「わぁ、これ可愛いなあ」  
 これ見よがしに仰々しくショースタンドで展開されている目玉商品の一つを手に取り、朝比奈さんは感嘆の声を上げてそれに魅入っている。  
 昭和基地辺りの寒さくらい厳しい家計を憂う俺は、その横でチラチラと値札を目で追う。財布の中身との緊急会議を急いで開く必要がありそうだ。  
「……あ。やややっぱり、ちょっとわたしには似合わないかなぁ」  
 きっと、値札に記された数字の羅列が目に入ったのだろう。  
 オドオドと不審者の如く立ち振る舞いで商品を戻し、朝比奈さんはタタッと別の陳列什器へ向かう。嗅ぎ慣れた安物のシャンプーの香りを、置き土産に残していくのがまた憎い。  
「朝比奈さん。これ気に入ったんなら、これにしましょう。たぶん、大丈夫ですから」  
 俺が使う分の出費を色々と切り詰めれば、まあなんとかなりそうだしな。  
 ロウソクの長さを計るまでもなく、寿命を削らんばかりに頑張ってくれた朝比奈さんには、これくらいのお返しは当然の必然ってもんさ。むしろこれでも安いくらいですよ。  
「ええっ、そんな。あたしより絶対キョンくんの方が大変でしたよ」  
 もうどっちが大変だったとか関係なく、とにかく今俺は猛烈に朝比奈さんにお返しがしたいんです。それこそ俺の身を売っても構わないくらいだ。  
「ありがとう、キョンくん。気持ちはとっても嬉しい。でも、ダメ。ダメですからね。後のこと考えないと」  
 店内の野郎客全員を一瞬で恋に落とせそうな笑顔を俺に向け、その笑顔のままの朝比奈さんに俺は軽くお叱りを受けた。なんだかM属性が芽生えてしまいそうだ。  
 笑顔は別に減るもんではないが、これ以上他の男どもに見せていると何か減ってしまいそうな気がして、俺はすぐさま話題を変えて元の状態へと導く。ちょっと惜しい気もするが、俺はいつだってこの笑顔を拝見できるしな。  
 そうして値段を第一に気に掛けつつも朝比奈さんお気に入りの靴を探して、久々の、本当に久々のショッピングらしいショッピングを俺たちは楽しんでいた。  
「あ、えと……これ可愛い」  
 わざわざ値札を確認してから「可愛い」と言う心遣いが、もう果てしなくたまりません。  
「いいですね、試着してみましょうか」  
 俺はニヤケそうになる頬を左手で制しながら、右手を上げて店員を呼ぶ。  
 営業スマイルの奥に忙しさを垣間見せつつも、俺の声に反応を見せたお姉系店員がこちらへとやって来る。朝比奈さんが希望のサイズを告げると、在庫を確認すると言ってバックルームへと姿を消した。  
「あ、キョンくん。今日のご飯どうします?」  
 他の客が扉を開けた際に入り込む風が艶やかな栗色の髪を揺らし、今度はその揺れる髪が俺の平常心を揺らしてくる。十万本のエナメル質ミサイル。  
 俺は懸命に迎撃を試みようと、晩飯のことだけを頭に浮かべることにした。  
「そうですね。えーと」  
 俺がメニューを考えあぐねていると、そのあいだに在庫を調べ上げた店員が戻ってきた。  
 だが朝比奈さん指定のサイズはどうやら品切れらしく、ワンサイズ上の物を抱えて、どうですか、と試着を勧めてくる。  
「……じゃあ、一度履いてみます」  
 履き込みすぎて、その可憐な容姿には不釣合いな状態になっている靴を脱ぎ、朝比奈さんは真新しい靴へと足を運ぶ。私服に裸足って、なんかいいな。  
「ふぇ、ちょっと大きいかも……。残念です」  
 ガラスの靴を履きこなすには少しばかり幼い容姿だったシンデレラは、一瞬、顔を曇らせるが、  
「あ、じゃあこれ。これも可愛い」  
 年頃の女の子は何かと移り変わりが激しいようで、すぐさま笑顔を取り戻して次の候補を手に取る。まあ、朝比奈さんが履くのならなんだって可愛くなりますよ。  
「あ、ピッタリ」  
 
 
 店を出た俺と朝比奈さんは、特に行き先を決めるでもなく適当な方向へ歩き出した。  
 予想よりリーズナブルに済ませることになった朝比奈さんへのプレゼント入りの紙袋を右手に持ち、さて次はどうしようかと目的地を決めかねていると、  
「そういえばキョンくん、ご飯どうします?」  
 ああ、さっき訊かれてそのままでしたね。えーと、そうですね。  
「久し振りに、朝比奈さんが作ったサンドイッチが食べたいです」  
 あの鶴屋山で食べて以来、一度も口にしていませんからね。  
「ええっ、そんなのでいいの?」  
 そんなのも何も、俺にとってはどんなフルコースよりもごちそうです。それにさっき、後のことを考えないと、って言ったのは朝比奈さんですからね。贅沢はいけません。  
「ありがとう。そう言ってくれると作り甲斐があるなぁ。うん、贅沢はダメですね」  
 そう自分を戒めて、頭をコツン、とやる朝比奈さん。  
 その可愛らしい仕草に地球も興奮を隠しきれなかったのか、自身が立ち昇らせた熱気の分の空気を埋めるように、俺たちの足元に風を吹き付けてくる。  
 スカートは膝下だが、それでも眩しい膝小僧を見え隠れさせるその風に俺は少しの嫉妬を覚えつつ、そんなガキな自分を心の中で嘲っていた。  
 等間隔に植えられた、まだ育ちきっていない街路樹を俺がぼーっと数えていると、  
「あ、いや、ちょっと、朝比奈さん」  
「えへ。いいですよね」  
 とか言って背伸びして腕を絡めておいでになった。幼顔の少女も、ちょっとした大人びた振る舞いで本当に大人っぽく見えてしまうから侮れない。年下に見えたシンデレラは、魔女の魔法の一振りで上級生へ。  
 いっぽう俺はといえば、赤い顔を冷やす作業で精一杯で、なんだかいつもとは立場を逆転されてしまった感じだ。  
 羞恥心と優越感が絶妙にブレンドされたような感情を湧き上がらせつつ、俺は周りの男どもから突き刺さる視線を左右へと受け流していた。このお方は俺のもんだぞ、と。  
 そうして俺が見知らぬ人々と牽制し合っていると、加えて肩にもふわっとした感触が現れる。またもやシャンプーの香り。  
 お世辞にも王子様とは程遠い俺に、シンデレラなんぞもったいないのは百も承知だが、それでも俺は離したくない。絡まる腕に力を入れ、ぐっと強く引き寄せる。それに答えて、朝比奈さんが頭を肩にコツンとやってくれるのがこそばゆい。  
 半年前に蒔かれた苦労の種が、ようやく花開いた至高のひと時。  
 そう、全ては半年前に。  
 
 
 
 
 半年前。文芸部室。  
 おぼろげな記憶の地引き網を引っ張らずとも、キュートな字体という海上保安の巡視船が、記憶の海から該当する人物をすぐさま引き揚げてくる。一瞬で誰なのかを推測できた。  
 そもそもこういった呼び出し手段を選択している時点で、端から俺の先入観は全開でスタートアップしており、結果ある人物だと完全に決め付けていた。  
 未来ではデジタル化が一周して逆にアナログに回帰しているのだろうか、手紙という古くからの習わし。うむ、音楽とかでも何かとアナログに執着する人がいたりするからな。あながちそうなのかもしれん。  
 エコマークが好感度の上昇に拍車を掛ける可愛らしい便箋をポケットに忍ばせ、俺は放課後の部室で待ち呆けていた。  
「あ、ごごめんなさい。待たせちゃいました?」  
 痛んだ扉を労わるようにそっと開け、俺の前に姿を現したのは、ちょっとばかし予想とはズレた人物だった。いや、同一人物なんだから合ってるっちゃあ合ってるんだが。  
「いえいえ、俺も今来たばかりですよ」  
 脳内モニターに映し出していた人物像をズームアウトで小さく写し直すと、俺の眼前に現れた人物と一致する。  
 そう、大きい方の朝比奈さんではなく、見慣れた俺の朝比奈さんだ。  
「あの、またなんですけど、ちょっと付いて来て欲しいところがあって……」  
 乾季を凌ぎきれなかった稲みたいに萎びた様子で、朝比奈さんは申し訳なさそうに俺に請う。  
 茶っ葉の買出しか、はたまた未来絡みの付き添いなのか、どっちにしろ次世紀のヴィーナスにこんなお願いの仕方をされたんじゃあ、俺がイエス以外の回答を弾き出すわけがない。過去でも異空間でもお供いたしましょう。  
「よかったぁ。うふ、ありがとう」  
 いえいえ、こちらこそ毎日の眼福をありがとうございます。  
 まあ、どちらかといえば二人きりで茶っ葉の買出しの方が色々と満たされる気もするが、未来のおつかいだって十分なもんさ。  
 どこへ行こうとも、朝比奈さんの萎びた稲には俺が水を満たして差し上げたいね。  
 俺が勝手に朝比奈水田に足を踏み込まんと長靴に履き替えようとしていると、俺の手に小さな手の感触が伝わってきた。眼福ならぬ触福とでも言うべきだろうか。この時点で、俺の方の水田は七割くらい水で満たされたようなもんだ。  
「では、いきますね。目を閉じて……」  
 言われるがままに瞼を下ろし、お世辞にも気持ちいいとは言えないあのハードな感覚に備える。  
「じゃあ長門さん、ちょっと行って来ますね」  
 ちなみに今まで全く触れていなかったが、長門も部屋の隅っこで活字漁りに精を出していることを伝えておこう。  
「…………」  
 目を瞑っているのでなんとも言えんが、なんとなく長門が今うなずいたような気がする。   
 長門に、いってきます、とテレパシーを送っている俺を尻目に、いよいよ浮遊感が身体を襲い始めた。  
 そして次の瞬間。  
 
 
 部室の扉がやかましく開いた気がした。  
 
 
 しかしすぐに時間遡行に入ったため、それは気のせいだったのかもしれないと思い直し、しばし壮絶なバイキングにリンパ液を掻き回されていた。  
「ふぇ……何か……」  
 遡行中に聞こえたどことなく不安げな朝比奈さんの呟きも、きっと気のせいなんだろう。病は気から的な要素で、さっきの扉の音が心に妙なつっかえを作っているが故に聞こえた幻に違いない。  
 あーもう、とにかく気持ち悪くてどうでも良くなってきた。いい加減慣れてきそうなもんだが、遊園地のコーヒーカップでさえ苦手な部類に入る俺には、ちときつい。  
 
 ようやく身体がまともな感覚を取り戻し、靴底が地面と接しているのを確認する。  
 さて、いつのどこへ来たのやらと朝比奈さんの方を振り向くと、  
「……あれ? うそ……」  
 ウォーリーでも紛れ込んでいるのかと思うほど電波時計を凝視している朝比奈さんは、大きな瞳をさらに大きくして呟いた。  
「どうしたんです? ていうか、とりあえず今はいつなんですか?」  
 まず問い掛けてみるが、俺の問いは朝比奈さんの耳には入らなかったようで、  
「……そんな、確かに四年前に」  
 こちらを振り向くことはなく、独り言は絶賛進行中である。  
 ていうか、また四年前なんですか。  
「ううん。確かに四年前に行く予定でした。けど、けど、こんなの、どうしよう……」  
 今にも泣きそうな表情を色付かせ、朝比奈さんは手を微かに震わせる。雲行きの怪しさを匂わせる空気が、それを発生源に辺りに立ち込めていく。  
 どうやら遡行地点を間違えたらしい。  
「朝比奈さん。別に間違った時間に来ただけなら、もう一回時間遡行すればいいじゃないですか」  
 まず普通ならこう考えて当然のはずだし、いくら朝比奈さんでもこれくらいは容易に考え付くはずだ。  
 だが朝比奈さんは、ゆっくりと首を横に振り、  
「……それが、うぅ、ぐす」  
 犯した過失が自責の念をくすぐったのか、朝比奈さんは小さな泣き声を響かせている。  
 いったいどうしたというのだろう。また遡行し直すってだけでは解決策としては成り立たないのだろうか。  
「朝比奈さん、いったい今はいつなんです?」  
 砂場を横取りされた園児みたいに泣く頭を慰めつつ、二度目となるその質問を俺はぶつけた。  
「……ご、五年前なんです。どうして、どうしてあの断層を越えることが……」  
 そこで俺は、朝比奈さんとペアになったあの春の不思議探索を脳裏に浮かべた。  
 並んでベンチに腰を下ろし、自分が未来から来たと告白した幼い天使。その会話の中にあった一節。四年前にハルヒによって時間の歪みが生じ、それ以上の過去に遡れなくなったという説明を思い出した。  
「あのハルヒのせいでそれ以上過去に行けないってやつですか」  
「……はい」  
 この朝比奈さんの狼狽ぶりから察するに、逆にここから断層とやらを越えて未来へ行くこともできないのだろう。要するに元の時間軸にも戻れないってことか。  
 ……って、これはひょっとして、ものすごくマズい事態ということではないだろうか。なんてこった。  
 長きによって培われた俺のエマージェンシー耐性はどこへやら、俺は段々と焦燥の色を隠せなくなり始める。  
 落ち着け、帰れないわけがない。きっと何かを見落として、  
 ん? いや、待てよ。それなら、  
「朝比奈さん。その断層ってやつの一歩手前の時間まで行きましょう。そうすりゃすぐに、時間の流れが自然と断層を越えてくれるはずでしょう?」  
 天使の涙のワックスが脳の滑りを良くしたのか、焦燥から一転、我ながらアイデアマンである。  
 だが俺の自画自賛もそこそこに、朝比奈さんは決定打となる否定のボールを俺に打ち込む。  
「……それが、TPDD自体が作動しないんです。ここの時間平面流動の波形と噛み合わないの。きっとあの四年前の、あ、今居るところからは十ヶ月後だけど、その時空振動で色々なものが変わっちゃったんだわ……」  
 相変わらず理屈はよく解らんが、またしてもハルヒだってことか。  
「未来と連絡を取って、なんとかしてもらったりとかもできないんですか?」  
「……はい。時間遡行も通信も、他の時間平面にアクセスするメカニズムは全部一緒なんです。あの夏休みの時みたいに、閉じ込められた状態なの……」  
 
 くそ、八方塞がりじゃないか。  
 てことはだな、ハルヒが時間を歪める時までここで普通に十ヶ月過ごさないといけないわけで、しかも朝比奈さんと二人きりでの糖度百パーセントな……。  
 いやいやいや、この非常事態になんてこと考えてんだ俺は。冷静なのは自分で誉めてやらんこともないが、頭に浮かぶ物がいちいちピンク色だってんなら、あたふたしている方が幾分マシだ。  
「キョンくん、ごめんなさい。ごめんなさい。ほんとにごめんなさい……。あの時、部室に涼宮さんが入ってきたことにすぐ気付けば……。長門さん、うまく誤魔化してくれてるかな……」  
 朝比奈さんは俺に何度も陳謝を並べ、とうとう声を上げて泣き出した。ていうか、やっぱりハルヒだったのか。  
「朝比奈さん、これはあなたが悪いわけじゃない。俺は大丈夫ですから、そんなに責任を感じることはないですよ」  
 ゆっくり、なだめるように言葉を掛け、俺は俯く頭を優しく撫でる。夕方という絵筆が辺りを濃いオレンジ色で塗りつぶし、お互いの影は細長く地面に描かれる。二人の体勢がそれと妙にマッチして、なんだかどこぞのゴールデンタイムドラマみたいだ。  
 しばらくその状態を保ったまま朝比奈さんが落ち着くのを待ってみるが、このムードが色々な自制心の邪魔立てに拍車を掛けている状態で、少しばかりやり辛い。ついでに柔らかい髪の感触がなお後押し。  
 思わず抱きしめてしまいそうになる衝動を抑えつつ、俺は決意した。  
「朝比奈さん、帰れないのなら仕方ありません。二人で、ここで十ヶ月待ちましょう」  
 そう言うと、朝比奈さんはそっと俺の顔を見上げる。新聞紙で磨いた鏡のように、伝う涙が強くオレンジの光を反射して眩しい。  
「……それしかないですね。キョンくん、ありがとう」  
 そこで俺に向けて作られる笑顔は、その反射する光よりも断然眩しかった。  
 うん、いいね、その顔。  
 やっぱ、稲は水に浸っていてこそなのさ。  
 
