。私と正反対のタイプ。
噂に聞けば、彼を巻き込んでなにやら部活動の真似事をしているらしい。
二人の肩書きは分からないけど、打ち解けた雰囲気からして、いま彼に一番近しい女の子であることに違いない。
そう察したときに、すでに燻り始めていたんだと思う。煙が細すぎて気づかなかったけど、火は徐々に熾って焼け広がっていった。
困ったことにどう対処していいか分からない。水をかけて消してしまうのが良いのか、火が弱まるのを待つしかないのか、……あるいは燃え盛るに任せてしまうのが良いのか、さて、どうしたものか。
自嘲しながら、十字路を直進しようとしたときだった。
「そっちは――、遠回り――」
そんな声を聞いたような気がして、脚を止める。
どこかで聞き覚えがある声。振り返ってみるけれど、辺りには人影はない。
一本先の通りで青信号が点滅して赤に変わるまで、アスファルトを叩く雨音を聞き入る。
…………おかしな空耳だ。確かにここで右に折れれば近道になる。
道中に不健全な宿泊施設が密集する区画に女子一人で足を踏み入れるという抵抗を無視すればの話だけどね。
時計を見る。このまま直進しても間に合う可能性は残っていた。
だけど、不思議と身体が旋回する。誰かに操られているかのような不思議な感覚に伏す。
半分わけも分からないまま、私は妖しげに静まり返る大人の街へと足を踏み入れた。
厚手のカーテンが垂れ下がった駐車場、けばけばしい配色の看板、隙間を埋めるように立っている用途不明の雑居ビル、吸い込まれそうな闇が渦巻く路地、道すがら視界に入ってくるもの全てが異様におどろおどろしく映る。
怖くて身体が竦むような心地がした。
でも、急がないと……。
道なりに存在するものをまともに見ないように意識的に視界を狭めて駆けた。
あの角を曲がってもう少しだけ我慢すれば駅が見えてくる。
そう奮い立たせて一心不乱に走っていると、前方で脇の建物から道路に飛び出してくる人影が目に入った。
同時に稲光とともに雷が鳴って、ぶつかるにはほど遠い距離で反射的に急ブレーキをかけて立ち止まった。
すぐに立て直そうとしたけど――――、網膜に映り込んできた駅の方に向かって駆けていく二つの後ろ姿に足止めを食らった。
何か語りかけながら並走する女に傘を傾ける男。耳慣れた声が耳朶を打つたびに身体が痺れるような感覚がした、
傘から横顔が覗いて、麻痺は手まで侵して折り畳みの傘が地面に落ちた。
女は嫌がっている風だったが、男に強引に引き寄せられて結局おとなしく一つの傘に収まる。
歯に衣を着せず文句を言う様は逆に睦まじく、まるで痴話げんかのように聞こえた。
甲高く特徴のある女の声……、照合には時間がかからなかった。
再び雷鳴が轟いて光が視界を奪う。視力が戻ると右に折れたのか二人の姿はなかった。
目の前にあった光景が受け入れられず、渦巻いた感情に収拾がつけられず、濡れ鼠になりながら棒立ちになる。
ずぶ濡れになっても冷たいとは感じない。
聴覚を覆う雨音が雑音にしか聞こえない。
感覚が遠のいていく。
どうにかなってしまいそうな自身を庇うかのように、遠く、遠く――――。
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σ‐1
覚醒と睡眠の境界ってのは曖昧で、そのぼやけたボーダーライン付近をうつらうつらと揺れる至極の安楽は、この先何年生きたとしても決して飽きがくることはないと断言できる。
一つ不満があるとするならば、いつ覚醒に浮き上がるか夢寐に沈むかは本人にすら制御不能で、このやんごとない時間は往々にして長く続かないということか。
夢見心地の浮遊感を名残惜しくも手放して意識が戻っていく。
瞼越しに光を感じて目を開けると、カーテンの切れ目から差し込んできた朝日から強烈なカウンターを浴びて思わず目を眇めた。
少々乱暴な起こし方だが贅沢は言わない。階下で潜んでいるうちの粗忽者に比べればかわいいもんだ。
枕元に置いてあった時計を掴んで、乾燥気味の眼をしばたかせながら時刻を確認すると七時前。
妹が起こしに来るのに先んじて目が覚めるなんて珍しいこともあるもんだ。我ながら感心するぜ。
むくりと身を起こしてそのまま爽やかな朝の静寂に浸る。
五月も半ば、布団が恋しくもない季節になってきた。
雀のさえずりが清々しい朝の演出に一役かってくれている。
傍らで丸まっているシャミセンはまだ起きる気はないらしく、静かに寝息を立てていた。
自ずと目覚めるのがこんなに心地よいなんて忘れかけていた感覚だね。
「叩き起こしてきなさい」という母親の言いつけを曲解した妹が、毎朝フライングボディアタックを仕掛けてくるもんだから常に俺の目覚めは強烈至極だ。
こんな特異なアラーム機能を有した妹は、そんじょそこらにはいないだろう。果たしてこれは誇れることなのかは甚だ疑問だが。
さて、いい加減起きるかと寝ているシャミセンを気遣ってそろりとベッドから降りようとした矢先――、ドタドタと階段を駆け上がってくる音に緩やかに過ぎていた時間が破られた。
