『助けてドラえもん(小)の巻』  
 
 
 どんな季節にも風物詩というものはあるもので、年の瀬も差し迫るとスーパーの大根や白菜が急に高騰したり、大海から川を遡ってきたけなげな鮭のミイラが店先にぶら下がったりするわけだ。  
 コンビニにおける雑誌棚の風物詩といえば、新作よりも旧作の焼きまわし、分厚い総集編。安いのか高いのか悩ましい値段で並んぶアレだ。  
 冬休みを目前に控えた教室であるにもかかわらず、俺の後ろの席が静かなのはどうやらその恩恵であるらしい。  
 朝から授業の科目に関係なく、広辞苑のカバーをかけた謎の本を読みふけっているハルヒは、結局一度も教師から叱責を受けることなく一日を終えた。  
 
「海底や宇宙もいいけど、やっぱり恐竜よねぇ」  
 終えるはずだった……のだが、部室に向かう直前に呟いたヤツのセリフに、平穏な一日との希望的観測は、湧き上がる嫌な予感に塗りつぶされていった。  
 何を読んでいたのか想像は付いたし、大冒険にはおあつらえ向きの長期休みも間近だ。  
 しかしハルヒ。俺には蜜柑だけを頼りに、妹の妨害に耐えてコタツに篭るという極限の我慢大会を、シャミセンと競い合うという重大な予定があるからしてご遠慮願えないだろうか。  
「なに自堕落なこと言ってんのよ! SOS団に安息は要らないの」  
 どちらも嫌だが、せめて休息に置き換えてくれ。  
「それに長編ならあんた主役じゃない!」  
 ……薄々気付いていたが、お前の中での俺の位置づけを実感したよ。  
 しかし、そうすると長門の負担がまた増えそうだな。  
 そうだろう? 万能型ロボットの大任は他に思いつかないしな。  
 
 甘かったね。  
 予想の斜め上を行く発言や行動するのが我がSOS団の団長であり、予想とは別次元の結末を引き起こすのが団長を含めた女性陣だということを、このときの俺は失念していた。  
 
 
「時代はドラえもんよっ!!」  
 部室に団員が顔を揃え、お茶が全員に行き渡り、口に含んだ瞬間にこれだ。  
 俺は予測していたからいいが、朝比奈さんは器用にも液体を喉に詰まらせているし、古泉は「ごぼっともかと涼みげぼごぼん」と不思議な相槌を打っている。  
 長門は、まあいつもどおりだな。顔も上げずにハルヒから受け取った分厚い漫画に目を通している。  
「特に意味は無いけど、我がSOS団との共通点を見つけてしまったわ」  
 意味が無いなら胸のうちに留めておけ。  
 
