我らがSOS団(涼宮ハルヒの(S)お守りをする(O)SFな人たち(S)の略ではないのであしからず)の団長は季節行事が大好きであり、知識だけに軽んじず身を持って体験しようとする姿勢は評価できるのだが、だからと言って俺らまで巻き込むのは如何なものかと思う。
季節行事が行われるのは例外を除き祝日で、祝日と言うことは俺の大好きな休日で、と言う事は砂漠に降る雨よりも貴重な俺の休日はSOS団の活動によって道端の雑草を踏むようにあっさりと潰れるのである。
しかもこの団長は祝日なのに行事がなかったら自分たちで作っちまおうという人で、みどりの日に因んで苗字に緑が付く人を探して見つけたら褒め称えるという“行事”を開発した。
新聞の日には新聞を作ったりもしたから祝日や祭日に拘る必要はなく記念日であることが重要なのかもしれないな。ハルヒの奴は。
俺はハルヒが記念日についての雑学書を読まないことを祈るね。
こんにゃくの日とか鉛筆の日とか365日はつまらない理由で全部記念日なのだ。毎日行事を作られたら困るだろう?
「さて。僕からしたら季節行事もこうしてみんなで集まることも大して変わりはないと思うのですが」
どれだけ曖昧な判定基準だ。さては若手アイドルの顔の区別がつかないだろ。
「僕は白黒付けたがる性格なので判定基準は厳しいと思いますよ」
古泉は苦笑するように唇を歪めた。ボールを真上から落としたように橙色に染まった太陽はガードレールへ着地しようとしている。銀色の月を思い出させる冷たい風が俺と古泉の間を通り抜けて行った。
もう少しで夜だ。夕方と夜の境目は混ざり合う絵の具のように徐々に移ろうが、ある一つの境目を越えたら急激に変化する。たぶんこれが、最後のチャンスだ。
俺の呟きに重なるように、元気を撒き散らすハルヒの大声が聞こえた。
「ラストチャンスよ!」
俺と古泉と長門は無言のまま定位置に付き、坂の上を見上げた。坂の真上には仁王立ちで俺らを見下ろすハルヒと、顔がすっぽりと隠れそうな大きなヘルメットを付けた朝比奈さんと、中古屋で1000円で売られていそうなボロボロの自転車がある。
朝比奈さんは学校指定の赤い長袖ジャージを気合を入れるように捲くった後、不安げにハルヒを見た。ハルヒは朝比奈さんの視線を受け、俺らに目配せした。
「さぁ、みくるちゃん。風になりなさい!」
ハムスターの鳴き声のような甲高い朝比奈さんの悲鳴がした後、自転車は橙色の太陽に向かって夕方を駆け抜けていった。
駆け抜けたいわねぇと頬杖を付きながらハルヒが呟いたのは昨日のことだ。部室には普段通りに本を読む長門とメイド姿で急須を操る朝比奈さんとオセロで俺に負けている古泉が居る。
ハルヒはパソコンの前に陣取り、ディスプレイに足を乗せて腕を組んでいた。
「駆け抜けたいって、何をだ?青春をか?」
「何言ってるのよキョン。青春は駆け抜けるものじゃなくて駆け終えるものなのよ。そうじゃなくて、あたしがやりたいのはもっとパーッとする」
サイクリング、とハルヒが呟くのと同時に朝比奈さんはお茶を俺の前に置いた。じとーっとしたハルヒの視線を感じる。
「いつもありがとうございます」
「いいえ。こちらこそいつも残さず飲んでくれて嬉しいです」
笑う朝比奈さんの後ろには後光と小花が飛んでいる。天使を超越して女神になった朝比奈さんが淹れてくれるのなら砒素入り紅茶だって残さず飲むね俺は。
「ふん、あんたはホウ酸団子でも食べてればいいのよ。みくるちゃん、自転車持ってる?」
俺と長門と古泉を無視して話を詰めやがった。まぁ、訊かれたってサイクリングをすることは決定しているし、長門も古泉も、そして勿論朝比奈さんも断る訳はないのだが――
