ユラユラと身体がたゆたう感覚がした。  
 揺りかごのような緩やかな周期の柔らかい振幅が心地良い。  
 もう少しこの波に身を任せていたいと、再び意識を霧散させようとしたその矢先だった。  
 
 「――――ン! ――――――ョンッ!」  
 
 誰かが誰かの名前を呼んでいた。  
 音感からして俺が呼ばれてるような気もせんでもないが、どうだって良かった。  
 うるせぇなぁ。もうっ……、なんだっていいから静かにしてくれ、と眠りと覚醒の狭間で悪態を吐くと、仕返しとばかりに途端に揺れ方が乱暴になった。  
 うわっ、こらっ、やめろ!  
 非難も空しくいいように翻弄され、呼び声が見る見る鮮明になっていく。  
 
 「ョ―――ン! キョン! キョンってば!!」  
 
 目を覚ますと、寝起きかと疑うほどにばっちりと目の焦点が定まった。  
 目の前には不安げに俺の顔を覗き込むハルヒの顔。  
 意識を取り戻した俺に一瞬安堵の表情を浮かべるが、覆いかぶさるような姿勢で真正面から見つめ合っていることに気づくと、そそくさと離れた。  
 やれやれ、忙しない奴だね。  
 校舎の外、お世辞にも仕上げが丁寧とは言い難い石畳の舗装の上で俺は大の字になっていた。  
 見上げた空はこの世のものとは思えないモノトーン。不気味な事この上ない不祥な世界にが広がっていた。  
 二度ほど見覚えがあったが、こればっかりは何度見ても慣れそうにない。  
 一度目はようこそとばかりに古泉に連れられて、二回目は無意識のハルヒによって引き込まれて、そして一年近くの時を隔てて今回が三度目、か。  
 むくりと身を起こすと、軽くホコリを払う。ハルヒはそれを手伝ってくれながら、落ち着かない様子で切り出した。  
 
 「ねぇ、キョン。ここどこなんだろ……」  
 
 さぁ、な。少なくとも北高には違いなさそうだ。この配色はどうにも悪趣味で好かんけどな。  
 ハルヒは昼間の勢いとテンションを現実世界に置き忘れてきたかのように弱々しく色を失っていた。  
 その様子を見ていると少し可愛そうな気もしたが、喜怒哀楽の両極端なこいつのことだ。今はこれくらいでちょうどいいのかもしれない。  
 やれやれ、世話が焼けると俺は感慨に浸る。  
 さぁ、お膳立ては整った。細工は流々、仕上げをごろうじろってな。  
 失敗は許されない。悠久の宇宙の歴史の存続を賭けた乾坤一擲の大博打だ。  
 武者震いがした。  
 しかし、ここまで来た以上もう後には引けん。  
 要はやり方次第と俺はきつく腹をくくった。  
 
 
//////////  
 
 穏やかな日差しに恵まれた街角で、道行く過半数の人が笑顔で生き生きとレンガ舗装の洒落た歩道を闊歩していく。  
 そんな昼下がりの休日の瑞々しい光景に汚点を穿つかのように、俺たちの周囲の雰囲気だけ翳りが差したようにくすんでいた。  
 我ながらなんの嫌がらせなんだろうね。  
 街角で重厚な銀行の壁にだらしなくもたれ掛かりながら、モラトリアムの浪費も甚だしく死んだ魚のような精気を失った目で無為に過ごす俺たちは傍目から見ればさぞかし浮いていることだろう。  
 天下の往来で『女の尻を追っかける』を見事に体現している谷口を見守って、せめて最期に骨くらいは拾ってやろうというある種の義務感から視界の端でその姿を追うこと半刻。  
 事態は一分の進展すらも見せる気配はない。  
 一声掛けて数歩進んでは立ち止まり、翻っては声掛けて数歩進んで立ち止まる。  
 この単純運動を繰り返すだけだ。  
 あまりに規則的で周期が短いために、谷口は実はロボットで隣に佇む国木田が操ってスリラーダンスでも踊らせてるんじゃないかと錯覚がするくらいだぜ。  
 チラリと傍らに視線を投げる。国木田は俺の馬鹿馬鹿しい予想に反してリモコン類ではなく一冊のハードカバーを持っていた。  
 谷口が秘伝書なるものぞ、と阿呆らしくも俺に託し、すぐさま俺が放棄するように国木田に押し付けた『レオナルド・ダ・西川口著、ゲキ×モテ! ナンパ術〜こんなにモテちゃっていいの? ――いいんです!〜』に律儀にも目を落としていた。  
 思い出すだけで知能指数が下落しそうなタイトルに軽い頭痛を覚える。  
 いくら手持ち無沙汰とは言え、よくもまぁページを開く気になるもんだね。  
 天下の往来でその下世話な背表紙を晒して読み始めようものなら、俺は早々にこの場から退散していただろうが、さすがに国木田も最低限の良識は持ち合わせていたらしくカバーがあつらえられていた。  
 確かあの馬鹿から手渡されたときは下品なピンクの表紙がむき出しになっていたはずだ。  
 良く見るとカバーのサイズが微妙に合ってない。手持ちの文庫本かなんかから手際よく移植したんだろうな。この飄々としながらも抜け目のなさがなんとも国木田らしいと自然と苦笑が漏れた。  
 谷口に視線を戻すと、相変わらずシカトを連発で食らい続けていた。その非生産的な行動っぷりはコードの繋がってない発電機を延々と回し続けているようで、いい加減見るに耐えん。  
 
 「なぁ、もう帰らないか? このままでは『努力は必ず報われる』という金言が嘘になってしまう気がする。救えないにもほどがあるぜ」  
 
 「まぁまぁ、十回に一回くらいは付き合ってあげないと、さ。谷口が拗ねるから――――、ナンパの極意その参、声を掛けるときは後方から、なるべく視線の高さを落として相手に警戒感を与えないようにしましょう、……だってさ。ふーん」  
 
 友情を大切にする心がけは見上げたもんだが、その本を朗読するのはやめろ。  
 やれやれ、団活のない貴重なオフだというのに儘ならんね。  
 俺は大きく息をついて空を見上げた。春の訪れを感じさせる高く澄み切った空が広がっていた。それはもう、憎らしいくらいに。   
   
 「僕達もやってみない? せっかく電車賃払って街まで出てきたんだし」  
 
 本をパタンと閉じた国木田が思い立ったようにとんでもないことを口走った。思わず空耳かと疑ったくらいだ。弾かれたように国木田の表情を確認する。  
 冗談かと思いきやその顔は割とマジだった。  
 お前正気か。まさかその怪しい本に感化されたなどと言うんじゃないだろうな。  
 
 「いやぁ、さすがにこんなに都合よくいかないでしょ。ちょっと待ってて、行ってくるよ」  
 
 国木田は一方的に本と荷物を俺に渡すと、ててて、と小動物を思わせるような小走りでバスターミナルの方へ向かった。  
 
 意外過ぎる行動に完全に呆気にとられた俺は、制止するのも忘れてその小柄な背中を見送る。  
 ……なんだろうね。こっちの方がドキドキしてきちまった。身体を張ったネタをお前が披露するなんて、もしかしたら初めてなんじゃないだろうか。  
 国木田は辺りを見回すと早くもターゲットを絞ったらしく、躊躇うことなく歩みを進める。向かう先は――――、交差点で信号待ちの人だかりか。  
 一体どの女性を狙うんだろうか。  
 セーラー服を着た女子中学生、洒落た私服で着飾っている大学生風の女性、化粧が濃い目の制服姿のOL等、様々な身分と年齢層の女性が信号を待っている。国木田の一挙一投足に目が離せない。  
   
 「お前、よりにもよってそっちかよ……」  
 
 完全に意表を突かれた俺は思わず声を漏らしてしまった。  
 国木田が挑んだ相手はなんとベージュのビジネススーツにかっちりと身を包んだキャリアウーマン。年は三十代前半、いやもっと上か? 遠目なのもあるが、それ以前に若造の俺には正直見極めがつかん。  
 一つだけ言えることは、少なくとも普段まともに高校生活を送る限りではまず接点が無さそうで、よしんばその接点を取り持ったとしても歯牙にも掛けてもらえなさそうな『大人の女性』に国木田は声を掛けていた。  
 国木田は女性の斜め後方から歩み寄っていた。視線はヒールを履いた女性の方が高いため、自ずと国木田が少し見上げる形になる。  
 基本に忠実な奴だな、お前。  
 振り向いた女性は一瞬驚いた素振りを見せたが、国木田が身振り手振りを交えて話を進めると手のひらに乗せた雪が解けるようにその表情が和らぐ。  
 一拍置いて女性は軽く頷くと、アルミ製と思しきカードケースを懐から取り出した。そして、そこから一枚の紙片を抜き取るとたおやかな仕草でペンを走らせて、国木田に手渡す。  
 国木田は芸能人からサインを貰うように少し場違いなはしゃぎ様で紙片を受け取った。あまりの無邪気さに中てられたのか、 テオドシウスの城壁並にガードの堅そうな女性から笑顔がこぼれる。  
 リアクションが何か間違っているような気もするが、正直驚愕モンだねこりゃ。  
 見計らったようなタイミングで信号が青に変わると二人は手を振ってごく自然な感じで別れた。  
 未だ目の前で繰り広げられた光景を受け止めることができない俺は季節を先取りして突発的に花粉症を発症したかのように何度も目を瞬かせたが、国木田が一発で番号なりアドレスなりをゲットした事実は覆らない。  
 あまりの処理速度の遅さから伝達物質が絶縁処理されてしまったんじゃないかと疑いがかかっている俺の脳細胞が現象の解析を終える前に、国木田が戻ってきた。  
 一体どんな魔法を使ったんだ?  
 
 「そんなの使えるわけないじゃない。ただ挨拶して、正直にメールアドレスを教えてくださいって言っただけだよ」  
 
 本当かよ? しかし、このはにかんだ様な仕草からとてもこいつが特別な裏技や小細工を使ったようには思えない。  
 
 「なんかさ、可愛いねとか言われちゃったよ。褒め言葉なんだろうけど、男としては複雑だよね」  
   
 ……勝因はそこか。  
 
 「いや、しかし相手の選び方といいお前は自分をよく分かってるよ」  
 
 自覚のないらしい国木田はきょとんとしてクエスチョンマークを頭上で浮かべるだけだった。  
 思いの他「可愛い系」ってのは侮れんことをしっかりと刻み込むように学習することになった俺とは対照的にな。  
 ふと谷口を見やると、いつの間にか路上ダンスを中断して、アホ面丸出しでこちらを向いて立ち尽くしていた。  
 そうやって歩道の真ん中で立ち止まると輪を掛けて通行の邪魔になるぞ。あと宇宙人を目撃したようにこっちを指差すのは止せ。  
 どうやら見てはいけないものを見てしまったようだな。  
 認めたくないのは痛いほど分かるが、これが現実ってもんなんだろう。所詮ナンパなんぞファーストインプレッション。つまりは見た目なんだよ。  
 生暖かい視線で語りかけてやると、思いの外アイコンタクトが通じ合っちまったらしく、無尽蔵のスタミナと折れないハートはどこへやら、何かに慄くようにズルズルと後退してベンチにへたり込んでしまった。  
 
 さすがにこれで少しは懲りただろう。と、一人で勝手に締めに入ろうとしていた俺だが、  
 
 「さぁ、次はキョンの番だよ」  
 
 と、想定外の待ったがかかった。  
   
 「お前ね、無理言うなよ。断っておくが、俺がやっても何の面白みも期待できんぞ? ヒネリもなく普通に声掛けて、然るべく無視されるのがオチだ」  
 
 「そうかなぁ。むしろヘンに気合入ってない方が良いと思うんだけど。自然体で行けって西川口先生の本にも書いてあったよ」  
 
 やる気を煽るのか殺ぐのかはっきりしろ。  
   
 「あはは、ごめんごめん。でも、せっかく三人で来たんだからさ、一回くらいやっていこうよ?」  
 
 国木田の言うことは、まぁ……、分からんでもない。  
 なにせ貴重な休日を食いつぶしてまで久々に谷口に付き合ってやると決めた日だ。何もせずにこのまま解散するにしても、平穏な分だけ無駄に過ごした後悔に苛まれるような気がする。  
 なら、いっそのこと勢いで馬鹿をやってみるのはどうだろうか。  
 自虐趣味などないが、この際のついでにお互いを笑い飛ばし合う日を戯れで作ってみるのもそんなに悪くないんじゃないか?  
 なんの気まぐれかそんな風に割り切ると、驚くほどに心が軽くなった。  
 
