古泉一樹の憂鬱  
 
 昔、鍵は鍵であり、それ自体に力はない、みたいな事を言った覚えがあります  
 でも、最近はそうでもないのでは、と思い始めてきましたよ。  
 むしろ、力は力でしかなく、鍵という発動のきっかけにより全てを支配する、と。  
 
 だって、これじゃあ、ねぇ。  
 
 ある晴れた日の午後の昼休み。  
 僕は校庭で運動する生徒を眺めに行く途中で、渡り廊下を歩く長門さんをふと見つけました。  
 たまには女にも声をかけましょうか、と歩き始めたその時、ちょうど反対側から彼が現れます。  
 おやおや、やはり彼女も逢いたい人を自然と呼び寄せてしまうものなのでしょうか。  
 心の力か宇宙の力かはさておき。  
「おう、長門」  
 長門さんはちょっと速度を早めて近づ…と言うか既に彼の目の前に立っていました。  
 長門さん、人目もあるのでワープは止しませんか? 是非。  
 いや本当に是非っ!  
「お前、今、廊下の向こうに居なかったか?」  
 彼が周囲に目を配りつつ長門さんの両肩を掴みます。  
 気苦労の絶えない人ですね。  
 最も、貴方のせいと言えば貴方のせいなのですが。  
「気のせい」  
 長門さんはほぼゼロ距離から彼を見上げています。  
「…ええと、それで?」  
「…じー」  
「声にださんでいい」  
 どうやら、彼女は彼の前でだけお茶目になれるのでしょうね。  
 …と、僕が見ていると彼女が知ったら、リアルに生命維持活動の危機を迎えかねないので少々離れます。  
 で、当の彼はそんな彼女に見詰められて、何とも困った顔をしていますね。  
 ふふっ、まったく、ヒューマノイドインターフェイスにして地球で最もコミュニケーションが苦手とさえ言われた  
彼女のこの変わり様、彼女の生みの親さえ想像出来たでしょうかね?  
「な、長門、どこに行く所だったんだ?」  
「…付き合う」  
「え?」  
「どこに行くの?」  
 会話は苦手とはいえ、ここまで支離滅裂だと最早清々しさを覚えますね。  
 まったく、彼の瞳はそんなに魅力的ですか?  
 否定はしませんが。  
「いや、俺はちょっと昼休みの間部室で昼寝しようかと思ってな。実は、今朝忘れ物しちまって、あの坂を  
二往復しちまったんだ。そのあと更に体育だったから疲れ果てちまってな」  
 彼はそういって背伸びします。  
 
