さて、土台を作ってやったんだ。そろそろお前の書いたあらすじを聞かせてもらおうか。  
 そう切り出そうとしたときだった。  
 
「ごめんなさい。日直で遅くなっちゃっいました」  
 
 約束の時間を五分だけ過ぎて天使が光臨した。  
 舞い込んできた清らかな風が湿って澱んでいた空気を一掃し、純真な笑顔がくすんだ空間を照らし出す。やんごとない御方だった。  
 立たせたままなどとんでもない。手近で最も脚がしっかりしてる椅子のホコリを払って、座ってもらうことにした。  
 
「ちょうど本題に入ろうとしていたところですよ」  
 
 朝比奈さん(小)は小動物を思わせるような愛らしい仕草で古泉に耳を傾けようとした。  
 そうだ、ちょっと待ってくれ。確認しておきたいことがあるんだ。  
 
「朝比奈さん、あれから上からの人の定時連絡は何かありましたか?」  
   
 いささか質問が唐突だったのか、朝比奈さん(小)は少し虚を付かれたように数回瞬きを繰り返す。  
 
「……はい。キョンくんと古泉くんのサポートを言い預かってますけど……、もっと何か画期的な作戦か何かがあるかと期待してた?」  
 
 勘違いをなさって申し訳なさそうに眉根を寄せるが、そんなつもりなど毛頭なかったので慌てて否定した。滅相もない。  
 
「いえ、ただ連絡が取れてるかどうかだけ確認したかっただけなんです」  
 
 朝比奈さん(小)が首を傾げるのも無理はない。  
 彼女にとっては意味のない質問だからな。だが、俺はこの返答だけで十分だった。  
 正直、緊急脱出で強制転送された朝比奈さん(大)の安否が心配だったのさ。  
 とりあえず無事だということが分かってほっとした。  
 おっと、話の腰を折っちまったな。  
 古泉に目配せすると、待ってましたとばかりに口を開く。  
 声が妙に活き活きとしてるのは気のせいじゃない。いかにもプレゼンが好きそうだと踏んでたが、こりゃよっぽどだな。  
 
「まずは確認ですが、二つの世界で同時刻に涼宮さんと佐々木さん、それぞれの閉鎖空間を展開させるのことが目標です。本当の意味では無事に元の鞘に戻すことが最終目標ですけど、その領域はもう僕らの手に余ることなので長門さんにお任せするとしましょう」  
 
 同時に頷く俺と朝比奈さん(小)を前に、古泉は身振り手振りを交えて説く。  
 
「作戦を遂行するに当たって、向こうの世界で佐々木さんの閉鎖空間が発生するのか確認する必要があったんですが、今回彼の献身的な検証により裏が取れました。  
発生の条件はおそらく涼宮さんとほぼ同様。佐々木さんが一定以上のレベルで自分に好ましくない状況に直面すると破壊の権化、<<神人>>が出現するようです」  
 
 古泉の説明を受けて朝比奈さん(小)が俺の方を伺う。「本当ですか?」と問いたげな視線を受けて、首を縦に振った。  
 文字通り献身的だったところは触れない方がいいだろう。身投げと紙一重のことをやりましたなんて吐露した日には朝比奈さん(小)が卒倒しそうだ。  
 
「さて、期日の土曜日深夜まで今日を含めて後二日しかありません。女神様達のイライラを煽ってテンションを程よく高めて、明日、同時起爆で勝負をかけるという段取りでいきます」  
 
「イライラを煽るって具体的には何をするんですか?」  
 
 不安げに尋ねる朝比奈さん(小)に対して古泉は俺の方を向いて、  
 
「僕たちは何もする必要はありません。彼が放課後の活動をすっぽかすだけで十分効果的ですよ。涼宮さんの機嫌が傾くことになりますが、それを我々が宥めるくらいでちょうど良いのではないでしょうか。  
ですから、今日あなたは気兼ねせずどうぞ存分に佐々木さんとの事前打ち合わせに励んでください」  
 
 なにやらトゲが立って聞こえるのは気のせいか?  
 
 とばっちりを食うおまえらに同情を禁じえないが、わざとにすげない態度を取らなきゃならんのも相当な気苦労が要ることを忘れんでくれ。  
 向こうの世界ではどうする。部活動をブッチすりゃあいいのか?  
 
「ええ。あなたはやることがあるはずです。涼宮さんに会ってちゃんと話をするべきでしょう。消化不良のような別れ方はあなたにとっても不本意だったんんじゃないですか?」  
 
 それはその通りだ。だが、何を喋れば良いのか分からん。  
 佐々木と付き合ってるなんて言ったのは嘘だとでも言えばいいのか?  
 真っ当な問いのように思えたが、古泉は呆れたように肩を竦めてみせただけで答えず、  
 
「その件については、夜にでも電話を差し上げますよ。その場でじっくり話し合いましょう」  
   
 と流してしまった。  
 なんとも釈然としないが、まぁ良いだろう。昼休みは限られている。今は聞き役に回ってやろうじゃないか。  
 
「こちらの世界で明日佐々木さんに会うように、向こうの世界では涼宮さんとの約束を取り付けてもらいます。会わないと作戦は成立しませんからね」  
 
「……明日は閉鎖空間を発生させる日なんですよね? ……あれ? キョンくんが会わなけりゃいけないのは逆なんじゃないのかな?」  
 
「もっともな疑問です。実際にそういった手法もありえるでしょう。例えば、そうですね……。佐々木さんと付き合うことになったからSOS団を抜ける――、なんてことを毅然とした態度で涼宮さんに宣告するといった類のやり方でしょうか」  
 
 数十種はくだらないと思われる古泉の表情筋のレパートリーの中でもとりわけ悪質な笑みが俺に向けられる。  
 悪趣味なやつめ。止せよ。そんなこと考えるだけで鳥肌モンだ。  
 
「ご覧の通り、この手は一層彼に向いてません。嘘を交えて酷いことを言わなければならないのですからね。ゆえに、彼がコンタクトを取るのは本命ではなく対抗の方なのですよ」  
 
 よくもまぁ、こんなしょうもないことを論理的っぽく体裁だけ整えて熱心に語れるもんだ。  
 胡散臭いコンサルティング会社で左うちわを扇いでるお前の未来が一瞬見えたぞ。  
 横筋はもう十分だ。そろそろ本筋の核心に触れてもらおうか。  
 その対抗の方に俺は何をすればいい?  
 やや投げやりに振ってやったにも関わらず、古泉は微塵も気後れせず、通販番組で目玉商品を紹介する五秒前のような妙な浮かれっぷりで、  
 
「二十世紀最後の大発明を駆使します」  
 
 ポータブルなそいつを中空に掲げた。  
 
//////////  
σ‐3  
 
 白皙の素顔が迫る。  
 おとがいから頬にかけての優美な輪郭に瑕疵は見当たらず、大多数の異性に支持を得られそうな鋭角なラインを描いていた。  
 日焼けの痕はおろか、小さなシミすらない滑らかな肌に目をみはる。  
 動かぬようにその白の頬に軽く手を添えると、くすぐったそうに身じろいだが、おとなしく緩く目をつむったまま鎮座不動は揺るがない。  
 従順な様に戸惑いつつも、その健気さに胸を打たれて、意を決して手を伸ばした。  
 指先が向かうは瞼の下で揺れている睫毛。  
 意外に長くて麗しいそれに目を奪われそうになるが、動きを止めず傍らの君に覆いかぶさって身を寄せ、そのまま息がかかるような距離まで近接する。  
 心拍は高まり、心がざわつく。  
 
 …………ざわつくというか、怖気だっていた。  
 今の心境を形容するのは至極簡単で、心を覆い尽くしているのは、猿人の段階ですでに持ち合わせていたであろう最も原始的な感情の一つ、  
 
 ――――キモチワルイ。  
 
 身の毛をよだたせながらも、厭々に頬にかけていた手のひらから親指を伸ばして睫毛を掠るように爪弾いた。  
   
 ぴろりーん  
 
 静謐を破って木霊した間抜けな電子音を合図に、呪いから解き放れたような剣幕で、俺たちは互いに身を引き剥がした。  
   
「「ぷはぁ――――――――!」」  
   
 肺の中に押し込めていた息を放出して安らぎを手に入れるものの、同じリアクションでハモったのが気に食わず、ジロリと睨みつける。藤原も似たような顔でこっちに三白眼を向けていた。  
 
「ったく、何の因果で僕がこんなことを! 恥辱で頭がおかしくなりそうだッ」  
 
 全力で不機嫌モードの未来人はそう吐き捨てて、ぬぐい去るように顔面を両手で擦った。それでも飽き足らず、ハンカチでその見えない汚れを拭き取る。  
 ……そこまでやるか。  
 お前だけが被害者だとはゆめゆめ思うなよ。向こうの世界で古泉相手に同じことをやってきた人間が目の前に居ることを忘れるんじゃない。  
 
「どうだ、写り具合は? それっぽく撮れたか?」  
 
 いつまでも藤原の相手をしていると、屈辱がぶり返してきそうなので早々に切り替えることにした。  
 撮影者の橘を伺うと、  
 
「……あ、あぁ……、あああぁ――――」  
 
 
 後生大事に携帯を両手で垂直に携えて、視線を画面に釘付けたまま鼻毛で蜻蛉をつないでやがる。  
   
「おい。聞いてるのか?」  
 
 と、再度呼びかけてようやく、三倍速で動く新種の水飲み鳥のようにコクコクと首を立てに振る。  
 いい加減、画面から目を離せよ。  
 液晶が電圧に倣ってるのがバカらしくるなるようなおぞましい画像がそこに存在してるだけで我慢がならん。  
 そういや、朝比奈さん(小)も同じようなリアクションで見入っていたな。ドコのナニがそんなにありがたいんだ?  
 やれやれ、まったく難儀なことになっちまった。  
 二十五日、三時限目の休み時間。  
 人目を避けるために集まった第二音楽室で今しがた繰り広げられた悪夢のような現実は、まちがっても自分の意志でやらかしたことではなく、古泉の差し金だった。  
 藤原じゃないが、まったくなんてことをさせやがる。  
 
 今だから持ちこたえられるものの、数年前の思春期真っ盛りだったら、と考えるだけで寒気がする。二重の傷はきっと一生消えない深手になったに違いない  
   
「擬似キス写真でスキャンダルをでっちあげます」  
 
 ゴシップ週刊誌入社二年目の若手が何も考えずに立ち上げたような戯言ともつかない企画が本気で走り始めていた。  
 
「公園のベンチで横に腰掛けて話をしてください。そして会話の途切れ目を見計らって睫毛にゴミがついてると相手の目を閉じさせます。使い古された手ではありますが、確実ですよ。手は頬に添えて、親指でぬぐってください。  
このとき注意するのは、必要以上に顔を寄せることです。大丈夫ですよ、相手の視界は閉ざされてるわけですから悟られません。この様子を絶妙の角度から写真で撮影すればどう写るかは想像に難くないでしょう。  
撮影した写真をメールに添付して二世界同時刻に配信する――――、これが一連の流れです」  
 