 
 
 
 
 こうしてこの時間軸で十ヶ月待つことを決めた俺と朝比奈さんの生活が、音もなく幕を上げた。  
 だが、時間に干渉できない朝比奈さんは一般人に相違なく、俺に至ってはもともと一般人である。一般の高校生二人が自らの力で生計を立てるというのはあまりにも困難であり、正直、苛烈を極めた。  
 だが知り合いにすがり付くとなれば、それはもれなく歴史の改竄というオマケが付いてくることになり、そもそも立場上身分を明かすことができない。  
 そして知り合いのみならず身分を明かすのはタブーであり、そのせいで足枷を付けられたように動きが取り辛かった。  
 ここが四年前なら長門に頼っていたところだが、この時間軸では長門はまだ生まれてすらいない。改めて、どれだけ長門に甘えていたのかを思い知らされたね。  
 つまり、正真正銘ゼロからのスタートだった。  
 まず俺たちは住居スペースの確保に身を乗り出すと共に、俺の仕事探しも平行して行った。  
 住居に関しては、理想を言えば俺と朝比奈さんは別々にした方が色々と問題が起きずに済むのだろうが、こちとら無一文の高校生である。  
 加えて、俺たちに科せられたハンデは経済面だけにとどまらず、身分の証明をできないが故に親の承諾を得ることもできないという、未成年にとってはそれこそ超重量級の足枷がはめられている。これが何よりも部屋探しに支障をきたした。  
 仕事に関しては、今の二人の所持金を考慮すると、まず日雇い即払いのバイトが適切だという結論に至った。まあ適切というか、ハンデを考えるとそういう雇用形態でしか雇ってもらえなさそうな気もするが。  
 とりあえず初日である今日はすでに陽が西に傾ききっていたので、仕事はもちろん部屋探しにもあまり手を付けることができず、家なき子はノンフィクションとなることが決まった。マジで言いたい。同情するなら金をくれ。  
 それっぽくする為にルソーを拝借してこようかとか企みつつ、朝比奈さんには心痛の至りこの上ないのだが、俺は公園で朝を迎えようと提案した。  
 俯きながらも素直に従ってくれる可愛い上級生に、俺は何があろうと無事に十ヶ月過ごすことを心に決め、ささやかな夕食入りのコンビニ袋を携えてベンチに腰を下ろすのだった。  
「朝比奈さん、寒くないですか?」  
 暦は寒季というわけではないのだが、夜の公園ってのは何かと冷えるもんだからな。この先の十ヶ月間を考慮すれば、体調管理ってのは極めて重要だ。  
「あ、はい。大丈夫。女の子って冷え性が多いけど、実際寒さには強いんですよ?」  
 俺より半シーズン分薄着の朝比奈さんが、胸を張って少しばかり自慢げに答える。強調されたそのボリュームがやけに目に付き、俺の中の色々なリミッターを解除しようとしてくるから困りものだ。  
「確かに、女の人の方が基本的に露出度は高いような気がしますからね」  
 街をうろつくと、真冬でもミニスカートなんてのも割と見かけるからな。寒さ的にも性別的にも俺には到底マネできん。  
「でしょ。女の子って強いんだから」  
 おにぎりの封を切りつつ、俺は小学生時代に年間通して短パンだったクラスメイトの男子を思い出していた。  
 いっぽう朝比奈さんも年中ノースリーブだったクラスメイトでも思い出しているのか、明後日の方を向いてパンを齧っている。夜の闇のせいで、パンの種類が何なのかまでは解らなかった。  
 やがて短いディナータイムを終えた俺と朝比奈さんは、まるでこの先の不安を取り繕うかのように雑談に興じ始め、湧き上がる何かを抑えていた。相身互いな二人。  
 それでも、しばらくそうしているうちに瞼のカラータイマーは点滅しだし、口数は自然と減っていく。  
 そしてやっぱり肌寒いのか俺たちはいつしか肩を寄せ合い、やがて夢の入り口に足を突っ込んでいた。  
 
 
 その翌日は、朝から住まいと仕事探しに時間を費やした。  
 まずはその際にでっち上げの嘘話を作る。俺と朝比奈さんは兄妹であり、両親が事故で他界したため二人きりでの生活を余儀なくされたというちょっと眉唾っぽいが、とりあえずそういう設定にしておいた。  
 絞ったターゲットは、敷金礼金なしの超格安オンボロアパートである。  
 不安感満開の朝比奈さんのために、まず設定と色々な理由付けの再確認を二人で行う。これから十三階段を上りそうな朝比奈さんの表情に、何かこっちまでネガティブな感情が押し寄せてきそうになるが、ここまで来ればとにかく大家へゴーだ。  
 結果、一件目二件目は見事に撃沈したのだが、三件目の大家さんが割と話のわかる人で、前払いの家賃を五日だけ待ってもらえる形で契約が成立した。  
 途中、なんで施設に入らないのとか不動産を通さないのとか多少つっこまれた点もあったりしたが、なんとかデタラメに理屈付けて誤魔化してやった。  
 仕事の方も明日と明後日の分までは取り付け、時間遡行前からポケットに入れっぱなしだった俺の財布の中身と合わせた結果、かろうじて激安の家賃分は確保できそうなことが解った。家なき子は再びフィクションの世界へ。  
 とにかく、まずは一歩を踏み出すことに成功した。  
 
 
 
 
 そして、早くも一ヶ月後。  
 俺たちの生活もようやく軌道に乗り始め、とはいっても相変わらずエンゲル係数は内閣の支持率より高い値をキープしているわけだが、取り急ぎ死活問題に発展しそうなほどでもなかった。  
 まあ、それでも充分すぎるくらい俺たちの経済状況は芳しくなく、それでも端からのニ週間に比べれば間違いなくマシである。あれはもう泥水を啜るような生活だったと言っても過言ではない。  
 その間、精神的にプレハブ小屋の隅あたりにまで追い込まれたにも拘らず、どうにかそれを乗り切ることができたのは、ひとえにこのお方が傍に居てくれたおかげに他ならない。  
「キョンくんキョンくん、起きて。起きないと間に合わないですよ」  
 あーもう、うるさい。いいからお前はシャミセンの縄張り争いにでもセコンドで付いてろ。そのうち負けそうだったらタオルでも投げてやれ。  
「ふえぇ。あのぉ……」  
 なんだ? タオルならタンスの二段目に入ってるぞ。  
「起きないと仕事に……」  
 仕事? おいおい、いつのまに高校生からリーマンへ飛び級というか飛び職というか、ビフォーアフターも甚だし過ぎるだろ。  
 ん? そういえばお前、なんか声にプラス方向の補正が掛かっているように感じるんだが。  
「もう、キョンくん! 起きないとダメっ!」  
「ったくもう! だからシャミセ……朝比奈さんっ! すすすみません!!」  
 いよいよ俺も頭にヤキが回り始めたのか、あろうことかエンジェルを我が妹と錯覚したらしい。  
 もうこれは死刑どころか、終身刑で寿命ギリギリまで懲役させられた後に、けっきょく処刑されてもいいくらいの重罪である。  
 ここんとこ色々と張り詰めていたせいで、一気に身体にツケが回ったのだろうか。久々の寝坊だ。  
「はい。早く着替えないと」  
 そう言って服を手渡してくれるのは非常にありがたいんですが、  
「あの、朝比奈さん」  
「なんですか?」  
「今から着替えるんですけど……」  
「ひゃいっ。ごめんなさいっ」  
 もともと高い声をさらに裏返らせつつ、朝比奈さんは二秒で厚手の布で仕切られている向こう側へ退散した。  
 なんだか以前にも同じようなやりとりを交わした気もするが、あの時は立場が逆だったっけ。  
 とにかく俺は超特急で着替えを済ませ、ニ、三歩で辿り着く狭い玄関へと直行する。宣言通り三歩で到着するや否や足を靴に突っ込み、  
「いってらっしゃい、キョンくん」  
 至福の瞬間である。  
 もうこれを聞きたいが為に仕事に行くようなもんであり、金は二の次三の次で充分、早い話が要するに朝比奈さん最高というわけである。  
 そんな最高なお方と寝食を共にしているにも拘らず、煩悩の暴走を今だ抑え続けている自分に、瑞宝小綬章を半分に割ったもんくらいは送ってやりたい。  
 いやスマン、朝比奈さんは最高だが今の俺たちにとってはお金も最高だ。お金最高。人前で口にするには、あまりにも人間を疑われる危険性が付き纏う台詞だな。自重しよう。  
「いってきます」  
 新婚生活気分もそこそこに、ようやく普段通りの一日がスタートする。  
 昼間の仕事に加え、夜にも働かざるを得なかった先ごろまでを考えると、ずいぶん心に余裕を持てるようになった。色の無かった空も、今の俺にはとびきり青く写る。  
 心持ち早歩きで常勤させてもらえることになった仕事場へ足を進めつつ、あたふたと家事をこなす朝比奈さんの雄姿を想像して、俺は自然と頬を緩ませていた。  
 気付くと頭の中のフラワーガーデンは、一種類の解語の花で埋め尽くされ始めていた。  
 
 
 それから僅かな日が過ぎた頃。  
 うちわで扇ぐ朝比奈さんの薄着姿が芭蕉扇ばりの破壊力を生み出したのか、夏はどこかへ吹き飛ばされたようで、ようやく涼しげな秋風が火照った体を冷やし始めた。  
 それに伴い、今は朝比奈さんもスーパーで購入した無地の長袖に身を包んでおり、それには少しばかり秋の到来を悔やまされる。山あり谷ありとまではいかないが、丘あり溝ありくらいの浮き沈みグラフだ。  
「もう少し待っててね」  
 脱いだ俺の作業服と入れ替えに、朝比奈さんは簡単な着替えを俺に差し出し、部屋の中に仕切りもなく取り付けられてあるキッチンへと向かう。急いでいる様子がこれまた良いし、なんだか嬉しい。  
 そしてまもなく、これがテーブルなんだとしたら本来のテーブルはオブジェとかアートにカテゴライズされそうな、そんな簡易な木の台に質素な夕食が配膳される。  
「いただきます」  
「いただきまぁす」  
 とまあ大体こんな感じで毎日の晩飯時を過ごしているというわけだ。うむ、今日も料亭の味。普段のドジっぷりは新手のドッキリなんじゃないかと思えるほど、相変わらず料理の腕は三ツ星級だ。  
 こうして舌鼓を打って食事を進めていると、ふと作業着のポケットに入れっぱなしだった二枚の紙切れの存在を思い出した。  
「あ、そうだ。朝比奈さんって、野球とか興味あります?」  
 あの夏の野球大会を思い出す分には、朝比奈さんが興味を示したような素振りはこれっぽっちもなかったとは思うけどな。とりあえず訊いてみた。  
「ひえっ。やや野球ですか?」  
 朝比奈さんもあの野球大会が脳裏を掠めたのか、まるで猟師に銃口を突きつけられた野ウサギのようになっていらっしゃる。やっぱあのノックがトラウマになってるんだろうか。  
「いや、プレイする側じゃなくて、今度は観戦する側なんですけど」  
 と、俺が不安を取り除く言葉を掛けると、朝比奈さんは胸を撫で下ろし、  
「……あ、そうですか。それなら大丈夫です。でも、あんまり見たことないなあ」  
「俺もそんなに好きってわけじゃないんですけど、仕事場の人にチケットを貰ったんですよ。せっかくですし、見に行きませんか?」  
 最近、忙しくてまともに出掛けることなんて無かったしな。ついでに言えばお金も無かったし。  
「……じゃあ、そうですね。たまには。行きましょう。うふ」  
 
 
 そして翌日。暦は平日だが俺は仕事が休みなのでセルフホリデイである。  
 むしろ休みだからこそチケットを譲り受けたんだが、まあとにかく、そういうわけで俺たちは地元球団のホームである球場へいざ赴かんとしているわけだ。  
 蔦が妙に艶めかしさを醸し出している外観を横目にゲートをくぐると、さすがに人気球団なだけあって球場内は人で溢れかえっている。  
 はぐれる心配があるので、不可抗力で手を握れるのは予想外の収穫だ。  
 バイオリンの弓毛のように繊細な手を引きながら、俺は野次や歓声のあいだを縫うように進む。ふと後ろを振り向くと、場内の熱気のためか、はたまた別の熱気によるものなのか赤らめた愛らしい笑顔があるのが、またいい。  
 しばらく調子良く進んでいると、  
「わひゃっ。すすすみませんっ」  
 甲高い謝罪の声と同時に、俺は繋いでいる手に急に引っ張られる形で立ち止まることになった。  
 どうやら朝比奈さんがすれ違いざまに誰かとぶつかったらしく、ペコペコと頭を下げている。  
「大丈夫ですか? ちゃんと前を見てないと、危ないですよ」  
 俺がいったん足を止めてそう言うと、朝比奈さんは一歩分の距離を詰め、絡めていた二人の指をほどいて両手で俺の腕の掴んできた。通りゃんせだった二人の距離が、コーヒーをろ過できそうなほどの隙間へと狭まる。  
「これなら、大丈夫ですよねっ」  
 そう俺に言い聞かせる朝比奈さんの手は先程よりも熱を帯び、それが袖越しにも伝わってくる。  
 このお方は、これを小悪魔的なカリキュラムに沿って行っているわけではなく、純粋にただ大丈夫だという理由でやっているのだからタチが悪い。自分だけが意識しすぎて、これじゃ俺がピエロだ。  
「早いとこ席に着いちゃいましょう」  
 やられっぱなしでなんだか悔しいので、俺は普通を装って黙々と指定の席へと向かうことにした。  
 
