解けかかった緊張を完全にほぐすために大きく伸びをした。爽快が身体を突き抜ける。味気のない自室の空気が美味しく感じられた。  
 やはり長門と朝比奈さん(大)がコンビを組めばこれ以上に心強いことはない。  
 長門のナビゲーションサポートの元、朝比奈さん(大)のTPDDを使って座標系を越えて俺を時間移動させるという試みは見事成功。おかげでこうやってもう一度北高のブレザーに袖を通すことができた。  
 厳密に言えば俺自身が戻ってきたわけじゃない。戻ってきたのは記憶という名の情報だけだ。  
 長門の情報操作により、元の座標系で二十四日午前七時に生きる俺は、あっちの座標系で二十四日午後七時に生きていた俺と記憶の同期をとっていた。  
 主観では戻ってきたという錯覚がどうにも拭えないが、記憶を改ざんが行われただけで状況はなにも変わっちゃいない。  
 見えないところでもう一つの世界が展開されていて、全宇宙は変わらず危機に瀕したままだ。  
 だが、座標系をまたいで時間移動が可能であると証明された今、突破口は切り開かれた。  
 二人の尽力を無駄にしないように今度は俺が頑張る番だぜ。  
 ドタドタと階段を駆け上がるけたたましい音を聞くと同時に、ネクタイを締めて着替えを終える。妹よ、一足遅かったな。  
 完全に機先を制して迎撃は万端。俺はドアのノブを握って小さな急襲者を待ち受けた。  
 
 
 古ぼけた木造校舎の廊下を一人歩む。  
 昼休みはまだ始まったばかりで全校生徒一斉にランチタイムに突入していた。教室と食堂に人口密度が集中して、窓から見下ろすグラウンドの人影は疎らで水を打ったように静まり返っている。  
 購買で今頃繰り広げられているであろう争奪戦の阿鼻叫喚も、昼休みの校内放送もここまでは届かず、部室棟は静けさに包まれていた。  
 飽きの入った教室と時間割、代わり映えしない谷口、国木田コンビのツラ、そしてシャーペンで背中を突付いて気安く茶々を入れてくるハルヒを陰でありがたみながら、午前中の授業をつつがなく終えた俺は弁当を持って文芸部室に向かっていた。  
 初夏にはまだ早い時期だが、窓越しの南中の陽気は強く、緊張のせいで熱を帯びた身体が汗ばんでいる。首筋と襟の隙間に指を突っ込んで少しタイを緩めた。  
 これほど張り詰めた気持ちで部室に向かったことなんてかつてあっただろうか。そう思うのも無理はない。  
 俺が今から打ち明けることは、事情を知らない人間にとっちゃ頭に芥子の花でも咲き乱れてるんじゃないかと疑われて然るべきの内容なんだからな。  
 表裏一体で競合する二つの世界を統べる神々はどちらも女子高生で、放っておくと数日足らずで共倒れに崩壊してしまうんです――――。  
 現状を究極に噛み砕いてやればこんな内容になる。  
 あの長門が言うなればこそ信じることができたが、その強烈な度が入った色眼鏡を外せば、こんな与太話、誰がまともに取り合うだろうか。紙芝居で語っても幼稚園児ですら相手にしてくれなさそうな気がするぜ。  
 気が重いな。  
 超常現象に免疫のあるSOS団の身内相手でも、いきなりこんな話を持っていくのは気が引ける。  
 さんざん熱く真剣に語ったあとに、思いっきり冷めた視線を一身に浴びた日にはもう立ち直れそうにない。  
 特にあの慢性愛想笑い野郎から表情が消えたりしたら、なんて想像するだけで薄ら寒くなるね。朝比奈さんの引きつりまくった苦笑よりもクるものがある。  
 不安を抱えたままとろとろと歩みを進めて、とうとう部室の前まできてしまった。  
 もはや内容そのものはどうにもならん。俺ができることは上手にプレゼンすることだけだ。  
 大きく一回深呼吸。弱気を追い出して腹に力を呼び込んで俺はドアを開けた。  
 
「あ、キョンくん」  
 
 まず俺を迎えてくれたのは、鼓膜を沁み渡す愛らしいエンジェルハニーボイス。  
 お盆に急須と湯のみを乗せて今まさに給仕中といった様だ。昼休みでさすがにメイド姿ではなかったが、制服にエプロンというのもこれはまた違うベクトルで熱いものが感じられる。  
 軽い会釈で応えると朝比奈さん(小)は微笑んで、「ちょっと待ってくださいね」と、パタパタと上履きを鳴らしてお茶汲みに戻った。  
 部室の中央に置かれた長机には古泉がすでにスタンバっており、器用にもポーズを作ってくつろいでいる。  
 何度繰り返したかも分からないありふれた日常の光景に触れて、少しこみ上げてくるものがあった。  
 一日そこそこ空いただけなのにな。  
 こうやって二人と顔を合わせて、改めて向こうの世界とこっちの世界の違いが感じられた。人間が纏っている雰囲気や印象ってのは相手との距離感で決まるんだな。  
 
 入り口で揃ったままになっていた足を進めて、指定席となっている古泉の対面に腰を下ろした。  
 
「お待ちしてましたよ。あなたが一同を呼び出すなんて稀有なこともあるものですね」  
 
 本当に待ちきれなかったのか向き直るやいなや、しかしあくまでも穏やかな調子で古泉が語りかけてきた。  
 今回ばかりはいつもと逆になっちまったな。それだけのっぴきならない事情があるってことなんだよ。  
 
「聞くところによれば長門さんが学校を休んでるそうです。あなたの呼び出し、そして長門さんの欠席、意味深過ぎてなにやら話を聞くのが怖くすらありますね」  
 
 いい勘してるよ、と皮肉でもなんでもなく褒めてやる。  
 まったく殊勝な心がけだね。そうだよ、俺がこうやって駆けずり回らなきゃならんときは決まって厄介ごとに首を突っ込まされてるときだ。碌なことがあった試しがない。  
 
「ハイ、お茶ですよ。今日は有機栽培の茶葉を使ってみたの。健康にいいんだって」  
 
 ありがとうございます。  
 この若さで健康ブームに興味はないが、朝比奈さん(小)はきっと俺の心身を労ってこの銘柄をチョイスしてくれたに違いない。  
 手前勝手に感動しつつ熱い緑茶を啜る。緊張で乾いた喉が潤って心底落ち着けた。  
 さて、どこから話そうか。切り出しどころを探っていると、  
 
「あ、あのっ」  
 
 意外にも隣から先制がかかった。  
 どうしました?  
 