 こんな内容を恥じもせず噛みもせず滔々とぶち上げられるお前の神経は一体どうなってるんだ?  
 改めて聞いてやりたい気分だが、当の本人はここにはいやしない。  
 三者三様に殻に閉じこもって黙りこくったまま時間を過ごした。  
 だが時間は有限でふと掛け時計を見上げて、四時限目開始まで残り二分と迫っていることに気づく。  
 
「……と、まぁ。各自言いたいことはあるだろうが、段取りはこんな感じでやる。撮った画像はメールで送る。その際、藤原は佐々木の傍に控えて、口実をつけてメールの着信に気づかせてくれ。  
スルーされたら終わりだからな。あと……、橘、本番は望遠がないと厳しいから携帯のカメラじゃきっと無理だ。それなりのデジカメを用意してくれるか?」  
 
「……ハ、ハイ」  
 
 これで伝達事項は終わりだ。席を立とうとすると、  
 
「あ、あの――」  
 
 おずおずと待ったがかかった。なんだ? 金なら一万までならなんとかするぞ。  
 
「――この写真、保存してもいい?」  
 
「「消去しろ」」  
 
 意図せずしてまた藤原とハモる。今回ばかりは不満はこれっぽっちもないね。切に気持ちを重ねるだけだった。  
 
 
 褪せたコンクリートのお馴染みの校門前でハルヒを待つ。  
 こっちの世界でSOS団がどういう活動形態をとっているのかは知らないし、そもそも今日活動するのかどうかすらも分からない。  
 何時間待つことになるのか見当もつかず、ハルヒとアポをとるためにはこうやって網を張るしかなかった。  
 長門は例の如く今日も病欠という名目で休んでいるから、頼れる人間は居ない。  
 ちなみに学校を休み初めてから二日目以降は遠方へ赴任中の親類が看病に戻ってきてくれるということにして、長門は見舞いを断っていた。  
 ゆえにハルヒが長門宅を訪ねるために放課後すぐに下校することはありえない。  
 光陽園の学ランが相当に異様に映るのか、道行く生徒が奇異の視線を投げかけてくる。中には耳打ちし合う者もいて、居心地は最悪だった。  
 前も同じような目に逢ったな。シチュエーションがまったく逆だが。  
 自嘲に耽っていると、遠くに良く知る人影を見つけて、反射的に駆け寄ろうとする脚を慌てて制動した。さすがに敷地内に入るのはまずい。  
 一人毅然と早足で歩みを進める様は清冽として他者を寄せ付けず、独特のオーラがにじみ出ていた。  
 他の面子が見当たらないのはどういうことだ?  
 うつむき加減のために視界に俺の姿は入っていないようだった。地面すれすれの一点を見つめながら口許を結んで真っ直ぐに歩いてくる。なんだか思いつめているように見えるのは気のせいだろうか。  
 
「ハルヒ」  
 
 あと十数歩というタイミングで声をかけると、弾かれたように顔を上げて視線を合わせた。  
 
 ハルヒは硬直したように動きを止めたがそれも一瞬のこと、まなじりを切り上げてきつい視線を寄越すと、  
 
「何?」  
 
 と、挨拶もすっとばして再び歩みだす。  
 どうやらゲージで底を突くほどに機嫌は最悪のようだ。  
 昨日、再会一番の直後に見せたような弾けた笑顔と比べて別人とも言える素っ気のなさだぜ。  
 どうして? なんてのは愚問で、待ち伏せたのはもちろんその件に関して色々と話さなきゃならんと思ったからだ。  
 昨日の俺はふがいなくも何も言うことができなかった。あの時はまだ事態を飲み込むのに精一杯だったってのは確かにあるが、すべてそのせいにしたまま放置することは間違っている。  
 気落ちしたまま立ち去ったハルヒの後ろ姿は鮮烈で、脳裏にしっかりと焼きついていた。ハルヒから笑顔を奪ってしまったという罪が重く圧し掛かっていた。。  
 あれから時間を見つけて色々と考えたのさ。詫びたいのもあるが、その答え合わせも兼ねてハルヒと話がしたかった。  
 
「話がある」  
 
「だから何? 要点だけ話して」  
 
 ハルヒはろくに視線を合わせず接近して、そのまま速度を落とさずに横をすり抜けていった。「急いでいるのか?」という問いは無視で、歩く速度は緩まない。慌てて身を翻して背中を追った。  
 
「待て。できれば腰を据えて話がしたい。時間をくれないか?」  
 
 競歩のようなペースで脚を交差させながら懇願するが、ハルヒは無言。  
 歩きながらじゃ話にならないな。いたしかたない。本題をぶつけるしかない。  
 大きく息を吸った。なんてない一言のように思えていたが、いざと迫るとつっかえたように出てこない。  
 それもまぁ然りか。まさかこんなことを口にする日がくるだろうとは思いもしなかったからな。  
 一年前の俺が聞いたら愛想を尽かされそうだ。  
 立ち尽くしている間に、ハルヒの背中が遠ざかっていく。  
 搾り出すように俺は口を開いた。  
 
「お前が北高で作ったサークル、SOS団って言ったか。興味があるんだ。どんな活動してるのか教えてくれないか?」  
 
 意図せずにもったいつけた甲斐があったのか、まるで滞る様子のなかったハルヒの足がものの見事にビタッと揃った。  
 
 
 駅前の喫茶店に連れられて入ってハルヒと向かい合わせで座る。やはりここが定番なのか。  
 本来なら奥のボックスが指定席だが、さすがに二人には広過ぎる。最もシンプルなテーブル席に案内されていた。  
 ハルヒからカバンを預かって、自分の荷物とまとめて傍らのソファの上に置いた。  
 
「もしかして、ここよく来るわけ?」  
 
 道中、一言も話さなかったハルヒがここにきてようやく口を開く。  
 いや、俺が開かせたと言った方が適切か。  
 どうやら、馴染みの店に入って自然とくつろいでしまっていたらしい。今更だが、混同に気をつけないとな。  
 
「いいや、初めてだ。いい雰囲気の店だな」  
 
「週末に外で探索するときの基点にしてるのよ」  
 
 ウェイターが注文を取りに来て、適当にホットを頼んだ。ハルヒが「あたしも」と便乗する。普段なら鵜の目鷹の目と端から端までくまなくメニューに目を走らせるんだがね。  
 対面に座るハルヒは、校門で顔を突き合わせたときよりもいくらか険が取れているものの、借りて来て二日目の猫のように、どこか感情を殺して本性を隠しているかのように見えた。  
 流れる沈黙を断ち切ったのは意外にもハルヒだった。  
 
「……びっくりしたわ。校門で待ち伏せて、いきなりなこと言い出すんだもの。ダブルパンチよ」  
 
 頬杖を突いて視線を合わせずに零した。  
 その件に関しては詫びよう。驚かせてしまった上に、大勢の注目に晒してしまった不始末はすべて俺にある。  
 
 ここの奢りでなんとか許してくれ。  
 連絡しようにも番号もアドレスも知らなかったんだよ。  
 ……なんて言は方便で、長門に頼めばなんとでもなった。だが、そうするのは何か違うような気がしたのさ。  
 
「自宅にかければいいじゃない。中学の名簿に載せている番号から変わってないわよ」  
 
「少しでも早く顔を突き合わせて話をしたかったんだ」  
 
 ストレートは見せ球のはずの軟投派投手が無理して直球勝負を挑んでるかのような違和感が音を立てて軋む。  
 だが、これは紛れもない俺の本音だった。  
 昨日のマンション前での別れ際、明らかに変調をきたした虚ろな表情がまた浮かび上がった。  
 
 俺が佐々木と付き合っている。  
 
 このことが深く関わっていることに疑いの余地はない。だが、ハルヒが何を想ってああも思いつめたのかが分からない。それが気がかりだった。  
 ハルヒの心に傷をつけてしまった事実は覆らない。だけど、そうだからと言って開き直るなんてのは最低の行為だ。ここが虚像の世界だから何をやっても許されるなんてのはもってのほかだぜ。  
 何か大きな行き違いがある気がするのさ。思えば昨日、お互いに言葉が足りなさ過ぎた。それを今補うことで、こいつの痛みを和らげてやれないだろうか。  
 そんな思いが俺を駆り立てる。  
 
『高校卒業後、あなたと涼宮さんが別の大学に進学して、望まなくも疎遠になってしまったとしたら……、現実にはあり得ないことだと思ってますけど、この想定に置き換えて考えてみてください。きっと、向こうの涼宮さんの気持ちが分かると思いますよ』  
 
 夜に電話で古泉が寄越した助言はこの一言だけだった。  
 的確に言い得たあいつの言葉がありがたい。ありがたさ余って小憎らしいくらいだぜ。  
 相手の立場に立って考える。コミュニケーションの基本が抜け落ちていたことを猛省した。  
 こっちの自室で見つけたアルバムには、ハルヒとの中学時代の思い出がぎっしり詰まっていた。  
 花見、七夕、市民プール、学芸会での演劇、ハロウィン、天体観測、クリスマス、初詣、節分など、行事を網羅した一年分の思い出が並んでいた。  
 俺とハルヒ、二人だけで写ってるものが大半で、無理なアングルのものがいくつかあるのは、きっと腕を回して自分でシャッターを切ったんだろう。本当に二人だけの活動だったんだな。  
 特筆すべきは、月日を経る毎にハルヒの表情がグラデーションのように移ろいでいくこと。一学期、せいぜい二分咲き程度だった笑顔が、三学期には満開に咲き乱れていた。  
 記憶にない思い出にも関わらず、写真を見ていると懐かしさがこみ上げてきた。写ってる俺たちの表情や雰囲気は活き活きしていて、鮮烈に情景が伝わってきたからだ。  
 写真を見ただけではあるが、水が流れるように自然とこっちのハルヒとどんな風に馴れ初めて、関係を築いたのかを自分に取り込むことができていた。  
 この思い出を俺は完全に自分に重ねて語りかける。  
 
「お前と久々に会って色々と思い出したんだ。中学時代、事あるごとにお前に連れまわされて遊んだこと、イベントを漏らさず制覇してはしゃぐお前を窘めつつも俺もこっそり楽しんでいたこと。……本当に色々なことをやったよな」  
 
「……そうね」  
 
 視線を窓の外を向いたまま、ぶっきらぼうに応えるに留まる。  
 カップを置いてウェイターが去るのを見送って、俺は続けた。  
 
「こんな昔話、開口一番に出るもんだよな。なのに昨日、記憶の奥底から引っ張り出せずに何も口にできなかったことが心残りだったんだ。……もしかしたらの話だけどな、……お前はさ、俺たちの思い出を忘れずに大切に持っててくれたんだよな?」  
 
 夜半頃までベッドの上でまんじりともせずに考えて導き出した推測の答え合わせ。  
 
 ハルヒの顔が正面を向いた。研ぎ澄まされた視線に貫かれて腰が引けそうになったが、息を止めて踏ん張って逃げずに向かい合う。  
 
「……五十点ね。でも、真摯さを買ってプラス十点してあげる」  
 
 ギリギリ可ってことか。手厳しいなと思いつつも、冷たく無機質だったハルヒの表情が少しだけ綻んで溜飲を下げた。  
 
「でも、それも仕方ないのかもね。今の高校生活があるんだもの。あんたは佐々木さんと、……付き合ってるんでしょ? それはあたしだって同じで、SOS団の活動は楽しくて充実してるわ」  
 
