Prologue.  
 
「つまり、こういう事ね。あんたはあたしの敵だー!」  
「って、出会い頭にいきなりアグレッシブ極まりない言動ぶちかますんじゃねー!」  
 
 いつも通りに道に迷い、予定通りに出会ったポニテ少女ハルハルに文字通り言葉と拳で語られる俺。  
 『………厄日か?』という疑問の後で『でも最近よく殴られてるよなー』という実感を得、『厄年だな』と下降修正する。あとは厄人生にならない事を祈るばかりである、………何に祈ればいいのか分からない時点でもう確定しているのかもしれんが。  
「あたし的結論では、ずばり、こうね! あんたがいるからあたしは迷子になるのよ!」  
 過程とか段階とかいろいろ大事なものを月面近くまですっ飛ばした結論をありがとう。………さて、出会って、というか一方的虐待が始まってもう半年、そろそろ殴り返しても許されるよな?   
「だって、迷子になるたびにあんたを見かけるんだもの。経験論から結論に至っても何の問題もないでしょう」  
 犯人を追い詰めた探偵のように、自信満々にビシッと音が出そうな勢いで俺に指を突きつけながらそうのたまう馬鹿。  
 昨今の政治体制並みに問題ありまくりだ。ご都合主義かつ実地主義、見切り発車にも程があるぞ。  
 
「大体、携帯があったら迷子になんかならないんじゃなかったのか? また電池切れか?」  
「………うっさいわね。あたしが迷子になったのにはそこいらのマリアナ海溝よりも深い訳があるの!」  
 おお、マリアナ海溝がそこいらに存在しているという衝撃の新事実が明らかになぐふぉっ!  
「あんた、困っている人間の、揚げ足とって楽しいかー!」  
 十分にタメを取りつつローリングソバットかましてくるやつが困ってるとは俺には思えんのだがなあ。  
「まあいい。そこまで言うならあえて素直に普通に直接的に聞こうじゃないか。何で迷子になったんだ?」  
「………」  
「………」  
「………携帯、落とした」  
 そこいらのドブ川より浅い理由だった。  
 
「あー、もう! あたしの事はいいから! あんた携帯持ってんでしょ。何とかしなさい!」  
「ふはははは。俺の携帯なら、たった今お前のローリングソバットで昇天なさったところなんだがな」  
「………」  
「………」  
「やんのか、ボケー!」  
「やったらー、ボケー!」  
 いろんな意味で法的には勝てると判断、ちょっとこの人生勘違い女を軽くどつき倒す事にした。  
 
 ………当然、軽くどつき倒されましたとさ、めでたくなしめでたくなし。  
 
 ///  
 
「えっと、あの、携帯壊して、ゴメン」  
 人様を親の敵のようにどつけるだけどついてから言う台詞じゃないよな、とは思うのだが、まあ誠意の有無はともかくとして、形だけでも謝れるようになったってのは成長と呼んでもいいのかもしれないね。  
 五十歩だろうが百歩だろうが前に進んでいる事に変わりはないし、それが俺の証だとするのならばそれだけで、傷ついた甲斐があるってもんさ。  
 
 脳内をふらつきながら飛び回る、そんなおかしな考えを空の彼方へ吹き飛ばそうと『いよっ』と声をあげつつ起き上がり、吹き飛ばせなかった分を地中深くに埋め立てるために適当な話を振る。  
「大体、俺はそんなにお前を敵に回すような事をしたわけじゃないだろ。お前の敵ってどんな風なやつなんだ?」  
「えっとね、眼鏡をかけた長身のハンサムで意味もなく尊大そうな上級生。生徒会長とかだったらなおいいわね。権力を嵩に弱小文科系部にイチャモンをつけてきたりすると素晴らしいわ」  
 ………即答かよ。つーか、えらく具体的な内容ですね。  
「この前、夢で見たの。凄くむかついたわ。………だから殴らせなさい」  
 接続詞を使っても接続出来ていないほどミラクルな結論ありがとう。ところで、  
「俺は見てのとおり、眼鏡でもないし、ルックスも標準程度だし、意味もなく卑屈な同級生だしで、どう考えてもお前の考える悪役とはかけ離れていると思うぞ」  
「うーん、………新キャラキボンヌ?」  
「不吉かつわけの分からん提案をするな!」  
 
 季節はもう冬、クリスマスがそこまで近づいてきている、そんなある日の夕方の、とある会話であった。  
(あと一週間くらいだってのに、面倒くさい事は勘弁してくれよ)  
 江美里や長門によると、目の前の少女は世界を作り変えたりだとか新キャラを登場させたりする力はないらしいのだが、そんな事が出来る存在と繋がっている可能性はあるらしいからな。  
 退屈だけだとイヤになるが、思い起こせばそんな日々が幸福だったという『よくある話』ってのは、本当に世界中にあふれているだろ。  
 胃がもたれるほどの刺激物はたまに食べるからこそ美味しく感じられるのだ。今更、世界改変とか新キャラとか言われても正直いろんなところがいっぱいいっぱいなのさ。  
 『せめて穏やかな結末を』と願う俺を、責められるやつなんていないだろうね。  
 そんな逃げる気MAXの結論に達し、話をそらせるために都合よく明日行われる『とあるイベント』に誘ってみる事にした。  
 