「わたしには連絡が来ています。その、上の人から今日の朝に突然伝言をもらって、キョンくんの身の回りにあったことを知りました。だからあたしに気を遣わないで話して」  
 
 どういう手段で連絡をとったのか定かではないが、俺の記憶が転送できたくらいだ。応用で伝言ができてもなんら不思議ではない。  
 朝比奈さん(大)が俺を送り出す前にテストをやっていたが、もしかしてそのときに仕込んでくれたんだろうか。なにはともあれ……できる御仁だ。   
 ともかく助かった。  
 同じ電波スレスレの妄言じみた経過を無から説き伏せるにしても、単独と証人付きじゃ説得力に雲泥の差が出るからな。  
 一人じゃ熱く語れば語るほどどつぼにハマること請け合いだけに、このフォローはかなりありがたい。  
 
「おやおや、どうやら知らないのは僕だけということですか。本来いち早く異変に気づくのが僕の領分だと自負していたんですがね。察知できず情報を取り遅れていたなんて恥ずかしい限りです」  
 
 いつも無駄に爽やかに緩んでいる古泉の口許が締まっていた。  
 本気で自分を責めているとしたらお門違いだぜ。今回の件はお前の力を越えたところで起こったことなんだ。  
 お前には知恵を貸して欲しいと思ってる。  
   
「どうやら想像してたよりもずっと深刻な事態のようですね。心して伺いましょうか」  
 
 座り直して古泉が向き直る。神妙な顔つきで見守られた空気を割って俺は切り出した。  
 
 
 朝比奈さん(小)を前に、朝比奈さん(大)の存在を語るわけにはいかず、『上司と名乗る人』とぼかして説明する手間があったものの、内容そのものの説明には支障を来たさず、弁当に手をつけずに昼休みの半分以上を使って一通り話し終えた。  
 そして、場に残ったのは沈黙。  
 
「…………」  
 
 古泉は誰とも視線を合わせず、何もない机を凝視したまま考え込んでいる。  
 口達者で頭の回転もそこそこのこいつがノーリアクションとは珍しい。  
 
 逆を言えば古泉をも黙らせるほどのインパクトがあったと考えるべきなんだろうな。  
 
「少し確認させてください。一回で聞き分けるのが信条なんですがね。どうも動揺してるせいか理解がまとまらない。あなたの話は一連の物語としては把握しました。直面している問題について要点を絞ってもう一回だけ」  
 
 一回と言わず、お前の理解が進むのなら何度だって繰り返すのは厭わん。  
 事象を平易に表現するためにあくまでもイメージで話すと一言断って、古泉は整理にとりかかった。  
 
「昨夜未明に僕たちが居る『ここ』とは違うもう一つの世界が創造された。仕掛け人はあなたの旧友である佐々木さん。ただし、周防さん一派が関与して現象をコントロールしている可能性が高い。  
長門さんの見立てでは二つの世界は相互干渉があって、数日以内で滅亡を迎える。どういうわけかあなたは新しい世界に迷い込む羽目になってしまったが、  
事情を知る長門さんと朝比奈さんの上司の助力を仰いで戻ってきた。世界の在り様を元に戻すために」  
 
 古泉は独り言のようながら、俺と朝比奈さん(小)の目を交互に見据えて指で拍子をとって一つずつ確認をとる。  
 そこまでは正にその通り。  
 干渉云々の細かい理論は説明できないがな。俺や佐々木の取り巻きの記憶が引き継がれたことが影響してるらしいが詳細は伏せる。中途半端な情報は混乱を招くだけだ。  
 
「……素朴な疑問があるのですが」  
 
 何だ?  
 
「時間移動が可能であるのなら、昨夜未明まで遡行して未然に防いでしまえばいいのではないですか?」  
 
「どういうわけか今日以前の時間平面がロックされているんです。だから目的のポイントに飛ぶことができません。キョンくんの話から考えて、九曜さんがブロックしてるんだと思います」  
 
 専門分野とばかりに朝比奈さん(小)が答えてくれた。  
 そう言うわけだ。まぁ、誰だってそこに目をつけるよな。俺だってすぐに思いついたくらいだから、裏を返せば盲点にもならんってことさ。でなきゃ、こんなややこしい真似してないぜ。  
 なるほどと軽く相槌を打って、古泉は横道に逸れた話を元に戻した。  
 
「長門さんが提案した解決策は二世界間で情報フレアなるものを相殺させることでしたよね。そのためにはタイミングを合わせて閉鎖空間を同時展開させる……」  
 
 そうだ。さっき俺が長門の受け売りで伝えたことそのままだな。  
 古泉は眉間を狭めて再び考え込んだ。  
 心境は痛いほどに分かる。この表現では抽象的すぎて何をどうしたらいいのかが見えてこない。  
 俺だって向こうで長門に何度も具体的な指示を仰ごうとしたさ。だがどうやってもこれ以上の言葉を引き出せなかった。  
 長門は理解しながらも的確に表現することができないと言った風で要領を得ず……、最後には、  
 
「元座標の古泉一樹に尋ねるのが適当」  
 
 と、目の前のインチキハンサムに回答を委ねたのである。  
 なぜお前に白羽の矢が立ったのか分からんが、実際に聞いてみてどうだ?  
 
 俺にはハルヒと佐々木を不機嫌にさせて、故意に閉鎖空間を誘発させるという文脈しか読み取れなかった。  
 
「その方針で合ってると思いますよ。いかにも僕の寿命が縮まりそうな提案はいかがなものかと思いますがね。まぁ、それはさておき……」  
 
 苦笑をしまいこんで真剣に思考に耽る。表情は苦悩に満ちているが、その様は少し楽しんでいるかのように見えるのは気のせいじゃないだろう。根っからの推理好きのようだからな。  
 
「……相殺という言葉にヒントが隠されてる気がしてなりませんね。つまり……、涼宮さんと佐々木さんの世界改変パワーを打ち消すってことでしょう。そうするからにはお二方の力のベクトルは真逆でなければならない、そうなれば――、そういうことか」  
 
 閃いたように古泉は細い瞳を瞠って手を打った。  
 もう解けたってのか? お前の類推を重ねる能力には今回ばかりは敬意を表するぜ。  
 長門がここまで的確に古泉の能力を測れていたのも驚愕もんだ。  
 朝比奈さん(小)と同時に固唾を呑んで続きを聞き入る。  
 
「よく考えてください。あなたは向こうの世界で佐々木さんと恋仲であると言いました。そして僕たちの居る世界では涼宮さんは…………、あなたに強い関心を抱いている」  
 
 古泉はシニカルに唇を歪めて見せた。余裕が出てきた途端に急に憎さが有り余る。  
 一体その溜めの言外に何を言いたいのか知らんが、俺の表情をいちいち窺わなくてもいい。  
 
「いえいえ言葉は慎重に選ぶべきです。少なくともこの表現に誤りはないでしょう? いいですか? 人物相関を比べてみてください。逆になってるんですよ。涼宮さんと佐々木さんの配置がね」  
 
 確かにそうだな。ここじゃ佐々木は中学時代の旧友でハルヒと知り合ったのは高校入学以降だが、この関係が向こうじゃ逆になっている。  
 だがこれがどうした?  
 
