月曜日になると、外はまたしても雨だった。ショートの髪が風呂上りに水滴を散すようなささやかなものだったが、やっぱり俺が危惧していた通り、梅雨に逆戻りしたみたいだ。  
 野球地獄も終わったことだし、夏男である俺は爽やかな陽射しを何一つ憂うことなく浴びられるだろうと期待で胸躍らせていたのだが、あえなく空振りだな。  
 昨日散々暴れまくったお陰で餓鬼のように尽きぬ騒動欲求を少しは満足させたのか、俺とは対照的にご機嫌な感じで教室の桟をくぐったハルヒは、湿った腕を柄にも無く可愛らしいタオルで拭いながら席に座ると、  
「あたしさ、このサーっていう音を聞いてるとメチャよく眠れるのよね」  
 というどうでもいい個人情報を開示するなり、一時間目から大爆睡。  
 教師の視線もお構い無しの大物っぷりに却って感心してしまいながらも、こいつ内申とか大丈夫なのか、なんて至極どうでもいい心配を持て余す俺を乗せて、いつになく静かに時間は過ぎていった。  
 前方で真面目にノートを取っているらしき国木田に目をやると、赤ペンでラインを引く手先も浮ついているように見える。  
 先の休み時間、正体の掴めない違和感も手伝って、俺は本日執り行われる予定の『お付き合い』とやらに関して国木田に真偽のほどを尋ねたのだが、  
「えぇ?」  
 何でそれを知ってるんだ、とでも言いた気に固まった国木田は、妙な早口で取り繕うように、  
「いや、今日は仕事も無いからね。先週のうちに一段落したんだ。しばらくは学校行事も無いし、これからは今までより暇になるみたいだよ。だから、ほら、折角だしさ」  
 努めて飄々を装った顔に、それ以上突っ込むことはできなかった。声が普段と比べて弦を張り直したように弾んでいるのは確かだったし、俺自身、何を聞き出そうとしていたのかよくわかっていなかったからだ。  
 さすがに気を回しすぎなのだろう。後ろの寝息に耳をそばだてながら考える。ただでさえ今回はいらんお節介を焼きすぎた。俺に間を取り持ってくれと頼んできたのはもう過去の事で、そろそろ逆にウザがられる頃合と見える。  
 やれやれ、まるで思春期の子供を持つ父親のような心境だ。お払い箱になる時は間近。昔から見知った仲としては置いていかれたような気がするし。  
 俺だっていい加減、それらしいデートの一つでもできるチャンスが来たっていいんじゃないか。朝比奈さんとかに誘われてさ。  
 ジェットコースターばりの超常現象ラッシュじゃなく、今日みたいに静かな一日が連綿と続いて、その中で一喜一憂できる教科書通りの青春を、一度ぐらいは経験しておきたいもんだよ。  
「ぅ、んー……ちゃんとキャッチしなさいっての……」  
 と思ってはみたものの、夢の中でも好き勝手に千本ノックをかましてくれる労働基準法ガン無視女との縁を切らない限り、それは無理な相談か。  
 俺は一つ欠伸をして、教科書を立てて教師の視線をブロックしつつ、退屈な授業から逃れるために目を閉じた。  
 わかっていてもやめられない事なんて、誰にでも山ほどあるんだぜ。身に覚えあるだろ?  
 
 
 放課後。部室に行くと、古泉は親戚絡みの所用があるとかで(実際は橘京子の件だろう)早退していたため、俺は朝比奈さんとテーブルゲームに興じることにした。  
 相手が相手だけに俺のテンションは普段より上がり気味で、途中で首を突っ込んできたハルヒも加えて騒々しく遊んでいると、あっという間に時間が過ぎる。  
 区切りのいいところで飲み物を買ってくるとだけ言い残し、後を追って聞こえてきた「あたしオレンジ!」という声はマタドールのようにスルーして、俺は部室を離れて学食の傍にある自販機へと向かった。  
 その途中、  
「あ、丁度良かった」  
 階段の踊り場でばったりと顔を合わせた阪中他見知らぬ女子一名は、俺を指差して言った。  
「よう、おつかれさん。ハルヒならまだ部室にいるけど」  
「違う違う。今あなたを呼びに行こうと思ってたのね。だから、丁度良かったの」  
「俺?」  
 ハルヒじゃなく俺になんて、珍しいな。阪中の隣にいる女子は多分コーラス部の後輩なのだろう。大して興味も無さそうに、俺たちの会話を黙って聞いている。  
「うん。あたし達さっき買出しから戻ってきたんだけど、下駄箱で声をかけられてね。あなたを呼んできて欲しいって言われたの。裏門の所で待ってるからって。私服姿の女の子だった」  
 私服姿の女の子、って誰だよ。こんな雨の中わざわざ俺を訪ねてくるような若い女性の知り合いが、しかも学外にいたか? 考えられる可能性は妹ぐらいのもんだが、そうにしても理由が見当たらない。  
「妹さんって小学生だったよね? その人、あたし達と同じぐらいだったの。それにあなたの友達だって言ってたしね」  
「名前とか聞かなかったのか?」  
「ちゃんと聞いといたよ。名前はね、えっと、あの、あれなのね…………何ていってたっけ?」  
 急に水を向けられた後輩は、阪中の耳元で何かを囁く。先輩を一々介さんでも、自分で言ってくれればいいんじゃなかろうか。くすぐったそうにしていた阪中はテントウムシでも捕まえるように両手をぽんと合わせると、  
「あ、そうそう。佐々木さんね。うん、佐々木さんっていう人だった。すごく可愛い人」  
 佐々木だって?  
「本当にそう言ってたのか?」  
「うん、間違いないよ。この子もそうだって言ってるしね」  
 阪中と後輩はしきりに頷いている。聞き間違いの線は薄いな。  
 しかし、だとしたら佐々木がどうして、こんな急勾配の坂の上なんかにある北校にまで来るんだ。普通なら塾に通ってる時間のはずだよな。一体俺に何の用なんだろう。  
 これまで道端でばったり会ったり、そうでなくとも事前に連絡が来ていたんだが、よほど急を要する事態でも、それこそ考えるのも嫌になるような事態が発現したのだろうか。  
 あいつもハルヒ同様にてんで普通じゃない性質らしいし、それを証明するかのように周りには妙な連中がジュガービーンズを発見したアリのように集まってる。可能性が無いわけじゃあるまい。  
 こないだ会った時にでも携帯の番号を交換しとけば良かった。気を使って奥手になるような仲でもないのに。  
「あたし達はもう戻るけど、あんまり待たせない方がいいと思うのね。雨がひどくなってきたから」  
「ああ、わかってる。わざわざありがとう」  
 阪中に礼を述べ、急ぎで階段を下りていく俺の背中から、あれがSOS団の、とか、あの涼宮さんの、などと不穏な単語が漏れ聞こえてきた。  
 
 レッテルで人を見るのは良くないとあの後輩に教えてやりたいところだが、その想いを振り切って一階に着くと、来客口に置きっぱなしにされていた黒い傘を拝借して、正面玄関よりずっとこじんまりとした裏口から外に出る。  
 たしかに空模様は悪化していた。煙るように結び合う可愛げのない雨のせいで、ズボンの裾が早速色を変えていく。  
 ぬかるんだ砂利道を踏みしめながら、装飾の欠片も無い寂寞とした裏門へ。視界が悪くはっきりとは見えないが、門柱の傍に傘を差した淡い人影が確認できる。  
 低温の炎のような浅葱色の傘に、俺は声を掛けた。  
「どうしたんだ佐々木、こんな所まで。何かあったのか?」  
 答えの代わりに、静かな数秒を置いて佐々木は傘をずらし、口元だけを覗かせて可憐な笑みを向けてきた。  
 俺は疑問に思う。  
 こいつ、こんな顔する奴だったっけ。  
 いや、というか、何かフェイスラインが微妙に、むしろ全体的に違和感が、そもそも全然別人のような……  
「……ぁあ! お前!」  
「はい、ストップ」  
 顎のすぐ下。首筋に冷たいモノが押し当てられる。またナイフかよ。何かと縁がある凶器だな。  
 引きつる頬に導かれるように、古泉の無駄に爽やかなアルカイックスマイルが脳裏を過ぎった。  
 俺やハルヒには直接手を出してこないって言ってたくせに。これだから顔のいい奴は信用できないんだ。今度から防犯グッズを持ち歩くことにしよう。さらば蒙昧なる安全社会。  
「ちょっとだけ、一緒に来てもらうからね」  
 以前も強引な手段で朝比奈さんを掻っ攫っていった前科者、橘京子が悪戯っぽい笑顔のままで次の時間割を確認するかのようにしどけない口調で言うと、塀の影から男たちがわらわらと湧いて出てくる。  
 俺の青春はむさくるしい。  
 