「お前さ、野球やる気、ないか?」  
「は?」  
 
 あとはまあ、こいつもちょっとは彼氏以外の友達を作ったほうがいいんじゃないかって思ったんだよ。  
 もしかしたらもう何人かはいるのかもしれんし、今からってのはちょいと遅すぎるのかもしれんがなあに、ギリギリの駆け込み乗車ってのは俺達がいつもやってる事だし、注意さえ怠らなければ致命的に進行方向が違う路線には乗らずにすむものなのさ。  
 
 
―――――――――――――――――――――  
喜緑江美里の消失〜the boredom of fake star〜  
―――――――――――――――――――――  
 
 
1.  
 
 さて、俺はハルハルを唐突に野球に誘ったのではなく、そこにはちゃんとそこいらの二級河川くらいには深い理由がある。  
 その理由を述べるために場面を今日の放課後までさかのぼらせる事にしよう、オーケー。  
「どうでもいいんだけどさ、ハルハルって、誰?」  
「ユー! がはっ!」  
「ノットオーケー!」  
 ………だから、そうやって言葉の前に手を出す癖は直したほうがいいぞ。まずはバーバルコミュニケーションってのが、人としての基本だろう。  
 
 ///  
 
「それでは、野球をやりましょう」  
「いやっほーう! アイムベースボールメーン!」  
 夏の暑さが恋しくなる事に人間の身勝手さを痛感出来る十二月のある日、江美里のいつも通りに過程を華麗にすっ飛ばした結論に反対するというマンネリ感あふれる展開を打破するために、あえてディスコティックなノリで飛び跳ねながら賛成してみる。  
「「「………」」」  
 草木が眠ってもここまではないだろうというほどの沈黙と、絶対零度を棒高跳びの選手のような美しいフォームで飛び越えた視線が、みんなのためを考えてお立ち台に上がった俺に突き刺さる。人生とはかくもままならぬものである、知ってたけどさ。  
 しかしまあ、提案者である江美里なら俺のノリにもノリノリってくれるだろう。  
 二人でともに乗り越えようと、期待をこめてアイコンタクト。  
「と、言いますか、何で賛成するんですか?」  
 華麗にスルーされました、ロンリー。  
「てか何だ、お前から誘っておいてその不条理極まりない質問は!」  
「いやがるあなたを無理矢理引きずり込むのが、わたしの存在理由です」  
「捨てちまえ、そんなアイデンティティー!」  
 いつも通りにボロボロな俺。お前らそんな俺にマンネリ感を抱かないのか? いやむしろ抱いてください!  
「うふふふ、そんなあなたが大好きですよ」  
「おやおや、これは『ごちそうさま』ですね」  
「仲良き事はいい事ですよー」  
「………らぶらぶ」  
「イジメだよな! 微笑ましい祝福と見せかけたイジメだよな、これ!」  
 
 俺がそんな感じで軽い絶望に沈んでいる間に、野球をするって事は結局反対票ゼロで決定していたらしい。  
 ただ、問題が一つといわずわんさか山積みなのは、これまたいつも通りのマンネリっぷりってやつなのかねえ。………マジ勘弁してくれよ。  
 
 ///  
 
 さて、そんなアルプスの少女もびっくりなほど山積みな問題のうち、最も重要で早期解決が望まれるシグナルレッドクラスのものといえば、やはり『これ』であろう。  
「人数は?」  
「何とかしてください?」  
「………いつまでだ?」  
「明日までです」  
 人員不足プラス時間不足、小規模組織の泣き所、超過勤務の予感はバリバリである。今の時代、どこも不景気だからなあ、………関係ないか。  
「だって、あと、一週間しかないんですよ」  
 まあ、そう言われるとどうしようもないので、とりあえず集まれそうな奴らをリストアップしてみる。たとえ倒産する事がほぼ確定していたとしても、やるべき事はちゃんとやらないとな。  
 
「あー、とりあえず、谷口を呼ぶだろ」  
「新川さんも来てくれそうですね」  
「あ、じゃああたしは鶴屋さんを誘ってみます」  
 野球をやるには最低でも九人は必要になる。集まれそうな面子はこれで、八人か。  
 外野を二人にしたら何とかなるかなと思うのだが、そうすると何故だか自分が外野を全速力で駆けずり回っているという想像が、近い未来に起こる現実になってしまう気がするので却下。  
 
 『何とかあと一人』と思いつつ、視線をさっきから無言を貫いている二人に向ける。  
「お前ら、俺達以外に友達いないのか?」  
「………」  
「………」  
 顔を伏せ黙り込む、長門と江美里の宇宙人シスターズ。気のせいか頭上に黒い縦線がかかっているようにも見える。………しまったな、もしかしたらこれ、言っちゃいけない事だったか?  
「じゃあ九人目はあなたが見つけてきてください!」  
 頭上の黒線を気合に類似したマイナス方向の何かで吹き飛ばしながら、最近の若者よろしくキレる江美里。『じゃあ』の意味が分からないのは仕様である。  
 ………仕様の割には、分からなくなる時は大抵俺相手に会話している時だってのは何でだろうかね?  
 
