力を失くした友人が目の前で倒れる。  
 見慣れた北高のスカートが半瞬、ひらりと舞って、彼女は横たわる。  
 
 それを見下ろすのは突然の襲撃者。  
 人より、機械より冷たいように思える眼差しは、何の感動もないかのように倒れた彼女に注  
がれている。まるで内面を象徴するかのように真っ黒なスカートをなびかせて。  
 
 俺は何もできなかった。  
 手も足も出ず、言葉も発せなかった。  
 
「……観察下に置く」  
 
 世界中のあやゆる冷凍庫でも、たとえ絶対零度に達してようともこうはいかない声が告げた。  
 どんな反駁も許されず、動かない友人を見ることしかできず、俺はただ、立ち尽くしていた。  
 
 
 
 ――この世界いっぱいのさよなら――  
 
 
 
 高校二年、夏。  
 
 六月だってのに梅雨の二文字を己が辞書から忘却させた太陽が、燦々なんて言葉じゃまだ温  
いくらいに熱と光を列島に放射し、UVカットもたちまち崩落しそうなエネルギーが無駄に俺の  
皮膚も焦がしていた。去年といい今年といい、これは本当に地球温暖化による屋外サウナなの  
か判別しかねる。  
 などと考えている間にも額から顎、胸から腹にかけて忌々しい汗が肌を伝う。  
 それもそのはずで、よもやこんな炎天下の元を好きこのんで登山する人間など、全国探して  
もせいぜい数百人いればいいほうで、そのうちの一人が俺になっちまってるのは一年数か月通  
ってる公立高校がなぜか山の上にあるからだ。普通を尊ぶはずのパブリックシニアハイが、な  
ぜわざわざそんな立地に校舎を建ててるのか、校長でなければ誰にツッコミを入れりゃいい?  
「どうしたんだい。朝から随分と険悪な表情をしているね」  
「ん」  
 脇を見ると、数年来の友人が暑さとは無縁の涼しい表情で泰然と微笑んでいる。  
 その姿を見た俺はしばしの逡巡と共に、  
「なぁ、お前って夏に強いのか?」  
 俺が言うと、この酷暑にも長袖で顔色一つ変えない佐々木は、  
「それは気温への耐性って意味かい? だとすればまぁ、寒さよりは暑さの方がやり過ごせる  
ね。僕自身は別段夏が好きというわけでもないんだが」  
 湿度が半分しかないかのようにからりと言った。そうか。俺自身は四季で言えば夏が好きな  
はずだが、この気候には戦闘前から白いハンカチを投げるより他ない。いっそ一限はこの超過  
熱量を発散すべく自習時間にすべきじゃないか。  
「この分だと猛暑日という言葉だけではまかなえなくなる日が来るのかもしれないね。僕には  
夏時間を導入すれば省エネルギー効果が上がるとも思えないけれど」  
 佐々木の言葉が茹だった脳髄を適当に攪拌するのを感じつつ、そうなれば日本は温帯から繰  
り上がって亜熱帯になったりするんだろうかと思い、弓状列島の形を維持できなくなった母国  
なるものを想像して束の間の清涼を得た。寒気がするね。余計な戦慄をするのはもう少し皺が  
増えてからでいいだろう。こちとら前途ある若者であるところの高校生だ。  
「それじゃさしあたって今日の試験で成果を出すことにしよう」  
 佐々木が背中に突き刺さる矢を放ち、まともにそれを受けた俺はさしずめ瀕死の戦士だ。こ  
ら戦友よ、下級兵の傷をわざわざ増やして敵地に送りこむこともあるまい。  
 すると佐々木はおなじみのクックッという控えめな笑い声で、  
「僕が上官だったら、君が本当に傷ついて倒れた時には助け起こしてやるべきなのだろうか?」  
 そう言われて俺はクラスメートや友人数名の顔を思い浮かべて、若干の溜飲とともに、  
「……頼りにできそうなのはどうやらお前くらいしか思い浮かばない。すまんが」  
 俺の嘆息に佐々木はまた笑って、セーラーの肩口で髪を軽やかに揺らせた。  
 
 
 すっかり茹でダコ状態で二年五組の教室に到着すると、さすがにもう見慣れてきた級友の面  
々も皆一様に熱に当てられている風情であった。試験直前であるにも関わらず、今読むべき教  
科書の用途を違えて送風機にしているあたり、まこと共感することしきりだが微々たる温風程  
度にしかなってないだろうな、この分だと。  
「あああちぃあちぃ」  
 下世話な胴間声が俺の不快指数を無意味に煽った。暑さそのものを体現したような口調は一  
年来の友人、谷口のものだ。俺は教科書に落としていた懈怠面を上げる。  
「解ってることをわざわざ言いに来るな。冬ならともかく、夏じゃ固まっても暑苦しいだけだ  
ぜ。男同士じゃ気色悪くもあるしな」  
「おうそうかそうか。とすればお前らは夏中その暑苦しさのど真ん中にいるわけか。ご苦労な  
こった」  
 だらしなくシャツを扇ぐ谷口に何のことかと言いかけて気づいた。ははぁ。一体何度言えば  
気がすむのだろう。こいつは。  
 俺は首でちょいと後方を指示して、  
「あのな。佐々木と俺のこと言ってるんだったらまったく持って見当違いもいいとこだ。つう  
か、人の体感温度より自分の心配したらどうなんだよ」  
 すると谷口は胸を張って親指で自分を指し、  
「へ。俺だったらその点いくら熱くなろうが大歓迎だぜ。暑いじゃなく熱いだぞ。だが、他人  
の熱さを見せつけられんのは春夏秋冬通じて忌避したいとこだな」  
 何が忌避だ。だったらなおのことわざわざ近寄って来るなと言いたいね。  
「二人とも随分余裕だけど、彼女より答案の心配はしなくていいの?」  
 冷水のような声をかけたのは中学時代からの秀才肌、国木田であった。互いの足を踏み合う  
ばかりの俺と谷口をほどよくほぐすのは大抵この優等生である。たった一言で早速現実へ我々を  
帰還せしめたしな。  
「おおそうだった。もともとキョンじゃなく国木田のところへ行くはずだったのに、この熱さ  
で熱射病になってたみたいだ。一時的方向音痴になっちまったぜ」  
 などと吐き捨てて谷口、それと苦笑いの国木田は席に戻っていく。あえて暑さが熱さになっ  
てるとこには反応しない。キリがないからな。  
「お前もそうやって爽やかに静観してないで、ちょっとは否定してくれよ」  
 振り向きざまに窓際最後尾の佐々木に話しかけた。佐々木は軽やかに首を振り、  
「いや。こういうものは往々にして、必死に否定するほど相手の疑念を深めるばかりさ。むし  
ろキョン。君が堂々としていたほうがやがて彼も諦めるのではないかな?」  
 そう言われればその通りにも思えて二の句が出てこず、やむなく俺は頭を切り替えて直前の  
山場を確認すべく佐々木に教示をたまわることにした。  
 
 
 さて放課後である。  
「何も今から背骨を曲げて歩くことはないと思うよ。五十年もすれば放っておいても自然と前  
傾姿勢になるのだからさ」  
 傍らでフォローにならないフォローを佐々木が言い、そんな俺たちは部室への道すがらであ  
った。  
「ときに佐々木よ、予備校なる場所は楽園と監獄とどっちだろう」  
 すると佐々木はちょいと片眉を上げ、  
「どちらでもないね。僕に言わせれば住めばなんとやらさ。続く言葉は君次第かな」  
 何だかはぐらかされたように思うが、それ以上追求する気力もたちまち暑さに奪われるって  
ものである。今秋の生徒会選挙で全校舎に冷暖房完備を公約に立候補する生徒がいたら組織表  
使ってでもそいつを当選させてやりたい気分だ。  
 通いなれて第二の私室状態となった文芸部部室も当然ヒートルーム化していて、そんな空気  
風呂にもまったく動じる気配のない人物が一人、長テーブル付近の椅子に古式如来の人形よろ  
しく座っていた。  
「よ、周防」  
「……」  
 仮にも一年以上のつき合いなんだから目礼以外の挨拶も覚えてほしいものだと思ったが、突  
然饒舌になる周防なんてのはそうそう見られるものではなく、記憶にあったかどうかすら定か  
でない。  
 
 俺と佐々木は周防の向かいの椅子にそれぞれ座った。大抵の部には部長がいて、それは今隣  
に座った年来の友、佐々木がそうであるが、この部屋には部長用机にあたるデスクがない。  
 
「僕は『長』のつく役職に就くことを望まないよ。名義だけならまだしも、そんな九鼎大呂は  
必要ない」  
 
 と言って部のテーブルを円卓ならぬ角卓にしてしまったのである。去年の春、初めてこの部  
室に来た時には部長机とパソコンが上座とでも呼ぶべき部室の奥部にあったのだが、佐々木が  
来てからそっくり一式片隅に追いやられてネット巡回等専用PCブースと化した。別に形式だけ  
でも部長机として残しておいてもいいと思うんだが、佐々木はそういう格式ばったものを頑な  
に拒むのだった。  
 さて、三者めいめいがそれぞれに昼からの放課後を展開していた。すなわち俺は弁当を食べ、  
佐々木はノートを広げて週明けにあと一日分残った試験範囲の総仕上げ。周防は天文関連の百  
科事典のような大きさの本を単調な手つきで繰っている。どっちも暑さなどお構いなしの表情  
はそれなりに体感温度を下げてくれるが、それにしたってまだまだ暑い。このままだと汗を吸  
い切ったワイシャツを雑巾絞りできそうだ。  
 正午過ぎになって雲が出てきたらしく、何とか扇がずにいられるくらいには気温が下がった  
みたいだが、俺持参の水筒の麦茶はどうにも温かった。地球だけでなく魔法瓶まで壊れてんのか。  
 するとノックとともにドアが開いた。部員二名が顔を覗かせ、  
「遅れてごめんなさい! ちょっとクラスでおしゃべりしちゃって」  
「学食に行ってた」  
 橘、藤原の両名がそれぞれに入室し、周防の両隣に座った。  
「しかし暑い。学食だけにでも冷房入れるべきだろう」  
 藤原は半袖Yシャツの襟元を扇いで風を送った。  
「俺は食堂よりこの部室にこそクーラーが欲しいけどな」  
 すると藤原は横向けていた顔の目尻で俺を見て、  
「ふ。それもそうか。何だかんだとここにいる時間が一番長いからな」  
 こと今日のような半ドンの日課とあればなおさらである。まぁ言ったところで夢物語でしか  
ないのは俺も藤原も解りきっているのだが。  
 さて入室したもう一人、橘京子はと見ると、すでに佐々木と何やら話しこんでいて野郎の侵  
入できる余地は見受けられない。部の設立当初から解っていたことだが、橘はどんな相手にで  
も分け隔てなく接し、それは佐々木も同じタイプであるものの、佐々木の場合は男相手限定  
で口調を変えるという稀有な性質があったため、おおむね男子連中の人気は橘六、佐々木四く  
らいに分かれるという説を以前谷口からこんこんと聞かされた。俺に言わせりゃどうでもいい。  
アラスカにでも行ってオーロラ相手に語りかけててくれ。文字通り玉虫色の反応が期待できる  
と思うぜ。  
 
