「ほらキョン、朝よ」
寝ぼけた思考に介入する声。そして数瞬後には軽快な音を立てながら開かれるカーテン。朝日が目蓋越しからでも白んで見える。
「んぁ……」
「何て声出してるのよ、アンタは」
呆れたようにハルヒが声を上げる。その声に触発されてか起きようとするも眠たい、非常に眠たい。
というのも昨日は久しぶりの残業を食らったせいだ。久しぶりだからそのつけが回ってきたのか、と言わんばかりの仕事量で、その全てを片付けた時にはもう深夜に突入していた頃だった。
まあ、成り立てとはいえ社会人ではあるのだから、仕事に不満を言う事の無益さは理解している。疲れを後に引かないようにウチに帰ってさっさと寝ようとしていたところ、家庭に入って落ち着いたようにみえたがやっぱりトラブルメイカー、ハルヒである。
深夜に帰宅というのが相当に気に入らなかったようで、玄関を開けた先1mに仁王立ちしていたときには寒気を覚えたものだ。
確かに携帯の電源を切っていたため連絡がつかなかったのは俺の責任だろう。仕事での都合とはいえ連絡の一つは入れるべきだと言うその主張には大いに賛同したい。だがその失態の対価の要求として疲れた体にムチを打つ肉体労働を強いるのはどうかと思うんだ。
長々と説明してきたが、つまりのところ俺の眠気の大半の理由付けとしては、ハルヒの昨夜強いた肉体労働に帰結す――
「あ〜もう、うっさいわね! わざわざ声に出さなくてもいいのよっ!」
「ふぁ……」
「その態度気に入らないわ」
「いててててて……っ! わ、わかった起きる!」
「最初ってからそういえばいいのよ」
なんという暴虐なのだろうか。お前には世にはびこる癒し系ブームに大いに影響を受けてもらいたいね。
「よもやまた、あんな訳の分からない物がブームになるとは思わなかったわ。私思うんだけど癒しなんていうのは人によって変わる千差万別で曖昧な概念だと思うのよね」
「……まあ、それはいいんだが」
妙な理論を展開するハルヒを横目に布団をめくり体を起こす。幾分かぼんやりとするものの、くだらないやり取りをしたおかげか、随分と意識がはっきりしてきたようだ。
「ほらシャキっとしなさい」
「ああ、サンキュ」
ハルヒが差し出す手に引かれ、ベッドから起きる。寝ている間に乱れた俺のシャツがハルヒは気に入らなかったのか、手のひらで伸ばすようにシャツを撫で始めた。
「……」
「……ん、なに?」
「いや、別に」
「あ、寝癖も付いてる……しょうがないわね」
そう言って俺の髪に手串を通し、簡単にだが整えていく。その間俺は何も言わずにされるがままに大人しくしている。手持ち無沙汰に考えを廻らせた。
甲斐甲斐しい。いや、本当にそうなのである。あの涼宮ハルヒが、だ。
実に不思議な事だが、旧姓涼宮ハルヒとの共同生活は同棲3年、結婚後2年と5年程続いているわけだが、始まる当初俺は先行きにかなり不安を覚えていた。
中学時代は荒れに荒れ、高校時代は暴れに暴れたハルヒ。その実害をこうむってきた俺は、同棲と言う一見甘い響きのする単語を、どうしてもその響きどおりの期待を抱く事が出来ないでいた。
しかし、だ。始まってしまえばなんて事はない、予想とは一転して、俺は苦労など掛けさせられることが殆どなかった。むしろ俺が苦労をさせたほうだといえる。これには本当に意外であったという俺の主観を再度付け加えたい。
古泉が言うには、
『涼宮さんはその苛烈な行動から常識を持たない方と思われがちですが、それは間違いですよ。僕は逆に、彼女は周りに気の配る事が人よりも巧みではないかと思っています。
だからこの結果に、僕は疑問を感じてはいません。むしろ今の涼宮さんの姿のほうが自然であり、安定しているようにすら感じられますね』
なのだそうだ。
俺としては納得しづらい内容ではあるが、現に同棲を始めてから5年、閉鎖空間の発生率は減少の一途を辿り、今ではほぼ0に近いのだと言う。古泉の言ったことの裏づけとしてはもっともな結果だ。
それに5年たった今もなお日常で今のようなさり気無い気遣いと言うのをハルヒはたびたび見せる。同棲した当時は浮かれだの舞い上がるだのと理由を付けられるが、5年も続けば本物なのだろう。
あの涼宮ハルヒが実は尽くす女でした……なんて高校生だった頃の俺が聞けば噴飯物なんだがね。
過去に恋愛感情を気の迷いと断言したハルヒ。世の中と言うのは本当に分からないものである。
「よし、じゃあ着替えてからリビングに顔を出しなさい。朝食はもう用意してあるから」
