七月に入って、今学期の登校日数も順調に目減りしつつある。  
 思い出したかのようにここ数日は雨が降っていて、俺は傘をさして谷口と坂道を登る。  
「しかしよー。お前と佐々木はどうして行くところまで行かないんだ?」  
 何を言ってるんだこいつは。雨で足りないのならバケツ一杯の水をぶっ掛けてやってもいいぜ。  
 すると谷口は雨粒を飛ばす犬的に首を振って、  
「だっておかしいだろ。キョン、お前は佐々木が学年……いや、学校全体でどんだけ人気なの  
か解ってないからそんなことが言えるんだ」  
 解ろうとも思わんね。夜ごと悪夢を見そうだしな。  
「そんなこと言ってると、知らぬ間に誰かに持ってかれちまうぜ」  
 不敵に笑っても締まらない谷口に向けて俺は憮然とし、  
「佐々木が恋愛云々に無関心なのはお前もとっくに知ってるだろ」  
「だからこそ俺は警鐘を鳴らしてやってんのさ。灯台は近くほど暗いんだぜ? 知ってたか?」  
 俺は辟易して首を振る。やれやれだ。これさえなければ今のところ高校生活に文句のつけよ  
うもないんだがな。  
 
 
 下駄箱で靴を履き替えていると肩を叩かれた。  
「やぁキョンくんっ! 元気してるかなっ?」  
 声の主は超常現象研究会のVIPオブザーバー的存在、鶴屋さんだった。俺は沈滞する雨だろう  
がまったく影響しない快活な先輩に挨拶した。鶴屋さんは八重歯を覗かせる笑みと共に、  
「七夕なんだけどさ、笹の葉っぱもあったほうがいいよね? あの山なんだけど、竹は生えて  
ないからさっ。よかったらうっとこの庭から刈ったの持ってくかい?」  
 そりゃ願ってもない提案ですが、あの御殿でたくましく育っただろう竹を頂戴しちまってい  
いんですか?  
「平気平気! むしろ伸び放題で困ってたくらいだよ。そんじゃ七夕の日に届くようにしとく  
っさ。楽しみにしててよっ!」  
 ぽんと肩を叩いて鶴屋さんは高気圧そのもののように去っていった。果たしてどのように運  
送するのだろうか。  
 俺はSPのような黒服サングラスのメンズがヘリから山に降りる姿を夢想した。グレイト。  
 ……まぁそれはそれとして。  
 
 
 放課後。  
 試験返却による憂鬱もほどほどに部室へ向かうと、ドアを開ける時になって佐々木がいない  
ことに気がついた。さっきまで修辞的アプローチによる学習方法についての考察を延々懇々聞  
かされていたのだが。  
 ドアを開けると周防だけが着席していて、しとしと降る雨を禅を伴った瞳で観察しているよ  
うであった。周防教の開祖になれそうだな。  
「よう。試験はどうだった?」  
 訊くまでもなく佐々木と並んでトップだろうとは思うが。  
 周防はカメラのピントを合わせるような眼差しで俺を胡乱に見ていたが、  
「――完了」  
 と、そのまんまなことを言った。いや、そりゃ終わったのは確かだけどさ。  
 俺が腰掛けると、周防は反対に立ち上がって鞄をついでのように拾い、そのまま部室を出て  
行ってしまった。……何なのだろう。あいつに限って風邪気味だから早退ってことはないだろ  
うし。  
 
 
 しばらく一人で漫然と時を過ごし、世界に人類は俺一人しかいないのではないかという錯覚  
すら起こしそうになる静寂のもと、待てども待てども誰も現れない。何だ、揃いも揃って臨時  
休業か? はてこれまでにそんなことが一度でもあっただろうか。  
 あまりに暇なのでやむなく俺は部室から退出し、部員の誰かに電話しようか三秒迷ってやめ  
にした。あいつらがここに現れないならば、それには何か理由があるはずで、仮に急を要する  
事態であればこっちがかける前に向こうから連絡があると思ったからだ。  
 
 
 いつもは五人で下る坂道を傘さして孤独に歩き、遠くの空の晴れ間にこの雨は一過性のもの  
かと思っているうち、俺は駅前に至っていた。  
 横断歩道を渡るために車の往来を確認し、さて一歩踏み出さんとした時になって目の前にい  
る人物に気がついた。  
「…………」  
 長門有希。  
 数日前に見せた白皙の面のまま、無関心な目でこちらを見ている。  
 俺は心中で警戒態勢を取って、再度素早く車を確認すると、警戒を解かずに道を渡った。  
「何の用だ」  
 顔を向けずに言葉だけ投げると、ビスクドールのような長門は淡々とした口調で、  
「話がある」  
 簡潔に言った。俺は微かな吐息とともに、  
「今さらだな。この前朝比奈さんといる時じゃだめだったのか?」  
 こく、と頷くのが目の端に映った。  
「聞かないって言ったらどうする」  
「あなたは来ると確信している」  
 答えになっていなかったが、断ると面倒なことになりそうな予感がしたのも事実だ。  
 俺が答えるより早く、長門有希は光陽園の黒スカートをそよと微動させて歩き出した。  
「こっち」  
 今俺が渡った横断歩道を引き返し始める。ここで無視して帰ったらどうなるだろうと思いつ  
つもついて行ってしまったのは、さて何でだろうな。下心だけは含有率0%であることを断言す  
るが。  
 二分ほど歩いて到着したのはいかにも金回りのよさそうな人間がローン組んで買いそうなマ  
ンションだった。オートロックを解除してエントランスをくぐり、エレベータで七階へ。七〇  
八の表示があるドアの前で立ち止まる。  
「……待て」  
「なに」  
「お前の家じゃないよな、ここ」  
「そう」  
 鍵を開けようとする動作を一時停止させて振り返る長門有希の表情から、どんな感情も読み  
取ることはできなかった。少なくとも普遍的女子高生の感性を有していないだろうことは明ら  
かだ。  
「悪いが上がるのは遠慮するぜ。初対面じゃないとか関係なしだ」  
「……解った」  
 意外にあっさり承諾し、長門はまた水先案内人のように俺を引率する。  
 続いて向かったのはマンションからほど近い公園だった。ここならたまに部活のメンバーで  
来ることがあるが、最近はご無沙汰だったな。  
 気づけば雨は上がっていて、ところどころ薄日が照射していた。散歩人はさすがにまだいな  
い。目につくベンチはどれも皆一様に濡れていたが、  
「…………」  
 長門が腰かけたベンチだけが乾いていた。アーケードも全自動乾燥システムもないとすれば  
明らかに何らかの超自然作用によるものであるが、ツッコミは封印しておく。  
 俺たちは木製ベンチの端と端に座る。  
 三十秒くらい待っても何も会話がなかったので俺から切り出した。  
「人間相手に黙ってても情報を伝えることができないことくらいお前にも解るよな?」  
 すると長門は一度瞬きして、  
「用件は二つ」  
 喧騒なき屋外でも下手すると聞き逃しそうな声で言った。  
「我々情報統合思念体の意向をあなたに伝える必要がある」  
「何つった?」  
「情報統合思念体」  
 長門有希は、それが天蓋領域と起源を異にする情報意識体であることを説明しはじめた。  
 