その乱雑でデタラメなリズムからして四つんばいになってることは想像に難くなく、小学も最高学年に上がったんだからせめて少しは淑やかにならないもんかと頭を痛めたが、そんな兄の心中などお構いなしで自室のドアが開け放たれた。
「キョンくーん! 朝だよー!」
ドアの向こう側を窺うつもりなどハナからないらしく、マイシスターは俺が眠りこけているもんだと見切り発車で掛け声きって両手を広げてそのまま宙に身を躍らせようとする。
危ねえと、反射的に身構えたが、踏み切りをとどまってくれた。
「え――――…………ぃ……? あれ? 起きてる?」
どうして俺に尋ねる。見りゃあ分かるだろうが。
そんなツッコミの代わりに返した「おはよう妹よ」という挨拶を華麗に無視して妹は非難めいた表情で俺にダメだしをかましてきた。
「むぅー、今日はスペシャルな感じにしようと思ってたのにぃ。ねぇ、もう一回お布団かぶって寝て?」
ばかなことを言ってるんじゃない。あとスペシャルってなんだ? ただでさえ特殊な目覚めなのにこれ以上凝らなくていいぞ。逆方向のスペシャルなら歓迎するがね、優しくゆすって起こしてくれるとかな。
「キョンくん」じゃなくて、「お兄ちゃん」と呼びかけながらやるときっと効果大だぞ。
我ながらの名案を説きつつ宥めるように肩に手を乗せてやったが、何が気に入らないのかふくれっ面は解けず、ぶーたれたままだった。あんまりがんばってると頬が伸びるぞ。
……分かってくれないのは今更に始まったことじゃない。これからも根気良くやっていくだけだ。
とりあえずいい加減着替えさせてくれ。
ちんまい妹の身体を反転させて退室を促してやると、
「べーっだ!」
と、極大のあっかんべーを最後にかまして元気に飛び出していった。
どこかで見たような表情だ。
やれやれ、まったく世話の焼ける。
開けっ放しになったドアを閉めようとすると、スルリと隙間をすり抜けてシャミセンが部屋から出て行った。
廊下に出ると押し付けがましくも思い切り伸びをしてみせる。
そうかい。安眠を邪魔してすまんね。
なおざりに詫びて、ようやく着替えに取り掛かった。
起き抜けのだるい身体を引きずって、のそのそと組み立て式の安っぽいハンガーラックに向かう。
取り出したのはそろそろ身体に馴染んできたのと引き換えに飽きが入ってきたお馴染みの北高ブレザ――――、……じゃねえ、なんだこれ!?
自分の目を疑った。手の中にあるのは見慣れない学ラン。
二十一世紀にもなって久しいというのに教育勅語の名残を未だ漂わせた金ボタンの黒い詰襟だった。
一瞬中学時代のものかと思ったが違う。素人目にも上質そうな生地で、襟には覚えの無い校章がついていた。
よく観察しているうちに、どこかで見たことがあるような気がしたが、はっきり思い出せない。
……厭な予感がしやがる。
どうやら妹がすり替えたなどという簡単な話じゃなさそうだった。
知らぬ間にまた面倒なことに巻き込まれたんじゃないかと直感した。心拍数が上がり、視界が狭窄する。
いや待て。まだ決め付けるのは早い。少し冷静になろう。手の込んだ冗談かもしれないし、まだ寝ぼけてる可能性だってゼロじゃない。
自分に言い聞かせて、まるで愛着のない詰襟のポケットの中を検めた。もし本当なら『アレ』があるはずだからな。
両脇のそれには何も入っておらず空振り。だが本命の内ポケットで指先が堅い感触に突き当たった。
脈が撥ねる。……最悪だ。
観念しながらゆっくり取り出すと、本皮のカバーが付いた小さい冊子が出てくる。言わずと知れず生徒手帳と銘打たれていた。
おそるおそる開くと、一枚のカードが目に飛び込んでくる。
光陽園学院生徒証――、学籍番号06033――、2年B組――、出席番号14番――、
これら全く身に覚えの無い文字の羅列に続く、
生年月日――、本名――、住所――、
生まれてこの方付き合ってきた俺の正しい個人情報。
あまりのデタラメさに、眼球が取り込んだ文字情報を脳が取り下げようとする。
ふざけるな、もう一度最初から読み直せと。
だが、視線が向かったのは冒頭ではなくカードに直接プリントされたまごうことなき俺の顔写真。
受け入れられない現実を押し付けられて、畑に取り残された冬場の案山子のように俺は色を失って唖然呆然悄然と立ち尽くした。
通い慣れない道を、おぼつかない足取りで進む。
駅前の通学路は平坦で歩道も広く理想の通学路と言えた。「北高にデブは存在しない。毎日の山登りで強制的にダイエットさせられるから」と揶揄されるのも分かる。雲泥の差だぜ。
毎朝事あるごとに恨み節を詠みながら悪戦苦闘していた坂道通学から解放されたというのに俺の心は重く沈んだままざわついていた。
あの後、自宅で錯乱状態に陥らなかったのは奇跡とも言える。
朝刊で月日だけは昨日とまともに連続していることを確認して少し安堵したが、それも束の間。
カバンの中を確認すれば見たことの無い教科書、書き取った覚えの無いくせして確かな自分の筆跡で綴られたノート、そして極めつけにわけの分からない楽譜のコピー、混乱の連続だったぜ。