   
 あれよあれよと言う間に荷台部の中へ大量発注の冷凍食品みたく詰め込まれた俺を乗せたまま、小型の箱トラックは発進したらしい。  
 バッテリー灯のおかげで暗闇に震えずにはすんでいたが、窓が無いせいで外の景色を楽しむことはできない。まったく、気が利かない奴らだ。  
「で、佐々木の名前まで騙って、一体何の用だよ。俺の手足を封じないとできないような話なのか」  
 両手足を麻縄で縛られている俺の前には、橘京子がいるだけだ。他の奴らは俺の梱包作業が終了するなり、どこへなりと消えてしまった。一対一の状況のお陰で、冷静なフリをする努力ぐらいは放棄せずに済んでいる。  
 橘京子は下ろしていた髪を結いなおしながら、  
「ごめんなさい。こんな事しといて何だけど、あなたに用は無かったりします」  
 理由無き犯罪。行く当ての無いストレスの爆発だ。そんなもんに巻き込むな。  
「用は無いけど理由はある、らしいわ。その辺はあたしにもよくわかりません。ただ、あなたがずっと学校にいるままだと、後々あなた自身が困るそうよ」  
「意味がわからん。そもそもお前、自分でここまでやっといてよくわからないって、何のつもりだ。ひょっとして健忘症でも患ってたりするのか」  
 それとナイフの切っ先を向けるのは是非ともやめろ。トラウマが発動して胃の辺りがきゅんとするから。顔色を信号機のように変える俺を見て、橘京子はくすくすと笑い、  
「そんなに怒らないで。それにこれはニセモノよ。ほら」  
 自分の手首に刃先を滑らせる。咄嗟に顔をしかめた俺をバカにするかのように、白い肌には傷一つつかない。悔しいような一安心なような。  
「ね? まかり間違っても、あなたに傷をつけるわけないです。……あ、それと言っておくけど、この件に佐々木さんは無関係だからね。あたしの名前じゃ呼び出しに応じてくれないだろうから、苗字を使わせてもらっただけ」  
 そりゃ当然だ。あいつがこんな非常識的な行動を容認するなんてことはまず無いだろう。  
「たしかに非常識だけど、意味のある行動です。今日のため、結構前から準備に準備を重ねてたんだから」  
 以前聞いた古泉の言葉が思い出される。  
「お前らが何か企んでるって聞いたが、これのことなのか?」  
「うーん、まあ、そうですね。その辺の事情を含めて、いま古泉さん達にも説明を行なっている最中です。あなたを攫った事に関しては結果的に事後承諾になってしまうけど、それはしょうがないわ。普通に頼んでも時間がかかりそうだし」  
 小数点第三位じゃあるまいし、しょうがないで切り捨てられては堪らない。  
「なら、その事情とやらを聞かせろ。それが十分納得いくものなら、反省文程度で許してやらんでもない」  
 納得できないものなら、お前らにトンボ持たせて校庭の整備作業をやらせてやるからな。野球部に混じってやらされたが、結構きついぞあれ。  
 しかし目の前の誘拐犯は怯えるでもなく腕時計に一旦目を落とすと、ペットショップの子犬を吟味するようなほがらかさで、  
「ふふ、強気ね。でも説明する時間にはちょっと早すぎるのです。一度で済む事をわざわざ二度に分ける必要はありません」  
「は? お前な、いい加減にせんといくら俺でっ……!」  
 車が大きく揺れた。中央で寝そべっていた俺は頭をバウンドさせて底部に軽く打ちつけ、運転手側に寄りかかっていた橘京子は、不服そうに薄壁を叩く。  
 どこ走ってんだよ一体。まさかUSAラリーに参加してるんじゃあるまいな。  
「大丈夫? 怪我とかしなかった?」  
「ちょっと打っただけだ。なんとも無い」  
「そう。ごめんね、窮屈な思いさせて。そろそろだと思うから、もうちょっと我慢しててください」  
 労わるような表情を浮かべる橘京子。何がしたいんだこいつは。人を強引に拐かしたかと思えばささいなことで心配したり、情緒不安定に陥っているとしか思えん。  
 と、今度は金属をかきならすようなブレーキ音が鳴り響く。  
 車体が上下に揺れ、俺の頭に再びの衝撃。そろそろってのは俺の歯痒さが今世紀最大のピークを迎えるまでの時間だったんだな。さすがにいつまでも黙って転がされているほどこっちだってお人よしじゃない。  
 やがて完全に停止した車内で、待遇についての不満をボルケーノさせてやろうと身体を捩ると、橘京子の目は俺の頭を素通りして背後に向けられていた。  
「来たみたい」  
 
「だーかーら! 誰が来たんだよ! 迂遠なセンテンスでなく固有名詞をはっきり言え!」  
「長門有希さんが」  
「ながっ…………長門?」  
 パキっと薄いプラスチックが割れるような音が鳴り、次いで扉口が開く気配がする。フライパンの上に落とされた芋虫のような挙動で振り返ると、雨に濡れて普段より小さく見える長門が、軽やかに荷台へと飛び乗ってくるところだった。  
 いつもと同じく気配を感じさせない足取りで歩み寄ってきた長門は、突然のことで何も言えずに転がっている俺を手早く解放すると、いつもとあからさまに違う目の色で橘京子に向き直る。  
「…………」  
 どうやら凄く怒っているらしい。横で座り込んでいるだけの俺でさえ、ナイフを突きつけられていた時の方がまだ平和な心持だった。  
「うん。やっぱり来てくれた」  
 当の橘京子は笑顔のまま、道端で知人にばったり会った時のように暢気な相貌で頷いたりしている。  
 かと思えば、わざとらしく咳払いをしたあとへなへなと座り込み、昨日旗揚げしたばかりの劇団の入門生も顔をしかめるぐらい作ってるのが見え見えの声色で、  
「ああ、参りました。あなたが来たとなると、あたし達は手も足も出すことができず、思うままに嬲られるほかありません。この場を許していただくためには、どんなことでも白状いたします」  
 身売りされた貧乏長屋の娘のように、よよよ、と泣き崩れる。  
 いきなり何言い出すんだこいつ。いや、待てよ。この拡解釈的思考パターンはこないだテレビで観た誇大妄想の症状とまったく同じだ。 さっき冗談で情緒不安定などと不謹慎な発言をしたが、まさか、こいつが本当にその類の病に罹っていたなんて。  
「あの、何ていったらいいのか……ごめんな。そういう事情があると知ってたら、怒鳴ったりしなかったんだけど」  
「何勝手に勘違いして謝ってるの! 可哀想な人を見る目で見ないでください! 病気とかじゃないから! もう、あなたはちょっと黙ってて。ただでさえややっこしいんだから」  
 できたてのツインテールをせわしなく揺らしていた橘京子は、赤らんだ顔を真剣な表情に切り替えて長門と対峙し、  
「先に言っておきます。現在あなたのお仲間に手を出しているのは、九曜さんではありません。確かに彼女らの一部ではありますが、それらはあくまで自律的な部分による運動である、という旨を九曜さんから聞かされています」  
 またしても意味不明な話をはじめる。  
「ただ、彼女らの一部であるために、こっちから手出しができる状況でもありません。申し訳ないのですが、そちらの方で対処していただくしかないみたい」  
 蚊帳の外の俺をちらりと一瞥して、  
「彼を連れ出したのは、あなたとこうして話をする時間を作るためです。それだけってわけでもないみたいだけど、どちらにせよ必要な行為だったの。あ、もちろん危害なんて一切加えていないので、ご心配なく」  
 
 過疎化が進んだ地方でお年寄りにすら存在を忘れ去られたお地蔵様のごとく黙って聞いていた俺は、そう言えば発言を控える必要は皆無だったと思い当たり、やっと口を挟む。  
「待った。これのどの辺がご心配なくと言える状況だ。人を置いてけぼりにするのも大概にしてくれ。長門、どうなってんだこれは。こいつさっきから何の話をしてるんだよ」  
 すると長門は、錆びない鉄のような声にフラットもシャープもつけず、  
「天蓋領域の調査にあたっていたTFEIの一個体から、先ほどまで統合思念体に送られていた情報が突如として途絶えた。また同個体の通常空間からの消失も確認されている」  
 言葉の意味を吟味するうちに、昼の隙間に落ちる影を固めた九曜の姿が脳裏に浮かぶ。あいつらがまたしても、ちょっかい出してきやがったってわけか。  
 長門は一度瞬きをして、  
「今の彼女の話も含め考慮すると、こちらの解析行動に対する彼らなりの反動的対応行動、とりわけ全体ではなく刺激に対応する部分の原意識的なリアクションとも考えられる」  
 向かい合う橘京子は、俺に向かって頷きを返す。詳しい意味はわからないが、先の話からして九曜の仕業ではないと言いたいのだろうか。  
「今の我々では彼らの思考連続性を解釈可能な概念の単位に分割するのは不可能である。個体の保護を目的として行動する他ない」  
「保護? 消えたっていうお前らの仲間は、まだ……その、無事なのか?」  
「存在が解体されたわけではない。あくまでこの空間からの消失」  
 雪山の時、俺たちが豪華なトラップハウスに引きずり込まれたのと似たようなものなのか。  
「おそらく。ただ、現状では彼女が捕らわれているであろう位相に繋がる空間が把握できていない」  
 長門は今、彼女と言った。  
 その代名詞の内に既知のニュアンスを嗅ぎとった俺は、背中を氷でなぞられるような感覚を覚える。外から入ってくる空気の冷たさが原因ではない、内からの低い熱だ。  
「その消えたTFEIってのは、誰だ」  
 長門は言った。  
「喜緑江美里」  
 やっぱりだ。悪い方のビンゴ。  
「国木田は? 喜緑さんと一緒にいたはずだぞ。あいつはどうした」  
「不明」  
 となると、ますますまずい状況だ。こんな所で油を大安売りしている場合じゃない。開きっぱなしの扉口から、濡れて黒く光る緑が雨の奥に見えた。強い風が木々を揺らす。どうやら人気の無い山道らしい。  
 たしかに秘密の話をするにはうってつけだが、下りるのにも苦労しそうだ。  
「長門、ここを出て、何とかその空間とやらを探そう。古泉たちにも連絡を取るぞ。あいつらなら、おかしな所にぶちあたればそれと気付けるかもしれない」  
「その必要はありませんよ」  
 構っていられないと睨みつけた俺の視線を、橘京子は聞き飽きたヒットチャートのように歯牙にも掛けず、  
「だってあたしは、その場所が九曜さんの口から漏れるのをたまたま耳にしていたから」  
 くすりと笑って、合図するかのように壁を叩く。停止していた車体がゆっくりと動き始めた。  
「かくしてあなた達に乗っ取られたトラックは、目的地へと走り出すのです」  
 