「えーと、お、ここだ」  
 やがて外野席の一角に、チケットに記されてある番号と一致する座席を発見する。二人して並んで腰を下ろし、ようやく観戦タイムだ。  
「ふえぇ。なんだか、すごく盛り上がってるなぁ」  
 すでにプレイボールのサイレンは鳴らされており、どうやら地元球団がリードしているようで異様な盛り上がりである。テレビで聞いたことのありそうな応援歌とメガホンを叩く音が、やかましく鼓膜を揺さぶる。  
 仮にもにわかファンとも言い難い俺と朝比奈さんは、飛ばされっぱなしのジェット風船と共に置いてけぼりを食らわされた感じで、顔を見合わせて苦笑い。  
 とにかくリンくらいなら発火してしまいそうなほどの熱気であり、まさかその為に禁煙にしているのではないかと思わせるほどだ。  
 そんな徳用マッチ箱と化したライトスタンドをぐるりと見渡しつつ、俺は日本一の熱狂的ファンと言われるその所以を実感していた。  
「思っていたより、色んな感じの人が来てるんですねえ。ちょっとびっくり」  
「はは。結構こんなもんだと思いますよ。要するに、日本人は野球好きってことです」  
 多くはないが、若い女性同士のグループもあれば、カップルと見受けられる男女も居る。俺と朝比奈さんの前席を陣取っているのは家族連れだしな。確かに色々な人種の巣窟だ。  
「ねえ」  
 前のその家族連れの女の子が、父親らしき人物に何か訊きたげに呼び掛けている。  
「すごく人がたくさん居るわね」  
「そうだな」  
 その父親は慈しむような視線を我が子に送りつつ、頷いている。微笑ましい光景だ。朝比奈さんもやんわりと頬を緩めてそれを眺めている。  
「ここには、どれだけの人が集まってんの?」  
 うむ、実に子供らしい純朴な質問だ。その純粋な心をいつまでも忘れず、ぜひとも真っ直ぐな人間に育って欲しいもんだ。間違ってもどこぞの爆弾娘のように捻くれることのないようにだな……。  
 ……なんだろな、これ。このデジャブともつかない記憶の深海から溢れんばかりの忌々しい感覚。  
 いや、待て。少女の今の質問。これは間違いなくどこかで聞いた覚えがある。  
 確か……いや、まさかな。ありえん。いくら少女が黒髪のロングヘアだからって、  
「うーん、そうだな、確か……」  
 と父親は一瞬考えたあと、あろうことか首を後ろに捻って俺の方に視線を送り、  
「兄ちゃん。ここ満員で何人くらいだっけ?」  
 度肝を抜かれた。  
 待て待て待て。なんなんだこれは。なんのドッキリだ一体。  
 だが、まあ焦るほどのもんじゃない。普通に答えてやれば何も問題はないはずだ。  
「そ、そうですね。確か……ご五万人くらいかとぅお」  
 トゥオ。  
 いったい俺はどこの母国語を喋っているのだろうか。今まで気付かなかったが、どうやら俺はバイリンガルという我が家系切っての地位に就けるかもしれない肩書きを獲得していたらしい。  
 生まれはL.A、育ちはニューヨーク。悪そうな奴はだいたい友達ということにでもしておこう。  
「おーそうだそうだ。ありがとな兄ちゃん。おいハルヒ、満員だから五万人くらいだな」  
 ……なんてこった。  
 よもやこんな些細なエピソードにも俺が一枚噛んでいようとは。  
 まさかとは思うが、あのトンデモ娘はこれをさせるが為にわざわざ断層とやらに風穴を開けたんじゃあるまいな。  
「ええっ! まさか……涼み、んご」  
 ようやく事態を理解したらしい朝比奈さんの容易ならない発言を遮るべく、俺は傷ものCDの音飛び並に一足飛びで近づき、とっさに朝比奈さんの口を塞ぐ。  
 すると朝比奈さんは自らの失言に気付いたようで、何やらアイコンタクトらしき視線を俺に送ってきた。  
 俺が口を塞いでいる手を引っ込めると、  
「あのぅ、これって……偶然なのかな」  
 と、小声で俺に囁いてきた。  
 そうか。朝比奈さんはハルヒの野球場エピソードのことを知らないのだ。  
 言われてみりゃそうだな。今俺たちが万里の波濤を凌ぎつつ生計を立てているこの時代は、本来なら観測は不可能であり、ましてや実際に身を置くことなど叶わないはずだからな。  
「どうなんでしょうね。俺には解らないことですよ」  
 
 しばらく俺と朝比奈さんは、白と黒という一見縁起の悪そうな縦縞の押せ押せムードに流されつつ適当に応援に励んでいたが、正直試合の内容なんざ全く頭に入ってこなかった。  
 しかしそんな俺の上辺の応援に関わらずとも勝手に試合は進行し、やがて勝手に九回表を迎えることとなる。  
 ここらでもう観戦は充分だろう。お世辞にも広いとは言えない出入り口で人だかりに揉まれないよう、早いとこ脱出しないと後々面倒だからな。  
 ただ単に人だかりは疲れるってのもあるが、何しろ圧倒的に男が大半を占めるこの満員御礼の中で、朝比奈さんが揉みくちゃにされる可能性がある。そうなると俺自ら場外乱闘に発展させてしまいかねん。  
「朝比奈さん、そろそろ出ましょうか」  
「そ、そうですね。楽しかった……なぁ」  
 そう言ってくれるのは非常に感激なんですが、やはり朝比奈さんはこのムードに気後れしてしまっていたようで、台詞の中に疲労感が滲み出ているのが伝わってくる。  
 うーん、せっかくここへ来てから初めてのデートっぽいイベントだってのに、デートコースの選択を見誤ったかもしれん。  
「今度は、どこか朝比奈さんが行きたいところに行きましょう」  
 銀傘にはね返ってこだまする歓声を背中に受けつつ、俺はさりげに次回のデート予告をしておく。  
「そうですねぇ。でも……」  
 朝比奈さんはそう言ってからいったん言葉を区切り、  
「余裕があれば、ね」  
 まるで無茶言う弟を言い宥めるかのように、しこたま柔軟材が配合されてそうな物腰で俺の顔を覗き込むように言う。  
 きっと金銭的に、ということだろう。  
 初めてお目に掛かる朝比奈さんのお姉さん的な一面に、やっぱ上級生なんだなと今更なことを実感しつつも、俺と並んで家路につく横顔はどう見ても幼かった。  
「帰ってご飯作らなきゃ」  
「朝比奈さん、今日くらいはいいですよ。時間も時間ですし、どこかで簡単に夕食を済ませて帰りましょう」  
 なにも仕事をしているのは俺だけではない。ここのところは朝比奈さんも家事の合間を縫って内職に勤しんでいるのだ。  
 だから俺が休みの日には家事をちょくちょく手伝っているんだが、普段はきっと蟻というより二宮尊徳くらい休んでないんじゃないかと心配でならない。このお方が折り紙付きの努力家だってことをなまじ知ってるが故に余計だ。  
「ダメです。外食なんて三日分の食費にはなるんだから」  
「いや、でも朝比奈さん。たまには休んでくれないと俺が心配です」  
「キョンくんに比べたら、わたしなんて全然。だから、ダメ。作ります」  
 ほんと、こういう時だけ主張が強いんだからな、このお方は。  
 結局情けなくも言い返せなかった俺は、この頑固なエンジェルを満足させるような折衷案を足りない頭で練っていると、  
「ん? どうしたんですか?」  
 朝比奈さんの足が止まり、何かあらぬ方向に熱い視線が注がれていた。  
 俺がその視線を辿ると、なんてことのない、ちょっとした可愛らしい雑貨屋に目を奪われているらしい。  
 朝比奈さんは、俺の視線が自分のそれを辿っていることに気付くと、  
「……あ、はは早く帰らないと」  
 いたずら好きの妖精が人間に見つかったかのように、なんでもないよ的なニュアンスを含んだ台詞を残して再び足を進め始めた。  
「ちょっと寄りましょうか」  
 そんな可愛い妖精のいたずらを目の当たりにして、やすやすと放っておけるほど甲斐性がないわけじゃないぜ俺も。  
「え? でもぉ……あ、ちょっと、え? わっ」  
「ほらほら、入りましょう」  
 すごすごとその場を離れようとする狭い肩を両手で以って軌道修正し、俺もろとも雑貨店内に押し込む。  
 全く抵抗を見せないあたり、やっぱり入りたくてしょうがなかったんだこの人は。まあ、そこが庇護欲をくすぐるというか、俺的に直球で言うと可愛いってことだけどな。  
 
「わぁ、たくさん」  
 店内は、アンティークな置物から子供受けも良さそうな可愛らしい小物まで、たいして広くもない敷地に幅広い品揃えである。おかげで人が通れるスペースが狭い。  
 店内に入るや否や、原石だったダイヤモンドの朝比奈さんの目が、ブリリアントカットを施して一層輝きを放つ瞳になり、夢中で品定めにいそしんでいらっしゃる。  
 うん、入って正解だったな。こんな朝飯前のお茶漬けくらいのことで小躍りする朝比奈さんを拝見できるってんなら、何杯だっておかわり無料でいい。  
 それからしばらく俺も適当に商品を物色しつつ、朝飯前のお茶漬けというかお茶漬け自体が朝飯でいいじゃないかと日本の諺にイチャモンを付けていると、  
「これって、なんなのかなぁ?」  
 店内狭しと動き回っていた朝比奈さんが、一つの木製人形の前で立ち止まり、何か疑問符を浮かべている。  
 俺はその声に呼び寄せられるように朝比奈さんに並び、その人形を手に取って見る。  
「なんだか怖い顔して不気味なんだけど、でも可愛い感じもして、ちょっと不思議なお人形さん……」  
 険しい表情でどこかヨーロッパあたりの国の軍人のような出で立ちをしたその人形は、確かに見る者を少し物怖じさせるような、それでいて憎めない雰囲気を備えている。  
「はは。これは、くるみ割り人形ですね」  
 俺が疑問に答えると、朝比奈さんは58面体ブリリアントカットの瞳を今度は丸く変化させ、  
「ふえっ。このお人形さんがくるみを割っちゃうんですか?」  
 信じられないといった様子で、舐め回すように人形を凝視している。  
「本来はそうなんですけどね。俺もそう詳しいわけじゃないんですが、最近のやつは完全にインテリア仕様で、実際にくるみを割ることはできないと思いますよ」  
「そうなんだぁ。へぇー」  
 朝比奈さんは俺の適当な解説にしきりに頷き、どうやらこの木製軍人に興味津々のようである。買ってあげるか?  
「そ、そろそろ帰りましょう。キョンくん」  
 俺が財布の紐の封印を解くべく呪文を唱えていると、朝比奈さんは呪文を遮るかのように言葉の呪符を俺の財布に貼り付け、そそくさと店から逃げるように出て行く。  
 それに釣られて俺も店を後にするが、これじゃあ俺が財布から何か復活させてはいけないものを復活させようとしていたみたいで、なんだか癪だ。  
「今日は何作ろうかなぁ」  
 なんて、朝比奈さんは先程の軍人様にえらく心を魅かれていたのが、まるで嘘のように振る舞っている。  
 そんな健気な姿を見ちまったからには、仕方ないだろ、やっぱ。  
「すみません朝比奈さん。ちょっとトイレに行ってきたいんですけど」  
「あ、はい。じゃあここで待ってますね」  
 朝比奈さんは剥き出しのコンクリートに背をもたれ掛け、にこやかに俺を見送る。よく解らんが無機質なコンクリートも朝比奈さんの背中で綺麗にリフォーム出来そうな勢いだ。  
 俺はそんな朝比奈さんを置いてダッシュするが、もちろん行き先はトイレではない。さっきの雑貨屋、あのくるみ割り人形をなけなしの懐を叩いて購入すべく駆け足をしている。  
 再び俺が店内に入ると、そこの店主は俺が忘れ物をしたとでも勘違いしたのかキョロキョロと床を見渡していたが、俺がくるみ割り人形を手に取ると、目的を理解したようでレジへと入った。  
 もともと薄い財布が、ギガザインの内容くらいさらに薄くなるのを見届けると、俺はすぐさま店を出て朝比奈さんのもとへ戻るべく再び小走り。  
「おまたせしました」  
「はい。おかえ……ええっ!」  
 俺が抱えていた小箱の中身を理解したのか、朝比奈さんは寝起きドッキリを仕掛けられたアイドルの如く勢いで驚いてくれる。例のプラカードでも用意すべきだっただろうか。  
 
 とりあえず蓋に手を掛けてご開帳すると、  
「……かか買っちゃったんですかぁ」  
 朝比奈さんは、困惑と歓喜のリキュールを菜箸なんぞでステアリングしてしまったかのような、どことなく微妙な表情をしていらっしゃる。  
 俺はその表情を歓喜一色に染め上げるべく、  
「朝比奈さん。これ、貰ってやってください。それと、この人形代は小遣いの前倒しということで。なので今月の小遣いは要りません」  
 それでこの人形代以上に浮くってんなら、何か朝比奈さんの好きなように使えばいい。コーヒーへと変換されてむさ苦しい俺の喉を通るくらいなら、フローラルの香りとか漂ってそうな朝比奈さん愛用財布に仕舞われていた方が、よほどマシだろうしな。  
 英世、いや、漱石だって、その方がお金冥利に尽きるってもんさ。  
「ええっ! そんな、そんなのダメですよ! 仕事中の飲み物とか」  
「水とか飲めるからいいですよ」  
「でも、その他にも」  
「いいんです」  
「でもぉ……」  
「とにかくいいんです。貰ってくれますよね?」  
 頷いていいものなのか悩みあぐねているようで、朝比奈さんはせわしなく地面と俺の顔のあいだで視線を何往復もさせている。その際、一定のテンポでこちらを見ることになるわけだが、そん時の表情がやたらと切ないのがもうなんというか。  
 まったく、仕方ねえな。  
 見兼ねた俺は、その濁りに染まぬ蓮のような手をそっと取り、箱を持たせて差し上げた。  
 そして、  
「あと、今日の晩飯は俺が作りますから。今日はいっそ朝比奈デーってことで、朝比奈さんはゆっくりしていてください。ちなみにもう決めたことなんで、これは覆りませんからね」  
 といった具合に、とっさにアドリブで付け加えたのはいいものの、いささかカッコつけ過ぎたな。  
 俺はなんだか妙に背中がむず痒くなり、それを取り繕うかのように、星座を探すみたいに上空に視線を彷徨わせる。  
 やっぱりキャラじゃないな俺は。これじゃあ、似合わぬ僧の腕立てどころかウェイトトレーニングだ。  
「…………」  
 そら見たことか。寒中見舞いを送るにはまだまだ程遠く、やっと西瓜が隅の陳列棚に追いやられ始めたくらいだってのに、朝比奈さんが冬季先取りで固まっていらっしゃるではないか。  
 アレか。ここは一つ何か斬新なボケでも入れて、止まった空気を戻しておくべきか?  
「キョンくん……」  
 はい、なんでしょう。俺の笑いのレベルでは、おそらく哀れみを含んだ苦笑くらいしか生み出さないと思いますが、それでも構わないならもう少し待ってやってください。  
 俺は吉本興業の門を叩く必要があるかもしれないと一瞬考えたが、そうではなかった。  
 