 超常現象研究会――。  
 
 それがこの文芸部室に間借りしている我々五人が所属する団体名だった。  
 この部ができた経緯を語るには、時計の針を一年とひと月前まで戻さねばならない。  
 
 ………  
 ……  
 …  
 
「キョン。部活動には顔を出してみたかい?」  
 去年の五月の連休明け、この時も同じクラス、同じ席順だった俺と佐々木は、朝のHRを前に  
そんな会話を始めた。  
「いいや。もともと体育会系って気質でもないしな。かと言って文化部に入ってひとつのこと  
に打ち込むってのも性に合わん。ひょっとしたら何か向いてる物事があるのかもしれないが、  
同好会一覧の中に目を引く団体はなかったな」  
 すると佐々木は腕組みして視線を中空にやり、  
「そういえば中学でも何かに打ち込んでいるようではなかったね」  
「まぁな」  
 
 我ながら怠惰と思うことしきりだったが、要するに休日をまるまる使って練習に打ち込んで  
友情なり絆を深める、みたいなことに対してちょっと傾いた態度を取った結果だ。友達ってこ  
となら、それこそクラスで顔合わせてる連中とたわいない話に興じているほうが楽しかったし  
な。わざわざ部活に出向いてまで別の仲間を持とうとも思わなかった。  
 すると佐々木はいつもの好奇を充満させたようなキラキラした目で、  
 
「どうだろう。ここは一つ、僕と君とで新しく部を作ってみないかい?」  
 思わず机から出したノートを取り落としそうになった。  
 今何て言った? すまんが聞きとれなかったのでもう一度言ってくれないか。  
「だから、新しい部を設立してみないかと言っているのさ。どうやらこの学校にはこの世の物  
理法則に反した現象を扱う団体はないようだからね。そのような内容のクラブを作れれば、き  
っと楽しいことになると思う」  
 目尻をわずかに細くして笑う佐々木に、俺は唖然の二文字を貼り付けたツラをしていただろう。  
「ちょっと待て。それはあれか? つまるところの、超常現象――」  
「研究会」  
 佐々木が俺の言葉を引き取った。俺が目を点にしていたのは言うまでもない。  
 
 佐々木が俺を瞠目させたのはこれが初めてではない。以前に一度だけ同じようなことがあった。  
 他ならぬ中学時代、最高学年でいざ志望校を決める段になってのことで、こいつが俺と同じ  
くこの県立高校に行くことに決めたと聞いて、俺はたいそう面食らった。佐々木は当時から学  
年トップの座を揺るぎのないものとしていて、それゆえにてっきりここから遠くにある私立の  
進学校のいずれかに行くのかとばかり思っていた。  
 
 それ以来となる実に数ヶ月ぶりのサプライズである。  
 学校の生徒手帳を見たところ、何でも新しい部を立ち上げるには最低五名の生徒が必要で、  
つまり少なくともあと三名集めなくてはならない。  
 が、佐々木はいざ行動するとなると実に迅速で、さながら春一番のような勢いと朗らかさで、  
気づいた時には俺と佐々木以外の部員三名に加えて部室、プラス顧問まで用意してきやがった。  
「キョン、物事はタイミングだよ。ここだと思ったときに躊躇すると、二度と訪れない出会い  
や現象というものがあるのさ」  
 俺は無意味に当惑した。一年以上こいつと友人関係にあるが、よもやこんな性質も兼ね備え  
ていたとは思わなかったよ。  
 俺が驚いている間に超常現象研究会は発足の運びとなり、その日のうちに俺は他部員三名と  
引き合わされた。  
「廊下で偶然出会った人にとりあえず話を持ちかけてみたんだがね。片端からOKの返事が来た  
のは僥倖と言うべきだろうね」  
 片手の平で指し示しつつ佐々木は、  
「こちら、六組の周防九曜さん。この部屋は元々文芸部で、彼女は文芸部員でもあるんだが、  
このたび超常現象研究会と兼部してくださることになった。この部室も共用ということで。彼  
女がいなければこの幸運はもたらされたなかったと思うよ。奇特なお人だ」  
「…………」  
 当の周防九曜は何も言わなかった。以後数日と経たずに解ったが、こいつは地球上探しても  
そうはいないってレベルの無口人間であり、眠たげに目を一度こすっただけで、他にリアクシ  
ョンらしい動きもしなかった。ただ黒く長く量の多い髪と茫洋とした白い顔だけがやたら印象  
に残った。  
 佐々木は慇懃に十五度のお辞儀をして、次の説明に移る。  
「こちらは橘京子さん。彼女は八組の生徒さ。入ろうとしていた部は他にいくつかあったそう  
なんだが、僕が話を持ちかけると二つ返事で快諾してくれた。僕と気が合いそうだ」  
 すると橘京子と呼ばれた少女は小首を振って柔らかく笑い、  
「橘です。いろいろと気になることはあるのですが、今はただよろしくと言っておきます」  
 ふふっと笑って隣にいる第三の部員の方を向いた。このままでは女子の中で俺だけ男という、  
紅一点の真逆を実現してしまう寸前であったが、幸いにして次の人物は男子生徒であった。  
 そいつは腕組みの姿勢で佐々木の説明を待たずに、  
「藤原と呼べ。それだけ解れば十分だと判断するから、この場で他に言うべきことはない」  
 
 思わず「何様だお前」とチョップの一つも入れたくなった。しかし佐々木が、  
「彼は二年生で、つまり上級生だ。この学校のことについても鞭撻を仰げると思うよ」  
 そう言ってまたクスッと笑う。どうやら俺と藤原との視線の応酬が気に入ったらしい。  
「と、まあそういうわけで。これからよろしくお願いします」  
 佐々木が最後に総括して、めでたく(と言うべきかこの時の俺には解らなかったが)超常現  
象研究会が発足したのである。ついでに言っておくと顧問教師は俺と佐々木のクラス担任であ  
るハンドボールラヴァー体育教師の岡部だ。首尾よく判を押してくれたのは、佐々木の弁舌達  
者な言葉運びと頭の切れ、そして何より人好きのする本人の性格によるところ大だろう。  
 
 …  
 ……  
 ………  
 
 と、こうして一年前にわれら超常現象研究会のメンバーは初顔合わせを果たしたわけで、以  
来、慎ましやかな部長(本来会長となるのかもしれないが、「それでは生徒会長と紛らわしく  
ないかい?」という佐々木の言葉で『部長』という呼称を採用した)の元、月に数度の割合で  
実際に謎の現象が目撃されたり噂された地区を訪ねたり、かたや宇宙の神秘に触れるべく天体  
観測を夜の校舎屋上に忍び込んで敢行したり、古来の文化からその悠久の歴史に潜む謎を知暁  
すべく調べたり……。  
 そういった具合に、時折合宿をとり行ったりもして、この一年思いもよらぬ体験をしてきた  
俺だった。それと言うのも佐々木がこの会を起こしてくれたおかげなのだが、そういえば未だ  
何がきっかけでこんな突拍子もないような集まりを起こそうと思ったのか、その理由を聞いて  
いない。取り立てて訊くようなことでもないかと最近では思っているが、佐々木がこんな行動  
に出たことに、当時の俺は一週間くらい疑念の徒となっていた気がする。  
 
 
 さて、今現在の部室では俺と藤原によるチェスマッチが展開され、それを橘と佐々木が話の  
伏目に見やり、周防が涼やかにページをめくるといういつもの風景が続いていた。  
「チェックメイト」  
 藤原が俺のキングを進退いずれも選択不可の極致に追いやって白星をあげた。これまでチェ  
スに限らずあらゆる種類のボードゲームを主にこいつが持ってきて勝負してきたが、要領がい  
いのか三回に二回はこの不遜な先輩上級生が勝ちを収める。  
「むむ、ぬかったか」  
 俺はスコアボードに自らの黒丸とその上に白丸を書くと、不敵に口の端を曲げている片割れに、  
「休憩しないか。これで三連戦だしさ」  
「いいだろう」  
 ほんとなら先輩に対して敬語の一つも使うべきなのかもしれないが、いつの間にか互いに礼  
節とか敬仰の念ってものを捨て去っている間柄である。こんだけ傲然とされればわざわざかし  
こまって謙るのもはばかられるってものであり、藤原の才能と呼べなくもない。  
「さ、それじゃ明日の予定を決めようか」  
 言ったのは佐々木だった。基本的に議事進行も部長たるこいつが務めているのは、俺も橘も  
藤原も周防も向いてないという単純な消去法によるものだ。  
 佐々木は休み時間に森羅万象に対する小話をする時と何ら変わらぬ雰囲気のままで、  
「ひさびさに市内散策をしようと思う。それといつもの場所で七夕に向けてプランを練ろう」  
「お散歩は久しぶり。今からわくわくなのです」  
 橘が相槌を打って佐々木とクスクス笑い合った。さながら年子の姉妹のように見えなくもない。  
「…………」  
 周防が金属光沢を思わせる犀利な瞳で俺を見た。  
「七夕――」  
 そう言うと漆黒の髪を微動もさせずに、周防はまた天体図鑑に目を落とした。何が言いたい  
のか読み取れたことなどこの一年を通じて片手で数えるほどしかなかった気もするが、そんな  
事態になる時は何かしらの黄信号が灯る時であると解っていたので、判別しかねた今は真実平  
穏と見ていいんだろう。たぶん。  
「他に意見のある人はいるかい? いつも言っていることだけど、なるべくなら全員の希望を  
取り入れるようにしたいからね」  
 すると橘京子が挙手とともに、  
「はい。ウィンドーショッピングがしたいです」  
 
「またか」  
 すかさずツッコミを入れるのは藤原である。反射的面訴に対し、主張者たる橘は、  
「いつも何にも提案しないあなたより千倍マシだと思いますけど」  
「ふ。何も買わない客というのは店舗にとって冷やかし以外の何物でもないからやめたらどう  
だ。というのは僕にとって十分建設的な意見だがな」  
「どう聞いたって退廃的だわ! 詭弁よ詭弁」  
「何とでも言え」  
 このようなやりとりはほぼ毎日のことで、その度俺は三種の渋茶を混合して口に含み続ける  
ような表情となり、佐々木はクスクス笑いを続行。周防は何にしても反応らしい反応をしない  
が、三回に一回くらいは目線をちらとよこすことがあり、どうやら興味がないわけでもないら  
しい。  
「まぁまぁ。しばらくぶりだしいいんじゃないかな。街路はかなり暑いと思うから、あんまり  
長いこと外にいても身体に毒だしね」  
 と部長が一声上げると結果的に丸く収まるのもこの研究会の常だった。かくして明日の予定  
が決まり、やがてこの日の活動は終了した。  
 
 部活が終わると、俺たちはいつも揃って長い坂道を麓の駅前まで歩き、それぞれに自宅方向  
へ歩いて一日は終了する。  
「じゃぁな」「また明日」「さようなら」「おう」「――」  
 それが俺の静逸としつつもどこか珍奇な日常のメインパートだった。  
 このメンバー、この部室、この時間。  
 だから俺は安心していられた。  
 そして、そんな日々が続いて行くと思っていた。  
 