「今のはあなたが悪いですね」  
「発言にデリカシーがないですー」  
「………責任、とって」  
 今後の人生設計の中で割と大事になってくるであろう疑問を路傍の石ころのように放置されたまま、いつの間にやら四面楚歌な状況に追い込まれている俺。あと長門、人様が聞いたら誤解を招くような発言するんじゃありません。  
「分かった。訂正する。責任、とって、お兄ちゃん」  
「いやーん、お兄ちゃんに任せなさーい! ………はっ!」  
 恐るべきお兄ちゃんパワーだった。………ただの自爆とも言うが。  
 
「じゃ、確定という事で」  
「何というか、フォローの仕様がないですよー」  
「むー」  
 またまたいつの間にか四面を飛び越え八面くらいに楚歌的な状況に追いやられる俺。というか江美里さん、そんな刺さりそうな視線を向けないでくれないかな。  
「では、何故かわたしの手の中にある、この刺さりそうなナイフを、フォーユー」  
「ごめんなさいでしたー!」  
 ………脳の原始的な部分に今まで経験した事がないほどの危機を感じ、全力で土下座体勢に移行する俺であった。  
 
 ///  
 
「と、いうわけなんだ。アーユーオーケー?」  
「あーと、まあ、あんたが変態って事はオーケーだわ」  
「失礼だね、こう見えて、ぼくは結構紳士だよ」  
「………」  
 汚物を見るような目で見られた。やばいね、紳士的にゾクゾクする。  
「まあ、それはそれとして、野球ね、いいわよ」  
 あっさりとオーケーが出た。いや、俺はいいんだが、変態と思ってる奴の誘いにそんなにホイホイ乗っていいのか、お前?  
「別にいいんじゃない。何かあったら握りつぶすだけだし」  
 おお、具体名称が出ていないってのに、ゾクゾクが最高潮だっぜ!  
「あんた、大丈夫?」  
「失礼だね、こう見えてぼくは変態という名の紳士だよ、あひー!」  
「………おまわりさーん!」  
「あひー!」  
 こうして俺は、連行一歩手前まで行きつつも、どうにか紳士的に九人目をゲットしたのであった。  
 
「あ、もう一人、連れて行ってもいい?」  
「ん、いいけど、彼氏か?」  
「ば、そんなんじゃな………くもなければいいかなと………思うんだけど、どうなのかな?」  
「俺に聞くなよ」  
 ついでに十人目も、ノロケ一歩手前まで行ったのをどうにか抑えつつゲットした。  
 
 
 ま、とりあえず人員はこんなもんでいいか。  
 時間は、………その、………人生って、あきらめる潔さも大事だと思うんだ、うん。  
   
 
2.  
 
 さて、そんなこんなで試合前日は人数をそろえただけで終わってしまい、練習もミーティングもなくぶっつけやっつけ本番突入と相成るわけである。  
 ………そろそろ特技欄に『臨機応変』と書こうと思うのだがどうだろうかね? 実際はただの『行き当たりばったり』なんだがな。  
 
 一応大会について説明しておくと、試合会場は近くの市営グラウンド。参加資格は特になし。ようするに野球を楽しむ人用のぬるいお遊びのようなものである。  
 なるほど、こんな大会なら経験・練習ともにほぼゼロな俺達でも一勝くらい出来るかも知れんな。甘い考えかもしれんが、生きていくにはこれくらいの超楽観論が必要なんだよ、多分な。  
 そんな昼下がりの授業が自習になった時のような気合の抜けっぷりで一回戦の相手チームの練習風景を見る。  
 
 ///  
   
「セカンド! 飛びつかんかー!」  
「イエス、マム!」  
「何だこのボールは! おまえ野球舐めてんのかー!」  
「イー!」  
「違うっつってんだろうが! いいか! バッティングは、魂だ!」  
「ワンモアセッ!」  
 
 ///  
 
 ………なんというか、一言で表すと『うわあ』という感じの空気読めてない集団さんであった。  
「うふふふふ、相手にとって不足ありませんね」  
「ああ、不足なさ過ぎて、逆に相手にしたくないよな」  
 そうこうしているうちにこっちのチームのメンバーが集まってきた。空気読めてるかどうかはともかく、対処方法が分かってるぶんあちらさんよりはマシだろうね。  
 