「その……自転車は、あるんですけど……あの……あぅ」
朝比奈さんは口に手を当てて俯いてもじもじしていた。恥ずかしいけどでも一生懸命告白します!とでもいうような仕草に、俺は暫く朝比奈さんと想像の中で伝説の木の下に居たのだが、古泉が口を出したせいで木は枯れ俺の妄想は途切れた。
「涼宮さん、朝比奈さんは自転車に乗れないんですよ」
古泉の言葉に朝比奈さんは顔を赤く染めながら頷いた。未来には自転車なんてないだろうから仕方ない。それに正直な話、朝比奈さんは運動神経が悪いからなぁ。
「そう――あれ?でも前に自転車に乗ったじゃない。夏に古泉君と二人乗りしてたでしょ?」
「後ろに乗るのは大丈夫なんですけど、自分で漕ぐとバランスが取れなくなっちゃうんです。ペダルを漕ぐのに集中しちゃって、そこまで気が回らなくなっちゃって……」
朝比奈さんの言葉を最後まで聞かずに、ハルヒは椅子から飛び上がり宣言した。何を宣言したかはわざわざ記さなくて良いだろう。
逆上がりの出来ないクラスメイトにお節介を焼く運動神経抜群の小学生宜しく、ハルヒは朝比奈さんを体育服に着替えさせ駐輪場に置いてある自転車を拝借して学校の近くにある長い坂道まで俺たちが一言も発する隙を与えず連れて行った。
さて、自転車の練習ではよく
「絶対手を離さないでね!ちゃんと倒れないように自転車を支えててね!」
「大丈夫だって、離さないよ〜。私があんたを裏切るわけないじゃん」
「本当?絶対だよ」
「うん(と言いつつ手を離す)」と言う事がお約束のように行われるわけだが、ハルヒの場合はむしろ反対である。
ハルヒだけには絶対に自転車を支えられたくはない。
自転車が安定性を保てるようにバランスを取る手伝いなど全くしないことはおろか、思いっきり自転車を押した後、自分も後ろにまたがり暴走車並みのスピードを出して坂道を疾走するというトラウマを植えつけられそうだからだ。
なので俺はハルヒが自転車を支える役になるのは反対したのだが、だからと言って古泉がやるのはムカツクし朝比奈さんは長門が苦手だし俺は古泉に止められるので結局はハルヒになった。
互いに足の引っ張り合いをした気がするが、ハルヒ以外には適任が居ない気がするので仕方ないのだろう。
俺と長門と古泉は自転車の傍に居て、倒れた自転車を支える役になった。
「痛っ」
朝比奈さんと朝比奈さんが乗った自転車とハルヒが大きくバランスを崩した際に駆け寄った俺は、自転車に圧し掛かられアスファルトとディープキスをすることになった。
右頬に大きなかすり傷が出来、これまた大きな絆創膏で覆っているのだが、顔の筋肉を動かすと微かに痛んだ。
「大丈夫ですか?」
いつもの晴れやかな笑顔で声をかける古泉は怪我一つ負っていない。ハルヒも朝比奈さんも長門もみんな負っていないので、怪我人が俺だけで良かったと見るべきだろう。
「あぁ……それにしても遠いな。どこまで行くんだ?」
「もう少しです。あのカーブを曲がって暫く進んだら見えてくるでしょう」
俺は先行して進むハルヒと朝比奈さん、その後ろで本を読みながら漕いでいる長門を見つめた。
朝比奈さんは特訓の成果で直線距離では自転車を漕ぐことに成功したものの、カーブや曲がる事が出来なかった。
ここまでしておいて何だがサイクリングだからといって一人乗りをしなければいけないわけではなく、依然と同じように二人乗りで行けばいいのである。
俺がそのことを告げるとハルヒは憮然とした顔になって怒ったが、まぁすぐに収まった。
朝比奈さんはハルヒの後ろに乗ることが決定し(それはそれで危なそうではあるが)無事にサイクリングは決行された。
