九曜は……、すでに居ない。いつの前に姿を消したんだ? あれだけの体積のある黒山が動けば目に付きそうなもんだがね。相変わらずの幽霊みたいなやつだ  
 
「さてと……、予想はしてたが見事に割れたな」  
 
「キョンさん」  
 
 目の前に残ったのは不安げに佇む橘京子だけ。視線が「これからどうしよう?」と雄弁に語っていた。  
 こうやってよくよく見りゃ意外にも光陽園の制服が似合ってるじゃないか。馬子にも衣装かね。  
   
「とりあえず、あいつらに会うしかないだろう」  
 
 
 午後の授業はサボッても問題なかったが、俺一人が早退したところでどうしようもないという事情から、律儀にも本日の全時間割を消化してしまった。  
 帰ろうとする俺を佐々木が部活動に誘ってきて少し迷ったが、適当な理由をでっちあげて帰らせてもらうことにした。  
 ライフサイクルを把握するという意味では必要にも思えたが、俺には優先して会うべき連中がいる。  
 それに音楽に関してセンスはおろか知識もゼロの俺にどうやったらまともに吹奏楽部の部員が務まるってんだ。  
 それとも設定の整合性をとるために、もしかして楽器に触れた途端自然と身体が動いて弾けちまったりするんだろうか? それはそれで薄ら寒くて勘弁願いたい。  
 というわけで、部活は橘に任せて俺は一旦帰宅していた。  
「えぇ〜!? あたし楽器なんて全然……、リコーダーしか吹けないのです」とべそをかいてた人間に、任せたという表現が的確なのかはさておき。  
 部屋に戻ってきたのは忘れた携帯を取りに帰るためだ。これがないと連絡手段が極端に狭まっちまうからな。  
 今のところ学校関連以外の物は基本的に昨日まで使ってたものが再現されている。例に漏れず携帯も塗装の禿げ方から付いた汚れまで確かに自分が昨日まで使っていた物だった  
 そういやアドレス帳はどうなってるんだ?  
 表示させると一目でおかしいことに気づく。  
 五十音順で最初にくるはずの『朝比奈みくる』がない。  
 大半は知ってる名前が並んでいたが、北高関連のデータがごっそり抜け落ちている。スクロールしていくと知らない名前もいくつか入ってやがる。  
 『古泉一樹』、『涼宮ハルヒ』も見当たらないことを確認して、諦め半分にナ行にさしかかったときだった。  
 指が止まる。  
 
 どういう……、ことだ?  
 
 無いはずの『長門有希』の名前がそこにあった。  
 凝視して見間違いを肯定しようとしたが、何度見返しても表記に誤りはない。  
 震える指先で電話番号を表示させるとそれらしい数字列が出てきやがった。長門に連絡がとれるってこと……か。  
 衝動的にコールボタンを押していた。  
 軽挙だという後悔を振り切って、筐体を耳に押し当てる。  
 呼び出している長門が『あの』長門である保証はない。だが、いつだってこういうピンチのときに現れた救世主に縋りたいという思いが俺を衝き動かしていた。  
 所詮電話だ。話が通じなきゃ間違えたと開き直ればいい。  
 呼び出し音が止む。  
 
「…………」  
 
「俺だ」  
 
「…………」  
 
「……長門か?」  
 
「……、そう」  
 
 差し当たっては、らしい応対だ。しかし本題はここから。  
 
「……これから俺が口にすることは決して冗談じゃない。だが、分かってもらえなくても当然の範疇にある突飛な話でもあるんだ。もし、俺の話が全く理解できないならその時点でブツリとやってくれていい」  
 
 弱気が当たり障りのない会話から入れと持ちかけるが、この期に及んでそれは無駄な回り道だとバッサリ切り払う。  
 
 ぐだぐだ言っても肝心の事が伝わらなければ意味がねえ。  
 窓から差し込んでくる西日を浴びながら、手に汗を握りつつ俺は単刀直入に切り込んだ。   
「お前の家で三年ほど寝かせてもらったこと、覚えているか?」  
 
 我ながら簡素にまとめることができた。聞き流してしまいそうなありふれたフレーズの中に、明らかにおかしく際立った単位が紛れ込んでいる。  
 だが当事者なら分かるはず。  
 言い終わってから回答を待つまでの時間が長い。心音が鼓膜を打つくらいに鳴り響いてやがる。貧血を起こしかけているのか、視界が徐々に狭まって眩暈に襲われた。  
 だめだ、これ以上は立っていられない。膝が折れそうになるギリギリで――――、  
 
「覚えている」  
 
 ―――俺に残された一縷の望みが繋がった。  
   
「…………」  
 
 だが、そこから続くのはひらすらの沈黙だった。  
 耳を澄ますと、微かに呼吸音と思しきノイズが聞き取れる。  
 長門が息を乱すことなんて、そうそうあることじゃない  
   
