「行き先がわからないことには車の回しようがありません。どちらに向かえばいいのでしょうか」  
「閉鎖空間よ」  
 メンバー全員の表情、特に古泉を含めた超能力者の表情が著しく変化します。  
「現在、閉鎖空間の発生は確認されていませんが……それ以前につい先ほど収束したばかりです。新川さん  
の運転する車で閉鎖空間に出向き、僕は神人を退治してきたのですから。それ は同行していた新川さんが  
証明してくれます」  
「ここ最近ずいぶん盛んだもの、きっとすぐに発生するわ。あまり気分のいいことじゃないけれどね。もしかする  
と今この瞬間にもね」  
 ふむ、と古泉は頷きますがまだ疑念はくすぶっているようです。  
「携帯電話を閉鎖空間に置き忘れたと考えられているようですが、何故そう言いきれるのでしょうか。僕は  
今日携帯電話を使用した覚えはありませんし、そもそもあそこには電波が届きませ んからもっていく必要もあ  
りません。それは森さんもご存知のはずです」  
「だから厄介なのよ。でも十中八九の確率で間違いないわね。確信というというよりそれ以外の可能性が残  
っ  
ていないのかしら。古泉の行動を信用するなら、少なくとも学校や通学路に落 としているみたいな偶然に頼  
った可能性より断然高いわね」  
「しかし今日一日の行動の中にヒントや材料があったのですか」  
「もちろんよ」  
「森さんが知っているのと全く同じ情報を、僕もすべて聞いているのですか? あれだけの中に推理するすべ  
ての材料と、あの少なくとも半径数キロに及ぶ閉鎖空間のどこで落としたかまで特 定されているのですか」  
「そういうこと、しかも古泉は皆よりも一つ多く得ているわよ。ジーンズの件よ」  
 周囲がざわつきます。  
「この二つにつながりがあるとでも?」  
「その通り、大きな手がかりになっているわよ」  
「解けない問題集にとっかかっていると横にもう一冊ですか。僕にはどう考えても謎の片鱗さえつかめないの  
ですが」  
「二つで一冊だととらえていいわよ。この問題は互いの両端が絡みついているからね。ジーンズの件があっ  
たからこのミステリーは生じているのよ」  
「本部に帰還すれば隠しておきたい秘密が露見していて、突発推理大会が開催される。森さんが笑顔だった  
と知らされればゲームで恥をかいて、携帯電話を紛失していると気付けば再び 閉鎖空間へと赴く。せわしな  
いですね。大きな謎の餌食となっている気分ですよ」  
 やれやれと古泉が言いました。  
「私はロビーで待機しております。発車準備を完了させておきますので閉鎖空間の発生を確認次第ご乗車  
ください」  
 一礼して新川が出て行きます。  
 私は仕事に戻りながらメンバーに伝えます。  
「私と古泉が帰ってくるまでが制限時間。その暁には全部の証拠を持ち帰ってきてあげる」  
 
 閉鎖空間発生の報告はその日の夕方近くにやってきました。機関本部から数十キロはなれた市街地を中  
心に発生したため、一旦本部に集合する案は却下され、能力者が活動に従 事していた場所からめいめいの  
方法で閉鎖空間へと赴くことになりました。  
 私と古泉は新川の運転するタクシーで向かいます。車中、古泉は鞄から取り出したピンク色の冊子を膝の上  
に広げていました。ト書きの文章が写植されて、所々に蛍光マーカーでライン がひかれています。台詞直しが  
幾度となく行われ、隅っこにはデフォルメされたキャラクターが落書きされています。映画の台本ですか。  
「ようやくクランクアップしたんです。監督から前回を大幅に上回る演技を要求されていたものですから、ずいぶ  
ん入念にチェックをしていたんです。そうしないと本番のとき頭の中が真っ白にな ってしまうんです」  
「撮影は終わったんでしょう、じゃあどうして」  
「時間を無駄にしてはいけないと閉鎖空間に向かう途中もよく目を通していたんです。涼宮さんの意向で特定  
のシーンを撮りなおすこともしょっちゅうでしたから。もしやまた、なんてね。つい広 げてしまいました」  
「入れ込んでいたのね、ずいぶん」  
 前作はチープさ加減も加わってほとんど理解不能でしたが、見る側と撮る側は違うのでしょう。古泉は妙に満  
足げでした。  
「映画撮影に限らずSOS団の活動は楽しいですから、自然と熱もこもるんですよ」  
「機関員の前でよく言うわね、もっと嘘を覚えなさい」  
「取り繕ってもきっと、『上には黙っておくから本当のことを言いなさい』なんて詰問されそうでしたので」  
「否定はしないけれどね」  
 困ったものですと古泉は言います。  
「森さんは機関とメンバーのことをどう思っていますか。四年前から自分を拘束している機関での暮らしを後悔  
していませんか」  
 古泉は冊子を閉じて表紙を撫でながら呟きます。背表紙にはSOS団員の名前と役割が印刷されていまし  
た。副団長である古泉は上から二番目に記されています。  
「……かけがえのない一生ものの友人かしら。人生に影を落とすような辛いこともあったけれど逃げ出せるもの  
じゃないし、もうすっかり染まってしまったわ。楽しいこともあったから自分を不幸だ なんて言えないわ」  
 今日の休憩室の光景などを見ていれば、本当に心からそう思います。  
「仲違してしまい、永遠にそれっきりの友人だって世の中には沢山います」  
「ひどい前提ね」  
「切っても切れない関係は存在しうるのか。赤い糸に喩えられるような絶対的な縁は存在しうるのか。僕は  
永遠なんてものを信用していません。新川はどうお考えですか」  
 新川が言います。  
「家族でしょうか。いえ、志や生死さえも共にする者と四年間一緒に過ごして家族以上の絆が生れたのかもし  
れません。離れていてもどこかで繋がっているような縁です。今はもう息子や孫 同然の目に入れても痛くない  
者ばかりです」  
 