 「……分かったよ。帰る準備して待ってろ」  
 
 焼けクソ気味なのがやや引っかかるが、乗りかかった船とばかりに俺は友人のために笑いのネタを提供してやることにした。  
 たまには付き合いの良い所を見せても罰は当たらんだろう。  
 そうと決めたらもたれかかっていた壁を背中で蹴って歩き出す。  
 なんて声を掛けるかはおろか、どの娘に声を掛けるかすら決まっちゃいない。ただ、慣れない緊張で早鐘を打つ鼓動に触発されたかのように脚だけが動いていた。  
 ターミナルの方を見やると谷口とばっちり目が合った。古伊万里の大皿のように目を引ん剥いてこっちを見てやがる。  
 やれやれ、現金な奴だねまったく。そんなにバッサリ斬り捨てられる俺を見たいかね。  
 その滑稽な所作に思わず笑みが漏れると、思いの外緊張が解けた。奴でも役に立つことがあるもんだ。  
 視線を前に戻すと一人の女の子が歩いてくる。その姿を横からとらえた。  
 淡い黄色のカーディガンを羽織って、春を感じる穏やかな日差しに少し浮かれたように丈の短いスキニーパンツを軽快な足取りで交差させている。  
 スレンダーで小顔なせいか見かけの頭身がかなり高い。  
 女性にしか描けない優美なシルエットに瞬時に惹かれてしまった。横顔しか拝むことはできないが、その容貌は少なくともクラスで上位戦線に食い込めるくらいに可愛らしいことが容易に想像できる。  
 あまり相手のレベルが高いと釣り合わない自分が滑稽に見えるんじゃないかという躊躇いがあったが、  
 
 急いでいる風でもなく呼び止め易そう、  
 なんとなく年下っぽい感じで親しみやすそう、  
 穏やかそうに見えるからやんわりと断ってくれそう、  
 
 といった甘やかな思惑が打ち勝って、俺は衝き動かされた。衝き動かされてしまった。  
 
 「すいません」  
 
 「っ、はい?」  
 
 女の子は少し大げさな反応でこっちを振り向いた。初めて面と向かう形となり、彼女の菫が咲いたような儚くも可憐な容貌と相対する。  
 思わず息を呑んだ。  
 予想以上に可愛い子だったからだ。それはもうヤバいくらいに。分かりやすく言えば我らSOS団が唯一無二に誇れる華やかな女性陣と比しても全く遜色ないくらいに。  
 一気に勢いを削がれて萎縮してしまいそうになる。F1のタイヤ交換も真っ青の手際のよさで俺の心臓は生来の小市民仕様である蚤サイズのものへと換装作業を終えていた。我ながら情けないったらない。  
 しかし、このままキョドって春の陽気に誘われて出てきた不審者にカテゴライズされてしまうのだけは勘弁被りたい。  
 
 折角声を掛けたのに、気圧されてる場合じゃないだろうが、俺!  
   
 「そんなに驚かないで。キャッチとかそういうんじゃないんだ」  
 
 要するに怪しいものではないということを主張したかったわけだが、この台詞は思ったほど功を奏さず、女の子は俺の形貌をスキャンニングするがごとく、視線を忙しなく走らせている。  
 その姿を見ていると非常に申し訳ない気がした。これじゃあ困惑させるばかりだ。  
 ナンパの心得以前にとことん向いてそうにないことを思い知り、俺はこれ以上無理に続けるのを止めた。  
 そう、こんな茶番は迷惑もそこそこに手早く切り上げるに限るのさ。  
 
 「びっくりさせてしまったみたいでごめん。可愛い子が歩いてるな、と思って反射的に声を掛けてしまっただけだから」  
 
 その俺の一言に女の子がピクリと身じろいだ。くりくりした大きい目を瞠目させて、口元には手が添えられる。  
 このリアクションはなんだ? 気づかないところでまた失言を口走っちまったか?  
 最早は何を言っても逆効果なだけかと自己嫌悪に沈みそうになったが、とにかく幕引きだけは終わらせることにする。  
 後は「ごめんね」の一言でカタがつく。軽く頭を下げようとしたその矢先だった。  
 
 「お、……お兄さん?」  
 
 はい? お兄さん?  
 阿呆みたいに鸚鵡返しになってしまったのも無理はない。ついでに間抜けに声がちょっと裏返ってしまったのも大目に見てやって欲しい。  
 それと言うのも、文脈を完全に無視したそのイレギュラーな単語はそれまでの会話と何の繋がりを見出せないからだ。  
 混乱して言葉を失った俺は、もう一度女の子の顔を真正面から見た。  
 照れることも放棄して ばっちり視線を絡ませたままじっくりと五秒はそのご尊顔を拝み、ひたすらモンタージュと人物検索に専念して、ようやくポンコツな脳が照合を終える。  
 その結果に俺は愕然となった。  
 解に辿り着いてわだかまりが消えた爽快感なんぞどこにもない。今となっては分からず終いだった方が幸せだったと思えるくらいだからな。  
 軽薄で軽率な行動に対する後悔の念で嘆くばかりだ。  
 やっちまった感で半ば放心状態の俺は掠れた声をこう搾り出すのが精一杯だった。  
 
 「ミヨキチ……なのか?」  
 
 できることならば否定して欲しかった。よりにもよって妹の同級生、しかも小学生をナンパしてしまった愚行が取り消されるならば、どれだけ俺は救われることだろう。  
 しかし、目の前の少女は長い睫毛を伏せて頬を染めて恥らいながらも、  
 
 「……はい」  
   
 と頷いて問答無用で俺の希望的観測を粉砕する。  
 髪型と服装と化粧のイメチェンコンボで見事に化けたミヨキチの前で俺は棒立ちになるしかなかった。  
 
 
//////////  
 
 海辺に建てられたショッピングパークで海を望むデッキを歩いていた。平日でも人が集まる人気スポットだが、今は合間を縫ったように閑散としていた。  
 程よい潮風に包まれて穏やかに波止場に打ち付ける波の音に耳を傾けると、えも言われぬ開放感に浸ることができる。  
 いつまでもこうしていたいもんだ。  
 普段の俺なら迷わずこう思うんだろうが、実は今日に限って本命は別にある。なんとも、贅沢なことだがね。  
 あくまでも右手に感じている柔らかくて温かい感触が心地よかった。  
 貼り敷いた木板の上を滑るように繋がった二つの影が這い進む。  
 少し長い影が十分な時間の経過を示していた。  
 全く楽しい時間ってのはなぜこうも早く過ぎてしまうんだろうかね。  
 街でたむろって澱んでいた午前中と比べると遥かに時間の流れが速い。雲泥の差って表現がこうもハマるのも珍しい。最早別次元と言っても差し障りがないくらいだ。  
 
 「女の子として声を掛けてくださったのなら、今日は妹さんの友達じゃなくて一人の女の子として扱ってくださいっ」  
 
 ターニングポイントはミヨキチのこの言葉だった。  
 説明すべきなのか、謝るべきなのか、いっそのこと冗談とすっとぼけるべきなのか。  
 それまで自我を三大派閥に分けて脳内で緊急サミットを絶賛開催中だった俺は、ミヨキチの真摯な姿勢のおかげで、  
 
 「これは、その、なんだ……、何かの間違いなんだ」  
 
 などと、歯切れの悪い惨めな自己弁護に拘泥することから開放された。  
 
 「でも、さっき私のことを、……その、……『可愛い』って言ってくれました。これも間違いだったんですか?」  
 
 「お兄さんに声掛けてもらって、……すごく嬉しかったです」  
 
 「お兄さんさえよければ、このまま……誘って欲しぃ……です」  
 
 と、ミヨキチは選ったように対戦車ミサイル並に破壊力の高い台詞を重ねて順調に俺の心の壁を撃破し、先の台詞で完全にトドメを刺した。  
 おおげさじゃないが、俺は本当に電撃が身に走るのを感じたんだ。雷に打たれたようなってのはこういうことなんだと思うくらいにな。  
 目が覚めたというか、あれこれ言う前にとにかくやることがあるだろってね。  
 年下の女の子にここまで言わせて、まごついてる野郎がどこにいる?  
 そう自分に問い掛け終わるのを待たずに俺はミヨキチの手を引いていた。  
 にこやかに手を振る国木田と、完全に灰と化して再起不能になった谷口を尻目に、近くの港を模した人気のデートスポットに向かい、ミヨキチと楽しい一時を過ごして今に至る。  
 事情を知らない二人はてっきり俺がナンパに成功したと勘違いしていることだろう。  
 勘違いさせたまま無用に騒ぎ立てられるのと、気づかずに知り合いの小学生をナンパした事実を告白してコケにされるのと、どっちがいい?  
 どっちも御免被りたいね。どちらも冗談と笑って済ませられる範疇を超えている。気が進まんが嘘に嘘で塗り固めるしかなさそうだ。  
 ―――さて、それはさておき。これからどうしたものか。  
 高い空に向かって少し伸びをした。  
 ファミレスよりもワンランクの高いレストランでランチを摂って、ウィンドウショッピングで軽く雑貨屋を冷やかして、お約束の如く映画を観た。  
 都合よくミヨキチお目当ての俳優が出演しているタイトルが上映されてなかったらしいので、何でも良かったのかもしれないが、彼女は控え目に恋愛映画を推した。  
 ちなみに、今回は年齢制限のない超健全な青春恋愛映画だったってことを付け加えておこう。  
 こうやって消化したメニューを挙げると、お手本のように典型的で気恥ずかしいが、俺はこのデートと言っても差し支えのない内容を心から楽しんでいた。  
 ただ、楽しい時間はいつまでも続かない。既に終盤に差し掛かっていることは間違いなかった。  
 ドヴォルザークのメロディーが流れてきた。時計台の時刻を確認すると午後五時。誰でも知ってる旋律だが、曲名までは知らん。クラシックってのは案外こういうのが多いと思わないか?  
 
 「お兄さん」  
 
 半歩だけ後方から控え目に声が掛かった。足が止まる。  
 振り向けば、ミヨキチが真っ直ぐに俺を見つめていた。頭の上のリンゴを狙うウィリアム・テルのように真摯に、そして真剣に。  
   
 「今日は楽しかったです。わがままを言って困らせたりしてすいませんでした」  
 
 「誘ったのは俺だから。随分とカッコ悪い所を見せてしまったけどね」  
 
 自嘲する俺をミヨキチはかぶりを振って本気で否定する。  
 
 「お兄さんは……カッコ良いし、高校生でオトナだから。その、ナンパとかしても全然変じゃないです! それに、私と気づかずに声を掛けてもらったのが、すごく……嬉しくて」  
 
 前半までの勢いはどこへやら、語尾のあたりは消え入るようなか細さでフェードアウトしてしまった。竜頭蛇尾を発言で体現するかのような妙な調子だ。  
 ミヨキチは顔をトマトのように染め上げて俯いていた。  
 俺はどうにも解せない。知り合いに対して本人と気づかずに声を掛けるのは失礼な行為なんじゃないかと思ったからだ。  
 だがミヨキチは確かに嬉しかったと言った。こんなにも照れが入る理由もよく分からない。  
 すれ違う気持ちに間が持たないこともあって、俺は上方漫才芸人にようにノリだけで合いの手を入れてしまった。  
 困惑がつい口を突いて出てしまったって感じだが、正直今日、いや午後唯一の失言だ。後になって気づいたが、これほど無粋なことはないだろう。  
 
 「ミヨキチは家にも来るし、俺の妹みたいなもんなのにな。まったくなにやってるんだろうね、俺は」  
 
 笑い話をしようとしか思ってなかった俺に対して、顔をゆっくり上げたミヨキチは――――、少し悲しげな顔をした、ように見えた。一瞬で素面に戻ったため、ヘボい俺の動体視力では判定がつけられない。  
 
 「お兄さん。最後にわがままをもう一つだけ聞いてもらってもいいですか?」  
 
 「あ、ああ。うん。何かな」  
   
 ミヨキチは意を決したような強い視線で俺を射抜いていた。  
 
 「さっきの観た映画のラストシーン、覚えてますか?」  
 
 てっきり何かしらの要求が来ると身構えていたが、ミヨキチは更に質問を重ねてきた。 予想外の振りに、俺は大慌てで早くも記憶の底で分解しかかっていた映画のシーンを繋ぎ合わせて、ストーリーラインを紡ぎ直す。  
 映画のあらすじは確かこんな感じだった。  
 憧れの女子に中々想いを告げることができない高校生の男子が、友人の後押しと自助努力によって告白を敢行して見事に恋を実らせる。  
 実は相思相愛だったため二人は順調に付き合いだしたが、それぞれの部活動で強化指定選手に選ばれるという晴天の霹靂に見舞われる。  
 練習が増えて二人は時間が合わなくなり、不安やすれ違いに苦しむが、最後は恋を選んでハッピーエンドという、なんともご都合、いや、心が温まる青春ラブストーリーだった。  
 そして、肝心のラストはというとだ。男の子が遠征に向かおうとする女の子を引き止めて、二人は逃げ出して辿り着いた海岸線で抱き合ってキスをする――――。  
 正直に言おう。ここまで思い出した時点で俺は『何か』を察していた。厭な予感というと語弊があるんだが……。  
 それはまさかこんな展開はないだろう、それこそ映画じゃあるまいしと、すぐに自分を窘めたくなるような出来の悪い妄想じみたモノだった。  
 しかし、回想から戻ってくると、案の定凍りつくような光景がまるで俺の眼前に差し出されたように在った。  
 
 ミヨキチは心持ちあごを上げて、目を瞑っていた。  
   
 「ミ、ミヨキチ?」  
 
 潮風が目に沁みた?  
 いきなり眠くなった?  
 両方の目に虫が入った?  
 