 
 もどかしくも車中で座り込んでいた俺は、橘京子に疑問をぶつけた。喜緑さんの居場所を教えるのに、どうしてこんなまどろっこしい方法を取る必要があったのか。普通に連絡をとってくればよかったんじゃないか。  
「だって彼女たち……って言っても、この件で九曜さんの立ち位置は微妙だし、何ていえばいいのかな? まあとにかく、九曜さんを作り出した宇宙人さんと我々は、腐っても協力関係にあるんです」  
 両手を合わせて一人で握手するようなジェスチャーを交えつつ、  
「だからこれはあくまで、あなたに何とか取り入ろうと無茶な計画を、古泉さん達を呼び出したのも含めてね、それを実行したあたし達の失敗。その結果、図らずしもあちらの行動が漏れてしまった、と」  
「……つまり、建前ってわけか」  
 天蓋領域とやらには、そこまで人間的で煩雑なやり口が通用するのか? 俺の印象や長門の話と随分違うが。  
「いいえ。九曜さん達相手にそんなのは意味がない。文字通り、意味が存在しないのです。下らないものにこだわっているのは向こうではなく、それこそ人間の方。どこもかしこも、一枚岩っていうわけにはいかないの」  
 身内の恥を吐き出すように言った橘京子の顔は、事実、憂いに満ちていた。  
 なるほどな。大方、要らん手出しをするなとごねる連中が同胞の中にもいたのだろう。どんな組織でも人が集まればコンプレックスを抱えてしまう。集団の性だ。  
「あたしとしてはあなたの心証をこれ以上悪くしたくないし、古泉さん達にも有益な情報を提供していますから、良くすれば貸しも作れる。話し合いの場を持てること自体にも価値はあるしね。多少無理にでも動くべきだと判断しました」  
 幼さの残る顔に、俺よりもずっと年上に見えてしまうぐらい真摯な色を浮かべた橘京子は、  
「わかって欲しいのは、あたしや、多分九曜さんにとっても今回の件は思う所では無かったということ」  
 お前が俺に悪印象を与えたくないっていうのはわかるけど、九曜に限ってはその真意など理解するべくもない。まだその辺に群生してるぺんぺん草の方が気持ちを読み取れそうなものだ。  
「でも、あたし達に今回の件を教えてくれたのも九曜さんよ。しかも何日も前にね。まるでこうなる事がわかってたみたい。いえ、決まっていたという方が正しいのかな。あの未来人さんもだけど、どうもその辺はよくわかりませんね」  
「ますます信用し難い。今こうしている状況も含めて、全てあいつらの手の内で踊らされてるって話かもしれないじゃないか」  
「違うわ。もっとシンプルに考えた方がいいのです。彼女があたしに情報を与えてくれたおかげで、あなたはこうして仲間を助けに行ける。今はそれだけが事実。他はあなたの穿った推測に過ぎません」  
 今までよりも強い語調だった。眉がピンと弓なりに張っている。よくもまあ、あの応答可能性を根こそぎ奪われたような奴を信用できるもんだな。  
「あたし達は手を組んでいます。だから表面的で頼りない繋がりを、それでも信頼しなければならないのです。あなたにならよくわかるんじゃない? 涼宮さんやそこの彼女に、あからさまな過度の信頼を置いているあなたなら」  
 ね? と朝比奈さんの足元にも及ばないウィンクを一つ。  
 納得のいかない気持ちはまだあったが、そう言われては黙るしかなかった。SOS団なんていう、胡散臭くていまだに個々の正体の全貌が見えない集団を、俺はバカみたいに信用しているからだ。  
 確かに、偉そうに説教垂れる立場じゃなかった。ミイラがミイラ取りなんて、身の程知らずな話さ。  
 朝比奈さんを攫った件に関してはもちろん許せないが、今回の件に限れば、こいつと、そしてあのショッキングブラックな宇宙人を責める道理は無いのかもしれない。少なくとも今の所は、だけどな。  
「わかった。タクシー代わりになってくれた事に関しては、とりあえず感謝しとくよ」  
「あ、ならついでに、今後あたしや佐々木さんに協力してもらえると助かるなぁ」  
「それは無理だ。調子に乗るな」  
 にべも無く答えてやった。しかし橘京子は堪えた風もなく、顔なじみのエスパー野郎とどことなく似た笑いを浮かべ、  
「ふふ、わかりました、と今は引き下がりましょう。だからそんな、彼女がいるのに言い寄られて困ってるみたいな顔はしないでよ」  
 前言撤回。やはりこいつらは少しぐらい痛い目に遭うべきだと思うね。  
 
 
 俺たちが降ろされた場所は、昨日出向いたばかりの市営グラウンドだった。橘京子はすでに走り去ってしまっている。  
 さっきまでとは段違いの激しさで叩きつけてくる風雨のせいで借りていた傘は即座にめくれてしまい、「後で弁償しますから」と手を合わせつつ建物の陰に放置して、俺と長門は濡れ鼠のまま球場の門を潜る。  
 車を出てからひっきりなしに古泉からの着信が入っていたのだが、今は一刻を争いかねない状況なので、長門と一緒だから心配不要とだけメールにしたためて送信し、携帯を閉じた。  
「しっかし、本当にこんなとこにいるのか? あの二人」  
 入場口から見渡す雨に降られたグラウンドは、朽葉色の海のようだ。風にさらわれ荒れ狂う。当然人影も見当たらない。  
 だが長門は、歩いて見て回ろうとする俺の裾を掴んで止めた。虚空を静かに見る目は鋭い。  
「天蓋領域のものと思われる情報制御空間の存在を確認。解析が終了しだい、侵入する。予測される危険は未知数であるが、あなたは」  
「一緒に行くよ」  
 間髪入れずに俺は答える。こんな豪雨の中に一人で置いていかれたんじゃたまらないからな。  
 長門はじっと俺を見上げ、それ以上は何も言わず、ピッチを上げすぎた小人の歌みたいな声を発生させる。  
 俺は目を瞑り、雨の音がだんだんと遠ざかっていくのを聞いていた。  
 
 
 白紙にインクを垂らすように瞼の奥まで染みて広がっていく光を感じ、目を開く。  
 俺たちは相変わらず野球場に突っ立っていた。以前のようにいきなり茶色の空間にほっぽりだされずに済んで安堵したのも束の間、髪を焼く陽射しの熱さに目をそばめる。  
 すっかり雨は止んでいて、見上げれば昨日の天気を再生しているような晴れた空が広がっていた。濡れて奪われていた体温にお釣りとキックバックがくるほどの暑さは昨日よりも断然激しいが。  
 靴の裏で感じていたはずのぬかるんだ地面も元の固さを取り戻し、ただ生物の目玉に似た太陽だけが不自然なほど天頂に位置している。  
 手の平を額に被せながら、俺は改めて辺りを見渡す。誰もいないスタンドが、たった今通ってきたはずの入場口まで飲み込んで、円状に切れ目無く続き俺たちを囲っていた。その外側にある景色は書割りのように動いていない。  
 対して球場内の様子にこれといった変化は見られず、まっすぐに引かれた白いライン、置きっぱなしのベース、オアシスのような陰が吹き溜まるベンチ、そして、  
「……いたぞ。喜緑さんだ」  
 隣に立っていた長門の肩を叩いて促し、照り返されたバッターボックスに駆け寄る。  
 白線の内側で、制服姿の喜緑さんは身体を丸めたまま眠っていた。どうしてか傍には金属製のバットと白いメットが落ちており、まるで打席の途中で熱射病を患い卒倒したバッターみたいな有様だ。  
 表情の消えた寝顔はちっとも快適そうには見えない。長門が熱を出した時とまったく同じ。  
 大丈夫なのか?  
「この空間が我々に与える負荷は強い。自衛のために意識レベルを低下させている」  
 かがみながらスキャニングでもするような仕草で喜緑さんに触れている長門に、  
「お前も、ここに長く居ちゃまずいんだな?」  
「かもしれない」  
 俺も同じだよ。六月にしてもここはちょっと暑すぎる。いくら夏男でも服を着たままサウナなんて御免だ。  
 喜緑さんを担ぎ上げて日陰になっているベンチまで運び、ゆっくり寝かせると、俺たちは再び日の当たる所まで歩み出てもう一つあるはずの人影を探す。  
 どこにいやがるんだ、あいつは。歩き回っても周囲には気配すらなく、雨音さえ切れた明るい球場はかえって打ち捨てられた廃墟のように佇むだけだ。色のついたフィルムを眺めている気分だった。  
 俺は長門に確認しようと、  
「なあ、国木田もここにいると思うか?」  
 沈黙だけが伝播し、俺の耳には何も返って来ない。  
「……長門?」  
 振り返った先のマウンドでは、長門が今にも膝を突きそうにゆらゆらと揺れていた。  
「なっ……!」  
 転がりながら飛び込んで長門の肩に手を回し、倒れ伏すのを何とか防ぐ。思わず息をついた。まったく、ついて来て正解だったな。見えない所で倒れられたら肩を貸すこともできない。  
 しかし、目を瞑ったままの長門を見るにつけ、一瞬の安心感はすぐに消えた。俺はやたらと軽い身体を抱きかかえて陽射しから庇い、ベンチに走る。  
 湿った制服の向こう側は、つけっぱなしのブラウン管のように熱い。  
 長門だけじゃなく、いつの間にか陽射しそのものが強くなっているのに、俺は気付いた。湿っていたYシャツの背中が急速に乾き、じわじわと妙な不快感が這い上がってくる。  
 そして俺の不快感に拍車をかけるように、傷のついたテープにも似たノイズだらけの低い音が、スタンドの支柱に巻きつけられたスピーカーから漏れはじめた。  
 長門をベンチに運んでいる間にやがてその音はチューニングを合わせていき、女性の、ウグイス嬢のように高く、しかし音域の異なる素材を継ぎはぎしたかのように素っ頓狂な声で、  
『二ばン、ばったー、ナがトさん』  
 
