SOS団が結成されてから一年が過ぎ、一つ一つ数え上げていけば何本の指が必要なのか考えたくもないぐらい様々なトラブルに見舞われ、人として成長したかどうかはともかく非常識を受け入れる寛容さだけは育んだ自信がある。  
 しかしそんな俺のカスピ海より広い心を以ってしても断言できるぐらい、今回は酷かった。  
 結果として俺自身は何一つ得るものもなく、ただ濡れ鼠も真っ青の雨ざらしになってまで散々な目に遭遇した過程が身体のあちこちにできた擦り傷や全身を絞り上げられるような筋肉痛となって残っただけ。  
 その上、最後の仕上げがこれだ。  
 俺は先ほど朝比奈さんから未来発の指令として渡された書状、あの二目と見れないような文面が一杯に書かれた忌まわしき手紙を、頭に思い浮かべた。  
 内容を述べることは死ぬほど憚られるのでここでは黙秘するが、ただ結びとして書かれていたのは、  
『心を込めて言わなきゃダ・メ』  
 という朝比奈さん(大)の筆跡であろう丸っこい文字と、その隣に添えられたレアステーキから染み出る血を垂らしたように情熱的なキスマーク。あれが無ければ即破り捨てていた。  
 やはり世の中は理不尽の塊なのだ。ハッブル天文台でも観測できない遠くの未来まで俺に無茶な要求ばかり突きつけてくる。  
 そろそろ度重なる心身創痍のお見舞いとして朝比奈さん(大)もしくは(小)からの三次元的なベーゼが欲しいんだが、こういうのはどこに届け出ればいいんだ? 市役所か?  
「有希ったら遅いわね。どこまで探しに行ったのかしら。……ちょっとキョン、もともとはあんたが悪いんだからね! 一体どこまでジュース買いに行ってたのよ! 言い訳ぐらいなら一応聞いてあげるから、粛々と説明しなさい!」  
 俯けていた顔を上げれば、団長机に腰掛けたまま大岡裁きを下すような目つきで俺を睨みつけてくるハルヒと、   
「でも、長門さん本当に遅いですよ。やっぱりあたし達も探しに行ったほうがいいんじゃ……」  
 メイド姿の朝比奈さんが、心配そうにミントのような香りがするであろう息をつく姿。俺からすれば、ほんの少しだけ過去の二人だ。  
 ちなみに俺とともに時間を跳んでやってきた方の朝比奈さんは、部室の外で待機して下さっている。やる事やったら、手に手を取り合って逃亡を図る手はずだ。あぁ麗しき命綱。少しばかりご機嫌斜めなのが玉に瑕である。  
「ていうかあんた、さっきから何でぼけっと突っ立ってんの。反省の意思表示のつもり? 甘いわよ。せめて石を抱えてプールに飛び込むぐらいしないと相手に誠意など届かないと知るがいいわ」  
「あの、キョンくん、ひょっとして具合悪いんじゃないですか。顔色よくないですし、ね? 大丈夫?」  
 異端審問官のように容赦なく攻め立てるハルヒボイスに、会ったこともないナイチンゲールを彷彿とさせる朝比奈さんの声が被さる。たしかに具合は悪いです。  
 しかし、いつまでもこうしちゃいられない。  
 俺は唾をごくりと飲み干し、いい加減に覚悟を決めた。  
 もういい。どうせやるって決まってるんだ。あとのフォローも俺がやってくれるんだし。というかやったんだし。  
 間違いなくストレス性の偏頭痛を無理矢理意識の外に追い出した俺は、狭い部屋に漂う湿った空気を苔が生えそうなぐらい胸いっぱいに吸い込むと、じっと二人の顔を見つめたまま、  
「……ちょっと、聞いて欲しいことがあるんだ」  
 今にも崩れそうなボロ窓のガラスには、空が涙しているような雨粒が累々と流れ続けている。  
 言っとくけどな、泣きたいのは俺の方なんだ。  
 
 
 
 さて、始まりは何の事も無い六月の平日。  
 空は梅雨という季節を額面どおりに受け取ってしまったかのように大雨続きで、なめくじやカタツムリはともかく俺としては非常に鬱陶しい気分にさせられるため、さっさと晴れやしないだろうかと文句交じりに考えていた。  
 六年に一度ぐらいは、さわやかな風と暖かな陽射しが降り注ぐ梅雨があればいいのに。そうすりゃ低地に住む人も、床下浸水の事なんて考えずにぐっすり眠れるだろう。  
「馬鹿だなキョン。それじゃ、そこかしこで水不足が起きるに決まってるじゃん」  
 ノーベル賞もののアイディアを一言のうちに打ち据えたのは、隣で顔を埋めてしまいそうな量のプリント束を抱えながら歩く国木田だった。窓が閉め切られているせいで、乾いたシューズの足音がことさら大きく聞こえる。  
 俺は、同じく自分の顎まで届きそうな大量のプリントの幾何学的バランスを維持しながら、  
「いいだろ。たまには現実の理力に縛られない空想の内で遊んだって」  
 何せ現実なんてロクなものじゃないからな。脳裏では、ハルヒが何か企む時のドクダミ草っぽい笑顔が宵の明星のように輝いていた。望遠鏡を叩き割りたい気分だ。  
「ほら、キョン。そっちじゃないって。こっちこっち。生徒会室だろ?」  
 プラチナのように固い接眼レンズを石で叩く妄想を浮かべている間に、どうやら歩き過ぎてしまったらしい。呆れ顔の国木田の隣に戻った俺は、再び生徒会室へと進路を取った。  
 何故生徒会室なんて物騒な所に向かっているのかと言えば、理由は簡単。  
 俺達がいま抱えている、よくわからない数字の羅列で埋めつくされたプリントが、あのインチキ眼鏡会長率いる生徒会への届け物だからだ。  
 今年同じクラスになった男子のうち、生徒会に入っている物好きが一人いるのだが、そいつは国木田と仲が良く、たまに教室で自分の仕事を手伝ってもらっているらしい。  
 で、今回は国木田繋がりで俺もその手伝いをしているわけ。どうせ暇な昼休みだし、善意から成る無償労働もたまにはアリだろ。つっても、ただプリントを運んでるだけなんだが。  
 ちなみに、頼んだ当人は印刷室でつい先ほど煙を吐き始めた古めかしいコピー機と絶賛格闘中だ。勝てるといいけどな。俺には祈ってやる事しかできそうにないよ。南無阿弥陀仏。  
 心の中で合掌しているうちに、生徒会室のプレートが視界に入ってきた。  
 あんまりいい思い出のある場所ではないが、最近は生徒会、というか古泉が妙なちょっかいをかけてくる事も無かったし、実際の所、極端な苦手意識はまだ芽生えていない。  
 春先の出来事を思い返しつつも、俺たちが部屋の目と鼻の先まで到着した時、折よく扉を引いて姿を見せたのは、ヒューマノイドインターフェイス兼生徒会書記の喜緑江美里さんだった。  
 長門とも朝倉とも異なる落ち着いた柔和な表情と顔を合わせるのも、久方ぶりだ。  
 
 喜緑さんは俺たちを見つけると、一足早目に来た夏の日陰のような微笑を浮かべて会釈をした。溶けたプラスチックみたいに柔らかい。  
「あの、喜緑さん、悪いんですけどドア開けといてもらえますか」  
 両手が塞がっているので、と俺が言うと、喜緑さんは小さな体を一杯に使って引き戸をスライドさせる。  
 俺は会釈を返しつつ生徒会室に入ろうとしたのだが、  
「うわっ!」  
 背後で悲鳴が聞こえたと思ったら、間を置かずに新品のレンガをバチで無理矢理叩いたような鈍い音が廊下中に響き渡る。  
 身体ごと振り返ると、どこぞの新年行事のごとくばら撒かれたプリントの真ん中で、国木田が頭を抱えつつ蹲っていた。腰をつけた廊下はかなり濡れているらしく、そこだけ蛍光灯の光でやわく切り取られている。  
 おいおい、滑って頭でも打ったのかよ。  
 手が塞がっていて出遅れた俺の代わりに、静々と歩み出てきた喜緑さんが、国木田の手を取って立ち上がるのを手伝ってやっている。それを横目に、俺も無人の生徒会室に駆け込んで適当な机の上にプリント束を乗せ、すぐに廊下に戻った。  
「大丈夫だったか?」  
 駆け寄って問いかける俺に、先ほどの位置から微動だにしていない国木田は返事を返そうとしない。というかこっちを見てもいない。  
 その代わり、喜緑さんがむき出しの膝をリノリウムに置いてプリントを一つ一つ摘み上げている様を、デッサンの遠近感を鉛筆で計る画家のように注視していた。  
 何で喜緑さんがプリントを拾ってて、こいつが突っ立ってるんだ。まさか、打ち所がまずくて動けないとか?  
「国木田、保健室行くか?」  
 俺の真剣な声を聞くに至り、そこでようやくどこかから戻ってきたらしい国木田は、自分の腕と白い紙が散らばった廊下を交互に見ると、  
「……ご、ごめん!」  
 慌てて膝を突き、プリントを掻き集め始めた。  
 ごめんって言われてもな。本当に大丈夫なのかね、こいつは。俺は不安を覚えながらも、ともかくサルベージ作業に加わった。  
 あちこちに散らばったA4のプリントは結構な量だったが、三人がかりで集めればそう大した時間はかからなかった。何分も経たずにプリントを揃えると、会長の机の上に改めて乗せて、お使いボランティアは終了となる。  
 最後に廊下に出た喜緑さんが部屋の鍵を閉めるなり、それまでずっと俯き加減だった国木田は、尻を金属バットで叩かれたように顔を上げると、  
「さっきはごめん、キョン。それと、その、あなたは」  
「生徒会書記の喜緑です」  
「あ、く、国木田です! よろしくお願いします! ……じゃなくて、どうもすいませんでした!」  
「こちらこそ、お手伝いさせてしまったみたいで。どうもありがとう。本当に怪我、しませんでしたか?」  
「はい! 何の問題もございません!」  
 特殊部隊に入隊したばかりの新兵のように角張った国木田を、俺は口を半開きにして見つめていた。何かキャラ変わってんぞ、こいつ。  
 喜緑さんは特に驚くことも無く、念のためと言いながら国木田に保健室を勧めたあとで上品に会釈をすると、こちらに白い背中を向け、あくまで静々と三年生の教室棟に向かって歩を進めていく。  
 揺れながら小さくなっていく、飛び立つ水鳥にも似た後姿を見送る国木田の表情を眼下にするにつけ、俺は嫌なデジャブを感じはじめた。  
 この雰囲気というかオーラと言うか、こう、粘着性の高いゼラチン質のものに、たしか以前も身近で当てられたような気がする。アメフトっぽい何かで。  
「……なあ、国木田。あんまし聞きたくないんだけどさ、お前ひょっとして」  
 妙な予感で背筋をざわめかせる俺に対し、国木田は妖精の国に迷い込んだ夢見がちな少年のように瞳を潤ませ、一言だけ呟いた。  
「凄く、可愛い」  
 外では今も雨が降り続いていて、灰色に濡れた校舎なんて、梅雨にしては珍しくも何とも無い風景だった。  
 そう、事件の引き金ってのは、大抵何でもない日に起こるんだ。そこらにばら撒かれた枯れ木の枝に擬態するナナフシみたく、不意打ち気味に、何の音も立てずに。  
 もっとも国木田からすれば、ただの雨だと思っていたそれが、空から降る大輪の薔薇の花びらに姿を変えていくのが見えていたのかもしれない。  
 廊下を歩けば恋に落ちる。たった今考えた諺だが、結構使えるんじゃないだろうか。辞書に登録しといた方がいいと思うぜ。  
 
