久々に誰にも邪魔されずにのびのびとした夜更かしライフを満喫した後
床に就いた俺は、ふと人の気配がして夢の淵からゆっくりと引きずり出された。
また妹が一緒にトイレに行けだとか怖い漫画でも読んで一人で眠れなくなったとか
そんなとこだろうと、再びもう内容も覚えていない夢の世界へ意識を戻そうとしていた。しかし、頭の隅に微かに引っかかる違和感がそれを阻止する。
…さっきまでのびのびしていた理由は何だ?
俺のささやかな夜更かしライフや快眠を妨げる存在、妹とシャミセンが居ないから。
何故居ないかというと、両親と共に遠方の親戚に泊まりに行っているから。
シャミセンの面倒ぐらい俺がみれるのだが、妹と親戚の強い希望により
同伴する事になったらしい。シャミセンもいい迷惑だね。
そして何故俺が一人家に残っているのかというと、
崇高な目的──すなわちSOS団の活動の為、休みと言えども拠点を変える事は
許されなかった、という訳だ。
つまり、この家には俺一人しか居ないという事実が、違和感の正体だったのだ。
夢うつつで微睡んでいる時間は至福の一つに数えられる程心地良いものだと
個人的には思っているのだが、そんな時間だからこそ判断力が鈍るのは良くある事。
きっとさっきまでの夢の余韻を引きずっているのだろうと、
瞼を開ける労力を惜しみながら、安眠の為に人の気配の察知を試みる。
気のせいなら再び何の躊躇もなく再び眠りの世界に戻れるというものだ。
しかしそんなささやかな願いは、ますますはっきりと感じられる人の気配によって
打ち破られ、次第に頭の一部分が覚醒していく。
一体この気配の正体は何なんだ?
目を開けてしまえば、あっさりと正解を得る事ができるが
俺は最後の抵抗として頑なに目を閉じたまま、息を凝らし視覚以外の五感に集中する。
気のせいであってくれ、という願いも虚しく俺の研ぎ澄まされた五感は
柔らかでどこか甘い香りと、ほんのりと空気から伝わる体温を察知した。
ある意味夢の中のような感覚に、俺はようやく重い瞼をゆっくりと開けてみる。
──そこには、窓から入る月明かりに照らされて微かに白く光っている様にも
見える人影が俺のベッドに腰を下ろし、俺を見つめていた。
「こんばんは、キョンくん」
俺が目を開けるのを待っていたかの様に柔らかく微笑む朝比奈さん(大)がそこに居た。
「…朝比奈…さん?」
自分の耳に届く間抜けな己の声が、夢ではない事を俺に確認させる。
「おはよう、が正しいかな?ごめんね、起こしちゃって」
ふふっ、と楽しそうに肩を竦めながら、朝比奈さん(大)が囁く。
「いや…それはいいんですが…どうして朝比奈さんがここに…?」
そんな朝比奈さん(大)を眺めながら、俺は必死で彼女がそこに居る理由を探す。
朝比奈さん(大)は未来人だ。その人がわざわざ俺に逢いに来るには
必ず何か理由がある。そしてその理由は決まっている。
「まさかまたハルヒが何か…?」
いつも朝比奈さん(大)はその時代の人間であるかの様にごく普通に現れる。
しかし、今、真夜中の俺の部屋に突然出現するという異常なシチュエーションで
俺の目の前に居る。
…という事はつまり、緊急を要する何かが起こっていると言う事か…?