「やあやあお二人さん! つるにゃん先輩が両手に花を持ってやってきたよっ!」  
「えっと、あの、おはようございます。………なんだか相手の人達、個性的ですね」  
「………駄目な方向に」  
 鶴屋さんがにゃはにゃはと謎な笑い声を上げながら、相手チームに見た目通り軽くひいている朝比奈さんと、見た目では分かりにくいが実は思いっきりひいている長門を連れてやって来た。  
 三人とも今日はよろしく。頼りにしてますよ、鶴屋さん、長門。  
「あれ、あたしは?」  
「朝比奈さんも頑張ってくださいね、応援」  
「えへへ、そこまで期待されるとなんだか照れちゃいますねー」  
 ………素直に喜ばれた。メンタル強い人だな、………フィジカル的には役に立たないだろうけど。  
 
「やあどうも、とりあえず一勝くらいはしたいですね」  
「と、いう事は、俺のポジションはピッチャーだな」  
「ふむ、ピッチャーは魂です。あなたにそれがありますかな?」  
「いや、魂って言われても」  
「ようするに相手チームを全員魂で呪い殺せばいいのですよ」  
「そういう事です」  
「おお、もう戦いは始まってるって事だな」  
 馬鹿団員が馬鹿執事と馬鹿クラスメイトをつれて馬鹿を言いながらやってきた。………頼むから犯罪だけはやらかさないでくれよ、特に馬鹿団員。  
「失礼ですね。今の会話のどこに犯罪性が含まれているというんですか?」  
 ………あえて言うなら、全部だが。  
「甘いですね。呪いは犯罪ではありません、文化なんですよ」  
 お前、もう帰れ。  
 
「ふん、とりあえず来てあげたから、全員この場に跪きなさい!」  
「おい、ハルヒ。意味の分からん横暴電波を発信する前に、まずは俺をここに連れて来た理由と、ここで何をするかを教えてくれないか?」  
「それは、あなたがキョンだからよ! する事は、えーと、青春?」  
「意味が分からん返しをするな!」  
「分かれやボケー!」  
「何でだー!」  
 バカップルがバカップルしながらやって来た。………つっこむ気力も残ってないし、もう好きにしてくれとしか言いようがないね、やれやれ。  
 
 
 しかし本当、向こうのチームと見比べてみると、ぼろ負けの気配がカルピスの原液なみに濃厚だよなあ、………色物度では完封勝利どころか完全試合を狙えるかもしれんがね。  
 
 ///  
 
 とりあえず例によって例のごとく、くじ引きで適当に打順と守備位置を決める。作戦を立てる必要なんてないからな、もちろん駄目な方の意味でだが。  
 
 結果、  
 1番:ピッチャー:朝比奈さん  
 2番:キャッチャー:古泉  
 3番:ショート:ハルハル  
 4番:サード:キョン(本物)  
 5番:センター:新川さん  
 6番:セカンド:俺  
 7番:レフト:谷口  
 8番:ライト:長門  
 9番:ファースト:江美里  
 出番な………、応援係:鶴屋さん  
 と、なった。  
 
「にょろっ、何だかあたしが谷口くんのような扱いだねっ!」  
 ………さりげなく毒を吐きますね、鶴屋さん。  
「まあでも、花火は散り際が美しいというかんねっ! 許してあげるっさ!」  
 いや、もう、………結婚してください。  
「………散りたいですか?」  
「や、冗談ですから、だから江美里止めてちょっとそれ刺さってるってばあー!」  
 愛の名の下に生きている俺は、ツッコミを入れるのも冗談を飛ばすのも、結構命がけなのだ。  
 ま、とりあえず俺の命のともし火が誰かさんに吹き消される前に、試合を始めるとしようかね。  
 
 
3.  
 
 審判が張りあげたプレイボールの掛け声とともに朝比奈さんが投球動作に入る。俺達は後攻なのでまずはあちらさんの攻撃からとなるのだ。  
 ちなみに、俺達の服装はそれぞれの学校が指定している体操服である。さすがにゴスロリやらバニーやらで野球は出来んからな。………約一名執事服の人がいるのは心のエアポケットに入れておいてくれ、俺もそうする。  
 
 そんな珍しく普通の服装をしている朝比奈さんは意外にも、経験者なのかと思われるほどスムーズな動作で大きく振りかぶり、  
「いきますよ、未来的ストレート!」  
 ………一球目から球種を堂々と宣言した。配球なんてありゃしねえ。  
 宣言通りに超級の絶好球がストライクゾーンど真ん中に来る。  
 キン、という乾いた音とともにボールは二次方程式のグラフに限りなく類似した綺麗な放物線を描きつつ、谷口の頭上を越えてフェンスにダイレクト。  
 はい先頭打者スタンディングダブル。『魔の一球』というか『間の抜けた一球』でいきなりピンチな俺達である。   
「そんな! あたしの魔球、未来的ストレートが、あそこまで簡単に!」  
 や、味方の俺が言うのもなんですが、あれは単なる棒球でしょうし、そもそもあなたは未来人ではないですよ。  
 といいますか、初回から敗戦処理投手が投げてるような感が粉塵爆弾一歩手前みたいに漂ってるのは何ででしょうかね?  
 