 あの坂は確かに大変ですからね。  
 最も、涼宮さんの宇宙創造パワーに付き合って頂くのは他でもない貴方です。  
 体力はいくらでも付けておいて頂きたいものですね。  
「そう」  
 長門さんは、他人から見れば素っ気ない事この上ない返答を返しました。  
 でも彼程ではありませんが、最近は僕も多少解るのですよ。  
 長門さんは、大丈夫? と言う心を込めて彼を見上げていますね。  
「そういう訳だ。って、お前は部室でいいのか?」  
 長門さんは含羞草のの様にやんわりと頷き、彼の少し後ろに移動しました。  
「…あー、これは、移動しろって事か?」  
 もう一度含羞草が動きます。  
「そうか」  
 彼はそのまま歩き出し、長門さんはどこかの勇者の子孫の放浪王子の様に、彼の動線を正確にトレスして  
歩き出しました。  
 程なく二人は我らが聖なる部室に到着します。  
 長門さんは彼の後ろに立ったまま、手だけを前に出して鍵を開けると…当然、自然に体がくっつきますね。  
「俺、邪魔か?」  
「このままでいい」  
 良くは無いと思いますが、長門さんなりの肌の触れ合いが欲しかったのでしょうか。  
 ストレートさが時々明後日の方向を向くのも彼女ならではですね。  
「ふあぁ…。そんじゃちょっと寝させてもらうか。寝るっつっても机寝だけど、しょうがないか」  
「…ひざまくら」  
「ん? 何か言ったか?」  
「来て」  
 僕の体温が数度下がった気がしました。  
 いえ、そういう行動自体は羨まもとい微笑ましいし、長門さんの感情を知らない訳ではありませんよ。  
 でも、校舎内でその、ある一部の、ごく一部の、約一名、総人類分の一名が存在するこの校舎内では控えて  
もらいたいのですが。  
 いやマジで。  
 本気と書いてマジで。  
 そんな事を考えている間に、獲物は女郎蜘蛛に腕を捕まれて巣の中へ運び込まれてしまいました。  
 扉が閉まります。  
 この瞬間から、あの扉は恐らく核シェルターより頑丈な天の岩戸になったんでしょうね。  
 と、そこへ。  
「キョーン! 何処行ったのよまったく! 疲れている様だからせっかくお弁当同席してあげようってのに、  
あのバカどこで油売っているのよ! …部室かしら?」  
 体温が更に下がります。  
 僕の息は多分白くなってますね。  
「す、涼宮さん!」  
 僕は言葉と同時に飛び出しました。  
「あら、古泉くん」  
「いやぁ偶然ですね。ちょうど良かった。僕とランチで」「キョン知らない? 知ってたら言いなさい。  
知らないならバイバイ」  
 とりつくしまも無いとはこの事でしょうか。  
 僕の絶望をにじませた表情も無視して彼女は大股歩きで部室に向かおうとしました。  
 彼女には、特定の男性に対するアンテナか何かでも付いているのでしょうか。  
「か、彼なら! ついさっき外に出て行きましたよ!」  
 出任せが、正に口から出任せが出てしまいまして。  
 
「外? …何でよ」  
 涼宮さんの大きな瞳が訝しげに僕を見詰めます。  
 嘘言ったら殺す。  
 そう瞳が言ってます。  
 冗談でも何でもなく。  
 ああ、彼はいつもこんな風に閻魔大王に睨まれているのですね。ちょっと濡れそうです。  
「か、彼の妹さんに頼まれて、下の商店街にちょっと買い物だそうです! 彼は妹さんのお願いに弱いです  
からね! ははははは」  
 神様、僕にガラスの仮面を下さい。  
「…ふぅん、まぁ妹ちゃんのお願いならキョンは聞くだろうし…何よぉ、あたしに一言言えばそれくらい一緒に…」  
 何かぶつぶつとおっしゃってますが、どうやら部室から注意は背けられたようです。  
 後で彼につじつまを合わせる様にお願いしなくてはなりませんね。  
 安堵のため息をつこうとしたその時、あたしもちょっと暇だし、何を買ったのか校門で張り込んでみよう  
かしら? などと抜かし…おっしゃり始めた涼宮さんを熱弁と懇願で宥め、なんとか退場してもらいました。  
 この十数分で一晩中神人と戦ったくらいの疲労感を感じましたが、気のせいと思っておきます。  
 