「まだ気づきませんか? 関係というものは相対的なものです。ある人物を軸にしてこの関係は成り立ってるんですよ。それが誰かなどは……、愚問の他なんでもない」  
 
 そう言い放って古泉は肘をつくのをやめて、パイプ椅子の背もたれに背中を深く預けて身体の力を抜く。  
 顔面には平素と変わらないどこまでもノリの軽そうな笑みが貼り付いていた。  
 ……さすがの俺もここまで言われればピンの一つや二つは来る。  
 頭が痛い。つーか、さんざん深読みして考えていた俺がばかみたいだ。  
 待て古泉、これ以上は蛇足だ。  
 放っておくととんでもなくしょうもないことを言い出しそうな雰囲気がお前からプンプンしやがる。  
 
「双方のベクトルはあなたを軸として対称でなければならない――、長門さんが言い淀んだのも分かります。これは非常に表現が難しい。しかし幸運なことに僕はあなたに冠するに相応しい称号を思いついてしまいました」  
 
 俺の牽制など何処吹く風、ニヤケ面のおしゃべりは首を振るだけで止まらない。  
   
「つまり――、」  
 
 いい。言わんでいい。  
 
「――二元女誑し」  
 
 片目を瞑ってこれ見よがしに言いやがった。お前、間接的に自虐ネタだって分かってやってるんだろうな? だったらいい根性してるよ。  
 
 傍らで全く分かった様子もなく口許に手を当てて首を傾げまくってる朝比奈さん(小)だけが救いだな。癒される。  
 食べそびれた弁当をそのおしゃべりのすぎる口にねじこんでやろうかという衝動を朝比奈さん(小)に免じて抑え込んでいると、「それはそうと……」などと、急に改まる。  
 
「あなたにお願いごとがあります」  
 
 まだ言い足りないのか? と更なる揶揄の予感に身構えるが、俺の見当は外れることになる。  
 会話を取り違えたような頓珍漢な提案を対面のさわかやもどきは真顔で切り出した。  
 
//////////  
σ‐2  
 
 まるで意識をミキサーで掻き混ぜられているかのような酷い眩暈がした。通常の時間を移動に伴うそれと比べて五割り増しで強烈だぜ。座標系を越えるという重い関税が乗っかってるってことなんだろう。  
 ピークには脳髄を突き抜けるような吐き気を覚えたが、腹筋を引き締めて耐えぬいた。一刻も早い収束を願いながら歯を食いしばる。  
   
 ――。  
 ――――。  
 ――――――――。  
 
 揺らぎが治まって目を開けると、手の中に柔らかいものがあるのに気づき、次いで芳しいリンスの香りが鼻先を掠めて、俺は朝比奈さん(大)の手を握って向かい合ってることを自覚した。  
 反射的に飛び退くが、すぐに後悔する。  
 ……なんてもったいないことを。  
 
「うふふ。……どうでした? うまくいった?」  
 
 愛でるような柔らかい笑顔に、心拍数がうなぎ上る。  
 まともに返事もできず、ばかみたいにただ首肯し、「よかったぁ」と安堵する朝比奈さん(大)を見届けて、ようやく状況が把握できてきた。  
 ……場所は同じだ。マンションのリビング。  
 だけど、周囲の人物が入れ替わっている。  
 一分前まで長門と古泉に見守られる中、朝比奈さん(小)の手を握っていた。しかし、今、古泉の姿はなく、俺の目の前に居るのは朝比奈さん(大)。  
 環境の急転は心臓に悪いが、とにかく無事往復を果たしたってわけだ。  
 勇んで成果報告を告げようとするが――――、一転、孤影悄然と立つ朝比奈(大)さんのばつの悪そうな視線に肩透かしを食らう。  
 朝比奈さん(大)が何を切り出そうとしてるのかが読めず戸惑った。  
 やれやれ、……とりあえず間違っても愛の告白じゃなさそうだ。  
 
 
 適当に入ったカフェでスペシャルとは名ばかりの安っぽいブレンドを口にした。  
 苦味が身体に染み渡るように広がっていく。時空を駆けずりまわって心身ともにくたびれてるな。  
 元の世界で古泉の無茶な要求と折り合いをつけるのにも骨が折れたが、…………やっぱ、あれだな、戻ってくるなり聞かされた朝比奈さん(大)のサプライズが一番でかいダメージだ。  
 問題の激白についてここで愚痴の一つも言いたいところだが、どうせ奴らが来てから篤とプレゼンせねばならんのだ。二度唱えることもあるまい。  
 とにかく、見渡す先には九月の海に漂うくらげ並の密度で無茶が溢れかえってやがる。それを思うだけでうんざりできた。  
 ソファに身体を深くあずけて、テーブルの下で足を投げ出す。  
 正直休んでる暇はないんだがね。待ち時間は有効に使おうじゃないか。  
 時空をいったりきたりで、場所も時間の感覚もおかしくなって頭がボーっとする。  
 窓の外、夜の闇を切って行き交う自動車をぼんやりと見て過した。  
 そのまましばらく心身を弛緩させて、くつろぎが全身くまなく行き渡った頃合いに、光陽園の制服に身を包んだ女子が一人姿を現した。  
 
「よぉ。そっちの首尾はどうだった?」  
 
 随分息せき切っているがどうした? 確かに呼び出したのは俺だが早く来いとは言ってないぞ。  
 
「あなたってば、本当に非道い人ねっ。勝手に全部押し付けてエスケープしといて、そのしれっとした態度は何? 吹けもしないクラリネットを携えながら、長い部活の時間を乾いた笑みを浮かべてなんとかやり過ごすのに、あたしがどれだけ神経をすり減らしたかお分かり?」  
 
 肩を怒らせて唇をかみ締めて俺をねめつけてくる橘。  
 
 ぷんすかっ、という擬音が聞こえてきそうだな。  
 行き場のない怒りをぶつけるために息巻いて来たのは分かった。とりあえず少し落ち着いて座れ。後ろで控えてるウェイターのお姉さんが困ってるだろうが。  
 いきり立つ小娘をラテとナポリタンで宥めつかせて、何とか席に着かせる。  
 苦笑交じりの営業スマイルでオーダーを取ったウェイターを見送って、  
 