「我々は涼宮ハルヒが持つはずだった情報創出能力に着目していた」  
 長門は国営放送のキャスターより平坦な口調で続ける。  
「ごく最近まで、統合思念体は間歇的情報噴出は涼宮ハルヒによるものであるという確信を揺  
るがせなかった」  
 だが認識には齟齬があることに気がついた。それこそが佐々木によるものだった。  
「しかし、未だ情報の潮流は涼宮ハルヒが発端であるという考えは変わっていない。その力は  
何らかの原因によって歪められた可能性がある。我々はその因果を解析することにした」  
 その過程で佐々木の周囲にいる俺たちに気がついた、ということらしい。隣の高校にいた  
のに一年も気づかなかったってのは何ともマヌケな話だな……と思っていると、  
「我々の感知能力にアンチプロテクトをかけるシステムがある存在によって組み込まれていた」  
 長門は一拍置く代わりにまた瞬きし、  
「それが天蓋領域。彼らは我々より遥かに早い段階から『彼女』(佐々木のことだ)の能力に  
気がついていた。そして、他者にそれを発見探知されないためのジャムコードを生成した」  
 情報統合思念体は、この春以降、その暗号でなければ知恵の輪のようなパズルを解くのに力  
のほとんど全ての力を費やしたらしい。  
「調査は一通り終了した。そこから我々は暫定的にではあるものの、ひとつの結論に達した」  
 長門有希はここで立ち上がった。別に演出を意識したということでないのは顔を見れば解る。  
 二歩前に出て、  
 
「この世界は天蓋領域によるシュミレート時空域であり、我々を初めとするすべての概念が彼  
らによるプログラムにすぎない」  
 
 長門有希の頭部を一瞬太陽が照らして、また翳った。  
 俺は長門の言った意味が解らずに、ぽかんと口を開けて黙っていた。  
「そりゃどういう意味だ?」  
「この世界は元より存在していない。あなたも、わたしも。すべて制御下でのデータ。一定の  
アルゴリズムに基いて考え、行動するように製作されている」  
 んなバカな話があるか。これまで聞かされたアホくさい話は山のようにあれども、こればか  
りは特A級のジャンク品扱いである。俺は確かに生きているし、頬をつねれば当たり前に痛い。  
「おそらく」  
 長門有希は思案するように顎をわずかに引いた。  
「この世界はあるオリジナルを元に改変された擬似時空域。ゆえに、ある程度までは元世界と  
同じ情報が組み込まれている。通常、プログラム内の存在は自分がデータであることすら認識  
しえない」  
 長門は俺の反応など意に介さずなおも続ける。  
「本来の情報創出能力は涼宮ハルヒにあったものと思われる。ケースの異なる事例を試行する  
ために、『彼女』に模造能力が付与された」  
 誰も何も言わなかった。言葉を発する糸口どころか、その方法すら俺は失念してしまったよ  
うに思われた。これは何だ? 新手の攻撃方法か、はたまた催眠術か? ……しかし、長門有  
希の話は本当とも嘘とも言えない。どちらの証拠もない。それどころか、こいつの話が確かな  
ら、事実が証明された時、世界そのものが偽りであることになってしまう。  
 そんなバカげた話があるわけないと思っていると、  
「二つ目の用件を伝える」  
 長門有希は幽霊のような足取りで歩き出していた。俺はそれを蜃気楼より朧な姿としてまん  
じりと眺めていて、あらゆる思考はその幽霊のような幻影に絡め取られていた。  
 
「あなたを殺す」  
 
 その言葉を聞いた刹那、視界が真っ暗になった。  
 が、痛みはまったくない。直後、視覚以外はすべて無事であると判断でき、二秒後には視界  
も無事であったことが確認できた。  
 俺の目を覆ったのは闇ではなく、真っ黒な髪の毛だった。  
 市内全域探してもこれほど豊富な黒髪を持つ存在はいないだろう人物。ひょっとしたら宇宙  
規模で探しても無二であるかもしれない。  
 
 周防九曜が長門有希と対峙していた――。  
 
 周防は両手で長門の手首をそれぞれ押さえ、毅然とした立ち姿で俺の前に現れた。  
 長門の両手の平は俺の見間違いでなければ淡く白く発光していたが、今、その輝きが失われ  
て元に戻る……。  
「――――」  
 周防の後ろ姿は、不可視の圧力を自分という一点に凝集しているように思わせた。  
「…………」  
 それは長門有希も同じだった。氷柱のような視線が周防の頭部へ全てを貫通するかのごとく  
向けられている。  
 
 一瞬だった。  
 周囲の景色が突如として暗灰色の空間に変容し、競り合っていた二人のうち片方が倒れた。  
「周防!」  
 俺が近付く間を与えず、直後、周防は二十メートルも向こうに弾かれた。  
 うつ伏せで横たわる周防は固形物以上に微動だにしない。その傍らで長門有希が冷然と周防  
の偃臥姿を見下ろしている。  
 てめえ何する気だ! 周防に何した!  
 しかし、言葉にならなかった。声すら出せなかった。  
 
「……観察下に置く」  
 
 長門有希の最後の言葉とともに公園の風景が復活する。  
「……あ」  
 俺は一人マヌケにベンチの前に棒立ちしていた。周防九曜も長門有希も、どこにもいない。  
「……な、何だ。今のは」  
 ……周防。  
「周防! 帰ってきてくれ! どこだ!」  
 叫んでも何も起こらなかった。  
 ただ遠くをランニング中の主婦が怪訝そうに一度こちらを見ただけだった。  
 
 
 どれだけか俺の時間は止まっていた。  
 客観的にそうでなかったことを知らせたのは携帯のバイブレータだ。  
 俺は我に返って、半ば瞬発力だけで電話に出た。  
「もしもし?」  
 あわや記憶錯誤を起こしそうになるが、電話越しのそれは橘の声で間違いない。  
「橘! 周防がさらわれたんだ!」  
「待って! ……落ち着いてください。先にこちらの話を聞いて」  
「落ち着けだと。そんな場合じゃないんだ! 長門有希が――」  
「佐々木さんが大変なのよ! とにかく早く学校に来て!」  
 それだけ言うと電話は切れた。  
 ……何なんだ!?  
 俺は何も考えられぬまま携帯を閉じると、ただ闇雲に身体を動かし、全速力で坂道まで駆け  
出した。  
 何がどうなってるんだ? そもそも何を信じればいいんだ?  
 通いなれたはずの通学路は、どんな悪路より長く険しい走行路と化した。たちまち息が上が  
る。それでももつれる脚に鞭打ってデタラメに走り続ける。  
「……ちくしょう。何だってんだ」  
 佐々木が何とかって橘は言っていた。長門有希は佐々木の力は移されたものだと言っていた。  
ついでに、この世界が作り物とまで断言した。  
 
 佐々木には世界そのものに影響する力が秘められている。  
 そして、俺たちはずっとそれを守ってきた。  
 
「佐々木……」  
 ようやく校門が見えてきた。まばらに下校する生徒の中、二名の姿が見える。  
「キョンくん!」  
 橘と藤原が駆け寄ってきた。それぞれ持ち前の困惑の色を浮かべているのが一瞬で解った。  
「何があった! ……はぁっ、はぁ」  
 かがんで息をととのえる。バカみたいに暑い。ここに来て陽が照ってきやがった。  
「閉鎖空間の様子がおかしいの! なのに佐々木さんが見つからないんです!」  
「ついさっきのことだ。TPDDの凍結が解けた。同時に尋常じゃない規模の時空振動が今この時  
間に起きていることを知った」  
 橘と藤原がそれぞれの知覚した事実を立て続けに言った。俺は考えるより先に、  
「佐々木は。あいつはどうしたんだ。……どこに行った」  
「だからそれが解らないんです! あんな色の空間は見たことがありません。……佐々木さん」  
 橘は祈るように両手を合わせて空を見上げた。  
 