「長門? どうした?」  
 
「――――っ、あなたに経緯を説明をしたい。観念的な現象のため言語化には、……限界がある。それでもっ……」  
 
 息継ぎもままならないくらいに苦しいのか?  
 明らかに異常事態だと悟り、再度呼びかけようとしたのと同時だった。  
 ドサリと、受話器の向こうで鈍い衝撃音が響く。  
 
「長門っ! おい、どうした? ながとっ!!」  
 
 携帯を痛いくらいに耳に押し付けて叫んだが、無情にも通話は切れてしまった。  
 くそっ! 何が一体どうなってやがる!  
 せっかく繋がったと思った矢先になんだってんだ!?  
 着替えだけは済ませていたが、俺は取るものも取らずそのまま転げるように部屋を飛び出した。  
 玄関先で靴を履くのにもどかしみながら、下駄箱の上に放り投げてあるチャリの鍵を手探りで漁って家を出ると愛車に跨って地を蹴る。  
 タイヤの空気が抜けかけているせいでペダルが重いが、入れ直してる余裕なんかない。  
 なりふり構わず立ち漕ぎで駅前の分譲マンションを目指した。  
 極度の緊張と急な運動ですぐに根を上げたヤワな身体を追い込んで走破し、エントランスの脇に投げ捨てるように自転車を降りて、玄関口のテンキーに取り付いた。  
 忘れるはずもない708番。  
 しかし、押し終えてこれが無意味な行為だと気づいた。  
 長門が倒れたならインターホンに出られるわけがない。  
 ばかかと自分を罵りながら、管理人に開けてもらうために踵を返そうとすると、  
 
『誰? 立て込んでるんだから用件は手短にお願いね。新聞の勧誘なら間に合ってるわよ』  
 
 と、インターホンから飛び出してきた見当違いの声に耳を疑った。  
 もののついでに目も疑ったがモニターのデジタル表記はしっかりと708。間違いはない。  
 いや、問題はそこじゃない。少し落ち着け。  
 ……なぜお前がここに居る?  
 
 サンプリングされて変質しちゃいるが、それくらいで聞き間違うほどこいつとの付き合いは短くもなけりゃ疎でもないつもりだぜ。加えて不躾で尊大なこの物言いだ。脳内条件検索でヒットする人物はただの一人しかいない。  
 
「ハルヒか?」  
 
 万を持しての問いかけに、  
 
『…………キョン……、なの?』  
 
 期待を裏切らない応えが返ってきた。  
 
 
「おでこにシート貼りますから、ちょっとじっとしててくださいね」  
 
 寝込んで床に伏している長門に優しく聞かせるようにそう言いながら、朝比奈さんはドラッグストアのレジ袋から解熱用の湿布剤を取り出した。  
 本当は脇の下の方が効果的だが、この場でそんな指摘は無粋ってもんだろう。朝比奈さんの癒しの看護に比べれば誤差の範囲だしな。  
 ――と、思わずいつもの調子で和んでみたが、それは現実から目を背けているだけでしかない。  
 貼り終えた朝比奈さんとなんとなく目が合う。瞬時にその表情が硬くなったのが見て取れた。  
 ああ、そんな顔をされると辛いです。  
 視界の端には古泉の姿もある。相変わらずの薄っぺらい笑みを貼り付けてやがるが、それではごまかしきれていない距離感のようなものが感じられる。  
 朝比奈さんに比べればこっちはおまけに過ぎないが、それでもやっぱり堪えるね。  
 前も似たようなことがあったし、分かっちゃいるんだが内心の動揺を押し殺せない。せめて態度には出さないようにしないとな。  
 リビングの隣にある畳敷きの和室で、布団に寝ている長門を取り巻く形で俺たちは座っていた。  
 ハルヒはさっきからキッチンでなにやらガチャガチャやっている。お粥を作るとか言ってたな。長門に振舞ってやろうとするその心意気は買うが、早く戻ってこい。白々しく自己紹介を済ませたものの、とてもじゃないが間が持ちそうにないぜ。  
 沈黙が見守る中、長門に視線を移した。  
 透き通るような白い顔に朱が差している。熱に浮かされて額に汗を滲ませて目を閉じたまま横たわっている長門の呼吸は荒く、微かに口を開かせて苦しげに喘いでいる姿は見るに耐えない。  
 あの長門に限って風邪をひくなんてことは考えづらい。また何かややこしいことに巻き込まれているに想像は難くないぜ。雪山の館での出来事が思い出された。  
 詳しい事情は分からんが、体調を崩した長門は今日学校を休んだらしい。ハルヒ達はその見舞いってわけだ。電話が切れてからここにくるまでの狙ったようなタイミングで来たってことなんだろうな。  
   