「まずキョンはのび太。異論は無いわね? なんかアヤトリとか射的とか得意そうだし」  
 妹の相手をすることが多いんで、アヤトリは出来るがこれは黙っておこう。  
 射撃は、どうだろうな? 中学時代から今現在、平均的男子ほどモデルガン等に興味をひかれないんだが。  
「……フロイトの精神診断を引用すると」  
 長門、診断しなくていい。  
「そう……結論だけ述べると、性的な抑圧・飢餓感と武器類への憧憬は関連性は――」  
 い、いや、やめてくれ! 国木田に同じような分析を受けて、なぜか俺が女性に不自由を感じていないと決め付けられたからな。まったくあてにならん!  
 ハルヒ! 俺がのび太。それで続きはなんだって? 耳をダンボにしてないで進めてくれ。  
「え? あ、そうね。キョンがのび太で、あたしが、コホン」  
 ジャイアンか。まぁ妥当な線だな。  
「あたしが、しずかちゃんね。特に意味は無いけど」  
 ハルヒ、百戦あやうからずんば、敵と、もうひとつ知るべき事があるだろ?  
「フィーリングだから! 異論は――無いでしょおう?」  
 ロッキー山脈で仁王立ちするグリズリーみたいな気迫で睥睨すんな。  
 マウント・オーガスタスの如くびくともしない長門はともかく、朝比奈さんはうっかり天敵の前に顔をだしたプレーリードッグに転生しちまったぞ。  
「でねっ! ゆきがジャイアン! ここ一番で実力を発揮するのよ」  
 むぅ、これも予想外だが妙な説得力があるな。  
「長編では一番おいしいキャラなのよ。うれしい? ね、うれしい?」  
 本家通常版ジャイアンに言われても困るだろうが、珍しいことに長門は小さく頷いた。  
「……その判断は相応しいかもしれない。濁点を取るとウブ」  
 それはシャイやん!  
「……もしくは輝き」  
「それはシャインやん!」  
 ナイスつっこみだ、ハルヒ。  
「……そう、わたしは彼の唯一の輝ける星――」  
「はい次はみくるちゃん! 見てのとおりドラえもん!」  
「え!? なんでですかぁ! こんなにボンキュッバーンなのにャヘブゥ!」  
 ズドンと重低音を響かせて、分厚い漫画本が朝比奈さんの頭頂部に載せられている。  
 いや待て。そういう本で殴るとだな、目立った外傷無しで脳挫傷を起こすらしいぞ。完全犯罪か、長門?  
「……お茶のお代わりを頼もうとして手が滑った」  
「さすがねユキ! その理不尽さ、まさにジャイアンやん!」  
 エセ関西弁はもういい。  
「……手が滑った。信じて」  
 どこがどう滑るとそうなる?  
「……むしろ許可を」  
「ひぃ!」  
 とりあえず全員おちつけ。  
 で、どうして朝比奈さんがドラえもんなんだ? 消去法なんてつまらない理由じゃないだろうな。  
 
 程よく失念しがちなのだが、未来から来た彼女には適当な配役なのかもしれん。しかし、変態的な勘の持ち主とはいえ、ハルヒはその事実を知らないはず。  
「まあ見てなさい。いくわよ!」  
 しずかちゃんを詐称する涼宮ジャイアンハルヒは、あろうことか制服姿より見慣れた感のあるメイド装束の朝比奈さんの襟元から、うらやまけしからんことに腕を突っ込みやがった。  
「どこでもリップスティックぅ〜〜」  
 抜き出したハルヒの指に挟まれていたのは、まあ普通のリップスティック。  
 割と良くある手品で、手に隠し持ったコインを相手の耳の後ろから取り出したように見せるアレと同じ原理なんだろう。  
「なによ。ただのリップじゃないのよ。ホッカホカよ?」  
 なんですと!?  
「あ、それ、わたしのですぅ……お気に入りのリップ」  
 なんですとっ!?  
「あら? キョン、ちょっと唇カサカサじゃない。塗っとく?」  
 なんですとぉっ!? もちろんだハルヒさん! ばっちこい!  
 朝比奈さんが真っ赤になってアワアワしておられるが、大丈夫です! 判ってますって! 間接ですね! サブミッションですね! きゃっちあずきゃっちきゃんデスネ!  
 さあ、なにジト目で睨んでやがるんですかハルヒさん? さあさあ!!  
「……とまあ、このようにマヌケ面を、どこでもタコ顔に変えるアイテム、な! の! よ!」  
 そこはクチビルではなく眉間だハルヒ。  
 にしても、ただの手品じゃねえか。  
「ふん! そう考えるのは素人のアサハカさん。お隣はイササカさんよっ! よく見なさい」  
 そう言ってハルヒは俺の目の前に右手を差し出してきた。裏、表、裏、表、と交互に見せ付けてきやがる。  
 どうした? 古泉を倒せと真っ赤に燃えるのか? 輝き叫ぶのか?  
「ほら、種も仕掛けもないでしょう? そりゃあ〜」  
「ひゃうんっ!」  
 またしても掛け声と共に、まじまじと観察していた朝比奈さんの胸元へと腕を潜り込ませるハルヒ。  
 ズボッと音が聞こえるくらい勢い良く取り出したのは、  
「地球破壊制汗スプレぇ〜〜」  
 オゾン層に優しくない成分満載!! いつの時代のフロンだ!?  
 にしても芸が細かいな。リップの時にすでに朝比奈さんの谷間に仕込んでおいたのか。  
 これはハルヒの手妻を賞賛するべきか、朝比奈さんの懐の深さ(身体的な意味で)に驚嘆するべきか悩みどころだ。  
「……なお、朝比奈みくるは、その容器の形状を利用して夜な夜な別の用途に――」  
「つ、使ってませんっ!!」  
 ハルヒ、未知の物体に触れているかのように、びびって指先でつまみなおすな。  
「……まさに性感スプレー」  
 長門、『今わたしはウマイこと言った』みたいな顔を向けられても反応に困るぞ。  
「使ってませんってば! キョンく〜ん、信じてください。使ってませんよお」  
 わ、わかりましたから落ち着いてください。それとハルヒから取り返したブツを胸に挟み込んで、乳圧でムニュムニュしないでください。  
 正直たまりません。ぜひ俺の愚息にャヘブゥ! ヘブゥ!  
 ズドンズドンと重低音を響かせて視界がズレた。  
 