朝食の席では母親や妹を問い質して奇異の視線を浴びたが、なんとか取り乱すまでには至らなかった。あれくらいなら寝ぼけてたの一言で済ませられるだろう。
昨年の暮れに似たようなことがあったからな。知らずの内に耐性ができていたらしい。
この着慣れないくせに異様に身体に合っている制服で、なじみのない道をたどるように歩いて登校するのは間違っても気分の良いもんじゃないけどな。
始業が何時とか詳しいことは分からんが、通学途中に光陽園の制服を見かけるのは日常茶飯事だったから、北高とそう大差ないはずだ。
なにもこの狂乱の状況でクソ真面目に登校しなくてもいいんじゃないかとも思えたが、今自分が居る世界観を把握しておくのは重要なことだろう。
急がば回れ、じゃないが普段どおりと思しきライフサイクルを実践することで案外真相に一番早く辿り着けるんじゃないかと思ったのさ。
実際学校に行けば多くの人と会えるしな。情報収集には適している。
角を曲がって大通りに出ると光陽園の生徒の一群と遭遇した。
ブレザーの女子と半々そこそこの割合で俺と同じ制服を着込んだ男子が混じっている。
こうやって他人が着ているのを見てようやく思い出したぜ。どうりで見たことある学ランだと思えば去年改変された世界で古泉が着ていたのが記憶に残ってたんだな。
見知った顔は……、とりあえず見当たらない。
何食わぬフリをして集団の中に紛れ込もうとすると、
「あー!? キョンさんっ!」
斜交いから高い声が掛かった。緊張が身体に走る。
馴れ馴れしく俺に向かって来るのはどこのどいつだと目をくれると、頭の両サイドで結って作った二つの尻尾を揺らしながら駆け寄ってくる女子が一人。
制服姿を見るのが初めてで一瞬戸惑ったが、よく見れば面識のある面影。佐々木サイドの超能力者、橘京子だった。
「よかったぁ。やっと、知ってる人に会えました」
橘は大きく息をついて胸を撫で下ろしたが、俺が無反応でいると一転眉を下げて自信なさげに見上げてきた。
「あの……、もしかして、あたしのこと知らなかったりします?」
会うなり間の抜けた調子で切り出してきて訝ったが、瞬時にピンとくる。この慌てっぷりと、親交の深さを探るような妙な言い回し、ひょっとしたらこいつも俺と同じく世界改変に巻き込まれたクチか?
「知ってる。異空間に闖入できるだけのリミテッドな超能力者、だろ?
心当たりを測る皮肉に橘は実に分かり易く反応して、一瞬口をへの字に引き絞ってみせた。……ビンゴか。
しかし機嫌を損ねたのも一瞬、犬が数日振りに旅行から帰ってきた飼い主にみせるような感激っぷりで捲くし立ててきた。
「本当によかった。知ってる人が一人でも多いのは心強いのです!」
勢いあまり俺の手を取ってくる。
小さくてそこそこに柔らかい手の感触に面食らった。
こら、言いたいことは分かったから手を離せ。
振りほどこうとするががっちり握られて振りほどけない。意外に握力あるな、こいつ。
道行く生徒から浴びる奇異の視線が痛い。
ひたすら「よかった、よかった」と連呼する橘に辟易しながらも、俺は根気良く宥めることにした。
まぁ、この様子からするとこいつだって被害者なんだろう。精神的なキツイさは分かってやれないことはない。
結局興奮冷めやらない橘を落ち着かせるまでたっぷり冷凍食品をチンするくらいの時間を浪費した。
「なぜこんなことになってしまったのか、具体的に何が起こったのかは分からないのです。機関に所属する人たちと連絡が取れなくなってしまったから。だけど、一つだけ確かなことがあって、ここでは間違いなく佐々木さんが森羅万象を司る存在なのです」
橘と並んで通学路を歩く。落ち着きを取り戻した橘は訥々と現時点で分かっていることを語りだした。
それにしても、のっけからとんでもないネタが飛び出したもんだ。
証拠の一つでも提示を願いたいもんだが無駄か。前も言ってたが、それは感覚的に認識することなんだろう?
「はい。……なぜと言われても困るのです」
心底無念そうに橘はうな垂れた。
もしもこいつが言ってることが正しいとするなら、この改変を行ったのは……、いや、まだそこへ踏み込むのはやめておこう。そうだと仮定したところで結局真因にたどり着けない。増えた謎に余計に悩むことにだけだ。
佐々木にはその話をしたのか?
「起きてからすぐに電話しました。だけど、全く話が通じなかったわ。あたしが超能力者だってことも、自分自身が特殊な力を持っていることも記憶から抜け落ちているみたい。詳しい話は学校に着いてから聞く、って本気で笑いながらあしらわれました」
ってことは佐々木も光陽園の生徒ってことか。めちゃくちゃだな。
「藤原さんや九曜さんもそうでした。みんなまとめて光陽園学院の同じクラス。2年B組です。きっとキョンさんもそうなんでしょう?」
お前に言い当てられるのはいい気分じゃないが、残念ながらその通りだ。
藤原や九曜とも連絡は取ったのか?