 
「……で、あれなわけか」  
 放課後になり無人となった俺の隣の席に偉そうに君臨し、谷口は言う。  
 指の先は、一番前の席で流れる雨をじっと見つめている国木田の方を向いていた。コインランドリーに行く度に乾燥機に張り付く妹みたいだ。何が面白いのかナノピクセルほどもわからん。  
 あいつとは中学の時から一緒だし、お互いに思春期の秘密とも言うべき急所を握り合っている部分もあるのだが、それでもここまで浮ついた姿を目にするのは初めてだった。新たな一面を発見したと喜ぶべきなのか、ここは。  
「何ていうか、教科書どおりの恋煩いだな」  
 まったくだ。三分に一度、タイマーでもセットしてあるかのように漏れる悩ましげなため息は、聞いてる方までむずがゆくさせてくれる。サトイモ色のため息って感じ。  
「ところでキョンよ。その彼女って可愛いのか?」  
「ああ、かなり」  
「マジかよ! あいつ、結構面食いなのな」  
 谷口は同好の士を見つけた下着ドロのような笑みを浮かべた。  
 国木田が面食いかどうかはともかくとして、この前の中河といい、どうして俺の周りにはこう極端な奴が多いんだ。ヒトメボレ? どこの国の食べ物デスカー? って感じの俺にとってみれば、ほとほと理解に苦しむね。  
 それともまさか、今まで気付かなかったけど国木田にも中河と同様の特殊な眼力が備わってしまっており、情報統合思念体とやらが喜緑さんの背後に透けて見えるってんじゃないだろうな。  
 早急に部室へ向かい、長門に確認を取らなくては。  
 俺は机にぶら下がった鞄を、旬の野菜を収穫するかのようにもぎ取って立ち上がると、  
「そろそろ行くわ。じゃあな、谷ぐ……」  
 ガタンっ、と不意に響いた音に、真心がまるで入っていない別れの挨拶はかき消された。  
 音の発信源である国木田は、引き過ぎて後ろの机と一体化してしまっている椅子もそのままに、長門のようにレーザーを跳ね返しそうなほどメタリックな無表情で俺の方にツカツカ歩み寄ってきたと思いきや、  
「キョン。喜緑さんとは、どういう関係なの?」  
 妙に迫力のある口調だ。俺は内心面食らいながらも、  
「どうもこうも、ほら、お前らにも手伝ってもらった機関誌があっただろ? あの件でちょっと顔を合わせただけだよ」  
 本当は去年の今頃、やたらとでかい昆虫採集をさせられたのが初めなんだが、それを言う必要はないだろう。  
「それはつまり知り合いってこと?」  
「そうだ」  
 宇宙人相手にただの知り合いもクソも無さそうなものだが、正鵠を得た表現が思いつかない。  
「だから、どうぞ俺なんかにお構いなく……」  
「手伝って!」  
 蚊でも止まってたのかと一瞬思ってしまったぐらい勢いよく机に平手を打ちつけ、目玉が引っ付くほど接近してきた国木田に、またしても尻を踏まれる俺の声。悲鳴をあげる暇も無い。  
 教室の中央に固まって談笑していた男女数名も、すわ何事かとこちらに目を向けてくる。  
 俺は片手を踏み切りの遮断機みたいに九十度で上下させて、好奇心でテカテカと光る視線を散らした。嫌らしいものは大抵テカテカ光っているものなのだ。金持ちの前歯とか。  
 
「手伝うって、何をだよ。引越しでもすんのか?」  
 そう聞くと、国木田は視線だけで一瞬きの間を作り、  
「友達になりたいんだ、喜緑さんと。でも、僕はあの人と接点ないから、キョンに間に入ってもらいたい」  
「はぁ? ともだちぃ? お前、そりゃ付き合いたいの間違えじゃねえほは」  
 下手なラッパーのように無理なオフビートでしゃしゃり出てきた谷口の口元を抑え、俺は答える。  
「お前の言うことは解るがな、生憎と俺も喜緑さんとはそこまで仲良いってわけじゃないんだ。だから俺に頼むより、自分で何とかした方が早いと思う」  
 やりようなんて幾らでもあるさ。それにもう見ず知らずの相手ってわけじゃないだろ。お前が花咲か爺さんばりにプリントを振りまいたのは、そこそこインパクトがあったと思うぜ。  
 国木田は、それからしばらく考え込んだ様子で下を向いたまま固まっていたが、やがて蛇口から漏れた水滴のようにぽつんと頷くと、  
「今の時期から生徒会って入れるのかな……」  
 呟きを残して、早々と教室から出て行った。  
 しばらく他のグループのさんざめく話し声を耳の中で遊ばせていると、頬杖をついた谷口が、何が面白いのか知らんが、誰のデザインだこのステキ生物はと皮肉を口にしたくなるような公共機関のマスコットみたくニヤついた顔で、  
「あーあ、いいのかキョン。無責任なこと言っちゃって。あいつが本当に生徒会にでも入ったらどうすんだ。あそこって、お前らの団と敵対関係にあるんじゃなかったっけ?」  
 俺は鞄を肩の裏で担ぎ直して、  
「ねえよそんな関係。春秋戦国時代じゃあるまいし。敵対してるつもりなのは」  
 放課と同時に第一宇宙速度で空になった後ろの机を指で小突き、  
「こいつだけだ。毎度のことだろ」  
 黒板の上に据えられた時計を見やると、長針が想像以上に上向きになってしまっていた。  
 遅いわねあのアンポンタン、なんて毒づきながら指先をイライラと上下させる団長の姿を心の団扇で吹き消しながら、俺は今度こそ谷口に別れを告げ、はるか旧館へと足を向けた。  
 とりあえず、国木田の感じたそれが本当に一目惚れなのかどうなのか、はっきりさせる必要がある。あとできれば、喜緑さんに彼氏なり彼氏役に割り振られた奴がいないかって事も。  
   