「……キョンくん」  
 今にも零れ落ちそうな涙で目を潤わせて、朝比奈さんはそっと俺に寄り掛かり、胸に顔を埋めてきた。  
 待て待て、一体どうしたというんだ。俺のギャグにお耳を汚すのがそんなに嫌なのか?  
 予想の範疇を超えた事態に、一瞬何が起こったのかと、脳神経の膜電位の変化が速度を上げて処理を促す。だが所詮、俺なんて谷口あたりと大差のない低脳持ちだ。  
 俺が答えを弾き出す前に、朝比奈さんの口からそれが漏れた。  
「ありがとう……ありがとう、キョンくん……」  
 シャツが涙で滲んでいくと共に、小動物を抱いた時のような心地良い体温が俺の身体にも滲んでいく。  
 俺は自然と朝比奈さんの小さな背中、それと頭に、ハイウェイのカーブよりも緩やかに手を伸ばす。  
 それを待っていたかのように朝比奈さんは、  
「ずっと、大切にします。未来に持って帰るの、許してもらえるといいなぁ」  
 しめやかに俺の胸から頭を離し、だが背中に触れている俺の手はさながら、朝比奈さんは俺の顔を見上げる形で呟く。  
 正直、この距離感はマズい。俺が僅か頭を下げれば、すぐにも星空の下でのラブシーンになりうる程度の隔たりである。  
 このまま放っておくと湧き溢れる煩悩を抑え切る自信がないので、俺は「抑」という字を使って表せそうな俺の中のあらゆる物を総動員して、俺の中の巨大な何かに立ち向かう。そこに変身ヒーローの登場はない。ウルトラマンではなくウルトラQ的な抑止活動。  
「……あー、もう夜になると、あれですね。割と肌寒い季節になってきましたね」  
「うふ、そうですね」  
 至近距離で涙目の朝比奈さんに微笑まれるという、核攻撃以外の何物でもないその仕草に、俺の「抑」隊員たちは苦戦を強いられる。  
 いよいよ陥落まであと僅かかと思われたが、どうやら強めの秋風が一瞬味方に付いてくれたようで、  
「ひえっ」  
 朝比奈さんは突風によろめかされ、それによって俺との距離がひらく。おかげで隊員たちも矛先を向ける対象が消え、一斉に出撃から帰還を果たすが、それはそれでなんだかちょっと惜しい気もする。  
 そんな俺の心中を汲んでくれたのか、朝比奈さんはよろめく際に俺の手を掴んで転倒を防ぐ。それによって、どこぞの路線を見習ったのか俺朝比奈間のダイヤも縮まったようで、二人の距離は再び電車とホームの間ほどへと。  
 拭いた涙で水気を伴った手の感触のやばさに、俺が黄色い線の内側へ避難していると、  
「ご、ごめんなさい。あたし、ほんとにドジ」  
 とどめと言わんばかりに、例のジェスチャーが炸裂する。つまりアレだ。朝比奈さんの見慣れた、頭をコツンとやる仕草である。それがまたこの期に及んで俺の頬を緩ませ、口が両端から釣られて引っ張られる魚みたくなる。  
 俺はもう被弾を気に掛けず強行突破を決め込もうと、  
「朝比奈さん」  
「なんですか?」  
 俺はもう片方の手もそっと掴み、  
「あと九ヶ月、楽しく過ごせたらいいですね」  
 ありったけの笑顔で反撃してやった。  
 すると朝比奈さんの表情は、俺のそれなど歯牙にも掛けないほど輝かしい、みるみる満面の笑顔へと変化と遂げ、  
 
「はいっ」  
 
 瞳は正にブリリアントカットを超える最先端の114面体カット。腰が砕けたね。  
 その計算され尽くした屈折率が織り成す輝きに呼応するように、俺は自然と強く握る。  
 水仕事で荒れた、ささくれ立った小さな手を。  
 
 
 
 その日を境に、確実に何かが変化の兆しを見せ始めた。変化といっても、季節の移り変わりのように定期的なものではなく、また微小変化群ネフローゼだとか変化という単語が組み込まれた病に陥ったわけでもない。  
 詳細に渡って語るにはちと困難な変化だが、二人の雰囲気というかなんというか、どことなく抽象的にしか説明しようのないものだ。  
 だが一つだけ言っておくと、悪い変化ということだけは絶対にない。  
 
 
 そしてそれからは、休日には必ずと言っていいほど二人で出掛けるようになった。  
 とはいっても、散歩がてらに公園のベンチで、近所のガキに見守られつつ朝比奈さん特製弁当を頬張るとか、僅かな生活必需品の買出しついでに、冷やかし以外の何物でもない長時間ウィンドウショッピングとか、その程度のものである。  
 要するに予算ゼロのお出掛けプランだと、それくらいの行動パターンに制限されるわけだ。  
 だが普通の貧乏デートってわけじゃないぜ。こちとら傍を固めているのは、誰あろう時間を超越した天使朝比奈さんである。どんなに高価なランチに舌鼓を打ったところで、すれ違う男どもから向けられる羨望の眼差しはプライスレス。これには勝てるまい。  
 まあこっちは粉骨砕身の働きで衣食住にしがみ付いてんだから、蛍雪の功というか、使っている鍬は光るってことで、要するに苦労してんだから許せ世間の男衆ってとこだ。  
 もちろんそれは俺だけの苦労ではなく、朝比奈さんの弛まぬ努力あってこそのものなのは何度でも述べておこう。  
 さらに二ヵ月後に至っては、  
「あ、すごい。今月、食費が一万円切っちゃった」  
 もうベテラン主婦も顔負けどころか顔を見る前に負けそうな勢いである。スーパーの特売コーナーが近所の主婦たちでごった返していたところで、朝比奈さんがお出ましになると人だかりがモーゼのように割れるんじゃなかろうか。  
 もしかしたら俺の体にも、いつの間にかダビデの星が刻まれていたりするのかもしれん。  
 とにかくそういった具合に、お互いが進歩し合って生活基盤を確固たるものへと昇華させていった。  
 
 
 そして当分のあいだは特に大きな出来事もなく、割と単調な生活パターンだった。  
 だがそれでも、俺は気付けばそれを充実した毎日だと思うようになっていたし、実際、充実していたんだと思う。要所要所で朝比奈さんが微笑ましいドジっぷりを発揮してくれたりと、ハルヒとは別の意味で一緒に居て飽きることがなかったしな。  
 そんなある日。  
 そのドジっぷりを窺わせるあるエピソードが引き金となり、俺はようやく気付かされることになった。  
 
「あ、あれ? 鍵、鍵がぁ……」  
 休日。そして寒波が、北斎も描かずにはいられないほどの文字通り波となって押し寄せてきそうな季節である。  
 長らくこの町内に閉じこもっていた足をいつもより少しばかり伸ばして、編み笠を売りに行く勢いで隣町まで行ってきたその帰りだ。  
 朝比奈さんのこの言動で察する通り、どうやら家の鍵が見当たらないらしい。  
「……え? ちょっと、マジですか朝比奈さん」  
 俺の焦りを他所に、ゴソゴソとバッグを漁り続ける朝比奈さん。  
「暗くてよくバッグの中が……」  
 普通なら自転車置き場というものは、電灯とか光を供給するものが設置されていて当然なんだろうが、いかんせんここは超オンボロアパートの備え付け物である。見事に真っ暗で、離れた街灯からおこぼれを受けている程度の明度なのが憎たらしい。  
「ちょっと待ってください」  
 俺はその場にしゃがみ込み、今スタンドを立てたばかりの譲り物の自転車に手を伸ばす。スタンドを支点に片手で後輪を浮かせ、もう片方の手でペダルを回してライトを点ける。  
「わぁ、ありがとう。これならよく見えます」  
 ミラーボールみたくライトの光を乱反射させるビニール製のバッグが、間接的に朝比奈さんの顔に薄いスポットを浴びせる。ぼんやりと照らされて艶やかに写るその顔に、俺はつい見とれてしまう。  
 そうして俺の視線に気付くこともなく、再び朝比奈さんはゴソゴソと探し続けたのだが、けっきょく鍵は見つけられず終いだった。  
 だが夜も遅く、大家さんに鍵を借りに行くのは少しためらわれる。それでもなぜか、俺は全く焦っちゃいなかったし、むしろ楽しんでいたのかもしれない。  
「朝比奈さん。行きませんか久々に? あのベンチ」  
 緩やかなペダルの回転数をゼロにまで下げ、明度の調節権を再び月夜に預けた上で、俺はしっかりと朝比奈さんを見据えて言う。  
 今の俺と朝比奈さんのスタート地点とも言える、数ヶ月前に二人で朝を迎えたあの公園。俺は再びそこで朝を迎えようと思い立った。  
「ええっ。またあそこで寝るんですか?」  
 半歩ぶん後退りして、朝比奈さんは少しだけ驚きを見せる。  
「どうせ家に入れないのなら、どうかな、と思ったんですけど。いや、朝比奈さんの気が進まないのならやめときましょう」  
「ううん、行く。行きましょう。なんだかとっても久し振りだし」  
 早いもんであれからもう半年だからな。そろそろ近所付き合いも控えておいた方が歴史に優しいかもしれん。  
 めでたく意見が一致したところで、俺と朝比奈さんは公園へと足を進め始める。そういえば夜に揃って出歩くのも久し振りだ。普段は二人で出掛けたとしても、外食反対派の朝比奈さんの主張により夕方には帰ってたしな。  
 すっかり慣れた女の子の遅い歩調に合わせつつ、俺はこの数ヶ月で撮り溜められた追憶のフィルムを回して脳裏にそれを映し出していた。   
 コンビニ袋の擦れるビニールの音が響く、あの公園での夜。奔走した仕事探しと住居探し。野球観戦。そのあとに買ったくるみ割り人形。主役とヒロインによる二人きりでの数々のシーンは、安っぽいながらも温かいものばかり。  
 そしてそのフィルムが巻き切られる頃には、俺はもう気付いていた。  
 それは仕方のないことで、ベタな例えだが人という字のように支え合って生きていく二人にしてみれば、必然だったのかもしれない。  
 十ヶ月後を目指して進んでいたのが、今や十ヶ月を惜しむように過ごしている。正確に刻む電波時計の数字が、今の俺にはひどく残酷に写る。  
 気付いたのはそんな感情。ちょっと考えてみれば、すぐに解ることだった。  
 今まで朝比奈さんに抱いていた、まるでお気に入りのアイドルを愛でる憧れのような、そんな感覚。それがずっと二人で居ることによって、さらに深い感情へと進化していく。  
 これもまた安っぽい、ありふれたラブストーリーだ。  
 だがどんなに安っぽくたって、それが今の俺の有るがままであり、気持ちの全てだった。  
 冬の乾燥した空気が、荒れてザラついた小さな手に追い討ちをかけるように攻め立てている。  
 そう、早く誰かがその手を守ってやるべきなんだ。  
 
 
 公園に辿り着くまでの僅かな時間、俺は熱暴走しそうなほど頭を高速回転させて考えた。それこそ本当に、風邪ではなく何かエンジン的な理屈で発熱しそうなほど脳を酷使したかもしれない。  
 何に掛けても守ってやりたい、その小さな手。  
 けど、解ってる。朝比奈さんはこの時代で生を受けた俺とは違う。いずれ未来に帰ってしまうし、それに俺が付いて行くこともかなわない。  
 あらかじめ引き裂かれることが台本に記されてある、そんな悲しいラブストーリー。  
 それに、そもそも朝比奈さんが俺なんかにそういう感情を抱いているとは到底思えないしな。俺の気持ちを伝えたところで、すべからずして撃沈ってわけだ。  
 伝えるべきか、このまま自分の胸に仕舞っておくべきか。  
 けど、やっぱりこのままじゃ俺の季節は冬から先に進まない。  
 一年で一番綺麗なこの季節の夜景は、なぞりにくかった薄い輪郭をその光でくっきりと映し出す。  
 
 
 しばらく夜の散歩を満喫したところで、一度深呼吸をしてこの先に待つ大仕事に備える。  
 気休めにしかならない程度の備えだが、低い気温がその深呼吸を白く色付かせて目に見える形にしてくれるおかげで、とりあえず少しだけでも何かやったって気分にさせてくれる。  
 そんな舌の上ではなく夜空の上で溶けるわた飴を流れ作業の如く量産しているうちに、いつの間にか公園へと辿り着いていた。  
 そして、そんな夜空まであの日と似たような雲加減の下、俺は心を決めて口を開く。  
「朝比奈さん。俺、この半年間朝比奈さんと過ごせて本当に良かったです。色々と支えてくれて、ありがとうございました」  
 そこいらのドラマあたりなら、何よ急に改まって、とか言われるまさにそれである。  
 まずは前置きとしてのお礼。俺みたいな蛙の心臓持ちまでもが、いきなりアイラブユーなんて言えるほど人間の基本性能は高くない。アイドリングで温めておかないと、告白本番でトップギアに入れられないことになっちまう。  
 なんとも回りくどくて面倒だが、まあこれくらいが年相応のピュアさ加減でいいと思うぜ。別の角度で捉えると、ヘタレって言えないこともないけどな。  
「……え、どどどうしちゃったのキョンくん。いや、そんな、あたしの方こそごめんなさい。ううん、ありがとう。こんなにとんでもないことになっちゃったのに、ずっと助けてくれて……」  
 ワンクッション置いたつもりだったのだが、そのクッションですら朝比奈さんには刺激が強かったようで、あたふたと俺の言葉に答える。  
「いやいや、そんな。俺の方こそ……」  
「ええっ。いえ、あたしこそ……」  
 これこそいわゆるニッポンジンである。このまま名刺交換でもすれば様になるのかもしれんが、あいにく俺は名刺など持ち合わせちゃいないし、たとえ持っていたところで本当に交換するような場面ではない。  
 愛の告白などというものには縁遠い俺に力添えしてくれるせっかくの状況だってのに、むざむざこの機会を逃すわけにはいかないからな。  
 朝比奈さんは次の言葉を慌てて探しているのか、目をキョロつかせながら口を開き掛けてはまた閉じてを繰り返し出す。  
 おかげで数秒ほどの沈黙が二人の間を通り過ぎ、その沈黙が名刺交換ムードをリセットしてくれた。  
 よし、今だ。今しかないだろ。今言わなけりゃ、また雰囲気が明々後日くらいの方向に逸れちまう。  
 でも焦っちゃ駄目だ。SOS団で一年近く、それに加えて二人で半年も一緒に過ごしてきたんだ。変に格好つけなくたって、きっと俺なりの言葉でいい。  
 焦らず、ゆっくりとだ。  
「朝比奈さん。お、俺、この半年で大きく変わったものが、いや、気持ちがあるんです」  
 だが、どれだけ落ち着こうと足掻いたところで、所詮は俺なんて恋愛経験ゼロのヒヨっ子。朝比奈さんの肩に手を置こうとしたものの、震えてなんとも無様な仕草になってしまった。  
 
