「キョン。僕はね、常に冷静でありたいのさ。そうでなければ、周囲の事象を上手く判断することができない。どうにも僕には情緒的な感情が欠落しているらしくてね、専ら経験則や理屈に頼る傾向があるし、それを由としている。
デカルトの方法序説には共感する部分が多いよ。僕は科学者ではないけれど、自分の目で見たものを情緒に頼って処理をしたいとは思わない。おそらく真であろうということを突き止めてから物事を進めたい」
朝から降り続いた雨はまだ空から小さな粒となって降っていた。霧のようにしとしとと空気を濡らし、空を灰色一色に染め上げている。
昼過ぎの暗い校舎は静かで、蛍光灯の明かりだけが廊下を照らしていた。その中で、佐々木の柔らかい声だけが廊下に響く。
「僕自身が人間である以上、知覚をこの曖昧な器官である体に頼らなければいけないのは明白だろう。しかし、この体で感じるものだけが世界のすべてではない。知覚できないからといって存在を否定するだなんて何千年前の科学だよ。
けどね、例えば小さな原子、いやウィルスや単細胞程度であっても僕の持つこの目ではうまく見ることができない。だがその存在を顕微鏡などで観察することはできる」
授業が終わり、俺と佐々木は日直の仕事を終えてこれから帰宅するところだった。
二学期の中間テストも終わり、ほんの少しだけのんびりした気分になれる。まぁそんな中、隣を歩いている佐々木がいつものように語り始めたわけだが。
「でも顕微鏡で覗いた世界がまた真実かどうかはわからない。そこに見えた映像は僕にも見える形状に変換されたものだからだ。画角も狭すぎる。そして、人には知覚できない様々なものがこういった変換によって情報としてもたらされる。
よくテレビなどで使われるサーモグラフィーもそうだ。視覚的に物体の温度を把握できるよう、あれもまた通常の知覚、この場合は視覚で捉えられるように変換したものだから」
あまりの眠気に思わず欠伸が出た。饒舌に任せて言葉を連ねる佐々木は、機嫌よさそうに手をひらひらとさせながら話している。
俺は重たい鞄を背負いなおして廊下を歩く。
一階の職員室から出て、廊下を歩き、下駄箱へ向かった。中庭に通じる扉が開け放たれていて、そこから入ってきた雨が廊下を濡らしている。
「象徴化されたものを真実の姿だと思って接するのはあまりに愚かだと思わないか? その変換する作業は人に知覚できないものを知覚可能にするため必要だから仕方ないにしても、それが決して真の姿では……きゃあっ!!」
佐々木が派手に転んだ。
濡れた廊下に足を進めた途端、その足が前に滑り、尻餅をつくようにして腰から落ちやがった。
「お、おい大丈夫か?」
今のコケ方はちょっと痛そうだ。まったく予測してなかったみたいだしな。
「……いたた」
苦痛に顔をしかめ、腰に手をやっている。俺は助け起こそうと手を出して、そこで制止した。
ちょうど、佐々木が膝を立てて両足を広げているもんだから、スカートの中が丸見えだった。
腿の間に見えた白いパンツに、廊下に溜まっていた水が染み込んでいく。まるでお漏らしでもしたみたいだ。
白地に水が染みていくものだから、吸い付いた肌の色がパンツの上に滲んでいく。
「なっ?!」
慌てて佐々木がスカートでパンツを隠した。その顔に焦りのようなものが見えたのは間違いない。
「あっ、いや、違うぞ。たまたま見えちまっただけだからな」
「……ああ、わかってる……。ただ、その、あれだ。見えたことは言わないで欲しかった」
しかし、白か。うん。いいもの見せてもらった。案外シンプルなもの履いてるんだな。
まぁ色っぽいレースの下着つけててもそれはそれでビックリだが。