「キョンー、もうすぐできるからテーブルの上拭いて」  
 
 あるはずのブランクを感じさせない馴れ馴れしい声がリビングから飛んできて腰を上げる。正に普段通りなんだが、なんだか複雑な気分だ。  
 投げて寄越された布巾で、さほど汚れているとも思えないテーブルをとりあえず言われたとおりに拭いていると、ハルヒがお膳を運んできた。  
 鼻を掠めた違和感に漫然と動かしていた手が止まる。エキゾチックで食欲をそそるこの香ばしいこの匂い。お前、まさかと茶碗の中身を覗き込み、米を浸している重湯の色を確認して絶句する。  
 
「団長特製のカレー粥よ」  
 
 紹介されずとも眉を顰めた俺のネガティブリアクションなどお構いなしで、国民的マスコットキャラであるネコ型ロボットがとっておきの道具をお披露目したように、これ見よがしにハルヒはこの奇怪なメニューの向こうで胸を張っていた。  
 
 
 米を静かに咀嚼する音だけがリビングを支配する。  
 確実にキワモノと思われたこの料理だったが、長門の嗜好にど真ん中だったらしく箸が止まらない。  
 
 カレーならなんでもいいのか?  
 なんてのはもはや問うだけ徒労だろう。冷却剤を額に貼り付けたまま無心で貪っている。  
 ハルヒが配膳するやいなや、まるで匂いに釣られたかのように目を覚ました長門は食欲に従うがままにフラつきながらもコタツの席に着き、  
 
「……いただきます」  
 
 と、人間の聴覚で聞き取れる限界の呟きをだけを残してひたすら無言で頬張っていた。  
 ……何にせよ食欲があるのは良いことだ。この際ツッコみは全て捨てて、少し元気な姿を見せてくれたことを喜ぼうじゃないか。  
 
「よく食べてよく寝るは体力回復の基本です。リビングで倒れているところを見たときはかなり心配しましたが、この分だと大丈夫そうですね」  
 
「口に合ったみたいでよかったわ。でも食べすぎはダメだからね……」  
 
「あ、長門さん。唇の端にご飯粒が付いてますよ?」  
 
 長門を微笑ましく見守る連中を見て胸が温かくなる心地がした。勝手に作られてできた世界でこんなことを思うのは無意味かもしれないが、純粋にみんなが仲良くやってることに嬉しさを覚えたのさ。  
 朝比奈さんが淹れてくれたお茶を飲みながら、ここに来てようやく少し落ち着けたそうな気がしたが、  
 
「……それにしても」  
 
 間を見計らったようにハルヒが切り出してきた。  
 
「驚いたわ。キョンと有希に交流があったなんて」  
 
 さっきも説明した話を蒸し返してきやがった。やけに素直に納得してくれたと思っていたが、単に長門の看病を優先させただけだったか。  
 
「図書館でばったり会ってカードを作ってやったんだ」  
 
 あまり突付かれるとマズイという焦りを隠して返す。  
 さっきハルヒと話して分かったことだが、俺はここに居るメンバーと初対面ではないらしい。  
 四月に互いのグループの顔合わせは済ませている。元の世界のイベントが立場を変えて再現されているようだった。  
 
「家を知ってる仲……なんだ? あんたね、まさか有希にもちょっかい出そうって考えてるんじゃないでしょうね」  
 
 あらぬ想像でハルヒの表情が一気に険しくなる。何を一人で勝手に盛り上がってるのか、釣りあがった目は結構本気で憤っているように見えた。  
 待て待て。なんでそうなる。それに『にも』ってなんだ。今までモテた試しがない俺に対する嫌味かそりゃ。  
 
「長門が持てないくらいの大量の厚モノを借りたもんだから、手伝って家まで運んでやったことがあったんだよ」  
 
 もっともそうな理由をつけてなんとか乗り切ろうとする。  
 あれこれでっちあげるのは性に合わないな。精神が擦り切れそうだ。将来間違っても弁で勝負する職業には就くまい。  
 「ふーん」と受け止めたとも受け流したともとれる曖昧なリアクションでハルヒは俺の目を真正面から見据えてきた。  
 
 嘘か真かを測ってるような視線に耐えかねて俺は話題を変える。  
 
「北高での生活はどうだ。よろしくやってるのか?」  
 
「当然! 有意義に謳歌してるわ。新入部員の勧誘も終わって一段落ってとこかしら」  
 
「そのルーキーの姿が見えないようだが……」  
 
「最近の若い子はてんでダメね。想像力が無いっていうか、面白みに欠けるっていうか、そのくせ自信だけはあるのよねえ。根拠はないくせして。十人ほど部室を訪ねてきたけど、選考で全部脱落したわ」  
 
 変わらずの傍若無人っぷりに苦笑を返してやる。必要以上に緩みそうになる頬を抑えながら。  
 無茶な選考審査を誇らしげに語るのは実にハルヒらしいと言えたが――――、少し調子が上ずっているというか、空元気が透けて見えるのは深読みしすぎか。  
 しかし、それを否定するかのごとくハルヒは一気に遠慮がちに沈んで、  
 