 割り切ったような言葉だったが、台詞に力はなく、言い終わりに小さくうなずく様はまるで自分に言い聞かせるようだった。  
 まるで否定して欲しいと言わんばかりのように感じられるのは、気のせいじゃない。  
 
「俺は過去も現在もどっちも大切だと思うぞ。欲張りな話だけどな。昨晩、お前と撮った写真を見返して再確認したんだ、お前と過ごした時間は最高に楽しかった、ってな」  
 
 ピクリと反応して、黄色いリボンが揺れる。  
 
「……いや、過去形で語るのは間違ってるな。だって何も終わりじゃないだろう? 学校は離れちまったが少し時間を作ればこうやって会えるんだから。一年のブランクは些細だとは言わんが、また一緒に遊んだらきっと楽しい気がするんだ。  
無論、長門や朝比奈さん、古泉と一緒でいい。人数が多い方が面白いはずだからな」  
 
 知らず知らずの内に前のめりにこぶしを握っていることに気づいて、慌てて身を引いた。いくらなんでも熱くなり過ぎだぜ。  
 こみ上げてきた気恥ずかしさを、少し冷めたコーヒーを流しこんでごまかそうとしたが、そうはうまくはいかない。  
 一方、ハルヒは押し黙ったまま逡巡していたが、考えをまとめたように鼻で息をつく。  
 その顔を拝み見ると、垂れ下がった眉の下で瞳に宿る力を緩ませて、歪んだ頬でどことなく半笑いの顔に迎えられた。  
 なんとまぁ……、微妙な。ハルヒの表情は遍く知ってるつもりだったが、こいつは初めてお目にかかる。まさにニューフェイス――、なんて遊んでる場合じゃないな。  
 
「それで、校門での言葉へとつながるわけね?」  
 
「その通り。お前が作ったSOS団とやらの活動に参加させて欲しいんだ」  
 
「あたしが首を縦に振ればこっちサイドの話は簡単にまとまるわよ。超団長だもの。絶対の権限を持ってるんだから。でも、あんたの方は大丈夫なの?」  
 
 相変わらず鋭い女だ。痛いところを突いてきやがる。  
 まごついていると、ハルヒは容赦なくさらに内角を抉ってきた。  
 
「佐々木さんにちゃんと断ってきてる? きっといい顔しないんじゃない? あんたがこっちにかまけてたら……、二人の時間だって減るだろうし。恋人と友人の区別はキチンとつけたほうがいいと思うのよ」  
 
「……そうなのか?」  
 
 ばかみたいに聞き返すと「知らないわよ!」と、ハルヒはなぜかムキになってつっぱねた。見事な逆切れだな。  
 そこはむしろ今回狙いどころなんだ、なんてのは口が裂けても言えない。  
   
「とりあえず試させてくれ。そこで面白みが分かれば事情も話しやすくなるしな」  
 
 軽々しい台詞を吐く俺を、ハルヒはアヒル口のままジト目を向けて牽制する。  
 機嫌は今一つのままだったが、その豊かな表情はここに入る前とは完全に別物と断言できるぜ。  
 ようやく普通に話ができるところまで戻せた気がした。肝を冷やしたが、我ながらよくやったもんだ。  
 しかし、なんとも奇妙な感じだ。古泉の言ったように、まるで高校卒業とともにハルヒと別の進路をとって久しぶりに再会するというシミュレーションをしているようだった。  
 アルバムを見たときの胸が締めつけられるような気持ちは覚えておくことにしよう。  
 間違っても同じような轍は踏むまい。  
 さて。  
 個人的なわだかまりが解けて、後は安らかな放課後のブレイクを楽しみたかったが、そうは問屋がおろさない。  
 
 私事は済んだが、遺憾にも仕事が残っている。  
 
「それでな。急な話なんだが――――」  
 
 最重要項目のはずにもかかわらず、宙に浮いたままになっていた懸案にようやく取り掛かった。  
 
 
 明くる日の朝、俺は駅前までチャリを走らせていた。こっちのSOS団の不思議探索に初めて参加するために。  
 昨日、喫茶店で「明日はどうだ?」と切り出した俺に、値札についたゼロの数を数えなおすかのような目を向けたハルヒだったが、熱心な説得により強行開催に踏み切らせた。  
 唐突過ぎるのは百どころか千も承知さ。だが、タイムリミットが迫ってる以上、少々の荒業には目を瞑らざるをえない。  
 線路沿いにあるチャリンコ置き場で、空きスペースを探すのに手間取った分だけきっちり数歩分待ち合わせ場所まで朝比奈さんに及ばず。お約束だ。  
 
「悪いわね。待ち合わせ集合場所に一番遅れた者は、喫茶店で全員に奢るというルールなの。郷に入れば郷に従えって言うしね。いくら初参加でも例外は認めないわよ」  
 
 ハルヒは嬉々として言い放つ。爛々と輝く瞳の中で八十九番目の星座が観測できそうだな。  
 奢り決定の憂慮を抑えて、心が少し温まるような心地がした。  
 眩いばかりに弾ける笑顔が完全に戻っている。この笑顔がトラブル製造機の動力供給源でもあると分かっていても、復帰直後の今だけはかけがえのないものに思えた。  
 
「紹介はいいわよね。副団長の古泉一樹くんに、マスコットガールの朝比奈みくるちゃん」  
 
 顔合わせは済ませてるにもかかわらず、団長っぽいところを見せたいのか、改めてメンバー紹介をした。素直に倣って俺も三度目の名乗りをあげる。  
 よそよそしさが漂うのは仕方ないが、二人は一昨日と比べればかなり親しんだ様子で歓迎してくれた。  
 
「……有希は話だけして無理に誘わなかったわ。本当は全員揃ったところを見せたかったけど、これは自業自得ね。あんたがどうしても今日がいいなんて無茶を言うからよ」  
 
 耳が痛いね。一日も早くどんなことやってるのか気になって仕方なかったってことにしてくれ。  
 半分は冗談のつもりだったが、ハルヒはまんざらでもなさそうに得心した表情でうなずくと、SOS団ご用達の喫茶店へと先導した。  
 
「今日はこれを使うわよ」  
 
 店内奥のボックス席でハルヒがポーチを逆さまにしてテーブルに二つ転がしたのは、小石大の無色透明の錘、と思いきやそれぞれから鎖が伸びているな。  
 
「きれい。これ、なんですか?」  
   
 不思議そうに朝比奈さんが一つ手に取った。  
 錘の部分は三角錐型をしており、チェーンを持ち上げると頂角を逆さに振り子のように垂れ下がる。いわゆるペンデュラムというものだった。  
 質感からしてプラスチックではなさそうな感じだね。机の上のメニューに都合よく細い罫線があったので、その上に乗せて回して見る。線がぶれて見えるのを確認して目を疑った。  
 
「まさか、本物の水晶なのか?」  
 
「もちろんよ。ガラスなんて無粋なものは使わないわ。霊験あらたかに相応しい材質じゃないとムードもぶち壊しよ。今日は、これを使ってダウジングをやるわよ」  
 
 どこで手に入れて来たんだと問うと、「漫画雑誌の広告に良さそうなのが載ってたのよ」と聞けがしに返ってきた。  
 雑誌の裏表紙あたりにひしめいているのがおなじみの胡散臭さが炸裂した開運グッズに実際に手を出す人間を目にする日がこんなにも早く来ようとは、稀有な場面に立ち会っちまったもんだ。  
 しかも、よりにもよってこんな古臭い疑似科学を掘り出してくるとは、まったく毎度ネタに事欠かないやつだね。  
 と、いつもの調子で率直な感想を述べようとしたが、すんでのところで噤む。  
 初参加のはずの俺が慣れた調子でツッコミを入れるのはおかしいだろ。  
 
 台詞を飲み込んで、代わりに小遣いをこんな物に化かされた親御さんに心の中で同情だけしておいた。  
 
「水脈や鉱脈を発見する古典的な手法ですね。聞いた話では空海も杖を使って井戸を掘り当てたらしいですよ」  
 
 古泉はそう解説しながら、俺の目の前で振り子を人為的に揺らして、「あなたから不思議なパワーが感じられます」などと軽口をぬかしやがった。  
 向こうの世界ならしかめっ面で煙たがってやるところだが、よく考えれば親密度を深めるためにこいつなりに考えて仕掛けてきたジョークかもしれず、初回ばかりは目を瞑って、  
 
「当たってるよ、よく分かったな」  
 
 本気交じりの冗談を返してやることにした。  
 ここ数日、時空を行き来している俺からそんな気配が感じられたとしたら、本気でダウナーとしての才能があると認めてやるぜ。  
 
「こいつを使って温泉や金でも見つけようってのか?」  
 
「そうよ」  
 
 毎度の事ながら頭痛が痛い。……日本語がおぼつかなくなるくらい重症だ。思わず額に手を当てた。  
 
「百歩譲ってペンデュラムが反応する場所があったとしよう。しかし、技術も機械も金も持たずしてそれらをどうやって掘り起こそうってんだ?」  
 
 至極真っ当だと自負する疑問をぶつけてみたが、逆にハルヒは嘲笑うかのように片手で払いのける。  
 
「思考が堅いわねえ。そんな即物的なものばかりを求めてるわけじゃないわ。ペンデュラムは潜在意識や機運に反応するのよ。導くままに街を歩けば、思いもよらないものに巡り会えるかもしれないじゃない。  
それに金脈が見つかったら見つかったでしっかり記録しておけばいいのよ。今すぐは無理だけど、数年後には会社を興して根こそぎ採掘してやればいいだけの話なんだから」  
 
 呆気にとられるばかりだったが、ハルヒ自身も冗談めかしで言ってるように思えた。  
 その証拠に目標や方法の細かい指示が一切ない。自由適当にやれと言ってるに等しかった。  
 楽しいが第一優先なのがこいつの信条だ。風変わりなことをやって面白おかしければなんでもいいのかもしれないな。  
 妙に納得して目の前に差し出された楊枝を引いた。針先に赤の印、傍らを見ると古泉が同じものを持って涼しげに微笑んでいた。  
 
 
 その後、二時間おきにメンバーを交代したが、クジに嫌われてハルヒと同組にならず、最終ピリオドを迎えることとなってしまった。  
 確率はたったの三分の一のはずなのにな。運から見放されているようで気が滅入る。  
 日はまだ高いが、ペンデュラム片手に痛い視線をこれでもかというくらいに浴びながら街中を練り歩くという行為はもはや荒行に等しく、これ以上は心身ともに限界ということを考慮し、残り一回でお開きということが決まった。  
 俺たちの尊い労力と引き換えに手に入れた成果は……、説明するまでもない。力場なくして振り子が揺れようものなら、ニュートン先生、ファイマン先生を初めとする歴代の物理学者から軒並みに祟られそうだ。  
 コップに手を伸ばして一口啜る。渋いコーヒーが欲しいところだったが、無色透明の液体がつれなく喉を通っていく。悲しい財布の事情だった。  
 ハルヒが最後の組を決めるクジをテーブルに突き出したところで、待ったをかけた。  
 