 どれも無理があり過ぎる。しかし、俺は敢えて確認しようとしていた。このシチュエーションで確認もへったくれもないだろう。間抜けにも程がある。  
 ミヨキチはゆっくり目を開けると、  
 
 「今日一日だけは女の子として扱ってくれるって約束でした。だから最後は……、こ、恋人みたいに……その、キスして、別れたいです」  
 
 ひたすら真摯にそう言うと、再び目を閉じて俺を待つ。今度は祈るように両手を胸の前で組んで。  
 写真で切り取れば今夏公開の映画のワンシーンとして使えるくらいに様になっていた。  
 これが芝居で済むなら俺は迷わず唇を重ねていただろう。ガッついてNGを出されたかもしれない。  
 オシャレをして薄く化粧をしたミヨキチの外見は冗談抜きにマジで彼女にしたいと思えるくらいに可憐に大人びていた。  
 しかし相手は妹の親友だぞ? それにバリバリ現役の小学生だ。  
 前から薄々感じてはいたが、ミヨキチは俺を好意的に見てくれている。そうでなきゃ、こんな顔でこんなことできやしないだろうよ。  
 良く見ればミヨキチの唇は小刻みに震えていた。よっぽど緊張しているんだろう。それだけ真剣だってことの表れだった。  
 冗談なのに真剣なのは矛盾してるぞ、ミヨキチ。  
 そもそも『一日限りの恋愛ごっこ』なんてのは俺にとってもレベルが高過ぎる。最近習った漢文の反語を使うなら、いわんや小学生をや、だ。  
 勢いでキスしても、理由をつけて拒んでも、後々しこりを残すことになりそうなのは明白だった。  
 だから俺は折衷案を採用することにした。古典的ではあるがこれしかない。  
 一歩寄ると気配を悟ったのか、ミヨキチが一層身を強張らせたのが分かった。肩をそっと掴むと、ミヨキチは震えながらも健気に俺がキスし易いようにあごをくいと上げた。  
 フワリとシャンプーの香りの中に女の子の甘い匂いを感じて、軽い眩暈に襲われる。手のひらに柔らか温かい体温と華奢な骨格を感じながら、網膜には美少女の顔が過去最大の倍率を更新して大写しになっていた。  
 額にキスをするだけ。それだけだ。  
 だが、磁石の斥力が働いているかのように顔の距離を近づけることができない。  
 完全に雰囲気に呑まれて怖気づいてしまっていた。  
 この時、愚かしくも俺は二つも失敗を犯していたことに気づけないでいた。  
 一つはこの状態で躊躇って焦れてしまったこと。  
 そしてもう一つはミヨキチの身長が成人女性の平均と比べて十分に高いことを忘れていたことだ。  
 混乱の渦中に居た俺の視界が突然翳る。  
 唇には、この世のどんなものにも例えることができない瑞々しくて柔らかい感触。  
 炙ったハマグリが口を開けたような突発的な動作で、ミヨキチは爪先立ちになって自ら俺に唇を重ねていた。  
 時間を測ればきっと2秒そこそこの出来事だったと思う。見事な奇襲だった。  
 ミヨキチはすぐに離れると、紅潮した顔を隠すようにそそくさとお辞儀をして、  
 
 「ごめんなさいっ。今日のことは忘れてください。っ、さようならっ」  
 
 と、逃げるように駆け出した。引き止める間もなく、その姿は見る見るうちに小さくなる。  
 俺は魂が抜け落ちたように立ち尽くしていた。できた事と言えば、待てとばかりに右手を差し出したことだけだった。人影のないデッキで一人取り残されていた。  
 一陣の風が巻いて緊張で汗をかいた俺の身体を乱暴に冷ました。  
 黄昏時に吹く風は昼間とうって変わって冬の名残を感じさせるくらいに冷たく吹き荒ぶ。  
 空を掴んだ手を唇の辺りにやると、リアルな感触が蘇る。  
 寂寥と冷気に身震いしそうだったが、唇だけは灼けたようにいつまでも熱を持っていた。  
 
//////////  
 
 明けて月曜日。  
 終業式まで後僅かという高校生にとって一年で最も気が抜けた時期であることと穏やかな春の陽気が見事なツープラトンをかまして俺の気だるさを増幅させていた。  
 春休みになればこの強制ハイキングからも開放されると思うと、少しは心が躍るんじゃないかと期待してみたが、良く考えれば春休みというイベントをハルヒが放置するわけがない。  
 どうせロクなことに付き合わされるに違いない。そう結論に至ると底なしの沼にどっぷりと気持ちが沈んでいった。  
 正直花見なら歓迎するんだがね。いや、考えるのは止そう。易々と思い通りになるほどあいつの思考回路は単純じゃないし道理にもかなってもいない。  
 それを実証するかのように、今朝の当人は廊下で顔を合わすなり意味不明に機嫌が悪かった。  
 下手に関わると春休み前のささやかな充電期間まで奪われる気がしたので軽く流しておいた。触らぬ神に祟りなしってやつだ。  
 視線を上方にくれると、鳩の一群が空を遮って流れていった。そう言えば昨日もこうやって高い空を見上げたっけな。  
 そうしていると昨日の椿事が思い出された。  
 朝の一番から谷口と国木田から質問攻めに遭って、それを必死にかわしたばかりでこの話題は正直食傷気味ではある。  
 馬鹿正直に顛末を明かすわけにもいかず、ミヨキチの正体を隠した上で女の子とは一緒に昼食を食べただけだと言い張って煙に巻いておいた。  
 で、結局俺の中でどう整理をつけたかというと、しばらく心の奥底にお蔵入りすることにした。  
 もちろんさんざん考えて悩んださ。夕方からメシも食わずに夜半まで。  
 しかし、思考は同じところをループするだけで一向に解に辿り着けなかった。  
 俺の中でミヨキチはどこまで行っても妹の友達だったし、世間体を考えても高校生が小学生に手を出すわけにもいかない。  
 一方ミヨキチはというと、昨日のことを忘れてくださいと言った。俺を好意的に想ってくれつつも、今すぐ付き合いたいとかそういうんじゃないってことなんだろうよ。  
 二つを総合すると二人の仲を違う形に変化させようとするのは違うような気がした。  
 この確認作業とも言える思考を何度も繰り返して、とうとう寝る前にこの件を封印する決定に至ったのさ。  
 次にミヨキチに会ったときにどういう態度を取れば良いのか分からんが、それはきっと今まで通りでいいってことなんだろうな。  
 とりとめもなく考えながら、俺は会社でリストラを食らって偽装出勤中にデパートの最上階で時間を潰す不惑のサラリーマンのように、屋上のフェンスにもたれ掛かっていた。  
 一応断っておくが、俺には屋上で物思いに耽るなんていう優雅な趣味はない。  
 いい加減痺れを切らした頃を見計らったように油の切れかけた蝶番の音が来客を告げた。  
 
 「やぁ、待たせてすみませんね」  
 
 言葉面に反して特に悪びれた様子もなく、そいつはいつも通りの軽薄そうな笑みを顔に貼り付けて現れた。  
 
 人を呼び出しておいて待たせるとは良い根性してるじゃないか。  
 
 「食堂が混んでいましてね。いや、申し訳ない。お詫びといってはなんですが」  
 
 古泉はそう言って缶コーヒーを寄こすと、流れるような動作で俺と横に並ぶ形でフェンスに背を預けた。  
 甘ったるいモンは要らんと突き返そうとしたが、見透かしたように無糖ブラックだった。余計にいけ好かない。  
 俺はせめてもの苛立ちをぶつける様にプルトップを力いっぱい開けて一口煽った。  
 改めて辺りを見回すと、昼過ぎの屋上は俺たち二人だけだった。全てはこの強風のせいだな。こう埃っぽくては弁当を広げる気にはならんだろう。  
 
 「用件は何だ?」  
 
 「異なことを言いますね。僕があなたを呼び出す時ネタは決まっているはずです」  
 
 どうせなら朝比奈さんとそんな風に阿吽の呼吸で通じ合いたいもんだ。  
 
 古泉は少し吹き出す風に笑うと、一口飲んで真顔になった。  
 
 「昼休みの時間も限られています。率直に問いましょう。あなたは昨日、どこで何をしていましたか?」  
 
 アリバイ調査を受けているようでどうにも良い気分がしないね。  
 人は大抵動き回ってるもんだ。せめて答え易いように配慮して訊いてくれ。  
 
 「これは失礼。では、カマをかけるわけではないですが……、『夕方のショッピングパーク』、このキーワードにピンときませんか?」  
 
 心拍が跳ね上がった。  
 反射的に古泉の顔色を伺うことで俺はその問いに答えることになってしまった。  
 古泉は俺のリアクションに口の端を歪めると、視線を前方に据えたまま続ける。  
 
 「カマをかけると言ったように、あなたを付け回していたわけではありません。ほとんどあてずっぽうですよ。ただ、僕の中で虫の知らせがありましてね。それを確認した次第です。見事的中したのは喜んで良いのか悪いのか……」  
 
 芝居がかった風に眉間に皺を寄せて、お決まりのお手上げジャスチャーをして見せた。  
   
 「昨日、涼宮さん『も』ショッピングパークでオフを楽しんでいたようです。伝聞調なのは僕が尾行していたわけではないのと、機関としても四六時中べったりというわけにもいかないので100%の確証はないからです」  
 
 間が悪いというのはこのことだろう。普段のプライベートならば観察するに値する要素など何一つないと胸を張って言えたが、昨日だけは事情が違う。  
 アレをハルヒに見られたとしたら、朝ハルヒが超絶に不機嫌だったことに説明がついてしまいそうだった。  
 まさかの不安が流行りのコンピュータウイルスのように爆発的に増殖していく。  
 
 「あなたなら既に察してるかもしれませんが、機関の動向もいささか騒がしくなってましてね。……是非お聞かせ願えませんか? 昨日あなたがショッピングパークで何をしていたのか」  
 
 決して古泉に促されたからではない。俺は危機を案ずる一心で語ることにした。  
 事情が込み入っていたためにかなりの時間を要した。  
 顛末を伝え終えたとき、俺の喉はカラカラに渇いていた。話した量が多かったせいか、緊張のせいかは定かではない。  
 古泉はロダンの考える人を勝手に現代版にアレンジしたような格好をしてあごに手をやり、しばし考えに耽ると、  
 
 「……これは弱りました」  
 
 心底参ったように切り出した。  
 オーバーリアクションは冗談のときだけにしろ。マジな話にそれは心臓に悪いぞ。  
   
 「昨日の夕刻にこのところ観測されなかった大規模の閉鎖空間が発生したんです。すぐに召集がかかって現場に向かったんですが、そこで待っていたのは未だ僕達が見たことない光景でした」  
 
 毎度の如くいちいちもったいぶらんでいい。  
 
 「神人が懊悩して苦しむように悶えてたんです。街の破壊などそっちのけでね。あるモノは頭部を抱え込んで啼き叫び、あるモノは自分の身体を殴打し、挙句の果てには神人同士で取っ組み合って諍いを始める始末ですよ」  
 
 俺は忠実にその姿を想像して絶句した。まともな知能など到底持ち合わせてそうになく、破壊以外の行為を知らないとすらとも思えるあいつらが自滅行為や仲間割れをおっぱじめただと?  
 