 二球目。  
「未来的カーブ!」  
 言いながら、さっきと全く同じ速度のストレートが相手バッターにクリティカルヒット。  
 とても素敵なデッドボールではいノーアウト、一塁二塁。  
「そんなバカな! あたしにはピッチャーの才能があるはずなのに!」  
 すみません、バッティングピッチャーの才能すら皆無のご様子ですよ。  
 
 ///  
 
 別に負けるのは構わないのだが、十字キーが壊れて動けなくなったシューティングゲームのように一方的に打たれ続けるのもなんなので、『誰でもいいから適当にピッチャー交代かな』と思い、マウンドに向かったところで敵ベンチから罵声が飛んできた。  
「引っ込め、へぼピッチャー」  
「野球舐めんなー! とっとと家帰りな!」  
「ワンモアセッ!」  
 ピッチャーマウンドで子供に虐められる子犬のようにおびえる朝比奈さん。  
 うん、まあ、相手ピッチャーをびびらせて投球ミスを誘おうっていう、そんな作戦もあるってのは理解出来る。  
 出来るけど、それは今の状況で必要な作戦だとは思えないし、必要だったとしてもやっちゃいけない事なんだよ。………あんた等の命に関わるからな。  
 相手チームの命を飲み込もうとするかのように、うちのチームのベンチから黒いオーラが吹き出している。見たくはないが今後の方針を立てるためにも確認しとかないといけないんだろうな、やれやれ。  
 ベンチの中でブラックオーラの噴出点こと鶴屋さんが、携帯に向かって薄ら寒いものを感じさせるハレハレ笑顔で話しかけているのを確認しながら、バカップル以外の内野陣をマウンドに呼び寄せた。  
 ちなみにバカップル二人組みは片割れが相手チームに突貫かけようとするのを片割れが止めている状況なのであえて呼ばなかった。なんつーか、………お幸せに。  
 
 ///  
 
「なあ、鶴屋さんは何を話しているんだ?」  
 マウンドに近寄ってきた江美里に聞く。  
「えっとですね、『うん、そう、球場を出たとこでねっ! ちょろっとだけ美味しくないご飯を食べてもらう事になっけど、ごめんねっ!』だそうですよ」  
「………いろんな意味でヤる気満々だな」  
 さて、相手チームの皆さんの命を守るにはどうすればいいのかね? どうして俺がそこまで気をまわさにゃならんのかという疑問とともに、どなたかファイナルアンサープリーズ、………古いか。  
「そうですね、朝比奈さんが勝利投手にでもなれば鶴屋さんも気を落ち着かせてくれるのではないでしょうか。あと、あなたのそれは『性分』というやつでしょうね」  
 微妙に間違っていないのが腹立たしさを増大させる、人型イライラ増幅器こと古泉からの返事である。  
 つーか朝比奈さんが勝利投手って、そんな人類にとって大きな一歩的な事を求められてもなあ。  
 
 相手チームの皆さんの運命をその肩に託されたっぽい、その朝比奈さん自身はといえば、  
「うーん、よく分からないんですけど、鶴屋さんがあたしを応援してくれているって事ですよね。よーし、お姉さん頑張っちゃいますよー!」  
 ああ、いろんな意味で人生楽しんでるよなあ、この人。………本当、役には立たないだろうけど。  
 風邪を引いた朝のようなもの凄い疲労感に襲われ、肺活量をフルで使用した溜息をつく俺に、江美里が珍しくストレートに優しい口調で話しかけてきた。  
「あなたなら、大丈夫、ですよ」  
「何がだ?」  
「さて、何がでしょうかね?」  
 よく分からない。  
 分からない、けど、こいつが大丈夫だってんなら、大丈夫なんだろうな、うん。  
 守備位置に戻り、気合を込める意味でグラブを三回、パンパンと叩く。  
    
 ………よし、そいじゃあ軽く、朝比奈さんを勝利投手にでもしましょうかね。  
 
 ///  
 
 三球目。  
「未来的ウルトラスーパーデラックスファイヤーボール!」  
 いろんな意味でタフさを見せ付ける掛け声とは裏腹に、超打ちごろな速さのストレートがストライクゾーンど真ん中に入ってくる。  
 キン、朝比奈さんにライナーで白球が迫る。普通であれば直撃から病院直行コース、相手バッターは鶴屋さんにより火葬場直行コース、なのだが、  
「ワンナウトです」  
 と言いながら、一塁ベース付近から瞬間移動した江美里が朝比奈さんの目の前まで迫っていたボールを素手で掴み取っていた。  
「ツーアウト、だ」  
 江美里はそのままくるりと反転、二塁ベースまで走りこんでいた俺に超高速でボールトス。  
「スリーアウトチェンジ」  
 そして俺がこれまたライトの守備位置から一塁ベースに瞬間移動していた長門にボールを送り、遊歩道を歩いていたら突然チュパカブラに出会ったサラリーマンのように敵走者が茫然自失になっている間にトリプルプレーの完成である。  
 
 ///  
   
 そんな若干反則気味のファインプレーにより無失点で一回表の守備を終え、羽毛一枚分ほど足取り軽めにベンチに戻る俺をご機嫌ハイタッチで迎えるハルハル。  
「だからハルハルは止めなさいって。………てかあんた、バッターが振った時にはもう二塁ベースに入ってたけど、一・二塁間抜かれてたらどうするつもりだったのよ」  
「大丈夫だ。江美里がいるからな」  
「何それ、信頼?」  
「………愛、かな」  
「えと、ごめん。なんていうか、キモい」  
「うん、自分でもちょっとそう思った」  
 人生に巻き添えチックなスリーアウトチェンジをくらいつつ一回裏、俺達の攻撃、開始である。  
 
 
4.  
 