 少しの後。  
 昼休みもあと少しという所で僕も部室の方に向かう事にしました。  
 そろそろ、彼と長門さんが例えナニをしていたとしても、いい加減顔を出しておかしくない頃合いですからね。  
 部室への角を曲がった時、丁度彼が扉を開けて出てきました。  
「いや、すまなかったな。本を読めなかったようだし、良かったのか?」  
 彼が扉の向こうに向かって済まなそうに話していますね。  
 ふむ、やはり予想通りだったのでしょうか。  
「…いい。腿にかかるあの加重は、私にとっても心地がいい。とても」  
「そ、そうか」  
 たまには僕の前でもあれくらい饒舌になってほしいものです。  
「疲れたら、いつでも。あなたが望めば団の活動中でもあなたの家でも、来てくれてるなら家でも  
かまわない。むしろ来て。週末なら泊まりも可」  
「い、いやそこまで甘える訳には」「甘えて」  
 …勢いに任せて何かとんでもない事言ってますよあの無口洗濯板は。  
 このままでは彼が呑まれます。  
 僕は世界平和の為、偶然を装い戦地(主に僕にとって)に足を踏み出しました。  
「おや、これはこれは」  
「よう、古泉」  
「……」  
 その瞬間、脳天に絶対零度を想像させる視線が約一名から無遠慮に突き刺さりましたが僕はしにましぇん。  
「どうもこんにちはこんなところでおふたりにあうとはぐうぜんですねあははきょうはてんきせいろう  
なれどなみたかしでしょう」  
「…何か悪い物でも喰ったか?」  
 罪は無いんです。  
 罪は無いんです彼には。  
 でもお星様が許して下さるなら、寿命が一発で三年縮むと言われようとも、一度彼を殴りたいと思った僕は  
間違っていますか?  
「いえいえ。ただ、急がないと次の授業に遅れますよ」  
「ああ、そうだな。それじゃ」  
「あ、ちょとそこまで。お話ししておきたい事が…」  
 僕の背中に無数に突き刺さる殺人的視線を感覚器全てから除外しつつ、僕と彼は早足で教室の方へ向かいました。  
 さて、今日の午後の平和は貴方の演技力にかかっていますので、よろしくお願いしますよ。  
 
 その後、団の活動は、何故お前の弁当を今食うんだ? と不満を述べつつも事の成り行きを知っている  
故に全部食べて下さった彼の奮闘のお陰で、どうやら平穏に済みました。  
 涼宮さんも空になった弁当箱を見て満足そうに笑っていましたしね。  
 ところで朝比奈さん、僕の茶碗そろそろ茶渋が増えてきましたよ。  
「あ、そうですね。すいませーん」  
 可愛く言ってますがとうとう洗うの文字は出てきませんでした。  
 
 その日の夜。  
 僕はいつもの様に精神的、肉体的疲れを癒すべく個人的趣味でやけに暗い公園に向かっていた所、組織から  
緊急の連絡を受けました。  
 あああああもう少しでツナギの似合うちょっと悪そうなげふんげふん。  
 涼宮さん絡みなら僕もわかりますからどうやらそれ以外です。  
 森さんから聞くと、学校の方に少女が一人向かっているとの事でした。  
 了解と電話を切ると、数分後には新川さんが車をよこしてくれました。  
 ありがとうございます。その口ひげ、いつもにもまして艶やかでダンディに見えますよ。  
 短い移動時間は生憎ナニをするにも尺が足りず、僕は学校前で車を降りました。  
 人気のない真夜中。  
 昼間よりも長く、そして勾配も急に感じる坂道を僕は歩きました。  
 夜の空は黒と言うより蒼に近く、無数の星と月が因るにもかかわらず僕の足下に影を落とします。  
 春先なら夜桜見物に良い天気でしょう。  
 こんな時、隣にあの人がいたら…いえ、多分めんどくさがるのでしょうね、ふふ。  
 ようやく着いた校門前。  
 そこに、彼女は居ました。  
 学校に向かって、いえ、空に向かって顔をあげ、僕からは丁度真後ろの姿。  
 月とお話しをしている。そんなイメージがぴったりの後ろ姿です。  
「長門さん」  
 一瞬躊躇った後、僕は声をかけます。  
 すると、まるで今この時に声をかけられる事がわかっていたかの様な動きで彼女の顔が横を向きまして。  
 まだ僕を見てはいません。  
 その姿はまるでレリーフの様に静かに月明かりに照らされています。  
 横を向いたその瞳から意思を読む事は、残念ながら僕には出来ません。  
 ですので、一般的な方法でコミュニケーションを試みる事としましょう。  
「…何をしていらっしゃるんですか?」  
「……」  
 ガン無視ですか。  
 が、負けてはいけません。  
「閉鎖空間も発生していませんし、その兆候もありません。観測者たる貴女がこの様な場所にいる理由は  
無いかと思われますが?」  
「……」  
「失礼ですが、僕の組織も色々と観測をおこなっています。貴女のプライバシーを心配するまでもなければ  
そんな事を気にする必要も無いのでしょうが、ちょっと気になりましたのでね」  
「……」  
「宜しければ、理由など…」  
「……」  
「ええと、間違っても非難する気など無いのですが、出来れば行動理由をちょっと…」  
「……」  
 すいません、そろそろ口を開いて欲しいのですが。  
「散歩」  
 