 「まさしく。我々が最も危惧しているのが世界の破壊ですから、この状況はどちらかと言えば好都合ではあるのですが―――」  
 
 古泉はそこで一度言葉を切ると、フェンスに背中をもたせ掛けるのを止めて俺の前に回りこむ。  
 
 「神人が暴れてることに違いないため世界の破壊がゼロではないのが性質が悪くてね。放置することもできずに、昨日から断続的な出動が続いています。例によって寝不足ですよ」  
 
 そう言って自分の目元を差した。  
 もしかして「ホラ、眠そうでしょ?」とでも言いたかったのか? 悪いが普段のお前の細目とどこがどう違うのか区別がつかん。  
 で、結局のところ何が言いたい?  
 お前のことだ、さぞかし俺には思いもつかんような、アッと驚く推理を用意してくれているんだろうな。  
 
 「その神人の行動異変の原因は何なんだ? 何かが起こる前触れか?」  
 
 いささか投げやり調の俺のこの発言がいたく不満だったらしく、古泉はミクロンオーダーで眉を顰めた。  
    
 「あなたがいくら女性の機微に疎いとはいえ、まさか本当に素でそう思っているわけではないでしょう?」  
 
 途中から薄々予測していた馬鹿馬鹿しいオチがほぼ確定して、俺は頭痛に眉間を押さえた。  
 やれやれ、くだらないにも程がある。  
 状況から考えてミヨキチとのツーショットをハルヒに見られたのは間違いなさそうだ。どの瞬間を目撃されたのは定かではないが、いろんな意味で迂闊だったことには違いない。その非は認めよう。  
 俺が危惧していたのは、それを見てあらぬ勘違いしたハルヒが本格的に神人を稼動させてアルマゲドンでも起こそうとしてるんじゃないかってことだった。  
 しかし、実際は危機的状況でもなんでもなくて、要約すればハルヒが勝手にもやもやして、それにお前が踊らされてるだけときたもんだ。  
 そっくり返してやるよ。  
 
 「まさかお前こそ、ハルヒの心情を閉鎖空間で神人が身体を張って代弁してるっていうギャグみたいな話に付き合えって言ってるのか?」  
   
 ったく、俺の昼休みと提供した情報を返せ。  
 脱力感に見舞われた俺は屋上を去ろうとした。古泉の横をすれ違う。  
 お約束のように背後から待ったがかかったが歩みは止めない。  
 
 「待ってください。確かに状況はあなたの言う通りかもしれません。しかし『風邪はひき始めが肝心だ』と言います。これだけは心に留めて置いてください」  
 
 吹き荒ぶ春風に掻き消されぬように、最後の方はらしからぬ大声になっていた。  
 相変わらずうまいこと言うじゃないか。  
 その言葉だけは素直にアドバイスとして受け取っておくとしよう。  
 合図とばかりに振り返らずに軽く手だけ挙げて無言で立ち去ろうとしたが、寸でのところで思いとどまる。こういうキザったらしいことをやるのはこいつだけでいい。  
    
 「分かったよ」  
   
 とだけ肩越しに告げて、俺は校舎の中に入った。  
 
//////////  
 
 学年末で教師も流しモードに入っているせいか、ホームルームもあっさり終了して解散となった。  
 ここ一年の習慣で、放課後となればとりあえず俺の行く先は文芸部室と決まっている。  
 ちなみに今日ハルヒとはまともに口を聞いていない。  
 部室でハルヒと顔を突き合わせにゃならんと思うと正直気が重いが、逃げれば余計に変に勘ぐられるだけだ。  
 俺は鞄を取って勢い良く教室を出ようとした。  
 その瞬間、  
 
 「うおっ」  
 「わっ」  
 
 ドンッと胸に軽い衝撃が走った。  
 慌てて相手を確認すると、ギョッとした。  
 鼻先を押さえたハルヒがそこにいたからだ。  
 ホームルーム終了と同時にダッシュで出て行ったはずだが、忘れ物でも取りに戻ってきたのか?  
 ハルヒは痛そうに顔をしかめていたが、ぶつかった相手が俺と認めると泡を食ったような表情を見せたがそれも刹那のこと、ワイヤーで操作してるんじゃないかと思うくらいに鋭く眉を吊り上げてすぐに警戒態勢を取る。  
 
 「悪い。大丈夫か?」  
 
 反射的に手を差し伸べたが、問答無用で払われた。  
 
 「どいて。邪魔よ」  
 
 ハルヒは突き刺さるような冷淡さで俺を押しのけて強引に教室に入る。  
 触れれば凍傷を負うような刺々しさ全開で、まるで真冬に逆戻りしたかのような寒気を感じた。  
 正直ゾッとできるね。  
 あくまでもこいつを基準とするならば一年前の春に巻き戻ったかのような錯覚を覚えた。斬り捨てられるような感覚も随分と久しぶりだ。  
 しかし、今朝よりも更に機嫌が悪くなっているのはどういう了見だ?  
 机を乱暴に漁って取るものを取ったハルヒは、椅子を脚で蹴って詰めるという淑女にあるまじき振る舞いで足音も激しく肩を怒らせて戻ってくる。  
   
 「どうした? 今日はやけに機嫌が悪いじゃないか」  
 
 努めて友好的に切り出した俺の改心の一言も馬の耳に念仏よろしく無視を決め込まれて、ハルヒは競歩でもやってるかのように歩く速度を微塵も落とさず、俺の横を抜けようとする。  
 
 「ハルヒ!」  
 
 「うっさいわね! 話し掛けるな!」  
 
 仁王様も腰を抜かすような剣幕で牽制をかまして、韋駄天様も真っ青のスピードで駆けていった。  
 あっという間にその姿はは視界から消え失せる。  
 教室に残っていた連中が何事かと騒ぎ出す。全く良い晒しモンだぜ。奇異の目から逃げるように廊下に出ることにした。  
 
 「なんだぁ? いつになく荒れてんなぁ。ついに爆発したって感じか」  
 
 不意に背後から声が掛かった。なんだ、谷口か。  
 トイレから帰ってきたところらしく、ひらひらと手首を振って水気を切っていた。  
 
 「どういうことだ?」  
 
 「気づいていなかったのか? 午前中の休み時間にお前の机でダベってるとき、後ろで涼宮がイライラしっぱなしだったんだぜ。すげぇむくれたツラで頬杖ついて窓の外見ながら、壁をつま先でゴンゴン蹴ってた。思い出しただけでも怖ぇ」  
 
 谷口はそう言いながら身を掻き抱くような仕草を見せた。おどけるにしちゃ様になり過ぎている。マジでビビってるようだった。  
 俺はこいつらとの午前中のやりとりを思い出す。  
 確か、昨日のナンパの話で持ちきりだったはずだ。  
 会話自体は健全な内容に収まるものだったはずだが、「俺が連れ出しに成功した」とか「相手の子、結構可愛かったよな」というような煽り文句が飛び交っていたかもしれん。  
 普段のハルヒならば俺たちの馬鹿話なんぞに耳を傾けようとしないだろうし、よしんば耳に入ったとしても一笑に付して片付けただろう。  
 だが昨日の今日ではそうもいきそうにない。  
 なるほど、格段に不機嫌なのはこういうことだったか。  
 古泉よ、重要な情報は朝一で教えて欲しかったぜ。  
 
 「キョンよぉ、今日も文芸部室に行くのか? どう考えても日が悪そうだぜ?」  
 
 「……いや、そのつもりだったがやめることにした。おとなしく帰ろうぜ」  
 
 「本当かよ? 待ってろよ。今鞄取ってくっからよ」  
 
 何がそんなに嬉しいのか、谷口は躍るように教室の中に消えていった。  
 
 やれやれ、しかし重症だねこりゃ。  
 ハルヒが駆けていった廊下の突き当たりを見通しながら頭を掻いてそうつぶやいた。  
 しかし言葉とは裏腹に行き詰った感は無い。  
 それどころか俺は左脳が寄こして来た天啓に一縷の希望を見出していた。  
 我ながらたまにはいい仕事をするじゃないか。それでこそ試験中すらもアイドリングで休ませていた甲斐があるってもんだぜ。  
 よかったな古泉。うまくやれればお前の苦労も減るかもしれん。これっぽっちも保証はできんがね。  
 確かに今のハルヒは話せる状態じゃない。俺が部室に行っても気まずい空気を撒き散らすだけで傍迷惑になるだけだろう。険悪ムードにひたすらオロオロする朝比奈さんを見るのは忍びない。  
 だが、俺が部室に行くのを止めた理由は別にある。  
 それは今会わなくても、厭でも顔を合わすことになるだろうということを薄々感じ取っていたからだ。そして仕掛けるならそのタイミングだということを信じて疑わない。  
 それは問われれば根拠などまったくないが、やけに確信が持てる言わば不思議な勘というべきものだろうかね。  
 俺の胸には予感めいたものがあった。  
 あの様子なら今晩にも証人喚問がかかるだろう、ってね。  
 
//////////  
 
 長い前振りになってしまったが、その予感めいたものはものの見事に的中し、冒頭の展開を経て今に至る。  
 ハルヒは影を落とした表情で悄然とした様子で呟く。  
 
 「あたし前にも、こんな夢をみたことがあるわ……」  
 
 俯き加減で何やら少し考え込んだが、  
 
 「とにかく学校から出ましょう。他に人が居ないか探すのよ。無駄かもしれないけど」  
 
 唐突に顔を上げて、俺の袖を掴んで歩き出す。  
 敷地中を引きずり回されることを覚悟していたが、脱出は半分諦めていることもあってか、確認作業もほどほどに俺たちはあっさりと部室へ戻って待機を決め込んだ。  
 
 「前回は光の巨人が出たのよ。背丈が校舎の倍以上あってそいつらが派手に暴れるの。超弩級の大スペクタルだったわ」  
 
 ハルヒは興奮気味にそう言うと、窓から神人の姿を探した。  
 未だ神人の登場はない。古泉の登場もパソコンを使った長門からのメッセージもない。  
 実に緊迫感に欠ける閉鎖空間だったが、むしろ好都合だ。わざわざ朝倉の台詞を借りるならば、『またとないチャンス』だった。  
 
 「……ねぇ、もしかしたら、アンタも覚えてる?」  
 
 だるまさんが転んだで不意を突くようにハルヒが振り返る。気まぐれの質問のような軽いノリではあったが、面は意外に真剣だった。  
 俺はどう答えようかと一瞬迷ったが、半ば無意識の内に、  
 
 「ああ」  
 
 と、肯定する言葉を出していた。  
 ハルヒはそんな俺のリアクションに驚いたような様子を見せたが、何かを思い出したようにそっぽを向いて俯く。正面を向いた頬は桜色に染まっていた。  
 それに触発されたかのように記憶の最深部でNGラベルを付けて封印していたあの問題シーンがフラッシュバックする。  
 墓穴を掘ったとはこのことだぜ。なんとも気恥ずかしくて居たたまれない。  
 しかし、これでは本末転倒だと気を取り直す。  
 昼間の閃きを今一度思い出す。  
 『転んでもタダじゃ起きない』、『災い転じて福と成せ』が、たった今からの俺の座右の銘二本柱だ。  
 うまく使うんだよこの状況を。  
 ここで起きたことはどんなことでもすべて夢で済まされる。恥も外見もここでは無用の長物だ。プライドも全部捨てろ。捨てるんだよ!  
 ちゃちな自己暗示で開き直った俺は、いよいよ切り出した。  
 
 「この状況で言うのもなんなんだがな。お前に説明したいことがある」  
 
 「……何よ。藪から棒に」  
 
 「昨日、いや一昨日になるのか? 先週末にお前がショッピングモールで目撃した光景についてだ」  
 
 途端にハルヒの顔が強張った。本人から裏が取れてるわけではなかったからここで外したら正直どうしようかと思ったが、どうやらビンゴらしい。  
 
 「一緒に歩いてた女の子は妹の友達なんだ」  
 
 一気に誤解を解く好機ではあったが、焦った俺はこの言葉足らずな一言で逆にハルヒの反感を買ってしまう。  
 ハルヒは目に鋭い眼光を取り戻して、バンと机を叩いて反駁した。  
 
