平成十九年の三月中旬のある日です。  
 その日、かねてよりの私の頭を悩ませていた謎がようやく消え去ったのです。偶然の結果めぐり合った謎は  
頭の片隅に図々しくも居座り続け、絶えず私を刺激し続けてきました。何をしていても心の片隅で、出番  
はまだか、とでしゃばる隙をうかがっています。  
 突然抱え込むこととなった懸案をいつまでたっても退治できない。そんな日々にやきもきして、普段の生  
活をまるごとほっぽり出して謎解きだけに没頭したくなった瞬間もありました。  
 煮え切らない状態にもはや我慢ならなくなるほど時間が過ぎて、ようやくけりをつけることができたのです。  
真相の上に積み重なったほこりを、閃きは容易く取り払い照らし出します。道は切り開かれて、突風が吹  
き飛ばしたように不可解はどこかへ行っていました。  
 どれだけの時間を思索に費やし、季節が通り過ぎたでしょう。一つ二つでは数えたりないのです。ですから  
晴れることはないと思われていたもやもやが消え去った時には、これでもかというほどの清々しい気持ちを覚  
えました。  
 ただ落とし穴がありました。その奥に隠されていたカラクリは奇怪な謎とは裏腹、ひどく単純で幼稚なもの  
だったのです。真相を知った私の中に巻き起こった感情といえば、氷解の疑問から導き出される歓喜とは  
程遠い、落胆に似た納得だけでした。広大で真っさらな空間に一粒だけぽとりと落とされた感覚に、手を  
打ち合わせて驚嘆することもなく、なるほどね、とこぼしただけです。空虚でくだらないとさえ思いました。  
 じれったい思いで過ごした年月とは見合いそうもないが、さりとて残念な出来事でもない。謎解き自体は  
有意義だった。自分の感情に片をつけると、謎の存在そのものを葬って以前よりも仕事をこなすよう決めま  
した。  
 だからでしょうか。楔を打ち込んだあの日から一週間が過ぎて、定例会議を終えて戻る道の最中、ここ最  
近森さんずっと嬉しそうですね、いいことあったんですか、とメンバーに尋ねられた時、私は驚きました。そんな  
まさかと思い、一旦足を止めて唇の形を指でなぞって確かめると、浅い皿の底のような曲線を描いています。  
傍目から見れば間違いなく微笑んでいるように見えるでしょう。目元もきっと。  
 人の流れにまた乗りながら、機微を悟られないようにゆっくり時間をかけて原因を探します。謎解きに縛ら  
れていた抑圧からの解放でしょうか。  
 まさか私は年甲斐もなく浮かれて、自覚さえもたずにいたのでしょうか。嘘をついてもしかたありませんから、  
己を恥じながら事実を認めます。よほどひどかったんでしょうねとたずね返すと、ひどくなんてありません、それ  
はもう至福の笑顔ですよ、毎日充実している様な。と評されます。噂好きで、あいつはどうも大げさだね、と  
語られるメンバーの言うことですから信じられたものではありませんが……  
 のめりこむほどではないと思いながら、知らぬ間に心へと刻み付けられていたのでしょう。表情はおろか雰囲  
気や言動からもにじみ出ていたかもしれません。もっと自制して歩かなければ下の者にも示しがつかない。デ  
スクへと戻り、私が漏れたあたりをつけている間も追求をやめないメンバーの騒ぎ声を聞いて、他のメンバー  
が寄ってきました。曰く。  
 ――あの森さんがニコニコ顔で仕事しているんですよ。移動の際にはステップを踏んで華麗にターンを決めも  
する。背中に「理由を聞いてみて、早く聞いてみて」と大きく書いてあるんです。信じられない。  
 そう聞こえてくれば、まさかつい先ほども、なんて考えます。  
 らしからぬ行動だからでしょう皆大盛り上がりです。あぁ私も見ましたよ、と嫌な合いの手さえも交えられ  
ます。  
 
 藪をつついて蛇を出すわけにもいかず、いつか静かになるでしょうと放っていましたが、気付けば好奇の眼  
差しばかりが増えてこちらへと注がれ、誰も自分の持ち場に帰ろうとしません。  
 これは、退屈を持て余したメンバーの暇つぶし材料とされることの予兆か。娯楽に餓えてフロアを徘徊し、  