「ええ、幸い彼らはあたしたちと同じく前世界の記憶を引き継いでいました。とりあえず登校をして探りを入れて、お昼休みにでも集まろうと思っているのです。……あなたもご一緒しません?」
参加すること自体は吝かでない。藤原が毛嫌いしなきゃな。わざわざ出向いてあいつの不機嫌なツラを拝みたいとは思わない。
「そんなことないですよ。藤原さんだって今はみんなで協力し合う必要があるって思っているはずよ」
……だといいがね。さすがに、ハルヒ達に関する情報はないか?
「――あ」
抜けたような感嘆詞に傍らを窺うと、橘が正面を向いたまま硬直していた。
自ずとその視線の先を追うと――――、
「やぁ、おはようキョン」
――――光陽園学園の黒ブレザーに身を包んだ佐々木が居た。
見た目には大きな変化はみられない。雰囲気にも違和感はない。
物腰が柔らかくて理知的ないつものあいつだ。
ブレザー姿の佐々木は異様に新鮮に映る。どことなく品があって格式の高い光陽園の冬服がこの上なく似合っていた。
スカートがやけに短い。膝上十センチは固いだろう。……白く華奢な太ももが眩しすぎて慌てて目を逸らした。
色気も素っ気もなかった中学時代のイメージと少し、……いや、かなりズレがある。
柄にもなくどぎまぎしちまった。
「おはようございます、佐々木さん」
「……おはよう」
橘の尻馬にうまく乗って調子を取り戻そうとしたが、動揺は隠し切れず声がかすれちまった。もっとがんばれ、俺の声帯。
「約束の時間を十分も過ぎているのに橘さんとゆっくり歩いて来るなんてひどいな。電話しても出ないし少し心配したよ。今日携帯を忘れてきただろう?」
非難の言葉とは対照的に佐々木は穏やかに笑ったまま近づいてきた。
約束の時間ってどういうことだ? 佐々木は十字路の角にあるコンビニの前で待ち受けていたようにも見えたが、まさか待ち合わせでもしていたのだろうか?
傍らの橘に目線だけで問いかけてみたが、困惑の顔を浮かべるばかりだった。
「橘さんは橘さんで朝一番に変な電話を掛けてくるし、どうにも調子が狂うよ。まさか二人して何か謀を企てているんじゃないだろうね?」
佐々木の態度はあくまでも冗談交じりの柔らかいものだったが、急に槍玉に上げられた橘はうろたえまくった。
「めめめっ、滅相もないのです。ねぇ、キョンさん?」
落ち着けばか。話がややこしくなるだろうが。
確かに今しがた昼休みに佐々木抜きで集まる話をしていただけに、この佐々木の切り込みには背筋が伸びる思いだが、いくらなんでも意識過剰だぜ。
強引にこの空気を洗い流すように平然と適当に相槌を打って早々に会話を終わらせる。
いつまでも突っ立ってないで行こうぜ。
と、慣れた風を精一杯装って佐々木の横を抜けて一人歩き出す。
その時だった、
「あ、待って、キョン」
回折して耳殻の裏から回り込んできた言葉を聞くや否や、ふわりと俺の手が柔らかくて心地よいモノに包まれた。
何事かと訝る暇もなく、佐々木が俺の手を握っていた。
「――――なっ」
何か言おうとしたのは確かだが言葉に詰まる。錯乱した脳が台詞の中身を投げ捨てやがった。
そこにとどめを刺すように俺に向けられたのは佐々木の満面の笑み。陽気で無邪気なものではなく、まるで月見草が咲いたような奥ゆかしくも可憐な笑顔だった。
中学時代、それなりの期間を共に過ごしたにもかかわらず、初めて目にする表情。
身体をこわばらせたまま、いつまでも展開についていけないでいると佐々木が少しいじわるそうに仰ぎ見てきた。
「ふふっ、キミは本当に純情だね。まだ慣れないかい? でもダメだよ。待ち合わせに遅刻した罰だから、さらに……こうだ」
何を思ったか、佐々木は俺の手先が弛緩しきっているのに乗じ、自分の指を絡めて手のひらを合わせるように繋ぎなおした。……、俗に言うのかどうかも知らんが『恋人つなぎ』ってやつだ。
ここまでされてはさすがに吃驚に羞恥が勝る。
いきなりこんな……、いや、その前に相手はあの佐々木だぞ?
恋愛などと言葉に出そうものなら十倍返しでその心理的なメカニズムを怜悧冷静に説き始めることに愉しみを見出すのがお前だろ?