「ふんふんふふふふん、ふんふふんふん」  
 先ほどの怯えはどうやら喉元を過ぎたらしく、ご機嫌な謎鼻歌とともにバッターボックスに入ろうとする朝比奈さん。  
「あ、ちょっと待ってください、駄目比奈さん」  
 先程の構えだけだった駄目ピッチャーっぷりを思い出し、不安の煙で脳内火災報知器がジリジリと鳴り出したので、慌てて呼び止める。そのため、名前を少しだけ間違えたのだが、………まあおおむね間違っていないし、別にいいだろう。  
「ふえ、何ですか?」  
 朝比奈さんは、駄目比奈な自覚があるのかないのか、特に気にした様子も見せずに何も考えてなさそうなケセラセラ感漂いまくる返事をした。  
「いや、大丈夫かなーと思いまして」  
「もー、あたしはそんなに弱くないですよ」  
「や、ルール知ってんのかどうかが不安なんですけど」  
「このバットでエクセレントにかっ飛ばせばいいんですよね」  
 日本の人口はという質問に『いっぱい』と返すくらいのアバウトな答えだが、まあ間違ってはないだろう、………かなり不安ではあるが。  
 
 投球練習を見る限り、どうやら相手先発ピッチャーは右オーバースローの本格派らしい。  
 ストレートの速さは素人目だが見張るに値するものである。しかし、変化球はコントロール出来ていないようで、キャッチャーが飛びつくように捕っている事も多い。  
「と、いうわけで変化球は捨てて、ストレートだけを狙っていきましょう」  
「はい、分かりました! ………ところで、変化球とストレートって何が違うんですか?」  
 ………野球はワンナウトからが面白いんだよな、うん。  
 
 どれだけシミュレーションしてもアウトという結果しか思いつかない朝比奈さんの打席。  
 チーム全員の期待を集めても1ナノグラムにも満たないであろう状況の中、相手ピッチャーが振りかぶり第一球を投げると同時に、朝比奈さんも大きく振りかぶり、  
「ちぇすとー!」  
 相手キャッチャーの頭部をホームラン狙いの全力アッパースイングで盛大にかっ飛ばした。  
 
 ―――朝比奈さん、退場。  
 
「いやー、野球って難しいですねー」  
「難しいのはアンタの思考回路だー!」  
 みんなの予想をいろんな意味でぶち抜いてくれた朝比奈さんであった。………最後まで役立たずであった事だけは予想通りだったのだが。  
 
 
「うーん、じゃ、まああたしが代わりに入るって事で」  
 そう言って朝比奈さんの代打で登場した鶴屋さんが舞を舞うような流し打ちで一・二塁間を抜き、ノーアウトランナー一塁。  
 つか、何気に凄いですね、鶴屋さん。  
 
 ///  
 
「ふふふ、次は僕ですね。魂というものを見せてあげましょう」  
 言いながら日本刀を握り締めてバッターボックスへむかう馬鹿泉。  
「………待て、せめてバットを持っていけ。頼むから」  
「おかしなことを言いますね? これは金属バットですよ」  
「どのあたりがだ?」  
「全てですよ」  
 ………こいつの全てがダメだ、もう何とかなんてしたくない、つーか、関わりたくない。  
 そのままバッターボックスに入る馬鹿。  
 あ、審判に咎められてる。………当然か。  
「チェストー!」  
 あ、切りかかった。  
   
 ―――馬鹿、連行。  
 
「僕はただ、自分が正しいって事を証明したかっただけなんです!」  
 パトカーにズルズルと引きずられていきながら、どう考えても間違えているとしか思えない言い訳をし続ける馬鹿泉。  
「分かったから、ゆっくりでいいから、とりあえず頭冷やしてこいな」  
 試合が終わった後で新川さんに迎えに行ってもらおうかね。………その前に自力で脱出してくる可能性が強いが。  
 
