俺は今、非常にまずい立場に立たされていた。
事の発端は、物憂げな朝比奈さんに乞われてデート(と俺が勝手に思っていた)に出かけたことだな。
結論から先に言うとデートは俺の早合点で、利発そうな坊主を救わせるために
朝比奈さんが上からけしかけられただけだったんだが、そのあとがいけなかった。
自分の存在意義について悩んでおられていたらしい朝比奈さんは、指令を完遂すると共に
いままでのすべてを思い出したかのように、堰を切って泣き出し始めたのだ。
俺はどうやって慰めようか悩んだ末、こともあろうか、朝比奈さんのたおやかな体を
抱きしめてしまい、朝比奈さんは朝比奈さんで、俺に身体を預けてきた。
その結果どうなったかは、まあ言うまでもないだろ。
俺も朝比奈さんも、ハルヒや未来、立場のことは一時的に忘れ、近くにあった
朝比奈さんのワンルームに場所を替え、若い男と女として残りを過ごした。
朝帰りなんて生まれて初めてしたぜ。おふくろには散々にしぼられたがな。
ここまではすでに起きてしまったことだ。そしてここからが冒頭につながることなんだが――
教室で顔を付き合わせるハルヒにできるだけ自然に応対することはできても
さすがに朝比奈さんがいるであろう、部室に入るときは緊張せざるを得なかった。
しばらく逡巡し、覚悟を決め、扉をノックする。
「はぁい」
いつもと同じような声にほっとしていると、内側から扉が開けられた。
「あ……」
入ってきたのが俺であるのを確認すると、朝比奈さんは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「どうも」
そんな言葉しかかけられない俺もかなりの腑抜け野郎だな。
しかし朝比奈さん、そんなバレバレの反応だと、すぐにハルヒにバレますよ。
「そ、そうですよね。どうしよう……」
真っ赤になった頬に手を当てて、困ったような表情をする。ごめん、たまりません。
「口裏を合わせてやり過ごすしかありません。今更なかったことにはできませんし」
朝比奈さんの仕草にあてられながらの俺の返事に、朝比奈さんは顔を凍らせ、
「なかったこと……? キョンくん、それどういうことですか」
ぐあっ、口が滑った。
「い、いえ、特に深い意味はなくてですね、そのなんといいますか」
朝比奈さんは俺が慌てて弁明に走るのをよそに俺に接近し、
「あたしは、キョンくんとその……そういう関係になったことを後悔してません」
顔はまだ赤いながらも、真剣な顔つきでそう言った。
「キョンくんは、そうじゃないんですか?」
「そんなわけないじゃないですか」
即答する。
「俺だって、朝比奈さんと一つになれて良かったです」
俺の答えに、朝比奈さんはじっ、と俺をみつめ、
「……ありがとう」
と頬に軽くキスをしてくれた。
というわけで、俺たちはどうやり過ごすか考えることにした。いや、する必要があった。
そうしないとハルヒの奴が何をしでかすかわかったもんじゃないからな。
「……とりあえず、元々ハルヒたちには内緒で出かけたわけですし」
俺から切り出した。
「普段どおり行動して何も言わなければ、そうそうバレることもないでしょう」
「あたしもそう思いますけど、難しいです……」
朝比奈さんの演技力については、俺もよく知ってるから、なんとも言えん。
「ま、あまり深く考えないでください。俺だって朝からハルヒと一緒でバレてないんですから」
今日一日、ハルヒに変な質問をされた覚えはなかった。
「……はい、がんばってみます」
うーむ。なにもそんなに悲痛な表情をしなくても、と思うのだが。
いつもならそろそろ長門が来る時間だったので、この辺で話は切り上げる。
俺はかばんを置き、椅子に腰を下ろした。
「朝比奈さん、お茶もらえますか?」
さりげなく言ったつもりだったが、朝比奈さんはびくっ、と体を震わせて、
「は、はいっ、た、ただいまぁ」
どもりながら裏声を出す。こりゃだめだ。今から言い訳を考えておくか。
ほどなくして長門が来て、古泉も来た。
