「お兄さん、こ、こんにちは!」  
 
 
 そろそろ春も半ばを超え、衣替えの心配をしなけりゃならなくなったある日の土曜、俺  
とハルヒが立っているこの場所の後方から、涼風を思わせる声が耳に届いた。何処か聞き  
覚えがあるような気がするが。  
 しかし、俺にお兄さんと声を掛けてくれる人間はそう多くはない。っていうか、一人し  
かいないな。  
 本来なら俺の妹がその筆頭であらねばならんのだが、残念ながらあいつの記憶装置には  
「お兄さん」という単語は登録されていないらしい。  
もしくは著作権付きであるかのように、登録してもすぐさま削除されるようだ。  
 それならば誰か? っていうと、これが妹の親友のミヨキチしかいないって事なんだな。  
 だが待て、何かおかしい。ミヨキチだとすれば、声がいつもより大人っぽく聞こえるの  
はどういう訳だ。  
 いや、ミヨキチが大人びているのはすでに確認済みだ。それは問題じゃない。  
 問題なのは、今目の前にいる女性がどう見ても俺やハルヒと同い年か、少し上にしか見  
えないことだ。しかも最悪なことに、今俺はSOS団不思議探索の集合兼解散場所であると  
ころの公園で立っており、そこでハルヒがたった今解散命令を下したところであり、つま  
りハルヒが惚けたような顔つきで俺をお兄さんと呼んだ少女と俺とを見つめていたことだ。  
 夏でもないのに、俺の全身から嫌な汗が富士の湧水のようにおびただしく噴き出してい  
るのは、いったいどういう事だ?  
「ちょっと、キョン。お兄さんだなんて、この子というかこの人誰? どう見てもあんた  
より年下には思えないんだけど?」  
 ショックから立ち直ったハルヒは、罪人を激しく責め立てる奉行所の同心のような形相  
で俺を詰問した。  
「そうは言ってもだな、俺には何が何やら全くわからないんだ……」  
「嘘言いなさい。あんたに対してあんなに親しげに挨拶してたじゃない!」  
 すると、ハルヒの迫力に恐れをなして沈黙していたその女性は俺を上目遣いで見つつお  
そるおそる口を開き、  
「あの、お兄さん。私です、吉村美代子です!」  
 ああ、やっぱりミヨキチか。1週間も会わないうちにずいぶん育ったもんだな。男子3  
日会わざれば刮目して見よ、とはよくいったもんだ。まあ、ミヨキチは女の子だがな。  
 って―――、  
 
―――育ちすぎだろ!  
 
 そもそも背の高さが違うじゃないか。それに女性らしさを表すある部位もハルヒに勝る  
とも劣らないほど育っているようであるし。  
 えっと……これはいったいどういう事だろうね、長門さん?  
 俺は助けを求めるように宇宙人製有機端末に視線を滑らせたのだが、その当人は俺を一  
瞥しただけで小首を傾げ、その後は中空に視線を彷徨わせるだけで、まるで俺の期待に応  
えてくれそうにない。  
 また、古泉がしきりに携帯を気にしているのが気にかかる。ひょっとしてやばいのか?  
 朝比奈さんと言えばこの事態が分かっているのかいないのか、キョトンとしてらっしゃ  
る。彼女のその様子は俺の心を和ませるには最適だが、今はそれどころじゃないな。俺の  
脳内にサイレンが鳴り響いている状態だ。  
 俺は喉の渇きを覚えつつ口を開き、  
「キミ、ミヨキチなの……か?」  
 