「……あ、あの。キョ、キョンくん?」  
 そんな挙動不審な仕草のせいで、俺の只ならぬ気配を感じ取ってしまったのか、朝比奈さんは僅かに後退る。  
 くそ、しくった。今から優しさ百パーセントの気持ちを伝えようってのに、逆に怖がらせてどうすんだ。  
 だが、今更ここで怯むわけにはいかん。  
「俺、あなたのことが……」  
 無意識のうちに、朝比奈さんの肩に添えた自分の手に力が入ってしまう。  
 冷静に、冷静にだ。力を抜いて、言葉の続きを紡げ。  
「あなたのことが、す……」  
 生まれてこのかた背負ったことのないほどの大仕事をとうとう成し遂げようと、最後の一文字を口にするその直前だった。  
「ほぇっ! まま待ってキョンくん! その、その続きは言っちゃ……ダメ。ダメです……」  
 冬の寒さで硬いつららと化した一雫の言葉が、その最後の一文字を切り離した。  
 先程のニッポンジンムードをリセットしてくれた沈黙が、掌をかえしたように今度は歯切れの悪いムードを連れてUターンして戻ってくる。  
「……朝比奈さん」  
 そのムードに耐えかねたのか、時間の確認を言い抜けにするかのように、朝比奈さんは一瞬手首に巻かれたデジタル数字に目を落とし、そのまま俯き顔を俺に見せ続けた。  
 やっぱりか。どうせこんなこったろうと思ったさ。  
 そりゃ迷惑だよな。好きでもない男に好きだなんて言われて、しかも、いつかは別れなきゃならないことを解ってる奴にだ。何考えてんだって思うだろうよ。  
 あーやっぱ言わなきゃよかったのかもな。  
 愛はエゴだなんていうのを時折耳にすることがあるが、今の俺がまさにそれじゃないか。朝比奈さんを困惑させる可能性が高いことを解っていながら、俺は自分の気持ちを満たす為に爆弾発言に至ったんだからな。  
 どうすんだよこれから。気マズイったらありゃしねえ。  
 せめて朝比奈さんが俺に少しでも恋心とか恋愛感情というものを抱いてくれていれば、幼馴染くらいのレベルの関係で微妙な距離感を保ちつつやっていけたのかもしれんが。  
「キョンくん……。あたし、あたしは、いずれ未来に……だから……」  
 ええ、承知の上です。そして、清水寺の舞台にハシゴを掛けて降りていくくらいの覚悟ならあります。  
「だから、あたしはこの時代では……」  
 全部解っているつもりです。それでも俺は、  
「ダメ……。いえ、ううん。でも、でも、あたしだって……」  
 朝比奈さんの下瞼で受け止めている透き通った水分が、抑えていたであろう感情と共に今にも氾濫を起こしそうになっている。それを見て、俺は言い切れなかった二文字の言葉を最後まで言わずにはいられなくなった。  
 虹の輪郭を形取ったかのような丸っこい肩に再びそっと手を添えると、寒さのせいなのか別の感情がそうさせたのか、朝比奈さんは唇の端を細かく震わせて、  
「……キョンくん」  
 呼ばれ慣れた二人称が、至近距離にいる俺でさえ聞き取りづらいほどの僅かな空気の振動量で、俺の鼓膜を揺らした。  
 それを合図にするように、俺はとうとう、  
「朝比奈さん。俺、あなたが好きで……す」  
「え?」  
 聞き返された。ていうか、語尾がやたらと細々とした声になってしまった。  
 この期に及んでなんて情けない告白してんだ俺は。やっぱり、どこぞのレトルトご飯じゃないんだから、思い立ったら二分で口伝てなんていうお手軽告白でうまくいくわけがない。ご飯ってのは時間を掛けて噛み砕かないと、甘くはならないからな。  
 
 まあどっちにしろ、最初言い掛けた時に俺が何を言わんとしていたのか、朝比奈さんはそれを理解した上で断る前振りのような台詞を口にしていたからな。どうせ振られるのは確定だ。  
 いや、断る前振りというか、はっきりと、ダメ、って言ったっけ。んで、それに続いて、「でも、あたしだって」とかなんとか……。  
 ……でも?  
 でも、っていうのは要するに、しかし、って意味だよな。それは次にくる言葉が、前の言葉と相反する場合に用いられるわけであって……、  
「キョンくん……どうして、どうして……」  
 朝比奈さんの瞼のダムは余程の上流地点に設置されていたようで、清流のように澄み切った涙を放流させながら、俺の胸に両手を添えて寄り掛かってきた。  
「……どうして、許されないの? あたし、あたしだってこんなに、ずっとキョンくんのこと……」  
 俺のこと?  
 ポジティブな方向で脳の回路を働かせれば、なんだかすごく幸せな答えが朝比奈さんの口から漏れそうな気配だ。  
 ……いや、いかんいかん。せっかく振られる準備は万端だってのに、変に期待すると後で精神的にマズいことになる。  
 割り込んできた期待心で高揚していく自分を、咎めるように落ち着かせていると、  
「あ、朝比奈さん!」  
 俺の胸に当てられていた緩い力がすっと消えたかと思うと、朝比奈さんは振り向きざまに走り出した。  
「待ってください!」  
 反射的に俺はそのあとを追う。  
 正直、このまま樹海とか崖とか良からぬスポットへと身を投じそうな空気に一瞬焦ったが、流石にそれは大丈夫だとすぐに思い直した。  
 とにかく寒い中、何か別の汗を掻きそうになりつつ鬼ごっこ開始かと思われたのだが、そこはやっぱり朝比奈さんである。ある意味、韋駄天様も衝撃を隠せない斬新なスプリンターっぷりに、気付けば俺はすでに追い付いていた。  
 振られている細い腕を掴み、包むように緩やかにこちらを向かせる。  
「……ううっ」  
 流す涙の規定量オーバーのせいか、何も言えずに固まっている朝比奈さんに助け舟を出そうと、俺は掛ける言葉を探す。  
「……大丈夫ですか?」  
 こんなことしか言えない自分がつくづく嫌になってくる。なんだよ、大丈夫ですか、って。通りすがりの親切心じゃないんだから、もっと何かあるだろ。  
 夜中のコンビニ店員くらい気の効かない台詞に、俺は自分のボキャブラリーの無さを呪いそうになっていると、  
「……はい、大丈夫です。キョンくん、わたしも言わせて」  
 やっぱり、この人は強い。表向きの強がりではなく、どんなことがあろうとも決してめげる事の無い、芯の通った強さがある。それがあの大きな朝比奈さんへと繋がることを俺は知っているし、尊敬せずにはいられない。  
 再確認した。普段の愛らしい姿もその強さも全部込みで、俺は朝比奈さんのことが好きなんだ。  
 そしていつか、そう遠からぬ未来に、時間の流れがきっと二人を別つ。  
 それでも、俺はやっぱりこの人と居たい。  
 だから、  
「すみません。先にもう一度、はっきりと言わせてください」  
 丸い肩に添える手も、今度はてんで震えることもない。  
「俺は朝比奈さんのことが好きです。だから、いつか別れなきゃならないその時が来るまで……いや、そんなもん俺が来させやしません。だから、ずっと俺の傍にいてください」  
 パーフェクト。赤ペンなんてこれっぽっちも入る余地はない。俺の持つ能力を超えているみたいで、何か悪いリバウンドが返ってくるんじゃないだろうかと思うほどの出来。  
「わたしも、もう自分の気持ちに嘘はつけません。だから……あの、うん、ずっと………」  
 唇を噛みながら少しづつ言葉を紡いでいくその小さな姿は、必死に涙を堪えていることを俺に伝えてくる。  
「……ずっと」  
「朝比奈さん、ここは感情を抑えなくたっていいんですよ」  
 最後まで聞く代わりに、俺は両手でその華奢な背中を抱きしめた。  
 それが引き金になったようで、堪えていた分の涙が一気に朝比奈さんの頬を伝っていく。  
「落ち着いたら言ってください。それまでずっとこうしてますから」  
 幾度となく目にした、見慣れた朝比奈さんの泣き顔。だがそれは、満天の星空に紛れて誰にも気付かれることのない流れ星のように、今の俺には儚く写る。  
 そんな瞬く間の命で終わる流れ星の代わりに、俺は目の前にある細い涙の筋をその軌道に見立てて、願いを唱えた。  
 ずっと、この人と一緒に居られますように、と。  
 
 
 
 
 それからは、一分、一秒を噛み締めるように、毎日を二人で過ごした。  
 もちろん俺は仕事があるので四六時中というわけにはいかないが、それでも前以上に二人でいる時間を増やした。  
 休みの日には二人で出掛けるという習慣も、もちろん欠かさず続ける。相変わらず行動範囲は限られているが、別にどこへ行こうとも二人で居ればそれで楽しかった。  
 金銭的に僅かな余裕が出れば、普段は控えているようなちょっとばかしの遠出やランチに心躍らせ、ささやかな贅沢を満喫する。  
 朝比奈さんの靴も買ってあげた。女の子だってのに、履き潰されて黒ずんだスニーカーで足元のオシャレを演出しようってのは、ちょっとばかし無理があるからな。  
 当初それを提案した直後は、「ダメです。そんな贅沢」なんていう予想通りの反応で朝比奈さんは片意地を張って拒んでいたのだが、珍しく俺がそれ以上の意地を張って、ほぼ強引にファッションビルへと連れ出したのだ。  
 春を迎えようとする季節の変わり目に、俺が風邪を引いたりもした。  
 おそらく気温的にも落ち着きを見せたことに気が緩んだのだろう、朝から気怠さの俵を背負いつつ、重い体が朝の仕度を阻害するような感覚のひき始めだった。  
「……あの、どうかしたんですか?」  
 眉を八の字に固定して、朝比奈さんが心配げに俺の顔を覗き込んでくる。  
「いや、なんか体が重くて。たぶん暖かさで気持ちが緩んだんでしょう。気を入れ直さないと」  
 ダラダラと仕事するわけにもいかないしな。クビにでもなった日にゃ、それこそ首を吊ることになりかねない。  
 せめて顔筋の緩みだけでも引き締めようと、俺は洗面台へ向かい、蛇口を捻って頭を前に倒す。ちょうど90度近いお辞儀の体勢になったその時である。  
 クラッときた。  
 名斬られ役者かもしれない俺のフラつきっぷりに、朝比奈さんは「ひゃいっ」なんて口走りながら俺に手を伸ばしてくれる。ワンテンポツーテンポ遅いのはきっと愛嬌だろう。  
 そうして結局その日は、悔しくも仕事を休むことになってしまった。  
 必要以上の心配顔を作りながら付きっ切りで看病してくれていた朝比奈さんには悪いが、俺はそんな朝比奈さんを目にして一人頬を緩ませていたのは秘密だ。  
 
 
 そんな、特別なところなどこれといって見当たらない、他愛も無いショートストーリーを積み重ねながら、日々は忙しなく過ぎていった。  
 単調なのに充実した毎日。安上がりなのに、きっとミリオネアより満たされた幸福感。  
 けど、うず高く積み重ねられた数々のショートストーリーは、まるでジェンガのように紙一重のバランスだった。  
 時間の流れという残酷な通告者が、十ヶ月後という突き棒を携えて、そのジェンガを倒すべくこちらへ向かっている。  
 
 
 
 
 冬に流した大量の朝比奈さんの涙が今頃になって蒸発し始めたのか、雲の密度が増したようで、今にも雨がパラつきそうな梅雨も中頃といった季節。  
 どうにも最近、流れ作業と化してきたいつも通りの仕事を終えると、俺は今にも降り出しそうな雨を気に掛けて早々に帰路についた。  
 朝比奈さんの言う通り、傘を携えておいた方が良かったのかもしれん。家を出る時にパラついていないと、嵩ばってどうも傘を持つ気にはなれないんだよな。誰か某収納カプセルとか開発してくれないだろうか。  
 なぜかそこで某ジャンピングシューズが脳裏に浮かんだ俺は、それこそ足にバネが付いたような軽やかさで家へ続く道のりを歩んでいた。  
 距離的にはようやく折り返し地点、なんとか雨が降り出す前に玄関をくぐれそうな予感がしてきた頃。その予感を揺るがすように、暗雲が一層どす黒さを増し始めた。  
「キョンくん」  
 見計らったかのようなタイミングで背後から聞こえたその声は、毎日聞いている可愛い声にとてもよく似た、だがそれとは少々艶の入り具合が異なる声。  
 見知らぬ人が間違って声を掛けてきたんだろう。きっと、そうだ。偶然にもあだ名が同じようだが、別にありえない話じゃない。  
「キョンくん、待って」  
 きっと俺とは無関係のキョンとやらを呼び止めているにも拘らず、まるで俺の背中に浴びせられているような錯覚。そう、錯覚だ。  
 だが、反射的に体を半回転させた俺の視界に写ったのは、ガラスの靴を素敵に履きこなせそうな、成長したシンデレラの端麗な姿だった。  
「お話が、あります」  
 真っ白になる俺の頭の中に黒インクを落とすように、近づくハイヒールの音が俺の頭で黒い波紋を作る。  
 お話? いや、せっかくご足労いただいたところ申し訳ないですが、俺は早いとこ帰って明日という休日を有意義に過ごすための計画を二人で綿密に練るという、衣食住に並ぶ大切な仕事が待っているんです。  
 だから、今日のところは、  
「キョンくん、お願いだから聞いて」  
 そういえば、こないだ譲り受けたチケットの映画って、まだギリギリやってたよな。確かあの双子の片割れがボロカスに評価していたような気もするが、  
「キョンくん!」  
 人通りといえば野良猫程度の夜の歩道に、高く張り上げる声が響く。  
「キョンくん、気持ちは解るの。でもね、とても大事な話をあなたに聞いてもらわなければいけないの」  
 うって変わって今度はペースト状の何かでも包んでいそうな柔らかい口調。でも、きっとそれを齧ったところで甘ったるいカスタードクリームの味なんかしやしない。そこにあるのは苦い大人の味なんだろうよ。  
 まだまだ俺はビールの旨さも解らないガキだからさ、そんなもんはもっと俺が歳食ってからにしてくれ朝比奈さん(大)。  
「涼宮さんが大規模な時空振動を起こしてから三日間、あたしはここでのあなたたち二人の関係を見てきました」  
 そうですか。ならば話は早い。  
「とても驚いたわ」  
 まあ、俺自身が驚いていますからね。  
「そして、とても嬉しかった。あたしのことをこんなにも想ってくれていて……」  
 そうですか。ならば当然、辛酸を嘗め尽くした末にようやくここまで辿り着いた俺たちのことを祝福していただけるんですよね?   
 よもや共に歩んできたパートナーご本人から祝福の言葉をいただくことになろうとは。そうそう体験できることじゃないな。  
「キョンくん、あたしだってもちろん祝福してあげたい。一緒に喜びたい。何しろそれはあたし自身のことなんだから。でも、」  
 何かを思い出すようにゆっくりと瞼を閉じ、そして僅かな間を置いたあと、朝比奈さん(大)は再び俺の目を見据える。  
「あなたたちを、このまま元の時間軸へ帰すわけにはいきません」  
 その台詞が来るだろうことを、俺は充分に予想できたし、覚悟はしていた。  
 けど、覚悟してたからって、それをやすやすと受け入れられるほど俺は物分かりの良い人間じゃない。納得なんてできやしない。  
 俺と朝比奈さんがここで紡いできた絆は、どれだけの想いの上で成り立っているのか、この人はそれを知っているはずだ。それに、  
「今のSOS団なら、たぶん大丈夫ですよ。俺たちがこのままの関係を保ったまま帰ったとしても、きっとうまくやっていけると思います」  
 SOS団。  
 何年も離れていたってわけじゃないのに、やたらと懐かしい響きに感じる。  
 うん、そうだよな。ハルヒは最初、団の規律だかなんだかで団員内の恋愛は禁止だとぬかしていたが、今のあいつならなんだかんだで解ってくれるさ。  
「キョンくん、ダメなの。涼宮さんに及ぼす影響は、決して良い方向じゃないわ。それともう一つ」  
 まだ何かあるってのか。  
「今こうしてあなたの目の前に居るわたしは、今のところ間違いなくあなたとここで過ごしてきた幼いわたしの延長線上です」  
 ええ、解っていますとも。  
「だからここで起こったことは、あたしだって経験しているはず。今のところあなたたちに、既定事項から外れたような出来事が起こったことはありませんから」  
「なら、あなたにだって今俺がどういう想いを抱いているのか、それを充分に理解できるはずですよね」  
 俺が問い質すように言葉をぶつけると、朝比奈さん(大)はその水晶のような顔を蒸気に当てたように曇らせ、  
 
「それがね、キョンくん。あたしはここで起こった出来事を、あなたとここで過ごしてきたことを、今の今まで知らなかったの。覚えてないの……」  
 
 やっぱり、話なんて聞かずにとっとと帰っておくべきだった。  
 それがどういう意味を示すのか、俺と俺の朝比奈さんの向かうべき方向がどのように示されているのか、そんなもんちっとも理解したくないってのに、それに反して俺の脳は珍しく理解を示しやがった。  
 だからといって、俺は心のコンパスが示す方向を書き込まれた地図を手放すつもりは毛頭ない。あの日あの涙に唱えた願いがこんなにもあっさりと崩れ落ちるなんて、俺は嫌だ。涙で地図がフヤけたって、そっと扱えば破れることなんてないと信じたい。  
 