朝比奈さんは相変わらずのぎくしゃくした動きだったが、特に問い質されることもなかった。
ここまでは想定内だ。この二人がわざわざ聞くとも思えんしな。問題なのは――
「やっほーっ!」
来やがったか。
「よし、みんな揃ってるわね。あ、みくるちゃんとびっきり熱いやつお願い」
扉を勢いよく開け、ずかずかと団長席へ歩を進める。
ハルヒ団長のおでましだった。
朝比奈さんは完全に平静を失っておられるようで、
「は、はひ、たた、ただいま」
声は裏返り、手は震えっぱなしとどうしようもない感じだった。
怪しいことこの上ない。この分だとハルヒの追及の手が朝比奈さんへ及ぶことは間違いないな。
……待てよ。それならそれで、俺のことを口走りさえしなければ、済むんじゃないか。
朝比奈さんには申し訳ないが、ハルヒをごまかすためのスケープゴートになってもらうか。
そこまで計算した俺は、荷を勝手に下ろした気になって、お茶を味わい始めた。
朝比奈さんのアドリブ力に一抹の不安が残るが、この際気にしないことにする。
「お、お茶、ででで、できましたっ!」
お盆をカタカタ言わせながら、団長席へ湯のみを運ぶ朝比奈さん。
ハルヒは当然ながら、不審気な顔を朝比奈さんに向けていたが、やおらに満面の笑みを浮かべると、
「みくるちゃん、なかなかドジメイドぶりも板についてきたようね。その調子よ!」
褒めだした。
「あ、ありがとうございますっ」
朝比奈さんはいまにも安堵の溜息をつきそうな表情でそう言った。
やれやれ、勘違いしてくれて助かったぜ。俺も内心ほっとする。
それが甘かったと思い知らされるのは、すぐあとのことだった。
「ねえ、キョン」
朝比奈さんが淹れてくれたお茶をものの三十秒ぐらいで飲み干したハルヒは、俺に声をかけてきた。
「何だ」
「あ、おかわりいります?」
本来の自分を取り戻した朝比奈さんが、にこにこしながら急須を取り上げる。
自信がついたようだな。これなら大丈夫だろう。
ハルヒのほうはというと、奇妙なセリフを言い放った。
「あたし、独り言を言うクセがあるのよね」
へえ、それは知らなかった。一年近く付き合っていて初めて聞く習性だぜ。
「それも周りに人がいてもおかまいなしに」
お前の迷言集を誰かが編纂したくなる前に治療したほうがいいように思うね。
「だから、今から独り言を言うわ。聞こえるかもしれないけど気にしないで」
何だそれは、と俺がつっこむ前に、ハルヒは妙に高らかな声で話し出した。
「あたしん家の近所にね、とっても賢くて素直な子がいるのよね。ハカセくんみたいな
眼鏡かけてて、いかにも頭良さそうな顔してるんだけど。名前はね……」
わりと最近にどこかで聞いたような名前をハルヒは告げた。この不意打ちは効いた。
なんでいきなり昨日助けた坊主の名前が出てくるんだ。
朝比奈さんはというと、急須を傾けたまま固まっておられた。
「たまーに、その子の勉強みてあげてんの。んで、昨日もそうだったわけよ。でね、
こんなことを言うわけよ。ウサギのお姉ちゃんが男の人と一緒にいたってねーぇ」
ハルヒはそれから坊主が描いたらしい絵を取り出し、俺たちに見せ、
「うふふふん?」
意味深に笑った。
そこに描かれていたのは、まあなんだ、俺だった。ウサギのお姉ちゃんと一緒にいた人の絵、だそうだ。
世の中ってのは上手くできてるもんだよな、ホント。
顔面蒼白の朝比奈さんを視界にとらえながら、俺の表情も大差ないんだろうな、とか思っていると、
「んで?」
ひきつった、とも形容できるような笑みらしきものを浮かべながら、
「昨日、あんたとみくるちゃんが、どこで何をしていたのか言ってみなさい。ええ、きっと怒らないから」
ハルヒの追及が始まった。
やっと冒頭のとこまでこぎつけたな。
あまりの展開に俺は言葉を失い、どこかから助けが来ないものかと視線をさまよわせた。
長門……は顔を上げて俺をじっと見つめてるだけだな。古泉、お前はこっち見んな。
……くそっ、もうちょっと心の準備が欲しかったぜ。
「あー……ええと、そのだな、」
もごもご口を動かしつつゴマカシの言葉を考えていると、