 俺の問いかけに対してコクッと首肯するミヨキチと名乗る美少女。背中まで伸びる黒髪  
が印象的だ。ポニーにすればいいな、などと思わなくもない。  
「キョン、どういう事よ? あんたの話じゃ彼女まだ小学生のはずでしょ? それなのに、  
どう見たってその子、高校生以上にしか見えないんだけど」  
 ハルヒの迫力は、今や地震の後の大津波のように俺を飲み込んでしまいかねないほどで  
あり、つまり俺は戦慄を憶えたのだ。  
 なんでもいい。この状況を乗り越えるマーベラスでエクセレントな言い訳を考えねば。  
「ハルヒ、ミヨキチは確かに小学生なんだ。妹の親友でクラスメイトだし、クラスの名簿  
にも載っているから、それを見せてやってもいい。それが証拠になるはずだぜ。……どう  
だ、まだ信じられんか?」  
 まあ、これで信じろってのはかなり無理がある話で、普段のミヨキチでさえおよそ小学  
生には見えないってのに、今ここにいるミヨキチは明らかにそれよりも成長した姿だ。  
 それに俺だって、本当にミヨキチかどうか訝しくなって聞き返していたしな。  
「そう、あんたはそう言い張るのね? ……悪いけど信用できないわ。あんただって、最  
初彼女が誰かわからなかったみたいだしね」  
「いや、今日のミヨキチは普段よりも大人っぽく見えたから、別人だと間違えっちまった  
のさ」  
「嘘ね。キョン、あんたいったいあたしに何を隠しているの? そうでなきゃ、そんな見  
え透いた嘘はつかないからね!」  
 やっぱり信じてくれないよな。我ながらそう思う。俺の詐欺師としての話術は四流みた  
いだ。いや、ランク外か? もっとも、黒を白と言いくるめられるほど弁論がたつ訳じゃ  
ないけどな。  
 この状況ををどう切り抜けるか俺が必死の思いで思考の螺旋を行ったり来たりさせてい  
ると、ハルヒやおら俺を睨め付け、そしてうつむきがちなミヨキチを視界に入れた。  
 さらにはハルヒお得意のアヒル口を見せ、  
「でもまあ、今日のところは何も言わないでおいてあげるわ。その子も事情ありげだしね。  
……その代わり、月曜日あんたにはじっくりと話を聞かせてもらうから、覚悟しておきな  
さい!」  
 まるで納得していないようだが、ハルヒはとりあえず矛を収めてくれたようだ。だが、  
俺を取り調べる気満々のようで、ハルヒは百戦錬磨のベテラン刑事のような笑みを浮かべ  
た。  
 ……月曜日が恐ろしいぜ。  
 それでも、ハルヒがいきなり掴みかかってこないだけ数倍マシだといえるだろう。  
「それじゃあ、あたし達はもう帰るわ。あんたは、そのミヨキチって子と話しがあるんで  
しょうからね」  
 ハルヒは、ベンガル虎もあわてて逃げ出してしまいそうな殺気のこもった視線を俺に突  
き刺し、地面のアスファルトを液状化させかねない勢いで駅へと去っていった。  
 やれやれ、胃が痛くなってきた。家に帰ったら胃薬を飲んでおくか。  
 
 
 
 さて、事情を聞かねばならんな。  
「ミヨキチ……だよな? 当然の質問だと思うんだけど、いったいその姿はどうしたん  
だ?」  
 ミヨキチは少しうつむき加減で、美しく成長したその顔を哀しそうに歪めながら、  
「私にもわからないんです。今朝起きたらこんな姿になっていました。それでもう、なに  
がなんだかわからなくて……気がついたら家を飛び出していました」  
 ミヨキチは今にも泣き出しそうな表情だ。俺も何とかしてやりたい気分で一杯で、今す  
ぐミヨキチを慰めたくなるぜ。  
 