その何かっていうのはもちろん…
導き出される結論に急激に俺の頭は醒め、その場に飛び起きた。
「もう、キョン君はすぐに涼宮さんなんだから」
少し不満げに…というのは俺の自惚れか。大人なのに少女のように可愛らしく
口を尖らせる朝比奈さん(大)。
「そう思うのも無理はないですね。いつもキョンくんに逢うのは任務の時だけ。
…申し訳ないと思いながら、ついあなたに甘えてしまうんだけど」
ゆっくりと寝起きの頭で目の前の現実を消化しようとしている俺に、
朝比奈さん(大)は続ける。
「でも、今日は完全に私のプライベート。…これは、本当は重大な禁則事項なんだけど
今の私は、上の者の干渉を受けずに独自に行動できる権限くらいはあるのよ。」
「プライベート…ですか…」
「誰にも邪魔されず、あなたに逢いたかったの。今がそれの最善の場所とタイミング
だったから…今夜この家にはキョンくんだけしか居ないでしょう?」
「……ええ、確かにそうですね」
朝比奈さん(大)にとって、俺のスケジュールを把握するなぞ造作もない事だろう。
その朝比奈さん(大)がわざわざ人目を忍んで俺に会いに来るというのは…
ついこの甘美な状況に浮かれ上がってしまいそうではあるが、俺も学習はするのさ。
朝比奈さん(大)にとって、優先すべき事というのは決まっている。
「こっちの朝比奈さんにとって、じっくり話さなければいけないような事が
起こるということでしょうか?」
朝比奈さんの為なら、火中の栗だって素手で拾って差し上げたいと
心に決めている俺である。相談に乗ってあげようじゃないか。
「…キョンくんは、いつも優しいですね。私をそんなに心配してくれてありがとう。
でもね、今日は本当に違うの」
どこか寂しそうに微笑みながら、朝比奈さん(大)が首を振り、
その度に朝比奈さん(大)の髪から甘い香りが漂ってくる。
そんな至近距離にいるという事に今更気付き、少し動揺する俺だったが
「本当に…ずっとずっとあなたに逢いたかったの…キョンくん」
不意に両頬を朝比奈さん(大)の柔らかな両手が包み込み
俺の動揺は激しい動悸へと変化した。
これは本当に夢ではないのか?
俺の顔をじっと見つめる朝比奈さん(大)の瞳に吸い込まれそうになりながら、
何とか現状の手がかりを掴もうとする。
朝比奈さん(大)が?
俺に逢いたかったと?
こんな夜中に、俺の部屋で…?
「…で、でも今まで散々会ってるじゃないですか…
それにこんな夜中じゃなくてもまだ家族は帰ってこないから時間はまだ…」
そんな俺の言葉を遮るように、頬に添えられた手が俺の首筋をするりと滑り
背中に回された。
つまり俺は朝比奈さん(大)に抱きしめられている形になっているのだ。
何故?朝比奈さん(大)が!?
「今じゃなきゃ駄目なの…わからない?キョンくん」
そんな耳元で甘えるように囁かれたら、健全な男子高校生である俺は
どうすればいいんですか朝比奈さん(大)!
というか胸が当たってますよ朝比奈さん(大)!
というか温かいですよ朝比奈さん(大)!
というか俺のベッドの上ですよ朝比奈さん(大)!!
硬直して動けない俺を見かねてか、軽く体を離し、俺の顔を
再び覗き込む朝比奈さん(大)。
部屋は僅かな月明かりだけなのが幸いしてはっきり見えないはずだか、
今最も見られたくない顔をしているのはわかっているんだ。
でも目を逸らす事もできない。どうする俺!
「…ずっとね、こうしたかったの」
再び朝比奈さん(大)の温かい体温が──今度は俺の唇を包み込んだ。
「…!」
完全に思考が停止してしまった。
俺の意識は、朝比奈さん(大)の感触…柔らかい唇、ぴったりと付けられた
胸から伝わる鼓動、背中まさぐるように動く朝比奈さん(大)の指先、
そして体に伝わる体温と、甘い香り…に奪われてしまった。
誰だってそうだろう?この感覚に抗える術などある訳がないし、
あっても今の俺はそんな術は知りたくもない。
それ程に、一瞬にして朝比奈さん(大)に包まれてしまった。
…どれ程時間が経ったのか、一瞬だったのか数時間だったのかもわからない。
名残惜しそうに朝比奈さんの唇が離れ、俺は恐る恐ると目を開ける。
うっすらと頬を上気し、どこか妖艶に微笑む朝比奈さん(大)が目の前に居る。
「朝比奈…さん…?」
まだ状況を飲み込めない間抜けな俺の唇を、朝比奈さん(大)が細い指先で
ゆっくりとなぞる。それだけで背中にぞくぞくとしたものが走り抜けていく。
俺の頭の片隅に残っている理性が、完全に朝比奈さん(大)ペースのこの状況を
立て直すべく、朝比奈さん(大)の体から離れ、壁によりかかるような体制に
ひとまず避難をする。とにかく間合いを取らねば。
そんな俺の動きをきょとんと見つめる朝比奈さん(大)であったが、
「ふふっ…びっくりしちゃった?」