「待て。俺が初参加であることを考慮して、今日だけはメンバー全員と一通り組ませてくれ。これまで古泉、朝比奈さんときてる。最後はお前と回りたい」  
 
 背負った使命感に急かされるままに、口を突いて出た言葉を自分の耳で聞いて、瞬時に後悔する。  
 ゆるりと流れていたくつろぎの時間が止まって、全員の注目を集めていた。  
 正面のハルヒと目が合うと、途端に落ち着きをなくして小さく身じろいだ。それを受けてますます恥ずかしさがこみあげてくる。  
 ……まったく、なんてことを口にしたんだ。いくらなんでももう少しマシな言い回しがあっただろう。  
 
 どう繕ったものかと身悶えていると、  
 
「……いいわよ。あたしも話の分からない人間じゃないわ。そういうことなら了承してあげる」  
 
 団長様はそっぽを向いたままクジを引っ込めて言い放ち、頬をうっすらと朱に染めたまま横目で俺の様子をチラチラと窺う。  
 違うだろ。そこは茶化すとこだ。  
 などと、手前勝手なことを言い出せるはずがなく、ぎこちない空気を纏ったまま散会した。  
 喫茶店を出たところで車の陰に隠れて待機していた橘に目配せして、作戦開始を合図した。  
 心持ち早足のハルヒに一歩遅れてついていく。その手にペンデュラムはなく、喫茶店を出てから間もなく「この辺りはもう試したからいいの」と言ったのを最後に、ずっと会話は途切れている。  
 俺は、もしかしたらハルヒもそうなのかもしれないが、さっきの変な雰囲気をどことなく引きずっていて、半分上の空で経路も曖昧なままに街を歩き回り、気づけば川のせせらぎを聞いていた。  
 近くを流れる川べりの道を北上する。ここは朝比奈さんとの縁の地だ。  
 夕刻前のゆったりとした時間にも関わらず、珍しくも散歩する人の姿は疎らだった。  
 ここまでかなりのハイペースだったが、ちゃんと橘はついて来れてるだろうか。  
 後ろを見回したが姿は見えない。まぁ、簡単に見つかるような尾行では困るんだが、少しだけ不安になった。  
 何かを思いつめたようにずんずんと歩みを進めていくハルヒに、とうとう俺の脚がついていけず悲鳴を上げた。  
 
「ハルヒ、ちょっと待ってくれ。飛ばしすぎだ」  
 
 気づかずに置き去りにされるかもという心配をよそにハルヒの歩みは止まって、こっちを振り向いた。  
 両膝に手をつきながら見上げたその表情は、複雑すぎてよく分からない。陰になって見えないわけじゃない。色々な感情がない交ぜになって思いつめているような、そんな顔でハルヒは佇んでいた。  
 ハルヒは探索を強行せずに、そばにあったベンチに誘った。  
 二人並んで移ろう水面に視線を落としながら、言葉なくただ脚を休める。  
 ふと視線を上げると、斜交いの向こう岸の草木で動く人影が目に留まった。ピョコピョコと覗く頭で揺れる二つの尻尾は見まごうはずもない橘のトレードマークだった。  
 ポジショニングはベストだが、もう少し頭を下げろと無駄なテレパシーが奇しくも通じる形で、姿勢を低くして完全に草木に埋もれる。  
 それに目を奪われていると、  
   
「ねぇ」  
 
 不意に傍らから声がかかった。  
 弾かれたように反応して振り返ると、ハルヒはベンチに両手をついて川面に目を向けたまま、呟くように切り出してきた。  
 
「どうして急にこんなこと言い出したの?」  
 
「どうしてって……、それは昨日も説明した通りだ」  
 
「確かにそうね。納得したはずだった。でも、よく考えれば考えるほど分からなくなってくるのよ」  
 
「何が分からないんだ?」  
 
「あんた佐々木さんと付き合ってるんでしょ? それなのにこんなことしてていいの? もしさ、あたしが一昨日元気がなかったからって同情でこんなことしてくれてるのならやめて…………」  
 
 ともすれば掠れそうな弱々しい声を震わせて、ハルヒは搾り出すように言った。  
 露骨にハルヒを指名したのが裏目に出たか。  
 顔はもう正面を向いていない。俺に背けるように川上を見ていた。窺わずとも知れる痛々しい表情に切なくなった。  
 逃げおおせたつもりになっていた難題が再び目の前に立ちはだかっていた。昨日、喫茶店でハルヒが足りないと言った五十点分の答えが求められていた。  
 
 頭を掻く。どうすべきなのか頭が真っ白だ。  
 
「同情なんかじゃない、怒るぞ」  
 
 と、確かなところまでは返したものの、続きが出てこずにまごつく。  
 俺たちは再び沈黙に包まれた。  
 この状況を想定していなかったわけではない。  
 だが、用意した台詞はどれも薄っぺらくて言い訳じみていて、真剣に悩んでいるハルヒを目の前にして言うのがためらわれた。  
 佐々木と付き合っているという事実自体が、俺にとっては虚構であることが最大のネックだった。作った言葉で何を言ってもきっとハルヒの心には届かない。  
 だから押し黙るしかなかった。  
 もう、どれくらいそうやって過ごしだだろうか。  
 太陽の位置から察して、喫茶店を出てから小一時間といったところだろうか。  
 何度あやふやのままに逃げれば気が済むのか、と自分を責めるが、それを差し置いて俺にはやらなければならないことがある。  
 傍らのハルヒを見やると、呆けたように居つくしていた。  
 
「ハルヒ」  
 
 振り向いたハルヒの顔を目の当たりにして、軽く息を呑む。  
 充血した目は間違いなく涙の痕。もしかしたらと思っていたが、さっきまで泣いていたという事実は想定していたよりもずっと重く、打ちのめされた。  
 
「……睫毛にゴミが付いているぞ」  
 
 動揺しながらも予定通りの言葉を淀みなく言えたのはリアルで反吐が出るほどにやった反復練習の賜物。  
 唐突な切り出しにもかかわらず、ハルヒは素直に俺に従った。  
「取ってやるから動くな」と、左手をハルヒの頬に添える。女子特有の小ぶりな輪郭に触れるとそれだけで心拍に拍車がかかった。  
 身体を浮かせて身体をよじって、ハルヒにかぶさるように正面に回った。  
 そして、目じりの辺りに右手の親指を当ててハルヒが目を閉じた瞬間に顔をできるだけ寄せる。  
 こんな状況でドギマギしない方がどうかしてる。  
 眠り姫のような清純な素顔。一年目の閉鎖空間でのあのシーンが鮮烈にフラッシュバックした。  
 凝りまくって思うように動かない四肢を酷使して最小接近距離を確保、吊りそうな姿勢で瞼をなぞって、付いてないゴミを払い落とした。  
 シャッター音が鳴ったかどうかは――――、分からない。  
 いかんせん距離が離れ過ぎている。一応信じちゃいるが、もしバッテリー切れかなんかのイージーミスで撮り逃していたら叩くぞ。  
 一仕事やり終えた俺はそのまま身を離そうとする、そのときだった。  
 正月開店セールを謳うデパートのシャッターのような爽快さでハルヒの目が開いた。  
 目の焦点が合うギリギリの空前絶後の至近距離で向かい合う。  
 心臓が口から飛び出そうとはこのことだ。間抜けな声が漏れ出なかったのは奇跡。  
 反射的に跳ね退こうとしたが、信じがたい反応速度でガッシと左手首をつかまれて拘束される。  
 距離を十分に確保できないまま、正面きってハルヒに捕まえられていた。  
 その瞳には平素の輝きはなく、代わりに不穏な何かが静かに沸き立っていた。  
 見たことのない危うい表情に俺は凍りつく。  
 誰かさんの言葉を借りれば、それはまさに『病的』と言えた。  
 
「言葉は要らない。あたしのそばに居てくれるこの時間だけが偽りのないキョンの気持ちなんだよね?」  
 
 どうやってもうまく表現できなかった複雑な機微を的確に言い当てられて、ますます困惑する。  
 
 藪蛇を憂う間もなく、みるみるハルヒの瞼がゆっくりと再び落ちて小首が仰ぐ。なんてこった。  
 何を期待されているのは一目瞭然。  
 ピンチなのかチャンスなのか混乱しきりで、冷静なのは野性だけ。  
 吸い寄せられるように顔が再び近づいていった。  
 
//////////  
η‐3  
 
「カンパーイ」  
 
 土曜日のお昼時、駅前から少し離れた安いファミレスで中学の同窓会は定刻どおりに開催された。  
 男子六名、女子四名が嬉々として色とりどりのソフトドリンクで満たされた杯を交わした。  
 集まりがよろしくないのは全て幹事による俺のせい。事情が事情とはいえ二日前の告知なんてありえないだろう。そんな無理を飲んで集まってくれた連中には感謝しきれないぜ。  
 ちなみに不思議探索とバッティングとなったこの会合について、ハルヒは目を逆三角に歪めて相当に機嫌を傾けながらも、しぶしぶ開催を了承した。名目が同窓会ってのが効いたな。ただの個人の都合なら問答無用で却下だっただろう。  
 後処理は全部古泉に丸投げだ。  
 
「キョン、幹事お疲れ」  
 
 二つ隣に座っている中河がテーブルにごつい身体を乗り出して声をかけてきた。  
 お前こそお疲れだ。午前中部活やってきたんだろう?  
 