「家を出てからわたし、どこへ行くあてもなく、しばらくは図書館で過ごしてました。そ  
れから駅前まで出てきてみたんです。でもわたし、本当に途方に暮れていました。そんな  
時、お兄さんを見かけたんです。だから……わたし、思わずお兄さんに声を掛けてしまっ  
たんです」  
 ミヨキチはそう言葉を押し出すと、瞳を潤ませ、涙がひとしずくこぼれ落ちそうになっ  
たが、それに気づくと途端に恥ずかしそうに目元を拭った。  
 俺はミヨキチに激しく同情すると同時に、彼女の身に起こった理不尽な出来事に怒りを  
覚えた。  
 しかし、このまま哀しみをたたえた表情をさせているわけにもいかないので、ミヨキチ  
の気持ちを落ち着けようと別の質問をしてみた。  
「そういえば、ミヨキチ。君、服はどうしたんだ? お母さんかお姉さんのでも借りてき  
たのか?」  
 するとミヨキチはかぶりを振り、  
「いいえ、これ私のです。今の姿ではちょっと小さいんですけど……」  
 と恥ずかしげに言うものの、ミヨキチは幸い小学生にしてはそこいらの中学生よりも成  
長著しい姿形をしているので、やや窮屈そうではあっても彼女の纏っている衣服が取り立  
てて小さく見えるというほどではなかった。今の姿にもよく似合っていると言える。  
「でもそんなに違和感ないな。けっこう似合ってると思うぞ」  
「……! あ、ありがとうございます!」  
 ミヨキチは実にうれしそうに微笑みを浮かべている。どうやら彼女の気持ちも少しはほ  
ぐれたらしい。  
 そこで俺はふと考えてみた。それというのは、彼女のこれからの身の振り方についてだ  
が……さて、どうしたもんだろうな? ミヨキチが自分の家に戻ったところで、その成長  
した姿を彼女の家族が目にしても、ミヨキチ本人だとわからないだろう。  
 もっとも、わかったところで、大混乱に陥るのは必定だろうが。  
 かといって、このままここに残して帰るわけにもいかんし……。  
 俺は改めて成長したミヨキチに対して、頭の先から足の先まで視線を一巡させてみた。  
 その姿は、普段のミヨキチを知っている俺にとっても、戸惑うような美しさだ。ハルヒ  
や朝比奈さんに十分対抗できるとっても過言じゃないだろう。  
 いかんな、俺はちょっと冷静さを欠いているらしい。まあ、自覚があるだけマシだとは  
言えるが。  
「あ、あの……お兄さん。そんなに見つめられると、私……」  
 俺の視線があまりに不躾だったらしく、ミヨキチはうろたえて真っ赤だ。今にも頭から  
石炭をくべた蒸気機関のように煙が出てきそうだ。  
 悪いことしちまったな。  
 自重しろ、俺。こんな姿をしていてもミヨキチは小学生だ。あんまりじろじろ見ている  
と、『警察署の方から来ました』なんて事になりかねないぞ。  
 まあそれはともかく、この状況をどうするかだ。とはいえ、あまり選択肢はないが。  
 それどころか、どう考えても方法はひとつしかないな。つまり、両親が旅行で不在の俺  
の家に連れて行くしかないということになる。ただし妹にどう説明するか、なんとも頭が  
痛いな。  
 そこで俺は、たった今思いついた提案をミヨキチに示してみた。  
「ミヨキチ、よかったら俺の家に来ないか? 今日は両親もいないし、妹には説明しなき  
ゃならんが一旦落ち着く場所も必要だろう?」  
 だが、ミヨキチは俺に迷惑を掛けると思ったんだろう、俺の提案に対してなかなかうん  
と言わない。それでも俺が重ねてミヨキチを誘いかけると彼女はおずおずと、  
「ありがとうございます、お兄さん。では、お世話になります。……ふつつか者ですが、  
どうぞよろしくお願いします」  
 
 ミヨキチはまるで高飛び込みのように体を折り曲げることで精一杯のお辞儀をし、俺へ  
の感謝の念を伝えた。  
 伝わったね。伝わったともさ。痛々しいほどにミヨキチの気持ちが感じられたぜ。何か  
言葉が違うような気がするが、細かいことだ。  
 それにしても、いつも妹が迷惑掛けてるんだから、そんな遠慮することもないのにな。  
まったく、良いお嬢さんだぜ。俺の妹と交換したくらいだ。何なら今日から1週間ほどど  
うだ?  
 ようやく話もまとまったところで、俺はミヨキチを自転車の荷台に座らせ、自宅への道  
をたどることにした。そして俺はペダルに足をかけ漕ぎゆく。  
 
 
 
 駅前を出て10分少々の走行で自宅へと到着した。  
 荷台に座っているミヨキチはあくまでも行儀よく、俺の妹みたいに足をバタバタさせた  
り俺の背中に字を書いたり、はたまた脇腹をくすぐったりはしなかった。  
 自宅の前で自転車からミヨキチを降ろすと、俺は自転車を玄関横にしまいこみ、妹に出  
迎えさせるためインターフォンを鳴らした。  
 しかし、何の反応もない。俺はその後数回鳴らしたが相変わらず誰かが出てくるような  
気配はなかった。  
 やむをえず手持ちの鍵でドアを開けた。次いでミヨキチが靴を脱いだところで俺はふと  
大事なことを忘れていたことに気がついた。、  
「そのうち妹も帰ってくるだろうから、自宅に連絡を入れておいた方がいいな。今日は家  
に泊まっていくといいさ」  
 俺はそう提案し、ミヨキチに電話の子機を手渡した。  
 ミヨキチは「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀をし、すかさず自宅の電話番号を  
プッシュし電話に出た母親に説明をしている。  
 それが終わると、俺はミヨキチをリビングへと案内した。  
 そしてミヨキチをソファに座らせたところ、俺はテーブルの上に妹の置き手紙があるこ  
とに気づき、それを手にとって読み下してみた。  
 そこには、妹が今日ミヨキチとは別の友達の家に泊まるという内容が記されていたのだ。  
さらに追伸として『あたしがいなくて寂しいかも知れないけど、我慢してね、キョンく  
ん』などと相変わらず兄を兄と思わない妹の文字がそこには躍っていた。  
 当然ながら俺はそれを見て唖然とし、すかさずミヨキチに手渡して読ませたところ、ミ  
ヨキチは一瞬戸惑ったような表情を浮かべた。  
 ……どうやら、非常にまずいことになってしまったようだ。いや、俺にはミヨキチにど  
うこうしようなんていう邪心は、1マイクロメートルだってありゃしないぜ。本当だ。  
 しかし、今俺の目の前にいるミヨキチは、いつもの妹の親友としての姿ではないんだ。  
おそらくハルヒの変態パワーによるものだろうが、その力によって美しく成長を遂げた姿  
だ。  
 考えれば考えるほど、俺はとんでもないことをしているような気分に陥ってしまった。  
どう見ても同年代にしか見えない男女が、一つ屋根の下で一夜を過ごすのということにな  
るんだからな。たしかにまずいよな。PTAも真っ青のシチュエーションだ。  
 しかしミヨキチはすでに立ち直って、何もなかったかのような顔つきに戻っていた。そ  
して彼女は俺を上目遣いに見つめ、  
「あの、わたし家事のことはやります。お料理も作ります。おいしくないかも知れません  
けど……。ですから、お兄さんはゆっくりくつろいでいて下さいね」  
 ミヨキチはどうやらこの状況を、特には意識はしていないようだ。逆に俺が意識し過ぎ  
ていたようで恥ずかしい限りだ。それでも先ほど驚いて見えたのは俺の錯覚か?  
 