木の葉の間から零れ落ちる光は海で泳ぐ魚のように揺らめきながらアスファルトの上で踊っている。太陽、雲、温度。どれを取っても最適なサイクリング日和で、ハルヒも偶には良いことを思いつくじゃないかと思っていた。
「ひゃー!いい風ねぇー。有希、本を読みながら運転するのは危ないわよ」
「大丈夫」
ハルヒの大きな声と長門の囁く声が風に乗って聞こえてくる。
朝比奈さんは帽子を押さえながら緩やかに形を変える雲を見つめていた。笑顔のマスクを貼り付けた古泉でさえも、いつもより楽しそうだ。
SOS団はそれなりの事件に関わってきた。いや、事件を起こしてきた。だが今回はそんなことはないだろう。
普通に頂上に行って朝比奈さんお手製の弁当を食べて森の中で遊んで陽が落ちかけたところでこの道を逆送する。
そう終わると思っていた。だって、事件は予期出来ないものだからな。
人間は何も事件が起きないように祈ることしか出来ないのだから。
――だから、俺はその次に起こることを想像することが出来ずに“今”を過ごしていた。
急ブレーキの音。
ハルヒと朝比奈さんの悲鳴。
俺と古泉は顔を見合わせる暇もなく駆けて行った。
自転車の下敷きになって倒れているハルヒと泣きながらハルヒに寄り添っている朝比奈さんとハルヒに顔を近づけている長門が居た。
朝比奈さんは喚きながらハルヒを揺り動かしている。ハルヒの白い足からは赤い血が流れていた。
朝比奈さんが被っていた麦藁帽子が青い空に流されて行き、小さな点となって染みを作った。
朝比奈さんを泣かし、長門の無表情を崩し、古泉から笑顔を奪ったハルヒはあっさりと起き上がった。しかし足は無事とはいかず、包帯でぐるぐる巻きにされた足がペダルを漕げるとは思えない。俺たちは一回休憩にし、作戦会議を開いた。
「涼宮さんの足は大丈夫ですか?」
「掠り傷と切り傷だけ。骨に異常はない。足以外に負傷している箇所は見つからない。安心していい」
「頭を打って脳内の血管が破裂してるとかそういうのはないんだな?」
「ない」
「そうか……」
俺たちといっても会議に参加しているのは俺と長門と古泉だけで、ハルヒと朝比奈さんは少し離れた木の影で座り込んでいる。
俺たちは自転車に異常がないか調べるふりをして会議をしていた。
馴染みになった三人だけの舞台裏の会議だが、今回は受験会場のように緊迫した空気がある。
「長門の能力で傷を治せるだろう?それでハルヒを治してやってくれないか」
「ですがそれは不自然です。すぐに治るがはずのない傷が治ったら涼宮さんも怪しむでしょう」
俺は古泉を睨んだ。何で怒っているのか自分でも分からない。
俺を見やりながら古泉は言った。
「それより、自転車はどうしましょう。涼宮さんは漕げませんし朝比奈さんも無理です。彼女たちは僕たちの後ろに乗せるとして、自転車を置いていくわけには行きません。後から機関の人たちに取りに来て貰う事も出来ますが、その間に盗まれる可能性があります」
「お前に借りを作る気にはなれない…………長門、お願いできるか?」
自転車の壊れている箇所を直していた長門は俺の言葉に深く頷いた。
さぁ、ハプニングが起こったが気分を取り直してサイクリングを楽しもう――という意味を込めて俺は背伸びしたのだが、やはり俺の気は晴れず、古泉も長門も暗い面持ちのままだった。
「どうした?何か言いたいことがあるのか?」
「いえ、別に……」
古泉は珍しく歯切れの悪い回答をしながら、涼宮さんはどうして転んだんでしょうかと言った。
おいおいそんなことを考えてたのかよ。それよりももっと考えることがあるだろ。
例えば傷とか傷の具合とか傷の様子とか――あれ?何で傷ばかりなんだ?いやだって傷だぞ傷。あの涼宮ハルヒが怪我をしたんだぞ、そりゃあ考えるだろう。
でも何でこんなに考えてるんだ俺?