「キョンは……、どうなのよ? 光陽園で楽しくやってるの?」  
 
 神妙な表情で顎を引いて上目気味におずおずと伺うように返してきた。  
 なんとでも答えることができたが、尋常でないハルヒの雰囲気に気圧されて、  
 
「まぁな……」  
 
 と、相槌を打つに留まった。  
 妙な間が空いて静まり返る。再び長門が規則的に箸を進める音のみを聞く時間が過ぎた。  
   
「へ、変な噂を聞いたのよ。キョンと佐々木さんが付き合い出したって。春先に紹介してもらったときは全然そんな風には見えなかったわ。  
全然よ。よく一緒にいるだけなのに、すぐに恋愛関係と結びつけちゃう人ってどれだけ短絡思考なのかしらね。ドラマやゴシップ記事に毒されすぎなんじゃないかしら」  
 
 …………。  
 
「その方が面白いからって思ってるんでしょうけど、そういうのを下衆の勘ぐりって言うのよ。一緒に居る男女を見つけては恋愛の枠に嵌めこんで関係を画一化して見るしか能がないなんて、その発想の貧困さに同情しちゃうわ」  
 
 …………。  
 
「まったく、ふざけてるわよね。……だ、だからね。噂をされてる当人にとっては不愉快も甚だしいと他人ながらあたしは思ったのよ。佐々木さんもあんたも迷惑を被っているんじゃないかって。そういう噂を喜んで流している人間の神経を疑うわ」  
 
 …………。  
 ハルヒの発言だけが一方的に続いた。正確には俺が続かせてしまった。  
 気まずいのか早口で捲くし立てるような述懐だったが、ハルヒは随所で言葉を切って俺の返答を待つ間を作っていた。にもかかわらず、俺は何も返せなかった。  
 俺と佐々木は付き合ってる……、ことになっている。それは確かに事実ではあるが経緯を知らない俺にとっては現実感がひどく希薄で、堂々と言い張ることができなかった。  
 本当だけど本当のような気がしない、だけど嘘は容易につけない。  
 そんな困り窮まった状況だった。その結果、無言を貫くしかなかった。  
 
「ほ……、本当なの?」  
 
 否定の誘導を否定されたハルヒは、自ずとそれが真実であることを悟ると、……それから口を閉ざした。  
 カチャリ、と長門が箸を置いて、部屋に在った唯一の音が消える。  
 完全なる静寂が部屋を統べていた。  
 
 
「それでは失礼します」  
 
「さようなら。気をつけて帰ってね」  
 
「…………」  
 
 マンションの玄関前で三人と別れる。他人行儀ではあるが、和室で顔を合わせたときよりもほんの少しだけ和らいだ表情で朝比奈さんと古泉と挨拶を交わす。  
 だが一番俺と親交があるはずのハルヒの様子が明らかに変調をきたしていた。  
 
 挨拶にも応えず、うつむいたままアスファルトの一点をじっと見続けていたハルヒを見兼ねて声を掛ける。  
 
「ハルヒ?」  
 
「あ、……うん。……じゃあね」  
   
 こんな調子だ。  
 弾かれたように頭を上げたハルヒだったが、その表情は魂が抜け落ちたように覇気が失われていた。  
 どうしてそんな悲しい顔をする、なんてのはひどい責任転嫁だな。  
 こうなっちまった原因は火を見るよりも明らかだが――、未だ俺はどうすればいいのか分からない。どうすることもできないままだった。  
 反対方向に自転車を少しだけ走らせて振り返る。駅に向かって歩く三人の姿、とりわけ朝比奈さんに促されて去っていく小さなハルヒの背中に胸を痛めたまま、見えなくなるまで見送った。  
 あの後、長門の部屋で結局何をしゃべったのか覚えてない。当たり障りのない内容をとりとめもなく話した気がするが、具体的には話題一つ思い出せない。  
 話題の芽を作るハルヒが心ここにあらずという時点ですでに破綻していたが、俺もそんなハルヒを気に掛けていたせいかどこかそぞろで、雰囲気を壊してしまっていたな。  
 気を揉んで懸命に盛り立てようとしてくれていた朝比奈さんと古泉には申し訳ないことをしてしまった。  
 気落ちしたままペダルをノロノロと漕いで、マンションの裏手に回って小さな公園の前でチャリンコを止める。  
 時刻は六時。夕暮れ時で子供の姿もなく黄昏るにはおあつらえ向きだった。  
 ベンチに腰かけて時間をもてあます。  
 ふがいない自分が情けなくて今すぐにでも自室にこもりたかったが、先約が入っていた。  
 
「十五分後にまた来て」  
 
 帰り際に俺だけに呟いた長門の台詞が耳に残っている。  
 目の前の出来事に対処するのに苦慮してすっかり頭の片隅に追いやっていた当初の目的を思い起こす。  
 うまく立ち回れない自分がやるせない。だが、そもそも異常な世界でまともに頑張ろうとするのが間違いなのかもな。  
 精神的にやられて、目的と手段がごっちゃになりかけていたぜ。  
 ここで宜しくやるのは、あくまでも世界を元鞘にもどすためだってことを肝に銘じとかないと。  
 少し早いがそろそろいくかと腰を上げたときだった。  
 堅い足音を地面に打たせて、夕日に伸びた長い影がゆっくり近づいてくるのに気づいた。  
 