 「嘘つきなさいよ! あんなマセた小学生がいるワケないじゃない。遠目でもあたしらとそう変わんないくらいの女の子連れてることくらい分かったわよ!」  
 
 その道の人も竦ませるような剣幕に一瞬怯むが、 不渡り寸前の状況で新商品のセールスポイントを売り込む自営業の経営者のように、決死の覚悟で巻き返しを試みる。  
 
 「待て、落ち着け。面識は無いがお前も知ってる娘なんだよ。文芸部の機関紙で書いた俺の小説の中で妹と同級生で大人びた娘が出てきただろうが」  
   
 「……それって、あの『ミヨキチ』って娘? キョンとホラー映画に行った娘? 吉村美代子ちゃん?」  
 
 ……まったく恐れ入るよ。まさかフルネームまで覚えているとはね。  
 だが、おかげで随分とハルヒを鎮めることができた。  
 この時ほど機関紙の存在がありがたかった瞬間はないね。もし、生きて明日が迎えられるとするならば生徒会長に礼を言いに伺いたいくらいだ。  
 
 「そう、そのミヨキチだ。ここ一年ろくに顔を合わせない内に彼女更に成長してて俺もびっくりしたんだよ。オシャレしてたら十人中八人は高校生と間違えるくらいに大人びてたぜ」  
 
 「…………ふーん。で、午前中ナンパしてたあんたがなんで午後はミヨキチちゃんと『デート』なの?」  
   
 ハルヒは疑惑の視線を向けて俺に一歩詰め寄る。お馴染みの逆三角の目だが、いつもと迫力が桁外れだ。今にも疑念が形を成して目から出てきそうだぜ。  
 心なしか『デート』という単語に妙なアクセントが置かれて聞こえたのは俺の気のせいか?  
 それにしてもなんて鋭い奴だ。痛いところをピンポイントで突かれてしまった。  
 古泉よ、どこに隠れてやがる。こういうときこそ胡散臭い論理で相手を丸め込むのが得意なお前の出番だぞ。  
 
 「そ、それはだな……」  
 
 話すのか? 恐らく俺の生涯を見渡しても無かったことにしたい出来事ベスト10にランクインするのは堅い未曾有の大失態を。  
 いや待て。これは夢なんだということを今一度思い出せ。最初に確認しただろう?  
 そうさ、どんなに格好悪くてもいいんだよ。もう、どうにでもなってくれ。  
 開き直りと観念を両立させて、俺はありのままの事実を正直に話した。  
 事情が込み入っているので自ずと説明の量も増えるが、情けない内容にも関わらずハルヒは黙って聞き入っていた。身も凍りつくような疑念のまなざしのままで。  
   
 「つまり要約すると、だ。気づかずにナンパでミヨキチに声を掛けて、そのお詫びにショッピングパークで相手の要望通りに遊んだ。ということなんだ……」  
   
 説明を終えた俺はどっぷりと疲れていた。喋った量も半端じゃなかったが、それ以上に精神的な負荷が大きかったからだ。思い出すのも恥ずかしい内容満載なのが何よりも堪えた。  
 一仕事やり終えて汗を拭った俺に対して、  
 
 「馬っっっっっっ鹿じゃないの?」  
 
 と、キレのある見事な罵声が返ってきた。  
 ハルヒは呆れ果てたのか、眉を下げて薄く笑んでいた。  
 爽快ですらあるね。漸くハルヒの顔に笑顔が垣間見えたんだからこれ以上清々しいことはない。  
 しかし、溜飲を下げたのも束の間、ハルヒは一瞬で真顔に戻る。  
 
 「あんたさ、まだ一つ隠してることあるでしょ?」  
 
 ドキリとした。確かに俺は全てのいきさつを語ったものの、ラストをお茶に濁したままだからだ。そしてそのラストこそ、最も問題のあるシーンだから性質が悪い。  
 つまり、全部見られてたってことか。一体どこから見てたんだ? 本人の弁じゃ遠目だって言うから店の建物の上階からってとこだろうか。  
   
 「……遠くからだったからよく分からなかったけど、別れ際にあんた、ミヨキチちゃんと抱き合ってたように見えたわ。まさか小学生にいかがわしいことしてたんじゃないでしょうね?」  
 
 ハルヒが腕を組んで俺の瞳の奥底を探っていた。一片の揺らぎも見逃さない。そんな強い意思が感じられる。  
 最大の山場がやってきた。  
 ここをどう自己弁護するかで、今までの労が功を成すか泡に帰すかが分かれそうだ。  
 しかし、これだけは馬鹿正直に話しても逆効果のような気がした。本人曰くよく見えなかったバッドな衝撃映像をわざわざつまびらかにするのは愚かしいことだろう。  
 
 「帰り際に駆け出すもんだから、躓いてバランスを崩したんだよ。それを助けた瞬間がそう見えたんだろうよ」  
 
 自分でも無難な作り話だと思ったが、すぐにハルヒの視力と洞察力を甘くみたことに後悔することになる。懲りないね、俺も。  
 
 「あたしには向かい合ってたように見えたけどっ。それと、ミヨキチが爪先立ちになったのはなんで?」  
 
 ハルヒは見透かしたように不気味に嗤っていた。痙攣気味に口の端を吊り上げて努めて不自然に。  
 ……めちゃめちゃ細かいところまで見えてるじゃねぇかよ。  
 窮する俺にハルヒは威圧的な態度を一転し、腕を下ろして俯いて表情を隠した。  
 
 「……キス、したんだ?」  
 
 最後通牒のような有無を言わせない様子に息を呑んだ。  
 それは身体の奥底で渦巻くあらゆる感情を完全に押し殺し、強制的にノーマライズしたような不自然に平坦な問いだった。  
 まるで背骨を抜かれて氷柱を突っ込まれたような寒気が走る。  
 
 「違うっ! 不可抗力だったんだ!」  
 
 矛盾する俺の言葉をハルヒは肯定ととったのか、女子とは思えない瞬発力で俺の横を抜けて部室から駆け出ようとするが、こっちも必死だ。  
 ここでハルヒを逃がしたら冗長とも言える段取りと前振りを使って一体何をやってきたのかが分からなくなる。  
 反射神経を総動員すると、幸運も後押ししてハルヒの腕を掴むことができた。全力で引き寄せる。  
 ハルヒを背中から捕まえる形になった。釣り上げられた魚みたいにハルヒはめちゃくちゃに身を振り回して暴れる。  
   
 「バカバカバカァ、このバカキョン! 離しなさいよ! このぉ、離せぇええぇぇぇ―――――――!!!」  
 
 誰もいない校舎に耳を劈くようなハルヒの絶叫が響き渡った。あまりの大音響にガラスがビビって割れそうな勢いだ。  
 
 「良く聞けっ! 複雑な事情があるんだよ。せめて全部聞いてから暴れるかどうか判断しろっ」  
 
 「何よっ、嘘ついてごまかそうとしたくせにっ。最っっっ低!!!」  
 
 キ―――――――――――――ンンン!!!!!  
 
 という、グロッケンシュピールの高音部の鍵盤を打ち鳴らしたような衝撃が下半身から背骨を伝って脳髄まで一気に突き抜けた。  
 耳から聞こえてきた音じゃない、俺の体内からせり上がってきた痛覚伝達の奔流が奏でた合成擬音だ。  
 羽交い絞めのポジショニングがどうもマズったらしい。  
 暴れたハルヒはあろうことか俺の急所を思い切りカカトで蹴り上げやがった。せめて無意識でやったと信じたい。  
 激痛に体中が弛緩し震えが止まらなくなる。そして程なくして糸が切れた操り人形のように俺は昏倒した。  
   
 「キョン! どうしたの? ねぇキョン! キョ――、キ、―――――ン」  
 
 夢の冒頭でも聞いたような声が今度は逆に遠ざかっていく―――。  
 
//////////  
 
 ドサリと、不快な落下感の後の打撲に叩き起こされて俺は目を開けた。  
 お約束のようにベッドから落ちたらしい。  
 日が昇る気配も無い深夜だった。  
 のそりと起き上がってベットに腰掛ける。  
 金的の痛みがないのが不幸中の幸いだ。胸を撫で下ろす。  
 しかし単なる夢ではああもリアル過な痛覚は再現できない。改めて俺は閉鎖空間に居たことを思い知った。  
 それにしても、なんつー展開だ。  
 実質上は夢と言い聞かせていたが、あれが閉鎖空間という現世で実際に行われたことだという現実を逃げずに受け止めると、ダブルパンチとばかりに頭を抱えるしかなかった。  
 自業自得の部分はあるとはいえ、こんな尻切れトンボでしかも下品な終わり方ってあるか?  
 是非ともすぐにリベンジさせてくれと、無理やり布団を引っかぶって眠りの底に落ちる。  
 しかし、閉鎖空間に戻る希望は適わなかった。  
 
//////////  
 
 明けて火曜日。  
 気だるいだけだった月曜日の日中と相反して、俺のボルテージは朝から高まっていた。  
 妹のフライングボディーアタックを食らうことなく自発的に起きれたくらいだ。  
 しかし、授業の内容は相変わらず頭に入ってこなかった。夜に備えることしか眼中になかったからだ。こう表現すると何だか語弊があるが、まぁいい。  
 ダメ仕様の脳みそではあったが、リベンジに燃えている勇姿は評価してやって欲しいね。  
 授業を全て聞き流す形で消化し、俺は春のうららかな日差しを浴びながら文芸部室に向かっていた。  
 ちなみに今日のハルヒは、……総じておとなしかったと評することができるだろう。  
 顔を合わせづらいと思っていたのはお互い様らしく、朝、教室に到着して一度だけ目が合ったとき、ハルヒは背筋を正すという分かり易いリアクションで応え、一頬を赤らめると逃げるように窓の外に視線を移した。  
 平静を装ってはいたが、俺も紅潮していたかもしれん。  
 構うなオーラを漂わせていたため、特にこっちからの接触は試みていないが、谷口評によれば昨日のよりは格段に落ち着いていた、らしい。  
 その証拠かどうかは分からんが、ホームルーム終了後解散時に、  
 
 「今日は団活ないから」  
 
 とだけぶっきらぼうに伝えて去って行ってしまった。  
 少なくとも口も聞きたくもない状態からは脱することができたってことなんだろうね。  
 そう思うと昨日のアレは成功の内にカウントしてもいいのかと思ったが、それは自分を冒涜する行為だとすぐに思い直した。  
 おっと、考え事に執心してると文芸部室を通り過ぎるところだったぜ。  
 気を取り直してドアに向かい、ノックをする。  
 ……、返事はない。  
 当然か。団活は中止なんだからな。  
 俺は戸惑うことなくドアを開ける。  
 
 「よう」  
 
 一声掛けると部室の主は俺に一瞥をくれただけで、一昔前のヤンキーが防護のために服の下に忍ばせるのに重宝しそうな分厚い専門書に視線を戻す。  
 俺はいつもの指定席に腰掛けた。  
 暖かい光に満ち溢れた静寂なる部室は実に居心地が良い。居眠りするなら最高の場所だ。  
 だが、その前に用事を済ましておかないとな。  
 
 「すまん。読書の邪魔をするのは気が引けるんだが、少しばかり話をしてもいいか?」  
 
 「……」  
 
 長門は再び本から視線を上げる行為で肯定の意を表す。底の計り知れない漆黒の瞳が俺の姿を映し出した。  
 
 「お前ならすでに知っていると思うが、ハルヒがまた閉鎖空間を作ってややこしいことになってるってのは本当か?」  
 
 「本当。ただし危機的状況ではない。二日前から断続的に発生した異常な時空間と昨夜から未明にかけてあなたが巻き込まれた異常な時空間は性質が異なる。けれどどちらも実質無害」  
 
 噛むなんて無縁然として、滔々と長門の口から言葉が流れ出る。  
 それは決して滑らかではないが、それでも出会った頃に比べれば幾分温かみが感じられる。  
 長門の言葉を聞いて確信できたぜ。  
 やはり昨晩の出来事は夢では無く、ハルヒの変化も俺の勝手な思い込みなんかじゃないってことだ。  
 
 「今回お前は動かないのか?」  
 
 「ない。情報統合思念体は静観する方針」  
 
 そうかい。曲がりなりにも俺が蒔いた種だ。自分でケツを持てってことなんだろうな。  
 
 「発生の予測はできるのか?」  
 
 「不可能。発生の法則、要因等も不明」  
 
 そうか。できれば今晩あたりにまた発生して欲しいんだがな。  
 
 「私からも質問事項がある」  
 
 珍しいな。長門が俺に訊くことなんてあるのか? 脳に保有する情報の包含関係を図示すれば圧倒的に俺が部分集合のはずだ。しかも俺の領地は電子顕微鏡の最大観察倍率でようやく確認できるくらいの大きさに違いない。  
 