無限ループを繰り返しそうになった俺の思考を止めたのは、古泉の衝撃的な言葉だった。
「涼宮さんは、わざと転んだんでしょうか」
こいつは真面目な顔をしながらそんなことを言いやがる。
俺は思わず拳を握り締めたが、食い込んだ爪が肉に抉り込む前に長門が答えた。
「先ほどの事故に涼宮ハルヒの意識的介入は感じられない。あくまで、アクシデント」
長門の光のない深海のような目が、今は俺の意志に同調するように温んで見えた。
あぁ、そうだ長門。お前は正しい。
涼宮ハルヒは、SOS団の団長は、俺たちを振り回してこき使ってストレスを貯めさせて肉体的にも精神的にもボロボロにしてきたが、でもそれは結果的な事であって、
――あいつは、あの馬鹿は、俺たちを傷つけるようなことだけは絶対にしないんだ。
長門の言葉を聞き、古泉は安心したように溜息を吐いて微笑んだ。
「良かった。言っておきますけど、僕も好きで涼宮さんを疑ったわけではありません。僕も団員として団長である彼女を信頼していますからね。ただそうすると、気になることが出てくるんです」
古泉は長門に視線を向け、すぐに俺へと戻した。
「だとすれば長門さんはどうして涼宮さんたちに駆けつけるタイミングが遅かったのでしょう?長門さんならば涼宮さんたちがバランスを崩した段階で駆けつけることが出来たはずです。それをしなかったのは、どうして?」
長門はいつもの無表情で古泉を見て、次に俺を見て、暫くぼうっと空に留まった後、もう一度俺に視線を向けた。
いつもと変わらない表情だが、俺には長門が今までに見たことのない感情を浮かべているのが分かった。
失敗を犯さない制御されたロボットなら感じることのない感情――後悔。
長門の、普段よりも低い声がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「わたしはその時、本を読んでいた。少々本に集中していた為、反応が普段より遅れた。ごめんなさい。次からは控える」
俺は何も言わずに長門の頭に手をのせた。細い髪がさらさらと指の間を流れていった。
「ちょっとーもっと早く漕ぎなさい。そうね、あの鳥と競争するの!」
ハルヒが指差した先には見たことのない鳥が居た。カラスと同じ大きさの茶色の鳥は風を切るように滑らかに進んでいる。
「おい、揺らすな。転ぶぞ、また転ぶぞ」
「大丈夫よ。やっほーみくるちゃんー!昨日を思い出して真剣にやれば大丈夫だからね。今度こそ風になるのよ!」
ハルヒは俺たちより先に行く朝比奈さんに向かって手を振った。朝比奈さんは聞こえているのだろうが恐くて振り向けずに何とか手だけを振っていた。朝比奈さんの横には長門が付き、古泉が先頭を勤めている。俺らは殿という訳だ。
「んーでもほんとに大丈夫かしら?カーブは何とかいけると思うけど、曲がるのが心配なのよねぇ」
お前と違って朝比奈さんは真っ直ぐしか進めない純粋な人だからな。
「うるさいわよ。足蹴ってやるから」
ハルヒは足を振り上げたが、包帯が巻かれているのを見てすぐに下ろした。
朝比奈さんは長門に“呪文”をかけてもらい重力がなんたらかんたらということをしてもらって、安定して自転車を漕いでいる。
転ぼうとしても転べないらしい。それはそれで危ないと思うのだが、隣に長門が居るので大丈夫だろう。
長門は本を自主封印して爽快に自転車を漕いでいる。古泉の姿は良く見えないので分からない。まぁいつものキザな笑顔でキザな調子に自転車を漕いでいるのだろう。
ハルヒは普段より高いテンションで俺の後ろに居る。なし崩し的に俺がハルヒと二人乗りすることに決まったのだが、誰も反対しなかったので一番良い組み合わせなのだろう。たぶん。
ハルヒは言葉のマシンガントークをぶっ放しながら俺の防具をボロボロにした。いつもより激しい。俺はハルヒを牽制するために、
「だからそんなに揺らすな。また転んで、今度は俺らが長門にぶつかって長門が怪我するかもしれないぞ」
と言った。
「……………馬鹿キョン」
そう吐き捨てたきりハルヒは喋らなくなった。突然喋らなくなったことに驚いたが、傷が痛むのだろうと解釈して放っておく。
空は青い。風は気持ち良い。ハルヒではないが、確かに最高のサイクリングだ。
一人の世界に浸っていた俺を引き戻すようにハルヒが言った。
「ねぇ、」
何だよ。
「ごめん」
何が?
俺は振り向いた。ハルヒは俯いて、家族の旅行に置いて行かれたペットのようにしょ気ていた。明るい黄色のリボンが今のハルヒには全く似合っていなかった。
「あんたに怪我させちゃったじゃない。それにみくるちゃんも転ばせちゃったし、みんなに心配かけちゃったしね」
だから?