 最初はいささかまとまりにかける集団でしたが、と苦笑して付け加えます。  
「連日メンバー同士でいさかいが起こる、パトロン探しに難航して財政難に陥る、上部と現場で意見が対立す  
る……創立したての頃から目的こそハッキリしていましたが、組織として機能す るには手探りから始めなけれ  
ばなりませんでした。今ではどれも必要な通過儀式だったと思えますが、当時はずいぶん手を焼いたものです。  
激昂してぶつかり合うメンバーに死線で背中を任 せられるでしょうか。偶然を装って背中からブスリと、なんて  
想像もしました。  
 寝つきのいい日など数えるほどしかありませんでしたね。やっていけるはずないと。ぶつかるうちにいつかし  
ら結束が 生れましたが、あのまま歯車が噛み合わなかったら世界のバランスはとっくに傾いていたのでは、  
と思います。  
 いつぞや、SOS団の皆様が孤島で合宿を行ったことがありましたな。あの時我々は偽殺人事件の一環とし  
て芝居をうったわけですが、言い争いの場面などはどうも不安に駆られたもので す。そうです、「本当に演技  
でここまでやれるものだろうか。ひょっとして、昔を思い出して知らず知らずのうちに本気でなじりあっているの  
では」と思っていました。あの程度は日常茶飯事でした からな。もちろんそんなことはありませんでしたが、あ  
の二人にも相容れない時期がありました」  
 休憩室で見た圭一と裕の姿。wiiのコントローラを使って古泉を茶化す姿は仮初のものではありません。しか  
しそれは深い溝を長い時間かけて埋めたからこそ今の姿があるのです。  
 古泉は冊子に眼を落としたまま黙っています。  
「機関も設立から四年。あと数ヶ月すれば五年目に突入でしょうか、早いものです」  
 窓の外にはもう夕闇が迫っていました。  
 
 
 駅前のロータリーで降ろされて数分歩きます。オフィス街の中心より少し外れた場所の横断歩道につくと、  
古泉が目で合図してきます。仕事帰りの人々が立ち寄る繁華街と繁華街をつ なぐ通りが閉鎖空間と現  
実の境です。  
 どうぞ、と言う古泉の手にひかれながら信号をわたると色彩に乏しい無人の空間でした。喧騒は立ち消  
えて、世界が静寂につつまれます。色を失った だけで印象は一変して寒々しいものへと変わり、セピアのよう  
に郷愁を誘うことはなく、青と灰に塗りこめられた空虚な空間。創造主の想いがそこかしこに満ち溢れているよ  
うでした。  
 見晴らしのいい場所を確保するためにビルに入って屋上を目指します。閉鎖空間に出現することまではわか  
っても、いつ何時どの地点に神人が発生するかまでは、つまり涼宮さんのスト レスが最高潮に達するかまで  
は予測できません。不測の事態に備えるためです。数キロ先に現れるやも知れない神人の早期発見のため、  
地上にいれば逃げ場もないほど落下してくるガラ ス片に対処するため、こういった手段がとられています。  
 懐中電灯で前方を照らしながら非常階段を使ってひたすら昇ります。私と古泉の足音が暗い響きをもって  
通路に入り乱れます。いくらかすれば踊り場の窓から見える車がミニチュア模型 と大差ないほどのサイズにな  
りました。  
 後ろをついてくる古泉は、私に話しかける風でもなく、かと言って自分自身に言い聞かせる風でもなく、ただ  
淡々と事実を述べるように口を動かします。  
 