「お前には去年の暮れに世話になったしな。それに、まだそんなに年は経ってはいないが旧友同士こういう近況報告会ってのは大切だと思うんだ、俺は」  
 
 一つ一つのパーツが大作りな顔を崩して盛大に笑う。  
 乾杯にスポーツドリンクを注いで一気するのはどうかと思ったが、今日はそのお前の豪気さに感謝だ。  
 程なくして料理が運ばれてきて、ますます盛り上がる。  
 男女分かれてる感は否めないが、箸が滞ることなく、杯は乾くことなく、グループ毎にそれなりに話が弾んでいるようだった。  
 
「佐々木ってば、やっぱちょっと雰囲気変わったよねぇ」  
 
「うんうん。女をあげたーって感じ」  
 
 向かいの席ではなにやら佐々木を取り巻いて女子達が盛り上がっていた。  
 持ち上げられても冷静に対処する佐々木を勝手に代弁して、  
 
「そうか?」  
 
 心の中でこぼす。  
 向こうの世界の佐々木に対して胸が高鳴ることがあったのは認めるが、こっちはこっち。全く別物と考えるべきだろう。  
 俺には特に中学時と比して変化したように見えないが、男と女じゃ見るところが違うんだろうかね。  
 正面を向くと、佐々木がフォークでライスを口に運んでした。  
 自然と視線が唇に向かう。薄っすら引いてあるリップの光沢がやけに艶かしくて、そこからチロリと舌が覗いたところで背けた。  
 意識し過ぎだ、ばか。  
 
「どうだ? ファミレスの米の味は?」  
 
「表面はしっとりしてるくせに食べると堅くてパサパサしてる斬新な食感だよ。妙に香ばしいのはなぜだろうね。いやはや不思議な味だ」  
 
 独特の口調で白々しくとぼけやがった。分かりにくいがこいつなりのブラックジョークだ。加工工程がばれる内容なだけに店長あたりが聞いたら背筋に冷たいものが走るだろうな。  
 確認の為に水を向けてみたが、見ての通り。  
 何も変わっちゃいねえ。  
 一人勝手に意味不明に安心して、俺は最寄りのグループが咲かしていた昔話に入っていった。  
 
 
 ファミレス→カラオケの鉄板コースを消化して五時を過ぎたところで解散となった。スケジュールの合間を見つけて来てくれたやつも多いから、まぁこんなもんだろう。  
 こんな中途半端な会合だったにもかかわらず、最後に一同から幹事の俺たちに拍手が送られた。額面どおりの感謝を受け取る立場でないだけに心苦しい。  
 埋め合わせに、正常に戻した世界で後日改めてきちんとした同窓会を取り仕切らせてもらおう。だから、今回ばかりはすまん。  
 
 三々五々に帰途に着くみんなの背中を佐々木と並んで見送った。  
 
「――――さて、それでは行こうか」  
 
 騒がしくも楽しい時間の余韻に浸り終えた絶妙のタイミングで佐々木が促す。  
 この後、二人だけでささやかに幹事お疲れ会を開こうという俺の誘いを受けてのことだった。  
 学校生活や、最近観た映画やテレビドラマ、関心を持ったニュースなど、とりとめもないことを話して俺たちは最寄りの公園まで足を運んだ。  
 入り口で車の陰に隠れて待機していた朝比奈さん(小)とアイコンタクトを交わす。  
 佐々木が誘いを受けた直後にメールを打って、待っててもらっていた。連携は上々だ。  
 古泉は画像閲覧の仕掛け人として今頃ハルヒを呼び出していることだろう。  
 しかし――――、改めて見て今更ながらに思うが、やはり首から提げたカメラが仰々しすぎて浮きまくってるな。  
 古泉よ、パトロンがついてるとはいえ、はりこみ過ぎだ。性能は間違いないんだろうが、どう見ても場違いだぜ。  
 もちろん何度か撮影の練習はしたものの、土壇場でハイエンドクラスのものを朝比奈さん(小)が使いこなせるのか一抹の不安が残る。文明の進みきった未来からやってきたお方に対してなんとも失礼な憂慮だけどな。  
 散策路を進んで、噴水を取り囲むように配されているベンチを見つけた。ちょうどいい、ここにしよう。  
 佐々木を座らせて、近くの自販機コーナーへと走った。  
 財布を無駄に膨らませていた煩わしい細かい硬貨をちまちまと投入しながら――――、  
 
 今回の件、本当に佐々木が噛んでいるのか?  
 
 二重に折り重なった数日間、幾度もぶち当たっては解けなかった疑問を今一度反芻する。  
 ファミレスでも確かめたが、佐々木は何も変わった様子がない。  
 これだけのことをやらかしたとしたら、きっと精神状態は相当に不安定に違いないという俺と古泉の予想は見事に外れて、肩透かしを食っていた。  
 ともすれば覚め切ってるともとれるくらいに落ち着き払って、どんな話題につけても理屈っぽく回り道をしたがる。思い出の中の平常時の旧友の姿がそのまま在った。  
 
「ほら、リクエスト通り、お茶」  
 
 缶ジュースと並んで同値で売っている寸詰まりのペットボトルを手渡すと、にこやかな笑顔を向けて丁寧に両手で受け取った。  
 
「ありがとう。そういえばキョン、ペットボトルの回収時に蓋は分別してくださいという但し書きを見たことはないかい? 蓋を分けるのは簡単なんだが、ペットボトルの口元に同質のプラスチックが残るだろう。ほらこんな風に」  
 
 佐々木はそう言いながらカチッと封を捻じ切って、飲み口をこっちに向けた。  
 確かに残ってるな。これを正確に何と呼ぶのか知らんが、リング状の蓋の片割れが口元に巻きついている。  
 
「この部分を切り離して捨てる人は皆無と言えよう。なのにどうして蓋だけ分別させるんだろうね?」  
 
 相変わらずそういう素朴な疑問を突き詰めるのが大好きだな、お前。さぞかし幼少時は両親を困らせたことだろうよ。  
 苦笑しながら缶ジュースとペットボトルという異色の乾杯をあげると、頭の中にこびりついていた疑惑は薄れて、ついつい懐かしさにかまけて佐々木とくだらない議論に戻る。  
 飲み物が空になっても話のネタは中々尽きなかったが、打ち止めにならない道理はなく、自然と幕間ができてインターバルとなった。  
 日没が迫って散策路に伸びた影が落ち、少し風が吹いて木々をざわつかせる。理由もなく物寂しく感傷的になる不思議な時間が流れる。  
 
 ……仕掛けるなら、今だな。  
 
 顔を動かさずに眼球だけ巡らせて辺りを伺う。おそらく向かいの茂みの中に隠れてるんだと思うが――、朝比奈さん(小)の姿を見つけることができなかった。  
 だが確認している猶予などあるはずもなく、ここが天王山と腹をくくる。  
 
「佐々木、睫毛に何か付いてるぞ」  
 
「え? 本当かい?」  
 
 俺に指されるまま、佐々木は左目の眼を軽く擦る。  
 
 疑いもせずに素直に応じてくれてる姿を見てると、たあいのない嘘に割の合わない罪悪感に苛まれた。  
 すまん、佐々木。気が引けるが、絶対任務なんだ。  
 
「取れてないな。目ぇつぶって、ちょっとじっとしてろ」  
 
 覗き込むような姿勢から、左腕を伸ばして手のひらを佐々木の頬に添える。佐々木は特に動揺した様子もなく受け入れてくれた。泡を食ったのはむしろ俺だ。  
 おそらく初めて触れる佐々木の頬は白磁器のようにキメが細かく、絶妙の弾力を誇って俺の指を押し返してくる。  
 無垢な表情は本当に目に毒で、こいつの魅力の高さに息を呑んだ。  
 …………女をあげた、というのは伊達じゃなかったことか。  
 っと、見入ってる場合じゃない。  
 止まっていた身体を動かして、不必要に身を浮かして佐々木の正面に回り込む。動揺が拭いきれないのか、指が震えてやがった。このヘタレめ。一瞬で事足りるんだ。しゃきっとしてろ。  
 喝をいれてみたものの精神論でどうなれば世話はなく、かといって悠長に待ってられるはずもなく、俺はそのまま強行に踏み切った。  
 手元が狂わないようにと見せかけて、大型バスで幅寄せ三センチを狙うような危うさで、息を止めながら可能な限り顔を寄せる。  
 正直に言おう。全身が吊りそうだ。  
 今ですよ、朝比奈さんっ。  
 シャッターチャンスを作るために一秒きっかり制止して、離れ際に震えたままの指でさっと睫毛をなぞった。  
 ほんの十秒そこらの出来事なのにも関わらず、目も眩むような疲労感が押し寄せてくる。  
 
「取れた?」  
 
「……ああ、お疲れ」  
 
 思わずぽろっと本音が漏れちまったのはご愛嬌だ。  
 とにかくやるべきことはやった。もうこんなこと二度と、……いや三度とごめんだぜ。  
 何事もなかった様子で佐々木が話を再開させる。  
 携帯が震えて、相槌を打ちながら俺はメールを開いた。可愛らしい星の絵文字に彩られた『写真バッチリ撮れました』の一文を目にして、どっと安堵する。  
 独り隠れて達成感に浸りながら、俺はまたとめどない世話話に戻っていった。  
 
 
 ミッションコンプリートの高揚した気分も相まって時間を忘れて話し込み、ふと気づけば辺りは暗がりに包まれ始めていた。  
 佐々木は花を積みにと席を外している。  
 一人になって少し冷静になって思い返すと、今日の佐々木は随分と多弁なような気がした。生粋の討論好きではあるが、おしゃべりと噂話が生きがいのようなクラスに一人は居そうな姦しい女子のように、のべつ幕なしに口を開いているというイメージではない。  
 だが、今の佐々木はどちらかと言うと後者に近いように思えた。ファミレスに居たときはそうでもなかったのにな。俺と二人で居る時間が経つほどに口数が増えている気がする。  
 同窓会の余韻で気分が昂ぶっているせいなのか、あるいは、しゃべってないと不安なのか……、ってのは深読みしすぎか?  
 いや、待てよ。  
 写真は撮ることばかりに気をとられていたが、肝心のことが宙に浮いたままになっているじゃないか。  
 今回なぜ佐々木がこんなことをしでかしたのか。最初から在る最大の疑問がまだ明らかになっていない。  
 
「待たせたね」  
 
 と、佐々木が戻ってきた。スカートを畳んで上品に傍らに腰かける。  
 
「佐々木、お前最近悩んでることはないか?」  
 
 初めて鏡写しに自分の姿を見た子猫のように丸くした目をしばたたかせて佐々木は俺を見据えた。  
 
「どうしたんだい、急に?」  
 
「いや、深い意味はない。昔話はよくしゃべったが、近況についてはあまり話してなかったからな。どうなんだ、最近」  
 
 あぶねえ。少し正面から行き過ぎた。そこそこにうまく取り繕えたのは運でしかない。極度の緊張で喉が乾くのを厭いながら見守っていると、  
 
「……よくはないね」  
 
 佐々木の表情が曇る。  
 
 ……どうやら何かありそうだ。ヒントが拾えるかもしれないと、心拍に鼓膜を打たせながら耳をそばだてて聞き入った。  
 
「進学校に入ったはいいが、毎日勉強についていくのが大変でうんざりさ。おまけに、努力してるにもかかわらず成績が下降線を辿ってる。ツキに見放されてると言うよりは、バイオリズムが乱れてるんだろうね」  
 
 かなり深刻なのか、佐々木は目を伏せて考え込む。  
 ……まさか、これが原因なのか? 厭世観に浸って自棄を起こしたってことなのか?  
 疑いが膨らみかけたが、違うとすぐさま打ち消した。  
 こいつはそんな軽挙なやつじゃない。  
 かの独特の思考メカニズムは解せずとも、親友の名にかけてこいつの性格だけはよく分かっているつもりだ。その自負に誓ってそんなことはありえないぜ。  
 
「キョンは……」  
 
 佐々木が水を向けて、虚を突く形で思考を断つ。  
 
「キョンは……、どうなんだい?」  
 
 俺の名を呼びかけ直した際に、喉が鳴るのを見逃さなかった。  
 正面から突き合わせている佐々木の瞳はユラユラと揺れて、まるで恐れながら病名の告知に耳を傾ける患者のように映った。  
 何をそんなに怯える必要がある?  
 