 誰か、俺の背後か口元に俺に良く似た半透明の物体が浮かんでないか見てくれないか?  
「はっ! ここはドコで、今はイツだ?」  
「はい次! 古泉くんは――」  
 ながすなよ。ハルヒも長門も、いつの間に俺の背後に回ったんだ。  
 あと古泉、むやみにニコニコするな。不愉快だ。  
 残りの役回りなんざ一つだろうに、うれしいのか?  
「僕ですか? いやぁ、恐縮ですね。僕が出来――」  
「スネ夫ねっ」  
「スネ夫さんですね」  
「……スネ夫」  
「スネ夫のくせに生意気だぞ」  
「――杉くん……はは、そうですか。僕がスネ夫……そうですよねハハハ」  
 すまん……言い過ぎたか? アハハウフフと小声で笑い出し、髪を撫で付けて懸命に尖らせている古泉にちょっと同情した。  
 風に当たってくるか? いや、口まで尖らせなくてもいいんだぞ。な?  
「……ボク、スネえもん」  
 いや違うから。ハルヒ、ちょっと出てくる。  
「ん? いいけどすぐ戻るのよ。大事な団活中なんだから」  
 いままでのどのへんが有意義な団活だったんだろうね?  
 ハルヒはへこんでる古泉に気付かず、「しずかちゃんってこうだったかしら?」とか抜かしながら、髪を後頭部の高い位置で結わえようとまとめていた。  
 しずかちゃんはおさげ髪だろう? それだと……いや、いい。まあいい。とてもいい。  
 ほれ、行くぞ古泉。  
「……古泉一樹。あなたはドラ焼きを買ってくるべき。あとドクターペッパー」  
 世界が凍りついたかに思われた。  
「ふえ! な、長門さん?」  
「なによ、有希。今日はノリノリじゃないっ! その理不尽さ、まさにジャイアンやん!」  
 あぁ、ジャイアンの真似なのか。何事かと思ったぜ。  
 なんか混ざってる気もするが、コンビニまで買出しと行くか。  
「いえ、悪いんですがキョン太さん、このお使いは一人用なんですフフフ」  
 誰がキョン太だ。いつまでも壊れてないで、ほら行くぞ  
 
 うつろな瞳でブツブツ呟いている古泉に肩を貸してやり、ボエ〜などと歌いだした長門の首っ玉にしがみついて「カワイイカワイイ」と頬ずりするハルヒと朝比奈さんを残し、  
俺は部室を後にした。  
 