 しかし間違いだったのだ。  
 ジグソーに違うピースが紛れ込んでるなんて甘いものではなく、その何もかもが。  
 
 
 土曜日の朝。七時半に目を覚ました俺は、「いつもの場所」へ向けて自転車を駆った。  
 月に数度、休日の会合をとり行うべく嘯聚するのがそこであり、すなわち北口駅前だ。  
 学校の最寄駅とは離れたこの場所は市内から出かける際にも起点として役立ち、それは近隣  
住民であれば誰もが同じである。  
「おはようございます。晴れてよかったわ。陽射しが強くなりすぎるのは勘弁ですけど」  
 唯一の先着者は橘京子だった。いつも思うのだが、休日となるとこの爛漫女子生徒の服装に  
敵う相手はそういない。夏仕様と思しきフレアメッシュのカットソーは黄色を基調としていて、  
めずらしくジーンズをはいている。一体洋服にどれだけ金かけてんだお前、と藤原なら言うか  
もしれんが、俺は無用な火傷を負う気はないので黙っておこう。  
「今日も藤原が最後かね」  
 俺が疑問を投げると甲子園を目指す名門校の主将ピッチャーより鋭くキャッチしたこの八組  
女子は、  
「どうかしら。もしそうだったらこれで七連続ですよ? 許しがたいわ。いっそこれまでの分  
も含めて全額奢らせたいくらいです」  
 括った髪を揺らせてまだ現れない相手に対し気勢を上げるのはいいが、完全割り勘制は部長  
の取り決めだし今後も揺るがないと思うぜ。  
「佐々木さんは甘いんです! あぁいう侃侃諤諤とした上級生づらは、一度戒めないと解らな  
いのよ」  
「おや、早くもここは炎天下みたいだね。おはよう」  
 佐々木が夏場であることを思わせぬ涼感伴う挨拶と共に現れた。勿忘草色のカーディガンに  
フリルスカートは黒。示し合わせてるんじゃないかってくらい橘と守備範囲を違えているのは  
単純に趣向の違いだろうか。  
 
 しばしの間超常現象研究会女子は昨日見たテレビドラマに関して独自の見解をそれぞれに話  
し合っていたが、  
「…………」  
「遅くなった」  
 無愛想担当の二名が同時に到着したところで会話を打ち切った。  
「遅いどころじゃないのです。解ってるなら早く来て下さい。……あぁ、周防さんはいいの。  
この腑抜け遅刻常習犯にあたしは言ってるのだから」  
「――遅刻。……時間に――来ない」  
「誰も遅刻していないけどね」  
 佐々木が腕時計を見て爽やかに会話にオチをつけた。  
「今日も暑くなりそうだし、とりあえず涼めるんなら早いとこ喫茶店に行っちまおう」  
 俺が提案すると藤原が、  
「同意する。この気候は僕には合わない」  
「偉そうですねいつもいつも」  
 唯一の三年生が何か言うと八割方橘のコメントがセットなのはいつものことである。  
「――気温上昇」  
 周防が北高制服の長袖で片目をこすり、  
「それじゃ行こうか。時間は長いようで短いのだから」  
 佐々木が言って一同が歩き出す。  
 
 その時だった。  
 
「いたっ!」  
「うわ」  
 誰かとぶつかった。  
 振り向きざまだったのでまるで警戒のしようもなかった。肩にほど近いところへ誰かの頭部  
がぶつかったらしい。俺は謝罪すべく接触した相手を確認する――。  
「…………」  
 シロウサギを思わせるくりくりした瞳が、俺を見上げていた。  
「ごっ、ごめんなさいっ!」  
 少女であった。とんでもなく可愛らしい姿の。  
「いえ! こっちこそすいませんでした」  
 彼女につられて俺も挙動不審がちに返礼する。  
「あの、それじゃあたし急ぐんで。……さよならっ」  
 そう言うと少女は俺の脇をそよ風のように通り抜けて駆けていく。  
 十メートルほど向こうに、少女を待っていると思しき男女の集まりがあった。その面々に目を  
やった俺は――  
 
「痛っ!」  
 
 超瞬間的頭痛が走った。痛みを感じた直後にはもうまったく普段通りというほどに一瞬なの  
だが、刹那的に感じたそれは激痛と言っても差し支えないほどだった。  
 俺は再び男女の集団に視線を飛ばす。するとその中の一人に目を奪われた。  
 先ほどの春風少女が釈明しているらしい相手。黒髪のショートヘアを微風になびかせ、どこ  
か傲然と眉を吊り上げているその人物も少女であった。  
 どうやらその一団は女三人に男一人という編成らしく、見ると男のほうは連れの女性陣に負  
けず劣らず眉目秀麗な顔立ちをしていた。……ははぁ、ハーレム状態ってやつか。  
「キョン、どうしたんだ?」  
 背後から佐々木の声がした。俺はすかさず振り向いて、  
「ん、いや何でもない。ちょっと暑さにクラッと来ただけだ」  
 と言いつつ今一度向こうの集団を振り返ると、唯一の男と目が合った。  
 が、次の瞬間には背けられた。ひょっとしたら目が合った気がしただけだったのかもしれん。  
「ならばなおのこと速やかに避暑と行こう」  
 
 佐々木は微笑を変えぬままで歩き出した。橘藤原が後に続き、俺もそのようにすべく身体を  
反転させかけたところで、  
「…………」  
「周防?」  
 黒髪緘黙娘が先ほどの一団が消えた方角へ瞬きせぬ視線を送っていることに気がついた。  
「おいっ。行くぞ」  
 目の前で手を振ると、周防は一度瞬きをしてこちらを目の端でとらえ、  
「了解――」  
 俺は何か言う代わりに首を傾げた。  
 
 
 先ほどの一団が気になっていたのも店に入るまでのわずかな時間で、弱冷房が心地よい店内  
に踏み入るとたちまち頭は切り替わった。  
 先客がいない限りここにするといういつものテーブルに男女別で座り、さっそく佐々木と橘  
がめいめいのバッグからノートやらパンフやらチラシやらを取り出す。  
「佐々木さん、あたしからでいいかしら?」  
「どうぞ」  
 年中動摩擦係数ゼロの二人が実に円滑に順を決めた。  
「七夕からはちょっとずれちゃうんですけど。夏休み。折角だからあたしの伯父さんの別荘で  
合宿したらどうかなって思ったのです」  
 そう言うと橘は旅行代理店のセールスレディのようにパンフレットを数冊広げた。  
「別荘を持っているのかい? 気前のいい話だね」  
 パンフの一冊をしげしげと眺めながら、佐々木は遅れて咲いたナズナのような笑みと共に言  
った。  
「俺らみたいな面識のない人間が行っちまっていいもんなのか?」  
 俺が至極真っ当な疑問を呈すと、  
「全然大丈夫です。あたしが小さい頃から伯父さんあたしにメロメロだもの」  
 橘は伯父が倒錯者と疑われても仕方ないようなセリフをあっけらと言った。  
「こんな通年調子はずれに見るべきところなど何一つないと思うがな」  
 藤原がアイスブラックを啜って冷淡に言った。  
「じゃあなたは来なくていいです。あたしと佐々木さんと周防さんとキョンくんとで行きます  
から」  
 橘はテーブルに両拳を叩いて言った。  
 おい待て。そうなると俺は山奥の避暑地で精神的実質的孤独を否が応でも満喫する羽目になる。  
「まぁまぁ。彼が本気で言ってるんじゃないのは橘さんだって解ってるだろう?」  
 佐々木が柔よく仲裁を試みて、藤原、橘の両名は言葉抜きの返答をするのだった。さながら  
変わりばんこにブランコに乗れと言われた近所の子どものごとき様相である。  
 
 
 結局橘案は佐々木の如才ない仲介によって事なきを得て、合宿の開催が無事決定された。  
 その佐々木はと言うと、  
「さて七夕の夜だけどね。ベタではあるけれど天体観測をしたらどうかと思う」  
 キラキラした瞳で部員全員を均等に覗って、事件の解決編を語る準備のできた私立探偵よろ  
しく口の端で笑う。  
「別に異を唱えるわけじゃないが、観望なら定期的にやってるよな」  
 俺の言葉に佐々木は動じず、  
「そうだね。だから今回は場所を移そうと思うんだ。いつもは学校の屋上に忍び込んでいるけ  
れど、ちょうど格好の区画を提供してくれるって人物がいてね」  
 俺が誰かと二秒ほど考えて、  
「鶴屋さんか?」  
「ご名答」  
 正解だった。  
 鶴屋さんというのは藤原と同じクラスの三年生で、事あるごとに俺たち超常現象研究会に現  
れては快活に場を盛り上げて、最後まで同テンションのまま帰って行く愛嬌たっぷりの先輩で  
ある。日本全土探してもそうそうないだろう大庭園を持つ日本家屋に住んでおり、それだけで  
家系の重鎮ぶりが伺い知れる。  
 
「こことは別にもう一つ目立った小山が市内にあるだろう? どうやらあそこが彼女の家の私  
有地らしくてね。七夕の話をしたら二つ返事で快諾してくださった」  
 佐々木と鶴屋さんね。さてどっちから話を切り出したんだろう。  
「晴れるといいですね」  
「うん。僕もそう願っているよ」  
 佐々木と橘のやり取りを耳にしつつ、ちょいと横目で藤原の表情を盗み見た。  
 注意しないと解らないくらいの微細さで口角が上向いている。  
「何を見ている?」  
 即刻バレた。さすが抜け目がないな。  
「ふ。一年もこのような場で話をしていれば、お前含め全員の性質なんて火を見るより明らかだ」  
 腹話術のような小声で語りかけてくる上級生に、俺も息つくついでに返事をしてやった。  
 
 やれやれ、ってね。  
 
 
 翌日。日曜日のことである。  
 俺はまるまる空いた一日を寝坊することもなく起きたものの、だからといって取り立ててす  
ることは見当たらず、いや試験勉強すべきだが残るは文系科目だけなので何とかなるさと腹を  
くくって漫然と午前を過ごしていた最中。  
「キョンくん。電話だよーっ」  
 妹が子機を片手にこちらへやって来た。  
「誰からだ?」  
「知らないひとー」  
「名乗らなかったのか?」  
「代わればわかるからって」  
 小学六年生十一歳のわが妹は、ちろっと舌を出して受話器を俺に渡すとさっさと行ってしま  
った。格好からしてありゃ友達の家にお出かけか。  
 俺は点滅する保留ボタンを押して電話に出る。  
「もしもし」  
『もしもし。……こんにちは。初めまして、と言うべきですね』  
 聞いたことのない男のものだった。  
「誰だ?」  
 いささか乱暴な訊き方になってしまったのは、俺に休日電話してくる同性など藤原でなけれ  
ば谷口か国木田あたりがせいぜいであり、要するに心当たりがなかったからだ。  
『佐々木さんの秘密を知る者……とでも言えば話は早いでしょうか?』  
 その言葉に心臓が早鐘と警鐘を鳴らす。  
 