「こんにちは。久しぶり」  
 
 どこかで聞き覚えのある麗しい声に振り返ると――、栗色の柔らかそうなセミロングを踊らせた妙齢の女性が一人。  
 ……まったく、今日はよく人と会う日だね。  
 朝比奈さん(大)が立っていた。  
 シンプルではあるが襟や裾に精緻な刺繍の入った純白のシャツに紺色のタイトスカートを合わせて、今日も見事に新任女教師風でいらっしゃる。  
 
「そんなに驚かないのね」  
 
 目尻を下げて少しおどけてみせた。全年齢層あまねくXY遺伝子継承者のハート直撃の愛らしい仕草だった。  
 
「公園のベンチ、と言えば朝比奈さんですから」  
 
「もう少し華やかなイメージで意識してもらいたいな」  
 
 冗談交じりにお互い表情を崩すが、それは一瞬のこと、朝比奈さん(大)の表情が翳る。  
 相当に深刻な事態なのか表情が強張っている。とっかかりを作るために俺から本題を切り出した。  
 
「昨年の暮れと同じく、また世界改変ですか?」  
 
「実はまだ現象の解明ができていません。何らかの介入があったことに違いないけれど、前と同種のものではないというのが今の見解です。分かっていることは四年前に涼宮さんが作った世界はちゃんと残っているということだけ」  
 
 元が残っているということは上書きではないということか。  
 
 二つの世界が存在しているということから、素人考えで短絡的にパラレルワールドのようなものを連想した。  
 
「もしかして、並行世界というものですか?」  
 
「わたしもそう考えました。だけど、TPDDが返してくる情報から考えて、ここは分岐派生した時間平面ではありません」  
 
 改変でもなく分岐でもないってのはどういうことだ?  
 首をひねるばかりだったが、それを目の前で申し訳なさそうに佇んでいる本人に問うのはためらわれた。  
 
「現象がよく分からないってことは今回の件はやはり既定事項じゃないんですか?」  
 
「ええ……、少なくともわたしの記憶にありません。だから無関係……、と言い切りたいところだけど、これはあくまで暫定の判断なの。よく調べてみないと分からない。  
わたしが来たのは、この微小な時空震に伴う未知のイレギュラーに関してリスク評価と現象の解明を行うためなんです」  
 
 朝比奈さん(大)の表情は真に迫っていた。  
 あくまでもポジティブなニュアンスで話をしているが、真顔でリスク評価なんて言葉が出てくるあたり、なんらかの危険性が潜んでると考えた方がいいんだろう  
 俺自身の危機管理で手一杯だったが、ここにきて血の気が失せる。  
 よほど辛気臭い表情を晒していたのか、朝比奈さん(大)は「迷い人になってるキョンくんを見過ごすこともできないしね」などと、少しおどけた様子で付け加えてくれた。  
 お心遣い、痛み入ります。  
 ここでふとした疑問に突き当たる。  
 朝比奈さん(大)は窮地のときいつも俺を導いてくれたが、都合よく俺の前に現れることができたのは彼女のみ知る既定事項という名のチェックポイントに基づいてのことだ。  
 だが、今回は勝手が違う。  
 
「よく俺が元の世界の記憶を引き継いでるって分かりましたね」  
 
「――っ、すごい。鋭い質問です」  
 
 朝比奈さん(大)はただでさえ大きな眼をくりくりさせて驚くと、まるで教育番組のお姉さんのように優しく解説してくれた。  
 
「情報を引き継いだ影響でキョンくんの周りの時空間が歪んでるの。そこから見当が付きました。それにいつもキョンくんはこういうトラブルの目だから」  
 
 前半の理論よりも後付けの方が妙な説得力があるのが遺憾だね。  
 しかし時空の歪みだって? なんだか危なそうな話じゃないか。まったく無自覚なのが余計に怖いぜ。それって自他共に平気なんですか?  
 
「歪みの量は微小だから許容範囲だと思います。歪み自体もしばらくしたら収束するだから大丈夫」  
 
 もしかして藤原が位相がどうのって言ってたのはこのことか?  
 