いったいどうしちまったんだと、お門違いも甚だしいのは承知で感情を抑えきれない俺は抗議の声を上げようとした。
だが心底嬉しそうで、幸せそうとも言える満たされた顔を目の当たりにして、膨らんだ怒気が霧散する。
……ダメだ、言えん。
そもそも切り分けて考えないとダメだ。目の前に居るこいつは佐々木であって佐々木じゃない。
いちいち取り乱してちゃ心身が持たない。とうに覚悟はできてたはずだろ? 冷静になれ、俺。
奮い立たせるように気を取り直して俺は歩き出す。やけくそのようにぎゅっと強く握り返すと、佐々木は何が可笑しいのかくつくつと喉を鳴らした。
歩き方がぎこちないのは勘弁してくれ。慣れてないんだよ、それにこの気恥ずかしさはどうにもならん。
登校集団の流れに乗って歩みを進めていると、ふと橘の気配がないことに気づいた。
肩越しに後ろを窺うと、二十メートル手前のコンビニの角で橘はカバンを取り落としたまま氷殺スプレーを降りかけられたガガンボのように固まっていた。
どこか音程が風変わりなチャイムを聞いて四時限目が終了した。
この非常時に呑気に勉学に励む気などさらさらなく、ひたすら情報収集と環境観察に注力したが、さすがに授業中はやれることが限られているので厭でも講義を聴かされる羽目になった。
知らない教室で、知らない教師が、知らない教科書を使って行う授業はもはやコントの他なんでもなく、げんなりしたぜ。佐々木、橘、藤原、九曜を交えて学園ものの演劇をやらされている気分だった。
一番後ろの席で隣に座る佐々木がちょくちょく筆談を仕掛けてくるのが懐かしく、程よい気晴らしになってくれたけどな。
ちなみに他のクラスメートは中二のときの面子が揃っていることが判明した。
卒業以来逢ってない奴が大半で、おしなべてみんな老けてたせいでしばらく気づけなかったけどな。
よくもまぁ、ここまで細やかに再現させたもんだ。
凝りっぷりにはうなるばかりだが、そのおかげで救われた部分がある。国木田が隣のクラスに居たのさ。
奴とは中学時代からの付き合いだからな、おそらくここでも気安く声を掛け合える仲であるに違いない。
うまくすれば色々とこっちの世界のことを聞きだせるかもしれん。
廊下で待ち伏せていると、ちょうど教室から出て来た国木田の背中を見つけて呼び止めた。
「国木田、購買で何か買うのか?」
「あ、キョン。ううん、今日は定食だよ」
普通に話が通じることに少し感動を覚えるのは精神的に参ってる証拠かもな。しかし、ここで俺が挙動不審では本末転倒。
しっかり役を作ってこの流れをキープしなきゃな。
「一緒に行こうぜ。たまにはいいだろ?」
たまに――、のくだりは自然を演出するためのはったりだ。出会い頭の反応からして少なくとも毎日一緒に昼飯を食ってる雰囲気じゃなさそうだと踏んだのさ。
「そうだね。いいよ、行こうか――」
読み通りの快い返事に揚々と歩き出そうとしたが、すぐさま何か思い出したような国木田から待ったがかかった。
「あれ? キョンは佐々木さんとお昼食べるんじゃないの?」
……そうなのか?
「いや、聞き返されても困るよ。いつも一緒に食べてるじゃない。手作りのお弁当を、えーっと、……第二音楽室だっけ?」
……待て待て、新しい情報をそう矢継ぎ早に提示するのは止せ。こんがらがるだろうが。
一体何を言ってる? 手作り弁当? 第二音楽室?
「佐々木さん今日来てたよね。喧嘩でもしたのかい?」
「い、いや……」
……だめだ、言葉が出ない。素で返してどうするんだよ、俺。
ああ、自分が厭になる。微塵のアドリブも利かせられないなんてとんだ期待はずれだ。
「大丈夫かい? いくら起き抜けだからといって、いつまでも寝ぼけてちゃダメだよ」
それは遠まわしに俺が四限目を寝て過ごしたと言ってるのか?
さらりとキツイ国木田節が沁みるぜ。
とにかくもう立て直しは不可能だ。冗談を真に受けて柄にもなくおどけるのが精一杯。
売り切れを危惧して食堂に急ぐ国木田を見送って立ち尽くした。
……行かなくちゃならんのだろうな。ところで…………、第二音楽室ってどこだ?
どこの学校もそうだろうが音楽室ってのはたいがい角部屋にある。
光陽園もその例に漏れず、直角に曲がる配棟になっている四階立ての校舎の最上階、L字の短辺に当たる端の部屋がそうだった。
在学二年目という設定をしょってる俺が大真面目に教室の場所を尋ねるという行為は、すなわち頭のアレな人と自ら烙印を押すことに等しく、国木田と別れた後、かなり困った。
幸運なことにも職員室の前に学校案内なるものがあったのを思い出して、なんとか事なきを得たけどな。
休み時間にあちこち徘徊していたのが功を奏した。助かったぜ。
駆けずり回ってくたびれた身体に鞭打って階段を上りきり、廊下を歩いて第二音楽室の前に立つ。
辺りは昼休みの喧騒から隔絶されて静まり返っていた。人の気配がしない。本当にこの扉の向こうに佐々木が待っているんだろうか。
猜疑を逃避に重ねて俺はおそるおそる厚作りになっているドアを開いた。
年代を感じさせる内装からして第二という銘はきっと旧いの読み換えだろう。
それでも北高のものとは違って立派なものだった。音響を考えているのか天井が高く、階段状に席が配置されていている。