 スピーカーが鳴り止むと同時、今しがた離れたばかりのマウンドに、降って湧いたような思いがけなさで人影が出現する。  
「国木田……今までどこにいたんだよ!」  
 思わず呼びつけたあと、俺は国木田の様子がおかしいことに気付いた。  
 半袖のカッターシャツを羽織った国木田は、グローブの中に硬球を収め、動力部を引っこ抜かれた玩具のように動かないまま、視線だけがバッターボックスに向けられている。  
「国木田!」  
 もう一度呼んでみても返事は無い。じっと止まっている。何でだよ。  
 
 
 混乱しながらも、とりあえず長門を寝かせようとすると、肩にそっと手を添えられた。今まで閉じていた瞼が開き、濁らない長門の瞳が覗いている。  
 そのまま俺の手をすり抜けるように身体を離した長門に、  
「長門、無理しないでいいって。もう少し休んどけ。俺が国木田を連れて来るから」  
 ここは気温に目を瞑ったって快適とは言い難いが、俺なら少なくともぶっ倒れることはない。お前は日陰でゆっくりと帰り支度でもしておいてくれよ。  
 だけど長門は、かくしゃくと直立したままで、とんでもないことを言い出した。  
「用意していた脱出経路に、特殊な条件付けがなされた未知のコードによる強固な情報封鎖が敷かれた」  
 閉鎖とか封鎖とかは、俺の聞きたくない言葉ワーストワンに去年からこっち輝き続けている。閉じ込められるのが好きな奴なんて滅多にいないはずだ。  
「……ひょっとして、出られないのか?」  
「そう」  
 驚きはしたものの、俺は結構落ち着いていた。この類のトラブルは何事もないまま終わる方が今までの経験からしてイレギュラーなケースであり、長門を一人で行かせなかったのもこういう事態を見越してのことだ。  
 かと言って何か出来るってわけでもなく、いざ事が起きても結局は長門に頼るしかなかったりするのだが。  
「入って来た時みたいに、無理矢理には?」  
「困難。条件を正規的にパスしなくてはならない」  
 何かを伝えたがっているように、こっちの目を見据えてくる。スピーカーから長門を呼び出す狂った音が再び流れはじめた。二番、バッター、長門さん。  
 長門は琥珀の視線を、降る陽に焼かれているせいで滲んだ色のマウンドにゆっくりと移した。俺もそれに倣う。ピッチャーがいるべき場所には既に国木田がいて、今もしっかりとボールを握っている。  
 長門は呟いた。  
「あれを打てば」  
「……あれって、あのボールを?」  
 首肯が返ってくる。  
 いやいや。頷かれても、こっちにはさっぱり意味がわからん。  
「待ってくれよ長門。打つ打たない以前にな、どうして国木田があんなとこでピッチャー役なんてやってるんだ。もしわかるんなら説明してくれ」  
 割と長い付き合いだが、趣味が草野球だなんて聞いた事が無いし思えもしない。  
「おそらく我々が確認できない経路によって脳組織と神経系の一部に操作を加えられている」  
 長門は恐ろしいことをさらっと言い、そこに重ねて、  
「我々が彼らを解析しようとすれば、それに応じて彼らのうちでも我々を解析しようとする動きが表れる。特に喜緑江美里は彼らの一部である周防九曜と直接的な接触を持った最初の個体。故に彼らはまず彼女を選んだのだろう」  
 焦点を国木田に定め、  
「彼を操作する事で喜緑江美里に刺激を与え反応を観測していたと思われる。今はその過程で新しく得た概念を自身の内で構築化させるべく、模倣の段階に入った。それは自己を拡大させるための極めて原始的な欲求」  
 模倣って、まさか野球をか? んな馬鹿な。  
 小難しい言葉を咀嚼しようと頭を回すのに必死な俺を置いて、先ほどまでふらついていたとは思えないほどしっかりとした足取りでベンチを出た長門は、バッターボックスへと向かっていく。  
 
 慌てて後を追おうとした俺は、しかしベンチから出ることすら叶わなかった。いつの間にかベンチ全体が膨らませたビニールのように柔らかい空気の膜に覆われている。叩いても引っ張っても千切れそうに無い。  
 実際のビニール袋もこれぐらい丈夫ならいいのにな、くそ。  
 膜の向こう側では、落ちていたメットを被り、同じく落ちていたバットを持ち上げた長門が、腕を上げて構える。キャッチャーすら不在のままで勝負が始まろうとしていた。  
 どうしても破れない膜を俺は諦め、とにかく事態を見守るしかない。  
 長門の話を聞く限り、俺たちをここに閉じ込めた奴らは、野球をやってみたくてしょうがないらしい。投手と打者しかいないのでどちらかと言えば一騎打ちの体だが、にしてもわざわざ出口を塞いでまでの強制参加とは恐れ入るね。  
 しかし、だとすれば、だ。  
 こんな馬鹿げた状況はすぐに終わると、俺は思っていた。その気になれば隕石だって打ってしまえるような長門に、国木田があっさり敗れてゲームセット。勝負になんてなるわけがない。  
 俺が自分の間違いを悟ったのは、国木田がやたらと綺麗なフォームで左足を振り上げて右腕を引き、そして左足を踏み出したところで、ようやくだった。  
 放たれたボールはその白さがギリギリ視認できるスピードで長門のストライクゾーンを貫いて、キャッチャー代わりのネットに突き刺さる。スピーカーが耳障りな音を鳴らした。  
『ストらいク、わン』  
 俺は顎を落とす他なかった。  
 何キロ出てるかなんてわからないが、少なくとも今まで見てきたどんなピッチャーよりも速い。テレビの中も含めてだ。だけど俺が驚いたのは、そんな事じゃなかった。  
 長門が明らかに投球に追いつけていないのだ。  
 まるでバットに振り回されているような、それこそ朝比奈さんと大して変わらないスロースイングは、ネットが揺れてから一拍置いた後だった。  
 あいつ、全然調子戻ってないじゃないか。何事も無かったみたいに出て行くもんだから、マシになったものとばかり思っていたのに。無理矢理にでも寝かせておいた方が良かったんだ。  
 どういう仕組みなのか、跳ね返って転がっていたボールが消えて再び国木田の手元に戻る。  
 バットを地面にくっつけたまま休んでいた様子の長門は、苦いものを飲み下す俺をよそに、打つ構えをとった。さっきより目に見えて力が入っていない。当然、速球を打てるはずも無く、  
『スとらイク、ツー』  
 