「すまなかったな」  
 
 一言だけ謝っておいた。部活での惨状は画を浮かべるだけで気の毒さが伝わってくる。  
 
「ったく、あの同盟宣言は一体何だったんですか? あなたこそどこをほっつき歩いてたんです? 呼びつけるくらいだからさぞかし有益な情報を提供してくれるんでしょうね?」  
 
 まぁ、そんツンケンするなよ。  
 お前さんがそうやって扮してる間、俺だって奔してたんだ。話すネタは山ほどあるが、……そうだな、まずは結論から行こうか。  
 
「元の世界に戻ってSOS団の連中と会ってきた」  
 
 さすがにインパクトは十分。口を半開かせて、瞬きを何度も繰り返しながら橘は押し黙った。  
 
 
「……今の話、本当なのですか?」  
 
 こっちの世界を離れて元の世界でやってきたことをかいつまんで話し終えると、ツインテール娘はヒネりのない合いの手を返してきた。  
 妄想を語って聞かせる趣味はない。だが、信じられないという心境は分かってやらんでもない。口八丁で何一つ証拠を見せてないんだしな。  
 
「でも、そんな冗談みたいな話って……。要はこっちの世界で佐々木さんをフッて、元の世界で涼宮さんをフるってことなんでしょ?」  
 
 間違ってはないが、そのフるという表現はどうにも受け入れがたいね。それ以前に付き合ってる自覚がないんだからな。  
 それに、元の世界で宇宙人、未来人、超能力者に一般人を交えて協議して定めた方針は、別れ話をするというよりはどっちかというと、妬かせるというか、やきもきさせて動揺させるといったニュアンスが近い。  
 そのために俺は恋人以外の女子も口説くような気の多いプレイボーイを演じなければならない。……極めて不得手な演目だ。心得は谷口かと思うとさらにやる気が萎える。  
 「漫画みたいな話ね」と、橘は付け加えた。  
 まったくもって同感だ。全宇宙を救う手立てがこんな俗っぽい話でいいのか疑いたくなる。  
 だが、今さっき長門から聞いた最新予測じゃカタストロフの日時は五月二十七日午前一時二分。残り丸々三日しかない。  
 それはすなわち、最早やるしかないってことと同義だろう。  
 お前を呼び出したのは他でもない。  
 同盟を継続するか破棄するかの選択を問うためだ、  
   
「うーん……、気になることが二つあります」  
 
 ……なんだ?  
 
「一つ目は、証拠を見せて欲しいということ。何か物を持ってくることは無理だってことは分かるのです。だけど、あたしをトランスポートさせて元の世界を見せることは可能でしょ?」  
 
 悪いがそいつは無理な注文だ。  
 どうしてと身を乗り出す橘に長門から聞いた話を遺憾ながらに説く。  
 
 聞いての通り時空移動の際、俺の意識と記憶は二世界間で同期がとられている。主観を合わせるために長門も俺と同じ時間感覚となるように同期をとっている。  
 長門は二世界を観測することに手一杯で、これ以上同期をとる対象を増やせない。  
 文句を言うなら九曜に言え、あいつが妨害してるせいで余計な負荷がかかってんだからな。  
 橘は唇を尖らせて悔しそうに呻吟する。  
 実を言うとリスクの問題以前に不可の理由があるんだが――、まぁ後で面子が揃ってからまとめてって形でいいか。  
 ともあれ。  
 お前には無理を承知で信じてもらうしかない。口先だけでこんな巫山戯たような話を分かってもらうなんて虫が良すぎることは重々承知だ。  
 橘は首肯も返事もせずに、視線を落として思いつめたまま俺の言葉を見送った。  
 イエスともノーともつかない、そんな態度だね。  
 沈黙を消化し、気を取り直して橘は再び口を開く。  
 
「二つ目。佐々木さんを動揺させて閉鎖空間を誘発させるなんて言ってたけど、認識が違ってるんじゃないですか? 佐々木さんの閉鎖空間は常時展開されているのです。  
四年前から佐々木さんの意識はぶれることなく安定してるのよ。ご招待して差し上げたはずです。あの平穏無事の世界をお忘れ?」  
 
「矛盾したことを言ってるのに気づいていないのか? ここではもうその論理は通用しない。佐々木がもう一つの世界を創ったのは疑いようもない事実なんだぜ。これからは何が起こるか分からないと構えといたほうがいい」  
 
 客観的な事実を述べただけのつもりだったが、いたく気に入らないらしく橘は顔をしかめた。  
 
「そんなことないのです。今日の部活が少し特別だったことを知ってましたか? みんなで音を合わせてみようって前々から決めていた日なのです。にもかかわらず、あなたも藤原さんも勝手に帰って約束を反故にした。  
こんなの普通なら怒って当然のシチュエーションじゃない。でも、佐々木さんは『キョンは一体どこへ行ったんだろうね?』と呟いたくらいで、不機嫌な態度なんて億尾にも出しませんでした。  
内面世界にだって少しも不穏な気配は感じられなかったし、変わらず佐々木さんの精神状態が安定してる証拠よ」  
 
 佐々木さんに失礼です、と言わんばかりに、弁護をまくしたてる橘。  
 そうだな、確かに決め付けの部分がある。その非は認めよう。  
 しかし佐々木の閉鎖空間の性質は見極めておく必要がある。  
 一つ提案がある。実験をしてみないか?  
 
「……実験、ですって?」  
 
 しかめた顔を崩して、予期しない展開に驚く橘。  
 そうだ。佐々木がこぼしたその一言を突付いてみようじゃないか。  
 お前は今その答えを知ってるわけだろ?  
 確認した事実を包み隠さずメールで送ってみてくれ。  
 
「……いいですよ。『北高の女子の家までお見舞いに行ってたみたいです』って送っていい?」  
 
 俺が縦に首を振ると同時に橘はフリップを開いてメールを打ち始めた。どことなくどん臭さを漂わす雰囲気を払拭するような激打ちで一瞬にして送信を終える。  
 俺の認識がどうであろうと、ここでは俺と佐々木が恋人の関係にあることは不動の事実だ。  
 彼女の約束より、他の女子の見舞いを優先するのは……、人間として正しいかもしれないが、彼氏としては間違ってると言えるだろう。  
 メールに目を通した佐々木が平素の神経を保ってられるかどうかは、正直分からない。橘が主張したように俺が知ってる佐々木は決して感情的になんてならない。橘が応じたのもそう信じてやまないからだろう。  
 だが、あの昼休みの洋菓子風の胸焼けするような甘ったるい雰囲気を鑑みれば……、やってみる価値はある。  
 まぁ、すぐに読むとも限らないから少し待ちだな。  
 