 「昨夜涼宮ハルヒが創造した異常な時空間での活動内容を教えて欲しい」  
 
 まったく、安請け合いなんてするもんじゃないね。  
 実に答え難い質問だ。  
   
 「えーっと……、それは情報統合思念体が欲している情報、なのか?」  
 
 「…………」  
 
 長門は思案する。何を躊躇うことがあるのなど想像もつかんが、無言の裏側ではデジタル的なモノが凄い勢いで処理されてるに違いなかった。  
 
 「そう。ただし思念体の中では当該情報のランクは下位に設定されている。今の問いは私という個体を主体としたもの」  
 
 この何の変哲もない答えを導出するのになぜそんなに時間を要したのかが興味深いところだが、ここで話の腰を折るのも気が引けるので自重することにする。  
 
 「そうかい。手前味噌にもならんので他言は控えてくれよ? えーっと、何をやってたか、だよな。……強いて言うならハルヒの誤解を解いていた、ってとこか」  
 
 至極簡潔にまとめることができたと思ったが、長門は微動たりのリアクションも見せない。  
 あー、もしかして説明が足りてないか?  
 首肯する長門に俺は言葉を慎重に選びながら続ける。  
 
 「俺のことでハルヒの奴が怒ってるんだよ。この理由はできれば訊かないでくれ。しかしだな、それは誤解なんだ。だからそれを昨日解いてたんだよ。アクシデントで中断を余儀なくされたがな」  
 
 「意思疎通の齟齬の解決を異空間で敢行する意義が私には理解できない」  
   
 鋭い指摘に俺は言葉に詰まった。  
 いかに自己を見失っていたかを思い知る。水をぶっかけられたような気分だった。  
 長門の言う通りだ。痴話喧嘩の仲直りのためにわざわざ空間を捻じ曲げるなん馬鹿馬鹿し過ぎる話だからな。  
 だが現実世界じゃ矜持というか意地というか見栄というか、そういう感情的なモノがどうにも邪魔になるんだよ。  
 嗚呼、こういうのなんて言うんだっけ?  
 いつまでもうまくまとめて説明できずに居ると、スッと手のひらが差し出された。  
   
 「いい。無理はしないで、いい」  
 
 窓から差し込んでくる淡い西日を浴びて長門が優しく笑んでいる、ような気がした。  
 
 「……すまん。何て言えば良いのか言葉がまとまらん」  
 
 気にするなの代わりに長門は本に目を戻す。  
 再び静けさに包まれる。春休みの大会に備えて各クラブは猛練習中のはずだが、何の偶然か野球部の掛け声も陸上部のピストルの音も吹奏楽部のトランペットの音も聞こえてこない。  
 規則的に長門がページをめくる音が催眠効果を促進したのかは定かではないが、俺は徐々に瞼が重くなる。  
 一時間くらい昼寝していくか?  
 そんな一瞬の隙を睡魔は逃さず、あっという間に意識を飲み込まれてしまった。  
 薄れゆく意識の中で、  
 
 あまのじゃく―――  
 
 まるでどこからともなく風に乗って運ばれてきたような、ささやかな空耳を聞いた。  
 
//////////  
 
 家の近くまで帰ってくると、すっかり日は落ちて真っ暗だった。  
 一時間だけという自分との約束は紙切れ同然に破棄され、結局三時間も惰眠を貪ってしまった。  
 くそっ、目が冴え過ぎて今夜眠れないんじゃないのか?  
 などと悔やんだが自業自得の外なんでもない。  
 飯を食って早めに風呂に入れば少しは眠くなるかもしれんと歩みを速めようとしたその時、見慣れたランドセル姿が二十メートルほど先を歩いているのに気づいた。  
 見習い不良っ娘め。ここはガツンと言ってやろうじゃないか。  
 
 「こらっ、こんな遅くまでどこ行ってた?」  
 
 能天気なスキップをビクリと止めて、恐る恐るといった感じで振り返ったマイ妹は、いけねっ☆、とばかりにチロリと舌を出した。  
 来年はもう六年生だろうが。いつまでも可愛くごまかせるなんて思ってるんじゃない。  
 俺は妹に小走りで駆け寄った。  
 
 「親が心配するだろ。ちゃんと連絡入れてあるのか?」  
 
 「うん。ハルにゃんがケータイ貸してくれたもんっ。そこまで送ってもらったしバッチリ!」  
 
 「ハルヒだぁ?」  
 
 その問いに妹の表情が急変する。どこ吹く風とあさっての方向を見て、「あ、見て見てキョン君ー、北極星!」などと不自然に騒ぎ出した。  
 分かり易くて逆に助かるね。  
 
 「ハルヒと一緒に居たのか?」  
 
 「ないしょー! 早く帰らないと晩ご飯キョン君の分まで食べちゃうぞー。がおー」  
 
 妹は跳ねるように疾走して逃げ出す。  
 妙な擬声をあげるのは止しなさい。いい近所迷惑だ。  
 苦言を呈する間に妹は飛び込むように玄関に入って行った。  
 その後、自宅で改めて尋問にかけてみたが悉くシラを切られた。風呂上りに棒アイスを半分に割ってそれを餌に交渉してみたが、それまで拒絶された。相当悩んではいたがな。  
 しかし驚いたねこりゃ。待ち合わせたのか偶然かは定かではないが、団活をサボってハルヒが妹と会っていたとはね。  
 口止めをしている理由が引っかかる。  
 一体何の話をしていたんだ? 俺の悪口か?  
 さっぱり見当が付かん。  
 
//////////  
 
 何に促されたわけでもなく自然に目が開くと、そこは件の色も風も音の無い無味乾燥な世界。  
 願ったり適ったりには違いないが、わざわざ志願してまでこんな所に来る物好きもいるもんだと自嘲気味になった。  
 ひんやりと冷たい感触を背中に感じて、毎度の如く俺は校庭の所定位置で寝そべっていた。  
 なんでいつも決まったようにここなんだ?  
 演出はいらんとしても、このエントリーの形式はなんとかならんもんかね。  
 見えない相手にぶつくさと零しながらも立ち上がると、気を取り直して意を決する。  
 昨晩は不本意な事故で強制退場となったが、効果があるのはお墨付きだ。  
 今日こそ誤解の決着を着ける!  
 ハルヒの姿は見えないが、居場所の心当たりといえば唯一つだ。  
 迷うことなく俺は部室棟へ足を向けた。  
 ハルヒは文芸部室で窓際に佇んでいた。  
 俺がこっちに向かう様子を見ていたのか、特別驚いた様子はない。  
 
 「よぉ、今日は起こしに来てくれなかったのか?」  
 
 「連日あたしの夢に出てくるなんて物好きね、あんたも」  
 
 噛み合わない妙なやり取りから俺たちの会話の歯車が回り出す。  
 開口一番に毒を吐いてみせたハルヒだが、急に落ち着かない様子を見せてチラチラと俺の顔を窺うばかりで、なかなか自分から切り出してこない。  
 やれやれ、今夜のハルヒはやけに弱気だね。  
 
 「……か、身体の方は、その……、大丈夫なの?」  
 
 「今はな。でも、昨日みたいなのは勘弁してくれ。マジで死ねるぞ、あれは」  
 
 そういや、俺が気絶してその後ハルヒはどうしたんだろうね?  
 気絶して泡を吹いている俺を思い出しているのかは定かでないが、ハルヒは少し青ざめた表情で俯いていた。どうやら反省はしているらしい。  
 
 「お前に言いたいことがあるから今日も来た。聞いてくれ」  
 
 殊勝な様子で俺に視線を合わせるとハルヒは静かに頷いた。  
 俺は包み隠さず全てを話した。  
 
 ミヨキチが別れ際にキスを求めてきたこと。  
 約束をした手前、無碍にはできなかったこと。  
 唇では応えられず、額にキスしようとしたこと。  
 けれど、いざという直前でビビってしまったこと。  
 焦れたミヨキチに不意に唇を奪われてしまったこと。  
 
 ハルヒは遮ることも暴れることもせずに、おとなしく聞く姿勢を維持していた。。  
 笑ったり、神妙になったり、呆れたり、憤ったりと慌しい百面相を披露しながら。  
 そして熱弁を奮って全てを語りきったとき、ハルヒは――――――、口をすぼめて十八番のアヒル口になっていた。  
 文句の一つも言いたくなる俺の体たらくだ、憤懣やる方なしとされても致し方ない。  
 
 「で?」  
 
 厭な返し方だが、立場上反発することもできん。  
 これ以上促されても俺にはもう語ることがない。無い袖は振れんぞ。  
 
 「そうじゃなくて。結論をまだ聞けてないんだけど。事情は分かったわ。突っ込むところは両手で数えられないくらいあったけどっ。で、結局のところキョンはどうしたいわけ?」  
 
 気色ばんで捲くし立てるハルヒに気圧されずに俺は答える。  
 
 「お前が間違った認識をしているようならその誤解を解きたい。予想外のアクシデントがあったが、俺とミヨキチはそういう仲じゃない」  
 
 「…………、言葉だけじゃ信用できない」  
 
 「は?」  
 
 「は? じゃないわよ。 んっ!」  
 
 何を思ったのか、ハルヒは唇を真一文字に結んだまま篭ったような発声を始めた。人差し指で口元を指している。  
 一体なんのまじないだ?  
 呆気にとられるばかりの俺とは対照的に、ハルヒは何がそんなに恥ずかしいのかこれ以上ないくらいに顔面に血液を集めて、顔全体を朱に染めていた。  
 じれったいわねとばかりに、今度は目を瞑って  
 
 「んんっ!」  
 
 と、件の奇妙な発声とともに下あごを突き出すような仕草をした。  
 
 ――――――――――――そういうことかよ。  
 
 小学生のミヨキチのがよっぽど上手に雰囲気作ってたぞ、など言うものならこのまま世界が終わってしまいそうなので、余計な口には封をする。  
 歩み寄ってハルヒの肩を掴むと、熱病に浮かされたように火照っていた。  
 紅潮した額には汗が浮いている。  
 やれやれ、全く素直じゃないね。俺が言うのも何だが。  
 焦れることも淀むこともなく、何年も付き合ってきたカップルのようにごくごく自然な感じで俺たちは唇を重ねた。  
 艶やかで弾力に富む何とも言えない感触は麻薬のような快感で、いつまでも離していたくない気持ちに駆られる。  
 セカンドキスは長い長いキスになった。  
 
 「っ――――、はぁっ」  
   
 しかし、その結末は肺活量の差が出るというなんとも締まらない幕引きとなる。俺の方が先に息継ぎでギブアップしてしまった。  
 インターバルもそこそこに、雛鳥が餌をねだるようにハルヒはもっととばかりに貪欲に続きをせがんできた。  
 
 「キョン……」  
 
 俺の名を切なげに呼ぶしおらしいハルヒは反則的なまでに可愛かった。思わず見とれてしまうほどにな。  
 が、それが仇となる。  
 伸びをして俺に身を預けてくるハルヒを支えきれずに、俺はそのまま受身も無しで押し倒される形になってしまった。  
 三半規管はさんざん警報を鳴らしていたが、肝心の身体がハルヒに骨抜きにされちまっていたのさ。  
 ガツン!  
 と、派手に後頭部を打ち付けるとブラウン管のテレビが消えるように、ブチンと視界が一度だけ明滅して俺は断絶した。  
 
//////////  
 
 抜け殻の身体にいきなり魂を注入されたような衝撃で俺は目を覚ました。  
 そこはかとなく心臓に悪い気がする。寿命とか縮まったりしてないよな?  
 代わり映えのない私室の天井が現世の標。徐々に覚醒が確立されるとそれと引き換えに先刻までの記憶が蘇ってきた。  
 性懲りもなくまた気絶かよ。我ながら芸が無い。  
 ったく、どつき漫才やってるんじゃねぇ、と起き抜けに悪態を吐く。詮無いことだった。  
 置時計の時刻は午前五時。空が薄っすらと白んできている気配がする。  
 閉鎖空間に居た時間は昨日よりは確実に短いはずだ。当然のことかもしれんが向こうとこっちじゃ時間の流れ方が違うってことなんだろうな。  
 一息ついて気づいたが、息子が痛いくらいに元気になっていた。  
 おとなしく諦めろ。続きは無期限のお預けだ。  
 しかし、これでどうなるんだろうか。  
 連夜の失神オチは心底気に食わんがこれでハルヒとの誤解は解けた、はずだ。  
 明日会うハルヒはどんな態度を見せるんだろう。  
 そう考え始めると気になって眠れない。手ごたえがあるだけに余計にな。  
 布団の中で悶々としながら俺は太陽が昇るのを待った。  
 