「長門!?」  
 長門は地に付けたバットにもたれかかる。今にも倒れそうだ。火をくべられたように、太陽がぎらぎらとした輝きを増している。  
 俺は眠ったままの喜緑さんを顧みる。二番打者が長門なら、一番は喜緑さんだったのだろう。打席の途中で強い陽に耐えかねたかのように倒れていた。  
「おい待てお前ら! タイムだタイム! 長門、いいからこっちに戻って来い!」  
 項垂れていた長門はまたしても顔を上げた。国木田が振りかぶる。  
「やめろって!!」  
 俺は体当たりをしても破れない膜に腹を据えかね、いっそ噛み千切ってやろうと中空に歯を立てる。しかしすでにボールは投げられ、長門はとうとうバットを振ることもできず、ゼンマイの切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。  
『バったー、アうト』  
 突然消えた膜を気にする余裕も無く、長門の元へ走る。白く燃え残った木炭みたく芯から熱い身体を抱き上げても、目を覚ます様子は無かった。  
 スピーカーからは、三番バッターとして俺の名前がアナウンスされている。長門の額は今までに無く熱いままだ。俺はスピーカーを睨みつけた。やかましいんだよクソッタレ。  
「ふざけんのもいい加減にしろ。長門も喜緑さんも熱が出てるんだ。これ以上付き合ってなんていられるかよ。なあ、日本語ぐらいわかってんだろ? さっさと俺たちをここから出せ」  
 馬鹿にするような角度でこちらを見下ろすスピーカーは、再三に渡って俺の名前を呼びつける。  
 いいさ。そっちがその気なら、力づくでやってやる。  
 長門を喜緑さんの隣に横たえた俺は、ピッチャーを引き摺りおろしてやろうとマウンドに登る。  
 だがまたしても空気の膜に阻まれ、国木田を中心に球形を形作っているらしきそれは、バットで叩き壊そうとしても、出来のいい綿毛の塊でも打っているように手ごたえが無かった。  
 諦めきれずに振り回していたバットは、やがて汗で滑り、俺の手を離れて焦げた地面に落ちる。むき出しの腕を焼く気温は、さっきよりも明らかに上がっていた。カラカラの喉が絞られたように痛んだ。  
 疲れと暑さで立っていられず、とうとう俺は蹲った。頬を伝い唇の先から落ちた一滴の汗をじっと見つめる。  
 さて、どうする。  
 あんな球は打てるわけがない。長門と喜緑さんはただでさえやばい状態だ。この上スリーアウトを取られたらどうなるかなんて想像したくもない。いや、今のままでも一緒か。俺も含めて暑さでやられちまうのは時間の問題だ。  
 携帯を取り出してみてもウンともスンとも言わず、助っ人も呼べない。球場の外には出れないだろう。つまり逃げる事すら叶わない。  
 なるほど、どうしようも無いな。お手上げだ。何てこった。茹った頭からは、ネガティブな考えしか浮かんでこない。希望は水と同じく真っ先に渇いて消えていた。  
 
 それでも俺は、すがるように顎を上げた。  
「国木田、いいのかよ? 喜緑さん苦しそうだぞ」  
 無言のままの国木田は、焦点が合っているのかいないのか虚な目でバッターボックスをねめつけている。  
 こいつ、厄介なものに取り憑かれてるみたいだけど、それは一体いつからだった? あの日、廊下で頭を打った、最初の時からか?  
 じゃあこんな事言っても無駄だろうな。頭をもう一度ゴツンとやれば、すぐに醒める夢みたいなものに、こいつは罹っていただけなんだから。ほら見ろ。一目惚れなんて病人の譫言と何も変わりゃしないじゃないか。  
 しかしだとしたら、俺は何のための余計な節介を焼いてたんだろう。少なくともベンチで寝てる二人に夏風邪を引かせるためじゃなかったと思う。  
 並んで横たわる二人は、遠くで陽炎に溶けていくように映る。逆に昨日のファミレスで感じていた煙のような違和感は、俺の中でだんだんと形になっていった。  
 どうしてわざわざ喜緑さんは、あのタイミングであんな事を言ったのか。  
 決まってる。喜緑さんは、国木田の背後に何かがいると気付いてたんだ。  
 目の前にあってもそれと気付かせない、特定の事物に対する認識能力を低下させる隠密能力は、あいつらの十八番だ。九曜と初めて会った時もそうだし、喜緑さんだって以前喫茶店で鉢合わせした時、似たような能力を行使していた節があった。  
 少なくとも昨日の段階で、国木田が普通の状態にない事ぐらい察しがついたはずなんだ。誰も、それこそ喜緑さんですら気付かなかったのかもしれない汚れたジャージという忘れ物を、俺が指摘したから。  
 或いはずっと前。初めからわかっていたのか。  
 じゃあ、どうしてそうとわかって国木田に付き合ってたんだ。今日だってあいつについていかなければ、多分こんなところに閉じ込められたりしなかっただろう。  
 どうして。未知への探究心か。向こうから接触してくるのなら、情報を集めるにはいい機会だとでも思ったのだろうか。向こうもそう考えていたのかもしれないな。わかっていたって乗ってくるはずだ、と。互いの腹を探り合うチャンスなのだから。  
 喜緑さんの同僚でもある長門はどうだ。俺がマンションを訪ねていった時は何も知らない様子だったが、それ以降はわからない。途中から気付いていたが、聞かれなかったから言わなかっただけとか。有りえそうで困る。  
 それと九曜。あの漆黒の宇宙人。あいつは関係無いとか何とか言っていたが、今のザマを鑑みれば結果的に罠に嵌められたような気もする。何の思惑があって俺たちをここに導いたのか。  
 それから橘京子。古泉たちと何を話し合ってるんだ? やはりこいつも腹に一物抱えていて、俺たちをダシに無理な要求を突きつけてるんじゃなかろうか。疑いたいわけじゃないが普段の素行が悪すぎる。自業自得だ。  
 この際だから言ってしまえば、古泉たちの機関にしても大概わけがわからない。もう一年ちょっとの付き合いになるが未だほとんどシルエットの状態だし、優秀な人たちが揃ってるのはわかるけど、活動資金とかどうなってるんだよ。  
 朝比奈さんはどうだ。もちろん俺の心のアイドル。だが大きくなった彼女の思惑はまったく読めないし、もう一人の未来人であるあの不愉快な野郎に関しては語る言葉を俺は持たないしこれから持つ予定も無いし必要も感じない。  
 ……いや、待て。そもそも何考えようとしてたんだ俺は。もうわけがわからなくなってきた。途中からただの愚痴になってる。  
 まあいいか。とにかく俺の知らないところで、色々な思惑がぐるぐると回っているのだ。暑さで目玉もぐるぐる回るし、そうやってぐるぐる考えてると、だんだん腹も立ってくる。  
 世の中はどうしてこう正体のわからない雑多なものが入り混じって暗い雨雲のようにわだかまり、理不尽にも俺に降りかかるのか。  
 ただでさえジメジメした梅雨のこの時期に、掘りごたつの底みたいな炎天下で、何の因果でエイリアンと野球なんてやらなきゃならない。イロモノ三流映画のシナリオかっての。  
 ひょっとしたら、ハルヒも中学の時はいつもこんな気持ちだったのだろうか。だとしたらあの無駄に不敵な態度の理由も少しはわかる気がするね。  
 
「……ほんと、全部投げ出したくなるよな。そうでもしないとさ」  
 頭を軽くはたいて回っていた目玉を止め、俺は立ち上がる。  
 何より一番理不尽なのは、そんな世の中も悪くないと思ってる俺自身なのかもしれない。  
 ハルヒがこの面白みに欠ける世界を捨てられなかったように、クリパで食った鍋みたいにごちゃ混ぜの世界の中にも、俺にだってわかるぐらい易しくてシンプルな答えがあると、勝手に思い込んでいる。性質の悪い病気だ。  
 だからSOS団の雑用係である俺は、団長含め他の団員を馬鹿みたいに信用しているし、これまた厄介なことに、いらん世話を散々焼いてしまったピエロな俺としても、最後まで信じなくてはならないものがある。  
 別に勘違いでもいいのさ。  
 俺たちがこんな場所でくたばる事が無いのは勿論、国木田は理解不能な一目惚れとやらにマジで陥っていて、そして喜緑さんはそんな譫言に付き合うのが、きっと楽しかったんだ。  
 
 ――少しだけ。  
 
 俺は国木田の凝り固まったつまらない顔を一瞥し、バッターボックスへと向かう。  
 考え続ける事に価値のある場面とまるで無い場面があるが、今は間違いなく後者だ。  
 要はあの雪山とおなじ事だ。あっちは頭を使ったが、こっちは身体を使えばいい。ややこしい定理だの公理だのも出てこないし、最初っから鍵はあって、それを打てば開くのだ。数学の苦手な俺には正にうってつけ。  
 一度素振りして頭に凝る靄を晴らし、白線で縁取られたバッターボックスに入る。白いメットを被ると、頭を焼いていた熱は大分マシになった。  
「さあ、投げて来いよ、へぼピッチャー」  
 国木田の、さらに頭上で澄ました顔のままかつ偉そうにのさばっている太陽にバットを向ける。熱に浮かされておかしなテンションのまま、心の内で頑固な汚れのようにこびりついている根拠の無い自信をかき集めて唇をへし曲げ、  
「ボッコボコに打ちまくってやる」  
 こう見えても強打が売りの四番バッターなんだ。もし打球が飛んできてもキレるんじゃねえぞ。スポーツに怪我は付き物だからな。  
 