スライド式の五線黒板、グランドピアノ、小さな孔の開いた板を貼り合わせた吸音壁、その上方には取り巻くように配されている音楽家の肖像画、それらお馴染みの備品に囲まれて一人佇む少女。
高所の採光窓から差し込んでくる暖かい日差しの中、空気中の微粒子が起こすチンダル現象に少し霞んで見えるその様は少し浮世離れて一目別人かと錯覚しちまったが、間違いなく佐々木だった。
「ちょっと遅かったね。……あれ、今日はお茶を買ってこなかったんだ。誰かにつかまってた?」
穏やかな表情のまま小首を傾げる。佐々木は別に応えを求めている風でもなく、そのままごく自然な所作で俺を傍へと誘った。
目の前に在る現実に思考が追従しないが、わざわざ取り乱すためにこんな所まで来たんじゃない。
渇いた喉から相槌を搾り出して俺は佐々木に促されるままに椅子に腰かける。中段付近の席で横並びに座った。
机の上には意匠を同じくして大きさが異なる2つの弁当箱が並んでいた。……ペアルックならぬペア弁当箱……か。
佐々木と会話を成立させるためには、情報が不足し過ぎているな。
少々骨が折れるが昔話のフリをして色々聞き出すしかない。
「……ここで、こういう風に食べるようになってもうどれくらい経つ?」
「吹奏楽部に入部して顔なじみになって少し経った頃だから、ちょうど丸一年じゃない?」
またまた知らない設定が出てきやがった。吹奏楽部だと? 今の口ぶりだと俺も在籍してるってことなのか。鞄の中に入っていた五線譜のコピーを思い出す。……道理で。
丸くなりそうな目をどうにか押さえつけて、さも慣れきった様子を装う。
「そんなに経つんだな。毎日作ってもらって悪いな」
「まだ一ヶ月そこそこじゃない。キョンは作ってくるたびに美味しそうに食べてくれるから全然苦に思わないし」
佐々木は嬉々としてそう言いながら、朝比奈さんと伍するかのような極上の笑みを浮かべて弁当箱を開けた。
食欲をそそる香りが鼻を掠めたが、俺はそれよりも先に覚えた違和感に囚われていた。
……ここにきて佐々木の口調がおかしい。まるで女子と喋っているかのような柔らかい言葉遣いだぜ。
おかしいのは口調だけじゃない、目の前の佐々木はくすぐったいような、甘ったるいようなそんな妙な雰囲気を纏っていた。
一体どういう風の吹き回しだ?
問い質したいのは山々だが、改めて訊く理由がない。後ろ髪を引かれならがも弁当の中身に視線を落とした。
「今日は在り合わせのものばかりでごめんね。実は昨日の夕飯の残り物も入っちゃってるけど、味は保証するから」
作ってきてもらっている分際で文句を言うほど不遜じゃない。
しかし……、なんとまぁ。
感心したのはその普通さだ。変に気合が入っていない。深く読めば、俺たちがいかに気の置けない仲であることを如実に示すものでもあった。
正方形に切ったノリを碁盤目のように並べたご飯、タレで煮込んだ牛肉、チーズ入りの卵焼き、フライドスイートポテト、ブロッコリーとトマトのサラダ、デザートのリンゴといったベーシックな面子が丁寧に詰められている。
「残り物ってのはこの肉か? 見たところすき焼きっぽいが……」
大当たりとばかりに佐々木は片目を瞑ってチロリと舌を出した。
「――――っ!」
……高鳴る胸に息を呑む。
佐々木の硬派なイメージとどう考えても相容れない茶目っ気に寒気を覚えたならまだいい、だが、実際はそんな嫌悪感など微塵もなく、俺は純粋に身体の芯を熱くするような、やり場のない滾りに心の自由を奪われた。
何を言ってるのか自分でもさっぱりだ。自分の感情を正確に把握できない。
この気持ちを究極的に突き詰めたならば――――、とどのつまりは『可愛い』というプリミティブな言葉に収束しそうな気がしたが、そいつは簡略の暴挙というもんだね。
佐々木が『可愛い』なんて、円周率が三だと言い張るのと同じくらいに噴飯ものだ。まったくどうかしてるぜ。
とんでもない雑念を振り払うために、早々に俺は手を合わせて料理に手をつけた。ターゲットは肉だ。こんなものは早々に視界から消すに限る。
しばらく佐々木に顔向けできず、俺はとにかく味覚に全神経を集中させることにした。
会話はおろか脇目も振らずかき込んだため五分そこそこで平らげてしまった。
空になった弁当箱に蓋をかぶせて一息つく。
そうしていると佐々木が魔法瓶のお茶を注いで差し出してくれた。手際がいいな。
「ふふっ、慌てて食べなくてもいいのに。そんなにお腹が空いていたの?」
「純粋に美味かったのさ。……ごちそうさん」
図った様に親しみ易い味付けのものばかりで箸が止まらなかったな。
……いくらなんでも俺の好みに合わせたりしてないよな、……いや、するのか? 深く考えるのは止そう。
佐々木は半分ほど残った弁当箱をつついて一人箸を進める。
自分のペースで話しかけるチャンスだな。
佐々木の話に依れば一年次から飯はここで一緒に食ってたが、弁当を作るようになったのは最近ってことだったよな。
このあたりに俺たちの仲を確かめるヒントがありそうだと少し話を戻すことにした。
「なぁ」
「うん?」
「弁当を作ってくれるようになったのって、何がきっかけだったっけか?」
何気のない会話のように思えたが、……どうやら踏んでしまったらしい。
佐々木は少し背筋を伸ばして眼を見開いて数回まばたきを繰り返した。