人を茶化して羽目を外すような年頃でもないはずです。「いいかげん戻りなさい」と一睨みしますが、どうも  
皆獲物を逃すまいとしているのか収まりません。次から次につられてまた人が寄ってきて、説明はその度大  
げさになっていきます。  
 視線にかまわず無言を貫いていましたが、思う以上に興味をそそる話題だったらしく、しばらくすれば私は  
取り囲まれて、話の種を提供する段取りとなっていました。  
 休憩時間にはまだ少し早いのですがメンバー間には既に雑談ムードが蔓延しています。ネクタイを緩め  
ると机の上にだらしなく伸びる者がいれば、もう当番の手によって紅茶と茶菓子が席に用意されていま  
す。おもちゃにされては面白くない。きっかけを作ったメンバーも気楽なもので、飴を頬張りながら急かしてき  
ます。  
 娯楽の要素なんてかけらもないから、期待にはそえないわよ、と前置きすれば森さんなら大丈夫と無責  
任なまでのなぐさめに促されます。幾度も暗に否定しますが受け入れられない。  
 観念するべきでしょうか。疑問をいつまでも自分の気持ちの中にしまっておくことはできません。誰かに向  
けて吐き出したい本能があります。考え方如何によってはまたとない機会でしょうが、私の口元の様子が  
穏やかでない理由はひどくいびつではないかと思います。オチだけ明かして解散させればいいのかもしれませ  
んが……いいでしょう。  
 私が口を開いたのは、なるたけ言葉を選びながら喋ろう、邪推されるようならすぐに打ち切ってしまおうと  
決めてからでした。  
 
 
 機関に所属する古泉一樹。今は外出しているのですが、私がその古泉の立ち振る舞いに引っ掛かりを  
発見したことがきっかけです。去年の今頃でした。  
 その日私は、たまたまトレーニングルームに設置されている自販機の前に立っている古泉の姿を目の当たり  
にしたのです。トレーニングを終えたばかりのようで、半そでを肩までまくり、額からは汗が伝っていました。硬  
貨を投入する瞬間から、銘柄を選択するボタンとボタンの間を指が迷い、水分補給のジュースを飲み干し、  
缶を捨てて角に消えていく間までの数分。私は衝立の陰に身を潜めて、古泉の一挙手一投足を見逃すま  
いと考えていました。古泉の動きに釘付けとなっていたのです。  
 たった今、日常から非日常へと足を踏み入れた。自分の内に張られている白く細い糸が緊張し、そう教えて  
くるようでした。  
 ある決まった条件下で古泉の動作にはほんの数秒、わずかなとまどいが生れるのです。財布の中で何枚  
残っていたのかもわからない硬貨や、どこかにつっこんだまま忘れた切符の在り処を探すような意識下のとま  
どいではありません。もっと原始的な、無意識のうちに行う情景反射に似たものです。  
 よどみのない動作は途絶え、不審なそぶりを見せてからまた日常へと溶け込んでいき、いつしかまた繰り返  
します。  
 街中を歩いていると、意地の悪い友人から大きな声で呼び止められた小心者の姿を思い描いてもらえば  
いいかもしれません。頭から背中までぴくりと震える様子は、ささいな動きですが後ろから見ているとこっけいな  
ほどです。  
 
 硬貨を投入する瞬間だけではありません、駅の改札口を通過する時や、部屋のドアーを開錠する時も同  
様でした。  
 ここで一息つき、ちなみに誰か心当たりのある人はと周囲を見回してから、ちょうど飲みやすい温度になった  
紅茶でのどを潤します。メンバーは互いの顔を見合わせます。隣同士から、端と端の者同士まで次々視線が  
交錯し絡みあいました。  
 しかし誰もが初耳だったようで、私の観察眼に感心するか、古泉にそんな癖あったのかと疑惑を抱くのみで  
す。諜報活動も行う機関員に向けて、探偵のようだと称して褒め言葉と拍手を贈られてもいかんせん喜べな  
いのです。  
 ちんぷんかんぷんだが説明は理解している、だがそれと私の笑顔がどう関係あるのかと言っています。余計  
急かされる結果を招いただけのようで、人払いはできなくてもどうにか抜け出せないものかと考えながらしか  
たなく続けます。  