 
 部室に到着した頃には、既に俺を除くSOS団の全員が揃っており、結局長門に相談を持ちかける事はできず終いだった。  
 普段から行動を共にしている谷口には一応きちんと説明したものの、反恋愛派のハルヒをはじめ、完全に無関係な朝比奈さんと古泉の前で、国木田のプライベートに関わりまくった話をするわけにもいかないしな。  
 というわけで、気もそぞろだった団活が終了し全員が解散してから、俺は改めて長門のマンションを訪れていた。  
 家具の一つどころか埃さえ見つけるのに苦労しそうなほど物の少ない部屋で、静かなる長門とテーブル越しに向かい合う。薄い緑茶で喉の粘膜を潤してから、俺は話を切り出した。  
 恒常的に無口なヒューマノイドインターフェイスは、やはり口を挟まずに黙って耳を傾け続け、やがて北極の氷壁がじわりと溶けるみたいにようやっと口を開いた。二酸化炭素の恩恵だ。  
「彼は普遍的な意味で、有機生命体の一個体に過ぎない。情報統合思念体にアクセス可能となるような特異能力の類は一切所持していない」  
 じゃあ、国木田は俺と同様に正真正銘の一般ピープルだと?  
「そう」  
 ってことは、あいつのあのアレっぷりは、正真正銘の一目惚れだってわけか?   
 参ったな。八割以上の確率で中河と同じパターンだと踏んでいたが、どうやら当てが外れたらしい。あいつの頭をゴツンとやってやれば、すぐに醒める夢のような話だとばかり思っていた。  
 むしろ、そっちの方が何かと穏便にすませられそうだったんだが。  
 俺は一度窓の外に視線をやり、滑り流れる電車の明かりを辿ったあと、改めて長門に向き直り、  
「喜緑さんの交友関係とか、わかるか?」  
 国木田が、あいつ風に言うとお友達になれるような隙はあるのか。個人的な好奇心も混じらせ、尋ねてみる。  
「彼女と共有している情報は少ない」  
 長門はそう前置きしてから、  
「現在の様子から総合的に判断すると、有機生命体に対して必要以上の関係性を成立させようとはしていないはず」  
 それっきり、ブレーカーが落ちたかのように押し黙る。俺は沈黙に答えるように、またひとくち緑茶を啜った。  
 知りたい事は大体わかった。国木田はどうやらマジで喜緑さんに一撃KOされ、そして幸運にも、喜緑さんは現在フリーだ。  
 しかし、ああ、何だかなあ。俺はまた、最近癖になりそうなため息を吐いてしまう。  
 他人のことだし、どうでもいいと言えばどうでもいいんだが、ウサギ並に年中発情している谷口ならまだしも、国木田だしな。いかんせん情報のエントロピーが高すぎる。  
 しかも相手が意味不明宇宙存在作のアンドロイドと来たもんだ。まだ旅行先でカナダ人とかに一目惚れしてくれた方が安心できる。電話代の請求額が桁上がりするぐらいで済むだろうし。  
 俺は、身近なモデルケースとして長門が誰かとお付き合いしている場面を想像してみた。  
『ヘイ有希! どこか行きたい所はあるかい?』  
『図書館』  
『オーケイ! さあ、そこのタンデムシートにシットダウンしな! 国道を風のように飛ばすぜ!』  
『素敵』  
 はい、許せません。  
 というか何だお前は。誰の許可を貰ってそんなヘチマみたいな事言ってやがるんだこの野郎。図書カードの作り方知ってんのか?  
 ……いや、まあ、例えばこんな具合にだな。色々難しいんじゃないかと心配してしまうわけさ。  
 週末の株価チャートみたく眉を上げ下げする俺の様子をどう取ったのか、長門は再び桜色に染め抜かれたお猪口のような唇を開いた。  
「彼女が自身の行動の障害になると感じた場合、彼の情緒に対し何らかの形で干渉することは有るかもしれない」  
 そしてまた、じっと俺を見つめる作業に戻った。  
 そうか。こいつらは自分の役割を果たすためにハルヒの周りに集まってるんだもんな。  
 なら長門の言うように、喜緑さんは宇宙的かつ超現象学的な力で以って、国木田に覆い被さったピンク色の憑き物を払い落としてしまうのだろうか。  
 それは、どうなんだ。良いのかそれとも悪いのか。俺にはさっぱりわからない。  
 ただ、アメフトの帰りに公園で聞いた、長門の衣擦れのように微小な声を思い出す。  
「友達になるぐらい許されそうなもんじゃないか? なあ、長門」  
 長門は頷きもせず、鏡の中の自分と対するように、俺を見つめてくる。  
「お前だって、結構友達多いのにな」  
 わざと目を細めて言うと、長門はやはり無言のまま、薄いお茶を静かに啜った。俺もそれに倣い、湯飲みを持ち上げる。  
 見目麗しいメイドさんもいいけど、照れ屋な宇宙人が淹れるお茶だってなかなかの物だ。  
 
 
 後日、なんと国木田はマジで生徒会に入った。  
 時期的に正式加入は不可能であり、名目上は自主的なボランティアということになっているらしいが、それにしても大した思い切りの良さだ。  
 普段落ち着いた奴ほどいざという時の行動力には目を瞠るものがあるというが、どうやらそれを地でいく男だったらしい。  
 俺は面白半分で頑張れよとか何とか適当に応援しながら、残りの半分は心配だったわけで、いつか国木田が「喜緑さん? 誰だっけ?」とか言い出しやしないかと危ぶんでいたのだが、今のところ杞憂で済んでいた。  
 しかし、そのあいだ平和な時間を堪能していたのかと問われれば、谷口共々首を横に振らずにはいられない。  
 問題は主に昼休みの下らないおしゃべり。  
 国木田が語る、喜緑さんと何回言葉を交わしただの、目の前で失敗をやらかして憂鬱だの、ウェーブ掛かった髪から香る芳醇な調べは教会に響き渡る子供達の聖歌を髣髴とさせるだの、超指向的なトピックスだ。  
 この世でどうでもいい話はそれこそノイズワードをいくら定義し直しても足りないぐらいあるのだが、その中でも他人の惚気にすらなっていない話は間違いなくピラミッドの頂上付近に位置している。  
 しかも本人は自然な流れで話しているつもりらしいが、実際は超変則的話題転換を用いており、どうして昔集めていたセミの抜け殻の話から喜緑さんの睫毛のカール具合の話に至るのか未だにわからない。  
 それでも、友人の夢見るような言葉の数々に水を指すのは憚られるわけで。  
 俺は江戸時代のカラクリじみたぎこちなさで、片や谷口はバレンタインにもらった変な味のするチョコを無理矢理頬張っているような笑顔で黙って聞いてやるしか術が無かった。  
 正直、辛かったね。そのうち外耳に緑色のタコができるんじゃないかと思ったぐらいだ。  
 好成績を旗印に俺たちの前を颯爽と歩いていた国木田はどこに行ってしまったのだろうかと、谷口と二人で慨嘆する事しきりだったのだが、俺はその内、頭を悩ませる余裕すら無くなってしまっていた。   
 それは珍しく晴れた日の放課後、例によって後ろの席でハルヒがぶちまけた言葉による。  
 
「ねえ、キョン。来週は何のイベントがあるか知ってる?」  
 イベント? 株主総会か?  
 弁当箱しか入っていない鞄をいじくりながら適当に応じる俺に向かって、ハルヒは愛想が尽きたとばかりにため息をつくと、  
「ばっか、あんたの記憶は一体どこに蓄積されてんのよ。三日に一度ぐらいの周期で燃えるゴミにでも出してんの? これよこれ。じゃーん! 野球大会!」  
 そんなに近づけられたら逆に見えねえだろ。  
 ボールとバットの描かれているらしきプリントを中国産妖怪のように額に貼り付けられながら、俺はしみじみと言った。  
「今年も出ちまうのか、それ」  
「当ったり前じゃない。去年も勝ったんだから、今年も勝たないとね。それが勝者の義務であり責任でもあるわ。早速練習に入るから。制服のままじゃ動きにくいし、めいめいちゃんとした体操着に着替えて部室に集合!」  
 虚数空間からはみ出してきた責任感を振りかざしつつ、部室で着替えるつもりなのだろう、巾着袋を手にしたハルヒは、チーターのように飛び出して行く。  
 俺はどうして今日に限って晴れてるんだと日干しされた校庭を恨み、まさかハルヒが願ったせいかと古泉的な勘繰りを巡らせつつ、結局はジャージに足を通している自分に対して悲嘆に暮れながらその後を追った。  
 それからしばらくは野球漬けだ。  
 北高野球部に乗り込んだ俺たちは、前回同様無理矢理な手口で、もしくは裏から古泉が手を回していたのか、とにかく練習権を接収せしめた。  
 ハルヒは去年より表情こそ柔らかいもののその極悪さは少しも劣ることの無いノックを俺たちに課し、やはり朝比奈さんは早々と退場めされ、長門は黙々と自分の方に来た球をグローブに収めていく。  
 心なしか普段より生き生きとしている古泉はともかく、俺は運動部でもないのにどうしてこんな事を? と自己の存在に対する思索を錨のように深く沈めながら嫌々白球を追っていた。  
 つくづくスポ根には向かない性格だ。  
 多分気まぐれなんだろうが、前回より気合が入ってしまっているハルヒに比喩抜きで尻を蹴られつつ、連日授業が終われば野球部の連中に混じって打つの投げるの球を拾うの。終いには朝練とか言い出す始末。  
 お陰さまで、俺の一日は十時に寝て五時に起きるという七十代前半の老人みたいなタイムスケジュールさ。あいつは俺たち全員を賢いエミールにでもするつもりなのかもしれない。  
 そんな調子で数日が経てば、俺の一車両分しかない体力ゲージが電子顕微鏡じゃないと確認できないぐらいミニマムになるのも自明だろう。  
 かくして、学生生活の醍醐味とも言える昼休みは、オーバーワークで火を噴きそうな体を休めるための睡眠時間へと観念的変容を遂げたのであった。めでたしめでたし。  
 谷口、聴衆役は任せたぞ。緑色のタコができたら見せてくれよ。  
 
 
 朝練の最中、ハルヒの投げるバカに早いストレートを長門が無表情でホームラン軌道に乗せまくっている間、俺は見る影も無くなってしまった体力を少しでも回復させようと、ネット裏で背中を休ませていた。  
 長門は最初、自身がスピードガンと化したかの如く球が来ても不動の姿勢を貫いていたのだが、ハルヒの「真面目にしなさい!」という言葉を受け、本人なりに真面目にやる事にしたらしい。  
 やりすぎではあるが、まあいいさ。日頃溜まったストレスの解消になってくれてれば尚いいけど。  
 俺は宇宙まで飛んでいってそのまま衛星にでもなるんじゃないかと危惧してしまうぐらい高く伸びる白球に導かれ、顔を上に向けた。  
 ハルヒが野球熱中宣言をぶちかまして以来の数日、湿りを孕んだ空はそれでも乾いた布で磨き上げたような晴天続きであり、梅雨明けだとかニュースキャスターが言ってたが、それもどこまで本当なんだかね。  
 青空の下で響くカキンカキンという携帯サイトの登録数を思わず確認してしまいそうな効果音を聞くとも無しに聞いていると、古泉がご自慢のニヤケ面をぶら下げたまま、すぐ傍まで近寄ってくる。  
 蚊取り線香を常備しておくべきだった。  
「聞きましたよ、あなたのご友人が生徒会に入られたようで。会長もひどく喜んでいました。使える猫の手は多いに越したことは無い、とね」  
 机に足を乗せ、タバコをふかす会長の姿が目に浮かぶ。それなら、今度シャミセンでも貸してやるよって伝えてくれ。  
「シャミセン氏は非常に賢いですからね。意外といい仕事をしてくれるかもしれません」  
 ああ。少なくとも、妹の遊び相手は十分こなしてくれてるよ。  
「それで。何か用なのか、古泉」  
 さすがに一年も一緒に行動していると、雑談する雰囲気かそうでないかぐらい俺にだってわかってしまう。  
 予想通り、古泉は腐りかけたトマトみたく柔い言葉に僅かな真剣さをトッピングして、  
「良い知らせ、というわけでもないので甚だ恐縮ではあるのですが……あちら側の組織について、少しお耳に入れたい話があります」  
 お前が良い知らせを持ってきたことなんて、これまでに幾つも無かっただろ。  
 軽口を叩きながらも、シリアスな空気にあてられて少しばかり身を強張らせつつ、  
「あちら側っていうと、橘京子たちのことか」  
「ええ、まさしく」  
 古泉は一層声を落とすと、  
「最近になって、彼女らの動きが妙に慌しくなっています。何か行動を起こそうと考えているのか、それとも別の目的があるのか、ともあれ落ち着きの無い状態であることは確かなようです」  
 喫茶店で熱弁を振るっていた橘京子の姿を思い出そうとしたのだが、勝手に朝比奈さんが誘拐された時の忌々しい記憶まで浮かび上がってきたせいで、俺は苦りきった表情を作ってしまう。  
 ちなみに朝比奈さんは現在ねんざで療養中、という事にして、ハルヒの魔の手から遠ざけていた。あの方だけは守らなければならない。俺は中世の騎士のような使命感に現在進行形で燃えているのである。  
 