そうやってぼんやり考え事をしていたが、佐々木が起き上がってくる気配がない。
どうやら一人で立てないらしい。俺は佐々木の手を取って、その体を引き起こしてやった。
「……すまない」
佐々木は腰を手の甲で叩き、痛みが治まるのを待っている。
「大丈夫か?」
「ああ、たいしたことはない」
今のはかなり痛いと思うんだがな。俺もああいう転び方をしたことがあるからわかる。
「腰打ったんだろ? 保健室行こうぜ」
「別にそこまでしなくてもいいだろう……」
佐々木は顔を赤くして、ぷいと横を向いた。
「それにお前、今のでケツ濡れただろ。スカートも濡れてるぞ。着替えたほうがいいって」
「う……ああ」
「負ぶってやろうか?」
「いや、遠慮しておこう。自分で歩ける」
本当かよ。
佐々木は歩こうとしているようだったが、どうも尻が痛いらしく立ちすくんだままだった。
「ほら、掴まれよ」
俺は佐々木の手を取って自分の肩に回した。これでいくらかは歩きやすくなるはずだ。
「そ、そこまでしてもらわなくたっていい。自分で歩けるさ。保健室なんてすぐそこだろう」
「いいから、掴まっとけ」
肩に佐々木の体重をわずかに感じながら、ゆっくりと歩き始める。佐々木もなんだかんだ言って、歩くのが辛そうだ。だというのに、俺に体重を預けることをよしとしないのか、少し離れて歩こうとしていた。
こういう時くらい人の好意に甘えたっていいだろうに。いちいち難儀なヤツだな。
「……すまない。みっともないところを見せてしまった」
ぽつりと佐々木がそう呟く。割と恥ずかしかったらしい。気持ちはわからんでもない。
「ま、まぁあれだ。パンツ見たことは忘れるから」
びくりと佐々木の体が一度震えた。
「……それはまぁ、仕方ない。別に君に非があることじゃないし。僕が言いたかったのは転んでしまうのがみっともなく、情けないということだ」
パンツじゃなかったのか。
「気にすんなよ。誰だって転ぶ時は転ぶさ」
「すまない……。ああ、本当にみっともない。なんてことだ」
どうやら佐々木は滑ったことを気にしているらしい。別に周りの目があるところで転んだわけでもないだろうに。
どうせ俺しか見てなかったはずだから、そこまで深く気に病むことじゃない。
「それにしても、意外とかわいい悲鳴だったな。喋ってる最中だったけど、舌は噛まなかったんだよな?」
佐々木の体がびくっと震えて、さらに俺と距離を取ろうとする。
んなことしたら歩けないだろうと、俺は佐々木の腰に手を回して抱き寄せるようにして距離を詰めさせた。
「し、仕方ないだろう。咄嗟のことだったんだ。ああ、僕だって突然ああいうことが起これば多少なりとも動揺をするよ。それは僕が未熟だったからだ。ああ、未熟だったからこそあんなみっともない声を出してしまったわけだけどね。
なに、もう金輪際ああいうことが無いよう僕は注意を払って生活するよ。例え転ぼうが車に跳ねられようが情けなくみっともない悲鳴を上げたりしないくらいにね」
早口で一気にそうまくしたてる佐々木。
「いや、そこまでせんでもいいだろ。別に悲鳴あげるくらい普通だし」
「そういう問題じゃない。僕は常に冷静でいたい。だからあの程度のことでいちいち悲鳴を上げるような愚かな自分のことが許せないのさ」
「そうやってムキになってる時点で冷静じゃないと思うんだが」
「ッ?!」
「まぁそんだけ喋れれば舌は噛まなかったみたいだな。よかった」
「う、ううなんてことだ。僕としたことが」
保健室の前まで来ると、その扉を開いた。病院と同じ、どこか無機質な匂いが鼻をつく。
入学して以来、2,3回しか来たことが無いもんだから、どうも入るのに緊張してしまう。
部屋を見渡すと、誰もいないようだった。