 最初、私はこっそり面白がっていただけですが、あまりに毎回繰り返すので次第に好奇心が強くなってきま  
した。誰かに打ち明けるよりも先に我慢できなくなり、原因を突き止めてみようと思ったのですがこれが難航し  
ました。  
 四六時中古泉と一緒にいるわけでもないし、現場では似たシーンをまた垣間見るだけで実りに欠ける。地  
道に、要点をピックアップして共通点を見つけることから始めようにも、どうも絞り込めない。  
 
 屋内屋外といった場所によって影響されはしないようです。昼夜の時間も問いません。前触れもなく突如  
表れるのです。また古泉以外の人物から引っ掛かりを覚えたことはありません。  
 メンタル的な発作の類かと思ってもみました。仕事が仕事ですから、重圧に耐え切れずストレスによって体  
調を崩す例も報告されています。機関内にはそれ専門のスタッフが常駐し、古泉のような超能力者にはカウン  
セリングの時間が設けられています。外部医師に委託する場合もあります。もしかするとずっと深刻な問題な  
のかと懸念を抱いたのですが、医師に伺っても古泉に症状や傾向は認められないそうです。  
 手繰り寄せるための一本の糸さえ見出せない。いつまでたっても泣き止まないと知っている赤子をあやすよ  
うなもどかしさがありました。無意識の動作ですから本人に尋ねたって明確な答えは返ってこないでしょう。あ  
ざ笑うかのようにつきまとう謎にただ降参するのはしゃくでしたから。何故こうも惹かれるのかわからないまま、  
いつまでかかったとしても、独力で点と点を結び付けみようと私は観察を継続しました。  
「そして――」  
「ただいま帰りました。何やら盛り上がっているようですね、僕も宴に加えてもらいたいのですが」  
 事の発端となった人物がやってきました。片手を挙げて挨拶します。後ろには運転手として同行していた  
新川の姿も見えます。  
 おかえりなさい、お疲れ様の言葉に迎えられます。労いの言葉感謝します、おかげ様で……なんて受け答  
えしている間も古泉は笑顔を絶やしません。が、普段は休憩室にいても散り散りになっているメンバーが、一  
箇所に集って顔を寄せ合うようにしている。しわぶきひとつなく私の話に耳を傾ける光景を珍しく思っているよ  
うです。  
「古泉、あなたの話をしていたのよ」  
「僕ですか? 怖いですね内容を聞くのが」  
 
 上着を脱ぐと背もたれにかけて、顔を斜めにすると天井に眼を投げました。深く息を吐いてもたれかかると  
そのまま椅子からずり落ちそうでおっと、と座りなおします。自覚症状はなくてもやはり学生業と機関員の兼  
務は堪えるのでしょうか。疲労がたまっているようです。  
「ほら、ジーンズの件よ。ちょっと前にでも教えてあげたでしょう」  
 これだけでも十分伝わったようで、古泉は眉間を指で押さえてもみほぐします。どうも触れられることを好まな  
いようです。  
「……ずいぶんまずいタイミングで帰ってきてしまったようで。どこまで詳らかになったのでしょうか」  
「まだ序の口よ。改札や自販機の前での挙動不審な姿に私が興味を持った。我慢できず密かに探ってみよう  
と決心した。その説明が終わったばかりで原因は明らかになっていないわ」  
 そこが一番重要な気がするのですけれど、困りましたね、とぎこちない調子で両の掌を上にします。  
「その先は秘密にしておきませんか? 少しばかり情けないエピソードですから、どうかお願いしたいのです。  
それにまだあの癖はちっとも治っていないんですよ。もう広まってしまった後ですけれど、必要以上に注目され  
てしまうと恥ずかしいので。これからは気配を確かめてからジュースを買わないといけないなんて、とてもとて  
も気が休まりません」  
 古泉も覚悟していたでしょうが、周囲はそれじゃあ面白くないだろう、自分をさらけ出せよという非難の声ば  
かりです。確かに聞く側からすれば、今、お預けをくらってはたまらないでしょうね。  
 しかし古泉は知られたくない。私は喋りたくない。丁度いい。休憩時間の暇つぶしの一環だから、どうせ明日  