 ///  
 
「で、人数が足らなくなったわけだがどうする? このまま不戦敗とかなったら相手チームに明日はないぞ、いろんな意味で」  
「ふふふ、お任せください。こんな事もあろうかと助っ人を準備してあるんですよ」  
 言いながらクラスメイトの阪中をどこからか引っ張ってくる江美里。………どこからとか、いつの間にとかは聞くだけ無駄なんだろうなあ。  
「でもまあ、一つだけ聞いておくぞ。………強制連行じゃないだろうな?」  
「いえ、任意ですよ」  
「そうなのね。なんだか楽しそうだったから来てみたのね」  
 ………母さん、見てますか? えみりんに俺達以外の友達が出来そうですよ。  
「………何か失礼な事を考えていませんか?」  
「きのせいだよ」  
 棒読みバレバレな返答を、誤魔化しきれてないのを承知のまま押し通す事にする。無理が通れば道理が引っ込む、おまえ自身の行動から学んだ格言だ。  
 誤魔化し方策の一環として視線をそらし、バッターボックスを見る。  
 ………そこで、バットを加えた小型犬がイノセントな瞳で相手ピッチャーを見ていた。  
「待てや、こら」  
「大丈夫、ルソーは立派なボールドックなのね」  
「ボールドックはそういう意味じゃねえだろ!」  
「こんな事もあろうかとー!」  
「すげえ便利な言葉だな、それ」  
 不毛な言い争いをしているうちにフォアボールで出塁するルソー。ストライクゾーン、上下幅はボール一つ分もないからな、当然か。  
 しかし、なんつーか、付き合い良いよな、相手チーム。  
 
 ///  
 
「お前等ー、あんなふざけたチームに苦戦しているとはどういう事だー! 歯あ食いしばれー!」  
「イエス、マム!」  
「俺たちは最強だー!」  
「イー!」  
「勝つぞー!」  
「ワンモアセッ!」  
 
 ///  
 
 ………どうやらただ単に、引くに引けなくなっているだけのようだ。………十字を切った上で合掌、俺は無神論者だが、悼む気持ちに嘘はないぞ。  
 
 
5.  
 
 さて、場面は一回の裏のまま、9対0で2アウト満塁である。  
 ちなみにこの大会のルールでは、たとえ一回の表であっても10点差ついた時点でコールドゲームが成立する。  
 もしかしたらこの打席で勝負が決まるかもしれない。そしてバッター、俺。  
 
「おい、絶対俺まで回せよ」  
 どちらにせよ回らないのに騒ぐ馬鹿は無視。つーかこのイニングでのアウト二つは、お前がセカンドゴロダブルプレーでたたき出したんだろうが。  
「頑張ってくださいねー」  
 朝比奈さん、ありがとうございます。  
「頑張るにょろよー。もし駄目だったら………」  
 言いながら携帯を取り出す鶴屋さん。あれ、いつの間にか俺の命、急流滝つぼまっしぐらですか。  
「頑張って、お兄ちゃん」  
 お兄ちゃんパワーで滝つぼダイビングの恐怖は吹っ飛んだ。いやーん、お兄ちゃんに任せなさーい!  
「ふふ、バッティングは、魂ですよ」  
 ついでの古泉パワーで必要なやる気まで吹っ飛んだ。つーかお前、いつの間に帰ってきたんだ。  
「打たなきゃ罰金だかんねー!」  
「あー、誰だか知らんが、頑張れ」  
「執事らしくしたら、必ず打てます」  
「ルソーも応援してるのねー」  
「わん!」  
 お前ら好き勝手に言いすぎだぞ、………まあ、一応サンキューと言っておくけど。  
 
 ///  
 
 おもいおもいの特徴的な応援を受けつつ、相手チームがマウンドに集まっている間に考える。  
 つーか、『偽者』の俺が最後かもしれないこの試合、終わらしちまっていいのかっていう問題もあるんだよな。  
「いいですよ。終わらしちゃってください」  
 江美里、お前が決める事じゃないだろう。あと、宇宙人な方々は俺のモノローグを勝手に読まないで下さいますか。  
「あなたが決める事でもないですよね?」  
 後半無視で話を進める江美里。まあ、言ってる事は正しいと思うけど。  
「結局、誰が決めるってわけじゃないんですから、全力であなたの結果を見せてください。………それに」  
 それに?  
 
「わたしにとっては最初から、あなたが『本物』なんですよ」  
 
 ………そっか。  
 その言葉で不必要な力が抜けて、必要な気合ってやつが充填されていく。  
 どうやら俺にとっちゃあ空気よりも大事っぽい『えみりんパワー』も満タン入りましたって感じだし、んじゃまあ、さくっと俺らしく、俺達らしく終わらせるとしますかね。  
 
 ///  
 
 バッターボックスに入り、相手ピッチャーを見据える。相手はもう三人目、というか本来ピッチャーではないやつが投げている状態だ。  
 まあ、長門がホーミングモードなどとのたまいつつ、相手先発ピッチャーの顔面にライナーをお見舞い(投内野安打)したり、江美里がファウルボールを相手の控えピッチャーにぶち当てまくったりした(その後スリーラン)せいなんだが。  
 相手ベンチに累々と横たわる死人群。とりあえず試合が終わったら長江美コンビに彼等の治療でもお願いしようかね。  
 さ、今後の方針(主に後始末の)を立てたところで、今は余計な事は考えず、目の前の一打席に集中するとしよう。  
 