 まあそれはともかく、妹の友達でしかも小学生に家事なんてさせるわけにはいかない。  
「いや、君はお客さんなんだから、そんなことしてもらわなくても良いよ」  
「いえ、わたしの都合でお兄さんにご迷惑をおかけするんですから、このぐらいはさせて  
下さい。お願いします!」  
 俺はあれやこれやとミヨキチに説得を試みたが無駄だった。  
 すなわち、俺はやけに積極的なミヨキチに押し切られるまま、本日の家事全般をミヨキ  
チに委ねることになってしまったのだ。  
 しかしミヨキチってこんなに押しが強かったか? 俺にはミヨキチは淑やかで躾けの行  
き届いた良家のお嬢さんといったイメージがあったのだが……。認識を改めなくなくちゃ  
ならないな。  
 それにミヨキチがなんだか楽しそうだ。今も上機嫌で鼻歌を歌いながら冷蔵庫を開けて  
いる。どうやら、晩飯を作ってくれるらしい。  
 それにしても、友達の家に泊まるのがそんなに嬉しいのか? そうでも考えなければ、  
ミヨキチの上機嫌さが説明できないな。ただし、妹はいないわけだが。  
 そんなことを考えていると、ふとミヨキチがキッチンから顔を覗かせ、  
「お兄さん、何か好きな食べ物はありますか? あれば作りますけど」  
「ミヨキチが作ってくれるなら何でもいいよ。それにそこに入っている食材じゃ、たいし  
たものは作れないと思うぜ」  
「いいえ、これだけあれば色々作れそうです。ではお台所をお借りします」  
 ミヨキチはそう答えると、スキップでもしかねない様子で再びキッチンに戻って夕食の  
準備を始めた。流れるようなその動作はフィギュアスケートを見るかのように美しい。す  
でに小学生のレベルではないな。  
 しかし、ミヨキチはお料理スキルまで標準装備なのか? おいおい、なんてスーパー小  
学生だよ。俺の妹にも少しは見習って欲しいもんだ。  
 俺の妹が唯一備えているスキルといえば、強制目覚ましプロレス技だぜ。ただし兄限定  
でな。後は、セクハラ攻撃か。こいつはもっぱらミヨキチが対象だが。  
 ミヨキチが夕食の準備をしてくれている間に、俺は少しでもミヨキチの負担を軽くしよ  
うと風呂の準備でもしようかとソファーから立ち上がったのだが、途端にミヨキチが目敏  
く俺を制して、リビングから出ることを許してはくれなかった。  
 まるで主婦そのもののミヨキチの様子だが、相変わらず生き生きとキッチンでめまぐる  
しく動き回っていた。  
 こういったのもいいななどと、俺は不覚にも和んでしまった。  
 ……それからおよそ1時間が経過しただろうか。どうやら夕食ができあがったようで、  
ミヨキチに呼ばれてテーブルに着いてみると、そこにはとても我が家の冷蔵庫に入ってい  
た食材で作られたとは思えないほどの数々の料理が湯気を立てて並べられていた。  
「これは……すごいな。ミヨキチ、本当に感心したよ。妹にも見習わせたいくらいだ」  
 本心から感動したぜ。それにこれほどのレパートリーを持っていることにも驚いた。  
「あ、あの冷めないうちに食べてみて下さい。上手くできたかわかりませんから、お味の  
保証は出来ませんけど」  
 俺のほめ言葉に素直に反応し、ややあわてた様子で俺に食事を勧めるミヨキチ。  
 俺はそれに従い、実際にそれらの料理に箸を付けてみた。まずは煮物だ。ほどよく味の  
しみていそうなジャガイモを一口大に分けて口に運んでみる。  
 
 ――美味い!  
 