「事によっては、僕も色々と動き回らなくてはならない場合があるやもしれません。ああ、もちろん野球大会には這ってでも参加しますよ。これまでの練習を無駄にしたくは無いですからね」  
 安心しろと言わんばかりの気色悪い視線をよこす古泉から目を逸らしつつ、  
「心配せんでも、お前がいない間ぐらいハルヒの面倒は俺たちでみとくさ」  
 だから心置きなく超能力合戦でも陰謀渦巻く組織抗争でも何でもやってくれ。  
「非常に心強いお言葉です。ですが、気遣っていただく必要は無いと思いますよ」  
 何だよ、留守を頼むって事を言いたかったんじゃないのか?   
 古泉はいえいえ、と高級外車のワイパーのように両手を振りながら、  
「涼宮さんの内面については、現在小康状態にあると評して良いでしょう。言いたいのはむしろその逆です。僕が学校を休んだりしても、それは今話した件に従事しているのであって、神人が大発生しているなんて事ではありませんので」  
 ああ、別にそこまで心配性じゃないさ。それにな、トラブルが起きる時はどうしたって起きるもんだ。  
 俺にはそれを事前にどうこうできるような力は無いが、いざとなれば長門も朝比奈さんもいるし、ジョーカーを五十二枚重ねたようなハルヒだっているからな。  
「しかし、お前もえらく暢気な様子だけど、そんなんで大丈夫か? あっちは何か企んでるんだろ?」  
 他人の心配ばかりしている場合なのか。灯台の下はいつだって暗いのだ。  
「以前も言った通り、彼女があなたや涼宮さんに直接手を出してくるような真似をする可能性はまずないでしょうから。喉元を掴まれないのなら、どこまでいっても小競り合いの域をでません。お互いにね」  
 古泉は金庫に鍵が掛かっていると信じきった様子で言うと、  
「それに、向こうはどうも機関の人間を呼び出したがっているような気配がありまして。特にあなた方の近くにいる僕とは、何がしかの話し合いを持ちたいのかもしれませんね。無駄になる可能性が大きいと思いますが」  
 革命で敗れた権力派閥に供するにも似た同情の気配を言下に見せたものの、それをすぐに打ち消し、  
「あちらにどのような意図があるにせよ、アクションには違いないので。ここで彼女たちに対応するのは僕の役回りでしょう。彼女たちとは肩書きも似たようなものです。お茶会でも何でも、出席するのにやぶさかではありませんよ」  
 擬古的なレトリックを身体で表現するかのように芝居じみた動きで肩を竦める。しばしの沈黙。  
 会話の切れ目ってのは、どうしてこうも他の音が目立とうとするのか。部活生のただでさえ大きな声が殊更大きく聞こえる。耳が寂しがっているのかもな。そういやでかい耳を持つウサギなんか、よく寂しがり屋だと表現される。  
「お前らの事情はよくわからないけど、俺としてはまた朝比奈さんが攫われるような事態に陥らない限り、何でもいいってのが本音だな」  
 俺は場を繋ぐために総括的な感想を述べ、  
「ええ、あなたらしくて実に結構です。僕もその認識が最も正しいと思いますよ」  
 愉快そうな古泉の言に不愉快な含みを感じつつ耳を傾けていると、距離が近い分、他を圧倒してドでかいハルヒの声がフェンスを叩いた。  
「何よ有希、やっぱりできるんじゃないの。全弾ホームランにするなんて、いっそ清清しいわ。あんたって何か苦手なこととかないわけ? ……さ、次は古泉君よ! あたしの魔球を見事打ち果たしてみせなさい!」  
 疲れも見せずに腕を回す。魔球もくそも、ど真ん中ストレートしか投げれないだろうがお前は。  
 散々バットを振り回してもやはり汗一つかいていない長門は、白鷺のように静謐な足取りでベンチに下がると、辞書にしか見えないハードカバーを捲り始める。  
 古泉は片手を上げてチェンジ申請に同意を示し、バットを持った方の肩をしゃくるように動かした。  
「いやしかし、朝からこうして体を動かすのも悪くないものです。少なくとも、あれこれと考え込まずに済みますし。ああ、勿論たまにならの話ですよ。要らぬ考えを巡らせるのも、そう嫌いなわけではありません」  
 お前の趣味嗜好はどうでもいいが、まあせいぜい頑張って打率を高めてくれよ。インチキ能力を抜かせば、まともにスポーツできる戦力なんてハルヒかお前ぐらいしかいないんだからな。  
「お任せ下さい。これでも球技は得意なもので」  
 自分の超能力に引っ掛けたつもりなのか、微妙なニュアンスの言葉を残して、バッターボックスに向かう古泉。  
 俺はただぼんやりとそれを見送りながら、橘京子と古泉が森の中の喫茶店でティーポットを分かち合う様を想像しようとしていたのだが、なかなか上手くいかなかった。  
 湿った空気を長く吸ってたせいかな。想像力だって錆びるのかもしれない。  
 
 
「キョン」  
「あー?」  
「相談に乗ってくれないか」  
 アスパラのベーコン巻きを口に運んでいると、向かいでパンを貪っていた谷口が珍しく深刻な顔で持ちかけてきた。  
「何だよ、またフラれたのか?」  
「またって何だよ! 国木田の事だ国木田の! お前はいつもグースカ寝てるからいいけどな、最近のあいつってば本当ヒドイんだぜ」   
 ちなみに、当の国木田は生徒会絡みの仕事があるらしく、人間になれると聞いたピノキオのように勇んで生徒会室に出向していた。鯨の腹では書類仕事が待っているのだろう。  
 俺はベーコンのせいで赤みがついてしまっている玉子焼きを咀嚼しつつ、  
「じゃあ、何だ。ひょっとして、関係が進み過ぎて生々しい話にまでいっちゃってるとか?」  
 ガラスでできた大人の階段を恐る恐る登っているというのか、あの童顔が。割と下の方にいる俺としてはできれば蹴落としてやりたいね。他人の不幸は玉子味。  
「いや、そういうドキドキ要素があるならまだいいんだ。かなり腹は立つけど今後の参考になるし」  
 すんなよ。  
「そうじゃなくてだ! あんな幼稚園児の砂場遊びみたいにやれ指の先が触れ合いそうになっただの数センチの距離で目が合っただの言われ続けてみろよ。プラトニック至上主義に宗旨変えしちまいそうだぜ、俺は」  
 甘いな谷口よ。最近の幼稚園児はママゴトしてても平気で浮気とか愛人とか離婚とか口に出すらしいぜ。これも欧米化の一様相と取れないこともない気がするな。ろくでもないものばかり輸入してる。  
「欧米化でも過酸化水素水でもいいけどよ、とにかく何とかしないと、もうこの国はお終いだ。少子化に止めの一撃を打ち込みかねないんだよ」  
 一国を滅ぼす純情だ。どう考えても言い過ぎである。  
 呆れている俺目掛けて、谷口は口の端からパンくずを飛ばしながら、  
「つまり、今のあいつらの距離感が全ての元凶だ。そこで俺は考えた。昨日は寝ずに考えた。そして、もういっそ爆発させてやろうじゃないかという結論に至った」  
 プルトニウムの新しい活用法を見出してしまったマッドサイエンティストのように目を見開く。爆発って、二人の間を無茶苦茶にする気なのか?    
「おいおい、それはいくら何でも」  
「おーっとっと、勘違いすんなよ。爆発っていっても、何も吹き飛ばそうってわけじゃない。これはあいつの為でもあるんだ。いいか?」  
 谷口はいかがわしい睡眠術の大先生にでも師事したのか、人差し指をゆらりと揺らすと、  
「このままじゃどっちみちジリ貧だろ? だから、ここらでパーっとイベントを提供してやってだな、それで二人の距離が近づくならよし。ダメになるならそういう運命だ」  
 なんか去年も似たような台詞を聞いた気がする。ナイフの光沢のようにギラついた夕暮れ時の思い出だ。  
 俺は最後に残ったから揚げを口の中に放り込み、冷たい油のかたまりを噛み締めつつ、  
「そういうのは他人がどうこうしたらダメな部分だろ。第一、俺は今野球に賭ける青春なんだ。忙しいんだよ。何かやるんなら、一人でやってくれ」  
 ただし、あんまり邪魔立てするんじゃないぞ。馬に蹴られたくないならな。じゃあ、俺はもう寝るから。  
「待て待て、まだ相談の部分まで達して無いんだって。今寝たら、お前が長門有希と放課後の教室で抱き合っていた事を涼宮にチクるぞ」  
 