「そうですか。でも、俺はもう朝比奈さんのことが好きなんです。誰にどう言われようがこの気持ちを譲るつもりはありません」  
「お願い、キョンくん。このままの状態で帰ってしまうと、あなたにとってもそっちのあたしにとっても良くないの。それに、あたしの居る未来と分岐してしまう」  
 たとえ分岐したとしても、今の朝比奈さん(大)がいっせーので消滅するわけじゃないんだよな? なら、そっちはそっち、こっちはこっちでお互い自分の世界に生きれば完全なるノープロブレムじゃないか。  
「ダメ。それじゃ、ダメなの……。お願い、解ってキョンくん」  
 解るも何も、なぜダメなのかそれについて簡易な説明すらされていないってのに、何をどう理解しろってんだ。  
「で、具体的に朝比奈さんは俺たちをどうしたいんですか?」  
「あたしたち時間遡行者に掛けられる禁則事項のようなものです。原理は同じ。それをあなたと幼いわたしに受けてもらいます」  
 それを受けたことによってどうなるのか、そこで吐き出される結果は、やはりどう考えても一つしか思い浮かばない。  
「あなたたちのその十ヶ月間の記憶を、頭の中の深いところに閉じ込めます」  
 俺は特に何も言葉を発することなく、大きな朝比奈さんに背を向けて足を動かし始める。  
 予想はしていたものの、それを実際に聞かされるとやはりショックは隠せなかった。  
「待ってキョンくん!」  
 俺の背中を追いかけて、朝比奈さん(大)が小走りでこちらへ駆け寄ってくる。  
 追い付いた俺の手を掴んで、何か小さな錠剤を俺の手に握らせた。なんだこれは。  
「副作用の全く無い睡眠薬。その時にこれで……」  
 俺は無言で朝比奈さんに背を向け、再び足を進める。  
「今すぐとは言わないから。明日の夜九時にあの公園で待ってます。酷だけど、それまでに心の準備をしておいて。そっちのあたしには、もう未来からの指令が届いていると思うわ。……だから」  
 もういい。  
「キョンくん、解って……」  
 それっきり、もう俺の耳に艶掛かった朝比奈さんの言葉が届くことはなかった。朝比奈さん自身は、加えて何か言葉を発していたのかもしれないが、俺がそれを耳で受け止められる状態ではなかった。  
 実際には、いつもと比べて別段暗いわけではないと思うのだが、家へ続く夜道がやたらと暗闇に包まれているように感じる。シーラカンスの住処だって、これよりはもうちょっと光が射しているに違いない。  
 そうして、視覚的にも精神的にも深海に沈められた俺は、その水圧で重くなった体を引きずるようにして自宅のオンボロアパートを目指していた。  
 肩にポツンと小粒の水滴が当たる。  
 降り出す前に玄関をくぐれそうな予感は、やっぱり当たらなかった。  
 
 
 
 
 季節に似合わずさほど大気中に水分が含まれていないのか、今や健康的と言えなくもない俺の肌に大して汗は浮かんでこない。梅雨らしさ全開の昨日とはうって変わって、今日の空はヤケにご機嫌さまである。  
 おかげで紫外線というお天道様の不可視攻撃を直撃している俺と朝比奈さんは、  
「……暑いです」  
「……言わないでください、朝比奈さん」  
 この時期にひたすら伸びるツル植物とは対照的に、今にも萎びてヘタりそうである。  
 口に出して言ってしまうと余計に暑く感じるという誰もが知りうる法則ですら、未来では通用しないのだろうか。何か画期的な方法が未来にあるのだとすれば、ぜひともこっちにその情報をもたらして頂きたいもんだ。  
「言っちゃうと余計に暑くなるのは解ってるんだけど、つい……」  
 なんだ、そこはやっぱり未来も今も同じなのか。  
「あのぉ、どうせなら、もっと暑くなっちゃいません?」  
「えーとですね、それは一体どういう意味で」  
 熟れた林檎のような顔色を俺に見せまいとしているのか、視線をアスファルトに固定しつつ、朝比奈さんは俺と隣接している側の手をやたらとモジモジさせている。  
 なるほどね。この期に及んでなんて初々しいお方だ。  
 その意図を瞬時に掴んだ俺は、サッとその手を取って握ってやる。お互いの指を交互に絡ませ、二人して握り合う。いわゆる恋人握りというやつだ。  
「……ん」  
 スローに俺の顔を見上げた朝比奈さんは、まどろむように目を細めて小さく笑う。  
 俺の視野で縁取ったその笑顔の周りは、逆光のせいか綺麗な紗が掛かって俺の目に写っていた。光のイリュージョン。どこの最前席よりも間近で見られるマジックショー。タネが解ってしまっても、ずっと見ていたいと思うね。  
「ちょっとだけ、贅沢しちゃおうと思うんだけど」  
 俺が危うくイリュージョンの虜になりかけていると、朝比奈さんが珍しくそんなことを提案してきた。  
「贅沢、ですか?」  
「はい。冷たい物でも食べようかなぁって」  
 それだけで贅沢になるような世の中だとすれば、もうファミレスですら自動ドアをくぐったところでノーネクタイなら門前払いだろう。ドアをくぐった後で門前払いってのも妙な言い回しだが。  
「ははは、いいですね。じゃあ、あそこのコンビニに、」  
「え? コンビニ……ですか?」  
 
 そのあと俺と朝比奈さんが辿り着いたのは、男同士なら間違いなく場違いであろう小洒落たカフェだった。  
 とりあえず、贅沢と聞いてまずコンビニが浮かんだ俺は、どうやら貯金箱をいつまでも割れないタイプの人間だったらしい。女の子らしいのは朝比奈さんだが、女々しいのは俺の方だな。  
 とにかく世知辛い人間性が露呈された俺の対面で、朝比奈さんはバニラアイスをメインに用いたスイーツを召し上がっていらっしゃる。  
「キョンくんは、それだけでいいの?」  
 コースターに水滴を染み込ませているアイスコーヒーの入ったグラスに目線をやりつつ、朝比奈さんは問い掛けてくる。  
「ええ。今一番、口にしたいのがこれですから」  
 これは別に遠慮しているわけではなく、俺が欲していた物は本当にアイスコーヒーだっただけだ。うむ、アルミ缶に閉じ込められているものとは雲泥の差。久々のコーヒーの味に感動を覚えるね。  
「なんだか、悪いなぁ。わたしだけこんな……」  
 朝比奈さんの幸せ顔が拝めることを考慮すれば、コーヒーはおろか都会の水道水でもお釣りがくるほど贅沢ってもんです。  
「ええっ。それ、水道水なんですかぁ!?」  
「いや、あの、どう考えても水道水にしては黒すぎると……」  
 未来の都会ってのは、上水道ですらこれほどまでに汚染が進行しているのだろうか。いよいよ俺にとっても環境問題が余所ごとでは済まされなくなってきた。頑張れ地球。  
 しかし、このまま環境ISOの取得に向かうのもなんなので、俺は別の話題を振ることにした。  
「それにしても、朝比奈さんの方からこんな店に入ろうなんて、珍しいですね」  
 どうやら変える話題の方向性が悪かったのかもしれない。  
「だって、これでもう……」  
 朝比奈さんは俯いて表情を曇らせるが、数瞬後には自分を咎めるように小さく首を振り、柔らかなエンジェルスマイルを取り戻す。  
「ううん、なんでもないの。気にしないでくださいっ」  
 そう言われると余計に気にしてしまうのが人間の性ってもんなんだろうが、なぜか俺はそれを気に掛けることを放棄していた。  
 しばらく他愛も無い会話を続けていると、気付けば街灯が虫たちを呼び寄せているような頃合を時計の針は指している。ちょっと長居しすぎたかもしれないが、まあ店内はさほど混んでいる様子でもなし、モラルに反することでもないだろう。  
 伝票の取り合い合戦を征した朝比奈さんの小さな背中を眺めつつ、さてこれからどうしたものかと頭の予定表を捲っていると、  
「なんかあそこ、チカチカしてるな」  
「え、どこですか?」  
 近くの小学校のグラウンドだろうか。何かあそこで光を発している様子が窺える。  
「花火か。あそこの児童たちが校内に忍び込んでいるんだな、きっと」  
「わぁ、楽しそう」  
 そんなことを言われると、次に発する言葉はこれしか無いに決まってるだろ?  
「俺たちも、ちょっと忍び込んじゃいましょうか」  
 
 
 キャッキャ喚きながら危なっかしい手付きで火を点ける子供たちにヒヤヒヤしつつも、俺と朝比奈さんは校舎からグラウンドへ渡す石段に陣取って、それを眺めている。  
 夏祭りの花火大会には遠く及ばない規模なのはもちろんだが、それでも手持ち花火ってのは趣があっていい。最近の小賢しいガキたちも、こういう時ばかりは無邪気な顔を見せてくれるもんだ。  
「いいなぁ」  
 夜の暗闇のせいか宇宙を連想させる広い校庭に、子供たちが小さな流星群を絶え間なく降り注がせる。それが夜空とシンクロして空の境界線が曖昧になっているようで、なんとも幻想的な光景を生み出していた。  
 まあ、そんなグラウンドに出現したプラネタリウムに魅入っている朝比奈さんの横顔だって、それに引けを取らない煌きを放っていると思うけどな。  
 その横に並ぶ俺は、どちらに見惚れるべきか一瞬戸惑ったあと、けっきょく見慣れた横顔に心を奪われることにした。毎日見てるし、これからも見続けていくつもりなのに、なんでだろうね。  
 俺が人間に芽生えた帰巣本能について思考を巡らせていると、俺の視線に気付いた朝比奈さんが控えめに小さく微笑みかけてくる。  
 そんなモデストリー精神を抱えたところが大好きなのだが、俺だってどっちかというとその部類。これじゃあ、いつになったら次の恋愛的ステップに進めるのか解ったもんじゃない。こうして結婚の高年齢化は進んでいくのだろうか。  
 ここで一歩前に踏み出そうと、俺は傍にある温かい肩に自分の肩を寄せ、甘い香りの髪に頬を付ける。  
「キョンくん。十ヶ月間あたしと居てくれて、ありがとう」  
 喋った時の振動が、朝比奈さんの頭を介して俺の頬に伝わってくるのが心地良い。  
「何言ってるんですか。これからもずっと一緒なんですから、そういうのは死が二人を別つ時までとっておいてください」  
 そうだ。俺と朝比奈さんには、次の扉がまだいくつも残ってるんだからな。  
「そろそろ……時間。行きましょう、キョンくん」  
 ここは聞こえない素振りをしていたいところだが、こんなに間近に居れば、そういうわけにもいかない。  
「どこへですか? 場所によっては、俺は行きません」  
「あの公園です」  
 どうしてだ。なぜそんな所に行く必要がある。そこへ足を踏み入れると何が俺と朝比奈さんを待ち受けているのか、それは朝比奈さんも知ってるんですよね?  
 ずっと一緒に居たいって気持ちは、俺も朝比奈さんも同じだったんじゃないのか? 結局、単なる俺の自意識過剰だったってオチかよ。  
「キョンくん。キョンくんがあたしのことを、好きだ、って言ってくれた時、あたしはすごくすごく嬉しかった。ほんとに夢みたいでした。あたしも、ずっと一緒に居たいと思いました」  
 その時に言ったとおり、俺だってその気持ちは同じです。  
「でも、それは許されないことだって解ってました。だから、その時にね、もう心に決めたの」  
 決めたって、何を。  
「キョンくん。あなたがこの十ヶ月を忘れることになっても、あたしはこれからもずっと、この十ヶ月を、あなたを想っていますから」  
 ちょっと待ってください。それは一体どういう、  
「未来の指令に背いちゃうことになるし、このままのあたしだと涼宮さんとうまくやっていけないと思うし、だからきっと、もうあたしはSOS団に戻ることは出来ません。けど、大丈夫です。未来からは別の人がそっちに行くと思うから」  
 待ってくれ。  
「キョンくんにとっては、こうしてあたしと一緒に居ることが一番良いことじゃないの」  
「待ってください! 俺は朝比奈さんのことを忘れるつもりなんて、これっぽっちも無いし、それに、そんなことをしたら朝比奈さんはどうなるんですか! せっかく今まで偉くなるために頑張ってきたってのに、これじゃあ、」  
 そうだった。俺は今まで、肝心なことをすっとばしていた。  
 たとえ俺がこの十ヶ月を忘れようが忘れまいが、朝比奈さんに住み着いた今の俺への気持ちは、朝比奈さん(大)への進化の道を閉ざしてしまう可能性が高い。  
 朝比奈さんが今まで育ててきた努力の実を、俺は何も考えずに虫食み続けてきたんだ。  
 ずっと一緒に居てください、なんて言葉、それは結局俺が自分のことしか考えてなかった証拠じゃないか。  
 そんで、朝比奈さんの葛藤なんてこれっぽっちも考えずに、一人でのうのうと幸せ気分に浸って、どうせ未来へ帰るのなんて当分は先のことだろうなんて楽観視して。  
 いや、楽観視じゃない。ただ逃げていただけなんだ。朝比奈さんが現実と向き合っている間、俺は知らないフリをしていただけなのかもしれない。  
 つまり俺は自分の都合で、想い人の将来を摘み取ろうとしていたんだ。  
 とんだ最低野郎じゃないか。ゴールデンラズベリー賞総ナメも夢じゃないノンフィクションだ。  
 でも、俺はやっぱりこの人が大好きなんだ。最後の最後でアカデミー賞へのどんでん返しを目指す。だから、  
「朝比奈さん。あなたにとってこの十ヶ月の記憶は、これから先、きっと邪魔になるし辛いものになるかもしれない。朝比奈さんにだけそんな思いをさせるなんて、俺はしたくない」  
 そんなことを言い始めた俺を、朝比奈さんは不思議顔で見つめる。  
「だから、やっぱり行きましょう。あの公園へ。それで、二人で終わらせましょう。今の俺たちを」  
 そして、キャリア組も真っ青な出世劇を俺に見せてください。  
「……ダメ。そんなのダメです! あたしが忘れちゃったら、この十ヶ月が本当に無かったことになっちゃいます!」  
 大きい方の朝比奈さんが、ずっと覚えていてくれるさ。つまりあと何年かすれば、朝比奈さん自身が知ることになるから心配ない。二人が紡いだ、このかけがえのない時間たちをさ。  
「お願い、考え直してキョンくん。あなただって、この十ヶ月が無かったことになるなんて、嫌ですよね!?」  
 嫌じゃないと言えば嘘になりますが、それよりも大事なものに今さっき気付いてしまったもんで。それに、  
「俺が忘れてるってのに朝比奈さんだけが覚えてるなんて、そんなの悔しいじゃないですか。だから、これは俺からのお願いです」  
 その言葉と共に、俺は俺の大好きな人に手を差し出す。  
「俺と一緒に、同じ道を歩んでください」  
 まるでプロポーズとも取れるその言葉とは裏腹に、別れの時計はひどく大きなアラームを鳴らしている。  
 少なくとも、チャペルで奏でる祝福のベルとは似ても似つかない音だった。  
 