「TPDDの補助機能で探知できるの。この時間平面上で事情を知る人を探していました。その内わたしが直接つきとめたのはキョンくんと――」  
 
 言葉半ばで朝比奈さん(大)は向かって正面に聳え立つマンションを見上げる。  
 
「――長門ですか」  
 
「そうです。ばらしちゃうと、ここではTPDD の機能が制限されていて、わたし一人では何もできそうにないの。だから、協力してくれる人が必要なんです」  
 
 結局、長門頼みってことか。毎度のこと頼りっきりだな。  
 
「力不足でごめんなさい。長門さんに相談に乗ってもらうしかないと思います。あそこに住んでる長門さんがわたしの知ってる長門さんだという前提条件がありますけど」  
 
「大丈夫ですよ。今回の件について説明したいって言ってました」  
 
「良かった。やっぱり話ができる人がいると頼もしいです」  
 
 朝比奈さん(大)は胸元に手を添えて大きく息をついた。  
 
 どうしても豊満に押し上げられているバストに目が行ってしまう。  
 よくもまぁこんな状況で、と理性の呆れ声を聞いてあわてて視線を引き剥がした。  
 わざとらしく咳払いをして、  
 
「行きましょう」  
 
 歩みを促した。レディーファースト。せめてもの償いである。  
 少し面食らった様子の朝比奈さん(大)だったが、微笑んで従ってくれた。  
 伸びた彼女の影を踏まないように気をつけて、後ろに付き従って歩く。  
 しかし、まったく一体何がどうなってるのやら。  
 SOS団裏の双璧が揃ってようやく光が差し始めたのは喜ばしいが、聞きかじった限りじゃ相当に捻くれた状況に陥ってるとみえる。  
 とにかく長門の話をよく聞こうじゃないか。質、量ともに理解できる自信が持てないが、情報を仕入れないことには先に進めない。  
 脳みそにエールを送る。授業をサボリまくった分、しっかり気張れよ。  
 
 
「上がって」  
 
 一見平然と思われる無駄のない様で俺たちを迎えた長門だったが、玄関の敷居でつまずき慌てて抱きとめた。  
 今日初めて長門に触れたが、その熱っぽさに面食らう。  
 お粥を食ってるときの旺盛ぶりから少し元気が戻ったかなどと思っていたが、とんでもない楽観だったみたいだな。  
 
「大丈夫」  
 
 何が大丈夫だ。無理しやがって。  
 あくまで一人で行こうとする長門を制して、しゃがんで肩を貸した。  
 強引に連行すると長門は抵抗せず、目隠しされたヤンバルクイナのようにおとなしく身体を預けてくれた。  
 長門の身体はガラス細工のように華奢で全然負担にはならなかったが、逆に力の加減に困った。血管が透けるような肌は儚い程に白く、こうやってしおらしくされると消えてしまいそうで不安になる。  
 黒真珠のような両眼をしかと開けて、俺の横顔を見ている長門と目が合う。  
 こら、ちゃんと足元を見ろ。  
 そんな忠告も聞かず、布団に寝かしつけるまでずっと長門は俺の顔面に視線を突き刺していた。  
 朝比奈さん(大)が掛け布団を整え終えて、長門の傍に腰を下ろした。倣って俺も座る。  
 
「あの……、突然の訪問、ご迷惑じゃありませんでしたか?」  
 
「気にしていない。わたしもあなたと話がしたかった」  
 
 緊張してるのか朝比奈さん(大)は長門の台詞を聞いて一旦胸を撫で下ろし、大きく息を吸い込むと一気に本題に入った。  
 
「長門さんはどのような経緯でここに?」  
 
 正座して神妙に述べる朝比奈さん(大)を、長門は布団の中から見上げて、上がり加減の呼吸の合間を縫うように細い声で返した。  
 
「……結論だけを言語化するのは非常に困難。今回の改変のメカニズムから説明することを提言する」  
 
「どうぞ長門さんのやりやすい形で話してください。それにしても、改変……、ですか? 一体どこで……。STCデータが改ざんされた形跡はなかったはずなのに…………」  
 
「あなたの言っていることは正しい。改変実行者は時間平面への直接干渉ではなく、……定義座標を新設することで、当該時空間を成立させた。わたしは座標系の解析を敢行して二重定義を回避した」  
 
「……それって、一つの時間平面に情報を定義する座標系が二つ設定されているということですか?」  
 
「その通り、二十四日以降の時間平面が二重定義されている。……改変実行者は新座標系を定義するという今までにない形式で改変を実現させている。あくまで定義だけの問題。……ゆえに、情報の変更を監視する手法では改変の検出は不可能」  
 
「そういうことだったんだ、だからTPDDの座標が……」などと、朝比奈さん(大)が納得したように一人ごちた。  
 
 飛び交う用語はよく分からんが、これってつまり、見方を変えるという意味で二つの世界が認識されているということなのか?  
 説明に詰まった長門の代わりに朝比奈さん(大)が答えてくれる。  
 
「その理解でいいと思います。もう少し分かり易く言うと……、そうですね。ルビンの壷って知ってる? 視点を変えることでただの壷のように見えるし、人が向かい合ってるシルエットにも見える有名なだまし絵」  
 
 名前は知らなかったが、説明ですぐに分かった。いつぞやの教科書で習った覚えがある。似たようなので若い婦人と老婆の組み合わせのものもあったな。  
 
「前に時間の流れはパラパラ漫画で説明できるという話をしたと思うけど、その例で言えばページに書いてある絵が二つの見方ができて、それぞれ別のお話が書かれている……、そんな風に言い表せるんじゃないかって思います」  
 