 本当に驚いた。とても小学生が作った料理だとは思えない。ここから立ち上がって口か  
ら光線をほとばしらせ、この感動を叫びたくなるくらいだ。  
 それからは夢中で次々と箸を進めてみたが、どれもこれも美味かった。海原先生も満足  
の品々だ。  
 
 だから俺はこの言葉をミヨキチに贈ることにした。  
「ミヨキチ、本当に美味かったよ。もしこれからも機会があれば、また食べさせてくれる  
かな?」  
「……はい、よろこんで。こんなのでよければ何度でも」  
 ミヨキチはまるで極上のワインでも飲んだかのように頬を赤く染め、俺の心からの賞賛  
にくすぐったそうにしていた。   
 それにハルヒとは違い、ミヨキチの反応が実に初々しく、それを見るに付け俺の心は落  
ち着かなくなった。  
 それどころか妙な気分になりかけたのだが……いや、なんでもない、妄言だ。忘れてく  
れ。  
 しかし、なおもミヨキチは俺を見つめ、また俺もそれを受け止め見つめ返してしまい、  
しばらくの間この空間をフワフワとするような表現しがたい妙な空気が充ち満ちていた。  
 ……おい、小学生相手に俺は何考えているんだ。つーか落ち着け、俺。自制心だ。  
 俺は今しがた湧き出てしまった邪念を業務用扇風機で吹き払うように、別の話題をミヨ  
キチに振ることにした。  
「ミヨキチ、そろそろ風呂の用意でもしようか? 俺がお湯を入れるから、先に入るとい  
い」  
ミヨキチはそれまでぼんやりとした表情をしていたが、俺の言葉を受けて静寂の水面に  
小石を投げ入れたかのようにハッとして我に返り、途端にあたふたして、  
「あ、はい。……いえ、わたしはお世話になっている身ですから、お兄さんより先にお風  
呂を頂くわけにはいきません!」  
 遠慮深いのはミヨキチの長所であるが、こういった場合にはもう少し融通を利かして欲  
しいものだ。  
 ここからは譲り合いの応酬となり、無駄に時間が経過していったのだが、またも根負け  
した俺が先に入ることになってしまった。  
 何というかミヨキチは、ハルヒとは別の意味で逆らいがたい雰囲気を持っているようだ。  
 
 
 
 超特急で俺の入浴が終わり、それと入れ替わりにミヨキチが入った。俺はその間を利用  
して、すぐさま部屋に戻り机の上に置かれている携帯電話を手に取った。  
 言うまでもないだろうが、今日のミヨキチにもたらされた変化について、事情を知って  
いそうなやつに電話を掛けてそれを聞き出そうというわけだ。  
 俺が携帯のボタンを押して、コール音が数回、そいつは電話に出た。  
『やあ、あなたでしたか。そろそろかかってくる頃だと思っていましたよ』  
 この口調からもわかるようにハルヒ研究の権威でしかも超能力を使う変態だ。  
『何か失礼なモノローグが聞こえたような気がしますが、まあいいでしょう。……あなた  
がお聞きになりたいことはわかっています。何しろ僕たちは以心伝心の仲ですから』  
 ニコッと微笑みかける古泉の顔が俺の脳裏に浮かび、不意に電話をたたき壊したくなっ  
た。  
 ……気味の悪いことを言うんじゃねえよ。  
『これは失礼をば。それでは本題に入りましょう。ただし、僕は今夜とても忙しくなりそ  
うですから手短にさせてもらいますが』  
 忙しいって、例のアルバイトか?  
『それ以外にあるとも思えませんが、確かにその通りです』  
 それはご苦労なこった。まあ、がんばってくれ。  
『それは僕へのねぎらいの言葉だと思って受け取っておきますよ。しかし、そもそもの原  
因はあなたにあるのですから、あなたには応分の負担を担っていただきたいところです  
が』  
 