 わざと聞こえない様に言っているんじゃないかと思える程小声で呟き、彼女は僕の脇を通り抜けて  
さっさと坂を下りてしまいました。  
 と言うか、あの洗濯板、とうとう僕と視線を一瞬も合わせずに帰っちゃいましたよ。  
 何ですか? 彼が居ないとなるとあの女本当に冷血ですね。血が通っていればですけど。そもそも  
何色の血が流れているんでしょうかあの宇宙人は。  
 いいかげん付き合いも長いんですからもうちょっとこう…。  
 ちょっと泣きそうになりましたがやめておきましょう。  
 男の子ですから。  
 
 次の日。  
 正確には先程の珍事から数時間後、まだ陽も昇らぬうちに僕の携帯が鳴りました。  
 緊急コールで。  
 僕は飛び起き、お早うしているマイサンに構う暇もなく外へ飛び出します。  
 時間がどれだけ掛かるか解りません。  
 制服の上下だけを着て、正に飛ぶ様な速度で僕は部屋を出ました。  
 外には既に新川さんが車を止めていました。  
「一体何があったんですか? 涼宮ハルヒに何かあったんですか?」  
 車は僕がドアを閉めた瞬間、ジェットコースターの様に飛び出します。  
 これは確かに一大事の様ですね。  
「放っておくと、間違いなく彼女絡みになります」  
 ネクタイを締めながら、僕はその言葉に喉を鳴らしました。  
「一体、何処で何が起きているのですか?」  
「あれを見て下さい」  
 新川さんが車を止め、指を差しました。  
「学校?!」  
 僕の視線の先。  
 そこにあるのは確かに学校です。  
「…ん?」  
 そして続けて僕は違和感を覚えました。  
 違います。  
 何かが、いえ、学校のある丘自体が違うんですよ。  
 何がどうって言うと…。  
「新川さん」  
「はい」  
「…ここは、いつからいろは坂になったんですか?」  
 そう、目の前にはあの有り難い男体山へと続くあの難所を彷彿とさせる葛折りの坂道が出来あがっていたのです。  
「夜、あなたを送り届けたてから暫くの後、連絡がありました。どうやら、長門様が何かの時限式因子を  
植え付けていた様でございます」  
「…成る程、僕が来たからその場は帰ったが、しっかりと種は植えていた訳ですね」  
「長門様のマンションへ向かいます」  
 月はまだ天にあります。  
 なんとしても今夜中にこの異変を何とかしなくては。  
 こんなものを涼宮ハルヒと言う存在に見られた日には、何を言い出すか解りません。  
 長門さんがなぜこんな事をしたのか理由は不明です。  
 もしかしたら、また彼女の言う所のエラーが蓄積して暴走をはじめたのでしょうか。  
 とにかく、涼宮ハルヒの暴走でない以上、涼宮ハルヒの平穏をかき乱す因子を取り除かなくてはなりません。  
 車は彼女のマンションへと滑る様に走り続けました。  
 ですが、彼女に会えたとして、次にどうするべきでしょう? はたと僕は悩みにぶつかりました。  
 とすると、やはりここは彼女のアキレス腱かつ唯一無二の翻訳者である彼にも同席してもらうのが順当と  
言うものでしょう。  
 