 俺はこのとき部室から席を外すべきじゃなかった、らしい。  
 
 
「長門さん、他になにかないですかぁ?」  
「そうねっ。もっと可愛い有希を見たいわ」  
 
「……わたしの物はわたしの物」  
「ほえぇ〜。なんだかかわいいです」  
「うんうん」  
「……彼はわたしのモノ」  
「!!」  
「!! ね、ねぇ、有希? 聞き間違いかしら? いまナニか……」  
「彼はわたしのモノ」  
「!!」  
「ち、違うわよ! あいつはあた――じゃなくてっ! 台詞を間違ってるわよ有希!」  
「……わたしは彼のモノ?」  
「!?」  
「な、何されたの!? いつのまに何をされたのよ!?」  
「……思い出した。彼の物はわたしの物」  
「ほっ……」  
「そ、そうよ! なんか釈然としないけど……それで手を打つわ!」  
「……あなたに一つ質問がある」  
「はっ!」  
「今日はホントにノリノリね〜。なぁに?」  
「あなたは誰のモノ?」  
「ひっ!」  
「え、あの……有希? し、質問の意味わかんないわ……」  
「良く考えて答えるべき。以降の回答の変更は受け付けない。  
 わたしの物はわたしの物。彼のモノはわたしのモノ。では――」  
 
「――あなたは誰のモノ?」  
 
 
「なぜでしょうか。大変嫌な予感がします」  
 唐突だなスネ夫。  
 いやすまなかった。だから地面に突っ伏して落ち込まないでくれ。  
「僕が、僕が一番うまく出来杉くんをやれるんだ……だって、だって成績だって性格だって容姿だって……しかも長編では出来杉くんは空気じゃないですか」  
 力説されてもなぁ。マニアかお前?  
「さわりに出てきて、あとは本編後にうらやましがる役柄ですよ。キョン太くんが未来や過去に行ったのを聞かされるだけで僕は、ボクは……うぅ」  
 わかった。今度時間遡行の機会があったら、一応一緒に行けるか聴いてやるよ。それと、そろそろキョン太はやめろ。ぶつよ?  
「……アレですか? 都合よく別荘を所有する親戚がいたり、執事の知り合いがマズいんですか? でもしょうがないじゃないですか? ボクだって一生懸命なんですよ……あなたに甲斐性が無いから……それでも……」  
 あ、森さん――  
「アッー! 大丈夫です! 古泉一樹まだまだイけます! ですからソレだけは、ソレだけはぁあ!! 壊れ、壊れちゃいますからぁ!!」  
 ――に良く似た雲だな。今日もいい天気だ。  
 一挙動で直立不動に姿勢を整えた古泉が叫びだし、一拍おいて涙目になり、残像が残るほどの高速で左右を確認。俺たちの他に人気の無いことを確かめると、長い嘆息を漏らしてこめかみをもみほぐした。  
「いや、これは恥ずかしいところを見せてしまいました。忘れてください。えぇと、大変嫌な予感がします。なぜでしょうか?」  
 台詞を倒置して俺に聞かれても困る。お前が陰で苦労していることだけは理解したぞ。がんばれよ。  
「それは忘れてください。あなたはドラえもんの冒頭を知っていますか?」  
 