そんな余裕の微笑みを浮かべながら、再び俺に躙り寄ってくる。
壁に身を寄せた俺は、つまり逃げ場がない訳で、完全に追い詰められる形になった。
いつも妹に追い詰められるシャミセンを俺は笑えないな。
「そ、そりゃあ驚きますよ…!どうしたんですか、急に!?」
俺の顔を覗き込み、今度は真剣な表情で朝比奈さん(大)は言葉を紡ぐ。
「急なんかじゃないわ。私はずっとキョンくんに逢いたかった。」
わかっていた事だが、やはり朝比奈さんとは別れの時が来るのだなと改めて認識する。
「最初は、顔を見ただけで嬉しかったの。」
そう呟きながら、懐かしそうに目を細める朝比奈さん(大)。
「…あの時の私は、あなたが私にどんな風に接してくれていたなんてわからなかった。
自分の事だけで精一杯だったから…もったいないよね、私はあんなにも
あなたの優しさに包まれていたのに…」
そんな言われ方をされるような立派な事はしていないし、こそばゆさすら感じる事を
言われても俺は何て答えればいいんですか。
「でも、でもね。あなたと離れて、色々わかってればくる程…ううん、
またこうして再会できて逢えば逢う程、あなたへの想いが募っていったの…。
…あなたにとっては、小さいわたしを苦しめる厄介者でしかないと思うけど」
ふっと寂しそうに笑う朝比奈さん(大)。
「そんな事は…!朝比奈さんも俺も、何度も朝比奈さ…いえ、あなたに
助けられましたし…あなたはきっと朝比奈さんの為に動いているだって、解っています」正直言うと、朝比奈さん(大)には憤りを感じた事もある。
朝比奈さん(大)の言うとおり、何故朝比奈さんを苦しめるのかと。
でも俺は必死に言葉を紡いでいるうちに、その場凌ぎの取り繕いではなく
朝比奈さん(大)に対する懐疑心は霧散していってしまった。
「…ありがとう…キョンくん。…大好き」
その時、朝比奈さん(大)の目元が月明かりに反射して光ったように見えた。
声も僅かに震えているようだ。
俺の朝比奈さんの涙は、本人にとっては不幸な事かはしれないが
既に日常の光景ではある。
しかし俺に向けられた涙、しかも悪い意味ではない涙は、俺をかたまらせるのに
充分だった。
女の涙は正に史上最強の武器なのだと痛感した。
すっと朝比奈さん(大)の細い指が再び俺の頬に触れ、そのまま愛おしそうに
俺の髪を撫でていく。
くすぐったいようなその感覚にしばし心を奪われていると、
朝比奈さん(大)の顔がすぐ間近にあった。
何を言えばいいかわからず、ぱくぱくさせるだけの俺の口をじっと見つめて
照れくさそうに囁いた。
「口紅…ついちゃったね」
「え…っ!」
反射的に拭おうとした俺の手を制し、朝比奈さん(大)は
「取ってあげるね」
と微笑みながら、再び唇を重ねてきた。
言葉の意味と反する予想外の行動に対応できないでいると
…といってもまあずっと対応できていない訳なのだが。
朝比奈さん(大)は俺の唇を啄むようにしながらそっと放し、
なんと俺の唇をゆっくりと舐めていったのだった。
取るって…そういう意味だったんですか!
ダメだ。もう俺のキャパを完全にオーバーしている。
完全に朝比奈さん(大)の支配下だ。
朝比奈さん(大)の柔らかい舌が俺の唇を這う度に
電撃のような感覚が走る。体の全神経が唇になってしまったようだ。
そして朝比奈さんはそのまま、為す術もなく半開きになっている俺の口に
その舌を滑り込ませて来た。
何だこの一連の流れる動作は…!
「…んん…っ!」
思わず声が漏れてしまった自分に驚いたが、朝比奈さん(大)はそのまま
躊躇いもせず、俺の舌を絡め取っていく。
口の中が朝比奈さん(大)でいっぱいだ。
俺はもう、朝比奈さん(大)に支配されてしまったようだ…。
しばらく朝比奈さんの唇の感触に溺れていると、ゆっくりと唇が離れる。
「キョンくん…」
と呟きながら、朝比奈さん(大)は唇から顎、首筋へと唇を這わせていく。
「お願い…キョンくん…」
俺にぴったりと体を預け、生唾を飲み込むしかない俺の喉仏に口付けながら
艶めかしく囁く朝比奈さん(大)。
これは…やっぱり夢なんだよな、きっと…。
大人の魅力的な女性…しかも俺に好意を寄せてくれている相手を前に
成すべき行動は、男なら決まっている。
俺が手を伸ばせば、朝比奈さん(大)の全てが手に入るだろう。
男なら夢にまで見る絶好のシチュエーションじゃないか。
でも…やっぱり俺も若いんだな。若さ故としか言えない。
「…待ってください、朝比奈さん…っ!」
残っている理性のカケラを必死で集めて、俺は声を振り絞ったね。
この世のどんな豪華な料理も敵わない程の据え膳を、俺は蹴ろうとしているようだ。
絶対に未来の俺は今の俺を罵るだろうな。
不思議そうに俺を見上げる朝比奈さん(大)。
その表情がなんともまた色っぽい。
再びぐらつきそうになる気持ちをぐっと堪える。根性だ、俺!
