「すまない、長門。これは返すよ」
彼がプリントをこちらへ差し出してきた。
何も書かれていない白紙の入部届。わたしが二日前に渡したものだった。
手を差し伸べ、受け取ろうとする。うまく手が動かない。震える。受け取りたくなかった。
受け取ってしまうと、彼とはもう会えなくなりそうで、怖かった。
彼の顔を見上げる。何かを決心した表情だった。
その顔を見て、手が震えつつも動き出し、二度目でようやく入部届をつまむことに成功した。
「……そう」
上手く言えない自分が歯痒かった。しかし表情が顔に出たのか、あわてて彼が言葉を継ぎ足す。
「だがな、実を言うと俺は最初からこの部屋の住人だったんだ。わざわざ文芸部に入部するまでもないんだ」
なぜなら、と彼は間を置き、
「なぜなら俺は、SOS団の団員その一だからだ」
そう宣言すると、指を伸ばし、コンピュータのエンターキーを押した。
「……?」
何も起こらない。
「……ジョン?」
涼宮ハルヒと自己紹介した女が、不審気な声を出す。
彼はしばらくじっとたたずんでいたが、唐突に振り返り、
「我ながら面白くない冗談だった。なんかこう、そんなことをしたい気分だったんだよ。
しなきゃよかったな。すまなかった」
そんなことを言った。
「……いいけどさ。今度はもっと面白い冗談にしなさいよね。で、なんのことについて
話してたかしら。あ、そうそう、集合場所についてだったわよね。駅前の喫茶店でいい?」
「いいのではないですか。最大公約数的に考えれば、そこがベストでしょう」
古泉くんが相づちを打った。
「なんなんですかー? わ、わたしが参加することはもう決定済なんですかー?
あのあの、わたし明日は友達と遊ぶ約束をしていて、」
「黙りなさい」
「ひっ」
朝比奈さんが涼宮ハルヒの剣幕に押されて口をつぐむ。
「次の土曜日! つまり明日! 朝九時に駅前の喫茶店に集合ね! 遅れないように。来なかった者は死刑だから!」
涼宮ハルヒはそうまくし立てると、
「今日の用事は済んだわ。ここで着替えると帰りしなに見咎められるかもしれないから、どっか行きましょ、古泉くん」
古泉くんと彼を両手につかんで、台風のように去っていった。
「やっぱり行かないとダメなんでしょうか……」
朝比奈さんの世をはかなむような声だけが文芸部室に響いた。
翌日、朝九時五分前。
集合場所の喫茶店に入ると、彼と朝比奈さんだけがいた。
わたしを見てほっとする朝比奈さん。どうも彼と二人きりというのは居心地が悪かったようだ。
「おはようございます、ええと、長門さん?」
「……おはようございます」
とりあえず、あいさつをする。女の子女の子したその格好と、
「……」
制服にダッフルコートを羽織っただけの自分の姿と見比べてしまう。
服装に疎いわたしでも、どちらが見栄えするかぐらいわかる。少し劣等感を感じた。
「それにしてもハルヒのやつ遅いですね、自分から言い出しといて」
彼が間を持たせるためか、口を開く。朝比奈さんがその声にびくっと体を震わせる。
もしかすると、彼は朝比奈さんにも、三日前わたしにしたようなことをしたのかもしれない。
そうでなければ、こんなにおびえていることの説明がつかない。
そんなことを考えていると、彼の携帯が鳴った。
「もしもし?……ん、ああ、ハルヒか。なにやってんだ、お前……あん? 風邪引いた?……
まぁこのクソ寒い季節にTシャツでランニングしたからな。うまいもんでも食って養生しろ。じゃあな」
電源を切り、
「そういうわけで、今日の集合は中止だそうですよ。この分だと古泉にはハルヒから連絡が行ってるでしょう。
朝比奈さん、わざわざ約束を断ってまで来てもらってすみません。長門もすまん」
しなくてもいいのに、わたしたちに代わりに謝った。
「い、いえ、そういうことなら仕方ないです。あの、それじゃ、あたしは帰りますね」
そそくさと席を立って、朝比奈さんは喫茶店をあとにした。
「さて、俺も帰るかな……」
ぼやきながら席を立つ。
「あ」
せっかくの二人きりなのに。
「じゃあな、長門」
行かないで。
そう思ったと同時に、こないだのように彼の服の袖をつかんでいた。
手が震え、自然と顔がうつむく。
「――と思ったが、どっか行くか。家に帰ってもすることないしな」
彼の返事に、顔がほころぶ。小さくうなずいた。
喫茶店を後にしたわたしたちは、電車で一駅移動し、少し大きな街へ出た。
「どこに行きたい?」
先程の朝比奈さんのことが念頭にあったわたしは、嫌じゃなければ、と前置きした後で、
「洋服売り場」
と告げた。
「服売り場か。よし、それじゃ行くか」
洋服売り場まで来たものの、どの服を選べばいいかよくわからない。
店員さんに聞くのがてっとりばやいのだが、引っ込み思案なわたしは中々声をかけられずにいた。
いたずらに洋服の山を前にうろうろしていたわたしを見かねたのか、
「すみません、こいつに似合う服を見繕ってやってくださいませんか」
彼が店員さんを呼んでくれた。
しばらくして、店員さんがすすめてくれた服を手に、試着室へ入る。着替えて出たわたしを見て、