 夜更けで不機嫌そうな彼の横顔を眺めるのもおつな物ですし。  
 趣味と実益が重なりました。  
 僕は二、三回舌なめずりしてから彼の携帯に連絡を入れます。  
「…今何時だと思っている」  
 スピーカーの向こうからむっつりとした声が聞こえます。  
「僕がこんな時間に電話をかける時、どんな理由が考えられますか?」  
 そんな声を出すからいつもちょっと意地悪な返答がしてしまいたくなるのですよ。困った人ですね。  
 濡れそうです。  
「なんか、あったのか?」  
 流石に目の覚めた声が返ってきました。  
「ちょっとばかり面倒がおきまして、申し訳ありませんが今から長門さんのマンションへ来て頂きたいのです。  
森さんをそちらへよこしますので、至急用意をお願いします」  
「長門? 長門になにかあったのか?」  
 急に声に真剣味が増しました。たまには僕にもそんな声を出して欲しいものです。  
「お話しは落ち合ってから。ではよろしくお願いします」  
 何なら駆け落ちあってからでもいいですよ。  
「わかった」  
 電話を切るのとマンション到着は同時でした。  
 僕は車を降り、ロビーへ向かいます。  
 十分ほどして、バイクに乗った森さんとその後ろに乗った彼が到着しました。  
 彼と森さんがヘルメットを取り、着の身着のままの彼が後ろから降ります。  
「森さん、ありがとうございます。運転上手いんですね」  
「え? あ、はい」  
 …何で顔が赤いですか森さん。  
「い、いえ。本当にもっとちゃんとgyuっと捕まらなくて大丈夫でしたか?」  
「ええ、おかげさまで」  
「こ、今度はもっと上の方をしっかり掴んでくださいね。背中もちゃんとくっつけてくれると…」  
 帰れ痴女。  
 女郎を退場させ、僕と彼はロビーの前に立ちました。  
「で、長門は?」  
「どうも出てくれないんですよ。何度もインターホンを押したのですが…。声はきこえている筈です。  
非常事態と何度も説明したのですが、まるっきりなしのつぶてでして」  
「それまずいんじゃないか? まさか本当に長門に何かあったなんて…」  
 彼がインターホンで部屋番号を押します。  
「無駄とは思いま」「…何」  
 瞬間的に声が返って来ました。  
 ぴんぽーんの「ぴ」で出ましたよこの根暗無口。  
 僕の時は無視ですか? めがっさ無視ですか?! 声をかけられたら返事しろって事くらい、貴女の  
創造主に習いませんでしたか?  
「こんな夜遅くにすまない。ちょっといいか?」  
「いつでも構わない」  
「よ、宜しければ下に来て頂きたいのですが!」  
「…夜中…迷惑…」  
 そろそろ泣いていいですかぁ?  
 彼の前だからって声は出すけど、出した声の内容に問題がありすぎますよ長門さん!  
 おかしいですよ長門さん!  
「まぁそういわず、すまないが来てくれないか? 頼む」  
「今から行く」  
 
 ああ、閉鎖空間を生み出したい気分っていうのはこういう気分なのでしょうか。  
 涼宮さんの気持ちがちょっとだけ分かった気がしましたよ。  
 一分も経たずに長門さんがロビーに降りてきました。  
 いつも通りの制服姿。  
 この人、部屋着って本当に何も持っていないんでしょうか? いえ、それどころかこの服、脱ぐ事あるんでしょうか?  
「良かった。お前は無事だな」  
 こくり、と頷き彼を見詰めます。  
「何か、あった?」  
 何かあった? って言いましたか貴方?  
 声聞こえて居たんですよね?  
 さんざんインターホンから説明しましたよね。  
 僕、ちょっと喉が痛いですよ?  
「いや、詳しくは俺も分からないが…古泉、具体的に話してくれ」  
 ええと、それは僕に言っているんですよね? いえ、勿論貴方に話すのは初めてですが…釈然としないんですよ!  
 心が叫ぶんですよ!  
「…さっさと言って」  
 あんたって人はぁーーーーっ!  
「と、とりあえず、一緒に来て頂けますか? 車があちらにありますので」  
「分かった。いいか、長門?」  
 長門さんは至って素直に頷きました。  
 猫の様な可愛らしい筈のその仕草が、拳を握りたくなる位憎らしく見える理由を誰か教えて下さい。  
 相変わらず僕とは視線を合わせてくたさいませんし。  
 それから僕たちは、何故か茂みの向こうから戻ってきた新川さんにお願いして、車で学校前へ向かいました。  
 見てもらうのが一番です。  
 と言うか説明はもう勘弁して下さい。  
 