 
 公園までの道のりを無言で進んでいたせいか、握った手の感触に意識が集中してしまって、何か少し気恥ずかしくなってくる。それが付き合い始めの初々しい気持ちを少し取り戻したようで、ちょっとこそばゆい。  
 ふと隣に目をやると、決意を固めたのか引き締めた顔で足を進める朝比奈さんの姿が俺の網膜を覆う。その姿は小さくも凛とした大人の女性で、あの大きな朝比奈さんと同一人物だという事実を、改めて俺に実感させるには充分だった。  
 そんな当然のことを考えながら、裸足の子供に優しい程度に丸みを帯びた公園の小石を靴底に確かめつつ、俺と朝比奈さんは足を止める。人影はまだ見当たらない。  
「俺と朝比奈さんは、ここで間違いなく足跡を残しました」  
 いっときの夕立で消されてしまうほどの、薄い足跡。でも、  
「これは実際の出来事なんです。夢じゃない。砂嵐が足跡を吹き飛ばしたとしても、その足跡がさっきまでそこにあったことは事実なんです。誰も覚えてなくたって、確かにあった事実を消されるわけじゃない」  
 俺はデニムのポケットに手を突っ込み、例の錠剤を指で確認する。  
「だから、そんな顔しないでください。俺が大好きなのは、笑顔の朝比奈さんなんですから」  
 朝比奈さんのエンジェルスマイルがどこまでも健在なら、俺もきっと最後まで暑苦しい笑顔を撒き散らしてやるさ。  
「……キョンくん」  
 この十ヶ月で何度も何度も朝比奈さんの口から聞いた、呼ばれ慣れ過ぎて今や愛着すら湧いてきた俺のそのニックネームを、朝比奈さんは包むように柔らかく呟き、  
「ほんとのこと言うとね、ここに来る前から、あ、ここっていうのはこの四年前の時間平面上のことね。その、ここに来る前からキョンくんのこと、あの、ええと、少し好きでした……」  
 ……マジですか。  
 そういうことなら、もっと普段から敏感にアンテナを張り巡らせておくんだったぜ。相変わらずこの手の感性が不十分な自分をなんとかしたい。  
「あ、でも、今みたいにこんなにも想うようになったのは、一緒に暮らし始めてから。それに、ここに来てから最初の頃は全然そんな余裕が有りませんでしたし。うふ、なんだか一年も経ってないのに、とても昔のことみたい」  
 最初は俺だってそれどころじゃなかったさ。気を抜いたりなんてすれば、それこそ衣食住の内のどれかがいつ欠けてもおかしくはなかったからな。  
「そうだなぁ。不安で不安で、どうしてこんなことになっちゃったんだろうって、良くないことばかり考えてました」  
 いたって正常な反応ですよ。あの状況に置かれて、ネガティブな思考に至らない方がおかしい。  
「でも、キョンくんはちゃんと頑張ってて、だからあたしも頑張らなきゃって。隣にキョンくんの姿を見て、何度もホッとして」  
 俺だって、朝比奈さんの横顔に何度救われたことか。  
「一ヶ月くらいが過ぎた頃かな。少し余裕が出てきたその辺りからは、とっても楽しかったです。きっと、そうですね。それくらいから、十ヶ月経つのが少しずつ怖くなってきたのかも」  
 なんだ、俺と一緒じゃないか。  
「だから、そんな気持ちだったから、キョンくんの好きだ、って言葉を聞いた時は、もうとっても嬉しくて、涙が出るほど嬉しくて、さっきも言ったけど覚悟の上でキョンくんとの関係と選びました」  
 透き通った瞳を潤ませて、頬を染めながら朝比奈さんは口を小さく動かす。  
「ごめんなさい。こうなることを解っていたのに、期待を持たせるようなことをして……」  
 謝る必要なんてありません。  
 俺だって逆の立場ならそうしていただろうし、何よりこの十ヶ月を振り返ってみると、本当に幸せだったと思いますし。それこそ、これから先の人生で味わうことになる幸せ成分を全部詰め込んだくらい幸せでした。  
「あたしも本当に幸せでした。楽しかったことや嬉しかったことがいっぱいで、流石に全部思い出せないなぁ。えへ、キョンくんに色々買ってもらっちゃったりとかもしましたね」  
 色々っつっても、俺の小遣いからの出費は木製人形と靴だけですけどね。  
「そのくるみ割り人形なんですけど、あの、ちょっとしたイタズラで手放しちゃったの……」  
 ちょっとしたイタズラ?  
「はい。今のわたしに出来る、精一杯のイタズラ。ごめんなさい……」  
 いえいえ、あんなのいつだって買える代物ですから気にしないでください。それに俺が買ったとはいえ、朝比奈さんの物に違いないんですから、朝比奈さんの好きにしてもらって構いません。  
 
「よかった」  
 呟くような安堵の言葉と共に、朝比奈さんはその少ない体重をゆっくりと俺の胸に預けてくる。涼しい夜風に映えるその体温がとても心地良く、まるで俺の決心を揺るがせようとしているようだった。  
 いっそ本当に、このままどこかへ逃げてやろうか。  
「キョンくん、今までありがとう」  
「何言ってるんですか。やめてください。それじゃあ今生の別れみたいですよ、朝比奈さん」  
 たとえ二人の思い出が脳裏から消え去ったとしても、これからもずっと会えることに変わりは無いんですから。  
 そうだな、考えようによっちゃあ、あのドキドキをまた一から味わう事ができるかもしれないんだからな。それはそれでアリなのかもしれん。人生で二度も初恋を体験できるなんて、そうそう有るもんじゃない。  
「キョンくん」  
 今度はハキハキと、だがとても柔らかい口調で、朝比奈さんは俺のあだ名を声にする。  
「わたしはこの時代の人間ではありません。もっと、未来から来ました」  
 ええ、だから俺たちはこうして、  
「いつ、どの時間平面からここに来たのかは言えません。言いたくても言えないんです。過去人に未来のことを伝えるのは厳重に制限されていて、わたしたち時間遡行者は、必要以上の言動は強制暗示によってブロックが掛かるんです」  
 それも、ずいぶん前に聞きました。  
「でも、必要以上のことなのに、こんなことは言えちゃうの。キョンくん、」  
 潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を捉えて、朝比奈さんは今日一番の微笑みを零し、  
 
 
「大好き」  
 
 
 とびっきりの笑顔を涙が伝うその光景は、下手な夜景よりよっぽど輝いていた。  
 例の錠剤をジーンズのポケットから取り出し、それを握り締めたまま、俺は小さな背中を自分の胸に抱き寄せた。  
 離したくない。でも、こんなにも好きだからこそ、俺は決めたんだ。この人のあるべき将来を奪わないために。  
「朝比奈さん。これからも、頑張ってください」  
 片手で背中を抱いたまま、俺は握っていた小粒の錠剤を朝比奈さんの口へと運ぶ。  
 一瞬怯んだ朝比奈さんだったが、その錠剤を目にしてそれが何なのかを理解したのか、すんなりと俺の指先を自分の口元へと受け入れた。  
 それでも笑顔を崩さない朝比奈さんに応えて、俺も精一杯の笑顔を試みる。  
 錆び付いた街灯が上手く笑えていない俺を見兼ねたのか、その街灯は朝比奈さんに逆光ビームを浴びせていて、それが引きつった笑顔を少し誤魔化してくれているのが心強い。  
 なんというか、これは夢じゃないなんて自分で言っておきながらなんだが、まさに夢のような十ヶ月だったな。あっという間だったように感じられるが、九十分サイクルのレム睡眠にしちゃあ、あまりにも長すぎたくらいだ。  
 だったら夢なら夢らしく、ここらで潮時を迎えるのが妥当なんだろうさ。  
 そろそろ目覚まし時計がやかましく鳴り響いて、ベッドから叩き起こされるに違いない。けど、今が夢ならそれはあって然るべき、当然のことだ。現実は常に厳しい。  
 
「……キョン、くん」  
 いよいよ薬の効果が目に見え始めた。  
 朝比奈さんの瞼はトロンと半開きになり、俺の胸に添えられている手から力が抜けていくのが判る。  
 せめて朝比奈さんが眠るまで、心の中で団旗を振り続けてやろう。生まれ変わって頑張る朝比奈さんへのエールだ。  
「この時代で、俺はずっと応援してますから」  
 なんなら長門に頼んで、皆で団旗を抱えてそっちへ応援に行ってもいい。  
「……嫌」  
 え?  
「……やっぱり、嫌。忘れたく……ない。忘……れたく……」  
 眠気に必死に抵抗している朝比奈さんの唇は、真冬かと思わせるほどに痙攣していた。  
「……朝比奈さん」  
「忘れ……たく、ない。怖……い……、助……けて、キョ……くん……助けて……よぅ」  
「朝比……朝比奈さん!!」  
 俺は胸の前にある小さな手をギュッと掴む。掴んでみると、大きく震えているのが解る。  
「朝比奈さん! 吐き出してください! 無理してでも吐き出してください! そんで、二人で遠くへ逃げましょう!」  
 やっぱり、こんなの許さねえ。  
 なんで俺たちなんだ。なんでこんな目に遭うのが俺と朝比奈さんなんだよ!  
 他に居るだろうが。もっとこんな目に遭って然るべき奴が世の中に居るだろうが!  
「朝比奈さん、出来ますか!? 無理なら、口の中に手入れますから! 朝比奈さん!」  
 朝比奈さんは残った気力を振り絞るように、震えながら俺の頬に手を伸ばす。  
 僅かに動く唇から発せられる言葉は、もう小さ過ぎて俺の耳には届かない。  
 頬に感じる手から力が失われていく。まるで俺の頬がゴールといわんばかりに。  
 そして、瞳を閉じて崩れ落ちた幼いシンデレラは、十二時の鐘と共に魔法のドレスを脱ぎ去った。  
 幾筋もの涙の跡を、その顔に残して。  
 けど、そこにあったのは笑顔。  
 チラつく街灯にかき消されるほどの、蛍よりかは少しばかり明るい安らかな笑顔だった。  
   
 
 
 しばらく立ち尽くしていた俺は、真っ白の頭に色を取り戻そうと気を入れ直す。  
 そして、おそらく辺りで息を潜めているであろう人物に声を掛ける。  
「朝比奈さん、居るんですよね。出てきてください」  
 近くの茂みから葉擦れの音が聞こえて、その人物は俺に姿を見せた。  
 だが、  
「……うう、うぐっ、ひぐっ」  
 隠れている間ずっと涙を堪えていたのか、俺に姿を見せた途端に嗚咽を漏らし出した。  
「……見てられない。こんなの、見てられないよぅ……」  
 イヤイヤと首を横に振り、その瞳からは湧き水のように涙が溢れている。  
 色々成長しても、泣き方は幼い朝比奈さんと全く変わらないな。そういや、大きい朝比奈さんの泣き顔は初めて見たかもしれん。  
「朝比奈さん、最後の仕上げはあなたの仕事です。ほら、早くしないと逃げるかもしれませんよ俺」  
 朝比奈さんは何か俺に言っているようだが、嗚咽が入り混じっていて言葉になっていない。  
 仕方ない。最後も俺自身の手でケリを付けてやるか。  
「睡眠薬、まだあります?」  
 俺の質問が聞こえたようで、朝比奈さんはおもむろに手を動かすが、何かに気付いたように動きを止めて、  
「……ダメ、です。そこまでしなくても……」  
 嗚咽を堪えながら、朝比奈さんは俺の要求を却下。  
 けど、さっきの動きで解っちまった。薬はスカートのポケットだ。  
「……そうですか」  
 と、言いつつ俺は朝比奈さんにゆっくりと歩み寄る。今からスリ紛いの行動に出るだけに、頭の中は後ろめたさ全開で、それが顔に出ていないか心配だ。  
 けど、やっぱり朝比奈さんは朝比奈さん。そんな俺の心配を他所に、なんなくポケットから錠剤の奪取に成功。まあ、泣くのに精一杯で他のことに干渉する余裕があまり無かったんだろう。  
「ダ、ダメっ。キョンくんっ」  
 朝比奈さんは慌てて俺の手から奪い返そうとするが、そこは俺に適うはずもなく、  
「朝比奈さん。あなたにとっても、この出来事を鮮明に覚えておくことはきっと辛いでしょう。忘れていいとは言いませんが、ちょこっとだけ頭の片隅に置いといてくれれば、それで俺は満足です」  
「……キョンくん」  
 そうさ。当事者である俺と俺の朝比奈さんが覚えていないのなら、これは誰を幸せにするでもない歴史だ。  
 もちろん誰かに覚えておいて欲しいことに変わりは無いが、それによって誰かが辛い思いをするのなら、こだわる必要は無い。  
「後は頼みましたよ。じゃあまた、SOS団団員その一である俺に会いに来てやってください」  
 焼肉後の口にガムを放り込むくらいの何気なさで、俺はあっさりと錠剤を口に放り込んだ。  
「キョンくん、キョンくん! ダメっ!」  
 やがて薬が体に回り始め、俺は地面に膝を付く。  
 遠のく意識の中で、華麗なシルエットがこちらへ近寄ってくるのが見えた。  
「ぐすっ、キョンくん、ダメ、こんなの、こんなのって……」  
 だが、そのシルエットから覗く表情はくしゃくしゃに崩れていて、だから俺は、  
「笑顔……で、お願い……します」  
 今の俺にとっちゃあ、最後のお願いってやつさ。  
 大きく頷いて見せた朝比奈さんは、長い瞬きで涙を止めたあと、  
「はい」  
 いつかに見た、見る者すべてを恋に落としそうな笑顔を見せてくれた。  
 俺の瞳は最後に、目の前の笑顔と静かに眠った笑顔の二つを、ずっと写し続けていた。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 数時間前。どこかの家庭。  
 
 夕飯までの時間的に中途半端な空きを、俺は読み散らかした漫画風呂のベッドで悶々と過ごしていた。  
 特に何をしているでもなく、よって部屋の中は静寂に包まれており、辺りから発せられる色々な音が鮮明に耳に届く。  
 その色々な音の一部に紛れて、忙しなく階段を刻む足音が聞こえた。  
「キョンくーん、郵便だよー」  
 その足音の主はノックという基本マナーを躊躇なくすっとばして、俺の目の前へと駆け込む。  
 郵便って、手紙か?  
「わかんないけど、これー」  
 そう言って、銀杏の葉サイズの手で掴んだ封筒を高々と掲げ、俺に差し出してくる。  
 膨らんでいる封筒を見ると、どうやら手紙ではなさそうだ。仮に手紙が入っていたしても、それ以外にも間違いなく何か入っている。  
 なんだろうか。全く心当たりがないのだが。開ける前に時限装置の音とか確認した方がいいのだろうか。  
「きっとキョンくんの入学のお祝いだよー。中学生ってもう大人の仲間だもん」  
 つっこみたい要素が端々に散りばめられた台詞だが、今俺は赤のコードか青のコードどっちを選ぶかで精一杯なんだ。今日のところはスルーしておいてやる。  
「とにかく、お前は部屋から出て行け」  
「えー、中に入ってるの見たいー」  
 本能に忠実なこいつなら、外にボールを投げれば四つ足で走って拾いに出て行ってくれるだろうかとか思ったが、それはそれで兄として家族として何か悲しい。  
 とりあえずなんとか説得して部屋から妹を追い出した俺は、覚悟を決めて封筒に手を掛ける。  
 もちろん本当に爆弾だとは思っていなかったが、得体の知れない物が入っている可能性を無視は出来ない。封筒の口を広げて、中を目視で確認する。  
 すると、俺の僅かな不安も杞憂だったようで、結局そこから出てきたものは、一枚の便箋、と木製の人形が一体。  
 なんだこれは。  
 便箋、はまあ解る。誰からのものかは全く予想が付かないが、手紙ということでまず間違いない。  
 だが、問題はその次である。人形。はて。  
 俺は別にアンティークな趣味など持っちゃいないし、宛て先の間違いじゃないのだろうか。  
 しかし、俺の目が正常であるならば、封筒には我が家の住所と俺の名前がしっかりと刻まれてある。差出人の名前は見当たらない。  
 あまりの不気味さに背筋を凍らせつつも、とにかく便箋を広げてみる。  
 すると見覚えのない字体が俺の視界に飛び込んできた。  
 