になれば話題に上ったことさえほとんどのメンバーは忘れているでしょう。ならばここで煙に巻いてしまえばもう  
こちらのものか。  
「いいわ。じゃあここまで。私だけが頭をひねっただなんて損だしね、後は各自知恵を絞って考えなさい」  
 お開きにしましょうかの言葉と同時に、予想通り一斉にブーイングが沸き起こります。  
「誰かが出した答えを聞いて待つだけのつもり? それに教えてあげないなんて言っていないでしょう。今は駄  
目。ヒントが出たでしょう、ジーンズ。私はノーヒントの状態から推理を始めたんだからコレだって譲歩している  
形よ。もちろん真相にたどり着いた場合ぼかしたりせずに正解だって認めるわ」  
 まだ文句を連ねるようですが譲るつもりはありません。理由は他にもあります。先ほどのあまりに機関員とし  
て緊張感にかけただらしない態度。涼宮さんの精神が安定するにしたがって危機感を忘れているようですが、  
それを乱そうとする輩も多く存在します。敵対勢力を排斥することが本分にさえなりつつあるのですから。不要  
な弛みと馴れ合いを絶つためにも、享受するばかりの姿勢をこの機会に改めさせます。  
「助かります」  
「私のほうにも考えがあってね。意見の一致をみたのよ」  
 誰かが挙手しました。きっかけとなったメンバーでした。笑顔は推理をする上で必要になるんですか? と言  
います。  
 古泉が眼を瞬かせます。そう、古泉は居合わせていませんでしたね。この話の起点だから外せないポイント  
なのかどうか聞いているのよ、と付け加えました。一拍空けてあけてから、  
「はぁ」  
 気の抜けたようなあくびのような声を出す古泉。きっと意外に思っているのでしょう。  
 
 単純にここしばらく満面のそれとは縁遠かったですし、古泉の中に笑顔の私というイメージがないのかもしれま  
せん。実際部下には厳しくあるべきだと、そのつもりで接してきました。  
 それに私が指摘した時は、閉鎖空間での報告を受けるついでに二言三言述べただけですから。あの時ばか  
りは間違いなく笑顔でなかったと断言できます。我が事ながら意識になかった事実を指摘された古泉のひど  
くうろたえる姿が思い出されました。回答を求めているのか視線をこちらによこしてきます。  
「……よっぽど嬉しかったんでしょうね、私は。笑顔だったなんて認めたくないけれど」  
「でしょうねって、自分のことなのに。自覚してください」  
「だから混乱の真っ只中よ。さっぱり整理できない」  
「堂々振舞っているようにしか見えませんよ」  
 そんなつもりはないのだけれど。  
「直接の関係ないわ。私が浮かれていただけなんだから。それよりも古泉の行動の謎を探りなさい」  
 これ以上聞いても仕方がないと判断したのか一旦、皆、黙ります。真面目に思惟にふけっているようで誰も  
がどんどん難しい顔つきとなり、紛らわせるように机を一定のリズムで小突いたり、髪をかきながら部屋の中  
をせかせか往ったり来たりします。なるほど、物音はしますが無駄口を叩こうとはしません。もしや杞憂だった  
かと思いましたがまだまだ。知恵を絞ってじっくり挑んでもらいます。  
 私は飲みかけの紅茶をすすりながら、ぼんやりと古泉たちを視界に捕らえ、つい最近まで頭を悩ませていた  
懸案と、自身がこれまで言った内容を順になぞっていました。  
 古泉の不審な動きや、直感的な閃きに救われるまで謎と格闘していた時の、あの、脳を外へと押し出され  
るような感覚といった、この空間を作り上げている要素がそろって甦ってきます。  
 派手な事件ではありませんが私の関心を引くには十分でした、そしてそれが膨れ上がった結果この時間を  
もたらしたのですから不思議なものです。  
 自分の手で紅茶を継ぎ足しながら時計の針の動きを追います。解決済みの私は手持ち無沙汰でほかに  
することもありません。  
 ややあって同じく暇を持て余し気味だった古泉が口を開きます。いかにもこともなげに。  
「ヒントはいかがですか。きっと重要な手がかりとなりますよ」  
「あら、いいの? 自分の首を絞めることになるのよ」  