 そりゃ完全に誤解だし、ハルヒに言ったからといってどうなるわけでもない。  
 だが、この調子で騒がれでもしたら眠れるわけがないのも確かで、俺は沈めていた顔を上げ、渋々と聞いた。  
「……何なんだよそのイベントってのは」  
「だから、それをお前と今から考えようって相談だよ。ドゥーユーアンダスタン?」  
 すっげえうざいイングリッシュで返される。ひどい昼休みだな、今日は。  
「まま、そうため息をつくなよ。幸せが逃げていく足音もきっとそんな音に違いないぜ。ちゃんと俺なりに案を考えてきたからよ」  
 その案がまたひどかった。不良っぽい格好をした谷口並びに何故か俺が喜緑さんを襲い、そこをわざとらしく通りかかった国木田が助けにはいるという、完全に二十世紀的発想だ。  
 土佐日記と同じぐらいの古典っぷりに舌を巻く俺の方を見もせずに、谷口は自信を溢れ出させ、  
「グラサンとタトゥーシールさえあれば、俺たちゃ北高のギャングスターだぜ」  
 こいつの頭は常に引き潮なのだ。脳みそはもうカピカピ。  
「俺たちがギャングスターになるより、永久機関が発見される方がだいぶ早い。もっと現実的な話をしてくれ」  
「じゃあ合コンでもセッティングして、飲んだ勢いでこう、何かいい感じに……」  
「それは色々とまずいだろ。あと、国木田は下戸だ。すぐに寝るぞ」  
 中学が終わり遊び呆けていた春休みに勢い余って少し飲ませた事があるんだが、ビールを舐めただけで即入眠だった。  
「ちっ。なら、もういっそ川原で殴り合わせるしか……いや待てよ。その前に、図書館で同じ本に手を伸ばす二人ってのはどうだ。不意に重なりあう指先、そこにはいつの間にか恋の花が」  
「咲かねえよ」  
 っていうかそもそもプロセスをはしょりすぎだろ。  
 その後も、当然と言えば当然だし別にそれでまったく構わないのだが、谷口のミカンを包装する網みたく用途の限られた頭からは瞠目すべきアイディアなど出てはこず、いい加減眠らせてくれとボヤいていると、  
「谷口!」  
 食堂にいるはずのハルヒが、ロケット花火みたいな勢いで教室に飛び込んできた。散る火花のような目線は谷口を焦がしている。  
「あんた、今週の日曜空けときなさい。野球大会に出してあげるから。……あれ、もう一人のちっこい奴はいないの? キョン、あいつにもちゃんと伝えとくのよ。もち、妹ちゃんにもね」  
 それだけ言うと、せわしなくも廊下に戻り、またいずこかへと駆けていった。  
 後で聞いた話によると、助っ人として参加するはずだった野球部の連中が、揃って辞退したらしい。  
 野球部の監督を優に越えたハルヒの鬼コーチっぷりに恐れをなしていた彼らだから、安請け合いしといてもし負けでもしたら何されるかわかったもんじゃないと思ったんだろう。  
 非常に正しい判断だ。もれなく世界が壊される。今はそんな事しでかさないと信じたいものだが、さて、どうなのかね。日曜日を乞うご不安だ。  
「おいおい! 俺はまだ出るなんて言ってねえだろ!」  
 ハルヒの足音も聞こえなくなってから遅すぎる抗議を口にする谷口を横目にしながら、俺は胸の内でふと湧き出した思いつきにすっかり気を取られてしまっていた。  
 野球大会、か。  
 
 
 放課後になり、シャナンハムも凍えそうなほど厳しいハルヒの野球特訓も終了する時間になると、忘れ物をふと思い出したかのような唐突さで、小さな雨の銀幕が空を覆った。  
 もう少し早く降ってくれていれば、ヘッドスライディングを強要されて泥まみれになることも無かったかもしれないのに。  
 下駄箱の前で突っ立ったまま口を尖らせる俺の脇を、幾人かの生徒が頭に鞄を乗せながら通り過ぎていく。教科書よりも自分が大切なんだろう。わかるねその気持ち。  
 勝手に同調しながら、せんでもいいのに無理して成長しようとする筋肉の痛みをもみほぐしていると、背後から声がかかった。  
「あれ、ここで会うのって珍しいよね。今帰り?」  
「ああ。たまには一緒に帰るか」  
 振り向いた俺を一瞥し、靴を履き替えてすのこから降りた国木田は、傘立の中から手探りで一本、体の割に大き目な藍色の傘を選び出すと、  
「キョン、ちゃんと持ってきてる?」  
 俺は頷いて、鞄の中から親父臭い折り畳み傘を引き抜いた。備えあれば憂い無し。最近天気予報が信じられなくなってきたからな。自分の機嫌を鏡に映すように空模様を変えてしまいかねない奴がいるせいだ。  
 国木田は気の知れた感じの無表情で軒先に出ると、藍色の傘を広げて一歩踏み出した。俺もその後に続く。  
 軽微な雨粒が弾ける、潮が流れるような間断ない一音を聞きながら、坂を下る足並みを揃えた。  
「野球大会の話聞いたか?」  
「ああ、聞いた聞いた。去年は勝っちゃったからねー。今年はどうなるだろ」  
 どうやら出る気まんまんらしい。相も変わらずノリのいい助っ人だよ。昔から無駄に付き合いのいい奴だからな。たまには迷惑賃を払ってやらないとバチが当たりそうだ。  
 切り出すタイミングを考えようとして、途中でやめた。面倒だし、俺はそういう気の使い方があんまり得意じゃない。  
「どうせお前が出るんなら、誘ってみたらどうだ? 喜緑さん」  
 我ながら何の脈絡も無い提案は国木田にとってもよほど不意だったらしく、縄張りの草が全て枯れる夢をみたせいで寝違えたヌーのように俺目掛けて首を捻ると、  
「……なんで?」  
 目をむいたまま口パクした末、端的に疑問を表現した。  
 俺は事前に用意していた口上を述べる。  
「どっちにしろ補欠が欲しかった所なんだ。ハルヒはあんなんだから勝たなきゃ済ませられない性分だし、特にうちの妹なんて野球に関しちゃそこらのダンゴムシといい勝負だからな。もう少しまともな人材が欲しい」  
「それで、何で喜緑さん?」  
「知り合いだからに決まってる。俺は他にも探してみるつもりだし。補欠は何人いたっていいだろ? だから、お前には喜緑さんをあたってみて欲しいって、そういうことだ」  
 もちろん俺にしてみれば野球の勝敗の行方など新聞の地方芸能欄以上にどうでもよく、他の補欠を探すつもりなんて最初っから無かった。  
 谷口に釘を刺しといてなんだが、学外でプライベートな時間を共有すればもうちょっと仲良くなれるんじゃないかという短絡的な考えに基づいた、これは完全なお節介だ。  
 都合のいいことに野球大会が目前に迫っていることだし、こいつを利用しない手はないさ。ドラマチックベースボールだ。たまには汗臭くない異性間のドラマだってあるかもしれないだろ?  
 ま、あれだ。あんまり自分に縁がないと、他人の中にそれを認めるだけで満足してしまうものじゃないか。こういう心理状態って何か名前がついてたような覚えがあるな。負け犬シンドロームだっけ。  
 ああ、どこかに俺の愛の矢を朝比奈さんの胸の真ん中に突き刺してくれる親切な代理狩人はいないのだろうか。  
 切ない気持ちになりながら、俺は続ける。  
「誘うだけ誘ってみてくれよ。SOS団からの頼みって言えば、多分来てくれるような気がする。もしダメでも、いい話の種になるんじゃないか」  
 部長氏の件を貸しなんて言うつもりはないし、向こうもそう思っちゃいないだろうけど、ひょっとしたら、な。  
 それに、大会には長門だって出場するわけだから、あいつの監視が喜緑さんの役割だとしても職務違反ってことにはならないだろう。  
 
 
 薄い雨は止まない。干されたシーツを何枚も潜るようにしてしばらく歩いたあと、国木田は傘の下に戻ると、  
「わかった。誘ってみるよ」  
 何でもない風に答えているが、どうなんだろう、本当は。やっぱ青臭い葛藤とかその他諸々が煮詰まっているのだろうか。背丈の関係上、表情を窺う事はできなかった。大は小を兼ねないな。  
「国木田」  
 気付けば、俺の口は開いていた。あんまり自然に開いたもんだから、自分でも少し驚いたぐらいだ。  
「なに?」  
「お前、どうしてそんなに喜緑さんと、その、あれだ、友達になりたいんだ?」   
 こういう事は誰にだって滅多に聞いたりしないんだけど、今回は成り行き任せの特別の特例ってことで勘弁してくれ。  
 なんせ相手があの喜緑さんだからな。俺たちSOS団の今後にダイレクトに関わるキャストであることはもう間違いなさそうな人だ。  
 これ以上俺の知らない所から張り巡らされた蜘蛛の巣状の複雑な関係図に、不用意な線を引くのはおっかない。  
 例の如くポロスの意見に反駁するソクラテスのような舌好調喜緑トークを覚悟していた俺に向かって、しかし国木田は静かに呟いただけだった。  
「さあ、どうしてだろ」  
 どうしてだろって、お前な。いつも散々あーだのこーだの言ってるじゃないか。  
「それはそうなんだけどさ…………じゃあ、一年前のキョンはどうして涼宮さんに声をかけたの?」  
 はあ? どうしてあいつの名前が出てくるんだよ。  
「いいからほら、きちんと答えてよ」  
 何だか妙に強気だな、最近のこいつ。そもそも先に尋ねたのはこっちの方なんだが。  
 納得いかない部分もあったが、わざわざ口に出すほどのことでも無いし、痛くも無い腹を藪医者に探られるのは真っ平御免なので、至って普通に答える。  
「そりゃ、たまたま席が後ろだったからに決まってる。あいつの苗字が涼宮だったせいだ。明治維新が悪い」  
「嘘だね。そんな理由じゃなくて、もっと色々考えた上でだろ? ああしたいとか、こうなればいいなとか、色々と」  
 雨にも負けずに断定口調で返されてしまった。俺は半ば反射的に、痛くも無いはずの腹の辺りを掻いてしまう。  
 言ってくれるじゃないか。しかし、ギブアンドテイクなのはどこも一緒だ。聞くには聞かせなくてはならないのだろう。例えそれが身体の内側の話でもな。  
 俺はいらん事を聞いてしまった自分の気まぐれを呪いながらも、実際に耳にしたことなんてないが、いわゆる蚊の鳴くような声で言った。  
「わかんねえ。色々と言われれば、色々かもな。説明できるようなものでもないし、もう大して覚えてない」  
 それからしばらく何のリアクションも返ってこず、雨音に被って聞こえなかったのだろうか言い損だなチクショウなんて思っていると、やおら隣の傘が喋りはじめた。揺れる藍色は紫陽花のようだ。  
「僕もそんな感じ。僕らは生きて動いてるんだから、言葉だけじゃ伝えきれないものも、やっぱりあるんだよ」  
 どうやら、恋は人を詩人にするってのは本当らしい。何言ってるのかさっぱりわからない。随分スピリチュアルだが、魂の在り処とかその辺の難しいことを言いたいのか?  
 見栄を気にする年頃の俺は、それらしく詩的な表現で答えようと、おがくず頭をクランクで捻ってみる。  
 