 なぜ知っている。  
 
 すると電話の主は俺の様子を察したのか、受話器越しで微かに感じ取れる笑い声とともに、  
『いやだな。言っておきますが怪しい者ではありませんよ。どうやら時期が来たようなのでね。  
あなたに接触する場を設ける必要があると思いまして』  
 言ってる意味がさっぱり解らない。こいつは何者だ? 藤原や橘の仲間か? ……いや、だ  
としたらあの二人が俺に事前に知らせておかないわけがない。  
 電話の男は微笑する気配を維持したままで、  
『どうか警戒を解いていただけませんか。謎を解きたいのでしたら、昨日あなたが佐々木さん  
がたと集合した場所に午後一時に来て下さい。危害を加えないことだけはお約束しますよ』  
 俺が何も言えないでいると、適当な別れの辞句とともに電話は切れた。  
「何なんだよ」  
 思わず疑問が口をついた。  
 あいつは何て言った。……時期が来た? 佐々木の秘密を知ってる?  
 それでなぜ俺に連絡してくる。解らないことだらけで脳内回路が火花を散らしそうだ。  
 
 まず俺は橘や藤原に連絡するかどうか迷った。  
 万一何かあった場合、頼れるのはあの二人くらいだ。電話の男は危害を加えないとか言って  
たが、それじゃなぜ俺だけに連絡してくる。  
 
 迷うのは半時にして、俺は携帯に持ち替えてアドレス登録からまずは藤原の番号を呼び出す。  
 コール。  
「…………」  
 出ない。待ってる間に留守電に切り替わっちまった。  
 丁度手が塞がってるだけかもしれないが、胸を靄がかかったような不安がよぎる。  
 やむなく橘に電話をかける。するとこちらはツーコールほどで反応があった。  
「もしもし。あたしですけど、何か用でしょうか」  
 変わらぬ声に俺はわずかばかり安堵する。  
「橘。たった今佐々木の秘密を知ってるって男から電話があった。どうも俺に会いたいらしい  
ことを言っていて、この後時間指定つきで待ち合わせすることになった」  
 俺が言い終えると、続いたのは明らかな沈黙だった。  
 受話器の向こうで表情を失う絵姿が見え始める頃になって、ようやく橘は口を開く。  
「そう……。来たのね」  
「奴は何者なんだ? 橘。お前はあいつを知ってるのか?」  
 俺の質疑に電話向こうの同学年は、  
「いいわ。彼に会ってください。言ってる通り、危害を加えるような真似はしないと思います。  
詳しくはその後で」  
 橘はそれだけ言うとしぼみかけの風船のような気の抜ける声でさよならを告げて電話を切った。  
 何がどうなっているのだろう。さっきから謎が増える一方だ。  
 今解っているのは、佐々木に関してまた何事か起ころうとしてるってことくらいか。  
 脳裏の信号が静かに黄色に変わろうとしている。俺の感性は行くなと主張するが、行かなけ  
ればもっと悪いことになるかもしれない。  
 
 
 チャリを飛ばして昨日に引き続き駅前の広場に出向いた俺は、即座に一つの回答を得る。  
 そこにいたのは昨日見かけた高校生グループの中にいた唯一の男子だった。  
「電話の主はお前だったのか」  
「遠目からだったのに覚えていてくださって光栄です。さ、立ち話は何ですから、どこかお店  
にでも入りましょう。もちろん僕が奢りますよ」  
 無闇に笑顔を振りまくハンサム野郎だった。俺より背が高く、外見だけなら俺は完敗の二文  
字を闘う前から掲げる自信がある。  
 どこでもいいですよと野郎がいったので、俺はいつもと違う喫茶店をわざわざ選んでそこに  
入った。ウェイターにアイスコーヒーを注文して、できるだけ不機嫌な表情を意図して作るよ  
うに心がける。  
「自己紹介がまだでしたね。古泉一樹と申します。以後お見知り置きを」  
 古泉と名乗るその男は、カジュアルスタイルの長袖を丁寧にまくって、若手営業三年目のよ  
うな穏和かつ親和な微笑で、  
「今日お越しいただいたのは他でもありません。あなた自身に僕らの存在を知っていただこう  
と思いましてね」  
 俺は瞑目すると、  
「お前は何者だ」  
「超能力者……と言えば、あなたにもピンとくるものがあるのではないですか?」  
 将棋でとっておきの一手を差して相手の機先を制した時のような顔で古泉は言った。  
 俺はというと、心臓を剣先で突っつかれたような当惑を覚え、それは外面にも現れたようだ  
った。古泉はお冷を少し口に含んでから、  
「本当は一年前にあなたとも面識を持っておくべきでした。橘さんさえいなければね。このよ  
うなことにはならなかったのですが」  
 橘がお前に何かしてたってのか。  
「彼女の組織は我々のところより遥かに強力な力を有しているのですよ。組織力とでも申しま  
しょうか。ですから迂闊に手を出そうものなら、反対にこちらが首を括られかねない。先ほど  
何でもないようにかけた電話も、そこに至るまでにはひとつと言わず悶着があったのですよ」  
 口数が多い割に何一つ核心に触れようとしない。それでいて依然すべてを知ってるかのよう  
な笑みを貼り付けているのが癪に障る。  
「早いこと本題に移ってくれないか」  
「これは失礼を。ようやくあなたとこうしてお話する機会を設けられたもので、つい口が弾ん  
でしまいました」  
 気色悪いことをさらりと言って、古泉はなおも妍姿たる微笑を崩さない。  
 
「用件と言うのは他でもありません。佐々木さんの力をよそへ移していただきたいのです」  
 迷い人に道を教えるような親切めいた口調による文言が、俺の思考を奪い去ろうとする。  
 ……どうして知っている。  
 古泉は俺の心中など意にも介さぬように話を続ける。  
「涼宮ハルヒ、という人物をご存知でしょうか?」  
 知らない名だ。涼宮。そんな姓の人物は俺の歴史上一度も存在したことがない。  
「確かに珍しい苗字ではありますね。しかし、彼女の特異な点は何も名前だけに限った話では  
ありません」  
 ここで一度店内を睥睨した古泉は、俺に笑いかけるように視線を送りつつ、  
「涼宮さんも世界を変えてしまう力を持つ資質を有しています」  
 言葉の効果を確かめるように数拍置いた。間にコーヒーが運ばれてくる。  
 古泉はたった今届いたそれを優雅に一口飲んで、  
「佐々木さんが今現在有している力。それは元々涼宮さんが持つはずだった……と我々は考え  
ています。あぁ、『我々』というのは、僕の所属する機関のことですが」  
 俺は到底コーヒーを飲む気になどなれなかった。まるで毒でも入っていると聞かされたかの  
ように、俺の背筋はシベリア寒気団も真っ青になるほど凍りついている。  
「あなたもご存知の通り、佐々木さんには世界そのものを望む方向へと運ぶ力があります。今  
のこの平和とも呼ぶべき日常は、まさしく彼女の力によってその姿を保っている」  
 古泉は弁舌すべらかに話し続ける。……どうやら、こいつが佐々木について知っているとい  
うのはハッタリやデマカセの類ではないらしい。  
「そこまで解ってるのか。ならどうしてその涼宮だかって女にわざわざ力を移す必要がある」  
 そう言うと古泉は深く頷いて、  
「このままでは困る事情がありましてね。僕が今日ここであなたにお会いしたのはそのためです」  
 事情ってな何だ。お前の面目が立たないなんてことなら今すぐ帰らせてもらう。  
「それくらいであればむしろ歓迎すべき事態です。が、そんなに簡単な話ではないのです。こ  
こでひとつ頼みがあります。今から僕とある場所に同行していただけませんか?」  
「断る」  
 誘いの類は全て断るつもりでいたので、俺は即答した。  
 すると古泉は顔色一つ変えずに、  
「予想していましたがつれませんね。その目で見ればあなたも考えを変えると思ったのですが。  
ならば一つだけ申し添えて起きましょう。信じる信じないはあなた次第ですが、このまま佐々  
木さんが力を持ち続けた場合。結果として世界は崩壊することになるでしょう」  
 言うに事欠いてそれか。ヒーローショーに興じる幼稚園児でも騙されやしないと思うがな。  
「僕だって無意味な道化を演じるために一年も待ったりはしませんよ」  
 古泉一樹との険悪な会談はそうして幕を閉じた。  
 
 
『彼らとは四年前からずっと平行線状態なのです』  
 古泉一樹との二者面談の後、俺は橘京子に再度電話した。  
 受話器越しの橘の声はいつもと変わって神妙だった。  
『あなたも知ってるように、あたしたちの組織は佐々木さんの存在をすべての軸として発足し  
ています』  
 一呼吸するような間を置いて、  
『いっぽう彼――古泉さんの所属する機関は佐々木さんではなく、涼宮ハルヒさんのほうに焦  
点を当てているのです。話し合いの場を設けた最初の日から、あたしたちとあちらの意見はい  
っこうにまとまる気配を見せませんでした。今では冷たい相互干渉を続けるばかり』  
「何だって急にこっちに接近してくる必要があるんだ? ……いや、その理由はあの古泉も言  
ってたな。佐々木の力をその涼宮って女に移せとか。じゃないと世界は崩壊するとまで」  
 俺が言うと、橘は考えこむような空白ののち、  
『……そんなことを言ったのですか。言い分だけなら何となく解りますけれど』  
 俺にはさっぱり解らない。  
『あなたが言ったように、彼らは涼宮ハルヒさんに佐々木さんの力が宿っていないと世界は崩  
壊してしまうと考えているんです。いいえ、考える以前にそう感じているの。あなたは自分が  
日本人で、男であることを当たり前だと思っているでしょう? それくらいの確信があるんです』  
 お前は佐々木に対してそう思ってるんだもんな。  
 
『ええそうよ。それは再三話した通り。だから涼宮さんに力を移すなんてもってのほかなんです』  
 また沈黙の停滞があったが、橘は付け足すように、  
『あなたは……どう思ってますか?』  
 何だそれは。  
『佐々木さんがこのままなら、世界は無事に続くってあたしは信じています。けれどあなたは  
どう? 誰に神様の力が宿ればいいと思いますか?』  
 冗談のような話だが嘘でも何でもないのはよく解っている。  
 が、だからってそんな得体の知れん力の適格者が誰かなんて訊かれて、どう答えろというの  
だろう?  
 