 そんな高度なパラパラ漫画があるなら是非見たいもんだ、という皮肉めいたジョークはさておき。  
 朝比奈さん(大)の説明のお陰でかなりイメージが明瞭になった。  
 つまり情報を書き換えたのではなく、認識だけの問題ってことか。間接的な改変と称するのが適当かもしれない。  
 何が起ってるのかは分かってきたが、肝心なことを追究し忘れていることに気づく。  
 ずっと目を逸らし続けてきた真因と向き合う時はまさに今。  
 意を決して俺は訊く。  
 
「その改変実行者ってのは、一体誰なんだ?」  
 
 長門の血色の芳しくない薄い唇が親友の名を紡ぐ。  
 名字で呼び捨ててばかりいるため、馴染みの薄いフルネームは一瞬赤の他人のように聞こえたがそれはただの現実逃避。  
 心の中でなぞって確かにあいつの名前だと思い知った直後に、拒否反応を示すがごとく、心拍は不正に脈打ち、顔面の血の気が引いて視界が狭窄した。  
 
 なぜ、世界を創り変えるなんて乱心に駆り立てられた?  
 お前はいつだって毅然と論理的で俺の知る友人の誰よりも思慮深かったはずだ。  
 なぜ、俺とお前の取り巻きだけ改変せずに連れてきた?  
 自分の都合の良いように俺やあいつらの性格だって変えることができたはずだ。  
 なぜ、お前自身の性格をあんな風に変えちまったんだ?  
 俺の前だけで見せていた中性的で妙な振舞いはお前の本意でやっていたはずだ。  
 
 そして――――、  
 
 なぜ、俺とお前の関係を恋人なんてことに置き換えた?  
 俺を親友だと評したのは友人としての俺を高く買ってくれていたからのはずだ。  
 
 べき乗で襲ってくるなぜが苦しいほどに悩ましい。  
 それが佐々木の望んだことだから、と答えて退けるのは意味がない。  
 すべての疑問の深くに潜む根源的な理由を俺は欲していた。  
 
「キョンくん、大丈夫? 顔が真っ青です」  
 
 朝比奈さん(大)に揺らされて我に返る。  
 自分ではそんなにひどい顔をしてるように思えないんだがね。内心のショックが顔に出ちまってるってことか。  
 見当はついていたにもかかわらず、真実を目の当たりにして俺は相当に打ちのめされていた。  
 
「平気です。……少し、考えに耽ってただけですから」  
 
 単なる強がりであることは簡単に悟られて、朝比奈さん(大)はなおも俺のことを気遣ってそのまま少しインターバルを入れてくれた。かっこわりい……。  
 深く息を吸い込んで心を落ち着かせる。  
 ……ともあれ、圧し掛かっていた疑問は晴れた。  
 
 見苦しい姿をこれ以上見せるわけにはいかない。原因と現状が把握できた以上、対処に動かねばなるまい。  
   
「しかしまた、どうしてこんな手の込んだことをあいつはやったんだろうな」  
 
「おそらく天蓋領域、周防九曜が、……介入したと推察される。目的は改変の発覚を隠蔽するため。……情報フレアの観測を、独占することと推察される」  
 
 そういう話か。事実、朝比奈さん(大)や藤原もこの事実には気づけていなかった、いわんや機関の連中をや、だろう。  
 悔しいが先手を握られてしまっている。  
 まともに生命活動を営んでいるかも疑わしいほど存在感がないくせして、やることは抜け目なくちゃっかりとは、こいつはとんだくわせモノだ。  
 長門、お前の体調が悪いのは、もしかしてあの能面野郎がよからぬことを仕掛けてきているせいか?  
 
「……そうではない。二つの座標系を観測するために大半のリソースを投入している、そのためにパフォーマンスが低下しているだけ。同時観測は予測していたよりも大きな負荷がかかる」  
 
 少し喋りすぎたのか、長門は大きく息をついて目を閉じた。  
 それって間接的とはいえ、やっぱり九曜のせいでお前が迷惑を被っていることじゃねえか。  
 やり場のない憤りを隠せないでいたが、朝比奈さん(大)が長門の解熱シートを貼り替えたのを見て我に返る。  
 長門が身を削ってまでがんばってくれているのに、くすぶっててどうする。  
 
「長門、俺は世界を元に戻したい。原因を突き止めて、やり直せるならやり直して、こんなことをやからしたあいつを問い詰めて、分かるまで話し合いたいんだ」  
 
「賛同する……、ただし、わたし達に残された時間は長くはないかもしれない」  
 
 残された時間……だと?  
 