「俺も相変わらずだ。放課後は文芸部室でダベって、休みの日は人足としてハルヒに駆り出される、そんな風に日々を浪費している」  
 
 沈んだ空気を払うべく少しおどけて言ってみたが、まるで興味のないケーブルテレビの訪問勧誘をひたすら聞き流しているような風で、佐々木はまったくリアクションを寄越さない。  
 言葉に詰まる。  
 
「……おかしいな。この流れはキミが悩み事を聞いて欲しいというフリだと思ってたんだけど、もしかして読み違いかい?」  
 
 ……まずいな。こんな返しが来るとは思いもよらなかった。  
 二世界を股にかけて目下苦悩中の俺に対して言い得て妙だ、などと、余計なことに気を回している場合じゃない。  
 困ったね。完全に勢いを削がれて、何も言えずにいると佐々木が口を継いだ。  
   
「まだ忍ぶ恋ってことなのか」  
 
 なにやら納得するような独り言をつぶやく。  
 シノブコイ?  
 耳慣れない単語は、おうむ返しても少しも馴染まず、漢字を当てるまでにたっぷり数秒を要し、月の裏側と中継で会話するかのようなタイムラグを伴ってようやく俺は佐々木がおかしなことを言ってるのに気がつく。  
 待て、話をかみ合わせてくれ。  
 と、合いの手を入れるのは簡単だったが、俺はあえて佐々木にしゃべらせることにした。  
神妙に言葉を選ぶ佐々木の様は、ただならぬ雰囲気を帯びていて、タブーな話題に触れようとしているのが分かる。  
 
「…………」  
 
 思いつめた表情を作って黙り込んでみた。佐々木を促す苦肉の策だ。  
 
「先週の日曜日だったかな。涼宮さんと睦まじく歩いてるところを見かけたよ。よもや、あんな所で遭遇するとは思わず、かなり驚かされたけどね。  
一体いつから恋仲に転じたんだい? 四月に会った時は僕の見立てではそんな雰囲気を感じなかったけど、あれは巧妙なカムフラージュだったってことかな?」  
 
 …………絶句だね。こいつぁまた珍妙なことを。  
 俺とハルヒが付き合ってるだって? ヘソで茶どころか、あまねくホットドリンクが漏れなく沸かせそうだ。  
 先週の日曜日、俺は確かにハルヒと一緒に居た。不思議探索が開催されて、ハルヒと組になって出回っていたのさ。街中で佐々木に目撃されたとしても、何らおかしくはないだろう。  
 だが、そうしたところで、なぜこんな誤解が生まれたのか解せない。  
 
「どうしてそう思った? SOS団の概要を知ってるお前なら、俺とハルヒが休日を相伴していたのを目にしたところで何の不思議もないはずだろう?」  
 
 呆れたように佐々木は一息つくと、謂れのない冷めた視線を浴びせかけてきた。  
 ……どうも話の展開がおかしいのは気のせいじゃないだろう。  
 
 途中までは俺が近況を打ち明けるという流れだったはず、だが、どういうわけか今は責められるような立場に立たされている心地がする。  
 やれやれ、いい感じで分からなくなってきやがった。  
 
「キョン、深夜の繁華街でいかがわしい宿泊施設から出てきたのを目撃した証人を目の前に隠し立ては無用だよ。週刊誌のスクープや推理ドラマの煽り文句じゃないけどね、見てしまったんだよ。  
転がるように往来に飛び出てくるや否や、大雨に見舞われる中、キミが傘をさして涼宮さんを庇いながら駅に向かって走っていくのをね」  
 
 途中までさっぱりだったが、大雨に――、のくだりでピンときた。  
 あの時、あの場所、あのシチュエーションを違った角度から思い起こして、佐々木が一体なにを誤解してやがるのか、すべて納得がいった。  
 …………そういうことだったのかよ。  
 
 
 説明しよう。  
 先週の日曜日、俺たちは神社巡りをやっていた。いや、やらされていた。指揮っていたのは、もはや言うまでもないだろう。問題はそのネタ元だ。  
 図書室の書庫で眠っていた古ぼけたノートの端に落書きのように適当にしたためられていた『おまじない』が全ての元凶。  
 そんな胡散臭い代物にハルヒが食いつくという負の食物連鎖で、俺たちはそれを実行に移す羽目になったのである。  
 所定の条件を満たして北高近隣に散在する神社巡りをやると椿事に見舞われる、というありがちなものでスタート直後はオリエンテーリングよろしくさくさく進んだものの、  
市内を駆けずり回るのは骨で、途中から手分けをするというチートを使ったにも関わらず、最後の参拝は制限時間ギリギリで俺とハルヒは駆け込むこととなった。  
 繁華街の中に紛れてポツンと寺社が建ってるのを見たことないか?  
 まさにああいう感じのが最後のチェックポイントだったのさ。よりによってな。  
 雨が降りしきる中、指定の亥の刻になんとか間に合ったが、何の嫌がらせか裏から出ろという指示により、伸び放題の藪をずぶ濡れになりながら抜ける一難を越えると、そこはビルの谷間にある路地裏という、もう一難が待っていやがった。  
 迷路のように入り組んだそこを左手の法則と壁越えの反則を駆使して、やっとの思いで脱したわけだが、思えば路地を抜け出たとき、周りはやけに大きな建物ばかりで、けばけばしい色使いのネオンの看板が並んでいたな。  
 あの時、終電に間に合うかどうかの瀬戸際でそんなことを少しも気にしていなかったが、記憶と土地柄を照合させれば、あそこはホテル街の中心だ。  
 横を走るハルヒの調子が少しおかしかったのはそのせいか。  
 くそっ、今更ながら気恥ずかしさがこみ上げてきやがった。  
 
 
 ともかく、これで誤解の元ははっきりしたが、自ずと拓かれた真相に俺は愕然となる。  
 佐々木よ、これがおまえの情緒を揺るがす出来事だったのか? だったとしたら――――。  
 
「愛を育む延長上にセックスがあるのは否定しないよ。想いが深まるほど相手をもっと知りたい、近くに居たいという衝動が強まるのは自然な流れだからね。だけど、僕たちはまだ高校生だ。  
プラトニックを薦めるわけじゃないけれど、節度は守るべきだと思う。涼宮さんは僕と違って非常に魅力的なプロポーションの持ち主だからね。加えてあの気丈な性格だ。組み敷けば、キミにの中に潜む征服欲が格別に満たされることだろう。  
のめり込んでしまっても致し方ない。けれど、これだけは気に留めていて欲しいんだ。絆を深める意図こそあれ肉欲に溺れるという本末転倒を起こしてしまうなどは、もってのほかだってね。  
外泊をせずにちゃんと終電で帰ったことから察するに、その辺りの線引きはちゃんとできてるかのように映ったけどね。理性的なキミのことだ、裏で涼宮さんを窘めてうまく制御してあげてるんだろう。  
だけど、余計なお世話かもしれないけどね、キョン、ああいう風に深夜の盛り場に入り浸るのは感心しないな。治安も悪いし、性質の悪いトラブルに巻き込まれる可能性だってある。  
涼宮さんの身の安全を考えればなおさらだよ、…………うん。それと、ちゃんと避妊はしてるかい? コン――――」  
 
「待て! 待ってくれ、佐々木」  
 
 俺に向けた台詞のはずが誰に語る風でもなく、ただ真正面の一点を焼きつくほどに見つめながら、異様に抑揚が平坦な一本調子で語り尽くそうとする佐々木の様はあまりに危うく、寒気すら感じた俺は反射的にストップをかけていた。  
 
 なんだ、今の? こんなに追い込まれている佐々木を見るのは初めてだ。  
 まるで冷静のまま取り乱してるような矛盾を孕んだ常軌を逸した様に、俺はとうとう観念して確信する。  
 ……これは、もう間違いないってことなんだろう。  
 
「佐々木よ、とんでもない勘違いだ。俺たちはホテルのエントランスから出てきたんじゃない。路地から出てきたんだ。あの日は特例で、あんな時間まで不思議探索をやってたのさ。やましいことなんぞこれっぽっちもやってない。何ならハルヒに確認してもいいぜ」  
 
 捲くし立てるように言ったのは、説得力をもたせるためではなく、単にテンパってるだけだったが、舌を絡ませずに言い切った甲斐はあって、毒ガスを限界まで張り詰めた風船を想起させるようなそこはかとなくヤバげな空気は晴れていた。  
 ……実際は少しばかりガス漏れを起こしてたような気もするが、爆発に比べれば可愛いもんだ。  
 
「そう……、なのかい?」  
 
 フォークとスプーンを使ってパスタを食べるという作法が本場のものでないことを二十歳過ぎて初めて知った瞬間のような顔で、佐々木は大きな眼に俺を映していた。やっと顔を合わせてくれたか。  
 
「そうだ。そうに決まってるだろう? ハルヒと俺の関係は一年次から変わることなく君主と家臣、軍曹と二等兵、上司と部下に準ずるものだぜ、……言ってて情けなくなるが、それでも恋人などと囃されるよりはむず痒くない分だけまだマシだ」  
 
「……そう。じゃあ、キミはまだ…………」  
 
 言葉を途切れさせて、佐々木は思案に耽った。単なる勘違いを改めるにはいささか長い黙考のように思えたが、秒針が一巡りするかしないかの内に、  
 
「すまない。とんでもない勘違いをしてたね。穴があったら入りたいよ」  
 
 頬を少しだけ染めてばつの悪そうにくつくつと笑った。  
 さっきの不穏な雰囲気が嘘のような、健全な笑顔が戻っていることを認めて、ようやく胸のつかえが取れる。  
 
「まったく随分と遠回りしたな」  
 
「そうだね。…………でもね、あながち無駄なことだったとは思わないよ。孫子曰く――『敵を知り己を知れば百戦危うからず』」  
 
 突如再開された佐々木トークに、俺は完全置いてけぼりを食らった。  
 
「敵、というには少し語弊があるか、いや、ないか。とにかく、五十戦は満足に戦えるようになったってことさ」  
 
 安息の不意をつかれたせいか、意味が全く汲み取れない。一体何を……、言ってやがる?   
 