 ふむ? あの漫画は小さい頃、たまに通った小児科の待合室で読んだくらいだな。ガキっていうのは手癖が悪いらしく、巻数が飛び飛びでな。はじめから読んだ記憶は無い。  
「なるほど。それでは部室に戻りがてら説明しましょう。今日の長門さんからは、並々ならぬヤル気を感じていたもので。杞憂だといいのですが……」  
 どういうことだ? 確かにちょっと壊れ気味だったが。  
「あのロボット、ドラえもんの事ですが、主人公の未来を変えるために送り込まれたという設定なんです。本来、他の人と結婚するはずだった未来を、しずかちゃんと結ばれるように、と」  
 やはり、よく判らんな。ただキャラを当てはめて遊んでいただけだろうに。どこにマジになる理由があるのかしらん。  
 ……は! 俺はいま……妙な語尾に?  
「早くも影響がでてきましたか。ただのお遊びなら問題なかったでしょう。そして、それに興じるのが我々でなければ。  
 気付きませんでしたか? 涼宮さんがある時点でムキになっていたのを。そしてソコに反応した長門さんの存在感が徐々に増していったのを」  
 おい! それは――ハルヒがまたしても無意識に変態パワーを垂れ流し、長門がその力を流用して何かをしようとしてるってのか!?  
「……おそらく。途中で気付いた僕は話題を変えようとしたんですが……なぜかキョン太、いや失礼、あなたがイジられるのをニヤニヤ眺めることしか……」  
 スネ夫め!  
 ……悪かった。落ち込んでる場合じゃないぞ。長門のやつ、いったい何をしようってんだ。  
「クスン……グシッ。推測ですが、もし、もしもですよ? 対長編用キレイなジャイアンインターフェースが、しずかちゃんとドラえもんの心身を掌握してしまったら……」  
 どうなるんだ未来……。  
「わかりません。今はまず、部室のなかの様子を伺ってみましょう」  
 クチビルを尖らせて促してくる古泉に気押されるように、俺はドアにそっと耳をそばだてた。  
 
 
 で、さっきの会話文が盗み聞きした内容だ。彼だのあいつだの、二人称代名詞ばかりでさっぱり要領を得んな。  
「……本気で言ってるんですか?」  
 とてつもない鈍感男を見るような目で俺を見るな。ぶつぞ。お前には判ったのか?  
 これには答えず、古泉は肩をすくめ、あなたのくせに生意気です、とかなんとかブツブツ言ってやがる。聞こえてるんだよ。  
 しっかし、これはどうしたものか。部室の中は長門が完全に主導権を握ったようで、徐々にヒートアップしているご様子。  
「……この引き締まったオシリは誰のもの?」  
 静かな詰問口調に続いてスパーンスパーンと小気味いいスパンキング音が響いたかと思えば、  
「アハァーッ! ゆ、有希っ! あなたのモノよ、あなたのモノよぉー!」  
 との嬌声が洩れ聞こえ、  
「……この限度を知らないオチチは誰のもの?」  
 怨念の篭った詰問口調に続いてペチーンンペチーンンと残響音の残るスパンキング音が響いたかと思えば、  
「ハフゥーッ! な、長門さんっ! あなたのモノです、あなたのモノですぅー!」  
 との艶声が響いてくるわけで……。とてもじゃないが中に入れる雰囲気じゃない。  
 マルキ・ド・サド侯爵やレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ男爵も哄笑だっぜ。  
 などと無駄に長い名前を浮かべて逃避していたのだが、いち早く立ち直った古泉が俺の肩を揺らされて我に返った。  
 
「ここは……聴かなかったことにして、今日のところは帰りましょう。なにか対策を立てないと。  
 そうですね、涼宮さんの注意を惹けるような、それでいて害のない少女マンガ等を明日までに用意してみましょう。そちらに気を逸らすことができれば、あるいは」  
 帰宅には同意する。しかし少女マンガ……大丈夫なのか?  
 妹がミヨキチから借りたとか言い張る少女マンガには、セックスやらレイプやら、暴力、ドラッグ、スウィーツ(笑)とテンコ盛りだったぞ。母親に引き渡してやったが。  
「それは、妹さんに同情しますね。それではあなたもなにか彼女の関心を惹けるものを探してみてください」  
 投げやりに肩をすくめ、手遅れにならなければよいのですが、との不吉な台詞と共に古泉は学校をあとにした。  
 