 母は言う 洗濯物が 乾かない 俺の恋人 濡れたTシャツ  
 
 マーヴェラス。どこかの賞とか狙えるかもしれない。  
「キョンってさ、照れ隠しは結構下手だよね」  
 去り際に国木田がそんな言葉を残したのは、俺の才能に嫉妬したためだろう。  
 
 
 歳月が流れるのは早いもので、いよいよやってきてしまった日曜日だ。  
 天気はまさにピーカンと叫びたくなるほどの晴れ晴れとした青空で、阪中家の飼い犬を髣髴とさせる白くて浮ついた雲が産卵期のメダカの群みたいに漂っている。  
 朝も早くからジャージ姿で市営グラウンドに集合したメンツは、SOS団の五人と、谷口と国木田の二人。そして毎度御馴染みの、  
「よーっし、頑張っぞーっ! 目指せ三冠王だっ! 打って投げて……もっかい打つ!」  
 ハルヒに次いで元気大爆走なジャージ姿の眩しい鶴屋さんと、  
「あ、みくるちゃん、見て見てこのジャージ! お母さんに買ってもらったんだよー」  
 いい加減見飽きた感のある俺の妹。明るいピンク色のジャージに身を包んでいる。ガキっぽくてよく似合ってるじゃないか。  
 そしてさらに、その見事な直線を描く胸に抱かれているのは、  
「にゃごる」  
 シャミセンである。何で連れて来たんだよお前は。銀河鉄道にも乗れなそうな猫だぞ。バットなんか持てやしないだろ。勿論グローブも以下同文だ。  
「シャミはね、十番目のナインなの。すっごく上手なんだよ。こないだ石鹸でバスケットボールしてたもん。ねー、シャミー?」  
 そりゃ凄いな。でも、野球にドリブルテクニックは必要ないんだぞ。  
「いいじゃないのキョン。ベンチに猫なんて、何か縁起が良さそうだし。シャミセン、あんた小判持ってないの?」  
「にゃぐ」  
 おい、あんまりヒゲを引っ張ってやるな。機嫌が悪くなるんだよ。  
「意外とデリケートなのね、あんたって」  
 ハルヒはシャミセンの頬を指で弾くと、  
「ところで」  
 そのまま上半身をぐるんと一捻りし、芋ほり遠足かよと突っ込まれそうなジャージ集団の中にいつの間にやら佇んでいた喜緑さんを目ん玉に収め、  
「なんであなたがここにいるの? ……まさか、あのメガネ野郎の差し金! スパイガール!」  
 もちろんスパイガールなどではなく、国木田の緩んだ口元から察するに、喜緑さんは快くお誘いに乗ってくれたのだろう。相変わらず、長門とは目を合わせようともしないが。  
 俺は一人で会長陰謀論を唱えだした妄想大好き女子高生の手首を素早く捕まえ、即席チームメイトとなった八人からキャリーバッグを運ぶようにして引き離す。車輪が無いせいで重いったらない。  
「ちょっと、何すんのよいきなり」  
 数歩分離れた所で、思い出したように腕を振り解かれる。お前がいつも俺にしてる事だろうが。  
 殺意さえ感じてしまいそうな程筆舌に尽くし難いハルヒの視線を気にも留めず、もう慣れたからな、曲芸師のような軽やかさで俺は言う。  
「ときにだ、ハルヒよ。野球に必要なものは何か知ってるか」  
 ハルヒは靴下を耳にはめる奇人に遭遇したかのような顔を一瞬見せたが、気を取り直したのか不機嫌面に戻ると、  
「バットとグローブと根性よ。決まってるじゃない」   
 大事なものが色々と足りない気がするが、まあそれはいい。俺はやれやれとばかりに額に手をやり、  
「甘いなハルヒ。お前は野球のことを原形質ほども理解していない」  
「はあ?」  
「いいか、俺たちの野球には、決定的に欠けているものがある。それは」  
 何言ってんのかしらこのタコ、って感じの表情を浮かべるハルヒの後方、はじめから描き込まれていたのではないかと疑ってしまうほど周囲の風景に自然と溶け込んでいる喜緑さんを指差して、  
「マネージャー、もしくはそれに準じて違和感の無い人材だ」  
 見ろよあの純朴で清楚な感じ。ヤカンでも持って立ってたら、そりゃもう校庭のマドンナとして汗臭い連中の完璧なマネージメントをしてくれそうじゃないか。  
 
 
「…………」  
 これはハルヒ。ノーリアクションである。あれ? おかしいな。こいつのことだから、  
『なるほど、あんたにしては気が利いてるわ。たしかにマネージャーは必要よね』  
 なんて言いつつ納得すると思っていたのに。いつもの嫌になるぐらいインフレ気味なテンションはどうしちまったんだ。  
 それどころか、ハルヒは一瞬で目の形を杭の底のような鈍角三角形に整形すると、  
「あんた、ひょっとしてああいうのがいいわけ?」  
 見当違いなことを言い出す始末。いや、俺はどうせ年上なら朝比奈さんの方がよりアバンギャルドにトキメキを、  
「うっさいバカ。長口上はいいのよ」  
 フリーズドライされた声色。花の保存には適しているかもしれないが、言い草としてはあんまりだ。自分が振ってきたくせに。  
 俺は心なしか殺意五十パーセントアップな視線に晒されて流石にたじろぎつつ、  
「そういうんじゃねえよ。前にたまたま会った時に野球のこと話したんだ。そしたら観に行きたいって言うからさ、別にいいだろ? ベンチも客席も大して変わらないし」  
 最近、出任せばかりが上手くなってる気がする。周りが秘密主義の奴らばっかりなせいに違いないね。  
「……ふうん。ま、追い返すわけにもいかないしね。どうせだから、たっぷりとマネージメントしてもらおうじゃないの」   
 待て、何だその表情は。口元は笑ってる癖に目が三角のままじゃないか。もうちょっと丸めなさい。  
「あんたがマネージャーって言ったんでしょうが。さしあたってコスチュームチェンジしてもらわないとね。本当はあたしが着るつもりだったんだけど、譲るわ。ジャージの方が締まって動けるから」  
 ハルヒはそう宣言すると、受付に向かい歩き出す。  
 野球とコスチュームという二つの概念から止揚されうるものなんて、俺の頭には一つしかなかった。それが少し悲しい。  
「お前、またあの衣装持ってきたのか」  
「たまには袖を通さないと生地が老けるでしょ。それに、そっちの方が気合も入るみたいだし」  
 ハルヒは振り返らなかったが、おそらくアヒルみたいな口をして言ったのだろう。  
「あんたみたいなマヌケは特に」  
 俺はマヌケ面のまま、慣れないお節介なんて焼くとろくな事がない、と早くも後悔していた。  
   