//////////  
 
 明けて水曜日。  
 二日連続で妹の急襲をかわして、ひょっとしたら北高で二番目にテンションが高いんじゃないかと思うくらいに意気揚々と登校した。  
 一番は誰かって? 鶴屋さんに決まっている。  
 廊下を死霊のようにダラダラと歩く睡眠欲に飢えた同級生達を追い抜いて、教室の引き戸を開けると―――――、俺の後ろの指定席にハルヒの姿は無かった。  
 今日は遅れてるのか?  
 大抵は俺より早く登校しているんだが、肩透かしを食らった気分だ。  
 俺はとりあえず自分の席に腰掛けてハルヒを待つ。だが、ひたすら来ない。  
 とうとうホームルームにもやつは姿を現さず、岡部から体調不良で欠席と告げられた瞬間、俺は唖然とするばかりだった。  
 あの健康優良児の代表格が病欠だと? ふざけるな。どうせならもう少しましな理由を用意しろ。  
 憤る気持ちを抑えきれずケータイにかけてみたが、音声案内が流れるだけで繋がらない。  
 くそっ。……本当に具合が悪いのか?  
 物にあたってもしょうがないと、ケータイを必要以上に丁寧に閉じる。  
 そのときの俺は傍から見れば、さぞかし散歩のおあずけを食らった犬のようなやり場の無い悲しい目をしていただろうよ。  
 
 ほとんど放心状態のまま三時限目まで過ごしてたが、生理現象まで無視することはできずトイレで用を足すと、  
 
 「やぁやぁキョン君っ! どうしたにょろ、そんな浮かない顔してっ。悩み事ならみくるが聞くよっ?」  
 
 その帰りにハイテンションランキング一位の御方から声を掛けられた。  
 その隣には「えぇっ?」と、目をくりくりさせて慌てふためく朝比奈さん。  
 麗しき上級生のお姉さま方に粗相があってはならない。  
 俺は姿勢を正して、笑顔でお二人をお迎えする。  
   
 「いや、大したことはないんですよ。ああ、そうだ。朝比奈さん。ハルヒが今日休んでるんですけど、何か聞いてませんか?」  
 
 「ううん、何も。昨日お昼に会ったときは元気そうだったけど……」  
 
 朝比奈さんは記憶を辿るように語る。  
 とすると仮病でサボってる可能性がますます高いな。  
 一人で考え込むと、朝比奈さんが遠慮がちに覗き込むように見上げてきた。  
 狙ってやってるんじゃないってことはげっぷが出るくらいに分かっているが、抱きしめたくなるくらいに愛らしい。  
 
 「あ、あの。キョン君?」  
 
 なんでしょうか?  
 
 「涼宮さんと何かあったんですか? せ、詮索とかするつもりはないんだけど」  
 
 昨日長門に訊かれたときもそうだったが、まったく答えに困る。  
 いかに今の状況がみんなに迷惑をかけているのかが分かるな。  
 早く元の鞘に戻るに尽きるね。  
 
 「ややこしいことがあって誤解がこじれてる、って感じです。余計な心配をかけてすみません」  
 
 「やだ、キョン君、頭を上げて」  
 
 お辞儀をして謝ると、朝比奈さんは胸の前で両手を振って狼狽した。  
 姿勢を戻して向き直ると、一拍置いてから母性溢れる優しい目をして切り出す。  
   
 「昨日の涼宮さん、一昨日に比べれば機嫌が随分良くなってました。仲直りしようってがんばってるんだよね?」  
 
 なんとも気恥ずかしい。だが、ベクトルはどうであれ朝比奈さんの言ってることは間違っていない。だから頷くことにした。  
 その反応を窺って朝比奈さんは柔らかく微笑む。一歩引いたところで鶴屋さんもなにやらうんうんと一人で納得した様子だった。  
 
 「早く仲直りできるといいね」  
 
 「詳しい事情はよく分かんないけどさっ。あたしにできることがあったら協力するから。がんばれっ、しょーねん!」  
 
 四時限目のチャイムを前にお二人と別れた。  
 やれやれ、出会い頭に面倒はかけまいと意識しつつも結局しっかりと元気付けてもらってしまったな。  
 しかし、このままじゃ埒があかない。  
 理屈じゃ別に今日じゃないとダメってわけじゃない。だが、どうにも今日中に顔を合わせて話をせずには居られない。  
 居ても立っていられないってのはこのことだ。逸る気持ちを抑えられずに、気がつくと俺は駆け出していた。  
 
 校門を出て通学路を下る。ハルヒが居そうな場所、駅前のターミナル、喫茶店、図書館、光陽園駅前公園、思いつくままに駆けずり回ったがすべて空振り。  
 柄にもなく勢いだけで暴走なんぞするもんじゃない。  
 挙句の果てにはハルヒの家まで行こうとしたが、俺はハルヒの住所を知らない。自宅に帰れば住所録はあるが、親に堂々とサボってるところを見られるわけにもいかん。  
 古泉に聞けば分かるのかもしれないが、この期に及んで他人の手を借りるのは気が引けた。  
 無駄に疲弊しきった俺は帰巣本能に導かれるように部室へ帰ってきた。思い当たる場所がもうここしか残っていない。  
 学校をフケた人間が放課後に顔を出すとは考えにくいが、でたらめなあいつなら逆に最後の望みがあるだろう。  
 椅子に崩れ落ちるように腰掛けて身体を休めた。  
 上半身をだらしなく机に預けたままケータイで時間を確認すると午後二時過ぎ。結局放課後になる前に戻ってきていた。  
 徒労感と疲労感が睡眠を要求してくる。意識が途切れるが抗えない。  
 ハルヒよ。どこで何してやがる……。  
 憎まれ口を置き土産に、俺は深い眠りへと落ちていった。  
 
//////////  
 
 ユラユラと身体がたゆたう感覚がした。  
 揺りかごのような緩やかな周期の柔らかい振幅が心地良い。  
 もう少しこの波に身を任せていたいと、再び意識を霧散させようとしたその矢先だった。  
 
 「―――ん! ――――――さんっ!」  
 
 誰かが誰かの名前を呼んでいた。  
 はっきりと聞き取れないが、どうも耳慣れない音感だ。俺のことじゃないだろう。  
 うるせぇなぁ。もうっ……、なんだっていいから静かにしてくれ、と眠りと覚醒の狭間で悪態を吐くと、仕返しとばかりに途端に揺れ方が乱暴になった。  
 うわっ、こらっ、やめろ!  
 非難も空しくいいように翻弄され、呼び声が見る見る鮮明になっていく。  
 
 「お―――ん! ―――きてください! お兄さんっ!!」  
 
 目を覚ますと、寝起きかと疑うほどにばっちりと目の焦点が定まった。  
 目の前には不安げに俺の顔を覗き込む―――――ミヨキチの顔。  
 ……おい、間違ってるぞ。  
 俺はイカレた眼球に渇を入れるべく瞼をこすった。ボヤけざまの見間違いなら勘弁してやるが、あからさまな視覚情報の改竄は許さん。  
 しかし幾度目を擦ろうが叩こうが、網膜に写りこむ人物に変化はない。  
 
 「お兄さん。ここ、どこですか? 怖いです……」  
 
 いい加減現実逃避を止めて俺は飛び起きた。  
 はじまりはいつもここから。もはやお馴染みになった石畳の舗装の上で立ち尽くす。  
 仄暗い空の下で、16色に減色したかのような校舎と木々が聳えている。  
 眼前に広がる世界はまごう事なき閉鎖空間だった。だが登場人物がおかしい。  
 なぜミヨキチが居る? ハルヒが招待したってことなんだろうが、その意図が分からん。まさか俺の言うことだけじゃ信用できないから参考人招致ってことか?  
 
 「大丈夫だよ。きっと夢を見てるだけだから。目が覚めれば元通りさ」  
 
 気休め程度に言ってみたが、俺自身も展開についていけてない。  
 そもそも昼間に閉鎖空間が発生するのもイレギュラーだ。  
 ミヨキチは耐えられないといった様子で俺の袖口をギュッと掴んできた。その双眸には大粒の涙が湛えられている。  
 いくら発育が良くてもそれは背格好だけの話だ。ここは嘘でも頼りがいのあるお兄さんを演じねばなるまい。なんとかしてやらんとな。  
 俺はミヨキチの頭を撫でた。細くて櫛通りの良い艶やかなキューティクルに目を瞠る。首をもたげた邪念をなんとか押し殺して、ミヨキチを安心させることに腐心した。  
 今気づいたがミヨキチは日曜日と全く同じオシャレ仕様だった。俺は制服姿なのにな。どういう基準で服装が設定されるのかさっぱり分からん。  
 っと、こんな悠長なことを考えてる暇などなかったな。真打が登場する前に打ち合わせておくことがある。  
 俺はミヨキチの両肩に手を置いて真正面から向き直った。  
 
 「お兄さん?」  
 
 訝るミヨキチに優しくだが真剣に言い聞かせるように切り出した。  
 
 「ミヨキチ。今から話すことは冗談のように聞こえるかもしれないけど、実はここを脱出するための大事な鍵になることなんだ。だから、よく聞いてくれ」  
 
 動揺の色が隠せないが、三拍ほど空けてミヨキチは頷いてくれた。  
 時間がないかもしれない。だが、端折り過ぎるのも禁物。  
 難しい要求に胃に穴が空きそうだ。だが、やるしかない。  
 
 「もうすぐ涼宮ハルヒって女がここに現れる。俺のクラスメートだ」  
 
 「……お兄さんと一緒に部活動している人ですか?」  
   
 俺は目が点になる。ミヨキチはハルヒと全く面識がないはずだが……。  
 いや、情報漏洩源が身近に居た。ペラペラとしゃべってる様子がありありと想像できる。  
   
 「妹か」  
 
 「はい。休みの日に出かけたり、泊りがけで旅行に行ったりしてるって聞きました」  
 
 軽い頭痛を覚えて額を押さえた。  
 いくらでも好きに曲解してくださいと言わんばかりの八方破れの言い回しだ。  
 
 「確かにそうだが二人きりでやってるわけじゃない」  
 
 「じゃあ、ハルヒって人が……その、お兄さんを……『げぼく』にしてるというのは……」  
 
 予想だにしない単語が飛び出して、俺は思わず噴出してしまった。  
 マイ妹よ。帰ったらオシオキ確定だ。覚悟しとけよ。  
 
 「違う。断じて違う。妹の言ってることを真に受けちゃだめだ」  
 
 ミヨキチは俺の言葉に胸を撫で下ろすように身体の力を抜いて大きく息をついた。  
 とんだタイムロスだ。巻いていかんと洒落にならんことになる。  
 
 「話が逸れたけど、そのハルヒってのが登場する。奴は先週の日曜日にショッピングパークで遊ぶ俺とミヨキチを見たらしく、俺たちが恋人だと誤解しているんだ」  
 
 ミヨキチは恋人をいう単語に反応した。それを言った本人も妙な気分だが構っている暇はない。  
 
 「やつはおそらく俺とミヨキチの関係を問い質してくるはずだ。そのとき、君の口から事実を説明してやって欲しい。できるか?」  
 
 ミヨキチを見据えると切なげな表情をしていた。しばらく唇を堅く噤んで何かに耐えるように佇んで、逡巡した挙句に「わかりました」と返ってきた。  
 
 ザッザッザッ  
 
 砂利を踏みしめたような音が無音の世界に響き渡る。  
 振り返ると下駄箱のある玄関口からハルヒがこちらに向かって来ていた。  
 その表情は険しく、早足でグングン距離が詰まる。そして手前数メートルの距離をとって立ち止まると、俺とその傍らに少し怯えたように控えるミヨキチと対峙した。  
 
 「……どういうこと?」  
 
 「俺が聞きたいくらいだね」  
 
 ハルヒは鼻を鳴らすとミヨキチに視線を移した。礼儀のできたミヨキチはちょこんとハルヒに会釈をする。  
 
 「ミヨキチちゃんよね? あたしは涼宮ハルヒ。キョンとは同じクラスで一緒にSOS団っていう部活みたいなものもやってるの。そこではあたしがリーダーで、キョンの面倒を色々とみてやったりもしてるのよ」  
 
 さすがに俺よりは幾分表情を和らげてミヨキチに自己紹介をするハルヒ。しかし、それはいつも見せる外面の良いこいつじゃない。警戒の姿勢は崩していないようだった。  
 
 「吉村美代子です。お兄さんの妹と同級生で、たまに家にお邪魔して遊ばせてもらってます」  
 
 「たしか……、映画が好きなのよね? キョンと一緒にホラー映画観に行ったことあるって聞いたわ」  
 
 ミヨキチは俺を窺う。実際は喋って伝えたわけではないが、小説のネタにした時点で同罪だ。俺は申し訳ないとばかりに頷く。  
 
 「……はい」  
 
 「で、先週の日曜日もキョンと映画観に行ったんだ?」  
 
 「……そうです」  
 
 ミヨキチはハルヒの目を見ずに俯いて答える。その様は何か深く考え込んでいるようでもあり、何かを溜め込んでいるようでもあった。  
 まずいな。一方的なハルヒのペースを危ぶんだ俺はフォローに入ろうとした。しかし、突如ミヨキチがかぶりを上げるのが早かった。  
 
 「…………お兄さんが誘ってくれたんです」  
 
 しん、と。空白の時空が流れる。そして、  
 
 「へ、へぇ……」  
 
 と、ハルヒが顔を引きつらせたまま相槌を打つのを合図に一気に不穏な空気が漂い始めた。  
 待て待て待て、なんかおかしいぞ?  
 