「すいませーん。誰かいますか?」
声をかけても返事がない。奥にはカーテンで仕切られたベッドが二床あったはず。
カーテンで仕切られてるから人がいるかどうかはわからない。
「とりあえず佐々木、座っとけ」
俺は置いてあった丸椅子を引き寄せて、そこに佐々木を座らせた。
持っていた鞄を、足元に放っておく。
奥のベッドを見てみたが、誰もいないようだった。だったら鍵くらい閉めとけよと思わないでもないが、何か急な用事で出かけているのかもしれない。
しかし困った。保健室のおばちゃんがいないと、佐々木を診てもらうことができない。
「どうする佐々木? 先生いないみたいだけど」
「だから、たいしたことはないと言っているだろう。わざわざ治療を受けるほどじゃない」
「そうか。まぁどっちにしても着替にゃならんだろ。今日は体育あったし、体操服持ってんだろ?」
「ああ……」
「そりゃよかった。でもパンツの換えは無いんだよな?」
「んなっ?!」
「でもまぁ長ズボンがあれば大丈夫か」
とりあえず、佐々木に着替えてもらって、それから保健室の先生が戻ってくるのを待とう。
電気も点けっぱなしだったし、そのうち戻ってくるはずだ。
「……情けない」
「佐々木、じゃあ俺外出てるから着替えろよ」
「なんてみっともないところを……」
椅子に座りうなだれてぶつぶつと何かを呟いている。
「おい聞いてんのか?」
「え? ああ、着替えればいいんだろ。わかってるさ。ああ、君には本当に世話になりっぱなしだな。本当に自分が情けないよ」
そこまで思いつめるようなことかね。
転んだ友人を介抱するってだけでいちいち大袈裟なヤツだな。
「気にすんなよ。人の世話すんのなんて妹で慣れてる」
「妹? ふふ、そうか、妹か。ふふふ」
自嘲するように薄い笑みを浮かべて佐々木が立ち上がる。足元の鞄を拾うと、奥のベッドに向かい、カーテンを閉め切る。
「じゃあ俺出てるから着替え終わったら呼んでくれ」
「ふん、別に僕みたいなのが着替える程度で君がいちいち退室する必要なんかない。そこで待っていてくれ」
妙にトゲトゲしい声でそう言いやがる。
まぁ別にいいかと、俺は近くにあったパイプ椅子に座り込んだ。さっきまで佐々木が座っていた椅子を見ると、その表面が濡れている。
やっぱりあいつケツ濡れてたんだな。パンツまで濡れてたらさぞかし気持ち悪いだろうに。
カーテンを見ると、ぼんやりと佐々木のシルエットが浮かんでいた。スカートの中に手を入れている様子が見える。
両手のラインがゆっくりと両足を伝い落ちていった。カーテンの下の部分だけは開いているもんだから、そこに佐々木の足が見えた。
その足首に、佐々木が脱いだばかりのパンツが引っ掛かっている。先に上靴を脱いでからにパンツ脱げばいいのに。
佐々木の白いパンツは靴にひっかかっていたが、なんとかそれを抜き取った。
こうやって冷静に考えると、妙にエロいシチュエーションだ。
すぐ近くで女の子がパンツ脱いでるんだからな。しかも脱ぎたてのパンツが今しっかりと見えたぞ。
俺は薄ぼんやりとしたシルエットを食い入るように見つめてしまった。
鞄から体操着を取り出したらしい。佐々木はそれを穿こうと片足をあげる。
長ズボンに片足を差し入れていく。だからお前、先に上靴脱げよと。
そこで異変が起こった。佐々木がバランスを崩したのだ。
慌てたように手を振って咄嗟にカーテンを掴んだようだが、体を支えきれずにカーテンからこちらへと思い切り倒れこんできた。
カーテンの留め金がバチバチと音を立てて外れる。カーテンが保健室の棚にぶちあたって表面のガラスを叩いた。