 しかし、俺はこう思う。  
 今さら佐々木から力を奪って他の奴に押し付けるくらいなら、自覚ないままでわれらが部長  
に持ってもらって、その収集を俺たちでつけてるほうがいいんじゃないか? 少なくとも二者  
択一で答えを迫られたら俺はそう返事する。これまで何とか五人でやってきたんだ。これから  
もきっとうまくやっていける。  
 
『……よかった。それなら大丈夫ですね』  
 橘の安堵を音符に変えたような口調が耳に響く。  
『佐々木さんにはあなたがお似合いだと思うもの』  
 心臓を直に触れられるようなセリフだった。俺が何か苦し紛れのイイワケをするより早く、  
『これからも傍にいてあげてね』  
 悔しいことに何も言い返せず、以降俺が発せたのは通話終わりの挨拶くらいだった。  
 
 
 ベッドに寝転んで天井を見上げると、古泉一樹のムカの入る無害スマイルが浮かび上がって  
きた。何か知らんが腹立たしい。俺は首を振ってその残滓を振り払い、風呂でも入るかと身を  
起こす。  
 すると妹が部屋に入ってきて、  
「キョンくーん。お客さーん」  
「誰だ」  
「藤原くん。今日は京子ちゃんと一緒じゃないんだね」  
 勝手に俺の机から文房具をカチャカチャと漁りつつ妹は言った。それをあの素直と対局にい  
る先輩男子に聞かせたら面白い表情が見れると思うぜ。  
 なんてことは言わずに俺は適当に手を振ってドアを閉めると階段を下りた。本人が下にいる  
んじゃ、妹がいつ何時吹き込んだ悪知恵を実行するとも限らんしな。その場合真っ先に俺に容  
疑がかかり、冤罪かどうかなんて関係無しに三日間くらいは遊ぶゲームをオセロにされる。定  
石を知ってるのか、オセロじゃ藤原の勝率は実に九割を超える。奢り連チャンはごめんなんでね。  
 
 
「よう。着信履歴を見てな。こちらも用があったから来てやった」  
 デフォルトでセリフにキャット空中三回転半ひねりがかかる先輩藤原が言った。  
「立ち話も何だ。歩こうじゃないか」  
 俺はこの提案に頷いた。夏の夜。街頭には散歩するにも物思いに耽るにもうってつけの舞台  
が広がっている。  
「古泉一樹と会ったのか」  
 藤原は言った。口調は相変わらずいつも皮肉を言う調子と変わらないが、変わってもらって  
も困るように思うので俺は素直に肯定し、  
「お前もあいつを知ってるのか」  
 すると藤原は首を振って、  
「詳しいことは聞いていない。ただこの時代に来る時に調べた名前の中にあったというだけの  
話だ。別の人物ならともかく、その男に至っちゃ僕の管轄外だ」  
 何やら含みのある言い方だったが、藤原はまたも首を振り、  
「重要なのはそこじゃない。ついさっき起きたことにある。厄介なことに原因は不明だ。佐々  
木にあると片付けてしまうのは簡単だが、さてそうすんなり行くだろうか」  
 
「何が起きたってんだよ」  
 公園を迂回して、道は引き続き街灯の照らす閑静な住宅街である。通行人は誰もおらず、さ  
すがにまだ時期が早いから寝坊したセミが鳴いてることもない。  
 
「未来時空との交信が一切絶たれた」  
 
 俺は歩みを止めていた。  
 目と口を半開きにしたままで、半袖シャツが夜光をほのかに反射する藤原の立ち姿を見ていた。  
「いいリアクションだ。そのくらいの当惑がほしかった。わざわざ来た甲斐があるというものだ」  
 冗談のように口の端を歪ませる笑い方もいつものものだったが、  
「時間移動はどうした? ひょっとして……」  
「皆まで言うな。その通りだ。今現在の僕はTPDDを使うことができない。あるのに使用停止さ  
れている。遺憾だが原因を独力で突き止めるのは無理みたいだ」  
 ふっ、と息を吐いて諦観の微苦笑。お前。何でもないみたいに言ってるが、もしも元いた時  
代に帰れないなんてことになったらどうなるんだよ。  
「さあな。……ここで暮らすか? 文明も思想も亀の歩みのこの時代で?」  
 藤原はそう言うと一人で歩き出した。対話者たる俺に背を向けて。  
 
 追いかけようとすると気配を察したのか手を振って「来るな」のジェスチャーとし、やがて  
夜陰にまぎれて藤原はどこかへ消えた。それがあの上級生なりの付き合い方なのだということを  
俺はこれまでの経験から知っている。へこんでも折れる奴じゃないってこともな。週明けには  
元通り登校して解決策を練ろうとするに決まっている。  
 
 そして、俺は今回も何とかなることを信じて疑わなかった。  
 これまでやってこれたから、という、ただその頼りない一点のみを理由に。  
 次第に強くなろうとしていた風の前に灯された、それは細く脆い蝋燭であるとも知らずに。  
 
 
 一年前、佐々木が集めた三人はたまたまなどではなく、ある必然によって一同に会した。  
 
 橘京子は超能力者である。  
 橘には佐々木の内面を投影した『閉鎖空間』に入り込む能力があり、そこから佐々木の心理  
状態を知ることができる。閉鎖空間の内部は誰もいないことと色が単色であること以外はこの  
世界とまったく同じ。通常淡いクリームイエローで統一された色調は、時に紺色になったり、  
グレーになったり、さながら水彩画の信号のように佐々木の心情を反映する。元の色に戻らな  
いと、通常空間のどこかに何らかの発露があり、それは大抵自然災害や天変地異の形を伴って  
世界のどこかに降りそそぐ。四年前、橘は佐々木の力を察知し抑制する方法を悟り、そうして  
超能力者となった。似たような力を持つ人物があと数人いるらしい。  
 
 周防九曜は宇宙人だ。  
 本人曰く『天蓋領域』という名の宇宙にまたがる情報意識体で、実体はなく、不可能もない。  
……と考えられていたが、佐々木が物理法則を無視して超常現象を発生させる不可解な能力を  
保有していることに気づき、その調査をすべく人類とコミュニケートできる人型端末を作製し  
て地球に送り込んだ。観察用端末たる有機インターフェースこそが周防九曜である。天蓋領域  
と直接コネクトできる周防は、人間とはおよそかけはなれた魔法のような力を持っていて、こ  
れまでにも何度か助けられた。  
 
 唯一の先輩藤原は未来人だ。  
 どれくらい先の時空から来たのか明言はしていないが、藤原は時間跳躍を可能とする無形の  
装置を持っている。ゆえに過去や未来へ時間を遡ったり進んだりすることが可能なのだが、ど  
うも制限があるらしく、自在に使えるわけではないらしい。元いた時代と連絡を取って、許可  
が下りれば時間移動できる。藤原がこの時代に来たのは、佐々木が原因と思しき時空障壁が現  
在にあり、これより過去へ向かうことができず、その原因を突き止めるためという話だった。  
 
 
 三者ともそれぞれ別の勢力に属し、目的もバラバラであるにも関わらず、一年以上この超常  
現象研究会で同じ日々を過ごしてきた。依然として各々の目的は達成されていないらしいが、  
それが佐々木の力とどう関係しているのか、誰にも解らない。  
 
 
 馴染みとなった通学路を今日も歩きつつ、俺は思う。  
 何かが起きようとしている――。  
 日が変わってもまだ古泉一樹とやらの柔和な笑みが浮かんで消え、昨日の藤原の発言を思  
い出して胸騒ぎを感じる。  
 
 
 テスト最終日は心ここにあらずを体現した答案を虚ろに作成して終了し、掃除当番の佐々木を  
残して俺は一人部室へ向かった。  
 ドアを開けると橘京子がすでにいて、藤原周防の二名はまだ来ていなかった。  
 俺が鞄を置いて座ると、橘は読んでいたファッション誌を半分閉じて顔を上げた。  
「こんにちは。テストどうでした?」  
「最初に訊くのがそれか。心の安寧を得るために部室に来てるんだがな」  
 俺が言うと橘は愛想笑いのような表情を一瞬浮かべるものの、すぐにそれは曇り空へと変化  
する。  
「……彼ら、このまま引き下がるとは思えません」  
 俺は何も言わずに顎を引いた。カーテンが風になびいているが、入ってくるのは湿気を含み  
すぎた南国のような熱風だ。  
「涼宮ハルヒさんの周囲には古泉さん以外にもあと二人、彼女に関心を抱いている人がいます」  
「まさか宇宙人と未来人じゃないよな」  
 そう言うと橘は眉根を微動させてお使いのお金を落としてしまった子どものように顎を引いた。  
「その通りです。藤原くんとも周防さんとも違うところから来た人たち」  
 いっそ冗談めかして言ってほしかったものだ。  
「そいつらも佐々木の力をよこせって言い出すのか」  
 橘はいきなり最難関の問題を出されたクイズ回答者のように嘆息して、  
「それは解りません。あたしが藤原くんや周防さんのことを詳しく解らないこと以上に、あっ  
ちの人たちの動向は謎に包まれています」  
 心なしか自信なさそうに見えるのは、超能力者であることを除けばこいつも普通人と何ら変  
わりないからだろうか。  
 ガチャっとドアが開いて藤原が現れた。  
「あの生徒会長め。どこまで目が鋭いんだ」  
 独り言と共に登場したヒネクレ高校生は鞄を乱雑に放って俺の向かいに座った。  
 ひとしきり部室を見渡した藤原は隣の女子に目を止め、  
「どうした湿っぽい顔して。不快指数が上がるからやめろ」  
 見たとこ藤原は普通どおりだったが、マイナスが基本となっている発言を受けて橘は、  
「うるさいです。……たまにはその暴言癖をどうにかしたら」  
 口を結んでわずかに顎を引いた。夏服の襟を仰いでいた藤原は再び脇に視線をやって、  
「何があったか知らないが、落ち込むのはひとりでやれ。ただでさえ蒸し暑いというのに、こ  
の上辛気臭いのはごめんこうむる」  
「この……!」  
 橘は一瞬挑むような目つきで藤原へ向いたが、躊躇してまた元に戻り、  
「今日は帰ります。佐々木さんによろしく」  
 未完成の凧のようにふらふらと立ち上がって部室から出て行った。  
 その様子を無愛想に見ていた藤原はドアに向かって、  
「何だあれは。ただでさえ女というのは理解しがたいが、あいつは群を抜いている」  
「お前、周防の寡黙さと佐々木の穏健さをちょっと分けてもらえよ」  
「お断りだ。僕は誰の指図も受けない」  
 腕組みして苛々を言外に表していた。橘は気の毒だったが、あいつは藤原が今この時代に取  
り残されてることを知らないはずだ。歴史の年表にある時間にひとり置き去りになれば、そり  
ゃ八つ当たりのひとつもしたくなるだろう。俺なら校舎の窓ガラスを片端から叩き割るくらい  
してるかもしれん。  
 