「ごめんなさい!」
突然、室内に声が響き渡った。その声の持ち主は、
「ごめんなさい! 涼宮さん」
朝比奈さんだった。
朝比奈さんは顔を伏せ、ひたすら謝っていた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
ハルヒはあっけにとられたように、朝比奈さんを見ている。
いや、ハルヒだけじゃないな。部室中の視線が朝比奈さんに集中していた。
ハルヒはやや戸惑いながら、
「みくるちゃん、あたしはなにも、とって食おうって思ってるわけじゃないわよ」
朝比奈さんをなだめるためか、優しい声で言った。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 涼宮さん」
しかし朝比奈さんは止まらない。
ハルヒはますます困惑げに、
「あたしはただちょっと、団長に黙って団員が抜け駆けしたわけを聞かせてもらおうと――」
と、ここまで言ったところで表情が固まった。
謝る朝比奈さんを見据えたまま、まさか、という顔付きになる。
次いでぎこちなく俺のほうを向く。なんだ、その顔は。やめろ。見るな。
俺は到底耐えられるものではなく、ハルヒの視線を避けるように下を向いた。
「あ……」
それですべてを悟ってしまったのか、ハルヒはしばし呆然としていた。
すすり泣きながら謝る朝比奈さんのしゃくりあげだけが場を占める。
いくばくかの時が流れたあと、
「そ、そう。そうだったの」
ハルヒが再起動した。
「ごめんなさい、そんな事情なのに聞くなんてやぼだったわね」
そんなことを言うハルヒなど想像もつかなかった。
「団長として、団員同士の幸せは応援してあげなきゃね」
かすれた声で続ける。
「キョン! みくるちゃんを大切にしなさいよ!」
一転して笑いながら俺を怒鳴りつけると、
「それじゃ、あたしちょっと行くところがあるから今日はこれで」
かばんを持って出て行った。
その横顔は、泣いているようにも見えた。
残された俺たちの中でまず動き出したのは古泉だった。
「失礼」
椅子を引き、立ち上がる。そのまま部屋を出ようとした古泉に、俺は声をかけた。
かけなければいけないような気がしたからな。
「すまん、古泉。仕事を増やすようなことをしてしまって」
俺の言葉に足を止めた古泉は、俺のほうへ振り向き、
「……それが第一声ですか?」
珍しく怒気をはらんだ声を返した。
「い、いや……」
「僕は少しばかりあなたのことを買いかぶっていたようです」
そう言い捨て、部屋を去った。
つい、とそれに続かんとしたのは、いつの間にか本をしまいこんでいた、
「……」
長門だった。
「長門」
「なに」
無表情のまま長門は声を発した。
「あ、いや、なんというか、その……すまん」
しどろもどろになる俺を見て、長門は言っていいものかどうか悩むような間のあと、
「……わたしはあなたのことを信じていた、」
拍を置き、
「かった」
そう言い残し、場をあとにした。
残されたのは俺と朝比奈さんの二人だけだ。
しかしさっきの古泉と長門の言葉は、俺の胸を深くえぐってなお余りあるものだった。
だが、遅かれ早かれこうなってもおかしくないことはおぼろげながらわかってたんだ。
俺はなんとか自分を鼓舞し、未だ泣き崩れていた朝比奈さんへと近づいた。
「朝比奈さん」
声をかける。
「うっ、ううっ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
俺の声が届いていないのか、泣き続ける朝比奈さん。
「朝比奈さん」
方膝をついて、肩をゆすってあげる。
「ひっ……あ……キョンくん」
俺を見上げ、辺りを見回す。
「あれ?……涼宮さ……いえ、みんなは?」
「帰りました」
俺の言葉に、自分が何をしてしまったかを知った朝比奈さんは、
「ご、ごめんなさい。キョンくん……」
また謝った。
「俺に謝らなくてもいいですよ、朝比奈さん。何も悪いことはしてないんですから」
「でも……」
「どうせそのうちバレてたでしょうし、いつかはこうなってました。それに」