 「どうして二人きりで行くのかしら。お友達の妹ちゃんも誘って三人で行けばいいじゃない」  
 
 「それは……、それは……」  
 
 ミヨキチは苦しげに言い淀む。言葉を搾り出そうとするが中々言い出せない。そんな雰囲気だった。  
 ただ俺にはその喉の手前で引っかかっている言葉が、爆弾ワードである気がしてならない。レフェリーストップだと強制的に割って入ろうとしたが時すでに遅し、  
 
 「お兄さんは特別でっ――――――、私の大切な人だからっ」  
 
 存外に声量が豊かでよく通るミヨキチの台本破りのトンデモ宣言が突き抜けるように無人の世界に木霊する。  
 同時に、ピシリと、張り詰めた空間がひび割れたような気がした。  
 
 「ハルヒさんも私と同じ気持ちなんですか? 私よりもお兄さんが大切だって胸を張って言えるんですか?」  
 
 「あ、あたしは……、違うわよ! そんなんじゃない! ……でもね、キョンがSOS団の団員である以上、あたしには監督義務があるの。団則で恋愛は禁止よ。だからおとなしく諦めなさい」  
 
 嗚呼、これがまさに修羅場というやつなんだろう。  
 死ぬまでに一度は経験してもいいんじゃないかと軽く考えていた自分を呪う。この際吉宗でも越前でもいい、人は選ばん。飛び入りゲストとして名判官の緊急招致を切に願う。  
 それにしてもすごいぞミヨキチ。ハルヒと互角にやり合うなんてな。  
 でもやりすぎだ。もはや事態は俺の手どころか身体全体にも余る。  
   
 バチッ!!!!!  
 
 猛々しく対峙する乙女の間にモノホンの火花が咲いて散った。  
 それは人を巻き込めば三回は殺せそうな洒落にならないほど強力な放電だった。  
 実際身の危険を感じて目を瞑って身構えた俺の身体が、そのヤバさを物語っていた。  
 目も耳も、ともすれば五感全部を疑ったが、今しがた目の前で起こったことは妄想でも冗談でも心象表現でもなく、それは間違いなく目の前で起こった正真正銘の物理現象。  
 辺りには生々しい焦げ臭い煙が漂っていた。  
 それを認めた瞬間、俺の生存本能が生命の危機を訴えてきた。  
 おいおい、なんだよこれ? いくらなんでもでたらめ過ぎるんじゃないか? いつから本格派美少女バトルにジャンルが変わった? 超常現象は神人だけで腹一杯なんだよ。  
 
 「小娘が色気づいてんじゃないわよ!」  
 
 「乱暴な人にお兄さんは渡せません!」  
 
 重力場が歪んているのかに二人が立つ周辺の地面が浅く陥没していた。それに反して、その外周では小石が緩やかに空に浮き上がっている。  
 質量を伴う超次元の裂帛の気概が衝突して弾けると、紙切れのように容易く俺はその衝撃に吹き飛ばされた。なんとか手をついて踏ん張って校舎との激突を免れる。  
 台風の真っ只中にいるような暴風が吹き荒れているせいで、最早立つことすら適わない。  
 ちくしょう、このまま何もできずに指をくわえてるしかないのか?  
 砂埃が乱れ舞う中、薄目を開けるとハルヒとミヨキチに挟まれた空間が泥水をかき混ぜたように捩れてその中心部からまばゆい光が漏れ出ていた。  
 それは素人目にも分かるほど凶悪で危険な様相を呈しており、程なくして炸裂するようにこの世界全体を飲み込むであろうことが容易に想像できた。  
 なんてこった。こんな最悪な結末は許されない。  
   
 「やめろぉ――――――――!」  
 
 渾身を込めた叫びも虚しく、空間全体が大崩壊に飲み込まれて全てが消滅していく。焼かれるような強烈な光を浴びて南無三ときつく目を閉じた。  
 
//////////  
 
 「うわぁあぁぁぁあぁ!!!」  
 
 叫びながら飛び起きる。  
 すぐに視界に移りこんできたのは見飽きた配置の文芸部室の備品、目の前でチェスを広げている古泉、お茶っ葉を換えている最中の朝比奈さん、窓際の指定席で本を開いている長門と順番に目が合った。  
 鳩が豆鉄砲を食らったような雁首が揃いも揃って並んでいた。あの長門ですら例外じゃないように見てとれた。  
 
 「キョン君、どうしたの?」  
 
 「大丈夫ですか? 」  
 
 古泉と朝比奈さんが気遣って駆け寄ってきた。  
 なんの変哲もないありふれた光景がここに在る。  
 どういうことだ、世界は無に帰したんじゃなかったのか?  
 呆けていると、びっしょりかいた顔の寝汗を朝比奈さんがハンカチで拭ってくれた。  
 
 「ああ、すいません。自分でやります。……後で洗って返しますよ」  
 
 洗い立ての洗剤の匂いを吸い込むと、少しだけ気分が落ち着いた。  
 ケータイを開いて確認すると某年三月某日、水曜の午後三時半。昼寝前との時間的な食い違いはない。メールの着信がある。ハルヒからだ。  
 
 『緊急招集! 学校サボったけど放課後から団活のため登校するわ。ちょっと遅れるかもしれないけど部室に集まっておくこと!!!』  
 
 相変わらず勝手気ままな奴め。  
 
 「古泉。一つ確認させてくれ」  
 
 「なんでしょう?」  
 
 「閉鎖空間が前に発生したのはいつだ?」  
 
 キーワードに古泉の表情が引き締まる。  
 
 「昨晩深夜から今朝明朝にかけて発生していたようです。僕達が介在できない特殊なタイプのものですがね。あなたが一番知ってるのではないですか?」  
 
 「記録上それが最後か? 何か他の異常はなかったか?」  
 
 古泉は少し怪訝な顔をしながらも確固とした自信を伴って頷く。  
 
 「ええ、確かなことです」  
 
 夢、だったのか――――――。  
 良く考えればここに居る三人ほど信頼のおける証言者はいない。疑う方が間違っているだろう。  
 酷い悪夢だ。笑いさえこみ上げてくる。  
 ハルヒとミヨキチのオーラがぶつかって爆発――――、ね。妄想も大概にしろと頭蓋骨の上から脳みそを小突いた。  
 
 「みんなお待たせー!」  
 
 部室のドアを蹴破ってどうしようもない粗忽者の待ち人が現れた。  
 マグネシウムフラッシュを炊いたような輝かんばかりの笑顔を久しぶりに披露したハルヒは出席を取るように部室全体を見渡す。  
 長門、朝比奈さん、古泉と視線を走らせ、最後に俺とばっちり目が合う。  
 どういうリアクションをしたら良いのか戸惑う俺に構わず、ハルヒは不敵に微笑んだ。  
 もうイライラのハルヒはどこにも居ない。それどころかいつにも増して晴れやかに充実しているようだった。  
 
 「学校をさぼってどこをほっつき歩いてた?」  
 
 「気になる?」  
 
 よくぞ聞いてくれましたとハルヒは意味深な目つきになる。  
 自分でもったいぶりながら実は言いたくて仕方がないらしく、俺の返答を待たずしてハルヒは口を開いた。  
 
 「あんたが機関紙で書いた小説の中にミヨキチって娘が出てたじゃない? どんな娘かずっと気になってたのよね、あたし」  
 
 あくまでも全員に聞かせたいらしく、部屋の奥へと進みながらハルヒはみんなの表情を窺って続ける。  
 
 「そしたら昨日偶然妹ちゃんとミヨキチちゃんが一緒に居るとこに鉢合わせちゃって、ワクドのハンバーガーとシェイクをご馳走しながら話し込んじゃったのよ」  
 
 ミヨキチと会っただと?  
 いや、待てよ。辻褄が合うじゃないか。よくよく考えれば昨日妹がハルヒと会っていた時点で勘付くべきことだったかもしれない。  
 
 「ミヨキチちゃんってすっごく可愛くて、礼儀正しくて、謙虚だけど芯が一本通った大和撫子みたいな娘でさ。いっくら話しても話題が尽きないのよ」  
 
 ハルヒは心底楽しそうな顔を浮かべながら団長席にどかっと腰を下ろした。  
 
 「で、全然話足りなかったから今日はお互いに学校をサボってとことん語り合ってきたってわけ」  
 
 ハルヒはなぜか俺の方に生命力に満ち溢れた強い視線を向けて挑戦的に口を歪めた。  
 さらっと話しやがったが、とんでもなくおかしい内容が紛れ込んでるぞ。  
 昨日会ったばかりの二人が示し合わせて学校をサボって語り合ってきたって、どう考えても普通じゃないだろ。  
 ミヨキチを悪の道に引きずり込むな。  
 しかし、ハルヒとミヨキチは丸一日かけて一体何を話したのかね。   
 夢の影響か一瞬不穏なシーンが過ぎったが、ご機嫌なハルヒの態度を見る限りそれは杞憂だと信じたいがね。きっと誤解もミヨキチが上手く解いてくれたんだろう。  
 その過程でどのような会話がなされたかが気になるが、そこはもう二人の良心に任せるしかない。  
 
 「妹ちゃんと並んで北高入学の暁には是非とも我がSOS団に迎えたい逸材とスカウトを申し込んだのよ。そしたら二つ返事でオッケーをもらえたわ。これで向こう十年SOS団は安泰ね」  
 
 進路を勝手に決めるな。そもそも相手はまだ中学にも入ってないんだぞ? 間の世代はどう埋めるつもりだ。  
 と適当なことを言うハルヒにツッコみながら、俺はようやくいつもの調子がもどってきたことを実感した。  
 きっと想像するのも恐ろしい紆余曲折があってこの結果があるんだろうが、そこはもう目を瞑ろう。  
 何を隠そう閉鎖空間と夢の混同が一番堪えた。夢のような現実も、現実のような夢も懲り懲りだ。最低でも向こう三年は遠慮願いたいね。  
 疲れきった俺は再び机に伏そうとしたが、  
 
 「あー、なんか今あたしすごく気分が良いのよね。久々にコスプレでもしてもいいくらいにっ。決定、今日はコスプレデーにするわ! ほら有希もやるのよ!」  
、  
 ハルヒの思いつきの一言で一息つくことも儘ならず廊下に追い出される羽目になった。やれやれだ。  
 
//////////  
 
 人影も疎らな放課後の廊下で古泉と二人で並んで待ちぼうけ。  
 黙って待つことを知らない古泉は十秒と間を空けずに代わり映えのしないスマイルを向けて切り出してきた。  
 我慢のできない男は嫌われるぞ? 色んな意味でな。  
 
 「どうやら丸く収まったようでなによりです」  
 
 「表面上はな。俺の知らない所で別の何かが始まってしまったような気がするせいで、どうにも不安だね」  
 
 何が可笑しいのか古泉は噛み殺したように笑い始めた。  
 察しの良い奴はこれだから性質が悪い。  
 
 「何がそんなに可笑しい」  
 
 お決まりの台詞で誘ってやると、  
 
 「――――『正夢』だったってこと、でしょうか」  
 
 最低のブラックジョークが返ってきた。  
 ジロリと視線をくれてやると、さすがに流石にそれ以上は押し黙った。  
 締め切った窓の外からは眩いばかりの光線が降り注いでくる。その光の強さに俺は新しい季節の訪れを確信した。  
 二週間後の活躍を待ちわびるかのように風に吹かれて所在なさげに揺れる桜の蕾が、くだらないやりとりを交わす俺たちを窓の外から微笑ましく見守っていた―――。  
 
―完―  

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