「何なんだどいつもこいつも。これだから群れるのは嫌なんだ」  
 悪態をつく藤原にゲームするか訊こうとして、結局やめた。ご機嫌取りと思われるのは願  
い下げだ。  
「なぁあんた」  
 ここに来てあんた呼ばわりである。この亭主が妻に投げるようなぶしつけな呼びかけは何  
とかならんものだろうか。  
「朝比奈みくるって奴がいる」  
 突然何だろう。意味をつかみかねて眼を瞬く俺に、  
「この前あんたにぶつかった女だ」  
 あの美少女か。  
 そう言うと藤原は鼻で笑って、  
「あの女も未来から来ている」  
 さらりとネタバレをした。これで残っていた敵役宇宙人未来人の席が片方埋まったことになる。  
「僕と目的はそう違わないはずだ。だがそれだけにいつも目障りだった」  
 俺が朝比奈みくるさんとやらを拝見したのはこの前が始めてだったが、藤原はそうではない  
らしい。まるで朝っぱらから銀歯が取れてムカの入ったような顔をしている。  
「頼みがある」  
 急に藤原は俺に向き直った。相変わらず寝不足三日続きのような不平顔で、しかし目線だけ  
は固定したまま。  
「朝比奈みくるから聞き出してほしいことがある」  
 言われて俺は何となく検討がついた。  
「時間移動についてか」  
「ふ。察しがいいじゃないか。……その通り。あいつが今TPDDを使えるかどうか知りたい」  
 タイムプレーンデストロイドデバイス。略してTPDD。時間移動に必要な無形装置らしいとい  
うことまでしか知らないが、その不可視のタイムマシンを彼女も持ってるのか。  
「詳しくは禁則だ。が、その解釈で合っている。僕が懸念するのは、朝比奈みくるも時間跳躍  
できなくなっているという可能性だ。あいつが時間移動できるのならまだいい。それならこち  
らの仕組みが何らかの支障をきたしたということで片づく」  
 ここで藤原は一度天井を見て、  
「だがな、もし朝比奈みくるもこの時空に切り離されているのだとしたら、この件は急速に重  
要度と深刻度を増してくる。僕はそう睨んでいる」  
 面を下げて机の一点を睨んだ。  
「奴らは光陽園学院に通っている」  
 藤原は簡潔に述べ、  
「おそらくお前ならある程度までは簡単に接近できるはずだ。……古泉と言ったか。あの現地  
民はお前を興味対象としているようだからな」  
 男に好かれても鳥肌全開になるだけなのだが。  
 がちゃ。  
 ドアが開いて佐々木と九曜、それと橘が戻ってきた。  
「や。掃除が終わって周防さんと二人でここへ向かっていたら、元気のない彼女とばったり出  
くわしてね」  
 佐々木は橘に流し目を送り、  
「色々話していたら遅れてしまったよ。……ときに藤原先輩? かつて欧米でレディファース  
トという心がけが浸透していたのをご存知かな?」  
 そのまま藤原へにっこり微笑んだ。当の藤原はその視線を受け流し、  
「寡聞にして知らない。悪いが教えてくれないか」  
「平たく言ってしまえば、男性は女性を守ろうとするのが美しいという観念さ。今は概ね男女  
平等が美徳とされているがね」  
「つまり僕に謝れと言うのか」  
 すると佐々木は微塵も怒る気配を見せず、むしろ面白がるようにクックッと笑い、  
「そうではないよ。ただね、狭量な価値観ばかり尊重していると、時に思わぬしっぺ返しを食  
うことがあるってことさ」  
「何が言いた――」  
 佐々木に向き直ろうとした藤原は途中で首の動きを止めた。俺も今気づいた。最後尾にいた  
橘はこちらに背を向けるようにしてこうべを垂れ、震度一くらいの微小さで肩を震わせていた  
のである。  
 
 佐々木はなおもにこにこと笑っていたが、  
「テストも終わったことだし、今日は新たにひとつ提案をしたかったんだがね。これではまだ  
話を始められそうにないから」  
 藤原はサブリミナルのように瞬刻どきりとして見えた。  
 罰が悪いを地で行くかのように藤原は笑窪をいびつに出したり消したりしていたが、  
「さっきは言いすぎた。……すまない」  
 むず痒くてしょうがないのが一目瞭然な調子でようやく言った。  
 すると、  
「……ぷぷぷ」  
 漏れた声は泣いているはずの橘のものである。今や両手で小腹を押さえて引きつりがちに身  
体を震わせ、  
「ぷ……くくく。ふふふふふ。引っかかったわね!」  
 くるっと振り向いて早咲きのヒマワリのように笑った。  
「涙は女の武器って古来から言うけれど、これだけ効くとは思いませんでした」  
 ドッキリを抜かりなく仕掛け終わって大満足な様子に、  
「っぐ。こいつ……!」  
 急な崖を転げ落ちる洗濯機の中のように目まぐるしく顔色を変える藤原。  
「いや、いいものを見させてもらったよ。くくく。橘さん、あなたの演技力は大したものだね」  
 佐々木は真実笑いをこらえていたらしく、声を出さずに思い切りウケているようだった。  
「――――?」  
 周防だけがツボをとらえ切れずに藤原を見て、五秒経って橘を見てしているが、さすがに今  
のやり取りを理解しないのは勿体ない。折角だから後で人間の心の機微について小十分ほど説  
いてみるのも一興かもしれない。  
 
 
「この週末に花火大会があるらしい」  
 ひとしきり落ち着いて、元通り台形にテーブルを囲んで座った五人の中、部長は提案する。  
「ちょっと電車を乗り継ぐ必要があるんだがね。かと言って遠方というほどの場所でもないか  
ら、打ち上げがてらどうかと思って」  
 目線で佐々木からバトンを渡された俺は即答。  
「ああ、丁度試験に痛んだ己が魂を慰安してやりたいとこだったからな。花火ね。これほどぴ  
ったりな気晴らしはないってもんだ」  
 佐々木が満足気に頷いた。貴やかな笑み。  
「はいはい! 罰ゲームとして藤原くんに焼きそば奢ってもらいたいです!」  
「おい貴様! それはペナルティでもなければ賛成意見でも何でもないだろうが!」  
 手を挙げた橘に藤原が脊髄反射。早くも二者間で火花が散って前哨戦の様相である。  
「――」  
「周防さん、花火は好きかい?」  
 黒曜石を宿した瞳をまつろわせ、周防は無言の疑問符を頭に浮かべた。  
「爆発――期限――起源」  
 微妙に誤変換をして周防は呟いた。俺は花火とは何であるかを説明してやった。  
 すると周防は、  
「……見る」  
「決まりだね」  
 佐々木が相槌を打った。見事なもんだ。俺ならこのアンバランス極まる集まりの重心をとる  
なんて芸当、とてもじゃないができそうにない。  
「はい佐々木さん! ついでにウィンドーショッピングを――」  
「完全に関係ないだろう!」  
 藤原をダウナーから一時的アッパーに変えることが出来るのは橘ただ一人である。  
 
 
 かくしてこの日の放課後は終わりを向かえた。  
 先ほどまでの横転転覆ムードはどこへやら。佐々木とはそういう包容力を持った存在なのだ。  
 こいつがいるから今の部活がある。  
 俺たちは何とかして、佐々木の奇妙な能力がフェードアウトするまで、この日常を維持すべ  
く力を合わせなくてはならず、それが俺の意思だった。  
 
 
 いや、俺だけじゃない。全員の意思であるはずだった。  
 
 
 俺が光陽園学院に出向いたのは三日後のことだ。他ならぬ藤原の頼みを受けたからで、あい  
つが俺にこんな申し出をすることなどこれまですべてひっくるめても片手で数えるほどしかない。  
 少なからず俺は警戒してここへ来たつもりで、それは俺たちと主義を異にしているだろう集  
まりと会うからだ。  
 光陽園学院は北高のある山の麓からちょっと歩いたところにある私立の高校だ。男子の学ラ  
ンと女子の黒ブレザーがいかにもハイソな品格と高貴さを漂わせていて、何となくではあるが  
県立校の制服を纏っていると近寄りがたい雰囲気がある。  
 下校時刻を向かえると、生徒がアリの群れのようにして昇降口から出てくる。予想はしてい  
たが、その集団のなかに朝比奈みくるや古泉一樹の姿はなかった。休日にまで集まる間柄なら  
ば、放課後も集まってる可能性は大いにあった。  
 そこまでは想定通りでよかった。が、直後に俺は意表を突かれる。  
「こんにちは」  
 背中を一グラム重くらいの力でとんとん叩かれる。瞬間振り返った俺の目に入ったのは、二  
人の女子高生の姿であった。  
 一人は朝比奈みくるさんに相違ない。先日抱いた印象を違えるどころか倍化させそうな美少  
女ぶりは、彼女の立場が藤原の対極なんてポジションでなければ卒倒して求愛していたかもし  
れないほどである。……普通敵役ってのはもう少し意地の悪そうな顔してるもんじゃないか?  
これじゃ戦意喪失も甚だしい。  
 残る一人は見覚えのない、髪の短い少女であった。もしかしたら朝比奈さんたちを見たあの  
時一緒にいたのかもしれないが、印象にも記憶にもまったく残っていない。今相対していても  
そのまま空気に溶けてしまいそうな淡い印象を滲ませている。  
「朝比奈みくるさんですか」  
 俺は既知であったほうの光陽園生へ問うた。するとどこかおっかなびっくりとした彼女は、  
「はいっ。えっと……その……あなたは」  
 そこで俺の名前を彼女は言って  
「――ですよね?」  
 俺は頷いて、  
「なぜ俺が来るって解ったんですか。誰にも言ってないし約束もしてないはずなんですが」  
 自然と敬語が出たが、それは見るものを陶然とさせる彼女の容姿と雰囲気のせいであったか  
もしれない。何となく祖国の姫を厳重警護する衛視のような気分を抱かせる。  
 すると朝比奈さんは躊躇の色を見せて、  
「それは……」  
「わたしが干渉した」  
 並ぶもう一人がぽつんと言った。聞いた瞬間記憶から消えるような声音である。  
「我々は一度あなたに会う必要があった。これはそのための手段、措置」  
 いちおう目線をこちらへ向けているものの、その向こうにある空か、あるいはもっと向こう  
の茫漠たる宇宙空間のさらに遠くを見ているような視線だった。  
「あの……どこかお店にでも入りませんか?」  
 非常に申し訳なさそうに尋ねる朝比奈さんは、その通り申し訳なさそうな仕草とともに提案  
した。  
 
 
 かくして俺と朝比奈さんと名を知らぬ少女は近場にあった喫茶へとすべり込んだ。駅からほ  
ど近い場所にあるものの一度も来たことがなかったのは、単純に日頃の生活圏からここが漏れ  
ているからであろう。  
 朝比奈さんは公演当日突如主役に抜擢された新米舞台女優のように当惑することしきりで、  
「あの、……彼女は長門さんです」  
 隣の空気少女を手のひらで示した。長門さんと呼ばれた少女は一度瞬きし、  
「長門有希」  
 とだけ告げた。瞳にはそのもの虚無と、ぱかっと口を開けた俺が映りこんでいた。  
 