カーテンを掴んだままだったものだから、変に回転をしながら佐々木の体が倒れこんでくる。どだん、と重い音を立てて佐々木が尻餅をついた。
「…………」
放心したように佐々木がしばらくぼんやりと視線を宙に漂わせる。
俺はというと視線は一箇所に集中していた。
佐々木は片足をズボンに突っ込んで、膝を立てて、股を開いた状態で固まっていた。
つまり、なんだ、その。
女の子の大事なところが丸見えだった。パンツはさっき脱いだばっかりだからな。
スカートもめくれあがり、下半身を隠すものは何も無い。
蛍光灯に照らされた佐々木の薄い陰毛と、その下にある割れ目もくっきりと見えた。
放心していた佐々木が、にやりと笑う。
「ふふ、どうだいキョン。今度はみっともない悲鳴はあげなかったぞ」
誇らしげに、そう言い放つ。ああそうか、こいつ悲鳴を聞かれたのがそんなに嫌だったのか。プライドの高いヤツだからな。
視線が合うと、急に恥ずかしくなった。
「それより佐々木、前隠せ」
「え?」
佐々木が視線を自分の体に落とした。そして、自分が一体どういう状況にあるのかを悟ったのだろう。
顔が固まった。わなわなと佐々木が震える。
せめてもの情けと、俺は後ろを向いて耳を塞いだ。
「キョン、後生だ。今日のことは忘れてくれ」
俯いたまま佐々木が呟く。
「あ、ああわかった」
帰り道を二人で歩きながら俺は佐々木の代わりに傘を差してやった。
まだ腰が痛むのか、歩みは遅い。
どうやら随分とショックを受けてしまったらしい。大丈夫だろうか。
「その、なんだ。佐々木も女の子だし、ショックなのはわかるけどさ元気出せよ」
「き、君というヤツは……。忘れてくれと言った矢先に思い出させないでくれ」
「え? ああ、すまん。けどまぁ、その、俺が見たことは忘れるから」
「聞いたことも忘れてくれ」
「大丈夫。耳塞いでたから、佐々木の悲鳴なんか聞こえなかったって」
「ほう、耳を塞いでいたのに君は僕が声をあげたかどうかがわかるのかい」
「いや、それはだな」
まぁ耳を塞いでてもあれだけでかい声出してりゃ聴こえるって話で……。
「だから佐々木、深いことは気にすんなって。忘れろ」
「うん、僕はもう忘れた。君が忘れてくれれば問題ない」
佐々木はもう忘れたつもりらしい。話を合わせてやるのも友情というヤツか。
この話題は避けたほうがよさそうだ。
二人で並んで歩く。しとしと降り続く雨が鬱陶しく足元を濡らした。少し風が出てきた。風の向きに合わせて少し傘を傾ける。
車道の端を歩いていても、天気のせいか静かで、人通りさえ少ない。いつもはもうちょっと車が走ってるものだが。
傍に広がる田んぼはすでに収穫を終えていて、寒々しい焦げ茶色を晒している。アスファルトに出来た水溜りを避けながら、のんびりと歩いた。
風がさらに強くなってくる。代わりに雨が殆ど降らなくなっていたので、もう傘を差さなくてもいいかもしれない。
こんな天気だからか、どうにもテンションが上がらない。普段から低いけどさ。
それに二人でいる時はいつも佐々木が何か喋るものだから、俺は何を話していいのかがわからない。
沈黙だけがやけに耳をついて、痛々しい。
「そ、そうだ。その埴輪スタイルもなかなか似合ってるぞ」
「なっ?!」
佐々木はスカートの下に体操着の長ズボンを穿いていた。俺達の学年の色である緑が、スカートから生えている。
「寒い日なんかそれで通学したらどうだ? 暖かいぞ」
「断る。こんなみっともない格好で外を歩くだなんて屈辱だ」
どうやら埴輪スタイルはお気に召さなかったらしい。
「ああ、そうだ。なんで僕がこんな恥ずかしい格好をしなきゃいけないんだ」
「そりゃ転んでパンツが濡れたからだろ」
「キョン。いい加減、忘れてくれないか? なぁ、僕は君を友人と見込んで頼んでいるんだ」