 バットを構えると、国木田も左足を上げて投球の姿勢に入る。  
 俺は白い球だけを見つめる。大丈夫、特急電車並に速いだけの直球だ。コースもストライクゾーンに限定されている。ハルヒの球と一緒で、タイミングを覚えればすぐに打てる。  
 こちらが一度瞬きを終えると同時に、国木田の腕が振りぬかれる。目で追えない。感覚だけでバットを振った。遅い。一瞬と経たずにネットが揺さぶられる。ワンストライク。  
 ニヤついた顔のまま、先ほどの球を反芻する。ベンチから見てた時よりもずっと速く感じる球だ。特急電車というより新幹線と言ったほうが正しい。タイミングを掴むのはおそらく不可能だ。どうする。まぐれ当たりを願うしかないのか。  
 国木田はこちらの準備を待たず、ピッチングのモーションに入っている。慌てて構える俺を笑うように球を握った腕がしなった。急な動きにつられて、こちらもバットを動かしてしまう。  
 馬鹿。今度は早過ぎだ。  
 タイミングもフォームもちぐはぐなバットとすれ違いに、ボールはベルトラインを縫う完璧なコースでホームベースの真上を通過する。ツーストライク。  
 あっという間に残り一球。しかめ面を作りそうになるのを堪えつつ、顔中に浮いた汗を袖で拭う。  
 シャツ越しにも熱気を感じる。気温はいよいよ真夏日をはるかに上回ろうとしていた。目を閉じると、心臓が痛いほど鳴っている。もう後が無いと思うと気ばかりが逸ってしょうがない。バットを握る手が小刻みに揺れていた。  
 やれやれだよ、まったく。  
 ゆっくりと深呼吸したあと、目を開いた。眩い白に輪郭を縁取られた国木田の表情は、影に喰われたように無い。喰われたってことは喰った奴がいるってことだ。  
 俺はバットを構える。  
 同時に、国木田の腕が三度振り上げられた。思わずバットを動かそうとするせっかちな俺の腕を、何とか抑えて、言い聞かせる。  
 逸るな。焦るな。球を見ろ。可能な限りギリギリまでじっくりと。二回でタイミングを覚えられなくても、三回目で覚えて、そのまま打ってやればいい。  
 国木田の左足が上がる。球を握った右手が引き絞られる。  
 張り詰めた空気の中、俺はじっと白い球だけを見詰める。  
 ずん、と強い地鳴りが起こった。  
 陽射しが突如現れた巨体に遮られ、マウンドに日陰が降りても、俺は白い球だけを見つめる。足場ごと姿勢を崩した国木田の腕からすっぽ抜けて、放物線を描く遅い球。  
 ところで、テレビでもろくすっぽお目にかかれないような剛速球を見極めろだなんて、素人に向けるにしては難易度の高すぎるアドバイスだとは思わないか?  
 俺は今度こそ本当に笑いながら、妹でも打てそうな速度で暗い陰の上をゆっくりと走る白球めがけ、渾身の力でバットを振り抜いた。  
 
 
 
『大脱出劇の後でお疲れのところ、申し訳ないとは思うのですが』  
 事の経緯を説明し終えた俺に、携帯の向こうの古泉は普段より若干ハイペースな語調で、  
『迎えをやるので、至急学校に戻ってください。涼宮さんの心を乱しているものの正体を突き止めて、もし可能なら、それを除去していただけると非常に助かります』  
「やっぱり出てたのか、閉鎖空間」  
『ええ。それも、最近では珍しいほど大規模のものが。今あなた方のいる市営グラウンドもすっぽり覆われていますよ』  
 ベンチから顔を突き出して見回してみても、水を司る蛇神様か何かが蛇口の調節をミスったかのように暴れまわっていた雨足が常識の範疇に収まる程度に弱まったぐらいで、特に変化は認められない。俺が一般人である証拠だな。  
『あなたが目にした巨体というのは、間違いなく神人でしょう。たまたま市営グラウンド付近に発生した涼宮さんの閉鎖空間が、天蓋領域の展開していた特異空間を喰い破った結果、危機に瀕していたあなたの元に神人が現れたと』  
 えらくドンピシャのタイミングだったんだが、本当にたまたまって言っていいのか。  
『さあ、どうなのでしょうね。僕なりの事態に対する解釈を披露しても良いのですが、今はそう余裕のある状況ではありませんし、事実はどうあれ、僕たちがやらなくてはならない事に変わりはありません』  
 僕たちってのは、ひょっとして俺も含まれてるのか。まだ税金を払わなくてもいい身の上なのに、いつの間に厄介な義務を背負わされたんだろうね。  
『ずいぶん水臭いことを言いますね。ところで、桃李成蹊という熟語をご存知ですか?』  
 あいつが桃や李って柄か。食虫植物っていうんならわかるけどさ。  
 だがまあ確かに、今更文句を言うのも筋違いではある。  
 空気を読んで黙る俺に、古泉は降伏の意を感じ取ったらしく、  
『では重ねて、あなたは涼宮さんの方を、どうかよろしくお願いします。出現済みの閉鎖空間の方は我々が確実に処理しておきますので』  
「あ、待て待て古泉」  
 不意に、不愉快誘拐犯橘京子のこしゃまっくれた顔が脳裏を過ぎ去ったため、俺は切られる寸前だった電波の糸を引っつかむ。  
「お前ら、向こうの組織と話し合いしてたんだろ? そっちの方はどうだったんだよ。何か進展はあったのか?」  
 手を取り合うとまではいかなくとも、俺の周囲が少しでも平穏になるような類の平和条約が締結されていたりしないだろうか。  
 しかし古泉は、俺の甘い期待に額面だけでも沿おうと努めるかのように、いつもより息多めの、乳白色の入浴剤を溶かし込んだぬるま湯のようにゆったりとした声で、  
『なかなか良いお茶を出していただきましたが、やはり朝比奈さんが淹れて下さったものとは比べるべくもありませんでしたよ。どうにも、舌が肥えてしまったようです』  
 半笑いで煙に巻きやがった。着信拒否にしてやりたい。  
 腹立ち紛れに携帯の電源を強めに切ってから、振り返ってみれば、ベンチに横たえられたままの国木田は、まだ目を覚ます気配が無いようだ。  
 野球空間を脱出し、揃って大雨の中に投げ出された俺たちの内で、長門と喜緑さんは直前まで昏倒していたとは思えないほどケロッとした顔で立ち上がったのだが、国木田だけがなぜか目を覚ます様子を見せず、今もこうして眠り続けている。  
「長門、こいつ本当に大丈夫なのか?」  
 行儀のいい姿勢でベンチに腰掛けていた長門は、立ちっぱなしの俺の顔を見上げるため首の角度を少し上向きにして、  
「問題ない。彼らによって加えられていた操作信号が消失し、一時的なショック状態に陥っているだけ」  
「いや、だけって言われても……」  
 普通に心配なんだが。後遺症とか大丈夫なのかね。  
 長門より奥まったベンチで、寝かされた国木田の横に腰を落ち着けている喜緑さんに目を向けても、こちらもまるで心を砕く様子も見せず、能天気に笑うてるてる坊主のようにマウンドを濡らす雨を見つめているだけだ。  
 そう言えば、天蓋領域による操作が消えちまったってことは、つまり国木田の上に被さっていたピンク色の憑き物も消えちまったってことなんだよな。  
 俺は静かな表情の喜緑さんを見つめ、そして今更ながら女性陣の薄い夏服が肌にはりついているのに気付くや、ピーピングの汚名を避けるための名案を探りつつ、とりあえずは髪から一滴垂れた水の慎ましさに倣い下を向いた。  
 雨天だろうと何だろうと、眩しいもんは眩しいんだよ。  
 