「ん……!?」  
 
 携帯が振動した。  
 反射的に取り出す……佐々木本人からの着信だった。  
「佐々木! 今どこにいる! 大丈夫か!」  
 通話ボタンを押すと同時に俺は叫んだ。二者それぞれの心配顔は視界に入る。  
『キョン。今から僕が言う場所へ来てほしい』  
 前置きなしの佐々木の声は、一聴した限りでは通常どおりに感じられた。  
 ただ、冗談めかした様子も何か支障をきたした雰囲気もない。  
「どこだ?」  
 反射的に問うと、  
『光陽園学院。場所は知っているね。正門まで君一人で来てほしい』  
「どういうことだ? 佐々木、お前――」  
『待っているよ』  
 電話が切れた。単調な機械音だけが鼓膜を打つ。  
 五秒間、俺はそのままの姿勢で固体化していたが、待ちきれずに橘が、  
「佐々木さんだったの? 彼女はどこ? 無事なのですか? ねえ!」  
 藤原は困惑と疑惑を混ぜたような表情で黙って俺を見ていた。  
「……光陽園に俺一人で来いと言われた」  
 俺はそれですべてだった佐々木との会話をありのまま伝達する。  
「それだけ? それでおしまい? あんなに怖ろしい色なのに?」  
 橘は己が不安をかき消すかのごとくまくし立てた。  
「早く行ったほうがいい」  
 藤原がそっけなく告げた。  
「待って! 誰かの罠かもしれないのよ? もしかして佐々木さんは誘拐されてるのかもしれ  
ないじゃない。脅されて電話をかけたのかもしれないわ」  
 橘が両の手を拳にして主張する。藤原は橘を横目で見て、それから俺をじっと眺めて、  
「キョン。部長の様子はどんなだった」  
「聞いた限りでは普段通りだった」  
「騒いだら痛い目に遭うって言われてるのかもしれないわ。じゃなきゃあんな……」  
 橘は頬を押さえてうなだれるように言葉をすぼませる。  
「いいか橘」  
 藤原が性急に言った。  
「僕はこの件について何も聞かされていない。つまり、うんざりさせられる既定事項が今回は  
存在しないってことだ。この意味が解るか? 今のこの時空で起きていることは、未来から見  
ても筋書きにないということだ。だからというわけでもないが、僕は今こそこいつを信用する」  
 顎をしゃくって俺を示した。橘は顔を上げて藤原、次に俺を見てからまた目を戻す。  
 
「でも――」  
「行く」  
 俺はそれだけ言った。このまま喋っていても堂々巡りだ。  
 ……それに、さっき長門有希が言っていたこともある。今すべきは尻込みじゃない。  
「二人とも待っててくれ。必ず佐々木と帰ってくる」  
 最後の沈黙があった。俺は二人をゆっくりと見て頷く。橘と藤原は、俺とアイコンタクトし  
たのち、一度だけ視線を交わして、頷いた。  
 
 待ってろ、佐々木。  
 
 
 通学路の坂道をこんなに速く駆け下りたことはかつてなく、さながら破裂寸前の樽のように  
どこまでも両脚を回転させた俺が光陽園学院正門にたどり着く頃には、もう使い物にならない  
くらい身体はフラフラだった。間に見た下校途中の北高と甲陽園の生徒たちが過ごしているつ  
つがなき日常が別世界の景色に思え、長門有希の言葉を思い出し、痛烈に心臓が痛んだ。  
 この世界が嘘であるはずがない。  
 下校時刻を大きく回り、生徒もまばらな光陽園学院の正門に佐々木はいた。  
「……佐々木」  
「キョン。汗みずくじゃないか。大丈夫かい?」  
「お前こそ平気なのか。どっか具合が悪いんじゃないのか? 何かあったんじゃないか?」  
 佐々木は秀麗たる横顔に変わらぬ微笑を刻み、  
「大丈夫さ。僕ならね」  
 悠然とした姿態は、しかしどこか引っかかりを覚えさせた。なぜだ。佐々木はいつも通り、  
こうしてちゃんと無事でいるじゃないか。なのに何が気になっている。  
「僕について来てほしい。話があるんだよ」  
 佐々木はそれ以上余計な話をせずに甲陽園の敷地内へと足を踏み入れる。  
「ちょっと待て。……この中に入るのか? どうして?」  
「その必要があるんだ。キョン。君に来てほしい」  
 佐々木は歩き出しかけたが、  
「あぁ、僕らは北高の生徒会代表ということになっている。だからこのまま敷地内をうろつい  
ても大丈夫だよ」  
 顎に指先を当てて佐々木は言った。まるで登下校時に天文や物理学についての雑学を話す時  
のものと何ら変わりがない。俺はそんな佐々木もさることながら、初めて入る私立の校舎とそ  
の空気に恐縮もとい萎縮しているのか、どこか落ち着きがしない。  
 佐々木はさも自分の母校であるかのように迷わず歩を進め、俺はただそれにつき従った。  
 来客用の玄関から校舎内に入り、スリッパを履いて道は回廊へ至る。  
「どこに向かってるんだ」  
「ある人物のところさ。……僕と、君と、彼女とで面会を果たす必要がある」  
 ずっとボケていたピントが急に合って一つの像を結ぶかのように、俺は回答を得た。  
「涼宮ハルヒ」  
 佐々木は言った。なおも変わらぬ口調とともにそぞろ歩きを続行する。  
 なぜだ……!?  
 佐々木、なぜお前が涼宮ハルヒを知っているんだ?  
 瞠若する俺は発すべき音声を持たず、知ってか知らぬか佐々木はそれきり何も言わなかった。  
 長袖セーラーの袖が止まったのはそのすぐ後のことだ。  
「着いたよ」  
 そこで佐々木は振り向いた。ステンドグラス越しの光を見るような儚い目で俺を見て、  
「キョン……」  
 二年以上の付き合いのなかで一度も見せなかった、感情を到底量れぬ面持ちとなって、  
「ごめんね」  
 ドアが開かれた。  
 
 
 ――涼宮ハルヒ。  
 
 俺はそいつを知っていた。  
 まともに顔を見るのは初めてのはずだった。  
 なのに、瞬間、またもあの疼痛が頭蓋を走り抜けた。  
「つぁっ!」  
 俺は頭を抑えた。  
 バカな。何故だ? 会ったことなどなかったはずだ。俺の経験と理性はそう主張している。  
それこそ抗議文書の出しすぎでポストに何にも入らなくなるくらいに、確かだと言っている。  
 だが、所詮それはただの紙切れでしかない。感性が訴える。  
 