 視線を上げると、もう一人の待ち人がこちらの姿を見つけてレジ脇を通って近づいてくるのが目に映った。  
 
「――どうやら面子が揃ったようだな」  
 
「え――、藤原さん!?」  
 
 俺の視線を追って振り向く橘の目の前に、藤原が立っていた。二人の登場に時間差があるのは俺がそうさせたからだ。どちらも時間通りの登場である。  
 部活帰りで橘が制服姿だったのに対して、藤原は私服を着込んでいた。茶系のスラックスにサスペンダーって、今時分の高校生のスタイルじゃないが、細身で脚が長いせいか異様なくらいに似合ってやがる。  
 機嫌は相変わらずのどんより模様で、どことなく見下したように映るのは姿勢のせいだけじゃない。  
 
「まさか応じてくれるとはね。中々に広量じゃないか」  
 
 佇んだままの未来人様を促してやると、黙ったまま橘の隣の席に腰かけた。  
 
「最初に確認させてもらおう。あのメールに虚偽は含まれていないだろうな? もしも僕を呼び出すためのハッタリであったならこの場で席を立たせてもらう」  
 
 オーダーを取りに来たウェイターを追い払おうとした藤原を制して、俺の分も合わせて二つスペシャルブレンドを頼んだ。  
 まぁ、一杯くらいは飲んでいけよ。  
 藤原が言ってるのは俺が前もって送信したメールに関することだ。橘に今しがた告げた結論をしたためておいた。  
 橘にはもったいつける余裕があったが、こいつに関しては食いつかせないと平然とブッチしそうだったからな。  
   
「安心しろ。そんな陳腐なかけ引きはやらない。時空間移動の手法は俺が説明するより、これを読んでもらった方が早いだろう」  
 
 長門の自宅で朝比奈さん(大)から預かってきたファンシーな便箋を手渡すと、抜き打ちテストの答案を嫌いな教師から受け取るかのごとく藤原は面倒くさげに四つ折を開いて、文面に目を落とした。  
 横から覗き込もうとした橘を片肘で牽制して、斜めに構えたままの奇妙な姿勢で。だが目だけは真剣に文字を追っているようだった。  
 五分くらいはたっぷりと見守っただろうか。  
 ちなみに俺は読んでいない。封をしていないので読もうと思えばできたが、あくまでも藤原宛なので覗き見るような真似はモラルに反すると思ったからだ。  
 内容が盛りだくさんなのか、何度も複読してるだけなのかは分からん。  
 藤原が顔を上げたのは、配膳されたブレンドからくゆっていた湯気が失せかけた頃だった。  
 
「……ふん、無茶なことを……」  
 
 食い入るように熟読しといて、感想はそれっぽっちかよ。  
 朝比奈さん(大)からは長門との協調による今回の変則時間移動の他に、今までの経緯も簡単に記したと聞いているが、どこまで書いてあった?  
 
「宇宙消滅の危機、それを阻止するための世界改変能力相克衝突の目論み、間もなく強制送還される朝比奈みくる自身の事情、俺に対する代役の依頼、までだ」  
 
 朝比奈さん(大)に感謝した。あの短時間でここまで的確な文章が書けるのは尊敬する。  
 
 俺が一から話しては要領を得ずに不必要に苛立たせただけだっただろうからな。  
 座標を隔てての時間往復の成功を喜んだのも束の間、ついさっき……、一時間くらい前か、朝比奈さん(大)が緊急用の脱出プログラムの自動発動で未来に強制送還されちまった。  
 時間の移動でイレギュラーが発生したときの安全装置らしい。元々無理に割り込んで来たようなものだからそれが適用されたってわけだ。  
 こいつに話があるのは他でもない、朝比奈さん(大)が帰ってしまった今、この世界でTPDDを持ってる人物は藤原しか居ない。  
 つまり、こいつをなんとしてでも説得して味方に取り込む必要があるってわけなのさ。  
 昼休みには情報不足で一度は袂を分けたが、今は事情が違う。目的も決まってるし、それに向かう手段に加えて朝比奈さん(大)の推薦状もある。融通の利かない頑固者相手でも話ができると踏んでいた。  
 
「世界を越えるにはお前のTPDDが必要なんだ。力を貸してくれないか?」  
 
 持てる限りの誠意をぶつけた俺の嘆願。だが、藤原は目を細めただけで無下に払いのけた。  
 
「こんなばかげた話を本気で信じているのか? 人形どもに良い様に使われてるだけと一度たりと疑ったことすらもないのか?」  
   
 口許を歪めて酷薄に笑う。こめかみを指でつつく仕草ほど分かり易いジェスチャーはない。  
 絶望なんてなかった。ただ、……脱力して、にわかに噴け上がってくるような滾りを感じた。  
 
「おい、俺のことをどうこう言おうが一向に構わんが、長門を侮辱するような真似は許さん。酔狂で奇策をひけらかしているわけじゃない。信頼できる仲間が本気で考えた最良策なんだ」  
 
 熱くなりすぎているのは自分でも分かっている。  
 だから暴走するような醜態だけは晒さないように、一言とともに怒気を全て解き放った。  
 さすがの藤原もこの空気は読めたのか、嘲りを引っ込めた。  
 
「――お前の方は何か進展があったのか? 近々どうこうって話をしてたがその目処は立ってるのか?」  
 
「…………」  
 
 そのだんまりは無策で答えに窮してるのか、秘策を口外したくないのかどっちだ?  
 こいつの歪んだサディスティックな性格からして後者なら無言はありそうにない。意味深な台詞の一つや二つを吐いてこちらを戸惑わせたはずだ。  
 沈黙を守ったままひたすら回答を待ってやる。  
 
「……なんとかしてるところさ。明日にはリアクションが返ってくるはずだ。それさえ来れば……」  
 
 なんとも頼りないね。あと、公言した期限が都合よく先送りになってることに気づかないとでも思ってるのか?  
 だとしたらお前の相手を見る目は間違いなく腐ってる。  
 何を試みてるのか知らんが避難信号でも発信してるんだろうかね。  
 もしそうだとしたら、そんな消極的な手法しか持ち合わせのがないくせして、よくもそれだけ居丈高に振舞えるもんだ  
 目くそ鼻くそ笑うって諺を意固地の熨し付きで送ってやりたいぜ。  
 
「……期限は後二日しかないのです。あなたの行動は尊重するわ。だけど、あなたの企てとあたし達の企ては少しも両立させることができないのかしら? 片手間でもいいのです。  
あたし達に手を貸してくれない? 助かる可能性は0.01%でも上げておきたいの。これにはあなただって賛同してくれるでしょう?」  
 
 藤原に投げかけられた橘の言葉が俺の心に波紋を落とす。  
 
 さっきは回答を見送った橘が『あたし達』と表したことのみならず、橘の言い分はあまりに正論で俺と藤原がコラボって創りあげた険悪ムードを快刀乱麻で断ち切っていた。  
 水でもぶっかけられたような気分だね。  
 加勢か反目か、二つに一つしか考えられなかった自分の頭の固さを呪う。橘の案は実に堅実で合理的と言えた。  
 だが、藤原は橘の問いに返答はせず腕組みして座り直し、  
 
「手間の問題じゃない。ポリシーの問題なんだよ」  
 
 とだけ言ってのけた。  
 現地人と共闘しないということか、それとも俺たちの話がばかばかしすぎてついていけないってことか?  
 