 傘を持って迎えに来てくれた新川さんに連れられ、球場に横付けされていたタクシーに乗り込むと、法定速度を二十キロほどオーバーしているような気がしないでもない速度で一路北高へ。  
 校門前に到着すると、まずは国木田を担ぎ出して保健室のベッドに寝かせる。一人にするのも心配だったのでその場は喜緑さんにお願いし、俺と長門はとるものもとりあえず文芸部室へと向かった。  
 ハルヒが閉鎖空間を発生させている。原因は一体何なんだろう。あいつまさか、自分の頼んだオレンジジュースをシカトされたぐらいで腹を立ててるんじゃないだろうな。  
 反応の乏しい長門に壁打ちテニスのごとく自分の推測をぶつけていると益々不安になってきたので、途中で一旦引き返し自販機でオレンジジュースを購入してから、文芸部室の扉を叩いた。  
「あっ、キョンくん……」  
 部屋に入った途端、筆の穂先で耳をなぞるような切ない呟きに出迎えられる。  
 何事かと思えば、朝比奈さんがいつもの椅子に座ったままで唇の形をちょこちょこと動かしつつ、こちらにちらちらと視線を送ってくる瞼の下では、赤く艶やかに熟れたパプリカのような頬が薄暗い部屋の中で瞬いている。  
「キョン」  
 こっちはなぜか窓の方を向いたまま腕組みしているハルヒが、くそ真面目な声色で俺を呼びつけてきた。  
 その背中はどこかしら俺たちを突き放すような雰囲気を纏っており、何か知らんがまずいと思った俺は不機嫌な取引先の社長をなだめんとする営業部長のように土産を差し出すと、  
「すまんハルヒ。ちょっと遅くなったけど、買ってきたぞ。ほら、オレンジジュース」  
「そんなものはどうでもいいわ」  
 オレンジ畑の人たちに謝れ。  
 バレンシア州の人々の嘆きに耳を貸しもせず、ハルヒは弔問でも述べるかのように端厳と、  
「あたしはね、恋愛なんて精神病の一種だと思ってるし、ひどく馬鹿馬鹿しいとも思っているわ。正直な所。そんなものは、他人におもねることでしか生きていけないひ弱な奴らの言い訳に過ぎないってね」  
 相も変わらずエロースの涙もちょちょぎれそうなほど醒めた恋愛論だが、どうしていきなりそんな話を始めるんだよ。  
「だけど、自分の価値観を他人に押し付けるつもりなんて、あたしには更々無いの」  
 話は俺を置き去りにずんずんと前に進んでいっているようで、  
「同じ団体内での恋愛なんて、色々ややこしくなりそうだし、団長としては厳しく取り締まりたいところなんだけど。……でも、お互いが本当にそうしたいのなら、誰にも止める権利なんてないっていうのもわかってる」   
 それまで向けていた背中を突如として反転させて、現れたハルヒの顔は恐ろしいほど無表情だった。  
 普段がやかましい分、星の無い夜空を髣髴とさせる。寂しいと思うのは純朴なガキぐらいのもんだろうが、生憎と俺もまだまだガキだ。こちらと決して目を合わせようとしないのも気に掛かるし。  
「さっき怒鳴って追い出したのは、まあ、突然だったからビックリしただけよ。別にあたしも、あんた達の事を邪魔しようってわけじゃないわ。だから」  
「なあ、ハルヒ。話が盛り上がっているところに水を差すのも、我ながらアレだとは思うんだが」  
 いい加減黙って聞くのに痺れを切らした俺は、沸騰しそうなやかんの蓋を押さえる具合で団長机に手を置いて、  
「お前、さっきから何の話してるんだ?」  
「いいってば、別に誤魔化さなくても。あんたみたいな唐変木がこっちの耳を腐らせるような言葉をあれだけ吐くってことは、よっぽどの決意だったんでしょうよ。変な気を使ってふいにしたりしちゃ勿体無いじゃない」  
 ハルヒは歪に唇を歪めると、  
「答えをちゃんと聞きたいでしょ? いいわよ。今日の団活はもうおしまい。古泉くんだって欠席してるし。有希もあたしが連れて出ていくから、あとは二人でごゆっくりどうぞ」  
「あ、ちょっと、待てって。長門まで連れ出してどうするってんだよ」  
 大股で歩き出したかと思えば長門の手を取ってさっさと部屋を出て行こうとするハルヒの肩を、掴んで止めた。  
 途端、触れられた事が我慢ならないとでも言わんばかりに痴漢のまたぐらを蹴り上げるかのごとく俺の手首を捻り上げ、  
「だから! あんたがさっきみくるちゃんにこ…………コクった事に関して、あたしは別に怒ってないし邪魔もしないし気を使って今すぐ出て行ってやるって言ってんじゃないのこのビッグバンバカっ!!」  
 鼓膜を突き破り、くるりと捻じ曲がった内耳を一直線に伸ばしてしまいそうなほどでかい声を浴びせられる。かわいそうなのは俺のカタツムリだ。  
 
 つうか、こいつ今何て言った?  
「お前な、わけわかんないこと言うのも大概にしろよ。俺がいつ朝比奈さんにコクったっていうんだ」  
 んなことできるんならな、去年出会ってすぐの時点で熱い想いを打ち明けてるっつーの。  
 捻られた手を引き抜いて庇いつつ、己の甲斐性の無さを露呈する俺の羞恥に対し、いささかの注意も払わないままでハルヒは静かに牙を剥く。  
「いつもクソも、ついさっきここで、あたしがいるのもお構い無しに、リルケもボードレールも泡を食らうほどロマン情緒たっぷりにあんたがみくるちゃんに抱く愛情とやらを謳い上げてくれたじゃないのよ」  
 ……ついさっきここで?  
 朝比奈さんは、俺と目を合わせるやいなや、こっちが心配になるぐらい真っ赤な顔をさらに炎上させて、すぐさま俯いてしまった。一方のハルヒは自らの激昂を恥じるように顔をしかめると、冷えた表情に逆戻り。  
 二人の様子からして何かあった事は間違い無さそうだが、しかし、今ハルヒが口にしたことが事実であるはずもない。  
「いいか、ハルヒ。俺はな、飲み物を買いに行くためにこの部屋を出てから、今の今まで、国木田の用事に付き合って学校の外にいたんだ」  
 ハルヒは昏黒の眼光を寄越してくるが、実際に俺は今しがた学校に到着したばかりだ。嘘をついているわけでもないし、口の滑りは好調だった。  
「つまり、俺がついさっきもこの部屋に来てたなんてことは、絶対にありえないわけだ。嘘だと思うんなら長門に聞いてみろよ。長門も途中から合流して、俺たちと一緒に行動してたから」  
 な? と同意を求めると、かくりと長門は頷いた。  
 しかし、ハルヒは尚も信じる素振りすら見せず、  
「下手な嘘に有希まで付き合わせるんじゃないわよ。あたしもみくるちゃんも、あんたの事をはっきりとこの目で見て、あんたのトンチキな声だってこの耳で聞いてるの。今更誤魔化されるわけないじゃない」  
「んな事言われても、こっちだって身に覚えが無いんだよ。お前も朝比奈さんも、幻覚でも見たんじゃないのか? ほら、雪山の時みたいにさ」  
 俺は古泉の真似をして、強引なこじつけを、さもそれらしく、  
 
「極限状態ではないにせよ、等間隔に響く雨の音、それに、朝比奈さんのお茶でも飲みながらまったりしてれば、嫌でも眠くなってくるだろうし。どっちかの寝言が耳に入って、結果的に二人とも同じ夢を見てたとか、ありそうな話だ」  
 自分の言葉に頷きながら、  
「どうだ。もう一度冷静に考えてみろよ。さっきここに来た俺とやらは、本当に俺だったのか?」  
 思い当たる節があったのだろう。不機嫌そうな面は崩さないまでも、唸るような様子を見せたハルヒは腕組みしつつ、   
「……確かに、変ではあったわ。あんたなら口にする前に首を吊りそうな台詞を惜しげもなく言い放ってたし、そうね、雪山で遭難した時の夢に出てきた偽者のあんたと、似たような感じだったかも」  
「だろ? とにかくな、それが俺じゃないのは確かなんだって。神様なんて信じちゃいないが、何なら家族と親戚一同に誓ったっていい。俺は無実、無罪、冤罪だ」  
 両手を上げて身の潔白をアピールする俺を見ても、朝比奈さんの方は今ひとつ状況が飲み込めていないのか、顔を桃色に染めたまま、ほのかに咲いた唇に指を当ててキョトンとしていた。ヴィーナスも真っ裸で貝を譲るね。  
 そう。俺ふぜいが朝比奈さんに向かって愛を訴えるなんて、罪悪に他ならない。聖書の目録に載ってたって不自然じゃないほどのな。  
 
 おそらく、朝比奈さんに告白したとかいう罰当たりな俺の方は、雪山の館と同様に、長門なり統合思念体なりが用意した幻覚なのだろう。  
 俺たちが天蓋領域の作り出した空間から脱出できたのは神人が発生したおかげだし、仮に俺があの場で球を打てなくとも、神人がちょっと暴れるだけで、あんな野球場ぐらいすぐにぶっ壊れてしまったに違いない。  
 言うなれば今回の閉鎖空間の発生は正に救済処置であり、そのためにハルヒのストレスを爆発させてやらなければならなかったわけだ。  
 そして、今回ハルヒがストレスを爆発させたのは、さっき本人も言っていた通り、俺と朝比奈さんが特別な関係を結ぶことで、SOS団内部に何らかの軋轢が生じるのではないかという危惧によるものだった。  
 別に、組み合わせが俺と朝比奈さんだったからというわけではない。たとえそれが古泉だったにせよ長門だったにせよ、団員同士の関係が変化すること自体が、こいつにとっては不安だったんだろう。  
 しかし、と俺は苦笑する。  
 変化を恐れる、か。裏を返せば、現状にはそこそこ満足してくれてると思っていいのかね。  
 気取られぬよう肩を竦めつつ、長門に事の真偽を正す算段をつけていると、  
「でも、あの時の偽者とも雰囲気が違ってたのよね。上手く言えないけど、照れてるんだか開き直ってるんだかわかんないような中途半端に拙い感じが正にあんたらしかったし、少なくともあたしは、本物のキョンだって思ったもの」  
 ハルヒにかかった疑念のヴェールは未だに晴れないらしい。今度は俺の周りをぐるぐると歩き回り始めた。じろじろと無遠慮な視線を感じる。出荷される直前に健康チェックを受ける牛になった気分だ。  
 やれやれ。こいつをどう説得したもんか。  
 俺は頭を悩ませつつ、  
「だからさ、考えてもみろよ。俺が学校の外にいた時間に、俺がこの部屋にやってくる。矛盾してるだろ? 一人の人間が、別々の空間に同時に存在できるわけがないんだから。それこそ、SF的な小道具でも使わない限り無理な……」  
 そこまで言って、はたと気付いた。  
 待てよ。  
 朝比奈さんに告白した俺は本物だと言うハルヒと、そんな事にはさっぱり身に覚えが無い今現在の俺。  
 両方の主張をまるっと肯定し矛盾を解決してくれるような、一人の人間が別々の空間に同時に存在するという事象を可能にするSF的小道具にバリバリ心当たりがあるのは、俺の気のせいなんだろうか。  
 銀を円形の鋳型に流し込んだような長門の虹彩は、何も語ろうとはしない。というか別段、俺に伝えるべきものを抱えてはいないように見えた。  
 一方で、未だに話の要旨が掴めていない様子の朝比奈さんの、その薄っすらと濡れた双眸の向こう側には、朝比奈さん(大)が悪戯っぽいウィンクを俺に投げかけてきているような、これは多分錯覚だろう。  
「……ひょっとして、今のあんたの方が偽者だったりしないわよね?」  
 さんざんっぱら悩んだ挙句にハルヒが導き出したトンチンカンな回答がほんの少しだけ魅力的に聞こえたのも、きっと気のせいに違いないのさ。  
 