 相手ピッチャーが振りかぶると同時に、短く持ったバットを構える。  
 俺みたいな毛すら生えていない素人は大振りしてもまず当たらない。  
 出来る事と言えば当てて走る事くらいなのだから、確実にそれを行うだけだ。  
 
 ///  
 
 相手ピッチャーがセットに入る。  
 はじけ飛びそうな心臓を押さえつけながら絶対にボールから視線を外さないよう、見る。  
   
 そして、ピッチャーから放たれる第一球。  
 明らかにそれと分かるボール球。  
 それでも、舞い上がった体は勝手にバットを出そうとする。  
 
 
 それを、  
『あなたが『本物』なんですよ』  
 頭に響く彼女の声が、しっかりと押しとどめてくれた。  
 
 
 声によりバットが止まり、  
 止まる事のないボールはそのまま、  
 キャッチャーミットから大きく外れてファウルゾーンを勢いよく転がっていく。  
 
(………あれ?)  
「あー、えーと、あたしホームインしちゃったんだけど、もしかしてこれで終わり?」  
 サヨナラワイルドピッチ、10対0でコールドゲーム。  
 もう本当に何ていうか、『あれ?』のまま、試合終了である。  
 
 
 でもまあ、自分の力以外の要因で一番大事な部分が終わってしまうというのは、もしかしたら一番俺達らしい結末なのかもしれないね。  
 俺達じゃなく審判が告げるゲームセットの掛け声を聞きながら、『こんなもんかな』と改めて『終わり』を受け入れた俺であった。  
 
 
Epilogue.  
 
 さて、こうして見事に一回戦を勝ち抜いた俺達であったが、もう野球は十分だろうという結論の元、相手チームに勝ちを譲って解散する事にした。  
 まあ、疲れたとか、お腹すいたとか結論に至る理由はいろいろあったのだが要するに、だ。  
 俺達は退屈な時間を楽しく過ごすために野球をし、そして楽しんで満足した。  
 だから、あとは真剣に野球をしている人達にお任せするのさ、餅は餅屋………ちょっと違うかもしれんが大体そんな感じだ。  
 
 ///  
 
 そんなこんなで無事というと語弊が生じない事もないが問題はないだろうという微妙なラインを保ったまま俺達のプレイボールは終わり、打ち上げにむかおうと出口に通じる階段を上っていく途中であった。  
 
 前兆も前振りも伏線もなく、それは起こった。起こってしまった。  
 
 本物の『俺』が、俺の隣を歌舞伎役者もかくやといわんばかりに惚れ惚れするほど綺麗な階段落ちをかまし、あたりが一瞬静まり返ってしまうほどの良い角度と音をもって床に頭を打ち付けた。  
 何が起きたか理解するというか『え?』と思うより先に、俺の隣を光速ですり抜けて行くポニーテール。  
 
「ちょ、何してんのよ、キョン」  
 へんじがない。ただのしかば………つーか、本当にそうなりそうだな、こりゃ。  
「え、何? 何で? やだ。やだよ、起きなさいってば!」  
「おい、待てって!」  
 答えない彼をシェイカーのように揺さぶろうとした彼女を慌てて止める。  
「何よっ! 放しなさいよ!」  
「頭打ったんだったら、揺すらないほうがいい」  
「あ、………でも、………ううー」  
 いつもの自己中心的言動からは考えられないほどに、本当に借りてきた猫のようにしおらしくなる。  
 まあ、これが本来のこいつなのかもしれない。確かめる術も、そんな気もないけれど。  
 
 ///  
 
 古泉が救急車を呼んだらしく、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。一向に音の変化がないように聞こえるドップラー効果にいらつかされる。  
 誰だってハッピーエンドを望んでいるはずなのに、どうしてこの世界はこうも上手くいかないんだろうか?  
「『機関』の息のかかった病院です」  
 今となっちゃもう、どうでもいい報告だな。  
「始まったんでしょうか」  
 ………終わったんだろ、あるいは終わりが始まったんだ。どっちにしろ、もうどうしようもないのは分かってただろ、お前も。  
 ぎゅっと右手をつかまれる。その温度で、手の感触でそいつが誰なのか今の俺には分かる。  
「あと、一週間、ですね」  
 右手の先で江美里が俺を見ている。俺はそんな江美里を見る。  
 たとえ五感全てを失おうとも感じる事が出来るであろう存在と、ともに、在る。  
 そんな当たり前の事が、あと一週間もすれば、出来なくなるのだ。  
 
 
 ああ、言い忘れていたんだが、  
 どうやらあと一週間以内に、  
 
 ―――この世界は、終わるらしい。  
 
 
「キョン、………キョン」  
 小さな、だけれども耳に刺さるそんな願いが、心に痛い。   
 ああ、もう本当に上手くいかない。  
 『せめて穏やかな結末を』と、俺が望んでいるのはそれくらいだってのになあ。  
 
 

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