 ちょっと待て。何で俺に原因があるんだ? 俺は一方的な被害者だろうが。ミヨキチも  
含めてな。  
『それです。吉村美代子さんが急激に成長を遂げてしまったことも、実はあなたに起因す  
るのですよ』  
 何を言っているんだお前は? 悪いのはみんなハルヒじゃないか。  
『確かにこの度の騒動は涼宮さんの力によるものですが、発端はあなたなのです』  
 納得がいかんが、取りあえず続けてくれ。  
『では、そのように。……かつてあなたの彼女だと噂されていた【変な女】のことを耳に  
していた涼宮さんですが、その正体が佐々木さんであることを先日知りましたね。そのこ  
とにより涼宮さんの胸のつかえがひとつ取れたのですが、佐々木さんを実際に見ることに  
よってもう一つの懸念材料が生まれたのです』  
 彼女ってのが引っ掛かるが、それで?  
『ええ、それであなたのもう一人の彼女であるミヨキチ=吉村美代子さんのことに関心が  
向かったのです。まあ、つまりはあなたの女性関係を含む過去のことが気になって仕方が  
ないようですよ』  
 つーか、誰が彼女だ。俺は生まれてこの方ずっとフリーだ。彼女なんていたためしがな  
いぜ。わざわざこの場で宣言することでもないが。  
『あなたはそう思ってらっしゃるのでしょうが、涼宮さんはそうは考えていないのです。  
涼宮さんにとって次の関心対象にもなった吉村美代子さんに向かって、無意識のうちに涼  
宮さんの力が注ぎ込まれたのです。理由は今のところわかりませんが。そして、その力と  
吉村さんの心の奥底に眠っていた願望とが相まって彼女の成長を促したと推測されます』  
 にわかには信じがたい話だが、ハルヒなら何でもありだと思える気がするぜ。でもミヨ  
キチの願望って何だ? あの姿になりたいといった願望があったというのか。  
 それで、どうすればミヨキチは元に戻るんだ?  
『それは今の段階ではわかりません。お役に立てず申し訳ありませんが。……ところで話  
は変わりますが、その吉村美代子さんはその後どうしました?』  
 ……ん、ああ。今家にいる。丁度風呂に入っているところだ。だが、しょうがないだろ  
う。ミヨキチをあのまま捨て置くわけにはいかなかったんだからな。  
『それはいいんですが、あなたはまさか、少年誌に載せられない行為に及ぼうとしている  
のではないでしょうね?』  
 少年誌ってなんだよ。そんなわけないだろう。あんな姿をしていてもあの子は小学生だ  
ぜ。神に誓ってないと言える。  
 さっき血迷いそうになったことは黙っておく。  
『安心しました。ですが、今夜のことはなにぶんにも涼宮さんに知られることのないよう  
にお願いします。僕はまだ閉鎖空間で死にたくはありませんから』  
 古泉は悲壮な願いを残して通話を終了させた。  
 やれやれだ。  
 
 
 
 電話を置くと、外は土砂降りになっていた。屋根にたたきつける激しい雨音が痛いばか  
りに俺の耳をつんざく。  
 つくづくミヨキチを家に泊まらせてよかったと思うね。そうでなきゃ今頃いったいどう  
していたことだろうか。想像もしたくないな。  
 そのミヨキチだが、風呂を出た後、階段を下りてきた俺と一緒にリビングでテレビを見  
ながらくつろいでいた。  
 ところで、今のミヨキチはパジャマ姿だ。というのは彼女に着てもらう寝間着がないた  
め、やむを得ず俺のパジャマを着てもらうことになったからだ。ちなみに彼女が今日来て  
いた衣服(下着も含めて)は現在洗濯中だ。  
 
 そこ、妙な想像をしないように。  
 そしてリビングでは、俺の妹の話に花を咲かせていた。  
「学校ではあいつ、どんな感じだ?」  
「彼女は学校でも明るい女の子ですよ。クラスでも結構人気があるみたいですけど、本人  
はそれに気づいていないみたいです。この間も、男子に遠回しに告白のようなものを受け  
たんですけど、彼女全然気がついていなかったみたいで、その男子がっかりしていまし  
た」  
 俺は嘆息すると、  
「なんて鈍感なやつだ。普段は時々鋭いくせに、そう言ったときは妙に勘が鈍るんだな。  
俺はそいつに同情するよ」  
 そうしみじみと感想を漏らすと、ミヨキチはなぜかおかしさを抑えきれないといった表  
情でクスクスと笑い声を漏らしていた。  
「俺、何か変なことを言ったか?」  
「いいえ、すみません。でも、お兄さんからそういった言葉が出るとは思わなかったの  
で」  
 なんだろう? 俺が何かおもしろいことを言ったんだろうか。そんな憶えはないが。  
「やっぱり兄妹なんだなあって、お兄さんの話を聞いていてそう思いました」  
 なにか俺が笑われている気もするが、深くは突っ込まないでおこう。  
 それにようやくミヨキチに笑顔が戻ってきたんだ。よしとしたい。  
 楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。そこで  
俺はそろそろ就寝時間だとミヨキチを促した。今日はミヨキチもさすがに疲れただろうし  
な。俺もそうだが。  
 