 
「キョン。紹介する。涼宮ハルヒさんだ」  
 佐々木が歩み寄って片手の平で示した人物は、佐々木によく似ていた。  
 肩口のあたりで切りそろえられた短めの髪と、キラキラしたよく光を通す瞳。  
 だが反対にまったくベクトルの違う印象を与えるのは、どこか不満をもっていそうな不遜な  
表情と、挑戦的にも思える整った眉。  
 ……間違いない。  
 俺は、こいつを、涼宮ハルヒを知っている。  
 だが、いつどこでどのように会ったのか、まったく記憶にない。  
「…………」  
 声帯マヒに陥る俺に、涼宮ハルヒは火傷すらしそうな光熱の視線を向け、  
「あんたがキョンなのね」  
 聞いた瞬間に六感が符号を感じる声で言った。  
 俺は文字通り開いた口が塞がらなかった。いかなる接着剤を持ってきて接合しようと、二秒  
後にはまた元通りぱっかりあいた口蓋を晒していたものと思う。  
 涼宮ハルヒはくるりと後ろを向くと、窓辺の生徒机にどっかと座って腕組みをした。  
「さっさと頼むわ」  
 足を適当に空中へ泳がせるハルヒ。それを受けて佐々木はクスッと笑う声を出し、  
「そうだね。あまり時間がないのも確かだ」  
 光陽園夏服の後ろ姿に視線を固定させたままの俺に、  
「キョン。話を始めていいかい?」  
「…………」  
 俺が涼宮に視線をくれたまま反応できずに黙っていると、頬に誰かの両手が触れた。  
 直後、俺は佐々木の顔が十数センチの近くにあることに気がついた。  
「大事な話だ。すべてを繋ぎとめる真実。一度しか言わないから聞いてほしい」  
 すると佐々木は俺から離れて、教室と思しきその部屋の学習机の合間を縫って歩き出した。  
 催眠術にかかった被験者のように、俺はぼんやり佐々木の姿を眺めていた。  
「先だって一つ言っておきたい」  
 佐々木は窓を半分ほど覆っているカーテンを仰いで言った。  
「僕が話す間、キョン。君はなるべく口を挟まないように願いたい。すべてを話し終えてはじ  
めて、僕たちは相互理解の機会を得られるのだと思う」  
 何のことを言っているのかまったく解らず、俺はちらと涼宮ハルヒの姿を見たが、佐々木の  
言葉に特別関心を示す様子はなかった。俺はまた佐々木を注視する。佐々木は横目で俺を見て  
いたが、俺が無思考状態で首を縦に振ると、やがて頷いて身体をこちらへ向けた。  
「四年前」  
 佐々木は記憶を探るとも、記録を読むとも判別できぬ口調で、  
「涼宮ハルヒさんにある能力が発現した」  
 一行目にして早速口出ししたくなった。  
 ちょっと待て。  
「佐々木。お前……」  
 言いかける俺を目で制しておいて、  
「それはあらゆる自然法則を超越し、世界全体に影響するほどの途方もない力だった」  
 佐々木は言った。俺は既に全身が総毛だっていることに気がついた。  
 
 バカな。  
「しかしキョン。興味深いことに彼女自身は自分の能力に気がつかなかった」  
 まるで英語の教科書を苦もなく訳しているような平板な口調だった。俺は依然呆気に取られ  
たままで、いつの間にか言葉を組み立てる力を失っていた。  
「本人の自覚なきまま、その力は世界にいくつかの影響を及ぼした」  
 佐々木の告げる内容の半分を俺はしっかりと理解し、同時に半分をあらん限りの疑問で埋め  
ていた。……一体何を言おうとしているんだ。  
「ある者は超能力と呼ぶべき力に目覚め、ある者は未来からこの時代への調査に赴き、また  
ある者は宇宙からの使者として地球に降り立った」  
 佐々木は机と机の合間を縫って歩き出す。一歩、また一歩と、床の感触を確かめるようにして。  
「彼らは涼宮さんに注目していたものの、みな一様に彼女を観察し静観することを選んだ。と  
ても気になってはいたが、同時に接触は危険だと思っていたんだね」  
 佐々木は薄く微笑んでいるように見えた。カーテン越しの淡い光が輪郭をおぼろにする。  
「しかし一年前、ある出来事が起きたことによって事態は一変する」  
 俺はふと、佐々木の話にこれまでの記憶を照合させている俺自身を見いだした。  
 なぜだ。佐々木、なぜお前がそんな話をしている。  
「キョン」  
 佐々木は言葉を切って余白を生み、  
「君が涼宮さんと出会ったんだ」  
 言葉が切先の鋭い刃となって俺を射抜いた。  
 瞬間的頭痛とともに、ありもしないはずの強烈なイメージが脳裏を焦がし、そう思う頃には  
痛みもろともなくなっている。  
「彼女、涼宮さんは、それまでの日常を退屈極まりないものと考えていた。彼女自身は不思議  
な現象の発生源となっているが、それに気がついていない以上、面白いと思いようもないとい  
う寸法だ」  
 佐々木は涼宮ハルヒの傍へ歩み寄ることはあっても、そちらへ顔を向けることはなかった。  
まるでここに俺と佐々木自身しか存在しないように振舞っている。  
「涼宮さんと君はあるクラブを作った。部活には当然部員が必要だ。そこで新たに三人を集め  
た。しかしこの時、どうしたことか涼宮さんを観察していた宇宙人と未来人、それに超能力者  
がそれぞれ新入部員として入ってしまったんだ」  
 ここで佐々木は俺を見て、  
「キョン。君はそれまで何の変哲もない普通の高校一年生だった。しかし、彼ら部員三名は君  
に自らの正体を告白し、それを契機に君は非常に稀有な境遇に立つ唯一の人物となってしまっ  
たんだ」  
 耳通りのいい声がやんだ。  
 教室の中には三人しかいなかった。窓は開いていて、時折吹く風にカーテンがなびいていた。  
 そこから広がる外の世界と、今のこの教室内は、繋がってなどいなかった。  
 わずかばかり西へ傾いた陽光が、かろうじてこの場所へ光をもたらし、そしてそれが今の俺  
に見える世界のすべてだった。  
「引き続き超常現象は発生していたし、それまでに比して周囲の状況は予断を許さないものと  
なったにも関わらず、涼宮さんはその後も自分の力や彼女を取り巻く人物の正体に気づかなか  
った。キョン、君と部員三名がそれらをうまいこと対処しフォローしていたからだ」  
 
 佐々木はどこにも存在しないはずの歴史を語っていた。  
 なのにそれは嘘でも偽りでもなかった。  
 俺の経験だったのだ。  
 
「涼宮さんは、君や彼らと過ごす毎日をとても楽しく感じていた。それは彼女だけでなく、君を  
含めた全員が等しく同じ心境であったかもしれない。五人はいつしか、無意識のうちに互いを  
助け合うまでになっていた。さらにいい知らせとして、涼宮さんに宿っていた力は月日の経過  
とともに弱まり始めたんだ。もしかすると、このまま彼女は普通の高校生に戻ることができる  
かもしれない。しかし、そう思い始めていた矢先にある事が起きる」  
 佐々木は靄然たる口調のままで教壇に登り、教卓に近付いた。  
 
 第六感がシグナルを黄色に変えようとしているのを感じ取り、そう解る頃にはもう佐々木は  
続く言説を発していた。  
「涼宮さんの力がなくなっては困ると考える人たちがいたんだ。彼らは目的こそ違えど、その  
立ち位置たる陣地の色は近いところにあった」  
 
 それはこの一年間の回想録だった。  
 俺が過ごした一年間。  
 橘と、藤原と、周防と……佐々木と。  
 
「ある日のことだ」  
 佐々木は机に視線を落とした。瞳の光は一向に移ろう気配を見せない。  
「キョン、君は中学時代の友人と再会した」  
 心臓が脈動していないかのような錯覚に陥る。  
 ……違う。そんなはずはない。  
「一年ぶりだった。たまに出かける駅でたまたま会った……と、そう見えたかもしれない」  
 動悸がした。休符が今度は八つ打ちの鼓動へと変化し、たちまち掌に汗が滲む。  
 佐々木、もういい。それ以上話さないでくれ。  
「ところがその友人は後日またも君と会った。そして友人は君に対して、涼宮さんの傍にいる  
人たちと敵対しうる存在を三人紹介したんだ」  
 やめてくれ。もういいじゃないか。  
 帰ろう、佐々木。  
「その三人も同じく宇宙人、未来人、超能力者だ。……そして彼らは決して涼宮さん側の三人  
と相容れることはない」  
「佐々木」  
「もう少しだよ。あと少しで終わりだ。辛抱してほしい。苦情ならそれからいくらでも聞くから。  
何なら絶交してくれたって構わない」  
 