「でもね、今のままじゃダメだな。だから――――、あと五十戦分、勝てるようになりたいな――――」  
 
 空に想いを馳せるかのような願望の発露。  
 しばらくその願いを考えてみたものの、脳のウェルニッケ領域が損傷したかのようにまるで佐々木の言葉を解することができなかった。  
 気がつけばもう夜の帳が落ちて、水銀灯が灯っている。ずっと座って話し込んでいたせいか、少し強い風は肌寒く、そろそろお開きだと思い立つ。  
 目的自体はすべて達成できたしな。……一部ショックが隠せない事実が発覚したが、それはひとまず申し送り事項、ということにしておこう。  
 
 腰を上げるのと同じタイミングで、  
 
「キョン」  
 
 佐々木が呼び止めた。  
 なんだと窺うと、瞼を煩わしそうに擦っていた。  
 
「…………また目にゴミが入ったみたい。悪いけど、さっきの要領で取ってくれない?」  
 
 いいぜ。お安い御用だ。  
 罪滅ぼしとばかりに俺は快く引き受ける。  
 佐々木の前に立って、前かがみに佐々木の顔を覗き込む。まるで野郎に近づくかごとく底抜けに気安く無遠慮に――――、懲りずにも佐々木の口調の変化を察せず、その細い身体がカタカタと小刻みに震えていることにも気づかず。  
 
//////////  
σ‐4  
η‐4  
 
 夕日に染まったハルヒの小さな顔が可憐に傾いで迫る。  
 水銀灯に照らされて白さの際立った佐々木の顔が迫る。  
 
 表情を完全に解いて瞳を閉ざしたその様は純真無垢の稚児のよう。  
 不安げに揺れる瞳で俺を待ち受ける様は庇護を求める雛鳥のよう。  
 
 自然、ハルヒの肩にそっと手をかけて、  
 一転、佐々木の腕が急に頭に回されて、  
 
 フリだけのはずがなぜマジに!? という疑問もなんのその、  
 フリだけのつもりがまたかよ!? という疑問もなんのその、  
 
 俺はハルヒに引き寄せられるまま、  
 俺は佐々木に抱き寄せられるまま、  
 
 厚ぼったくて豊かなボリュームを誇る美味しそうな唇に、  
 控え目に盛り上がって瑞々しく桜色に色づく可憐な唇に、  
 
 キスをした――――。  
 
//////////  
 
 立ちくらみを感じた。座標系を隔てた時間移動に準じる強烈なやつだ。思わず目を閉じて膝を折る。  
 目の奥の疼きがひくまでやりすごして瞼を開けると、コンクリートの地面が視界いっぱいに広がっていた。  
 確か足元は石畳だったはず、それがどうして?  
 という、自問を済ませたときにはもう答えにたどり着いていた。  
 立ち上がって見上げると、ようこそと迎えてくれたのは陰気臭い灰色の空。  
 色がおかしいのは空だけじゃない、校舎や木々、防護ネット、見渡す限り薄墨のべた塗り。手抜きの書き割りのような景色が広がっていた。  
 ハルヒの閉鎖空間――――、三度目ともなればと直感的に理解できた。  
 配色が違うせいで一瞬どこかと思ったが、ものの配置からしてここが北高の敷地内であることに気づく。  
 辺りを見回すと、三角キャッチボールができそうな配置で立ち尽くしている私服の少女が二人。ハルヒと、佐々木だった。  
 視線だけ巡らせて三者とも互いの存在を確認したものの、第一声が出ない。いきなりの展開で話しかけることができないのはお互い様ってことか。  
 
 ズゥゥ―――――ンン…………  
 
 地獄の底から伝わってきたような重く低い地鳴りで金縛りから解き放たれた。  
 音源を探ると、遠くの山の斜面で赤い<<神人>>が、アルミ缶をつぶすような感じで民家を踏み荒らしていた。  
 声を無くしたまま見守る。  
 あいつとはまだ距離はあるが、新手が神出鬼没で出現しやがる以上、安心などできようはずもない。  
 
 それにしても、<<神人>>のカラーリングが違うのはどうしてだ?  
   
「作戦は成功した。ここはあの二人が作った独立空間。相互の情報創出能力が拮抗して、絶えず崩壊しながら創生が行われることで成立している」  
 
 背後から投げかけられた声を聞いて、四人目の存在を初めて知った。  
 ハルヒ達は<<神人>>に目を奪われていて、その存在に気づいていない。  
 振り返ると北高の冬服を身に着けた頼れるヒロインが威風堂々。意味不明の状況にもかかわらず久々の復活に思わず笑みが漏れた。  
 
「長門、もう具合はいいのか?」  
 
「二元観察を放棄した現在、パフォーマンスは元に戻っている。それに――」  
 
 そうつぶやきながら上方を仰ぎ見て、  
 
「周防九曜の相手はわたしにしか務まらない」  
 
 給水等の上に乗った黒い小山と視線を相対させた。  
 あいまみえた両者の戦いは常人の及ばぬ次元で早くも始まっているらしく、両者身じろぎ一つしないまま睨み合いになる。  
 
「当該世界崩壊の混迷に乗じて時空を再構築する。古泉一樹と橘京子が巨人の掃討を完了するまで、あなたは二人を護って」  
 
 一方的にそんな言葉を置いて長門は姿を消した。一拍空けて九曜も姿を消す。ここならリミッター解除で異能開放のバッチバチの直接対決ってことか。  
 
 オォォォ――――――ン  
 
 腹を揺るがす<<神人>>のいななきがサラウンドで響き渡る。  
 ざっと周囲を見渡しただけで、赤いそれを二体、青いそれをさっきのやつと合わせて三体確認することができた。まずいな、いつの間に囲まれちまってる。  
 
「佐々木! 逃げるぞ!」  
 
 先ず、おそらく閉鎖空間に招かれるのは初めてと目される佐々木に俺は駆け寄った。  
 
「キョン、ここはまさか……」  
 
 察しの通りだ。橘から聞いてるのと様相が違うのは、……ちょいとやっかいな事情が絡んでるからなんだが、話は後だ。  
 走るぞ、と佐々木の手を取る。  
 
「ちょっと、キョン!」  
   
 鋭い声に咎められた。  
 
「あんたね、団長であるあたしをほったらかしてなにやってんの! 身を挺してイの一番に護るのはあたしでしょ!?」  
 
 ズカズカと派手に足を踏みしめて、馬頭観音も裸足で逃げ出すような怒りの形相を露わにハルヒが近づいてきた。  
 こいつらの記憶がどことどう繋がってるのか分からんが、この敵意むき出しの態度からしてなんとなく察することができるぜ。  
 
「涼宮さん、どうか叱らないで欲しいな。キョンはか弱きものを優先的に護るという、見上げた博愛精神に従って行動したまでだよ」  
 
 佐々木はハルヒに怯む様子など微塵も見せずに、真正面からそんな正論で俺を庇う。  
 慈愛溢れる様に救われた心地がしたが、その刹那、空いた右手でキュッと俺の服の裾あたりを掴み、寄り添うようにしなだれかかってくるなんて暴挙に出た。  
 瞬間、ハルヒの顔が固まる。そして、ピクピクと頬を痙攣させて俺を睨みつけた。  
 その理不尽さに不満の声の一つでもあげたいところだが、剣幕に圧されるにまかせて黙することにした。  
 雉も鳴かずば撃たれまい 。  
 
 斜め上から見下ろす佐々木の表情は、角度がなさすぎてよく分からない。一体どんな顔でハルヒを挑発したのか、見当もつかなかった。  
 
「お前ら口を動かすよりも脚を動かせ、距離が詰まったら逃げようがないぞ」  
 
 とにかく人命が最優先だと、俺は強引にハルヒの手も取って走り出す。  
 校庭を突っ切って校門から出たところで、背後から轟音が耳をつんざいた。  
 グラウンドの方から侵入してきたと思しき青の<<神人>>が校舎の一角を蹴り倒していた。圧巻の破壊に戦慄を覚えた。  
 さすがの両名も青ざめた顔で棒立ちになっていた。逆を言えば、よくこれだけで済んでるとも言える。並の女子なら腰を抜かしてもおかしくないぜ。  
 三人して<<神人>>の接近におののいていると、赤の光が一閃、<<神人>>を袈裟掛けに斬り伏せる。  
 古泉が奮闘していた。ここからじゃ見えないが橘も赤いやつと苦闘を演じていることだろう。  
 戦局を良くするために、少しでも距離をかせがないとな。  
 
「ハルヒ、佐々木、駅まで下るぞ」  
 
 今のところ海側には巨人の姿は認められず、山を下るのが最善と判断した俺は二人の手を握りながら坂を下る。  
 幸いにも二人とも黙って俺に従ってくれた。  
 無我夢中で山を駆け下りて、ゴーストタウンと化した住宅街まで逃げてきた。  
 破壊の音はかなり遠ざかっている。ここまで来ればさしあたっては安全だろう。  
 走る速度を緩めて、さっきから悲鳴を上げっぱなしのふくらはぎの筋肉をようやく宥めつかせた。  
 街が一望できる小高い丘のような場所で立ち止まる。  
 ここらで休憩だと告げようとしたとき、右手に繋いでいた手が離れた。  
 俺が離したんじゃない、ハルヒによって故意に振り切られていた。ハルヒはそのまま歩み進んで俺の前に回りこむ。示し合わせたように佐々木も倣った。  
 意図が分からず俺は訝る。  
 一体どうした?  
 
「三人一緒に逃げるのは非効率よ。だから分かれるわよ。二手に」  
 
「賛成だ。その方が相手をかく乱できるからね。分かれよう、二手に」  
 
 なんで二手なんだよ、というツッコミは双方の刺すような視線で封殺されていた。  
 お前らあれだけ走ったのに大して息が切れてないな。運動部でもないくせして、まったく信じがたい持久力だぜ。  
 酸欠気味の脳でどう収めたものかと頭を悩ませる。  
 だが、線路の向こうの中空に赤い光と青い光がものすごい勢いで集まっていくのが目に留まり、思考が吹き飛んだ。  
 二色の光はそれぞれ人の形を成し、輝く巨人に化ける――――、ここまでは予想できたことだった。だが、想定外のことが一つ。出現した巨人のサイズに俺は目を疑った。  
 山の手の残党と比べて、どんぶりで考慮しても通常サイズの二倍近くある青と赤の巨人が聳え立ち対峙していた。  
 やつらの視線の方が俺たちの立つ標高を上回ってやがる。  
 小高い丘から、目の前に並ぶハルヒと佐々木の身体越しに、青と赤の<<神人>>が超絶スケールであいまみえる。  
 おいおい、何が始まろうってんだ。  
 
「佐々木さん、あなた遠慮って言葉を知らないのかしら? キョンはウチの団員だからあたしと組んで、あたしを護って、あたしのために働いて然るべきなのよ」  
 
 ゆらりと前に踏み込んだ神人(青)が先手をとって右ストレートを神人(赤)の顔面にめりこませた。  
 まさかのギャグのような展開に、もはや乾いた笑いしか出てこない。  
 
「こんなに締めつけが厳しいようじゃキョンも大変だね。探索に深夜まで付き合わせるなんてやりすぎじゃないのかな。キョンも同窓会の打ち上げの席で愚痴ってたよ」  
 
 大きくのけぞらされたが、ダウンするまでに至らず踏みとどまった神人(赤)は、神人(青)に掴みかかって反撃を開始する。  
 首をとって膂力に任せて引き寄せ、どてっ腹に膝蹴りの連発をかました。きついぞ、あれは。  
 そして最後に身体をねじって盛大に投げ飛ばす。もんどり打って転がされた神人(青)が鉄筋の高層ビルを巻き込んで、身を揺るがすような轟音が響き渡った。  
 
 しかし、そんな爆音にも耳を貸さず、まさかの暴露にハルヒが俺をキッと睨みつけてきた。  
 確かにそうとも取られかねないことを言った覚えがあるだけに反論できん。  
 だが、ハルヒはふっと肩の力を緩めると、憐れむような表情に転じて佐々木を挑発した。  
 
「あまのじゃくなのがキョンのキャラなのよ。めんどくさそう、ダルそうにしてても心の中はまんざらでもないっていうのが常なんだから。  
そうっ、SOS団きってのツンデレキャラなのよ。だから、そんな愚痴を真に受ける方が間違ってるってわけ。佐々木さんも案外上っ面しか知らないのね」  
 
 ボディへのダメージを感じさせず、ブリッジの反動で勢いよく立ち上がった神人(青)は、すばやいフットワークで神人(赤)の懐にもぐりこむと、強烈な左ボディブローを浴びせ、相手が少しうずくまったところへ容赦ないハイキックをぶち込む。  
 たまらず吹き飛んだ巨人が街のど真ん中に壕を作った。  
 ウルトラスーパーヘビー級のくせしてすげえコンビネーションだ……、って見入ってる場合じゃない。  
 巨人同士が衝突するたびに、巻き添えを食う形で戦禍が街を蝕んでいく。間接的ではあるが、破壊が進行してることに何も変わりはない。  
 身に覚えのないレッテルにツッコむのももどかしい。このままじゃまずいぞ。  
 
「その言葉そっくりそのまま返すよ。キョンは本来の性格はそんな風にひねくれちゃいない。誠実で実直で、ちょっとシャイなやつなの。本質が見えてないのは涼宮さんの方だよ」  
 
 ムクリと身を起こした神人(赤)が空を抉るような強烈な張り手をかました。たまらずたたらを踏んで大きく傾く神人(青)。だが、倒れる寸でのとこで持ちこたえる。  
 そのまま睨み合いになった。  
 そんな遠景をバックに、俺の目の前でハルヒと佐々木が一歩も譲ろうとせず対峙する。  
 ピリピリと空気が細かく爆ぜるのを肌で感じて、さぶいぼが出てきやがった。勘弁してくれ。  
 
 バッ!  
 