 
 今回の対戦相手は、幸か不幸か上ヶ原パイレーツではなく、中年のおっさん達がボルボックスのようにひしめき合ってできた即席チームだった。  
 聞く所によると全員が近所の商店街の店主らしく、かつて白球を追いかけた者同士がセンチメンタリズムを介して繋がり合い、今回出場に至ったという。  
 わざわざ発注したと思しき真新しいユニフォームからはみ出し気味の腹はこちらの油断を誘うが、全員が野球経験者であるという事実を鑑みるに、弱小というわけではないはずだ。  
 しかし、和やかな練習の様子を見ていると、勝ちに来たというより楽しみに来たって感じで、去年みたいに大人気の欠片も無い大学生よりは都合のいい相手だと言えるだろう。  
「さあみくるちゃん! それと生徒会の人も! 今まさに戦へ赴かんとする猛者どもの士気を高めるの! あたしが昨日わざわざ作り直した頑丈ボンボンなんだから、心配しないで振って振って振りまくりなさい!」  
「ひええぇ〜、振ります、ちゃんと振りますからぁ〜! そ、そんなに揺らさないでくださ〜いっ」  
「みなさん、頑張ってくださいね」  
 十人と一匹しかいないくせにチアガールを二人も擁したうちのチームが相手からどう見えるかってのは、このさい考えない方が良さそうだ。人間万事知らぬが仏。  
 さて、それで肝心の試合内容なのだが、結論から言ってしまえばごくごく普通の健全な草野球だった。  
 打順とポジションは面倒くさいからというハルヒの超個人的な理由により前回と同じままで決定し、両チーム整列の後にスポーツマンらしく短い挨拶を交わして試合開始。ジャンケンで負けた俺達は後攻だ。  
 はじめはハルヒの女子高生らしい細腕とはとても結びつかない球速にビビっていた相手チームも、バカ正直なストレートしか投げることができないと見抜くや否や、バカスカ打ちはじめやがった。  
 下手に球威があるもんだから飛距離が伸びる打球もまま有り、俺と谷口は色んな体液を撒き散らしながら、得点板に致命的な数が描かれないよう、音楽室の防音壁のように穴だらけの外野に走りこみ続けた。  
 何とかかんとかアウトをもぎ取り一転して攻撃となると、こちらも負けてはいない。  
 長門には事前にやりすぎないよう注意しておいたおかげでぶっちぎりホームランは遠慮しているらしかったが、それでも打率十割のヒット製造機と化し、ハルヒ、古泉、さらに鶴屋さんも安定したバッティングを披露している。  
 相手ピッチャーも朝比奈さんや妹に投げる時はまるで愛娘に接すように柔い球を放ってくれて、それでもまったく打てないわけだが、少なくとも怯えたリスのような表情を朝比奈さんが浮かべる事は無かった。  
 俺と谷口の体内における水分量の著しい減退を除けば、試合は一進一退。  
 神風のごとき幸運に加えて猛練習の成果もあったのだろうが、長門の魔法に頼ることもなく、去年に比べれば風のない湖面のごとく穏やかに進行していたのだ。  
 やっぱり草野球ってのはこうでなくちゃいけない。去年のようなどこもかしこも凍った水面みたいにギスギスした試合なんて、それこそテレビの中でやってくれれば十分だ。  
 というわけなので、以下、あんまり普通じゃなかった所だけダイジェストでお送りする。  
 
 
 ハルヒはまだ投げ勝っていたのだが、守備の連携が十分に整っておらず先制点を許してしまい、1−0で迎えた一回裏。  
 三塁上ではしょっぱなから気持ちのいいスリーベースを放った背番号一番ハルヒがふんぞり返っており、打席では朝比奈さんが落ち着かない様子で子ウサギのように小刻みに震えている。  
「みくるちゃーん! 絶対当てるのよ! 当てるにはいつもより早く振るの! 早く振らなきゃ当たらないんだから、早めに振りなさい!」  
 三段論法で真理を証明しようとするハルヒの声に背中を押され、おっかなびっくりバットを肩の位置まで上げる朝比奈さん。  
「よ、よろしく、おねがいしまぁすっ」  
 丁寧な挨拶に笑顔で頷いた三十代後半であろう小太りのピッチャーは、下投げでゆーっくりとした球を放る。綺麗な弧を描き朝比奈さんの下へと舞い降りる白球。目さえ開けていれば確実に打てそうな球なのだが、  
「は、はわああぁ〜っ」  
 目を頑なに瞑っていた朝比奈さんはバットを思いっきり空振った末に、自分の方がくるくると振り回され、地面に尻餅をついてしまいそうになる。あわやパンチラ!   
 夢と希望の名の下に思わずしゃがみこんでしまった俺と谷口の視界に入ったのは、清純な白でも大胆な黒でもなく、回転しながら高速で飛来する土色の三塁ベースだった。  
 いかん。俺は咄嗟に地に伏せる。  
「へぶっ!」  
 ベースはそのまま谷口の頭にぶちあたり、  
「うわぁっ」  
 たまたま隣にいた国木田の体に落下。  
「こらー! パンツなんかその気になればいつでも見れるでしょうが! 今この時ぐらいは試合に集中しなさい!」  
 並外れた反射速度でベンチに走り込みながら投擲したらしい。息を上げたハルヒが叩き起こされた猪のように突貫してくる。にしてもさすがピッチャー兼強打者。驚くべき豪腕とコントロールだ。  
 どうすればいいのかと固まっている相手チームとアウトを宣告するタイミングを逸したらしい塁審を意に介さず、ハルヒはベースを拾い上げてのっしのっしと三塁に戻っていく。  
 というか、あいつ思ってた以上に真剣だな。こりゃ負けたらやばいかもしれん。  
「うっわ……キョンが避けたせいで泥だらけだよ」  
 それは俺のせいではなくて多分パンツのせいである。  
 
 
 二回表。朝比奈さんの後に控えていた長門のヒットで一点を返したため、現在1−1。  
 三塁側にゴロ気味で跳ねた打球を、鶴屋さんが素早く追いかける。  
「よっしゃっ! もらったっ!」  
 さすがに器用な鶴屋さん。上手くグローブが球を掬い上げた、と思いきや、  
「にゃおん」  
「あれ? わ、ま、待つにょろ〜!」  
 飛び出してきたシャミセンが滅多に見せない野性を発揮し、玉ころがしの要領でボールを追いかけやがった結果、相手チームにもう一点献上。  
 数分後、球場には妹により捕獲されハルヒの手で丁重にリュックに詰め込まれるシャミセンの姿が。  
 十番目のナイン、退場の瞬間であった。  
 
 
 さらにその裏。古泉が右中間に抜けるヒットを放ち一塁に出て、続く国木田は三振。次打席の鶴屋さんがバントを上手く転がして古泉を走らせる。  
 ツーアウト二塁。一番のハルヒに繋げるため、何としてもヒット性の当たりが欲しい所なのだが、  
「チアガール……いいじゃないか」  
 続く打者であるはずの谷口は、ベンチ前でウェルテルの如き苦悩の表情を浮かべつつ、遠い目のまま見えない誰かに話しかけていた。おっかない。  
「なあ、キョン。友人の想い人を盗るのって、アリだと思うか?」  
 んなもん盗る暇があったら塁の一つでも盗ってくれ。  
「……すまん国木田。俺、あの子のハートにホームスチールをかけてくる!」  
 ナイスセンターフライだった。  
 ブーイングも何のその。一皮剥けた男の顔でベンチに戻ってきた谷口は、  
「いやー、やっぱり友達は裏切れないじゃん?」  
 結果的に友情の勝利である。  
 
 
 続いて四回表、4−2で、ツーアウト二塁一塁の場面。  
 バッターはいかにも強肩といった風体のオッサンで、バットの芯から僅かにずれた打球がレフトに飛び、あわやホームランかというぐらい高く伸びる。妹はそれを見て、  
「うわー、たかーい」  
 本気で感心していた。まるで花火気分だ。谷口が全力疾走し、何とかキャッチ。走らされすぎて倒れこむ谷口を横目に、俺は妹の頭をはたいた。もうちょっと頑張りなさい。  
「きゃは、ごめんなさーい」  
 ノーダメージである。  
 
 
 五回裏。ノーアウトのまま俺の三打席目が回ってきた。  
 四回裏に鶴屋さんが活躍して下さったおかげで4−4のスコアまで追いついており、今も二塁には長門の姿がある。逆転するチャンスだ。  
 ちなみに、俺の今までの成績は二打席ノーヒット。一打席目は緩いピッチャー返しをあっさりと処理され、二打席目は三振だった。   
 ピッチャーはどうやら変化球、下に抜けたのでフォークか? とにかくそれを持ち合わせているらしい。そこまで切れがいいわけでもないし直球も大して速くないのだが、素人の俺からしてみたらやはり厳しかった。  
 前打席の三振も散々揺さぶられた末の空振りだ。  
 しかし、今は流れを変える重要な場面。いい勝負なだけに、かかるプレッシャーも超重量級である。  
「キョン! 火星までぶちかますのよ! NASAには事後承諾でいいからね! 打てなかったらローラーで轢くからそのつもりで!」  
 特に約一名が応援紛いの脅迫をくれるせいで、その重さはねずみ算的に増す一方だった。背ローラーの陣。  
 俺は一度素振りして気を落ち着けたあと、白線で縁取られたバッターボックスに入る。  
 さあ、俺のピタゴラスもビックリな明晰頭脳よ、今こそ目を覚ますときだ。  
 球筋を読め。あのヘラクレスも嘔吐するような猛練習を思い出すんだ。相手の肩部筋肉の動きやその他のあらゆる癖から次の球種を判断し適切なバッティングを、  
「ットラーイク! バッターアウト!」  
「ばかキョーーン!!」  
 ぶっちゃけ無理である。   
 