「…なんだこりゃ?」  
 彼が至って当然の一声をあげてくださいました。  
 ああ、ここに来てようやく普通の反応を聞けましたよ。  
 涙が頬を伝います。  
「長門さん、これはあなたの仕業ですね?」  
「……」  
「本当なのか? 長門」  
「…そう」  
 僕はココに存在しませんかそうですか。  
「一体何なんだ? この悪夢の様な葛折りの坂道は」  
「僕もそれを聞きたかったんですよ」  
「……」  
 期待なんかしていませんよ。ええ。  
「長門?」  
「…健康に、いい」  
「は?」  
「運動の後に、適度な休息を取る。それは体にいい。私も嬉しい」  
 個人的感情挟みまくりです。  
「いや、この坂の事を聞いているんだが」  
「坂を上れば分かる」  
「どういう意味だよ」  
 分からない? と長門さんが首をかしげます。  
 
 そこでどきどきしないで下さい。  
 それは孔明の罠です。  
 花の姿に己を似せ、何も知らない無垢なる蝶を無慈悲な鎌で狩りとる花蟷螂の罠です。  
「私の準備は万端」  
「は?」  
 腿をかるく叩き、期待に満ちて輝く彼女の瞳。  
 …ふと、僕の頭の中で、非常に嫌な内容での謎と言う名の霧が晴れてきました。  
「長門さん」  
「……」  
 いいかげんこっち見て下さい。見なくても話しますよ。  
「このいろは坂、彼に関係していますね?」  
「俺? 何の事だ?」  
「すいません、一通り喋らせて下さい」  
「……」  
 長門さん、貴女まで睨まなくていいんです。しかも本気で。  
 で、やっと僕を見てくれましたね。向けて欲しくない視線のタイプで。  
「すいません、ちょっとこちらへ。貴女は待っていて下さい」  
 彼が不満そうに僕を見ます。  
 移動しようとしますが長門さんは動きません。  
 僕が彼に目線を向けると。  
「長門、行ってやってくれ」  
「…分かった」  
 すいません、埋め合わせはいつか公園でご奉仕させてもらいます。。  
 で、ものすごく億劫そうな表情で僕の後に着いてきて下さる長門さん。  
 僕の場合は桃太郎伝説並に無軌道に着いて来るんですね。  
 ついでに長門さん、無表情と不満そうな表情は違うと知っていらっしゃいますか?  
 僕と長門さんは、彼がぎりぎり見える間合いまで離れ、そこで話を始める事にしました。  
「さて、あの坂ですが、これは彼の為のみの行動と思っていいですね?」  
「……」  
「坂を上る事で彼が疲れる。その疲れを癒す方法を貴女は知っている、と言うか実践したい方法を貴女は  
持っている。そうですね?」  
 と言うかもうこっち見てませんよこの人は。  
「貴女は、昼休みに彼にしてあげた膝枕の感触が忘れられず、またそれを行いたくなった。だが、彼が  
忘れ物をいつもするとは限らない。だが、彼自身に干渉して彼がそれを察してしまう事は避けたい。  
だから貴女は肉体的にどうしても彼が疲れる方法を考え、そして実行した。違いますか?」  
「…古泉一樹」  
「やっと僕を見てくれましたね。と言う事は正解ですか? そんな事をして、彼が疲れたとしても  
さっきの様に違和感が先行してしまいますよ。そもそも涼宮ハルヒがこんな異常事態を見逃すはずが  
ありません、と言うか誰が見ても異常事態どころではない騒ぎになります。貴女の望み、とても  
可愛らしいと思います。ですが、どうかこの状況、今すぐ元に戻してください。お願いします」  
 勝ったと思いました。  
 理論も理屈も完璧。  
 彼女もこれなら折れる。  
 そう思いました。  
「…見ていたの? あの人と私のかけがえのない時間を汚したの?」  
 僕はいつの間に鬼と会話していたのでしょう?  
 コミュニケーションって難しいですねえ。ははは。ああ…なんだか意識が遠く…あれ、視界も真っ白に  
なってきたような…。  
 