「やっぱり…この先は…駄目だと思うんです…!」
「…キョンくん…?」
息を切らせながらつたない言葉を探す。
「これからも、朝比奈さんを支えてあげたいから…だからこそ
駄目だと思うんです…」
自分でも何を言っているのかわからない。でもこれだけは言える。
このまま進んでしまったら、SOS団でいつもの俺では居られなくなるという事だ。
そうなったら、自分でも自分の予測がつかない。
それはつまり、もう朝比奈さんを支えてあげられなくなる可能性も秘めている。
いや、多分確実にそうなるだろうな。
俺はそんなに出来た人間でもないが、平然としていられる程肝も据わっていない。
…どれだけ朝比奈さん(大)に伝わっただろうか。
初めはきょとんとした顔で聞いていた朝比奈さん(大)は次第に顔をほころばせ、
そして笑顔で困ったように溜息をついた。
「やっぱり、キョンくんはキョンくんですね…」
「…すいません。朝比奈さんは魅力的な女性だと思います。でも…」
「ふふっ、いいのよ、気を遣ってくれなくても。
ありがとう、キョンくんの気持ちはわかっていますから。
私こそ、困らせちゃってごめんなさいね」
朝比奈さん(大)はさっきまでの妖艶な雰囲気はどこへやら、
まるで保母さんのように優しく俺の頭を撫でてくれた。
「今日の事は、私のわがまま。キョンくんには嫌な思いをさせてしまったかも
しれないわね。…私の事嫌いになったかも…ね」
寂しそうに目を伏せる朝比奈さん(大)に俺は全力で否定する。
「…優しいなあキョンくんは…。」
そう呟きながら、朝比奈さん(大)は俺から身を離し、ベッドから起きあがって
俺に背をむけた。
「…最後に、ひとつだけチャンスを下さい…」
いつもの、どこかしら確信めいた表情の朝比奈さん(大)からは想像もつかないような
弱々しい声で続けた。
「もし…私の事を嫌いにならなかったら…今日、私を抱きしめて『みくる』って
呼んで下さい」
俺は耳を疑う。
朝比奈さん(大)を嫌いになんかなっていない。
だからそれを示すのはお安いご用だが…何だって?
抱きしめる?
更に「みくる」と呼ぶだと!?
それはさっきの続きをするよりも高難易度なミッションなんじゃないか?
「私の記憶では、今日、キョンくんはそれをしてくれました。」
…は?何をやってるんだ?今日の俺?
未来の自分に軽く嫉妬を覚えつつ、朝比奈さん(大)の言葉の意味を考える。
「未来の…今のこの私を選ぶのは、キョンくんの自由という事です。
もし、キョンくんがそれをしてくれたなら…それは私の記憶通りの私です。
でも、キョンくんはそれを拒む権利があります」
…それはつまり…?
「私を拒みたいなら、今日、さっきの事をしないで下さい。
そうすれば…それは私の知らない私です。つまり、今日の私と今の私は
繋がらない存在になります。」
朝比奈さん(大)の提案はこうだ。
つまり、朝比奈さん(大)を拒否するなら、朝比奈さん(大)の記憶にある行動を
俺が取らなければいいと。その時点で、未来と繋がらなくなるから、と。
「俺は朝比奈さん(大)を拒むつもりは全くありませんが…
…でもそれを実行するには色々と問題が…」
朝比奈さんの提示したロジックを理解する事と、その実行の難易度に
頭を悩ませていると、朝比奈さん(大)は軽やかに笑って身を翻した。
「大丈夫ですよ。キョンくんがそう望んでくれるなら、
未来はきっと裏切りませんから」
初めてであった時のような笑顔に見惚れていると
「じゃあね、キョンくん」
声を掛ける間もなく、朝比奈さん(大)は扉の向こうへ消えてしまった。
「…キョン、聞いてるの!?」
昨日の夜の夢の中のような出来事を、寝不足の頭で微睡みながら反芻していると
団長様の声でふと我に返る。
「…すまん、聞いてなかった。で、何だって?」
「バカキョン!あたしはちょっと出掛けてくるから、その間みくるちゃんの作業を
手伝ってあげなさい、って言ったの!」
「あの…よろしかったらでいいんで…おねがいします」
おそるおそるメイド服の朝比奈さんが話しかけてくる。
「お安いご用ですよ。うるさい団長に言われなくても、手伝いますって」
「うるさいは余計なの!じゃ、ちょっと言ってくるわね!」
と、俺の返事を聞く間もなく、忙しない我らが団長様は部室を飛び出して行った。
珍しく、部室には俺と朝比奈さんふたりだけ。
これは…
朝比奈さん(大)の言っていた事を実行するチャンスという事なのか?
