俺は泣いた。  
 この事実を長門から説明されたとき、古泉と朝比奈さん、そして長門の前で俺は泣いた。  
「桜は咲いた。その事実は消えない。  
 だがな、なぜ俺は死ぬんだ? 生き続けちゃだめなのか?  
 なんで俺が生きている、この事実だけが反故にされるんだっ!?」  
 
「…………」  
 長門は何も答えてくれなかった。  
 
「涼宮さんが、そう望んだからでは?」  
 古泉は笑っていた。普段と変わらない笑顔だった。  
 
「規定事項です」  
 この宣告が彼女、朝比奈さん(小)の最後の勤めだったのか、肩の荷が下りたようは満足げな表情だ……。  
 
 
 もう、なにも考えられない。いや……。  
 明日。  
 卒業式。  
 なにもかも話そう。何も変わらないかもしれない。  
 それでもいい。  
 
 
 ハルヒ。  
 満開の桜。繚乱する花弁。暖かい日差し。そして柔らかい追い風。  
 旅立つには最高のシチュエーションだ。ありがとな。  
 何かを残してやれるわけでもない。  
 『すきだよ』  
 こんな言葉を遺すわけにもいかない。だが……。  
 長年連れ添った相棒のようなセリフには出番は無い。悪いな。  
 ああ、もう視界が消えている。  
 だが、そっと呟くくらいならいいだろう? もう口は無いんだろうが。  
 
 ハルヒ……。  
 
 『すきだったよ』  
 
 
 
 『すきだったよ』  
 
 
「こぉんのっアホキョーンっ!!」  
 すさまじい衝撃に、俺は意識を喪失するどころか、逆に眩暈がするほどの現実感に引き戻された。  
 あれ?  
「あんたっ!――あんたねぇ! 今頃になってやっと白状したと思ったら、なに? 過去形で告白すんのが流行りなわけ!?  
 いくら寛大なあたしだって呆れ果てすぎちゃって、拒絶の返事もでてきやしないわよフン!」  
 ハルヒ……? ハルヒ!  
 真っ赤になって背中を向けた見なれた団長の後姿が見えた。  
 プルプル震えている握り拳。あれで殴られたのか……大丈夫か? 手。  
 しかし、これはいったいどういうことだ? あれは夢じゃなかったはずだ。俺は奇跡のような桜の中で……。  
 そっと風が俺を撫で付けた。春の日の……桜の匂い。  
 窓辺で読書に励む長門。開け放たれた窓からの風。窓の外には……満開の桜。  
 俺は周囲を見まわした。  
 見なれた面々。見なれない、しかい、どこか懐かしい間取りの校舎の一室。背を向けたハルヒのうなじは桜色で、その上でポニーテールが落ち付かなげに揺れている。これは……。  
 ハルヒに長門、古泉と朝比奈さん。そして俺。  
 全員が着慣れないカジュアルなスーツに身を包んでいる。十年ちょっと遅い七五三か? いや、問題はそこじゃない。  
「どうしたんです? 狐につままれたような顔をなさってますよ。  
 今日は大学の入学式。ここは長門さんが確保してくれたサークル用の部室です。  
 そして、あなたは今、我々の面前で臆面も泣く涼宮さんに愛の告白をなさった。見せ付けてくれます。正直侮っていましたよ」  
 いつもの笑い男が、いつものように笑いながら肩を竦めていた。  
 だが、俺が白昼夢を見ていたと可能性はこれで消えただろう。いくら蘊蓄王でも、いまのは明らかに説明口調だ。  
「いったいどうなってる?」  
   
「涼宮さんが、そう望んだからでは?」  
 古泉は笑っていた。普段と変わらない笑顔だった。  
 
「規定事項です」  
 この宣告が彼女、朝比奈さん(小)の最後の勤めだったのか、肩の荷が下りたようは満足げな表情だ。  
 
 パタン。本を閉じる音が耳に入り、目を向けると長門が立ち上がってこちらに近付いてきた。  
 透徹した、それでも暖かみのあるブラックオパールのような瞳がほんの少しだけ細められ、おかえりなさいと囁いた気がした。  
「最後の情報フレアを観測した。1分37秒前にこの世界は安定し、涼宮ハルヒはその能力の凡てを失った。  
 だが、あなたはここにいる。そしてわたし達も」  
「キョンくんが居なくなった瞬間から時間平面が複雑に増殖・分岐していったの。  
 キョンくんが居る世界。居ない世界。キュンくんやピョンくんが居る世界。  
 でも、それらは全部収束していって、ただ一つ、キョンくん、あなたが世界に統合されたです」  
「あの時、朝比奈さんが落ち付いていたのは、この結末を未来から知らされていたからではありません。  
 信じていたのですよ。涼宮ハルヒという奇跡を。僕達も」  
 