 
 
 リビングを後にすると、俺は彼女を妹の部屋に案内した。どうやらミヨキチはよほど疲  
れていたのか、すぐにベッドに入るつもりのようだ。  
 そして「お休みなさい、お兄さん」と礼儀正しくお辞儀して俺を見送った。  
 妹の部屋を後にすると、俺はすぐに部屋に戻り、机の上に置いてあった携帯を手に取っ  
た。そこで、今度は長門に電話してみようかと考えたのだが途中で止めた。  
 明日考えればいい事さ。それより今日は疲れた。心も体もな。  
 そう考えてベッドに入ったところ、俺が目を閉じるやいなや、部屋の中を強烈なフラッ  
シュをたいたかのような青白い閃光がほとばしり、ほんの数秒後大地を揺るがすような轟  
音が鳴り響いた。  
 どうやら雷が近くに落ちたらしい。だがこの雨なら火事になることもないだろう。  
 しかし、どうも停電になってしまったようで、近所の家から漏れ出ていた光も今は見え  
なくなってしまった。  
 それでも、明日になれば直っているさと、再び布団を掛け俺が目を閉じたところ、不意  
にドアをノックする音が耳に入った。起き出して携帯電話の光を頼りにドアを開けてみる  
と、真っ青な顔をしたミヨキチが立っていた。そして彼女はうつむきがちに切り出した。  
 
「お休みのところすみません。あの……もしよろしければ、わたしと一緒に寝てもらえま  
せんか?」  
 
 ……え!? なんだって?  
 
「その……雷が鳴った上に停電になってしまって、ですからわたし、とても心細くて。で  
すから、お願いします。どうか一緒に寝て下さい」  
 
 俺は一瞬言葉を失った。なんつー大胆発言だ。ミヨキチ、それはまずいだろう。非常に  
まずい。相手が妹なら俺のベッドに勝手に潜り込むなんてことも度々あるが、ミヨキチだ  
ぜ。しかも大人の姿をしているんだ。  
 しかし、ミヨキチががたがたと体を震わせて不安げな表情をさせている様子を見ている  
と、そのまま返すわけにもいかず、またもミヨキチに押し切られるかたちになってしまっ  
た。  
 しょうがないよな。ミヨキチのこんな様子を見せられたのではな。などと、誰にに対し  
てでもなく言い訳をしてみる。  
 部屋のドアを閉め、俺はニトロを運んでいる運送員のようにおそるおそるベッドに入っ  
た。  
 それに続いてミヨキチもベッドの横に立ち、  
「失礼します」  
 そう言ってベッドに入り、俺の隣で横になった。  
 隣にいるミヨキチからは、風呂上がりの良い匂いが俺の鼻腔をくすぐり、それがかつて  
ない危機が俺に訪れていることを改めて認識させた。しかも全身を熱い血潮がぐるぐる駆  
けめぐり、ミヨキチのバレてしまうんじゃないかと冷や冷やした。  
 もはや閉鎖空間なんて目じゃないほどだ。この状況を脱することが出来るなら、閉鎖空  
間で神人達とリンボーダンスだって踊ってやるぜ。  
 それでも俺が今にも弾けてしまいそうな若さを自制すべく苦しんでいる間、ミヨキチは  
安心したのか、息遣いも落ち着きを取り戻したようだ。  
「あの、お兄さん」  
 なんだ起きていたのか。  
「はい、今日は色々ご迷惑をおかけして本当にすみません。今もこうして……あの、嫌じ  
ゃありませんか?」  
「そんなことはないさ。それに、今夜は俺が隣にいてあげるから、キミは安心して寝ると  
いい」  
「……はい、ありがとうございます」  
 そして静かになった俺とミヨキチだったが、再び雷鳴が轟き、振動が地響きのように余  
韻として部屋に止まるなか、ミヨキチが突如として「きゃっ」と声を上げて俺の腕にギュ  
ッとしがみついてしまった。  
「…………!!」  
 当然ながら彼女の発育著しい部分が俺の腕に押しつけられ、さらには首筋に息を吹きか  
けられるに至っては、ハルヒが今まで俺に課してきたどんな罰ゲームよりも精神力を要す  
るものだと思えた。  
「あ、あのお兄さん、すみません。でも、わたし……」  
 潤んだミヨキチの瞳が俺をじっと見つめる。  
「わかっているよ。俺はここにいるから、心配しなくてもいい」  
 まるで余裕もない精神状態でそんなことを言って、俺はミヨキチの髪をなでてやる。  
 すると、ミヨキチはさらに体を寄せてきて、さらに顔を俺の肩に付けた。つまり俺は墓  
穴を掘った形になったのだ。  
 この状況は、例えるなら天国と地獄が同時に俺の元にやってきたようなものか。しかし、  
俺は天国の方を味わうわけにはいかないので、必然的に地獄に耐えなきゃならん。  
 顔が熱い。しかし体はもっと熱く、ミヨキチを溶かしてしまうんじゃないかなんて思っ  
たりもした。それに正常な思考が働かない。頭の中をミミズがのったくっているような感  
じだ。  
 それでも俺はかろうじて自制することができた。これは自分をほめてやりたいくらいだ。  
 それから俺は一心不乱に滝に打たれる修行僧のような心持ちで煩悩退散をひたすら願い、  
そして一刻も早く睡魔に襲われることを待つしかなかった。  
 しかし、眠れない。ミヨキチは安心したのか早くも寝息を立て始めているが、彼女は腕  
ににしがみついたままで俺は身動きもとれず、俺はまるで地下迷路で罠にかかって足を取  
られ、周りの壁が迫ってくるのをただ待つだけの冒険者のようだ。  
 それでも何とか眠りにつこうと、俺は古びたシャッターを下ろすように瞼を無理矢理閉  
じた。こうなりゃ、寝るしかない。  
 