 これが、俺の知る古泉一樹を見た最後だった。  
 
 
 予習や復習とは縁遠い俺の健やかな寝息を中断させたのは、古泉からの一本の電話だった。  
 
 どうしたんだ、こんな時間に?  
『おはようございます。ですが今はもう健全な運動部なら朝練にいそしんでるような時間ですよ』  
 不健全な団体に所属してるもんでな。それに、なぜか目がショボショボして……3の形になってそうだ。寝すぎたか? 枕に頭を乗せて三秒も耐えられなかったし、疲れてるのかもしれん。  
 で、どうしたんだ? 神人とやらなら俺がさっきまでムニャ夢の中でちぎっては投げちぎっては投げふあぁあ。  
『朝倉涼子です』  
 !! 寝言どころか息の根まで止まるわ!  
 現れたのか!? そいつが? ナイフは? 右手にナイフはぁぁあ!?  
『落ち着いてください。不可解な状況になっています。朝倉涼子と思われる人物の転校届けが昨晩提出され、我々の手が廻る前に受理されていたのですが――』  
 くそっ! 受理すんなよ。古泉、防刃ベストを用意してくれ。大至急だ。  
『――その戸籍、親御さんがカナダ人と再婚したとの事で、リョウコ・クリスチーネ・朝倉となっていました』  
 ……どうつっこめば満足だ?  
『こちらとしても、なんとも……。不可解なのはこの後です。改竄されたとおぼしき帰国記録とともに転校届け、および管理者の記憶が抹消されたらしく……』  
 なにがしたいんだ、そいつは。情報なんとか体の派閥争いでもあったのか?  
『それだけではありません。あの喜緑江美里なのですが、昨日生徒会役員会の席で、  
 「秘密にしてましたが実はハーフなんです。本名はエミリ・クリスチーネ・喜緑です」 などとほざいた後に消息を絶ちました。目下、生徒会長を主体とした計一名が血眼になって捜索中ですが現在でも消息不明です』  
 手伝ってやれよ、謎の組織。機関って奴は薄情だな。  
『いえ! 我々の機関も混乱していまして、彼女との関係の薄かった構成員から順に、記憶が、彼女? 11月26日? 5枚? なんのことです? 神っ!? あなたが神かっ!』  
 しっかりしろ! 古泉一樹!! 夢見るエスパー少年!!  
『はっ!! 大丈夫です、失礼しました。ですが僕もいつまでもつか……この事態のキーとなるのは―ザッ―さんです。少なくとも―ザザァー―なら何かを知っアッー!  
 あなたは!? なぜここに居るんですか長―ザザッ―んっ! 我々の監視報告では既に登校して部室に、今もモニタに映っているのに!? なぜ、なぜアッー!』  
 プッ! 古泉の絶叫を最後に、電話は、切れた。  
 古泉! 古泉ぃー!  
 返答は無機質なツー、ツーという電子音。慌てて着信リダイヤルを押す。  
 
 嫌な汗が一気に噴出す。心底ぞっとした。  
 電源の入ってないとのメッセージではなく、現在使われておりません。番号を確認のうえ、と来たもんだ。たった今まで通話してたんだぞ!?  
 くそったれめ。一体なにが起こってやがる!  
 固有結界を形成できそうなほど覚醒した俺は、「あれぇ? キョンくん早起きさんだ〜。でもエイッ!」と飛び掛ってきた妹を受け止めてベッドに放り、シャミの悲痛な叫びをBGMに制服を着込むと学校へと駆け出した。  
 落ち着け。まだ慌てるような時間じゃない。長門なら、長門ならきっとなんとかしてくれる。あきらめたらそこで世界終了ですよ?  
 他力本願だとは自覚してたが、すがるべき藁を俺は他に知らなかった。  
 
