「……長門、局地的な何たらとやらで晴らしてくれないか?  
多少気候変動おきてもかまわないから」  
「……不可能ではない。ただし……」  
 
 八月も終りへと近付き、休養期間と引き換えに押し付けられた課題と奮闘する日々に突入し、  
切迫した進行状況からの現実逃避という息抜きと、読書感想文の消化を兼ね、オススメの本はないかと  
長門のマンションにお邪魔しているわけだ。  
 お目当ての書籍を借り出し、差し出されたお茶を飲み終えて腰を上げた際にふと思い出したのが  
今日の皆既月食であり、二人で連れ立ってベランダに出たもののあいにくの曇天。  
 そして冒頭の会話へと繋がる。  
 
 ただし、推奨はしない、か? なら無理しないほうがいいな。  
 安易に長門を頼るつもりもなく、軽い冗談だったんだと長門に笑いかけると――、  
 
「……そうではない。条件がある。月食が終わるまで振り向かない事」  
 
 それはどういう――?  
 
 俺の疑問を遮るように、長門の指が空に向けられ――  
 ――雲の切れ間から少しだけ欠けた月が顔を覗かせていた。  
 
「あぁ……キレイなもんだな、長門」  
「…………」  
 
「長門? 一緒に見ないのか?」  
「…………」  
 
 シュルッ。パサッ。パサリ……。  
 
 遠くの街の喧騒と……背後からの衣擦れ、柔らかな布の落ちる音。  
 な、長門!?  
 
「…………」  
 ヒタリ……ヒタリ……。  
 
 素足で近付いてくる足音。凍り付いたように、欠けていく月から目を離せない俺。  
 なにがおこってるんだ!?  
 
「…………ん」  
 夜空からの光量が最小限になった頃を見計らうように、腰から腕が廻されて――、  
 俺の胸に這わせた掌とで、挟み込むかのように背中に押し付けられた柔らかな――、  
 
 
 月食の魔法は長くは続かなかった。  
 月が形を取り戻すのに併せて月光の妖精はスルリ離れてしまい、  
 先ほどと逆廻したような衣擦れの音を聞きながら、天体ショースペクタクルに釘付けだったはずの  
俺の瞳は何を眺めていたのか思い出せずにいた。  
 赤かったのか蒼かったのか、丸かったのか欠けてたのか、柔らか……やれやれ。  
 
 幕を降ろすように月が再び雲に隠れ、意を決して振り向いた先には、  
何事もなかったように夏服で佇む長門……まぁ、真夏の夜が見せた夢だったんだろうな。さっきのは、さ。  
 
 おいとまする前に、もう一杯と勧められたお茶を注ぐ長門が、ほんの少しだけ不機嫌そうに見えたのも幻だろう。   
 
 玄関まで見送ってくれた長門の唇が、ドアが閉じる直前に小さく動いたのも……幻であり、それ以外のなにものでもない。  
 月を覆い隠した曇天のように、胸の置くから沸き上がってくるモヤを振り払いながら、俺は家路へと自転車を漕ぎ出した。  
 
 
「……いくじなし」    
 

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