「古泉くんとはもう会ったんですよね?」  
 朝比奈さんは障子を破ってしまい母親の機嫌を伺う娘のようにして上目で俺を見た。そんな  
仕草がまたクラリときそうなのだが、そんな場合でも状況でも立場でもない。  
「ええ。自分の耳より先にあいつの頭を疑う話を聞かされましたよ」  
 メニューを取って注文を適当に決め、最終的に俺がアイスコーヒーとアイスティー二つをウ  
ェイターに注文した。  
 ややあって朝比奈さんは困ったように視線を移ろわせ、  
「そのことなんですが。……あたしは、古泉くんと違う考えを持っています。涼宮さんが力を  
持っていなかったとしても、世界が終わってしまうなんて思わないわ」  
 ここで朝比奈さんは濃霧の最中に突如迷い込んだように困惑色を強め、  
「けれど……」  
 言葉が霧消する。自分の意見を表明するのが苦手な人なのだろうか。  
 俺は軽く喉を鳴らして、  
「あの、これだけは言っておきたいんですが」  
 朝比奈さんに極力同調しないよう、意識的にチャンネルを変え、  
「佐々木の力を移そうなんて俺はこれっぽっちも考えません。そんなことができるのかも疑問  
ですが、会ったこともない涼宮って人に渡しちまうくらいなら、これまで通り俺たちで後始末  
も含めて何とかします。この意見を変えるつもりもありません」  
 すると朝比奈さんはカタツムリが歩むくらいの速度でゆっくり顎を引いて、  
「はい。……あたしもそう言うと思ってましたから」  
 彼女はつかの間横目で長門有希を窺った。当の長門は別段俺たちの会話に関心を示す風もな  
く、ただ飄々と届いたアイスティーを啜っている。  
 どうも当を得ないな。じゃぁこの二人が俺に会った目的は何だって話になる。古泉一樹の主  
張はこの二人に比べれば格段に瞭然としていたが、逆にここにいる女子高生コンビは何しに来  
たんだ?  
 煙霞の向こうに影をひそめる二人の思惑を推測することは無為に思え、しかるに俺は首を振  
った。  
「朝比奈さん。話によるとあなたは確か未来人で、ということはつまり時間移動もできるんで  
すよね?」  
 率直に訊いた。迂遠な韜晦よりこの方が早いし、効果的と判断したからだ。  
 すると彼女は上体だけで騰躍し、  
「えっ!? ええと……あの……その」  
 露骨に当惑した。これではできますとジェスチャーしてるようなものだったが、問題はその  
先なのだ。  
「それともできませんか。何でも時間移動ってのは限られた人しかできないって話で」  
 俺が言うと朝比奈さんは食べものを喉に詰まらせかけた幼児のように目を白黒させそうにな  
ったが、何とか紅茶を飲んで息を整え、  
「はい、そうです。けど……」  
 頭に手を当てて集中しようするも、結局首を振るとそれきり黙してしまった。  
 俺はアイスコーヒーを飲んで考える。  
 ふたつ解ったことがある。  
 ひとつは、朝比奈さんというこの未来人らしき光陽園生は、情報を隠したり駆け引きしたリ  
というのが得意ではないらしいこと。  
 もうひとつは、彼女も今時間移動を行えない可能性があるということだ。朝比奈さんには申  
し訳ないが彼女は粗忽者だった。さすがに何度か見た藤原の未来交信と同じ仕草をすればそれ  
くらい解る。確信が持てたわけじゃないが、反対にこれ以上の詮索は慎んだ方がよさそうだ。  
 俺は停頓する空気を何とか流すべく、隣の静逸とした風情の女子に、  
「で、お前は宇宙人てことでいいのか」  
 そう言うと長門有希は二秒ほど俺と視線を交わしていたが、無謬なる表情に別段変化を及ぼ  
すこともなく首だけをちょいと引いて、  
「通俗的表現を用いればそれで間違いない」  
 とだけ言ってまたアイスティーを一口飲んだ。周防もそうだが、宇宙人ってのはもう少し愛  
想とか愛嬌を学習してもいいんじゃなかろうか。  
 俺はまた朝比奈さんに向き直り、  
「涼宮ってのはどんな女なんですか? 参考がてら聞いておきたいんですが」  
 
 そう言うと朝比奈さんはキョトンとして、  
「涼宮さんですか……? そうだなぁ。普段は明るくて勉強も運動もできるし、あたしたちと  
も仲良しなんですけど」  
 間を置いて考えこみ、  
「時々、ぼんやりとしてることがあって、そういう時には何を話しかけても上の空っていうか」  
 浮かんだのは凛とした才色兼備の優等生である。何でもできて友達に不自由もしてないんな  
ら退屈する要素などどこにもないだろう。それとも満たされすぎて現実がつまらんのだろうか。  
 と、そこで俺は思い当たる。  
「朝比奈さん。その涼宮ハルヒはあなたたちの正体を知っているんですか?」  
 すると彼女は猛烈な勢いでもって首をぶんぶん振った。  
「いいえ! そんなことできません。涼宮さんがあたしたちの正体を知ってしまったら、何が  
起きるか想像もつかないもの……」  
 俺は少なからずこの朝比奈さんとやらに共感する。  
 いつからか、佐々木に橘たちの秘密を明かさないようにすることが俺や部員の中で暗黙の了  
解となっており、半ば無意識のうちにあいつの現状認識にセーブをかけることが必須事項とな  
っていた。橘いわく「佐々木さんにはずっと平和な心でいてほしいのです」。  
 
 その佐々木が超常現象研究会を立ち上げたのには理由があるはずだった。  
 ついぞ明確な答えを聞いていないままだが、よもや本当に不思議現象に遭遇することを望ん  
でいたのだろうか。設立当初から活動内容に困ってる様子はなかったが。  
 佐々木には世界全体に影響してしまう厄介な力が備わっている。もしも宇宙人や未来人や超  
能力者なんてものが本当にいると佐々木が知ってしまい、そのように現実認識を改めた場合、  
果たして世界そのものにはどういった発露があるのか、想像もつかない。  
 と、ここで俺はまたも疑問に直面して朝比奈さんに質疑する。  
「でも、その涼宮ハルヒに世界をどうにかする力はないんですよね?」  
 朝比奈さんはこの問いに本日最大の困窮を見せ、結果として俺に答えを述べなかった。  
 「あぅ」とか「えっと」とか、何か言おうとするが口をパクパクさせるの繰り返し。やむな  
く俺は彼女をそっと制してこの問題を流してしまった。そもそも会うのが二回目の俺にそこま  
で話す義理などないし、話せない事柄などいくらでもあると思うからな。  
「俺から訊くことはもう何もありません。朝比奈さんは大丈夫ですか?」  
「えぇ、平気です。あの、あたしは佐々木さんの力を移そうなんて思ってませんから。それだ  
けは解っていてくださいね」  
 言い終わると朝比奈さんはほっと安堵の息を漏らし、最後にちょっとだけ笑ってくれたのが  
何とも愛らしかった。今日一日でファンになってしまいそうである。  
 
 
 喫茶店を出るとまとわりつくような熱気と曙光が肌を撫でた。うんざりしつつも去り際の挨  
拶だけは爽やかにすべく俺は振り返る。  
「それじゃまた」  
「はい。今日はありがとうございました」  
 朝比奈さんはにこっと微笑んだ。  
 手を振って背中を向ける直前、気配を感じた。  
「…………」  
 すでに歩き出す様子の朝比奈さんの傍ら、長門有希が俺に視線を送っていた。  
「あのぅ、長門さん?」  
 朝比奈さんが戻ってきて呼びかけた。長門有希は瞬きすると朝比奈さんに何か言って、それ  
から二人で歩き出した。  
 何だったんだ。言い忘れたことでもあったのか? そういやあいつは何のためにあの場にい  
たのだろう。  
 
 
 帰って俺は藤原に電話をした。  
『そうか。それだけ解れば十分だ。……考慮の余地がある』  
「けど、だからってあの人が未来と通信できないって決めてかかるには材料が足りないと思う  
ぜ。うっかり者らしかったし、たまたまそう見えただけかもしれない」  
 俺の考えに藤原は受話器越しで微かに失笑する音を出し、  
『いいかキョン。世の中偶然などということはそうそうありはしない。結果があるからには推  
定すべき原因がそこにはある。見るべきはそれだけだ』  
 じゃあな、と言って電話は切れた。ごくまれにあだ名で俺を呼ぶあたり、ほんと小癪な奴で  
ある。素直ならざる性質こそがあいつのアイデンティティなのかもしれないが。  
 通話を終えた俺は風呂に入った。短時間浴槽に浸かりながら、先ほどの朝比奈みくるさんと  
長門有希との談合の様子を回想する。  
 涼宮ハルヒ。一体どんな人物なんだろうか。  
 先週の邂逅時にはよもやあの集団にこんな背景があるとも知らず、特別記憶してもいなかっ  
たから思い出せと言われても映像が浮かばない。黒髪ショートの奴がいたくらいしか。  
 
 
 一足早い夏祭りは土日をかけて開催されるようで、土曜の夕方に集合をかけた俺たち超常現  
象研究会は、連れ立って休日専用の集合場所から駅のホームへと赴いた。  
「実に清々しいね。僕は夏の暑さは好きになれないけれど、夕涼みはいいものだ」  
「……しかしこの民族衣装は何とかならないのか。心許なくてたまらない」  
「こういうのはムードが大事なんです。あなたそんなだから女の子にモテないのよ?」  
「――浴衣」  
「……やれやれ」  
 と、部員全員それぞれ好き勝手思い思いのコメントを綴ったところで市外方面への電車が出る。  
 佐々木は夏が苦手と言ったが、俺はやっぱりこの季節が好きだ。夕方の雰囲気もそうだが、  
照りつける太陽に深まった緑。湿気を帯びつつも熱を持った空気。それだけで気分が高揚する。  
 若干フライング気味の日本の伝統的夏衣装に身を包んだ俺たちであるが、提案者は他ならぬ  
橘京子で、賛成票をすぐさま入れたのは佐々木。藤原は反対して周防は意思表明しないので無  
効票。俺次第で引き分けか否か決まるところを女性陣の押しに負けて今に至るってわけさ。  
 だがまあ、これはこれで着慣れてみると確かに快適だ。ちょっと人様の目を引くのは俺とし  
ちゃマイナスでも、着てるだけで何かわくわくという擬音を付帯した気になれるね。何より涼  
しいし。  
「今晩中これで過ごすのは拷問に近いな」  
 隣でつり革をつまみつつブツクサと言う藤原に、  
「キマッてるのに残念だな、そりゃ」  
 と返してやった。気休めではなく、藍染の渋い浴衣を纏った藤原はもともとの整った目鼻立  
ちもあってやたら様になっていた。初めて着たとは思えん。ほら、あそこの女子中学生と思し  
きトリオがお前を見てるぜ。  
「ふ。嬌声に興味などない。馬鹿馬鹿しい」  
 まんざらでもなさそうに見えたのは俺の気のせいってことにしといてやるか。  
「――――」  
 隣を見ると、緑を基調とした浴衣を着たそのまんま和人形夏版みたいな周防が、今日もまた  
眠たげに目を瞬いていた。  
「どうだ、浴衣は」  
 去年も着てたはずだから、俺の見る限り二回目だと思うが。  
「冷涼――」  
 好意的に解釈しといていいのかそれは。  
「――――」  
 ぱちりと瞬きしただけである。去年の今頃はこんな動作のひとつひとつから何か意志のヒン  
トはないかと探ったりしたもんだったが、こいつは緊急時以外にシグナルを発せず、つまり今  
はのこれは常態ってことだ。俺はそれをランプブルーと認識することにしている。  
「ここに来る途中で二回も声をかけられてしまいました」  
 周防の向こう。佐々木相手に談笑する橘は水色地に金魚をあしらった浴衣を着ている。  
 佐々木はというと、特別な柄のないシンプルな一枚を選んでいた。  
「さながら良家のお嬢様に見えたのかもしれないね」  
 佐々木が一番向こうで例のクスッとした笑いを浮かべて言った。  
 一瞬だけ、それを言うならお前も負けず劣らずじゃないかとツッコミそうになった。  
 