佐々木の目がちょっと怖い。なんていうか今にも切れそうなロープを見てる気分だ。
「あ、ああ。了解した」
「情けない。ああ、本当にみっともない」
お前だって忘れてねぇじゃねぇか。
「キョン、ちょっと止まってくれ」
佐々木が立ち止まって辺りを見渡す。俺の他に誰もいないことを確認すると、佐々木は両手をスカートの中にいれ、長ズボンを一気に下ろした。
傍に立っていた電柱に手をかけ、器用に足だけで靴を脱ぐと、ズボンをズリ下ろして脱ぎ去った。
脱いだズボンをぐるぐると丸めながらもう一度靴を履き、佐々木はズボンを鞄の中へ放り込んだ。
「お前なぁ……」
「こんなみっともない格好を誰かに晒すだなんて僕にはもう耐えられない」
「でもお前、パンツ履いてないだろ」
「よく考えてみれば、スカートの中を覗かれるだなんてことは殆どありえない話だ。それともキョン、君は女子生徒のスカートの中をすべて把握しているとでもいうのかい?」
「そりゃ、お前の言うこともわからんでもないが……。見えそうで見えないもんだしなぁ」
かといってノーパンで歩くつもりか。
こいつの美意識はよくわからん。素直にスカートの中にズボンの埴輪スタイルで帰ればいいものを。
その時、強い風が吹いた。さっきから強くはなっているとは思ったが、突風と言ってもいいほどの強い風だった。
スカートが思い切りめくれ上がっていた。一瞬だったが、その中ももちろん見えた。慌てて佐々木がスカートを抑えた時にはもう遅かった。
「……」
「……」
「耳、塞いどいたほうがいいか?」
「その必要は無い。ふ、ふふふ。なんだっていうんだい。君に外性器を見られた程度で、僕がうろたえて悲鳴をあげるとでもいうのかい?」
「あげてたじゃないか」
「忘れろ」
命令形だった。すんません。忘れますからそんな怖い目で睨まないでくれ。
「ふふふ。そうだとも。体を見られたというだけの話さ。肉体的な苦痛なんかまったく無いし、至って問題無い。ああむしろ君が見たいのならこんな体いくらでも見せてやるさ。見るかい? 穴が開くほど見てもいい。もう穴は開いてるけどね」
「落ち着け佐々木」
「僕はいつだって落ち着いているよ。ああ、今だって冷静そのものだ。僕は常にそう在りたいと思っているんだからね。ふふ」
冷静なようには見えないけどな。なんか顔赤いし、目が泳いでるし、瞬きの回数も異常に多いし。
「だから落ち着けって。俺も忘れるから、お前も忘れろ」
「ふ、ふふふふふふ」
怖いよあんた。
「あのさ佐々木。ズボンを折り返せばなんとかスカートの中に隠れて外から見えなくなるんじゃないのか? それなら下にズボン穿いてるとかわからないだろうし」
「……」
佐々木はぽかんとした様子で俺を見つめていた。次第にその顔に俺への非難の色が浮かび始める。
「キョン、君はそれに気づいていて僕にそれを告げなかったのかい?」
「まさか?! 今思い出しただけだって」
「だろうね。僕の大切な友人である君が、まさか黙っているだなんてことは無いはずだからな。ははは」
「そうそう」
佐々木は鞄からさっき脱いだばかりの長ズボンを取り出した。
それを穿こうとわずかに前かがみになった時、また突風が吹いた。佐々木のスカートをめくりあげ、後ろに突き出された尻を顕わにする。
さらにスカートが腰の上に引っ掛かり、まるで自分でめくり上げて尻を誰かに見せ付けているようだった。
「……」
「いや、隠せ。固まるんじゃない」
俺は腰の上にひっかかっていたスカートを戻してやる。さすがに野外でケツ丸出しはまずいだろう。
「なんだかもうどうでもよくなってきたよ」
「こういう運の悪い日だってあるさ。元気出せ」