「……ごめん」
ハルヒの声は沈んでいた。
さっき言ってはいけない事を言っちまったんだなと後悔した俺は自転車を止めてもう一度ハルヒに振り向いた。
朝比奈さんや長門や古泉は俺を放って先に行った。俺が止まったことに気づいているが、気をきかしてくれたのだろう。
ハルヒは俺のTシャツを握り締めて俺の背中に顔を擦り付けていた。
ハルヒが嗅ぎたいような良い匂いはしないはずだが、そんな理由で顔を押し付けているわけではないことくらい俺にも分かる。
鼻をすする音が聞こえる。
俺はこんなハルヒを見るのは初めてで、だからどうすればいいのか分からなくて、例えば神人はめちゃくちゃ暴れているのだろうかとかそんなことは全然思ってもいなくて、ただハルヒに背中とTシャツを提供することしか出来なかった。
入学初期のようにツンケンしていたハルヒには勿論中学校の友達など居なかっただろうし、小学校では居たのかもしれないが、居たとしても俺らのような関係ではなかったのだろう。
ハルヒは初めて、不注意とはいえ友達を自らの手で事故に巻き込んだのだ。
俺はどうすることも出来ずに空を眺めた。
俺が今したいことはただ一つ、ハルヒを笑わせることだ。こんな風に泣いてられちゃ俺の感覚が狂うからな――と言い訳をする余裕はまだある。
人を笑わせることはなんと難しいのだろう。
泣かすことなら簡単に出来る。現に今こうして、ハルヒは泣いている。俺のせいで、俺らのせいで。
泣いているより笑っている顔の方が見ていたいなんて俺の我侭は、世の中には通じない。
悲しみは喜びよりも圧倒的で、悲しみは喜びよりも心に残るからだ。俺に出来るのは悲しみを分かち合うことだけだ。
なぁハルヒ。お前が俺が怪我をしたせいや、朝比奈さんを巻き込んだせいで泣いていて、俺もとても悲しいんだぜ?
俺は恐る恐るハルヒの頭に手を乗せた。長門にした時とは違い、何度か髪を梳いた。
ハルヒは声一つ漏らさずにじっと顔を伏せていたが、少しくすぐったそうに肩を震わせていた。
暫く、俺らは動かなかった。俺は時が過ぎて涙が乾くのを待つことしか出来なかった。
俺が髪を撫でながらぼうっと落ち込んでいるとハルヒはいきなり顔を挙げ、驚いた俺は思わず自転車ごと倒れそうになったがハルヒが支えてくれた。
「さっ、早く行きましょ。団長が団員を待たせてなんていられないわ」
いきなり明るくなったハルヒに調子抜けしたものの、頬を落ちる涙の後を見て俺は急いで自転車を漕いだ。
ハルヒは元気を取り戻したようにまた喋り始め俺の防具を穴だらけにして行ったが中途半端なところで攻撃を止めた。
そして考えるように間を置いた後、また喋りだした。
分かってる。お前がありがとうって言いたいことも、言えるタイミングが掴めない事もよく分かっているよ。俺も同じなんだからな。
開けた空には大きな雲が浮かんでいる。綿菓子というよりスポンジケーキのような弾力性のありそうな雲だ。
ハルヒの奴、雲の上に人が居るとか信じてないだろうな。まさか本当に居ないだろうな。
俺が目を細めて雲を眺めていると、俺の心を読んだようにハルヒが言った。
「ねぇ、あの雲に行ってみたいわ」
無理。
俺はその言葉が言えずにぼうっとハルヒが伸ばした指の先を眺めていた。
行けない所に行くということは、ずっと“行き続ける”ということだ。ハルヒと二人乗りしながら、ずっと。
「でもまぁ無理ねぇ。自転車で空なんて行けるわけないわ」
――魅力的な行き先かもしれないが、俺には無理な話だ。俺が、俺らが帰る場所は一つしかないからな。
「ハルヒ、早く怪我治せよ。お前が後ろに居ると殺されそうで恐い」
「勿論、言われなくても治すわよ。今度はあんたを後ろに乗せて自転車を漕いであげるんだから」
それだけはご勘弁を。奇異の目で見られかねん。
俺はとりあえず、今のハルヒが笑っていることに安心して自転車を漕いだ。
頬の痛みが気にならないくらいに、集中して、風に向かっていった。空の染みはもうとっくに見えなくなっている。
了