 
  胸が苦しい。走り過ぎて肺が悲鳴を上げてるだけではなく、大切な何かが剥がれ落ちていくような感覚。  
 鼻息も荒く、いきなり駆け込んできた俺を、無機質というにはどこか貫禄にあふれた長門が、部室の前で悠然と待ち構えていた。  
 声を掛けるべく息を整えていると、部室に入るよう無言で促された。なにもかもお見通しってわけだ。頼もしいぜ長門。  
 だが、俺の安堵はそこで打ち止めらしい、室内には長門以外の人影が一つ。  
 いや、これは正確な表現じゃないな。部室の中には長門と――さらにもう一人の長門がいた。  
 俺を部屋に招き入れたのとは別の、窓際の席に腰を下ろしていた長門が、あっと小さな驚きの声と共に立ち上がった。  
 外見は俺の知る長門と代わらないのだが、見慣れぬベレー帽が頭にのっかり、どこか懐かしい眼鏡を装着している。加えて、  
「あ、あのっ。はじめまして! わたし、お姉ちゃんの妹のクリスチーネ・長門といいます。そのっ、お久しぶりです」  
 加えてこの感情表現の豊かさ。これはどういうことだ? 長門。  
「彼女はわたしの遠縁の……双子の妹」  
 いま妙な間があったよな? 朝倉や喜緑さんが消えたのと関係あるのか?  
「彼女たちは、食べて、吸収して、わたしたちになる為に使用した」  
 …………。  
「……今のは冗談」  
 そうでしょうとも。そうでしょうとも! べ、別に怖いから突っ込めないんじゃないんだからねっ!   
「彼女は生まれたて。優しくしてあげて。むしろ、よろしくしてあげて」  
 どうしろと!?  
「あ、今度転校してお姉ちゃんと暮らすことになったんですけど、最初にあなたにお礼が言いたくて、その図書館で……カードを作ってくれた時の」  
 俺が長門(真または姉)とヒソヒソ話しているのに動転したんだろうか、長門(新または妹)がちょっと涙ぐましいテンションで話しかけてきた。  
 それで「お久しぶり」か。はて? 図書館とカードといえば初不思議探索の……だが、それはこっちの長門?  
「今は妹の記憶認識に若干の齟齬が残っている。つっこまないであげて。むしろ色々と突っ込んであげて」  
 なにをだよ!  
 それで、古泉になにがあったか知らないか?  
「…………。?」  
 なにそれ? 美味しい? みたいな顔で小首を傾げるのはやめてくれ。さっきの今で怖いから!  
 古泉は、まあいいとして、だ。ハルヒや朝比奈さんは大丈夫なんだろうな? こればかりはちょっと黙認しきれる自信はないぞ。  
 
「涼宮ハルヒと朝比奈みくるはわたしがまとめて面倒をみる。満足させる自信と実績がわたしにはある。大丈夫、まかせて」  
 お、男前すぎる。いやしかし……なんというか……。  
「あなたの手は煩わせない。あなたがわたしの彼女たちに手を出すというのなら、わたしが相手になる。むしろ、わたしがいつでも相手をする。むしろ、今」  
 こちらはいままでどおり無表情なのか。鼻から蒸気が噴出してはいるが。  
 やれやれ。どこからどこまでが間違っているのか、そろそろ境界があいまいになってきたぜ。どうすればいいんだろうね。  
「あなたの心配は杞憂。この状況は一過性のもの。ある条件を満たせば速やかに平常状態へと回帰する。今は気楽に現状を楽しむべき。むしろ、お楽しみを」  
 いや、まぁ、長門の保障付きなら俺も肩の力を抜くのにやぶさかじゃない。  
 改めてよろしくな、妹さん。  
「こ、こちらこそ、よろしくおねがいします! むしろ、よろしくしてくださいっ!」  
 おまえもか!  
 耳まで真っ赤になり、うつむきがちに、それでいて俺の差し出したを両手で捕らえて離さないクリスチーヌ・長門に苦笑いをかけ、俺はふと疑問を口にした。  
 
 ちなみにどんな条件を満たせば元に戻るんだ?  
 
「……全人類がドラえもんの存在を忘却した時」  
 
 
 それは、世界大戦で人類が滅亡するのとどちらが早いんだ。  
 
 徐々に無機質なコンクリート壁へと変容していく窓とドアに慄きながら、せめて次の放送日までに期間を短縮して貰えないかと、俺は真剣に泣き付きたくなっていた。  
 
 
『助けてドラミさん(大)の巻』 完  
 
 

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