段々とかわいそうになってきた。
佐々木はスカートの下にズボンを穿き、裾を折り返してスカートの中に納めた。これでパッと見ならスカートの下にズボンを穿いているようには見えまい。
「よかったな。これで一件落着だ」
「なんのことだい? 今日は何も無かった。わかるね?」
無意味にきらきらとした瞳で俺をじっと見てくる。
こうやって見てると、こいつの顔立ちの可愛さがよく見てとれて少しだけ胸が弾んだ。
そんな可愛い女の子のパンツどころか、その中身まで見てしまったんだから、佐々木には悪いが俺の運勢は最高のようだ。
神様がいるなら感謝したいね。信じてないけど。
「キョン……。僕は忘れろと言ったはずだよ。どうして顔が赤いのかな」
無邪気な瞳で小首を傾げ、じっと尋ねてくる。
「いや、気のせいだろ。なに、たいしたことじゃない」
「そうか、ならいい。さて、僕はもう行くよ」
「大丈夫か?」
「はぁ? 何を言ってるんだいキョン。いつもの帰り道を一人で帰るくらいは普通だろう。幼稚園児でも出来ることだ。それともなんだい、君は僕を幼稚園児以下だと判断しているのか? 心外だね」
「そうじゃなくて、痛めた腰とかもう大丈夫なのか?」
「腰? なんのことかな」
「……」
何がなんでも無かったことにするらしい。
「ああ、まぁそんじゃ気をつけてな。家帰ってゆっくりしろよ」
「じゃあキョン。またね」
案外しっかりとした足取りで佐々木が去っていく。横断歩道を渡って、住宅街へと消えていった。
どうやら打ち付けた腰の具合はもういいらしい。まぁそれならそれでいいんだけどさ。
あいつ、妙に強がりなところがあるから心配だ。
住宅街へ入る角を曲がって消えていくその姿を見送って、はたと気づいた。そういや、あいつの傘借りっぱなしじゃないか。
俺は片手に持った濃紺の男性用傘が、佐々木のものであることに思い至った。
雨が止んだとはいえ、あいつが忘れていくとはな。
今ならすぐ追いつくはずだ。
俺はそう思って走り出した。道路から住宅街に入って佐々木の姿を探す。
すると、民家の塀に手をつけて目を閉じ、腰をさすっている佐々木がいた。その表情は、難問が解けなくて苦しんでいる数学者のようだ。
なんだよお前、やっぱりまだ痛いんじゃねぇかよ。
「おい佐々木」
声をかけるとびくっと体が震えた。どうやら俺がここに居るのがよっぽどおかしかったらしい。
「ど、どうしたんだいキョン」
慌ててまっすぐ立つと、佐々木はさも余裕でございとばかりに微笑みを浮かべた。こいつの強がりもここまで来ると金賞ものだな。
「やっぱお前、まだ腰痛いんだろ」
「なんのことだかわからないね。いい加減にしてくれ」
「そりゃこっちのセリフだ馬鹿」
恥ずかしい目に遭ってショック受けるのはわかった。けど、体が辛い時くらい誰かに頼ったってバチは当たらないぜ。神様が偏屈でない限りはな。
俺は佐々木に近づくと、背を向けて負ぶされと言った。
「キョン、君は何か勘違いをしているよ。君に背負われるいわれはまったくない」
「ほう、じゃあお前はまさに健康だと言うのか。だったらちょっとランニングでもしようぜ」
「……キョン。だから僕は」
「やかましい。グダグダ言ってると無理矢理抱え上げるぞ」
佐々木に近づいて、膝に手をかけようとする。
「わかった! 待ってくれ。わかったから」
「じゃあ素直に負ぶされよ。まだ腰痛いんだろ」
「うん、まぁ……多少は。でも迷惑じゃないかい?」
「迷惑なわけあるか馬鹿。ほら」
背を向けてかがむと、ゆっくりと佐々木が俺の背に体重をかけてきた。俺は佐々木の両膝の下あたりに手を差し入れて、ゆっくりと佐々木の体を持ち上げる。