 出し抜けに気がついた。  
 佐々木は笑ってなどいない。いや。確かに今こうして微笑んでいるが、そうじゃない。  
 そうじゃない……。  
 
「さて、敵である彼ら三人の中に、涼宮さんの力そのものに特に注目している人物がいた」  
「佐々木、もういい。そんな話を聞きに俺はここへ来たんじゃない。……帰ろう」  
 解ってるさ。  
 佐々木は嘘や冗談を言う人間ではない。ましてこんな場所で。  
 けど、だから何だっていうんだ。俺もお前もここにこうしているじゃねぇか。  
 ……偽者だと?   
「……ふざけるなよ」  
「キョン。その人物はね、世界をもうひとつシュミレートしてみることにしたんだ。あらかじ  
めそれまでの記憶を持たせて、仮に涼宮さんに宿った力が、『もう一人の宿主』に存在したら  
どうなるかってね」  
「もういい! そんな話はたくさんだ!」  
「結果は知っての通りさ。……一年間。長く持ったほうだと思う」  
 佐々木……。  
「ごめんね、キョン」  
 頼むから泣かないでくれよ。  
 
 永遠に思える沈黙が、数メートル四方しかない小さな世界を支配した。  
「ごめん。今までずっと隠していて」  
「どうしてお前が謝るんだよ。どうして……」  
 
「僕はすべてを知っていたんだよ。この世界が誕生したその時から、何もかもすべてをね」  
 
 
 続く言葉は存在しなかった。  
 初めから、言葉なんてちっぽけなものに任せられることはひとつもなかったのだ。  
 
 世界が終わりへ向かっていく――。  
 
 
 これは夢だ。長い長い夢。  
 そもそも、宇宙人に未来人、超能力者なんてものが現実に存在するはずがない。  
 初めっから世界の方がおかしかったのだ。  
 目が覚めたら、きっとそこには不思議なことなど何もない、平穏な日常が広がっていて、世  
界をどうにかするような力も、耳を疑うようなトンデモ話も、こんな茶番じみた舞台劇もない。  
俺は佐々木と学校に行って、普通の友達である藤原や橘、周防と変わらぬ放課後を過ごす。超  
常現象なんてなくとも、星を見たり、博物館行ったり、たまにまったく無関係に映画とか……  
そうだな、ウィンドーショッピングでもいい。そんなのに出かけて、普通の高校生として、退  
屈だよなぁとか言いながら、それでも本心じゃ満足して毎日を過ごすんだ。  
 
 それだけでよかったのだ。  
 
 
「周防九曜はね」  
 光陽園学院の一教室の中。突如声を発した人物がいた。  
 
 涼宮ハルヒ――。  
 
 俺が顔を上げると、黒スカートに夏服半袖のそいつは、佐々木に代わって机の間を歩きだした。  
「このシュミレート時空域そのもののプログラムを統理していたのよ。言ってみれば世界の心  
臓みたいなもの。周防九曜がダウンすることは、つまりこのテストそのものが終わることと同じ」  
 涼宮ハルヒもまた、佐々木とは別種の冷然ぶりを発揮しているように見えた。こうして外面  
だけ見ていると、俺がどっかの世界でこいつと出会って別の部を立ち上げたなんてそうそう信  
じられない。しかし、理性の主張とは裏腹に、俺は涼宮ハルヒに対して奇妙な郷愁めいたものを  
感じていた。そしてそれは時間の経過に伴って、まるで現像されていく写真のようにはっきり  
とした輪郭を作っていくのだった。  
「一年間も持ったのは長いほうだったかもしれないわね。有希――本物の情報統合思念体が気  
づかなければまだこの世界は続いていたと思うけど。まあとにかく、彼らが気づいたから『天  
蓋領域』は試行を終えることにしたのよ」  
 何の感慨もなく、淡々とした口調で涼宮ハルヒが言った。俺はというと、今だ語彙の海を旱  
魃させたままでマヌケな棒立ちを続行していた。  
「本当ならその場で即刻終了してもおかしくないはずだけど、佐々木の持ってる力にはひとつ  
だけバクコードとも呼ぶべき例外があった」  
 涼宮は教室の後ろで足を止めた。振り返って教卓の佐々木を見る。当の佐々木本人は面を伏  
せたまま、ここからでは表情が解らない。  
「ここであんたにすべてを聞かせることで、終了そのものをわずかな間遅らせることができる」  
 凛とした顔は、常日頃佐々木が浮かべる微笑みとは対照的なものだった。  
 涼宮ハルヒは俺のほうへ歩いてきた。見る間に隣へ来ると、肩口で髪を揺らして、  
「佐々木を頼んだわ」  
 それだけ言うと教室から出て行った。  
 後には俺と、教卓の天板を見つめた佐々木だけが残された。  
 日差しだけが、どこか物寂しげに床の半分ほどを照らしていた。  
 
 
 夏だった。  
 雨の少ない今年は、知らない間に景色を春から夏のものへ変貌させていて、それはたなびく  
カーテンと透き通る窓の向こうに、どこまでも広がっていた。体がそれまで皮膚感覚を忘却し  
ていたかのように、ようやく暑さの感覚が戻ってくる。数年間眠っていた気すらする。  
 
 
 教室内には永遠に続きそうな沈黙。  
 机を数個隔てた俺と佐々木の間には無限の距離があった。  
 時折吹く風は佐々木の髪をさらおうとして叶わず、諦めたようにまた無風になるのだった。  
「佐々木」  
 老人のようなひからびた声を俺は発した。喉がカラカラだった。  
「帰ろう」  
 やっとそれだけを言うと、佐々木は引きつるように小さく頷いた。  
 何も言わず、数歩、ゆっくりと歩いてこちらへやって来る。  
 俺は佐々木の手を引くと、やがて光陽園学院を後にした。  
 
 
 ガキの頃。  
 素顔を隠すマスクとスーツを見に纏い、予定調和に悪役をばったばったと倒しまくるヒーロ  
ーに、俺は憧れ打ち震えていた。  
 強きをくじき弱きを助け、最後には必ずハッピーエンドが待っている。そんな単純明快なス  
トーリーに、俺は心惹かれていたのだ。  
 
 今、俺はかけがえのない人物の手を引いている。  
 見ようによっては、それはいかにも格好のいい行動であるのかもしれない。  
 いつか小さかった頃の俺は、この姿を見て同じように憧れたかもしれない。  
 だけど、どれだけしっかりと手を握ろうとも、俺にそれ以上の力はない。  
 世界を救うことも、今泣いてる人を笑わせることも。まして正義の味方にもなれやしない。  
 ……何とかならなかったのか。  
 もう少し早くに知っていれば、せめてあとちょっとだけでも佐々木を解ってやれれば。  
 