「サービス精神旺盛なんですよ」  
 退屈に耐えかねたのではなく心からそう言っている様子でした。古泉が席を立ち上がってこちらにやってくる  
と耳打ちしてきます。  
「奇妙なものですね。知られたくないようで知られたいんです。変な奴だと言われたのに、嬉しいようなこそば  
ゆいようなあの気持ちに似ています。加えてかけがえのない同志がうんうん唸っている姿を見ると、どうも手を  
差し伸べずにはいられません。ひょっとすると道化師となって人に娯楽を提供することが病み付きになったの  
かもしれませんね」  
「じゃあ今度はあなたが死体役になりなさい」  
 二人でこそこそ喋っているんじゃないよ、というメンバーに、  
「失礼。では無駄なことは言いませんから聞き逃さないでください。さてジーンズなのですけれど。僕が機関の  
仕事で初めて得た給料で買ったのが何を隠そうジーンズなんです。中学一年生になって、生意気におしゃれ  
になりたかったんですよ」  
 
 古泉は続けます。給料が振り込まれる口座を持っていなかったものですからわざわざ開いたんですよ。郵便  
局に判子と千円札を持って行ってね。口座を作りたいんですけれど、と窓口のお姉さんに伝えるだけなのに、  
ずいぶん緊張したことを覚えています、できあがった通帳には頬擦りしたくらいですよ、なんて饒舌なまでに思  
い出を語っています。  
「念願かなってジーンズを手に入れて。機関に来る時しょっちゅうはいていましたよ、覚えていませんか? 成  
長期を見越してわざと大きめのサイズを買って、丈も詰めず、折ってはいてた黒っぽいジーンズですよ」  
 誰かが、あぁ、と言いました。私はお世辞にも清潔そうに見えないジーンズを思い出しました。  
「両膝の部分なんて翌月には破れてしまって。どこもかしこも穴だらけだったのですけれど接ぎもせず、逆にそ  
れが格好いいと思ってはき続けたんですよ。ついには新川さんにだらしないと注意されちゃいましたね。本当  
にボロ雑巾と見間違うくらいまでお世話となりました。僕が高校へ入学しても現役だったのですけれど、まぁ、  
転校と同時にイメージの都合で引退しまして。今はタンスの奥でぐっすり眠っています。  
 つまり、あのジーンズ無しでは僕の機関生活が語れない位です……さて今の話を加味してもう一度最初か  
ら練り直してください。重要なキーワードが含まれていました」  
 パン、と激しく膝を叩く音が聞こえました。若い男のメンバーです。  
 ――わかったよ、ジーンズのチャックでアレをはさんだんだね! 相当恥ずかしいからね!  
 その場にいた全員が呆気にとられてから、ケラケラと笑い声が起こります。  
「ははっ、残念。違います。前半の展開がすっぽり抜け落ちていますよ。でも狙いどころはあながち間違いでも  
ありませんね、その発想であたっていけばいずれ事件の輪郭が鮮やかになってくるかと」  
「やぁ、こんにちは。一樹君、ジーンズのチャックでアレをはさんだんだって? 痛いよね、わかるよ。持つべき  
ものは友だな、色んな意味で」  
 遅れてやってきた多丸圭一と裕の姿が見えます。先ほどの波を飲み込むような悲鳴交じりの笑い声が起こ  
ります。  
 圭一の方は席にどかりと座り込んで「疲れたねえ。お茶をもらえるかい」と言っていますが、裕は大きな荷物  
箱を抱えているのにも関らず欠片も疲労していません。箱を撫で回すと中身を取り出します。もしや、あれは  
苦痛の原因ではなく元気の源なのでしょうか、休憩時間にどこまで行って一体何を持ってきたのか。  
「wiiを手に入れたんですよ。ほら、ニュースでもしょっちゅう取り上げるくらい大人気でしょう。どこへ行っても品  
切れだったものでついには予約までしてね。入荷を今か今か、と待っていましたが店から連絡があったので、  
近場ですからさっき抜け出してきてようやく!」  
 喜びを押さえ切れないのでしょうか、多丸裕は「いやあ楽しみだ」などと鼻歌を口ずさんでテレビと本体ケ  
ーブルを接続します。セッティングが終了し、スティック型のコントローラを操作するとゴルフゲームが始まりま  