「長門!」  
 不意に、意識がはっきりと戻りました。  
 そして聞きましたよ。  
 今貴女、舌打ちしませんでしたか?  
 チッて。  
 チッて聞こえましたよ。  
「何?」  
「いや今、なんか空に向かって無数の光が飛びかけていたから、何事かと思って」  
「最後まで見ていて良かった」  
 殺る気満々ですか。  
「良い所に来てくれました」  
 事件解決の為にも、僕の命の為にも。  
「こうなったら一緒にお願いして貰えますか?」  
「何をだ?」  
 少なくとも彼の前では僕をSATUGAIしたりはしないでしょう。  
 僕は命を賭けた真相の説明を始めます。  
 大げさではないです。  
 多分。  
「…本当か、長門?」  
 彼が額に手を当て、頭が痛い、のポーズで長門さんを見ています。  
「……」  
 対して長門さんは怒られた子犬の様な瞳で彼を見上げていました。  
 心なしか、瞳が潤んでいる様に見えます。  
 雨に濡れて震えているチワワの様です。  
 心揺らがない男性は居ないでしょう。  
 でもはっきり言いますよ。  
 このズ ベ タ 。  
「長門さん、彼の表情を見れば分かりますよね? どうか、事が荒立たないうちに全てを元に戻して下さい。  
観測者たる涼宮ハルヒにおかしな刺激を与える事は非常に危険です。それは貴女の生みの親たる情報統合  
思念体の意図するところではありませんよね? 下手をすれば、この学校、いえ、この国、それどころか  
宇宙の危機なのですよ?」  
 長門さんは俯いています。  
 まだ抵抗しますかこの宇宙人は。  
「長門、ええとな、お前が俺を気遣ってくれるのは嬉しい。でも、やっぱり学校がこうなっているなんて  
おかしいだろ? それに毎日毎日そうする訳には流石にいかないんだ。偶には…その…なんだ、ちょっと  
昼寝したいと思ったらそうするから…それで勘弁してくれないか?」  
「…約束」  
 二つ返事ですか。  
 宇宙の危機より男を優先しますか。  
 めまいを感じているさなか、長門さんは坂の前に歩み出て、小声で呪文を唱え始めます。  
 坂が、丘全体が音もなく小刻みに揺れ始め、闇夜の丘は黒い砂粒の様に淡くなり、数秒の後にそれはいつもの  
見慣れた風景に戻りました。  
 少しの間眺め、それ以上の変化がない事を確認し、僕はようやく安堵のため息をつく事が出来ました。  
「よくやったな、長門」  
 彼が長門さんの頭を撫で、長門さんは眠そうな表情で彼に身を預けています。  
 その表情は、もっと撫でて、と訴えています。  
 ちょっと待って下さい。  
 間違いを直しただけで、褒められるような事はしていませんよ彼女は。  
 言いたい事は多々ありますが、今の平和の為にそれを飲み込み、僕達は帰路に就きました。  
 長門さん、ところでなんで彼をマンションに誘ってますか?  
 あなたも何でほいほい着いて行きますか?  
「いや、力の使いすぎでちょっと足下がふらつくって言うからさ」  
 嘘だっっっっっ!  
 