 
 北高に帰り着いたのは夕方のことだ。  
 空はまだ明るく、気温も高いままだった。  
「佐々木さん!」  
 部室に入ると橘京子が声をあげ、たちまち部長のもとへ駆け寄って抱きついた。  
「よかった……本当によかった」  
 震えていた。  
 橘はほとんど言葉になっていない声で佐々木に延々と何か言っていて、佐々木はただそんな  
橘を抱きとめていた。あのいつもの笑みに、どこか儚さを織り交ぜて。  
 藤原と目が合った。一度背けられたが、上級生は意を決したようにまた俺を睨み、  
「話がある」  
 顎でしゃくって俺を屋外へ促した。  
 
 
 校庭前の下り階段に俺たちは並んで座っていた。  
 夕暮れに向けて徐々に橙色へ変化する空が嘘みたいに綺麗だった。  
「帰還指令が出た」  
 藤原は出し抜けに言った。それが堰となっていたのか続けて、  
「突然TPDDが使用可能になったと思えばこれだ。しかも、最優先強制コードで絶対に回避不可  
と来ている。いいか、このタイミングでだぞ。どう考えてもおかしい。時空振動がぴたりと止  
んだからというのが理由らしい。……それは僕にも解る。うんざりするくらいにな」  
 すると藤原は立ち上がって夕暮れになずむ白雲を見つめ、  
「何があったか話せ。……すべてをだ」  
 
 
 
「織姫さまと彦星さまは、一年に一度だけ会うことができるのです」  
 妹が手にした本の一説を朗読した。  
 
 俺はリモコンでチャンネルを適当に切り替える手を止め、声の主へ目をやった。  
「ねえキョンくん。二人はどうして毎日会えないのかなぁ?」  
 妹は小学生向けの図鑑と思しきハードカバーから顔を上げて言った。その目には純真無垢な  
疑問の色を示すハテナマークが浮かんでいる。何だ、肝心なところは書いてないのかそれ。  
 俺は何も言わずにソファから立つと、出かける準備をすべく荷物を取りに自室へ向かった。  
 間もなくして下りて来ると、妹は玄関先で図鑑を両手に抱えてむくれていた。  
「ねえねえ、キョンくんってばー」  
 口をタコのようにして俺のTシャツの裾を引っ張ってくる。俺はふと考えて、  
 
「それじゃ反対に、毎日会えるが急に会えなくなっちまったらどうなるか考えてみろ」  
 
 そう言うと妹は三度ほど目をぱちくりとさせて首を傾けた。俺は微笑すると、ドアの取っ手を  
ひねって家を出た。  
 
 気持ちのいい夜だった。  
 こんな日は星でも見るに限る。なんてのは俺らしくもないが、今夜くらいは似合わぬセリフを  
言ってみるのも悪くない。なので俺はできるかぎりのさりげなさとクールさを持って、  
「こんな日は星でも見るに限る」  
 途端に歯が浮いた。俺は一人失笑しつつチャリを引っ張り出し、心身ともにゆっくりした速  
度で待ち合わせに向かった。  
 
 ひさびさの鶴屋山である。  
 春に鶴屋さんの誘いで花見して以来だったが、季節が進行した分だけ緑は深まっていて、時  
期を間違え早く目覚めた蜩がどこかで一匹鳴いていた。  
 俺は短時間の登山を毎朝の登下校で鍛えさせられた脚力とともに制し、ほどなくして頂上に  
到達する。  
「よ。待ったか?」  
 俺は荷物を肩がけしなおして、既に到着していた佐々木に呼びかけた。  
 佐々木は俺に気づくと、折りたたみ式天体望遠鏡に触れる手を止めて、  
「そうでもないよ。一年待った彼らに比べれば、このくらいは何でもない」  
 そう言って星屑の天頂を仰ぎ見た。街の明かりから離れたこの山は、夏でも星がよく見えた。  
 俺は軽く首を振って、  
「いいや。遅刻は遅刻だからな」  
 隠していた缶ジュース二本を取り出して片方を放り、  
「たまには奢られるのも悪くないと思うぜ。部長様」  
 すると佐々木はキャッチした缶を見て、にこりと笑うと、  
「そうだね」  
 天の川を閉じこめたような満天の瞳とともに言った。  
 
 
 
「……そうか」  
 俺がすべてを話し終えると、藤原は長い沈黙の後にそれだけ言った。  
 すでに夕間暮れを迎えていた。背中側の空がわずかに紺色に変化している。  
 藤原は腕を組んで沈思していた。言わない方がよかったか、と一瞬だけ思ったが、  
「やはり聞いておいてよかった。……キョン、感謝する」  
 こちらを見る目には滅多に見せない光が宿っていた。俺が半ば呆気に取られていると、  
「ある程度の検討はついていた。上がどう思ってるのかは知らないが、この一ヶ月、明らかに  
様子がおかしかった。既定事項に関する通達がまるでなかったからな」  
 藤原は階段を登り、  
「戻るぞ」  
 俺は半分意識を残したままで立ち上がりかけたが、  
「ちょっと待て。橘には何て言えばいい」  
 背中を向ける上級生に尋ねた。すると藤原は失笑気味に肩をすくめ、  
「なぜ僕に訊く」  
 
 さて何故だろう。……って今さらだな。  
「好きにしろ。お前に任せる」  
 藤原はそう言って一足先に歩きだした。俺は中腰のままで半ば呆然として見送っていたが、  
やがて思い直してさんざん話してきた先輩男子の背を追いかけた。  
「待てよ!」  
 
 
 
 たいそう立派な竹が忽然と、まるで忘れられたトーテムポールのように生えていた。  
「…………」  
「これには驚いた。鶴屋さんはこれまで会った人物の中でも指折りの素敵な先輩だったけれど、  
さすがは彼女という感想を抱くよ」  
 まったく同意見である。  
 てっきり細っこい笹の枝でも束にしてよこすのかと思っていたが、これはまさにここに竹が  
生えているようにしか見えない。試しに押し引きしてみたがびくともしない。ここへ迷い込ん  
だ翁がいたら一発で光る竹を見つけて帰れるだろうが、切るのは恐れ多くて拝むだけで済ませ  
るかもしれん。むしろ俺は鶴屋さんを拝み倒したい気分だが。  
「それにこれ、短冊何枚あるんだろうね。二人で分けても一年分になりそうだ」  
 まるで札束である。これは完全にジョークだろうが、強化チタンか何かのアタッシュケース  
に入っている。色も様々で、虹色の二乗はあるだろう数に加え金銀白黒……。しかし、ペンが  
二本丁度なのはたまたまだよな?  
「さてどうだろう。僕はあえて回答を控えさせていただこう」  
 佐々木はクスッと笑って片手で口元を押さえた。どっちにしろ関係ない気がする。鶴屋さん  
ならば、あらかじめ解ってればそのままあの明朗な笑みとともに喜んで送りそうだし、そうで  
なくとも直感で結局同じ結果になってるんじゃないだろうか。  
「さ、願い事を書くことにしよう。さいわい短冊には困らないみたいだしね」  
 佐々木は早速水色の一枚を選んで何やら書き出した。俺も一枚取り出して、さて何書くかと  
呻吟するのだった。  
 
 
 
「お帰り」  
 部室に戻ると、佐々木と橘は談笑の最中であった。  
「あ、やっと帰ってきた。今合宿の話をしてたのです」  
 橘はいつもの天真爛漫な笑顔に戻っている。俺は藤原と顔を見合わせた。藤原も少なからず  
面食らっているようだった。  
「さ、座りたまえ」  
 佐々木の催促に俺と藤原はおずおずという具合に指定席へと落ち着いた。  
 
 
 