す。裕の盛り上がりに引っ張られて、次第に興味と雰囲気は推理からゴルフへと移行していきます。  
 一通りコースを回り終わると裕が隣の席へとプレイを勧め、コントローラが端から順に巡るうち、一樹君もどう  
だい、とお鉢が回ってきました。  
 では、と古泉は画面正面に陣取り、ストラップをはめて軽く素振りします。本人の好きなジャンルですから目  
の奥に光が宿っているのはわかりますが、どうもギラついてやまないほど楽しみなようです。最も簡単なコ  
ースが選択されます。  
 
 やけに入れ込む性質ですから、今は上下に変動するメーター値以外は視界に入ってこないようです。シ  
ョットの方向を決める際、必要もないのに体ごとそちらに傾くものですから噴出して手を叩く者がいたのですがそ  
れさえ意識の外。  
 一打目は、メーターのピークを狙ったつもりが指と意識にタイムラグがあるせいで、結果半分もたまってもい  
ない状態で放たれました。ミスショット。二打目はそこをクリアしたものの方向が正反対でバンカーへ一直線。  
どちらも素人とはいえお粗末なものでした。本気を出します、なんて言っています。  
 必要以上にぶんぶんと振り回しながらテレビに近づいていくので、予想される事態に備えて身構えます。古  
泉の内面的な昂ぶりも最高潮のようですから、そろそろでしょうか。  
 次のショットの際に勢いあまって手首からすっぽ抜けたコントローラは、幸い誰にぶつかることもなく隅の観葉  
植物まで弧を描いて飛んでいき、鉢の中に隠れました。古泉はぽかんとしていましたが、すぐに身を縮こませ  
るようにしてコントローラを拾いに向かいます。  
「ヒートアップしすぎたね、どうなるなっちゃうのか冷や冷やしたよ」  
「壊しちゃ駄目だよ、それに危なっかしいね。もっと落ち着かないと」  
 圭一と裕が笑いながらたしなめます。  
「すいませんでした。集中すると無意識のうちにやってしまうんです。アナログゲームでもしょっちゅう駒を指か  
ら滑らせたり、度を超えて長考するものですから相手から怒られたり。早急に改善しないといけません」  
 コントローラについた土を払い、頭をかく古泉。そんな簡単に変えられるとは多分、圭一も裕も本人も思って  
いないでしょう。  
 ゲームに参加せず黙って立っていた新川が、ふと口を開きます。  
「ゲームも一区切りついたようですしよろしいでしょうか。実は今日、携帯電話を新調しまして。もうずいぶん長  
い間使っていたせいなのかナンバー……何と言いましたか、そう、運悪くMNP適用外だったので電話番号が  
変更となりました。全員集合している今のうちに新しい番号をお教えします。ご準備願えますか」  
 新川が言い終わるよりも先に、皆携帯電話を手にしていました。用件は一つでしょう。転送の手段はいくつ  
もありますが口頭で行うようです。  
「準備はよろしいですかな」  
 いつでも、と言います。  
「すいませんもう少し待ってもらえますか。ええと、どこにやってしまったのか」  
 古泉がポケットを叩いています。携帯電話を手にしていないのはもう古泉だけです。年かさの者を待たせて  
いる状況に焦りがひどくなり、昨日の時点ではあったのですけれど、就寝前に本部へメール送信したんです、と  
体中のポケットをまさぐって次に鞄を漁ります。  
「肌身離さず持っているのに本当どこへ置き忘れてしまったのか。メモを取ってあとでデータに移しておきます。  
お願いします」  
「一樹君これを使ったらどうだい」  
 wiiのコントローラを携帯電話に見たてると、耳に押し当てて裕が言いました。それに乗っかった圭一と即  
興のやりとりをします。  
 
「もうっ。勘弁してください」  
「ははは、今日は全くいいところがありませんな。では、080−……」  
 しゃがれた声でナンバーとメールアドレスが読み上げられ、登録が完了すると、気の早い者はもう新川にメ  
ールを送っていました。  
 私はため息を一つつきます。皆察したようでめいめいの仕事に戻ります。休憩時間はとうに終わりを告げて  
いたのですが誰も触れようとしませんでした。  