これは自分自身に言っていることかもしれない。
「あまり謝ってばかりだと、しなきゃよかったって思っているようにもとられますよ」
朝比奈さんはかぶりを振り、
「そんなつもりじゃないです。ただ、申し訳なくて。あたしは知ってたのに」
涙に濡れた顔で、
「そう、あたしは知ってたのに。涼宮さんがキョンくんのこ――」
「その先は言わないでください。いくら俺でも怒ります」
「――っ、ご、ごめんなさ」
「それも」
「あっ」
口をつぐむ朝比奈さん。
「……いまは、あれこれ考えないでおきましょう。いつかすべてが上手くいく日も来ます」
「キョンくん……」
希望的観測に過ぎなかったが、いまは朝比奈さんを慰めるのが先決だ。
俺は朝比奈さんの肩を優しく抱き、顔を近づける。朝比奈さんもそっと目を閉じた。
しばらくして、泣き疲れがあったのか、朝比奈さんは寝入ってしまった。
穏やかな寝顔を見て、心が安らぐ。
だが、ここは部室だ。背負って帰るにも怪しまれること請け合いだし、どうすっかな。
「それには及びません」
唐突に、扉のほうから声が飛んできた。聞き覚えのある声だ。
振り返る俺の両眼には、
「こんにちは、キョンくん」
寂しそうな笑みを浮かべた朝比奈さん(大)が映っていた。
「朝比奈さん……?」
なぜ朝比奈さん(大)がここに?
混乱している俺に朝比奈さん(大)は、
「なんでわたしがここにいるのか疑問に思っているんですか?」
そのとおりですよ、朝比奈さん。
「それはですね、事後処理をするためです」
「事後処理?」
事務的な声で朝比奈さん(大)は、
「ええ、具体的には、昨日からのあなたと朝比奈みくるの記憶、及びそれに関する情報を操作させてもらいます」
「なっ――」
二の句が継げない。
「キョンくん、わたし言いませんでしたか? わたしとはあまり仲良くしないでって」
「……もちろん覚えてます」
朝比奈さん(大)は自嘲するように、
「それはね、こうなるからです」
頭が重い。視界が狭まってきた。なんでだ。
「ごめんなさい」
また謝った。そればっかりですね、朝比奈さ……ん……
「うふ」
朝比奈さん(大)が近寄ってくる気配がし、倒れ伏す俺の耳に顔を近づけると、
「わたしがこの子に代わって言います。あたしを好きになってくれてありがとう、キョンくん」
そう囁き、頬に何かあたたかいものが当たって、それっきりで俺の意識は暗転した。
目覚まし時計が鳴り響いた。俺は毛布の感触をもう少し楽しむことにして、放っておく。
「キョンくんうるさいー! もう朝だよー!」
何者かが部屋の扉を開け、
「ってぇ!」
俺の体の上に思いっきりストンピングしてきやがった。思わず悲鳴を上げる。
「何しやがる!」
「とけい鳴らしっぱなしのほうが悪いんだにゃーあ、ねぇシャミー?」
乱入してきた人間――妹がシャミセンに同意を求めていた。そのまま妹はシャミセンを担ぎ上げ、
「シャミー、シャミー、ごっはんっだにゃーあ」
と自作のごはんの歌を歌いながら、階下へ降りていった。憮然とした表情で佇む俺を残して。
「よっ」
「おはよ」
なんら変わらない教室での挨拶。相手は俺の後ろに座っている女だ。
「ん、どした? いつもより元気がないようだが」
「え? 全然そんなことないわよ。気のせいなんじゃない?」
俺からするとちょっと違う気もするが、本人が気のせいと言ってるのに指摘することもないか。
「かもな」
あっという間に放課後だ。
あまりに時が経つのが早すぎて、いらんことを考えすぎていたのだろう。
ノックするのを忘れて扉を開けてしまった。
「あ……」
中にいたのは、下着姿の朝比奈さんで、メイド服に手を伸ばしているところだった。
朝比奈さんはこちらを向き、顔を朱に染め、口を悲鳴の形に広げ――
「失礼」
慌てて扉を閉めた。
にしても、ずいぶんと懐かしい光景だったな。懐かしい、か……
もうじき着替え終わった朝比奈さんが恥ずかしげに扉を開けてくれるだろう。そしてこう言ってくれるのだ。
「ごめんなさい、キョンくん」 と。