 まさかこんなものまでと用意してあった脚立を使って短冊をつけ終わり、夏のクリスマスツ  
リーのように豪奢な竹を見上げた。  
「ずいぶん欲張っちまったな。これじゃ一生分の願い事と取られてもおかしくないぜ」  
「では今宵空に願いを捧げられなかった人の分としよう。実際、僕自身はどれが自分の願いな  
のか判然としないからね」  
「俺はほとんど全部願望で埋め尽くせたがな」  
 そう言うと佐々木はまたクスクス笑った。  
「キョン。やっぱり君は、おそらく自分で思っている以上に面白い性質をしているよ」  
 そうか? お笑いの道だけは志すまいと遥か幼少期に誓った覚えがあるんだがな。  
「いや、そういう意味ではないんだがね。ふくくく」  
 何がツボなのかよく解らんが、俺は望遠鏡に歩み寄って、  
「それはそうと、これもうズレちまったんじゃないか?」  
「そうだね。さっきまではよく見えていたんだが。もう一度探さないといけないね」  
 佐々木は笑いを微笑に変えてこちらへ歩いてきた。  
「ん。ベガとアルタイルってどっちが彦星でとっちが織姫だっけか」  
 
「ベガが織姫、アルタイルが彦星さ。もともと彼らを再会させるために僕らが短冊に願いを書  
くと以前話した覚えがあるけど、覚えているかい?」  
 ぐ。さっぱり失念している。これでもどうでもいいような知識ほど頭に残っているというち  
ょっと得がたいものの全く役に立たない性質を持ってるはずなんだがな。  
「ふふ。まあいいよ。少なくともあれだけ願い事を書けば、橋ができずに彼らが往生するよう  
なことにはならないだろうから」  
 俺の煩悩も恋人同士の逢瀬に一役買ってくれるならちょっとは報われるってものだ。  
「それで」  
 佐々木は声を出さない笑いをしきりに続けながら、  
「何を書いたんだい? 訊いていいかな」  
 吊るした時に見なかったのか? 俺はお前の含め一通り見ちまったんだが。  
「フェアじゃないと思ってね。僕がどれかに本当の願いを書いても君が見つけるのは困難だが、  
君のは反対にどれも真実に見えるかもしれないじゃないか」  
 佐々木は俺を見て言った。俺はしばし考えたものの、その見透かすような瞳に観念し、  
「いや佐々木、どうやったってアンフェアなのは俺のほうだ」  
 そう言うと佐々木はふと口もとの笑みを緩めて、  
「それはどういう意味だい?」  
「ええとだな……」  
 この期に及んですぐには答えられない俺であった。  
 
 
 
 すっかり夜になるまで俺たちは話しこんでしまい、おかげで校舎を出た生徒は俺たちが最後  
だったろう。  
「これで心置きなく夏休みを迎えられます! ふふふ」  
「気味の悪い笑いを抑えたらどうだ。あぁそうだ。お前、期末どうだったんだ?」  
「またそれ!? あなたホンッとに性根が曲がってますね!」  
「僕はお前の将来にささやかなる心配をしてやったに過ぎないんだがな」  
 言い争う名コンビを先頭に坂道を歩いて帰る俺たちだった。  
「楽しかったね」  
 佐々木がふと呟いた。俺はエンドレス漫才を観察する目を隣へ向けて、  
「そうだな」  
 脳裏をよぎったのは周防九曜の姿だった。  
 どんな正体を持っていようと、あいつも他に代わりのいない俺たちの仲間である。  
 佐々木の力を涼宮ハルヒに移したことで執行猶予がついたなら、あいつを帰してくれてもい  
いだろうが。  
「周防さんは、あれでもちゃんとこの部での日々を楽しんでいたよ」  
 佐々木が言った。その目には言い知れぬ気遣いの色があり、また年月を越えた底知れぬ温か  
みが見て取れた。  
「……そうだな」  
 俺は『天蓋領域』たる星がかりの空を見上げた。  
 
 おい、聞こえたか天蓋領域。  
 そう、そこにいるお前のことだ。  
 お前は箱庭で俺たちを動かして満足しただけかもしれない。だがな。今、ここにこうして俺  
たちは存在しているんだ。お前がどう思おうが、何と言おうが知ったことじゃない。  
 しかしな、人の気持ちをこれっぽっちも解らない知性体なんぞに、人間の持つ不可思議な力  
なんて解りっこないぜ。まして世界をどうにかする力となればなおさらだ。  
 
 見てろ。いつかしっぺ返しを食う時が来る。  
 それは必ず。ここにいる俺には不可能でも、どこかにいるもう一人の『俺』は、やっぱり同  
じようにお前を認めないはずだ。俺はそう信じて疑わないのだ。涼宮ハルヒ。あいつと出会っ  
た時に感じた強烈なイメージ。あれこそ異世界の『俺』が別の人格でないことの確たる証拠な  
のだ。俺たちの世界で好き勝手やった代償は高くつくぜ。  
 
 ……だが、同時にほんの少し感謝もしているのだ。  
 俺の世界はここにあって、佐々木がいて、藤原がいて、橘がいる。周防のことも忘れない。  
 俺たちが出会って、毎日集まって一緒に帰る、この歴史を作ってくれたことに、俺は素直に  
ありがとうと言いたい。それだけは真実だ。  
 
 そう、すべてが嘘だった世界にも、ちゃんと真実はあるんだ。  
 
「それじゃ、また週明けに」  
「はい! じゃあね佐々木さんにキョンくん!」  
「佐々木にキョン、じゃあな」  
「またね!」  
「またな」  
「……」  
「……」  
「……お前ら、下手すると中学生未満だぜ」  
「「な、何だと!(何ですって!)」」  
「くくくくく。ふふふふふふ」  
「佐々木、黙って笑ってないでたまにはお前も思うところを言ってみたらどうだ。こいつらに  
はそろそろ自覚という名の処方箋が必要だ」  
「ふふ。それは困ったね。僕は今のままが一番いいと思っていたところなのに」  
「じゃあ俺が言ってやる。橘、藤原。お前ら地球上で他に類を見ないほど相性抜群だぞ」  
「…………」  
「…………」  
「……さ、キョン。帰ろうか。僕たちが長居するとこの先の修羅場の切れ味が落ちそうだ」  
「おうとも。あぁいつになく楽しい下校時間だったのになぁ」  
「キョン!」  
「佐々木さん!」  
「「……あっはっはっはっは!」」  
 
 
 
 佐々木はしばし黙したままで天体望遠鏡に向かっていたが、  
「……見えたよ。さ、早く」  
 促された俺はケプラー式の対物レンズに目を近づけた。空いた目を閉じる。  
「…………」  
 そこにはほのかに青い燐光を纏う織姫星の燦爛たる輝きがあった。  
 広漠たる宇宙の神秘の片鱗は、確固たる存在感をレンズ越しの惣闇に放っていた。  
「すげぇ」  
 思わず感嘆の息を飲んだ。何物も今この時輝いている存在には敵わないと思わせる。  
「と言ってもそれは二十五年に放たれた光だけれどね」  
 …………。  
 なぁ佐々木、さすがに今のツッコミは浪漫を感じる男という生き物にとって無粋であったか  
もしれないぜ。  
「これは失礼。僕はアルタイルのほうが好きだからというわけでもないが、口が滑ってしまった」  
 滑った上に若干ナナメだな。  
「ん、それじゃそっちを見るとしますか」  
 俺が提案し、  
「了解」  
 佐々木が相槌を打った。  
 俺は顔を上げて、佐々木は反対に焦点を合わせるべく望遠鏡に臨む。  
 