 と、風がここまで届くくらいの剣幕で二本の細い手が差し出された。  
 真っ直ぐに伸びたハルヒの右腕と佐々木の左腕が観音開きのように俺を迎える。  
 二人の険しい視線から脅迫めいたものを感じるのは錯覚じゃない。来月の小遣いを全額賭けてもいい。  
 「言うことは言った。さぁ、選べ」ってか。選ぶも何も、この際三人バラけようぜ――――、なんて言おうものならおそらくここから突き落とされるに違いない。  
 頭痛に目が眩んで額に手をやる。  
 
「まさか団長を蔑ろにしたりなんてしないわよね?」  
 
「私を受け入れてくれたのはポーズじゃないよね?」  
 
 ハルヒと佐々木はそう言いながら一歩踏み出してくる。俺はきっちりその縮まった距離だけ後退した。  
 選択から逃げているのではなく、純粋に恐ろしい。防衛本能が俺の脚をくっていた。  
 一歩、もう一歩、いたちごっこが続くかと思いきや、丘が地すべりを起こしかねない大地を揺るがす大足音が二つ。  
 眦を切れ上がらせて迫るハルヒと佐々木の後ろ盾を務めるかのように、二大巨人の洞穴のような目が俺に照準を合わせていた。線路を蹴散らして、驀進は一向に止まる様子がない。  
 …………おいおいおいおい、洒落になってないぞ。  
 お前ら後回しだ。逃げるんだよ。後ろを見ろ、つーか、この地響きで気づけ!  
 悲痛な俺の叫びも届かず、怒気を孕んでハルヒと佐々木が同時に何か言おうと口を開き、  
二大巨人が暴虐を尽くさんとそれぞれ腕を伸ばす。  
 南無三――――と、死を悟った数瞬後。  
 その巨体に沿って無尽に何かが疾り、暴力の権化は乱切りの刑に処された。  
 圧巻の大崩落に肌が泡立つ。視界の隅でハルヒと佐々木がまるで魔法でもかかったかのように、目はみるみる虚ろに、身体はくたりと力が抜けて腰砕けになるのが映って、急いで駆け寄った。  
 倒れ込む寸でのところで抱きとめる。あぶねえ。  
 光の粒子が降る灰色の空で赤と青、一対の光球が揚々と待っていた。  
 よくやってくれたぜ。  
 しかし、この絶妙の間一髪さ加減……、綽然たる瞬殺の掃討……、降りてきたら審議だな。  
 
「作戦は成功した。感謝する」  
 
 落ち着き払った声を鼓膜に染み渡せて、俺は平静を取り戻す。いつの間にか長門が俺の背後に居た。  
 しわ一つ無かった制服がボロ布と見まがうほど見るも無残な有様になっていた。  
 ミルク色の頬は煤で汚れ、綺麗なアッシュグレイの髪はところどころ焦げて痛んでいる。激戦の様子が窺えた。  
 左腕、よく見りゃ血が滲んでいるじゃないか。大丈夫なのか?  
 
「問題ない」  
   
 あっけらかんと言い放つ長門に安堵して、ようやくその足元に転がっている異様な黒だかりが目に入った。  
 
 焼海苔の塊かと思いきや、恐る恐る近づくとそれが夥しい量の髪の毛であることに気づく。  
 まるで子供が大きすぎるぬいぐるみを扱うように、長門は焦げて失神している九曜の首根っこを片手でぞんざいに掴んで引きずっていた。  
 足元のそれに目を落とす長門の表情は憮然として、キレ気味のように思える。翻訳すれば「てこずらせやがって」といったところか。  
 思えば長らく病人のような生活を余儀なくされたのは全部こいつのせいだったな。  
 溜まったフラストレーションを利子付きで返したとみえる。よくやったぞ。  
 黒く透き通った深淵の瞳で長門は俺をじっと見据えていた。珍しく表情が読めず、少し俺は戸惑う。  
 
「それが、あなたの答え?」  
 
 長門の視線がしゃがんだ俺の腕の中で安らかに眠りこけているハルヒと佐々木に向けられてるのを今更に悟って泡を食った。  
 
「…………、どうなんだろうね」  
 
 咄嗟だから正確な判断ではなかったとするのか、咄嗟だからこそ深層心理直結の素直な判断だったとするのか……、こんなこと考えるだけ無駄だな。  
 
「決断が鈍い。だから相手にペースを握られる」  
 
 返す言葉もない。心なしか長門の抑揚がいつも以上に冷め切っている。……もしかしてふがいない俺にイラついてたりするんだろうか?  
 仰ぎ見ると、長門は空を見上げて表情を隠していた。  
 長門はそれ以上なにも口にしなかった。厳かな空気を感じ取って俺も噤む。  
 御神渡りのように亀裂が走って空を二つに隔てた。そこを基幹として細かい亀裂が縦横に広がり、その隙間から光が降り注いで、くたびれた心を洗い流していく。  
 終焉――――、そう呼ぶに相応しいように思えた。  
 期間こそたったの三日間だったが、世界改変あり、時空移動ありの大立ち回りだった。そういや巨人に踏み潰されそうになったりもしたな。佐々木の想いを知って勢いのままに……、  
しかもハルヒとも……、この辺はさておき、何と言っても強烈な印象を残すのはラストの大巨人を交えたスペクタクル仁義なき戦いだろう。  
 俺たちは規格外のスケールで色々なことを経験したんだ。  
 万感の想いに耽りながら眩い光に白んでいった。  
 
//////////  
 
 大きな羽虫が飛ぶような煩わしい振動音とピーキーな電子音が鼓膜を打ち鳴らして飛び起きた。  
 何事かと布団を跳ね除けるが、寝ぼけているせいでとりあえず何がなんだか分からない。  
 確実に言えることは妹のボディアタックに負けず劣らずの、強烈な目覚めだってことだけだ。  
 光を嫌がる目を無理やり開けて、音源を探ると机の上で携帯が震えながら鳴っていた。  
 ったく、なにかと思えば。  
 覚えのない着メロだと思えば、確か妹が好きなアニメのオープニングテーマだ。元に戻すのが面倒で、勝手に設定を変えられたままになってたのを思い出す。  
 おっさんのように怠慢に腹を掻きながら手に取ると、バックの液晶に長門のフルネームが表示されていた。  
 それを目にしてようやく脳が目覚めた。  
 フリップを開いて日付を確認する。  
 五月二十日、日曜日。  
 ……俺、戻ってきたんだな。  
 
 少し感慨にひたりたかったが、コールを無視するわけにもいかず、通話ボタンを押した。  
 もしもし。  
 
「……おはよう」  
 
「おはよう。体調はどうだ?」  
 
「極めて良好。あなたの指示通り、座標系を一元化して時間平面を再構築した」  
 
「ありがとよ。助かったぜ。他の奴らの記憶はどうなってる? 俺と同じく巻き戻る前の出来事は覚えてるのか?」  
 
「操作した。あなたは例外」  
 
「……そうか。あの思い出を共有できないのは残念だが、時空の管理上は、その方がいいんだろうな」  
 
「大丈夫、わたしがいる」  
 
 意外と思われるほど鋭いツッコミに俺は面食らう。  
 そうだったな。立役者のお前をないがしろにしてどうする。  
 
「協力一致の成果。わたしもみんなと分かち合えないことを残念に思う」  
 
 長門がこんなにもストレートに感情を表現するなんて珍しい。  
 贅沢を言うのはやめだ。お前が同じ気持ちで居てくれている、その事実だけで十分だぜ。  
 ゆっくりと休んでくれ、と言いたいところだが、今日は不思議探索があるんだったな。  
 
「気にしなくていい。あなたと違ってわたしは同じことを反復するだけ」  
 
「…………」  
 
「がんばって」  
 
 シンプルな労いの言葉を置いて通話が切れた。  
 受話器の向こうで無表情にあってどこか微笑んでいるような長門の表情が見えたぜ。  
 全部お見通しとは、参ったね。  
 復帰を今日に指定したのは、もちろん来週木曜の未明に起こるはずの佐々木の暴走を未然に防ぐためだ。  
 それ自体は簡単でいくらだって方法がある。  
 今日の探索の時間をずらしてもいいし、分担を変えてもいいし、いっそのことバックレてもいい。  
 けど、これらは全部逃げだ。もう逃げるのはたくさんなんだよ。  
 アドレスを操作して、再び携帯を耳に当てる。  
 
「もしもし。佐々木か? おはよう。朝っぱらからアレなんだが、お前今日――――」  
 
 今回の件でハルヒや佐々木が俺に対してどんな感情を隠し持っているのかは大よそ把握した。  
 隠してるってのは違うかもな、きっと本人ですら気づいてないに違いない。ああいう形で焚きつけて無理に引き出したからこそ表に出てきたんだろう。  
 しかし、どちらにせよご両人とも普段がアレなくせに、潜在的にあんなに乙女だとはね……、見る目が変わらざるをえないぜ。  
 長門が残してくれた記憶、手に入れた新しい視点は、二人の本質を理解するためのもの。  
 まずはハルヒと佐々木、両方と向き合うことから始めて、どんな形であれ二人の気持ちにきちんと応えよう。  
 佐々木の快諾を受けて、俺は携帯を閉じた。  
 心機一転、晴れやかな気分で目を閉じる。  
   
 五月二十日――、乙女大戦開終戦記念日――――。  
 
 結局三人で付き合うことになると、半年後自分でツッコむ羽目になることも知らずに。  
   
 
―了―  
 

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