 誰かが、しかし携帯電話どこにおいてきちゃったんだろうね、と言いました。新川は「車の中を見てきます」と  
車の鍵を持って部屋を出て行きます。  
 機関の連絡は基本的に携帯電話を通じて行われます。閉鎖空間の発生などいち早く情報を手に入れる  
ためにはやはり通信機器に頼ることとなり、情報改変の内容によっては早急な対応と人員数が求められます  
から、どうしても全員分のアドレスが必要不可欠となります。  
 つながらなくなってから初めて機種変更による不通だと理由を知り、後日改めて相手の番号を知っては遅い  
のです。新川が切り出したのもそういった理由からでしょう。前線の超能力者につながらないなどあってはなら  
ないのです、仮のものでも今日中に用意させなければなりません。  
「まったくです、繕う言葉も見当たりません。しかし本当どこにやってしまったのやら。見つかるとは限りません  
から買い替えの準備、いや、それよりもまず悪用されないよう電話会社へと連絡をするべきでしょうか」  
「昨日まであったんでしょう。なら枕元にでも置きっぱなしじゃないの」  
「いえ、朝出かける時忘れないようしっかりと」  
「じゃあ学校の教室じゃないの。次に部室」  
「学校に置き忘れていたなら友人が回収して明日手に入れるのがベストなのですけれど。念のため学校に  
連絡をいれておきます。それと今日は団活動に参加していません、いえ正確には顔を出してたのですが五  
分もしないうちに部屋を出ました」  
「疑うほどでもないってこと? ふん……」  
 新川が帰ってきます。  
「後部座席の下から助手席のダッシュボード、念のためトランクまでくまなく探してきましたが見当たりませ  
んでした」  
 こちらの線も消えた。他人の手に渡る事だけは避けなければなりません。誰だってそうなのですが、仕事上  
古泉の携帯電話には公に出来ない秘密もあります。敵勢力の手に渡ったとなれば  
「そうでしたか、ありがとうございます。せっかく春の季節なのに、幸先悪いなあ」  
「疲れているのかもしれませんな。でも特に病むことはありません。働きづめでしたから、少し休暇をとられては  
いかがでしょうか」  
「でも自分が許せないんです、もっと引き締めなければ」  
「あまり気張るのも考えものです。軽く軽く、リラックスして自然体でいなければ」  
 携帯電話の在り処云々よりもすでに二人は精神論ばかりで、機関員としての心構えの話となっています。だ  
からでしょうか。思考の軌道を元に戻さなければいけないでしょう、と思った瞬間でした。閃きが降ってきたの  
です。背筋に氷の槍を差し入れられたようなざわめき。  
「……そうか、新川の言う通りね。ああ、でもこの場合半分は私のせいなのかしら」  
 
 古泉がはて、と首を傾げます。噛み合っていない私の発言の真意が飲み込めないようで、古泉だけでなく皆  
動きを止めました。愉快な気持ちになります、古泉の表情を見ていると特に。  
 胸が波立つような気分でした。不思議なことですが私はこの状況に感謝していました。私自身は機関から  
出ていないのに、もう一人の自分が事情を俯瞰している。あの不可解な悩みに躓いてばかりの時間も、今こ  
の瞬間のためだったならば全て許してしまえそうでした。確証に満ちた考えに支えられて胸を張ります。もしか  
したら私は今、メンバーの言うところの満面の笑顔なのかもしれません。  
「去年から悩んでばかりだったからやっきになって知識を増やしたわ。読書量だって増えた。推理小説の古典  
から犯罪者の心理を記録した書記までね。おかげで鍛えられたんでしょう、驚くほどスムーズだったわ」  
 私の気持ちを量りかねるのか怪訝の度合いばかりが増し、誰の頭の上にもクエスチョンマークが浮んで見え  
るようです。  
 いち早く口を開いたのは古泉でした。  
「まさか――」  
「新川、車を回してくれちょうだい。さあ古泉の携帯電話を探しに行きましょう」  
 
 

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