 
 『幼いあなたへ  
 
  拝啓  
.   お元気ですか?  
.   私は、元気です。  
              敬具  
    
  あなたを想うくるみ割り人形より』  
 
 
 なんだこりゃ。ますます解らなくなってきた。  
 国木田あたりが仕出かした、とびっきりのジョークならまだ笑えるが、あいつはそういうキャラではない。  
 うーん、どうしたものか。  
「やれやれ」  
 何気に年寄り臭い台詞を吐いてしまうのも、これじゃあ頷けるってもんだろうよ。  
 でも、なんだろうな。文面は何か不気味なのに、この手紙からは全く嫌な感じがしない。  
 しばらく手紙を眺めて、俺はそっと元通りに手紙を折り畳んだ。  
 そして、その手紙と人形を、滅多に開くことの無い、机の一番下の引き出しの一番奥にそっと仕舞った。  
 夕飯まではまだ時間がある。  
 なぜか再度ベッドに戻る気にもなれず、俺は机に肘を付いて近所のガキたちのボール遊びをじっと眺めていた。  
 そして、夕飯を呼ぶ声が俺に届く頃には、俺はもう手紙のことを忘れかけていた。  
 
 
 
 
 
 
「ふう」  
 外から聞こえる下校する生徒たちの話し声もひと段落つき、残るは日直や掃除当番に当たっている者がダルそうに校内に留まっている頃、俺と朝比奈さんは元の文芸部室へと舞い戻ってきた。  
「キョンくん、付き合ってくれてありがとう」  
 いえいえ。そういう風に、手を握って俺にお礼の言葉を述べる朝比奈さんを拝めたんですから、それだけでも充分な対価が得られたってもんです。  
 いや、むしろお釣りが有り余って、俺が更に何か支払うべきかもしれん。そうだな、子供銀行の紙幣くらいなら、妹の部屋を探ればきっと束で出てくるに違いない。  
「ただいま長門」  
 誘われるままホイホイと時の旅路へと足を踏み込んだその時と何一つ変わらぬ様子で、文芸部室の正式保有者は淡々と文学に励んでいる。  
 俺の言葉を受けて、長門は俺を一瞥し、またすぐに活字の空へと視線を羽ばたかせる。なんだかこの読書描写もそろそろ飽きてきた。  
「しかし朝比奈さん。今回の指令って、一体なんだったんでしょう」  
 完全にトンボ帰りだったような気がするんですが。  
 四年前に行って、また直ぐに戻ってきただけ。これが仕事なら交通費すら経費で落とすのにひと苦労しそうだ。  
「ふえぇ。それが、あたしもよく解らないんです。ごめんなさい……」  
 ……まあ、残念ながら朝比奈さんには知らされていないだろうことは予想してたけどな。  
 そんな、まだ空を飛ぶほどに羽を上手く使えない幼いエンジェルの憂うべき身分に慈愛の心を抱きつつ、俺は一つ気に掛かっていたことを思い出した。  
「そういえば長門、あのあとハルヒはどうだったんだ?」  
 そうだった。俺と朝比奈さんがここから消える徹底的瞬間を、あのハルヒに目撃されたかもしれない。  
「大丈夫。特に問題は無い」  
 問題ない、って。見られたんだとしたらマズいだろ。  
「涼宮ハルヒがあなたたちを目視できた時間は、人間には残像程度としか認識できないほど僅かなもの」  
「やっぱり、一応は見られたのか。変な勘ぐりをしてなければいいが」  
「大丈夫」  
 まあ、長門がそこまで言うのであれば、ずいぶんと安心できる。今やこいつのお墨付きとあらば、俺は天動説を唱えられたところで易々と信じてしまうだろうからな。  
「そうか、なら良かった。で、そのハルヒはどこへ行ったんだ?」  
 だが、流石の長門も全知とはいかないらしく、この質問には俺と目を合わせて僅かに首を傾げる。  
 まあいい。どうせまた日本中のコロッケをカレーコロッケに変えるくらい、くだらないことを企んでいるんだろうよ。  
 
「あ、あのぅ。ほんの一瞬でも、涼宮さんが見たのって、わたしとキョンくんが手を繋いでい、」  
 こうして朝比奈さんが折角おしゃっているお言葉を、俺は一言一句聞き逃すまいと耳を傾けていたさなか。どこのどいつだか知らんがそれを遮る輩がいたようで、  
「あー、なんか今日はムカつくわ。とっととミーティングして終わらせるわよ」  
 扉をやかましく開いて登場するなり文句を垂らしながら、我らが長はムスッとした顔と共に大股で部室内へ入り込んでくる。濁点だらけの擬音が今にも聞こえてきそうだ。  
「なんだ。何か気に入らないことでもあったか」  
 こいつの不機嫌オーラは定期的にやってくるからな。今やすっかり慣れちまった。今回はおおかたコロッケが天カスにでも変わっちまったんだろうよ。それが晩飯のメインディシュだったんなら少しは同情してやらんこともないぞ。  
「違うわよ。ていうか、どこからコロッケが出てくんのよ」  
 まるで他所の子の愚行を遠目で見る近所のおばさんのような視線を俺に向けつつ、ハルヒは肩肘を付いて否定してきた。  
「じゃあ、なんなんだよ」  
「幻覚よ幻覚。なんか一瞬、とてつもなくくだらない幻覚が見えたのよ。あー、気分悪いわ。いよいよあたしも末期に違いないわ」  
 何の末期だ。  
「なんか、部室だとまた幻覚が見えそうでイライラするわ。場所変えてミーティングしましょ。いいわよね」  
 そう提案したらしっぱなしで、俺たちの返事を聞くまでもなく一人で部室を出ようとするハルヒ。  
「ちょっと待て。ミーティングするのは構わんが、一体なんのミーティングだ」  
「今ミーティングっていったらツーリング以外の何があんのよ。嫌なら、あんたは一人でひたすらボルトにワッシャーでも付けてなさい」  
 地味な作業だなおい。せめて賃金はどこから発生するのか、はっきりさせておいてくれ。  
 そんな労働の対価を求める俺の叫びも虚しく、ハルヒは今度こそ部室をあとにする。  
「おや、今日は外出でしたっけ」  
 部室から出ようとするハルヒと出会い頭に衝突しそうになりつつ、ようやく古泉が姿を現した。  
「こないだ決まった鶴屋家別荘への自転車ツーリングのミーティングよ。古泉くんも来てちょうだい」  
「そうですか。では、参りましょう」  
 ミーティングと聞いて外出することに一切つっこまない古泉だが、こちらもそんな古泉に今更つっこむ気も起こらず、こうしてめでたく出張ミーティングが行われることになった。  
 朝比奈さんもハルヒのあとに次いで部室を出ようと扉に向かったところで、俺も席を立つ。だが、  
「長門、行くぞ」  
 今だ本を閉じてなかった長門が、俺の呼び掛けを受けてか一瞬こちらに視線を送ってから、ようやく本を閉じる。  
「どうしたんだ、えらくゆっくりだな。置いてけぼり食らうぞ」  
 先程までは本に隠れて見えなかったが、その本の下敷きにしていた方の長門の手には、何か小さな人形のような物が握られている。  
「安心して。終わったわけではない」  
「何がだ?」  
「まだ始まったばかり」  
「だから何がだ」  
 長門は俺の質問には答えず、音も無く立ち上がり音も無くこちらへやってくる。もうこれは忍び足というか、たぶん数ミリくらい地面から浮いているんじゃないだろうか。こいつならやりかねない。  
「これはもう、あなたが持っていた方がいい」  
 そう言って、身長を数ミリほどサバ読みしているかもしれない長門が、握っている人形を俺に差し出してきた。  
「どうしたんだこの人形」  
「転移するには媒介が必要。その媒体としてこれが非常に適切だった。だからそれに使用した」  
 ……すまんが俺は暗号の類はあまり得意じゃないんだ長門。  
「とにかく俺たちも行こう。マジで置いてかれちまう」  
 長門が放った意味深な言葉を気に掛けつつも、俺たちはハルヒのあとを追って部室を出た。  
 
 
 
 ツーリングの目的地が鶴屋家の別荘ということもあって、ハルヒは今日の独演会に鶴屋さんも誘っていたらしい。  
 どちらか一人の時よりハイテンション二乗増しのハルヒ鶴屋コンビの笑い声をBGMに、辿り着いたのは結局いつもの喫茶店である。  
「あっこまでは、けっこう長い道のりだかんねっ。着いた頃にはお腹ペコペコだと思うから、美味いもんいっぱい用意して待っとくよっ」  
 レモンティーに突き刺さったストローを指でつつきながら、鶴屋さんは皆の顔を順番に見て言う。  
「楽しみにしてるわ。さあ、これでいよいよ急がないわけにはいかなくなったわよみんな。絶品料理が冷めないように、超特急でペダルを漕ぐつもりだから遅れないようにしなさい!」  
 完全にツーリングの趣旨を間違った方向に持っていってるな、こいつは。ツーリングってのは普通、自転車やバイクでの移動自体を楽しむものじゃないのか。  
 まあ、確かに鶴屋さんの用意してくれる、美味いもん、ってのはかなり期待できる。俺なんかだと、普通に生きていれば一生に一度出くわすことが出来ればいいくらいの上物が出てくるのかもしれない。  
「あっははっ。こりゃあ、みくるは頑張らないと置いてかれて迷子だねっ。なんならみくる専用の先導バイクでも付けるかい?」  
「ええっ。あああたし頑張りますから、大丈夫ですっ」  
 朝比奈さんの慌てる姿を見て、鶴屋さんは笑い転げている。一体この人のツボはどれだけあるのだろうか。本当に色々と計り知れないお方だ。  
「そういや長門。お前、自転車持ってんのか?」  
「持っていない」  
「……やっぱりか。そういうことは早めに言わないとだな」  
「そういうことでしたら、僕の知り合いにリサイクルショップを経営している方が居ますので、無料で貸してもらえるよう頼んでみましょう」  
「何? 有希、自転車持ってなかったの?」   
 こうして、おそらく鶴屋さんのおかげかいつの間にかハルヒも機嫌を取り戻し、しばらく和やかなムードで話し合いは進んでいた。流石は鶴屋さんである。  
 だが、  
「…………」  
 俺たちの隣に陣取った二人の男女客が、再びハルヒの機嫌を損ねてしまったようである。  
 その二人は対面ではなく隣同士で腰を下ろし、要するに世間一般で言うバカップルというやつだ。  
 
「何、あれ」  
 ピンク色のオーラがこっちにもユラユラと漂ってきて、お冷が今にもピーチジュースに変わりそうな勢いである。そういや、水をビールに変えるマジックならテレビで見た記憶があるな。  
「いちいち気にするなハルヒ。隣は隣、俺たちは俺たちだ」  
 そうは言ってみたものの、確かにあれは目に毒だ。こっちまで恥ずかしくなってくる。  
 イヤらしい感じは全くしないのだが、二人とも頬を赤らめる場面がやたらと多く、あまりにも初々しくてピュアというか、なんか自分の汚れ具合に気が滅入りそうになってくるな、これは。  
「ふえぇ……」  
 恥ずかしくなってきたのか顔を俯けている朝比奈さんとは正反対に、長門は毛穴の数まで観察するかのように、その二人をジッと眺めている。  
 で、一人でずっと笑いを堪えている様子なのが鶴屋さん。  
「くく……あ、あたしはもうすぐ親戚の集まりに行かないとダメなんだっ。だから今日はこれでおいとまさせてもらうとすっかなっ」  
「そう。じゃあまたね鶴屋さん」  
 絶対笑いを堪え切れずに逃げたなあの人。  
「まだ喉が渇くわね! グレープフルーツジュースちょうだい!」  
 ハルヒの不機嫌は絶好調のようで、自分の分のオレンジジュースを一気に啜り上げ、ドンッと音を立ててグラスを置き、大声で店員に叫ぶ。  
「なんだ、足りないんなら俺の分やるぞ」  
「いらないわよ、あんたの唾入りなんか」  
 俺の弁当は平気で食うくせに、よくわからん奴だ。  
「……まあ、いいわ。もらってあげる」  
 と言って、けっきょく俺からグラスを奪い取りストローに口を付けるハルヒ。どっちなんだよ、まったく。  
 それは置いといてだ。  
「……おい、なんで顔を赤くしてんだ。俺まで恥ずかしくなるだろうが」  
 そして黙るな。何を意識してるのかこいつは、妙なところで変な反応しやがる。  
 ほれ、追加のグレープフルーツジュースが到着したぞ。  
「う、うるさいわね! 返すわよ! 自分で飲みたかったんなら、あげるなんて言うんじゃないわよ!」  
 持っていたグラスを俺に突き返し、新しく現れたグラスをむんずと掴んで、ハルヒはまたもや一気に啜り出す。  
 フンと横を向いてストローを吸うハルヒの横顔は、肩口で揃えられた髪で表情が隠れていた。  
「けっこう減ってるなおい」  
 氷が溶けて薄められたジュースの味が、なぜか俺には妙に美味く感じた。  
 
 
 
 
 あはは、やっぱハルにゃんたちはおもろいねっ。あん時の空気ったらなかったよっ。  
 これはダメだっ。思い出したらまた笑いそうになっちゃうね。  
「くくくっ」  
 けっきょく街中で思い出し笑いをしていまい、あたしはちょびっとだけ周りの注目を浴びる。  
 やっちゃったねぇ。けど、たまにはこういうのも逆に清々しい気がするからオールオッケーっさ。  
 髪を風と遊ばせながら、家への道のりをあたしは軽快に進んでいく。そろそろ、少し髪を切ってもいい頃かもしんないね。今度の休みあたりにでも、あのおもろい美容師さんを呼ぶとすっかなっ。  
「おんや?」  
 いつの間にかあたしの数十メートルほど先に、二つの人影が見えている。  
 あれは、  
「おーいっ! みくるとキョ……」  
 いや、違うねっ。人違いだっ。  
 よく見ると全然違うよ。っていうか前の二人、さっきのカップルじゃないかっ。  
 あはは、バカだねあたしは。あの二人が手を繋いで歩いてるなんて、ありえないのにさっ。  
 でも、なんでだろーねぇ。顔も服装も全然似てないのに、なんであの二人と間違えたのかぜんっぜんわかんないよっ。こりゃ傑作だっ。  
「うーん」  
 にしても、どうすっかなあ。こっち振り返っちゃってるよあのカップル。  
 よし、決めたっ。今日は赤っ恥デーだっ。さっきの思い出し笑いのついでに、思いっきり赤っ恥掻いてみるとすっかなっ。  
 心を決めたあたしは、大きく息を吸い込んで、  
「おーいっ! みくるとキョンくんっ!」  
 ちょっと強めの風に押されながら、二人のもとへと駆け足を始める。  
 どうしてわざわざ近づくのかって、あたしはやるならとことんやる主義だかんね。  
 だから、  
 見知らぬ二人に言い訳をするために、あたしはスカートを少し押さえて駆け足をするのさっ。  
 
 

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