本気で訊いてる? と言わんばかりだぜ。冷たい汗を背中に感じたまま俺は佐々木の言葉を待った。
「何って……、キョンが告白してくれて、私達が付き合うことになったからでしょ。……もしかして忘れたの?」
佐々木の顔みるみる曇る。うつむき加減に眉根を寄せて心底悲しそうな表情で俺を咎めた。
ダメだ……正視できん。
怒っている佐々木には甚だ申し訳がないが、愛らしく思えて仕方がない。錯覚だとよく見返すほど逆効果だった。
年相応普通に女らしいだけなのに、佐々木がマジ切ってやるとこんなにも凶悪的な破壊力があるとは思いもしなかった。
友達という定義に完全にごまかされていたな。佐々木のクオリティの高さを思い知ったが最後、完全に意識しまって動悸は早くなるばかりだった。
「覚えてる。いや、思い出したっ。そうだよな、付き合い始めたのが契機だったよな」
我ながら既出の情報をなぞってるだけの酷い返しだ。
俺と佐々木が付き合ってるとか、俺が告白したとかはこの際二の次三の次。
ここで迂闊なことは言えば致命傷になりかねん。
しかし佐々木は厳しくも、
「じゃあ、お弁当を作るって提案を言い出したのはどっちか答えて」
確認を要求してきた。
勘合貿易で持ってない割符を突きつけられたのに等しい心境だぜ。
考えてる時間がない。そもそも論理を積み上げて正解を導出するのは不可能だろう。だから俺も決め打ちで答える。
「佐々木だろ」
言い切ると――、佐々木の表情が和らいだ。冷や汗をかいた額を拭って、胸を撫で下ろす。
「そうだよ。友達の期間が長かったから、恋人らしくしようって私が提案したんだよ。言葉遣いといっしょ。二人きりのときは男女を意識して話そうって決めたじゃない。……大事なことだからちゃんと覚えてて欲しいな」
「あ、あぁ……。すまん。無粋だったよな。気をつける」
後付で背景を知って今更に少し納得する。そういうことだったのか。
「――ところで」
一転試すかのように下から覗き込んでくる視線に思わず身構えた。
なんだ? まだ何かあるのか?
「そろそろ二人のときはいい加減名前で呼んで欲しいな。シャイなキョンの気持ちも分かるけど――――、ね?」
思わず十万のインチキ絵画でも衝動買いしてしまいそうな、エウリアンも真っ青の最凶の懇願だぜ。
二の句を告げないままでいると、佐々木は無理強いはせずにすぐに自分から折れた。
おもむろに佐々木はハンカチで口許を拭うと向き直って、
「冗談だよ、冗談。無理強いは良くないね。それに――――」
少し恥らうように躊躇いながら、熱っぽい視線で俺を射抜いて、
「――『本当に二人きり』のときはちゃんと名前で呼んで可愛がってくれてるし」
佐々木の顔がゆっくりと近づいて、しかし俺は居竦んだまま動けずに、
「私は今のままでも十分満足しているから、ゆっくり慣れてくれたらいいよ」
まるで小鳥のような愛らしくも素早い動作で、俺の頬を掠るように唇が触れた。
…………。
脳みそが消し飛んでしまいそうな原爆級の事実と言動に、思考はおろか自律神経まで奪われて、もはや俺は廃人のように居尽くすのみだった。
「――――――――」
言葉が出ない。身じろぐなどは当然のこと、視線を動かすことも儘ならん。
どんな酵素をもってしても、さっきの佐々木の言動を消化することができなかった。
――――佐々木との仲がここまで進みに進みきっていたなんて、誰が予想していたことだろう。
あの佐々木と俺が、だぞ?
と言い聞かせるのは簡単だったが、つい先刻まで傍らに座っていた佐々木なら――、と考え出すと別ベクトルで分からなくなる。
こんがらがったまま、誰も居ない音楽室で無為に時間を浪費していた。
佐々木はどこへ行ったかって? クラスメートからの呼び出しを受けて今しがた出て行ったところさ。
目線を落とした机が翳って、ようやく脊髄反射で身体が動いた。
見上げると、橘、藤原、九曜の三人が雁首を揃えていた。接近に全く気づかなかったな。
約一名を覗いて、驚きを戸惑いで割ってかき混ぜたようなざわついた心持ちが表情からにじみ出てやがる。
……見てたのか?
「ごめんなさい。覗き見をするつもりは……。昼休みに集まるはずだったのにキョンさんがどこかへ行ってしまったから探してたの」
そういやそうだったな。すっかり頭から抜け落ちていた。冷静で居たつもりだったがとんだ思い込みだったらしい。
「ミーティングなんて気分じゃないかもしれないけれど、せっかくこうやって集まったんだから話をしない? あたし達も色々と情報を集めたのです」
……いいだろう。いつまでもこうしてたって何も始まらないのは事実だからな。
奮い立たせて少しだけ目に力を戻すと、橘は安堵したように一つ息をついた。
「では、あたしから。まず佐々木さんのことだけど、キョンさんとは高一からの付き合いで一年間の友達の期間を経て先月にキョンさんが告白をして、交際するようになったみたい」
佐々木からもそんな風なことを聞いた。吹奏楽部に入部したのが馴れ初めだろう?
「そうです。あたしたち三人も吹奏楽部所属ってことになってる。仲良しグループっていう設定らしいのです」
ありていな橘の表現に藤原はフンと鼻白む。
分からんでもないね。特にお前や九曜と打ち解けるなんて想像すらできん。もはや怪奇現象の域だぜ。
俺と佐々木の話はもうお腹いっぱいだ。ハルヒやSOS団の情報はないか?