「無論それらを含む。だが、何よりもお前のやってることの危険性だ。情報配置座標系の変換を伴う時間平面の移動にどれだけのリスクが伴うのか分かってるのか?」  
 
 ……分かってるさ。原理は知らんが、やる前に長門からさんざん言い聞かされたからな。  
 聞いた話じゃやる度に俺を構成している情報にノイズが蓄積されるんだろ? TPDDで移動するときに発生するそれと比べて数十倍のレベルらしいな。  
 これは橘に試行を薦めなかった理由とも関係する。危ない目に遭うのは俺一人で十分だ。  
 ノイズが許容量を越えた瞬間、俺自身がどうなってしまうのか分からない。肉体を維持できずに朽ち果てるのか、自我が崩壊するのか見当もつかん。  
 怖くないのか? なんてのは愚問だぜ。それでもやってるのは、全宇宙の消滅を待つだけの状況で信頼できる仲間が導き出した唯一の策だからに他ならない。  
 
「僕は他人の危害に加担するような真似はしない。対象がいくらあんたであってもだ」  
 
 おためごかしのような発露に頭がこんがらがる。ただでさえ掴みどころのないこいつの人物像が更にぼやけてしまった。  
 
「話はここまでだ。物別れだな」  
 
 言い切らない内に藤原が席を立った。迷いのない動作で踵を返すとあっという間に去っていく。  
 呆気にとられてその姿を見送ろうとしてしまったが、ここで帰られては今までやってきたことが全て無駄になる。俺は慌てて藤原を追った。  
 一呼吸遅れて橘も付いてくる。  
 
「待て。もう少し話をさせてくれ」  
 
 早足で通路を行く藤原の手首を掴んで追いすがる。他の客の注目を浴びるが、形振りを構っている場合じゃない。  
 藤原はシャツの袖に付いた汚れを見つけたような表情をよこして、  
 
「放せ!」  
 
 と、無理やり振り解こうとする。  
 だが、こう言われるときは大抵掴んでる側だって放せない状況が相場で、もれなく今だってそうだった。  
 鋭い剣幕とは裏腹に藤原の膂力は案外弱く、労さずとも捕まえていられることができたが、ここでやりあっていても平行線は必至。長門の家に連れて行って三人体制で説得するのはどうかと、何気に橘の様子を見やった。  
 きっと、押し問答にお手上げのあいつが居る――、そんな勝手な思い込みを破り裂いて、目に飛び込んできたのは明らかに様子がおかしい橘の姿。  
 数秒前からは想像もつかないほど顔色は血の気が失せて青白く、リップが薄く引かれた唇は紫に変わり果て、虚ろな視線はどこを見据えているのか定かではなく、カタカタと小刻みに打ち震えたまま棒立ちになっていた。  
 藤原も気づいたのか、抵抗が止む。  
 どうした? 気分が悪いのか?  
 
「これって……、まさか……、やだ……、嘘よ」  
 
 意味を解せない言葉の断片が零れていた。  
 わけが分からず、ただ尋常でない様に凍りつく。だが、いよいよ立っているのもままならなくなってきた橘を支えようと、肩に触れたその時だった。  
 『何か』が高速で抜けていったような奇妙な感覚に囚われて、一瞬目を瞑る。  
 そして再び目を開けると、そこは――――、音と、生き物の気配と、色が抜け落ちた幽玄郷。  
 
 驚きを差し置いてすぐに状況がつかめた。喫茶店という前回と同じシチュエーションで連想が早かったのか、感覚的にここが佐々木の閉鎖空間であることを理解する。  
   
「あ……ぁぁ、ぁぁっ――――」  
 
 橘が狂乱のままへたり込む。自身を抱きこむような体勢で、奥歯の音が聞こえるくらいに大きく震え出した。  
 苦しんでいるというよりも、何かにひどく怯えているように見える。  
 
「おいっ、しっかりしろ」  
 
 塞ぎ込んだままの橘に、藤原は舌打ちすると、軽くその頬を張った。ろうそくも払い消せない程度にごく弱く。  
 当たりが良かったのか、乾いた音が静寂に響いて橘の身体が僅かに流れる。……震えが治まっていた。  
 
「……」  
 
 ゆっくりと動いた瞳が俺と藤原に向けられる。動揺は残っていたが、正気が宿っていた。  
 
「橘、ここは佐々木の内面空間なのか?」  
 
「……そうみたいです。でも……、でも、分からない。こんな風に自分の意思とは無関係に迷い込むことなんて今までなかったわ。それに、ここに居ると気分が……悪い。意味が分からないけれど不穏でっ、怖気がするの。何なの、一体!?」  
 
 また自失状態に陥りそうになる橘の背中をさすって落ち着かせる。  
 すっかり忘れているようだが、俺は察しがついていた。  
 何を隠そう原因はこの俺だ。  
 さっき橘に遅らせたメールを佐々木が読んだに違いない。  
 
 ズゥゥゥウゥゥ――――――ン!  
 