 
 次の日。  
 我らがSOS団の活動は僕と彼のボードゲーム、涼宮さんのネット探索、朝比奈さんの給仕、そして長門さんの  
読書と、いつも通りつつがなく行われています。  
 願わくば、この平和が続いて欲しいものです。  
 ところで僕の茶碗、そろそろ茶渋で底が見えなくなりそうです。  
「しっかし今日は暑いな。温暖化で難局や北極の氷が溶けているって言うし、そのうちこの辺も学校の  
高台を残して一面海、なんてなる可能性あるのかね?」  
 暑さを紛らわす為の他愛のない愚痴に、朝比奈さんがくすりと微笑んでいます。  
「そんな怖い事考えたらめっですよ、キョン君」  
 くすくすと可愛らしい笑みで彼を見詰める瞳は、確かに彼が女神とあがめるに値するのでしょうね。  
 僕も軽く会話を会わせるとしましょう。  
「でも、事実国の面積が減っているところもありますよ。怖いですねぇ」  
「不謹慎ですよ。そこの人は困っているのに…」  
 睨まれました。  
 私は貝になりたいなぁ。  
「キョン」  
 ふと、涼宮さんが子供の様な瞳で彼に声をかけました。  
「何だ?」  
「そうなったら、この街までそうなったらさ、街の人はどうなるのかしら?」  
「うーん、ノアの箱船みたいな大きな船があればなんとかなるんじゃないか?」  
「ふぅん、それならアリよね」  
 背筋が寒くなったのは気のせいではないと思います。  
「そっか、そうなればみんなは安全か」  
 全然安全じゃありません。  
「そうしたら泳ぎ放題だぜ。気持ちいいだろうな」  
 だから貴方も無責任な事を!  
「…そうなったら、キョン、嬉しい?」  
 待った待った待った!  
「ああ、嬉しいぞ」  
「褒めちゃう?」  
「誰をだよ」  
「誰でもいいじゃない。そのきっかけを作った人をよ!」  
 待って待って待って!  
「そうだな、がんがん褒めるぞ。高い高いしてくるくる回して褒めてやるぞ。ハグハグだってしてやる」  
 暑さでテンションがあがっているのでしょう。不穏な単語がくっつきます。  
「はぐはぐ…ふぅん」  
 涼宮さんの頬がほんのり染まっています。  
 まずい! とりあえずまずい!  
「すっ涼宮さん! 実は僕の知り合いにペンションをやっている人がいて…」  
 僕は口から出任せの冒険プランを熱弁し、三十分後には週末のスケジュールができあがっていました。  
 ああ、今から組織に大変な申請をしなくてはなりませんねぇ…。  
 
 
 帰り道、彼が僕に語りかけてきました。  
「古泉、またハルヒがおかしな事をしそうだったのか? いつもながらああいったはた迷惑な神様のおもりは大変だな」  
 彼は珍しく素直に同情の気持ちを表してくれます。  
 いつもなら僕も素直に感謝する所ですが…。  
「まったく、無自覚程怖いものは無いな。自分の考えがどれだけこの世に影響を及ぼすか分かっちゃいないんだから。気まぐれな神様程怖いものはないぜ」  
 そこまで分かっていて…。  
 理解していて…。  
「どうした? 顔が引きつっているぞ?」  
「僕は、貴方こそが気まぐれな神様じゃないのかって思う時がありますよ」  
「皮肉か? 一般人代表の俺に対して」  
 彼はやれやれ、と言う顔で笑います。  
 ああ。  
 それですよ。  
 今こそ、僕が言いたいのはそれです。  
 
 やれやれ。  
 
 
完  
 
 
 

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