「みくるちゃんに変な事したら、殺すわよ!」
何故か戻ってきたハルヒが俺の心を読んだかのような捨てぜりふを吐き、
再び勢いよく廊下を走って行った。
相変わらすエスパーかあいつは…。
「重たい荷物とかあるので…助かります」
そんな俺の胸中を知らないであろう俺の朝比奈さんは無邪気に微笑む。
俺も笑顔で了承の合図を返すと、てきぱきと荷物の整理を始める朝比奈さん。
「ええっと…あれはどこに仕舞ったかしら…」
そんな様子に癒しのマイナスイオンを受けていると、閃いたように呟くメイドさん。
「あ、そうそう!あっちの箱に入れたんだったわ」
こんな甲斐甲斐しく働くメイドさんを抱きしめて名前を呼ぶなんざ
非常に魅力的な提案ではあるが、同時に我が身を危険に晒す事になりかねない。
朝比奈さん(大)との約束と保身を天秤にかけていると
ますますくるくると動き回る朝比奈さんが、若干混乱してきているようだった。
朝比奈さんが動く度にその周りに荷物が増えているのだから仕方がない。
果たしてこれは本当に整頓されているのか…?
そんな様子に手を出しあぐねていると、それは起こった。
「キョンくん、この箱を…あっ!」
両手に箱を抱えた朝比奈さんが、足下に置いてある箱に躓いて
バランスを崩してしまった。
「あぶないっ!」
俺は咄嗟に身を乗り出す。
「大丈夫ですか?」
何てこった。
期せずして、朝比奈さんを抱きしめる形になってしまった。
「あ、ありがとうございます…キョンくん…」
俺の腕の中で恥ずかしそうに囁く朝比奈さん。
今…なのか?
「どういたしまして…」
今しかないだろ。
「…みくる…」
「…え?」
あわよくば聞こえなければいいという位に呟いた俺の声に
驚いたように見上げる朝比奈さん。
「…さん…っ」
俺は、仮にも上級生を呼び捨てにする気まずさに、
取って付けたように誤魔化した…つもりだった。
俺は我が目を疑ったね。
朝比奈さんは真っ赤な顔で俺を見つめながら大きな瞳から涙をぽろぽろと零している。
「…!?朝比奈さん!?す、すみませんっ!!」
一瞬にして後悔の念に包まれる俺。
そうか、未来の朝比奈さんが覚えているという事は
必ずしもいい記憶とは限らないという訳なんだな…
「…違うんです、キョンくん」
首を振る朝比奈さん。
「私も何故だかわからないけど…涙がでてくるんです…
多分、嬉しいんだと思います…けど…なんでだろう…?」
自分でも理解できない感情に戸惑う朝比奈さん。
俺は喜んでいるのはきっと、朝比奈さん(大)なんだろうな、と
何となく思っていた。
「あーーーー!キョン!!あんたなにやってんの!?」
そんな空気を打ち破ったのはハルヒの絶叫だった。
「やっぱり心配になって戻ってきたら…あんた、みくるちゃんに何したの?
泣いてるじゃない!!」
「いや、これはだな、ハルヒ…」
「言い訳は聞かないわ!みくるちゃん可哀想に!」
「あ、あの…違うんです涼宮さ…」
「みくるちゃんも気を遣わなくていいのよ?
…これは大問題だわ!SOS団が揃ったら査問会よ!!」
鼻息荒く憤っているハルヒの目を盗むように、こっそりと俺に目配せをして
微笑む朝比奈さん。
俺は、朝比奈さん(大)が微笑んでいるように見えたんだ。
未来は裏切らないんでしたね、朝比奈さん。
END