 烈震ともつかぬ重い地鳴りを轟かせて、主は存在を証明した。  
 とにかく外へと、居竦んだ二人の手を引いて連れ出した。そしてその負の絶景に息を呑む。  
 薄明るい光に満ちた白漆の街を覆うのは、クリーム色と濃い紅色とが最悪の気色悪さでマーブル模様に混ざった異形の空。以前、橘が誇らしげに『優しい空間』などと評した、穏やかな光に満ちた世界は見る影もなく、禍々しく変わり果てていた  
 例えるなら、濃厚4.5牛乳と静脈け……、いや、止しておこう。想像するだけで吐きそうだ。比べるならドドメ色の方がよっぽどセンスが良いと言うに留めておくことにする。  
 目も眩むような緋い斑の世界の下で、ビル郡と並ぶ圧倒的なスケールを誇ってソイツの姿を目に収める。  
 淡く赤色に光る巨人、赤い<<神人>>が我物顔で商店街の続く先、少し離れた繁華街を闊歩していた。  
 
「な……、んだ、あれは?」  
 
 リアクションからして藤原は初見のようだった。半歩後ろで呆然と<<神人>>に見入っている橘を揺さぶって言い聞かせる。  
 
「橘、分かってるだろうが、あれが古泉の言うところの<<神人>>ってやつだ。アイツが街をぶっこわしていく度に世界は壊れていく。そうなりゃ何もかもが一環の終わりだ。だが、それを防ぐ手立てが一つだけある。お前が倒すんだ」  
 
 橘の目を見ながら訴えかける。瞳にはしっかりと俺が映っていたが、その顔は呆けたままで、まるで俺の言ってることが耳に入っていないようだった。  
 煩わしい足音を響かせて<<神人>>が盛大に歩む。地鳴りはどんどん近くなり、やつが徐々に接近してきているのを悟った。  
 
「橘! 戦うんだよ。お前にはその能力が備わってるはずなんだ」  
 
「あたしが……、戦う?」  
 
 何を言ってるの? と言わんばかりに小首を傾げた橘に、俺はますます熱を上げて訴えかける。  
 
 思春期を通り過ぎてから熱弁を振るうのは柄じゃないと貫いてきたが、そんなちんけな矜持など投げ捨てて何としてでも分かってもらう必要があった。  
 
「戦うイメージをするんだ。このまま踏み潰されたいのか?」  
 
「……いいい、いやです! でもイメージしろって言われても……」  
 
「古泉は赤い玉に変身してアイツの周りを飛んで切り刻んでいた。お前も似たようなことができるに違いないんだ」  
 
「赤い玉……、飛ぶ……、切る……」  
 
 ぎゅっと目を閉じて無理やりにも集中を始めると、途端に橘の身体が淡く青く光り出した。  
 ――っ! そうだ! そのイメージでいい。  
 後はアイツを倒すイメージをするんだ。大丈夫、お前はアイツより絶対強い。自分の力を信じろ!  
 無責任で適当な台詞を並べ立てるやりきれなさを振り払って、ひたすらに能力開花寸前の超能力者を鼓舞した。  
 その甲斐あってか、ついに橘の身体が青色の球体に収束しユラユラと宙を舞った。橘はそのまま頼りない飛行のまま<<神人>>へと立ち向う。  
、  
「……大丈夫なのか?」  
 
「分からん。だがあいつに賭けるしかない」  
 
 遠目ではあるが橘の光は紅い空に良く映えて、その飛行軌跡をはっきり肉眼で追うことができた。危うい身のこなしで<<神人>>のラリアットをかいくぐり、まるで腕周りを測るようにぐるりと旋回すると、驚くほどあっけなく二の腕が切り取られて空中で分解した。  
 耳をつんざいて<<神人>>が啼く。  
 憤怒を表すように橘に狙いを定めて四肢を乱暴に繰り出す。  
 雑な動きではあったが当たればおそらく即死必至の一撃を、秋口に羽化した元気のない蚊のような動きでフラフラと避けるその様は、見ている側からすればまさに手に汗握る攻防だった。  
 背中にびっしょりと嫌な汗をかきながら俺は見守った。傍らで「よし! そこだ! いけ!」などというやけに熱の入った小声が聞こえていたが、それに気を回している余裕などない。  
 逃げに回る局面が多いものの、橘は時間をかけて<<神人>>をちくちくと削り、とうとう胴体を落として後はトドメだけというところまで漕ぎつける。  
 勝利が見えた――――、その刹那、一本向こうの通りの辺りで赤い光が集まり始めた。  
 嫌な予感は的中して、案の定、光は人の形を成して新手が暴れ始めた。  
 くそっ、なんて間の悪い。  
 逃げるために身を翻して数歩走ったが、藤原が付いてきていないのに気づいて踏みとどまる。  
   
「藤原! 逃げろっ!」  
 
 重厚長大な影に多い尽くされて、藤原は竦みあがっていた。  
 <<神人>>はそんな弱者を風穴の空いただけの目にとめて、足を振り上げた。  
 それを莫迦みたいに見上げるだけで動かない藤原。  
 
 ちくしょう!  
 
 自棄気味に大声で叫んだ呪詛で弱気を打ち消した。  
 駆け戻って危険区域である影の中に自ら身を投じる。  
 大質量が迫ってくる気配が肌を刺して身の毛が総立つ。  
 恐怖に呑まれた藤原の腕を引っ掴んで全力で引き寄せた。  
 闇の中で迫り来る死から逃れようとがむしゃらに地を蹴る。  
 最後にありったけの力を振り絞って光が差す空間へと跳んだ――――。  
 
 ズガァァァァ――――――――ンンン!  
 
 天地のひっくり返るような轟音を後ろに聞いて、紙切れのように身体が吹き飛ぶさなか、放棄してしまいそうになる意識を必死で引き留めて、視界を奪うほどに舞った砂埃に巻かれて、飛び散った小石に身を打たせるままに身を縮こまらせて耐え忍ぶ。  
 そのまま巨人のいななきを数回やり過ごして、生きてるのか死んでるのかも曖昧な時間を過ごして、再び辺りに静寂が訪れた。  
 