「似合ってるぞ」
彼はそう言ってくれた。
その服を着たまま外に出ることにし、制服とコートを紙袋の中に入れ、料金を支払う。
その頃には、お昼近くになっていたため、レストランで昼食をとった。
食事中も、無口なわたしに、一生懸命話題を探して声をかけてくれる。
彼のその姿、いまの状況に、わたしは空想でしかなかったものが真実になっていることを強く思った。
「もう四時半か。長門、あとどこか行きたいところはあるか?」
食事を終えた後、近くの河川敷を散策し、ソフトクリームを買って食べ歩き、露天商を冷やかす。
わたしたちは普通のカップルのようなことをして、時間はあっという間に過ぎた。
そして彼が聞いてきたとき、わたしの中では最後にどこへ行くか決まっていた。
「……図書館へ」
図書館はさすがに土曜日とあって、それなりに混んでいた。
わたしはつつっと、奥を目指して歩みを進める。
彼も黙ってついてきてくれた。
奥まったところにSFコーナーはあった。
そこに足を踏み入れたとき、一冊の本がわたしの目を引いた。
それは、部室にもある本。彼が挟まれてあったしおりを目にし、目の色を変えたあの本だ。
なにげなくその本を手に取り、開く――
「!」
時が止まったかのように思えた。いや止まっているのかもしれない。
振り返ると、彼はいなかった。それどころか、ここが図書館なのかもわからない。
『……』
「誰?」
何者かの気配を感じ、誰何の声を出す。
『長門有希』
その声は、わたしそっくりだった。
『あなたのいる世界は、あと数分で消える』
「……なぜ?」
『彼がエンターキーを押した時点で、あなたの世界は虚構世界へと移行した』
「……」
『現在、あなたの世界は意識不明状態にある彼の意識上に展開されている』
「そんな……」
『現実世界の彼は、午後五時に目覚める。そうすれば、あなたの世界は消える』
「何か方法は……?」
『ない。これがわたしの限界』
「……」
向こうのわたしは、ややためらうように、
『ごめんなさい』
と言った。付け足すように、
『最後の数分は干渉しない。あなたはあなたが思う行動を取れ』
そう言い残し、世界は元に戻った。
「長門?」
本を開いたまま動かないわたしを心配し、彼が声をかける。
わたしは、それには答えずまず時間を確認した。四時五十五分。そして本を本棚へと戻す。
そして、彼のほうを向く。
「どうした? 長門」
わたしの態度がおかしいことに気付いたのか、彼が再び疑問符をつける。
「……わたしはあなたに会ったことがある、学校外で」
「……?」
唐突な話題に彼が把握しかねるような表情を取る。
「覚えてる?」
「何を?」
「図書館のこと」
「それはこの間――」
「今年の五月、あなたがカードを作ってくれた」
「……」
「今日の洋服売り場のように、困っていたわたしを、助けてくれた」
それが、
「あなただった」
「長門……」
目に涙が浮かんでくる。
「あのとき会ったときから」
わたしは、
「あなたのことを、片時も忘れることはなかった」
涙がほおをなで、つたっていく。止まらなかった。
「あなたのことが、好きだった……」
涙はあふれるままに任せて、目を閉じる。顔を上向け、唇を心持ち突き出して待つ。
やや間を空けたあと、躊躇いながら彼が顔を寄せてくる雰囲気を感じ――
夢だったのかもしれない。しかし俺の脳裏は否と答えていた。
ハルヒを見失い、また見つけたあのとき。朝比奈さんのあの他人を見るような目。
長門に感じた初々しさ。古泉のいたクラスが消え失せていたときの驚き。
SOS団員の再結集。七夕への跳躍。朝比奈さん(大)との邂逅。
そして、長門に再び会い、朝倉に刺されて意識を喪失した、あの記憶。
そう、すべて俺は覚えている。すべて……
なぜか俺の目から涙が出ていた。なぜだ? 朝倉に刺されたショックが今頃ぶりかえしやがったのか?
何もわからないまま、俺は古泉がその場にいるのも忘れ、泣いた。
しばらくして平静を取り戻した俺は古泉から詳細を聞き、ハルヒを怒らせ、朝比奈さんを泣かせた。
そして夜も更け、面会時間も過ぎた頃に、長門がやってきた。
「情報統合思念体がわたしの処分を検討している」
異常動作を起こし、世界を改変した件についてだそうだ。
「くそったれと伝えろ」
俺は吐き捨てた。
「お前の親玉に言ってくれ。お前が消えるなり居なくなるなりしたら、いいか? 俺は暴れるぞ。
何としてでもお前を取り戻しに行く。俺には何の能もないが、ハルヒをたきつけることぐらいはできるんだ」
怒りに身を任せ、言葉を連ねる。
「つべこべぬかすならハルヒと一緒に今度こそ世界を作り変えてやる。あの三日間みたいに……?」
ここまで話したところで何かが頭をよぎった。
「……長門?」
「なに」
「……いや、とにかくお前はいるが情報統合思念体なんぞはいない世界をな。そう伝えろ」
釈然としないものを感じつつも、言い終える。
長門はただ、俺をじっと見つめたまま、ゆっくりとうなずき、
「伝える」
やはり平坦な声で呟いた。
「ありがとう」