 
「キョンくーん、起きてー!」  
 ドアを開ける音とともにやって来たその声が、俺の耳に痛いほどに響いた。  
 俺はゆっくり目を覚まし隣を見てみると、ミヨキチもうっすらと目を開けつつあった。  
 しかし、この声はひょっとして―――。  
「あれー? キョンくんにミヨちゃん。どーして一緒のベッドで寝ているのー!?」  
「えっ!? えっ、ええっ!?」  
「おいっ、どうしてお前がここにいるんだ!?」  
 妹はほっぺをふくらませながら、幼い目つきで俺を睨め付け、  
「何時だと思ってんの? キョンくん。もう朝の十時だよ。ミヨちゃんもキョンくんと仲  
良く寝てるなんてずるいよー!」  
 もはやミヨキチが元の姿に戻っていることなどは意識の外だった。俺はその時混乱の極  
みにあり、妹にどう説明するかで頭がいっぱいだったのだ。  
 ミヨキチはあまりの恥ずかしさで、自分が元に戻れた嬉しさもかすんでいるようで、妹  
にどう説明しようかと、まるで朝比奈さんのようにあたふたおろおろしていた。  
 俺はその様子をみながら長嘆息し、明日俺を手ぐすね引いて待ちわびているハルヒのこ  
とに思いが至り、恐怖と諦めの心境を半々に感じつつ、おずおずと妹に向かって言い訳を  
始めた。  
 だが妹は、俺の身の毛がよだつようなとんでもないことを言い出した。  
「ハルにゃんも今日家に来るんだって。さっき電話があったよ」  
 ハルヒのやつ、月曜日に話を聞くと言ってたのに……さては、最初からこうするつもり  
だったのか。  
 考えがまとまらないうちに、間をおかずしてインターフォンの鳴る音がこの部屋にまで  
響き渡った。  
 すると妹がすぐさま迎えに行き、ハルヒとともに階段を上る音が聞こえる。  
 
 ―――本当の地獄はこれからだ!  
 
 
 後日談をひとつ。ミヨキチが元に戻った理由は、結局古泉にもはっきりとしたことはわ  
からなかった。推論としては、その日の夜ハルヒが特大級の閉鎖空間を作り出したことで  
力を使い果たしたとか、それともミヨキチが願望を叶えられてそれに満足したことだとか、  
あるいは単に時間切れなどというものもあったが、結局は決め手に欠けた。  
 それからもうひとつ、あの日ハルヒが家にやってきて何が起きたかは、わざわざ言うこ  
ともあるまい。願わくばミヨキチにとってのトラウマになってほしくないものだ。  
 
 
終わり  
 

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