 五感があることに次いで、息があることを悟ると、身体が瓦礫に埋もれていることに気づいた。生き埋めになってるのかと案じたが、力を込めると動せることを測ると、慎重に押しのけて這い出すことに成功する。  
 先ず目に入ってきたのは数十センチも抉れているアスファルトの地面。見事に人の足型に窪んでいた。  
 人知を超えた破壊に背筋が寒くなる。直撃していたら問答無用でミンチと化したことだろう。  
 片目が思うように開かない。視力はあるが、瞼が腫れあがってるようだった。鏡を見ればノーメイクでお化け屋敷のバイトできそうな顔と対面できることだろう。  
 この怪我、閉鎖空間から出たら、破壊された街並みと同じくなかったことになるんだろうな?  
 歩くとわき腹がズクリと痛んだ。折れてそうではないものの、ヒビの一つや二つ入ってるかもしれない。その他身体を見回したが、異常は見られなかった。  
 服はボロボロに裂けて、あちこち打撲や擦り傷で酷い有様だが、そんなのは些細なことだ。この程度で済んだことが奇跡と言える。  
 辺りを見回して、未だ砂埃が舞い霞む中に倒れている橘の姿を見つけた。身体を引きずりつつ近づくと、しっかりと息をしていることに安堵する。  
 気を失っているみたいだが、外傷は見られない。  
 たった一人の初陣で本当によくやってくれたぜ。  
 新人賞と敢闘賞を贈呈してやりたいくらいだ。  
 まったく、今回ばかりはお前には感謝しきれないな。  
 乱れたツインテールを直して、顔に付いた埃を払ってやった。  
 小石が崩れる音を聞いて振り返ると、大きなブロックを押しのけて積もった瓦礫の中から脱出を試みている藤原に気づく。  
 重すぎて一人では押しのけられないようなので、力を貸す。せーのの掛け声で大きなセメント板をどかして、穴のように閉じた空間から引っ張りあげた。  
 気力もないのか何も口にせず、瓦礫の小山の上で藤原は力なく座り込んだままうな垂れて、顔をあげようとしない。  
 俺と同じく全身ボロボロだったが、特に大怪我はない様子だった。  
 空を見上げると、相変わらず気色の悪い色彩模様が広がっていた。だが、先刻の不気味で不穏な雰囲気はもうどこにも感じられない。<<神人>>は掃討され、新たに出現する気配もない。  
 ――――危機は去った。  
 感覚的に悟る。  
 危ない実験は終わった。思いつきでやったことがとんでもない事態を招いてしまったことを深く反省する。  
 甘く見ていたのは橘だけじゃなかったな。  
 三人とも無事だったのは良いが、今後も乗り切れる保証などは何もない。今回はただ運が良かっただけと言えるだろう。  
 機関が存在しないこの世界では、<<神人>>と戦えるのは橘一人だけだ。今回は二体だけの出現だったから良かったものの、これが倍にもなろうものならもうお手上げとなる。  
 加えて事象を統べる佐々木の精神はお世辞にも安定しているとは言えないのも重篤な不安要素に数えられる。少しの揺さぶりで世界が容易に傾く危険性を孕んでいるってことだからな。  
 今居る世界が実に不安定で危険極まりないことを改めて思い知ったぜ。  
 やはり、一刻も早く事態を収束させる必要がある。藤原だって文字通り痛いほど分かったはずだ。  
 俺は思いを新たに、座したままピクリとも動こうとしない藤原に頭上から問いかけた。  
 
「藤原、……協力してくれないか?」  
 
 これで袖にされるようならこいつを説く術なんてない。  
 極限の状況で全てを開き直って、全てを尽くして、全てを賭けた俺の嘆願に、意固地な未来人が重い口を開いて吐露したのは――――、  
 
「……ああ」  
 
 終ぞの肯定。  
 
 悪夢のような緋斑の空が南北を走るように割れて、その狭間から神々しい光が差し込んでくる。天から巨大なカーテンが覗いているような錯覚がした。  
 光を感じたのか藤原が顔を上げる。その横顔は憑き物が落ちたかのように無垢で、幼げにさえ見えた。  
 天空の亀裂はみるみる間に放射状に広がり、まばゆい光条が閉鎖空間を塗りつぶしていく。  
 堆く積もった街の残骸の上で、二人して明けを待った。  
 
//////////  
η‐2  
 
「そうですか。それは良かった。気難しそうな彼を味方に引き込むなんて、あなたの人徳が成せる業だと思いますよ」  
 
 五月二十五日、二時限目の休み時間。  
 物置と化している校舎最上階の踊り場で、組み立て式のパイプ椅子に腰かけて、古泉が例の如くにこやかを振りまいていた。  
 採光窓があるが、曇天のせいで日中にも関わらず部屋の中は薄暗い。蛍光灯は備え付けられていたが、人払いのために点灯を控えていた。  
 陰気な空間でこいつと密談なんて勘弁願いたいが、そうも言ってられない。  
 今日の明日には全ての決着をつけなければならず、そのシナリオはこいつが書いてるときたもんだ。細やかな連絡は必須だと言うわけさ。  
 
「人徳も何もあるもんか。都合よく佐々木の閉鎖空間が発生したのは偶然でしかなかったし、今際をうっちゃった直後の放心に付け込んで納得させたようなもんだからな」  
 
「そういった運や巡り合わせ含めての話ですよ」  
 
 企業家の好青年のような涼しげな物腰で俺の反論を逸らす。  
 どこまでも口のうまいやつだった。  
 今日ばかりは少しはヘコんでるんじゃないかと見込んでたんだがね。  
 昨日の放課後、長門の部屋であれだけやらかしたんだ。ハルヒが黙ってるはずがなかっただろうからな。  
 
「ええ、久々に機関総出のスクランブル体制で応戦しましたよ。おかげで昨夜は半徹です。しかし、これも作戦の内だと思えば厭いません」  
 
 俺が言ってるのは、ここで昨日古泉から打診を受けた『お願い』のことだ。  
 見舞いの場で必要以上に長門を気遣って優しく接しろ、という難題を吹っかけられて、かなり無茶をやった。  
 思い出すのも憚られるぜ。長門には事情を分かってもらっていたが、それでもあんなにベタベタ触るのは紳士として忸怩たるものがある。  
 額同士を合わせて熱を測ったり、カレー粥を掬って口に運んでやったり、抱きかかえてリビングと寝床を移動させてやったり、介護という名の狼藉を尽くした……。事由があるとはいえ軽く自己嫌悪だ。  
   
「な、なな、なんてことしてんのよ! このエロキョン! 飢えてるからって弱ってる女の子につけ込むなんてサイテー!」  
 
 甲高い罵声が今でも耳のどこかでしつこく反響してやがる。  
 ハルヒは頭から湯気が出そうな剣幕で俺たちの接触を全力で妨害していた。  
 対する長門はまるで気にかける様子もなく、されるがまま、むしろどちらかといえばノリ良く受けていたように見えたが、どうやらそれがまた余計にあいつに火を点けちまったみたいだな。  
 
「布石というやつですよ。今回のような短期の決戦には特に必須です。最後に仕掛けるタイミングでそれなりにテンションがあがっていないと、不発に終わる可能性がありますからね」  
 
「俺に対する猜疑心を植えつけておくということか」  
 
「まさしく。昨日の一件はその第一段階です。ところで――、同窓会の幹事の件、動いていただけましたか?」  
 
 ああ、佐々木に電話したさ。さすがに面食らっていたが了承してもらえた。お前の予想に違わず頼まずともダブル幹事で仕切ることになった。  
 古泉はさも満足そうに肯く。やれやれ、まったく人使いの荒い参謀殿だ。  
 なんでも佐々木との接点を作るために同窓会を開け、ということだったが、電話したのは昨日の木曜日、で同窓会が開かれるのが明日の土曜日。こんな思いつきの同窓会なんてそうはないだろう。  
 いくら人を集めるのが本意ではないと言っても無茶すぎる。  
 それでも暇人はいるもんで国木田と中河は即答で出席、佐々木の方にも何人か女子から良い返事をもらえているらしい。  
 十人足らずだがそれなりに形になりそうだった。  
 

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