俺が考えている間にハルヒの作業は終わったのだろう。軽く背中を叩いて着替えを促した後、そういい残し寝室から出て行った。
朝食、これもまた同棲が始まってから5年、ほぼ毎日変わらずに続く日常である。食事と言うのは食べる分には問題ないが、作るほうからすれば相当に手間がかかる物なんだがな。
などと考えながら俺はいそいそと服を着替えるのだった。
………………
…………
……
「ごちそーさん」
「おそまつさま」
箸を置きハルヒを拝むように手を合わせる。ハルヒは肩を竦めながら言葉を返し、後片付けをしていく。
食後のコーヒーを片手に、洗い場で食器が立てる音をBGMに、新聞に目を通しながら並行してテレビのニュースを眺めるも、特に目立ったニュースは見当たらない。
それでも市場の動きなどを見ておくのは、中堅どころとはいえIT企業に属している身としては嗜みと言った所だ。と、上司に言われて始まったルーチンワークだが、ほぼ形骸化している感は否めない。実際好んで読んでるのは芸能、スポーツだからな。
「む、楽○がまた負けたか」
俺は特にファンという訳ではないが、ハルヒの贔屓のチームが此処であるため、よく一緒に試合を見ることがある。こうなってくると不思議なものでなんとなく試合結果が気になってくるのだ。
昨日は残業で夜が遅かったため見れなかった分チェックしておかなければなるまい。
「あれ、キョン支度しなくていいの? そろそろ時間だけど」
「ん?」
いつの間にか片づけを終わらせたハルヒはタオルで手を拭きながらそんな言葉を口にする。
時計を見ると、確かにもうそろそろ出ないと不味い頃合だ。慌てて荷物をまとめる俺を横目にハルヒは、
「さっさと我が家の生活水準を上げるべく、馬車馬のように働いてきなさい」
そういって最近余り顔を出さないハルヒ『らしい』表情で笑う。
だから俺はお返しとばかりに、その昔古泉に指摘されて気付いた俺のクセであるらしい仕草で返してやった。
………………
…………
……
「さて、今日はこれで終了、と」
さすがに二日続けての残業を強いられることはなく、入社後支給された旧型ノートパソコンの電源を落とし帰宅の準備をする。窓から差し込む夕日が、ちょうど帰宅頃だというのを教えてくれるようだ。
早々に帰宅の準備を終え、さて帰ろうとしたところ、同期である同僚に声を掛けられた。
「ようキョン、帰りか?」
「おう」
軽く手を挙げ答える。
ちなみに社会に出てなお、俺の呼び名はキョンが大勢である。いい加減このあだ名から決別したいものなんだが。
「今日は早いんだな、昨日は遅くまで残業だったんだろ? さすがに今日も残業を強いるほど上司も鬼じゃないか」
「まあ、な」
「そっか、よしじゃあ付き合え」
「は?」
そういうなり右手が肩を抱かれる。正直男同士であるため美しくない光景だろうと思う。
「合コンだよ、合コン。ちょうど頭数が足りなくてな」
「合コン?」
「おうよ! 俺の大学のツテでな、今からあるんだよ」
「また急だな」
俺は眉間へ指を当てる。
「悪いが遠慮しとく」
「……キョンお前正気か? 結構綺麗どころもくるんだぜ?」
「そういう理由じゃなくてだな」
左手の甲を同僚の目線、見せやすい位置へともっていく。これで薬指に常時着用を義務付けられた、ある意味某RPGの呪いばりのシロモノがヤツにも見えるだろう。
「……なるほど。お前は自由なき男だったか」
「それにもし俺が出席して、アイツにばれようものなら」
「……すげえ怒られたりするのか?」
「いや、世界の終わりだね、そのときは」
「なんだそれは」
俺の言葉を大袈裟に感じたのか肩を竦めながら笑う同僚。まあ、大抵はこの例え話がマジな話であるとは夢にも思わないだろう。
「そういうわけだ、悪いな」
「……まあ、今ならまだ新婚なんだろうから、しょうがないな。これで当分お前は頭数には入れられないと言う事か」
「まあ、そうだな」
「仕方ない、健全な集まりがあった時には顔を出せよな」
「……それもアイツの機嫌次第なんだがね」
「はははッ! お暑いことで」
そういって同僚は俺の肩を慰めるように叩き、じゃあなと一言のこし去っていった。
その場に残された俺は、今度こそ帰宅しようと足を向けるが、胸ポケットからの振動による呼び出しに足を止められる事になった。昨日の事もあり、今日は電源を入れていた携帯を取り出し着信の相手を見る。と、それは意外な人物だった。
『どうも、こんばんは』
携帯越しから聞こえるのは昔から変わらない似非紳士の声。
『突然で申し訳ないのですが、これから少々お時間をいただけますか?』