 その間、俺は鶴屋山を見渡した。  
 中央に大木ならぬ大竹を据えた私有地たる山の頂上は、間断なく吹く微風のおかげでさほど  
暑くなかった。見上げると星の帯が源泉なき光の川を形成している。俺はふと厳粛な気持ちと  
なって、一夜限りで橋渡しされただろうミルキーウェイを眺めていた。相思相愛の加熱するあ  
まり離別させられたってのには同情三割の前に呆れ七割だが。  
 
 無限の涼夜はあまねく天穹を覆っている。  
 まだ梅雨であるにもかかわらず雲はひとつとしてなく、宝石を散りばめてもこうはいかない  
星漢が、ここでこうして観測する者の存在を矮小なものにして、時間の感覚を遠遐の彼方へ押  
しやっていた。  
 
「どうだ佐々木、そろそろ見つかった――」  
 
 か。  
 俺は最後の一文字を霧消させた。  
 
「…………っ、うっ」  
 佐々木は地面にへたり込んでいる。  
 
「佐々木……?」  
「……キョン……ごめ……っ。うっ……」  
 
 振り向いた佐々木は涙を流していた。  
 
「ごめ、っ、えう……うわぁぁ……」  
 佐々木。  
「佐々木!」  
 俺は歩み寄って、佐々木を抱きしめた。  
「……佐々木」  
「うぅぁあ、……ごめん、ごめんねキョン……ぅぅぅ」  
 ショックだった。  
 ブラックホールとか暗黒物質じゃ足りないくらいの風穴が、胸にどかんと口を開ける。  
 
 佐々木は、ここに来てなおも自分を抑えていたのだ。  
 
「ごめん……ごめんね……。こん、っ、うっ、こんな……」  
「お前は悪くない。……誰一人悪くない」  
「うぁあ、キョン、あぁぁああー」  
 
 ちくしょうめ。  
 
 初めから知ってただって?  
 ……笑わせるな。そんな事実をどうしてあらかじめ知らせておく必要がある。  
 そもそも、なぜ世界をどうにかする力なんてもんがこいつに宿る必要があった。  
 
 誰でもいい。出てきて教えてくれよ……。  
 
「うぅぅぅ……っ、あぁぁっ、えっく」  
 
 佐々木は舞台の中心で張り切るようなタイプじゃないんだ。  
 まして宇宙の中心にいるなんて重役、自覚して務まってたほうがどうかしてる。  
 
「……ほんと……はっ、こんな……こんな……」  
「もういい。……もういいんだ」  
 
 謝りたいのは俺のほうだ。これまでの一年間、正義の味方の真似事をしつつ、大切なことは  
何一つ解っちゃいなかった。佐々木は最後の最後まで本心を表さない奴なのだ。本当に困って  
も、世界の終幕前の土壇場でも、なお自分を後回しにするような奴なのだ。  
 
 それに気づかなかった大馬鹿野郎は俺だ。  
 
「佐々木」  
「……っ、ぅうう」  
 
 気づけなくてすまなかった。  
 俺が気づかなくちゃいけなかったんだ。  
 そしたらもうちょっと、ほんのわずかくらいお前の気持ちが楽になったかもしれないのに。  
 
「泣くな……お前は本当に、頑張りすぎってくらい頑張ってた」  
「あっ、うぇっ、ぅぅうあああー」  
「ずっと一緒だ。何がなくなっても、ずっと……一緒にいるからな」  
「キョン……っ、うぅっ、キョン……」  
 
 くそ。  
 これで終わりなのか。  
 
 まだまだ、やってないことがあるじゃないか。  
 
 合宿にだって行ってない。夏休みもまだだ。祭りだってあと三回は行かないと気が済まん。  
 橘は日焼けが嫌とか言うかもしれんが、海水浴だって今年こそ行きたかった。  
 
 まだ。  
 まだこの先も、いくつもいくつも楽しいことをするはずだったろうが。  
 
「佐々木」  
 俺は涙でくしゃくしゃになった佐々木の頬を両手で包んだ。  
「ずっと大好きだった。今でもバカみたいにお前が好きだ。……大好きだ」  
 風が吹いて木々が揺れる。  
 ジーンズのポケットに一枚だけ隠していた短冊が、空に昇って行く。  
 
 無数の星が世界を照らす下、俺たちは最後のキスをした。  
 
「キョン……」  
「もう謝辞は抜きだぜ。耳にタコができちまうからな」  
「……そう、か」  
 
 ずっと離さない。  
 たったの一日ついた延長期間は、もうそれ以上続くことはなく。  
 
「ありがとう……」  
 
 最後に佐々木が笑う。  
 
 
 
「大好きだよ、キョン」  
 
 
 
「佐々――  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――。  
 ――。  
 
 
 ――――。  
 
 ――試行、――終了。  
 
 
 ――。  
 ――。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「キョン?」  
 呼び声に我に返った。  
「……佐々木?」  
 
 ごくごく見慣れた喫茶店の内部であった。  
 休日の午前なのに人がまばらなのは、今が雨降りの空模様だからだ。  
 俺は常連となっているこの喫茶店の一角へ、しかしいつもと違う顔ぶれと共に座っている。  
「早くしてもらいたいのはこっちの方だ。何をぼーっとしている」  
 名前も知らないのに悪印象を相当蓄積している未来人の男がぶしつけに言った。  
「事を急ぐのはよくないわ。まず順番に自己紹介から始めないと」  
 隣で、これも同じく悪い記憶しかない、先輩をさらった誘拐犯の首魁たる少女が無邪気に笑  
った。  
「――――」  
 真っ黒な姿。  
 何も言わない、俺たちをかつて真冬の山岳で遭難させた連中の手先だろう宇宙人が、頻闇の  
瞳を虚ろに向ける。……妙な感じを受けたのはこいつからだったか。  
 
「キョン、大丈夫かい?」  
 俺の隣で中学時代の友人が靄然と微笑んだ。  
「ん、ああ。ちょっと眠気が来ただけだ」  
 眠いなどと言っている場合ではないのだ。ここにいる連中は俺にとってほとんどが黒なので  
ある。この話し合いの推移如何では、即刻警戒態勢に入らねばならないかもしれない。俺は気を  
引きしめるべく頬を叩いて渇を入れる。  
 
「始めよう」  
 
 俺は言った。未来人野郎が嫌な感じにニッと笑うのが嫌でも目に入る。  
 そう、問題は起きたばかりなのだ。  
 もしかしたら、まだ始まってすらいないかもしれない。  
 それはここから先の時間に、模糊とした不定の現象としてたゆたっている。  
 
 
「佐々木」  
「何だい、キョン」  
 俺は覚悟してこれだけ言った。  
「頼んだぞ」  
 俺はお前を信じている。  
「うん。もちろんさ」  
 佐々木は小さい頷きを返した。  
「この前も、君は親友だと言ったばかりだしね」  
 
 
 そうだ。  
 佐々木は中学時代の親友だった。  
 俺がこいつを信じることができるのなら、今だって胸を張ってそう呼べる。  
 
 
 かくして佐々木を含む三人の人物との会合は始まった。  
 俺はそこでいくつかの新事実を知り、いくつかの疑念を持った。  
 
 が、同時に大丈夫じゃないかとも思っていたのさ。  
 
 
 他ならぬ『親友』が、隣にいたからな。  
 
 
 
 
 
 
 
 (了)  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――俺は短冊をひとつだけ吊るさずに隠し持っていて、そこにはこう書いていた。  
 
 『今ここにいる俺たちが、ずっと一緒にいられますように』  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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