 
 全国的にも時期尚早とよべそうな川原の縁日は、それが逆にアピールポイントとなっている  
のかたいそう賑わっていた。こういう場で果敢になる人物は決まっていて、  
「あ、リンゴ飴! わたあめとどっちか迷います。わぁ射的もある! でも一回も当てたこと  
ないしなぁ……」  
 四方八方あらゆる屋台にコメントしてくれるので視覚にたよらずとも把握できて助かる。  
「何だこの人の群れは。何故こう狭い道に集まりたがるのか理解できない」  
 いや藤原君、それがこの時代の島国人間のサガってものなのさ。  
 俺たちはしばし縁日に添って亀より遅い行軍を続けていたが、  
「キョンに周防さん。金魚すくいで勝負しないかい?」  
 不意に佐々木が提案して、俺と周防に手招きした。一歩前に出て、  
「おじさん、三つね」  
 千円札を渡して釣銭を受け取り、あれよと言う間もなく俺の手元にもポイが渡ってきた。  
「一番多く取った人が勝ち。……ということは一匹も取れないとそれで負けが決まってしまうね」  
 袖をまくってクスリと笑い、品定めする佐々木はいつになく楽しそうに見えた。  
 半瞬ボーっとした俺は佐々木につられてすぐさましゃがみ込む。見ると周防はすでに五匹の  
金魚を椀に収めて周囲の客の度肝を抜いていた。  
 苦笑いしつつ俺は水深十センチそこらの簡易水槽に目を落とす。黒いのとか出目金に目が行  
くが、金魚すくいなんぞ妹にせがまれた時くらいしかやらないからコツの心得もなければ経験  
も不足している。  
「時に佐々木よ。金魚すくいの経験値はいかほどか」  
 俺が横目で尋ねると、佐々木は水面の光を大きな瞳に反射させつつ、  
「んー、記憶にある限りでは五才そこらからやっていないかな」  
 自信ありげに見えたのでつい訊いちまったものの、それなら五分五分の白帯試合ができそうだ。  
 俺も袖を肘の上まで引き寄せ、活きの良さそうな一匹よりむしろ授業中の谷口のようなのを  
率先して選んで狙いをつける。  
 じっと機を窺う。他の金魚が生み出す流れに乗ってるだけなんじゃないかってくらい怠けて  
漂ってるその一匹が角に来たところで、すかさずポイを投入――――ゲットだぜ!  
「あっ、ちゃぁ。……やってしまった」  
 直後視線を奪われた先で、佐々木が破れたポイ片手に微苦笑を浮かべていた。……すると、  
「のわっ!」  
 椀に移していた金魚が俺の手の傾いた隙を狙ってまさかの跳躍を見せて水槽にダイブした。  
「ざんねーん。逃げちゃったもんはしょうがないねぇ」  
 俺が抗議のこの字も思い浮かべないうちに、ランニング一丁に短パンのオヤジが笑った。  
 くそ、さすが金魚谷口。体育だけは万年10。  
「ふふ、引き分けか」  
「だな」  
 と言って見上げると、周防は椀をひしめく金魚で満たし、なお破れていないポイ片手に目尻を  
こすっていた。いや、取りすぎですよお客さん!  
 
 
「あっはははは! 意外とヘタなんだ。ふふふのふー」  
「うるさい。ええい主人! もう一度だ!」  
「はい毎度ありー」  
 一度はぐれた橘藤原はどこぞと思った矢先、二つどなりの射的場にて周囲の人目を少なから  
ず集める似非バカップルとなった二人を発見した。  
「ずいぶんと盛り上がってるみたいだね」  
 佐々木がさり気なく橘に話しかけ、  
「もう四回目だけど一つも当たらないのです。ふふふ」  
「そこ、聞こえているぞ。見ていろ。これまでのは練習に過ぎないんだ」  
 と言って撃鉄を上げ、放ったコルクは見事真紅の垂れ幕に吸い込まれた。合掌。  
「ちょっと貸してもらっていいかな?」  
 
 佐々木はそう言うと渋茶と苦虫を同時に口に含んだような表情をする藤原からコルク銃を  
受け取って台に立て、腰掛けて弾を詰めると撃鉄を上げ、飛び下りて片手でて放った弾は見  
事に食いだおれ人形の小型貯金箱を打ち落とした。  
「わは! 佐々木さんすごい!」  
 歓声を上げてパチパチと拍手する橘と、呆然するは藤原……とついでに俺。周防は二匹選  
んだ金魚を片手に下げて、立ったまま寝ているように見える。  
「佐々木、お前が射的同好会に入ってたなんて聞いたことないぜ」  
 俺の感心に佐々木は、  
「小学校の時子供用のクレー射撃をやってたことがあってね。こういうのは得意なのさ」  
 俺は想像してみた。齢十そこらにしてサングラスをつけ、颯爽と遠方数十メートルの皿を  
次々打ち落とす小学生佐々木。  
 ……クールだな。  
「さ。こんな寸劇はやめにしてさっさと場所を取っておいたほうがいいんじゃないか」  
 務めて普段どおりに振舞おうとする藤原先輩は、しかし至極真っ当かつ建設的な意見を言っ  
てしまっていることにお気づきなのだろうか?  
「それじゃ藤原くんにジュース奢ってもらいたいでーす」  
「そんな契約に同意した覚えはない」  
 はーいと手を挙げる橘をしれっと藤原がかわすのを周防が瞬きで見届け、佐々木と俺は揃っ  
て苦笑した。  
「俺と佐々木が奢る側に回るさ。さっき金魚すくいで周防に完敗しちまったからな」  
 お手上げの体勢をとって俺は言った。  
「それじゃ場所を取りに行こうか。この人手なら早すぎるってこともないだろう」  
 佐々木が取りまとめて、どこか幻想的に照る裸電球やらちょうちんやらの中を俺たちは歩いた。  
 
 
 二十分ほどかかって何とかスペースを探し当てたものの、既にほとんどの場所が人で一杯だ  
ったこともあって、屋台の並びからはそれなりに距離を置く羽目になってしまった。  
「場所は開けているし、花火を見る分には何の問題もないよ」  
 佐々木はいつもの愉快な微笑みとともに言った。  
「買出しに結構距離があるぜ。ひとしきり買ってから来るべきだったか」  
「人がいすぎなんだ。僕としちゃこのくらい静かな方が気が休まる」  
 藤原はシートに横になって肩肘を立てた。周防が端に座って金魚を茫漠とした瞳で見つめて  
いる。  
「それじゃキョン、一緒に来てくれるかな。僕一人ではさすがに厳しいからね」  
「おう。……しかし、この分じゃ最悪コンビニ探したほうが早いかもな」  
「あたしも行きましょうか?」  
 橘が自分を指差して言う。すると佐々木が何やら橘に耳打ちした。橘はしばし首を縦に振っ  
て聞いていたが、やがてシートに戻って手を振り、  
「行ってらっしゃい」  
 笑みがいわくありげに見えたのは暗がりによる錯覚か?  
 
 
 案の定というか、川原を戻るコースは軽い散歩くらいの距離があった。縁日に近付くにつれ  
て人の数が増えて行く。  
「あ。僕としたことが三人に注文を聞いてくるのを忘れていたよ」  
 佐々木が思い出す頃、すでに俺たちは道を半ば以上来ていた。俺は半分肩をすくめ、  
「適当に買ってけば適当になくなるさ。好き嫌い言うような連中じゃないしな」  
 俺が言うと佐々木は即妙に視線を交わし、  
「それもそうだね」  
 口を緩やかに曲げる笑顔で返した。  
 真夏の夜と大差ない空気が火照った肌を微かに冷やす。  
 ずっと遠くには大きな鉄橋があり、アーチ型に点々と明かりが灯る下を車が光の道を作って  
ゆっくり動いていく。  
「キョン。進路は決めたかい?」  
 佐々木が注意していないと聞き逃しそうな声量で言った。  
 
「ん、何かと思えば勉強トークか?」  
「いや、そんなつもりじゃないけどね。けれど僕らももう二年生だ。あと三ヶ月もすれば進路  
志望に添って授業内容が分かれてくるだろう?」  
 佐々木は真っすぐ前を見ていた。向こうの祭りの明かりを受けて、瞳がきらめいている。  
「消去法で文系だな。それこそ入学当初から間違いない」  
 俺はそう言って手を頭の後ろに組んで空を見上げる。雲が薄く長く半分ほどを覆い、そのカ  
ーテンの向こうで明るい星だけがまばらに存在を示していた。  
「僕とは反対か。進んで理系を選ぶだろうしね」  
 佐々木の口調には何か言外のニュアンスが含まれていて、俺は咄嗟にそれを判断しかねる。  
「お前なら迷わずどこへでも行けるさ」  
 そう言うと佐々木は伏目がちに息をついて、  
「そうだね」  
 俺はしばらく佐々木の横顔を何ともなしに見ていたが、  
「さ、急がないと花火が始まっちまうかもしれないぜ」  
 呼びかけに部長は顔を上げて、それから見慣れた笑みを浮かべた。  
 
 
 進路が分かれようとクラスは一緒だ。それに部室だって毎日行ってる。だからそこに不安材  
料など見つかるはずもない。そう思ってたんだろう。  
 
 後になって本当の意味を知ったところで、その時の俺に解ろうはずもない。  
 根本的に間違っていたことに気がつくまで、あと少し。  
 
 
「あ、帰ってきました! おーい!」  
 橘が手を振り、周防が首だけ横向けて、藤原が横になったまま片手を上げる。  
 程なくして第一号となる赤い花火が夜空に咲いた。  
「わ! 始まった。たーまやー」  
「これはいい席だったかもね。静かだしよく見える」  
「あ! それあたしが食べようと思ったのに!」  
「ふ。なら名前でも書いておくんだな。あいにく僕に油性ペンの持ち合わせはないが」  
「――爆発。――消滅」  
「金魚じゃなくて花火見たらどうだ? ……つうか寝てんのか周防」  
「あれは化学でやった簡単な炎色反応さ。緑色はバリウム。銀色はアルミニウム。青色は銅」  
「はい罰金、それあたしのだもの」  
「何を言っている。誰のものでも……おい。なぜ名前が書いてあるんだ」  
「――回避。――実行」  
「佐々木、周防の金魚の名前を一緒に考えてくれ」  
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリアなんて  
のはどうだい?」  
「何だそりゃ」  
「ピカソのフルネームを途中まで拝借したのさ」  
「すまん、俺が悪かった」  
「――――」  
「周防さん寝てるー」  
「zzz……」  
 
 
 楽しすぎる夏祭りだった。  
 こんなに笑っちまったら夏が終わるまでの二か月分使っちまってるんじゃないかってくらいに。  
 だがあいにく、それは二か月分じゃなかった。一年ぶんでもなかった。  
 
 

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