 
 五番の妹が三振に終わった頃、試合の残り時間はあと五分を切ろうとしていた。  
 一試合目には九十分の時間制限が課せられている。途中でシャミセンを追い回したりしなきゃもう少し余裕があったのかもしれないが、今更猫科の習性に文句をつけたところで始まるまい。  
 古泉が打席に立ち、バッターズサークルでは国木田が待機の姿勢に入る。  
 俺は一通りハルヒに罵声を浴びせられたあと、隅のベンチで深い森のような静けさをたたえつつ試合を見守る喜緑さんの隣に腰を下ろし、何とはなしに尋ねた。  
「見てるだけで退屈じゃなかったですか?」  
「いえ。とても興味深く観戦させてもらっています」  
 タオルで瞼の汗を拭ってから試合に目をやると、古泉がまだファールで粘っている。  
 せっかく隣に座ったんだし、俺ももうちょっと粘って喜緑さんと話してみるべきなのかもしれないが、これ以上は話題が続きそうにない。どうせつまらない男さ。  
 ポップかつティーンでメンズっぽい自虐を弄しながら、タオルの陰から喜緑さんの方をちらと窺ってみても、頑ななまでの微笑からは何も読み取ることはできなかった。  
 長門と対する時のように瞳の動きだけで真意を察するなんて真似はもちろん不可能だ。  
 だから、喜緑さんが何を考えて今ここにいようが俺には全然関係無いし、たまに視線を寄越してくる国木田のことをどんな風に捉えているのかなんてのも、知ったことではない。  
「今日、来てもらえて良かったですよ。人が増えたお陰で、みんな去年より騒ぎやすかったと思います」  
 俺はただ、二人のチアリーダーを並べてサイケデリックな動きを指南していたハルヒの姿を思い浮かべながら、苦笑交じりに礼を述べる。  
 すると喜緑さんはこちらを向くなり、牡丹のように座ったままで軽く会釈を返してくれた。雅なり花鳥風月と女子高生。国木田が惚れ込むのもよくわかるね。  
 見惚れているうちに、やにわに快音が響き渡り、グラウンドでは人が慌しく動いていた。どうやら古泉がヒットを打ったらしい。  
 これで一塁三塁になって、試合を勝ちで終わらせる最後のチャンスがやって来た。しかもバッターは国木田。今日いいところ無しだったあいつがカッコいい姿を見せるチャンスでもある。  
 ただ難を言うと、ノーヒットの俺が言うのもなんだが、あいつはそこまで野球が上手いわけではない。あんまり期待をかけてやらない方がいいのかもしれん。  
 同点のままで終わってもまだジャンケンがあるはずだし、必要以上のプレッシャーを感じたりはしていないだろうが……ま、何はともあれ応援しないと。  
 俺はベンチから立ち上がろうとして、  
「付き合ってほしいと言われました」  
 中腰のままロダンの作品のごとく静止するのを余儀なくされた。  
 チームメイトが一際大きな声援をあげる。国木田がバッターボックスに入ったらしい。俺は騒音のせいで突飛な聞き間違えを犯したのかと思い、  
「あの、今何か言いました?」  
「はい。先ほど付き合って欲しいと言われました。彼に」  
 チアガール姿で微笑む喜緑さんの視線の先には、バットを構える国木田の姿がある。  
「つ、付き合ってって、あいつからですか?」  
「ええ。次の打席でヒットを打てたら、明日の放課後付き合って欲しいと」  
「……そっちですか」  
 肩透かしを食らったせいで項垂れた俺は、だが喜緑さんに気取られないよう、わずかに首を捻った。  
 いくら浮ついてるからって、あいつがそんな漫画の読みすぎで青春を曲解したような台詞を吐くものなのだろうか。  
 らしくないと言うか、まあそう言ってしまえば最近のあいつはずっとらしくないのだが、今一つ納得し難い部分がある。  
 そもそも先も述べたとおり国木田の野球センスは決して磨かれているとは言えず、都合よくヒットを打てるなんて本人も思っているわけ無いのに、と、疑念が最後まで形になる前に、バットが硬球を捉える音が鳴り響いた。  
「マジかよ!?」  
 湧き上がるベンチから一歩遅れて身を乗り出すと、放たれた打球は前に出ていた外野の裏をかくように鋭く飛びすさり、フェンス間際でようやくバウンドする。  
 相手チームがボールを追っている間に長門は早歩きでホームベースを通過した。  
 逆転のタイムリーヒット。  
 呆然とする俺の隣で、喜緑さんはギリシャ彫刻のような微笑みを欠片も崩そうとはしない。  
 
 
 すぐさまタイムアップが宣言され、国木田の凱旋のあとでひとしきり甘美な勝利に酔った俺たちだったのだが、次の試合ができるほどの体力なんて微塵も残っちゃいない事にも誰とも無しに気付いていた。  
 そのため俺は皆を代表してハルヒに二回戦の辞退を進言し、初めぐずっていたハルヒも俺の妹が空腹を訴えはじめる段になるや、  
「そんじゃ、昼ごはん食べにいきましょうか!」  
 ということで、去年と同じファミレスを利用することと相成った。  
 それこそ去年の焼き回しのような展開なのだが、一つだけ違うのは、今回俺の財布に何らかの札の類、いやさ硬貨すらも入金されず、要するに出費を喜んで受け入れられるほどのキャパなんて皆無だということだ。  
「さあみんな、じゃんじゃん頼んでいいわよ! 今日はうちのキョンがご馳走してあげるから!」  
「おい待てこら。どうしてそうなるんだ」  
 隣で暢気な鼻歌を奏でつつメニューを手に取るハルヒに、俺はしごく真っ当な疑問をぶつける。今モノローグで金無いって言ったばっかりだぞ。  
「ヒットも打てないようなへたれの声なんてあたしの耳には聞こえないわ」  
 何だよ、谷口だってノーヒットだったじゃないか。どうして俺ばかり親戚がやたらと多い旧家の正月みたいにお年玉的な費用を、しかも大半が同級生であるこの場で納めなければならないんだ。疑問は尽きない。  
「あんたは仮にもSOS団の正式メンバーでしょうが。不甲斐ない団員を持ってしまった団長の無念に満ちた心中ぐらい察しなさい」  
 邪魔な雑草でも間引くかのようにすげなく返したハルヒは、『今月のスペシャルハンバーグ』と題されたラミ入り一枚紙のメニューを眺める長門に向かって、  
「有希、何でも好きなやつ頼んでいいわよ。そうね、これなんてどう? ファミレスのくせにえらく高い価格設定が食欲をそそるわ」  
 こいつ、四番である俺が活躍しなかったのを根に持ってやがる。どうせ十人分なんて絶対払えないし、何とか誤魔化して割り勘にさせる術を考えないと。  
 料理を選ぶ前に金策を講じなくてはならない俺の内心を正に嘲笑うように、背後からは楽しげな笑い声が聞こえてくる。  
 さすがに十人で一テーブルは狭すぎたため、SOS団以外のメンバーは後ろのテーブルに固まってもらっている。国木田と喜緑さんもそっちの方で向かい合わせに座っているはずだ。  
 
「いい? あんたは普段ボケっとしてるくせに、バッティングとなるとせっかち過ぎるの。一回で打てなくてもいいから、投球をじっくり見て、打てる球を見極めるなりタイミングを覚えるなりしなさい。そうすりゃ猛打賞ぐらい軽いわよ」  
 俺はハルヒが繰り広げる野球論に耳を傾けるフリをしながら、背後の二人の会話を聞き取ろうとしていた。  
 考えてみれば、俺は生徒会の手伝いをした日以降、二人が会話しているところを見たことが無かったのだ。よからぬ好奇心を抱くのも無理からぬことさ。  
 しかし、聞こえてくるのは妹のはしゃぎ声や鶴屋さんの大爆笑や谷口のどうでもいい話ばかり。国木田も相槌を打ったり話題を振ったりはしているものの、喜緑さんと直接言葉を交わす様子は無い。  
 気になって背後を窺ってみても、国木田の後頭部越しに見える喜緑さんの表情はさっきと何ら変わりないように見える。決定事項となった明日のお付き合いについて、思う所は無いのだろうか。  
 ま、そうそう隙を見せるような人ではなさそうだしな。心臓の辺りがわかりやすく光ったりも勿論しない。  
 夜明けの海でイカの一匹も釣れなかった漁師みたくすごすごと引き下がろうとした俺は、しかし後ろのテーブル全体を視野に入れる段になって、はたと思い至った、というより、思い出した。  
 そう言えば、試合中の俺は何か気にしていた事が有ったはずだ。あれは……何だったっけ? 覚えたと思った英単語が次のページに移るとすぐに零れるように、今の俺はそれを忘れてしまっている。  
 もう一度、今度はじっくりと後ろのテーブルを確認する。  
 小さな引っ掛かりを逃がさないように、しきり板から浮いた全員の姿を順に探り、そしてもう一度国木田に、一人だけ妙に浮いた肩の色によく目をやると、ようやくそれに気がついた。  
「おい、国木田」  
「うわっ、ビックリしたー。何だよキョン、人の頭の後ろから」  
「お前、ジャージはどうしたんだ」  
 俺のせい、ではなく罪作りなパンツのせいで泥まみれになったってやつ。あれがさっきから見当たらない。他の連中は全員ジャージを着ているのに、国木田だけが夏に取り残されたかのように白かった。  
「は? ジャージ?…………あ」  
 この様子だと、忘れてきてしまったらしいな。こいつは最近色々と熱を上げすぎだ。そりゃメモリだって振り切れる。  
「どうすんだよ。ここを出てから取りに戻るか?」  
 ここからグラウンドまではそう遠い距離じゃないし、普通ならそうするだろう。どうしてもって言うんならそのまま俺が引き取ってクリーニングしてやってもいいけど。  
 しかし国木田は、なぜか考え込むような間を置いてから、  
「いや、今日はいいよ。今度自分で取りに行くからさ」  
 そうか? せっかく近くにいるんだから、今日のうちに取りに行った方が良いのに。  
「いいって。でも迂闊だったなー。全然気付かなかったよ」  
 まったくだ。今の今まで気付かなかった他の奴らもだし、うっかり忘れていた俺も俺だが。  
「そうですね」  
 自分の記憶力に呆れていると、思わぬ人から声がかかった。  
「私も、今あなたから指摘されるまで気付きませんでした。ずっと正面にいたのに、どうしてでしょう。不思議ですね」  
 いきなり会話に参加してきた喜緑さんに笑いかけられ、国木田は苦笑いで体操着を引っ張っている。  
「こらキョン! あんたちゃんと他人の話を聞きなさい! 誰のために必勝打法について語ってあげてると思ってんのよ!」  
「いってえ! 耳を引っ張るなよ耳を!」  
 耳朶を万力じみた握力で引っ張られながら、涙の染みた視界にもう一度喜緑さんを映したのだが、柔らかな笑顔に揺らぎは無い。誰も今の言葉に疑問を持っていないようで、話は谷口の失敗談へと転がっていってしまった。  
 正面の長門は、気がかりなど欠片も無いといった無表情で黙々と豪勢なハンバーグを口に運び続けている。  
 だけど俺の頭の中では、ハルヒのトンチキな打法を無理矢理伝授させられている間も、何も燃えていないのに煙だけが撒かれているような妙な違和感が燻っていて、なかなか消えようとしなかった。  
 
 

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