「新設情報定義座標は未熟で欠陥を内包している。例えばあなたのように一元的定義に失敗している情報が混在している。これらのエラーは致命的。時間の経過とともに級数的にエラーが増大していく。最終収束点は、……全宇宙を巻き込んだ崩壊」  
 
 朝比奈さん(大)がビクリと身を震わせた。  
 まさかの危惧が現実の危機に変わっちまうなんてな。なんてこった。  
 物騒すぎる話に激しい動悸を感じながら、俺はただ二人を見守ることしかできない。  
 
「それで期限は……、いつなんですか?」  
 
「目下、情報思念統合体が解析中。現在、二十七日未明と見込まれている」  
 
 朝比奈さん(大)と二人並んで絶句する。雪だるま式に積み重なっていく難題に圧し掛かられて、うな垂れる首の角度はそろそろ下限ギリギリだ。  
 そんな折、俯角から差し込んでくるような強い視線を感じた。  
 その発信源を手繰ると、揺るぎのない漆黒の虹彩に迎え入れられる。  
 打ちひしがれる俺と朝比奈さん(大)とは対照的に、長門の表情には一片の弱気も見当たらない。酷い熱に浮かされても生命力に漲って威風堂々、頼もしくすら映るぜ。  
 そんな圧倒しきりの俺を前に、長門は意を決したように緊張を僅かに宿らせた面持ちで言葉を紡ぎだす。  
 
「……わたしに提案がある」  
 
//////////  
η‐1  
 
 音の無い無重力空間を浮遊しているような感覚がした。  
 思考に靄がかかっていてまとまりがつかないが、無為に意識を漂わせるのは何にも換えがたい安らぎがある。  
 だけどこんな風に夢見心地を有り難がるのは決まってそれが終焉に近づいているときだ。  
 つい最近も似たようなことを体感したような気がする。  
 それはいつだったか――、そう考えることが呼び水になって悠長に寝ぼけている場合でないことを知る。  
 ぐんぐん意識はクリアになって、瞼の裏に光を感じると同時に顔を逸らして目を覚ました。  
 強烈な朝日のカウンターパンチをウィービングでかわす。悪いがお前さんの手の内は読めている。  
 記憶がある。  
 
 珍しく自然に目覚めた朝、光陽園の制服、同じクラスに居た佐々木、音楽室での昼食、高熱で床に伏せった長門、突如現れた朝比奈さん(大)、他人行儀でぎこちない態度のSOS団の連中、うな垂れたハルヒ、そして、――――意を決して臨んだ時間移動。  
 すべてクリアに思い出せる。  
 ベッドから飛び起きて真っ先にハンガーラックに向き合った。  
 中に掛けてある制服を引っ張り出すと――、そこにあったのは見慣れた北高のブレザー。  
 念のため内ポケットに入れてある生徒手帳の中身も検める。隅から隅までまさしく俺の正しい個人情報が踊っていた。  
 次に学習机の上に置いてある携帯を開いてアドレスをチェックする。  
 ……ある。朝比奈みくる、古泉一樹、涼宮ハルヒ、……もちろん長門有希も。携帯を所有して以来、機種変を経て俺がちびちび登録を重ねてきたデータが過不足なく揃っていた。  
 日付は変わっていない。俺の頭がどうにかなっていなければ二回目の五月二十四日だった。  
 そう、頭がどうにかなっていなければ……、だ。  
 そう考えて一抹の不安が過ぎった。  
 俺のこの記憶が夢や妄想、幻覚の類である保障がない。だが、それはすぐに裏が取れる。  
 表示させていた長門の電話番号を俺は呼び出した。  
 計ったように二回のコールで繋がる。  
 
「俺だ。おはよう」  
 
「……」  
 
「朝っぱらからすまん。寝てたか?」  
 
「起きていた」  
 
「以前お前の家で三年ほど寝かせてもらったこと、覚えているか?」  
 
「……覚えている」  
 
 淡々と会話が進むが、俺の心拍は寝起きから全開で激しく十六ビートを打っていた。おかげで頭は冴えているが、循環器系に無理させていることに間違いはない。  
 ここまでは予定調和。次の質問で全てが判る。  
   
「今の質問をお前にするのは何回目だ? あくまでお前の主観で答えてくれ」  
 
 夢で済むならそれに越したことはなかった。あんなリアルな長編フィクションを作っちまうほど自分が夢見がちだったことにショックは隠せないが、何もない平穏な毎日が在り続けるならそれ以上望むことはない。  
 だが長門が返して寄越したのは、  
 
「二回目」  
 
 俺の最後の甘えを断ち切るシビアな現実。  
 吸い込んだ息が一瞬詰まったが、いよいよ腹をくくると肺で温めた吸気をゆっくりと吐き出した  
 やれやれ、やっぱりそう来るか。  
 
「首尾は良好だ。体調はどうだ?」  
 
「……変わりはない」  
 
 抑揚が感じられない発音の端々に息遣いが感じられる。酷い高熱を患っていることが電話越しにも窺えた。忍びないな。  
 
「長門は自宅待機でいい。気休めにしかならんかもしれんが静養しててくれ。こっちでもきっとハルヒが放課後に見舞いに行くと言い出すだろうから、その時に会おう」  
 
「了解した」  
 
 電話を切る。  
 

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