鞄は佐々木に背負ってもらい、傘も佐々木に持ってもらった。
「重くないかい?」
「いや、全然。妹と大差ないな」
「……また妹さんか」
背の上で佐々木が小さく息を吐いたのがわかった。その意味はよくわからんが、とりあえず歩き出すことにした。
佐々木は遠慮してるのか、妙に体を離そうとするので余計に疲れる。荷物を持つのと一緒で、もう少し近づいてもらったほうが楽なんだがな。
そう告げると、佐々木がゆっくりと俺の肩に手を回してきた。
「君がこっちのほうが楽だというのなら仕方が無い。君に従うよ」
「そうしてくれ」
背負いなおすように、俺は軽く膝を伸ばして佐々木の体を揺らした。そうすると背負うのも多少楽になる。
「ううっ」
「あっ、すまん。もしかして痛かったか?」
揺らしたせいで腰が痛んだのだろうか。
「いや、違う。全然違うから気にしないでくれ。ほら、前を見て歩いてくれないか」
「ん、ああ。大丈夫なら別にいいんだけど、お前、痛い時はちゃんと痛いって言えよ本当」
「わかった、わかったから振り向かないでまっすぐ歩いてくれ」
雨が上がったかと思えば、今朝からずっと空を覆っていた雲が割れていくのが見えた。
金色の光が灰色を切り裂いている。ああ、もう夕焼けの時間なのか。随分早くなったもんだ。確かに夏至と冬至なら冬至のほうが近いしな。
雨上がりの空が広がっていく。山脈へ流れる雲は早く、現れた天頂の空は青い。けれど、空の端は地平から炎が沸き立っているかのような赤色を吹き上げていた。
「おお、綺麗だな」
「……うん」
佐々木の住んでいる地域が微妙に海と山が近いのもあって、住宅街へ向かうと段々と上り坂が多くなってくる。まぁおかげで夕日を見下ろせるんだけど。
「なぁキョン。疲れただろう。もういいよ」
「まだ大丈夫だぞ」
「……僕もずっと背負われてるとさすがに苦痛だからね。そこの公園で一休みしないか?」
佐々木が指差した辺りに、切り立った崖に臨むような公園があった。ちょうど都合よくベンチもあるみたいだったが、雨に濡れてて座れそうにはないな。
俺は公園に入ると、佐々木の体をゆっくり下ろした。
「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫さ。本当に、君がそこまで心配する程じゃないよ」
夕日を受けた佐々木の顔が赤く染まっていた。なんでだろう。雨上がりの夕日ってのは、普段の夕日より色が濃いような気がする。
別に変わらないと思うんだけどな。
佐々木はゆっくりと公園の崖側に歩いていった。そこにある柵に捕まって、落ちていく夕日をじっと眺めていた。
俺も釣られてその隣に立つ。坂が多くて嫌な街だが、こうやって高い場所から景色を見下ろせるのはなかなかいいものだ。
「なぁ佐々木。お前さ、情緒が欠落してるとかなんとか言ってたけど、夕日見て綺麗だと思うんだったら別に欠落なんかしてないんじゃないのか?」
「……さぁ、どうだろうね」
「なんかで読んだことがあるぞ。科学じゃ人が何かを綺麗だとかそう思う気持ちは説明できないとかさ。でも思うもんは仕方ない。だからまぁ情緒的だとかなんとかいって、大昔からありがたがってるんだろ。お前もそれでいいだろたまにはこうやってのんびりするのもいいぜ」
「そうかもしれないな。時には、理性に頼らず心に任せるのもいいかもしれない……」
「ああ、そうしとけ」
「でも生憎僕の性分じゃないのさ。こういうのも悪くはないけどね。だから、ほんの時々でいいよ。そうだな……その時、君が今みたいに隣にいてくれたら嬉しいかな」
早い雲と、流れ続ける強い風が佐々木の短い髪を揺らした。
佐々木は片手で髪を抑えながら俺を見て、普通の女の子のように微笑んだ。