 
 俺が抱く希望的観測は、やや外れ易い傾向にあるらしい。  
 それから数日と経たないうちに、歯医者を恐れる園児のように項垂れた俺は、未来からの指令書を携えつつ頬を膨らませた朝比奈さんに連れられて幾度目かの時間跳躍を行ない、冒頭の状況に至るってわけだ。  
 あの後のことを詳しく語るつもりはないが、穴があったら入って即身仏になってしまいたいほどこっぱずかしかった、とだけ言っておこう。  
 肉体的ではなく精神的な意味で命からがら任務を遂行し、ほうほうの体で元の時間に戻ると、涙目になった朝比奈さんはもみじで撫でるような軽いビンタを俺の頬にぺちりと当てて、  
「あたしの気持ちを弄んだ罰ですよ」  
 男子のうちの誰かに聞かれでもしたら盛大な誤解を招き闇討ちされた挙句縄で縛られて国旗専用のポールに全裸で掲揚されかねないような朝比奈さんの言葉は、真摯にして俺の胸を打った。  
 過去の辻褄を合せるためにやむを得なかったとは言え、不誠実な告白をされた方は堪ったものではないだろう。最高に失礼な話だ。こういった形で不満を表明されるのも当然だと思う。  
 マジでへこむ俺を前に、しかし朝比奈さんはすぐに優しい笑顔を見せてくれた。やっぱ女神だ。  
「あの手紙に書いてあった台詞、もう一回あたしの前で言ってくれたら、全部許しちゃいます」  
 贖罪の道は予想以上に険しかった。  
 
 
 さて、国木田の一目惚れがどのような顛末に至ったのかについても、少しは語っておかなければなるまい。  
 とは言え、語るべきことなんてほとんどありはしないんだが。  
 なぜならばそれは最初から一目惚れなんかではなく、中河と同様、宇宙的存在の仲介あってこそ発生した恣意的な感情であり、干渉が途絶えれば醒めてしまう夢のようなものだったからだ。  
 保健室で目を覚ました国木田は、喜緑さんに看病の礼だけ述べると、すぐに帰宅してしまったらしい。  
 翌日登校してきた国木田に、俺は訊ねた。  
「よう。昨日はどうだったんだ?」  
 国木田は何のことだか分からなかった様子で、ひょいと小首を傾げながら、  
「どうもこうも、昨日は僕、放課後になってから熱出しちゃったみたいでさ、夕方までずっと保健室で寝てたよ。一昨日の疲れがたまってたのかも。本当は野球場までジャージ取りに行きたかったんだけどね」  
「……喜緑さんと出かけるって話は、どうなったんだよ」  
「は? 何それ」  
 心底不思議そうに、国木田は言った。  
 俺は、何でもない、と首を振って、  
「よかったじゃないか。すぐ治って」  
「あぁ、うん。その喜緑さんがさ、熱出した時にたまたま近くにいたらしくて、保健室にまで連れて行ってくれたみたい。先生がいなかったから薬も飲ませてくれたんだって。ぼーっとしてたから、僕はあんまりよく覚えてないんだけど」  
 そりゃラッキーだったな。せいぜい生徒会の仕事にでも励んで、恩を返してさしあげろよ。  
 わかってるよ、と頷いてから自分の席に着こうとしていた国木田は、鞄を置いてから俺の方を振り返ると、  
「でも、僕ってどうして生徒会の手伝いなんかしてるんだろ」  
 今まで一緒にいた誰かに置いていかれたような戸惑いが、ぽかんと寂しく浮かんでいた。  
「さぁな。俺が知るわけないだろ」  
 窓の外を見ると、白い汚れが目立つ窓の向こうに雲一つ無い晴れ間が広がっていた。  
 散々な目に遭った今年の梅雨も、そろそろ終わろうとしている。  
 
 
 
 国木田が廊下ですっ転んでから始まり、俺が散々な目に遭い続けた一連の騒動も、そろそろ幕の終い時だ。  
 古泉たちと橘京子連中の会談の内容がどのようなものだったのかとか、結局天蓋領域とやらは何がしたかったのかとか、統合思念体は何を考えているのかとか、この辺の肝心な部分はいつもと同じくわからないまま。  
 こっちを波間に浮かべた棒切れか何かのように好き勝手巻き込んでおいて、去っていく時は挨拶もなしだってんだから、ふてぶてしいもんだよ。  
 しかしまぁ、あれだけうざったかった雨音も、消えてしまえば寂しいものだ。   
 惚気にすらなっていない他人の話だって、ひょっとしたら似たようなものなのかもしれない。  
 
 
 最後に、これは何の事も無い、七月初旬の平日の話だ。  
 その日は久方ぶりの大雨模様。いつものごとく文芸部室でだらだらと青春を浪費したあと、朝比奈さんが着替えを始める前にと思って適当な所で部室を後にした俺は、下駄箱で国木田と鉢合わせになった。  
「あれ、ここで会うのって珍しいよね。今帰り?」  
「ああ。そっちは、まだ生徒会の手伝いやってるのか」  
 この前は、そろそろ辞めようと思うって言ってたけど。  
「せめて今学期の間ぐらいは続けることにしたよ。今やめるにしても、切が悪いしね」  
 応じながら靴を履き替えてすのこから降りた国木田は、傘立の中から手探りで一本、体の割に大き目な黒い傘を選び出す。  
 同じく靴を履き替えようとした俺は、思わず手を止めた。  
「……お前、傘変えたのか?」  
「うん。まぁ、もらい物なんだけど。にしてもキョン、結構目敏いんだね。普通他人の傘なんてそんなに気を払わないのに」  
 
 別に目敏くはないさ。その傘と似た傘を、俺も前に使った覚えがあるってだけの話だ。  
「これ、こないだ球場にジャージ取りに行った時さ、変な女の子にもらったんだよ。もらったっていうか、握らされたっていうか、いつの間にか受け取ってたっていうか、そんな感じなんだけど」  
 変って、具体的にはどんな風に変だったんだよ。  
「それが、自分でもよくわかんないんだよね。その女の子、結構インパクトの強い外見をしてたような気がして、だから変だって思ったんだけど、でも具体的にどんな外見だったのかよく思い出せないんだ」  
 俺は追及しようかどうかわずかに迷ったが、やはりやめておいた。  
 あんなにボロボロだった傘を直したのが誰だったかなんて、至極どうでもいいことだ。大方どっかの暇な宇宙人辺りが、気まぐれを起こしたってだけの話だろう。  
 ただ、国木田でなく俺に渡してくれていれば、家の高級傘を弁償代わりとして来客口に寄付する必要も無かったのに。どうしてあの類の連中は気が利かないんだろうな。  
「キョン、どうする? たまには一緒に帰る?」  
 国木田の背後。偶然だろう、校舎から雨を切り取る玄関の前で、ペンキで塗り固めたように濃いホワイトの傘を開く、水鳥にも似た優雅な後姿を見つけて、俺は首を横に振った。  
「いや、俺はもうしばらく皆を待つよ。じゃあな、国木田」  
「うん。じゃあ、また明日」  
 黒い傘が、見る見る遠ざかっていく。  
 先を行っていた白い傘とゆっくり差を詰めていき、並ぶか並ばないかの所で、俺を呼ぶ声がした。  
「あんた、先に帰ったんじゃなかったの?」  
 少し気を取られている間に、二人の姿はもう雨の向こうに消えてしまっていた。残されたのはモノクロの海に沈んだ、雨に煙る灰色の風景だけだ。  
 二つの傘は、ただすれ違うだけなのか、それともどちらかが足を止めるのか。  
 ほんの数十メートル先の情景すら、俺にはきっとずっとわからないままなのだろう。  
「ちょっと、何シカトしてんのよ」  
「してねえよ。見ての通り大雨でな。傘を忘れたのに気付いて困ってるところだ」  
 ハルヒは「あ、そ」とブラジルの天気予報でも教えられたかのように興味の欠片も残さず俺の横を通り過ぎると、洒落っ気の無いビニール傘を差して、さくさくと歩きはじめる。  
 興味が無いのなら聞くなと言ってやりたいね。  
 ため息をつきながら、ふと、湿った廊下に消えないまま残っている国木田の足跡に目を落とし、以前自作した諺のことを思い出した。  
 ハルヒはいつかそれを病気の一種だと喩えたが、なるほど言いえて妙かもしれない。唐突で曖昧でわけがわからず、第三者どころか当人にしてもそれと気付かない場合だってある。  
 特に今日みたいな暗くてジメジメしてる時は要注意。  
 気は滅入るし、廊下だってよく滑るしな。  
「こら、何ぼさっと突っ立ってんの。置いてくわよ」  
 俺はせいぜい妙な病気にかからないようシャツのボタンをきちんと閉めると、家に忘れてきたはずの折り畳み傘のせいで無駄に重たい鞄を片手に、雨の中に向かってゆっくりと歩きはじめた。  
   
 
 
 
 
 

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