 
 世界改変。そういって構わないんだろうか。  
 長門の処置によって記憶を保ったままの三人。ハルヒだけはあの時俺が話した内容と、それ以降の大騒動の記憶は無いらしい。  
 随分と都合のいい脳みそをお持ちでうらやましい限りだ。  
 だが待てよ。すると俺があれほど取り乱した末に、自己陶酔に浸りながら去っていこうとしたあのシーンは徒労だったのか?  
「……そうではない。あなたの最後の呟きを涼宮ハルヒは感じ取ったのだと思われる。  
 それが……差し込まれた鍵。わたし達はそれをまわしただけ」  
 そうか、苦労をかけちまったな。  
「いい。それよりあなたには卒業式からの現在までの記憶がない。  
 この世界が持つただ一つの過去、『わたし達が過ごしてきた何事も無い日常の記憶』。  
 その記憶情報をあなたに伝達する必要がある」  
 
 それはマズイが、今日くらいはなんとか誤魔化してみるさ。なにしろ長門の処置といえば……さすがにココではできないだろ?  
「そう……後でわたしの家に。夕食等も用意する」  
 ……俺の記憶に無い時期に何かあったんだろうか。上目遣いの長門なんて初めて見たんだが……。『等』ってなんだ?  
 まぁいいさ。よろしく頼む。  
 長門が頷くと、駆け寄ってきたハルヒがなにかの用紙を押しつけてきた。  
「あんたってフラフラして頼りないイメージだからちゃんと書面に残しとかないとねっ!  
 今日からSOS団大学編の始まりなんだから、ちゃっちゃと入団届に書き込む事!!」  
 わかったよ。このテンションなら今日はこいつに引きまわされるだけで、俺が口を滑らせる事も無さそうだ。  
 綻びそうになる表情を無理矢理しかめさせながら、俺は急遽用意したらしい入団届にサインを書き入れた。  
   
 …………なんで2枚目があるのかと思ってはいた。いたが……どんな理由でこんなモン持ち歩いてんだ?  
「ふえぇ〜、こ、婚姻届ですかぁ……」  
 むぅ、朝比奈さんに先を越されたか。  
 ハルヒはといえば、少し離れたところで腕組みしながらチラチラとこちらを伺ってやがる。  
 かっ書き込むと思ってるのか!? 入学式らしいから印鑑も持ち歩いてる気がヒシヒシと……。  
 悪魔との契約書を前にしたファウストのように、ペン先を震わせながら自分の本名を思い出すべきか頭を悩ませていると、スーツのネクタイがグイと引かれた。  
 どうしたんだ長門。助けてくれるのか?  
「……可及的速やかに記憶情報の伝達行う必要があると判断する。許可を」  
 いや後で、とは言えなかった。なにしろ口を開く前に長門に噛みつかれていたからな。唇に……。  
「!!っ。ちょっと! 何やってののよフシダラキョン!!」  
 俺は何も。しかしハルヒの視点から見ればこれは噛みつきには見えなかったんだろうな。血相を変えて引き剥がしに来た。  
 長門がねばるものだから、噛まれた下唇がオィーッスになったのはご愛嬌だ。  
 まぁ、笑う余裕はなかったんだかな。ガツンとの衝撃とそれに伴った目の前の流星群が落ち着いた時には、ハルヒは長門を抱えて何やら説得してやがった。  
「わ、悪いのはキョンだから気にしないのよ、有希。ささっ、早いトコ口をすすぎに行きましょっ!! こういう時は泥水でうがいするのが定番なのよ」  
 イジメか?  
「……洗い流すつもりはない。一週間はこの余韻を維持する」  
 虫歯になるぞ?  
「有希!? あいつはあたしのものなんだからそんなの……そうね、間接キスってアリなのかしら?」  
 ……お前は何を考えてるんだ?  
 恐ろしい論理の飛躍だが、ハルヒならやりかねない。長門もそう考えたのか口元を両手で覆って部屋から飛び出していった。  
「あっ! こら待ちなさい!」  
「あぁ、待って下さい、涼宮さぁ〜ん」  
 その後を追って駆け出すハルヒ。そして何故か朝比奈さんまでそこに追随する。  
 
 この調子だと、改めて宣伝活動をする必要がなくなるくらい、構内に噂と騒動をばら蒔いて戻ってくるんだろうな。  
 SOS団大学編か。隠す必要はないだろう? ああ、楽しみさ。  
 窓の外には満開の桜。開け放たれた窓からの風。  
 窓辺に立つ古泉と目があった。なにか言いたそうだな。  
 
「いえ、新年度最初のアレを拝聴する栄誉を賜る幸運に感謝してるところです」  
 
 なんだよ。やっぱり俺はこう締めくくる運命にあるのかね。  
 窓の外で繰り広げられる愛らしい追い駈けっこを眺めやりながら、こう呟くのだった。  
 
 
 やれやれ。  
 
 

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