急な振りにもかかわらず、橘はこの質問を待ってたかのように受け答える。
えへんと胸を張る様子がどうも幼稚っぽいが、ここは話の流れを優先してやることにした。
「SOS団のみなさんは北高の生徒ってことに変わりないみたい。SOS団という団体は存在しててあなたを欠いた四人で活動してるって聞きました。どんなことをやってるのかまでは分からなかったけど」
そうか。とりあえずみんなの所在は無事なんだな。
今の話に楽観を得る要素など何一つないが、SOS団が存在しているという事実に少しだけ心が軽くなった。メンバーに俺が登録されてないってのがなんとも寂しい話だけどな。
放課後にでも北高に出向いてみようと思うんだが、ここじゃ俺と連中との間には何の接点もないのか?
「涼宮さんがあなたと同じ中学出身らしいのです。なんでも中学三年のとき仲が良くていつも一緒にいたとか」
なんだその設定は。まぁ、話ができそうなのはありがたいが、しかし、どうしてこんな……。
「つまり安穏な神などばかげた幻想だったということだ」
吐き捨てるように一足飛びに結論付けた藤原。乱暴な言い回しに橘がむっとした。
佐々木が望んでこうなった……ってことなのか?
「――あなたは――――鍵。――――今度は――間違えなかった」
抑揚のない声が耳朶を撫でて肝を冷やした。こんな奇妙な喋り方をする奴は世界広しといえどもオンリーワンだと断言できるぜ。いままでだんまりを決め込んでいた九曜がいきなり喋り出していた。
相変わらず圧倒的なヘアスタイルだな。髪が本体なのか身体が本体なのか分からんくらいだぜ。毛根が一体どうなってるのか知りたい衝動に駆られたが、こいつの髪の中に手を入れる勇気と言う名の無謀と比してすぐに封印した。
「――――これがわたしの――待ち望んでいた――、新しい世界――――、情報の奔流――――」
五歳児に初めて包丁を握らせたようなぶつぎり仕様の発話でなんとも要領を得ないが、言ってることは感覚的に理解できるぜ。
つまりお前はこの狂った世界を絶好の機会と観測を決め込んでるってわけか。
ダークマターでも宿してるんじゃないかと思えるくらいに完全に光のない瞳で、俺の目を見据えたまま九曜は一言だけ言い放つ。
「――返さない」
全く生気の感じられないこいつの表情に一瞬だけ感情が宿った、そんな気がした。
ぞっとするね。この五月の穏やかな日差しが台無しだ。
敵対宣言と受けさせてもらうぜ。
それはそうと、返さないとは興味深い。そう言うからには返る手段があるってことなんじゃないか?
その手段とやらをなんとしてでも見つけてやる。ないなら作ってやろうじゃないか。
でっちあげの歴史を押し付けられたまま生きるなんてまっぴら御免だからな。
「橘、お前はどうしたい?」
問いかけに橘は窮した。ブレザーの裾をきゅっと掴んで逡巡する。
佐々木が神になるという状況はお前が望んで止まなかったものだ。単純に考えりゃここは理想郷そのものなんじゃないか?
「あたしは……、こんな世界は間違ってると思う。涼宮さんから佐々木さんに能力が移って欲しいと確かに願っていたけれど、書き換えられた世界で生きていくのは本意ではないわ。だから、元の世界に戻れるなら、……帰りたいのです」
迷う部分もあるのか、橘は苦渋の選択をするように唇をかみ締めながらそう言った。
藤原はそんな橘の様子を腕組みしたまま憮然と窺っていた。俺の視線に気づくとそのまま見下すような態度で口を開く。
「僕だってこんなふざけた世界は願い下げだ。反吐が出そうになる」
「これは既定事項なのか?」
「禁則……、と言いたいところだが教えてやる。既定事項なんかじゃない。全くイレギュラーな出来事だ。第一なんなんだこのデタラメな時空間座標はっ、――くそ!」
苛立ちで地団駄を踏む藤原。
そう内輪ネタで一人盛り上がられても困るんだけどな。詳しいことは分からんが、この状況下じゃこいつのTPPDも役に立たなさそうだ。
「とりあえず意思表明は出揃ったな。復帰希望派が3、現状維持派が1ってことか」
「おい、待てよ。勝手に僕を抱きこむな。誰が現地人などと手を組んで行動するなんて非効率なことをするものか」
ったく、この未来人一名様はまた異なことを言って話をややこしくしてくれる。
プライドなのか主義なのか知らんが、非常事態なんだぞ? お前の時代にゃ、呉越同舟って言葉が残ってないのか?
「なんでも自分基準とはおめでたいやつだ。僕はあんたらと違うんだよ。策だって持ち合わせているしそれを実行し得る文明だってある。位相が安定して精度があがってくれば、明日中……、いや、今日中に自力で抜け出してやるさ」
やれやれ、驕りもここまで極まるともはや滑稽のレベルだな。
何やら少し詳しい事情を知っているようだったが、こいつから聞きだそうと思わない。
……好きにすりゃあいい。復帰希望A派1、復帰希望B派2、現状維持派1、これで文句も間違いもあるまい。
わざわざA派に藤原を置いたのは俺なりの最高の皮肉だったが、意にも介さず藤原は鼻を鳴らして足早に音楽室を去っていった。