「朝比奈さんは自分達の信じる未来のため指令に従って動く。長門さんは涼宮さんの起こす情報フレアの観  
測のため、情報統合思念体の考えの元に動く。僕は機関のためです。涼宮さ んは何も知らされていない。  
 実質身軽なのは彼くらいですか。でも彼だってこのパワーゲームを覆す力を持っているわけではない。強いて  
言えばドローに持ち込むための権利くらいですか、それさえも不確実なカードですが。我々とは違った意味で  
縛られています。  
 この一年間、SOS団の進行方向が足並みも含めて一緒だったというのはもしかして奇跡かもしれません。  
 均衡は何をきっかけに揺り動かされ崩壊するかわかりません。あまりに脆いものだということは承知していま  
す、互いの情によってあの部室は何とか成り立っているのですから。全く抜き差しならない関係ですよね。で  
すが放課後に部室でゲーム片手にガヤガヤ過ごす時間は本当に楽しいものです。ついつい、どうせならもう  
少しこのままでなんてね」  
「ふん……」  
「そんな人たちと裏をかかないでやっていける方法はないか。はまり込んでいくほどに壮大なばかしあいの一  
部分だと思えてくるけれど、楽しいと感じている僕の感情は本物です。穏やかな気 持ちでくつろいでいる自分  
がいます。  
 わかっているのに抜け出せない。もし団員から『お願い』をされた時、私情を挟むことなく世界にとって最善  
の策を選ぶことができるのか。僕は確かめる術 を持ちません。このままミイラ取りがミイラになりそうです」  
 階段を昇って屋上に出れば周囲を取り囲むようにぐるりとプランターが置かれています。憩いのためのベンチ  
とパラソルが数組、動物を模した子供用の乗り物、中央には小さなショーを行う ためのステージが設置され  
ています。前後左右に遮蔽物はなく高さも十分、視界は開け良好でした。  
 まだ神人は出現していません。この機に、私は休憩室卓上のキャンディーボックスから拝借してきた飴玉を  
数粒、古泉の制服ポケット、それもズボンのポケットに押し込みます。  
「どうしたんですか、急に」  
 そわそわと落ち着かない様子でした。取り出そうとするので制します。  
「飴を二三個入れただけよ。取り出しちゃ駄目。もちろん食べても駄目。ちょっと検証につきあってもらうわ」  
 古泉はポケットを叩いて感触を確かめました。  
「いやはや実験体ですか」  
 物欲しそうにしているので仕方なくもう一粒だけ手渡します。ベンチに腰かけて飴玉の封を切る古泉の隣に  
座ります。  
 飴をなめながらどこからか吹いてくる風になぶられていると、ぽう、と遠くに光の柱が見えました。古泉も気付  
いたようです。  
 ビルとビルの谷間に現れたそれは次第に人の形をとりながら立ち 上がります。頭部と首に区別がなく唇とも  
鼻ともつかない器官を顔に備えています。上半身がやけに発達し指の先は地面に届こうかというほど長いが、  
足はまがり一歩ずつ踏みしめながら 移動し、服をまとわず、体の内側は満天の星空を思わせるほど煌いて  
いる。  
 何よりも空を我が物にせんばかりの巨躯はひとつの大陸を想像させるほどでした。  
 
 神人は標的を目の前のビルへと定めると思いっきり手を引き絞りました。ぐらりと体が傾いだかと思うと、雷  
のような凄まじい轟音がして土砂煙が巻き起こります。手を無造作に振り回した だけの一撃がビルを半分削  
って、残りをあっけなく倒壊させます。  
 以前撮影された映像で見た神人は、粉塵の奥でめったやたらと手足を振り回していました。倒壊した数十階  
建てのビルを持ち上げていとも容易く放り投げる姿は、忘れられるものではあ りません。こうしていても鈍重で  
すが空気を震わせるようなすさまじい動きをして見せます。空気に澱みが増した気がして目を細めます。  
「では行ってきます」  
 手早くかたづけます、そう言いたげでした。古泉の体が舞い上がると火花が散って赤い光に包まれます。飛  
び立ったかと思えば、古泉はもう神人のそばまでやってきていました。やってきた 蚊を追い払うような手を避  
けて輪切りにします。一人の能力者が神人の気を引いている隙に古泉が突撃し、たじろいた隙に一斉突撃す  
るとすでに厄介な両腕は切り離されていました。 切り取られ宙に浮かんだ神人の肉片が霧になって解けてい  
きます。赤い球を見やるだけの木偶がいなくなるまでものの数分でした。手際の良さに感心しているとひゅ  
ん、と戻ってきます。  
 古泉はため息を一つついて肩を回します。  
「お疲れ様、さてポケットを見せなさい」  
 不審気でしたが表情はすぐに一転します。  
「……不思議なものですね」  
 古泉のポケットからは飴玉が一つ残らずなくなっていました。私に仕組まれた行動をとってみると、神人を退  
治している間にポケットから飴玉が消え去った。古泉にとっては不可解な出来 事でしょうが――失う飴の個数  
はともかく――私には予想のついた出来事でした。ああ、やはりと私は得心します。マジックを解き明かそうと  
する少年の様に古泉が寄って来ます。  
「どういったトリックでしょうか」  
「何もしていないわ。予想が証明されただけよ。ホッとしたわ、つまりそういうことよ」  
「一人で納得しないでください。説明していただけますか」  
「さぁ、今度は携帯電話を探しに行きましょうか。この前に神人が出現したのはどのあたりなの?」  
「質問に答えてくださいっ」  
「ほら歩きなさい、私は知らないのよ」  
「もうっ。北高です。それもグラウンド周辺に出現しました」  
 ビルを降りて線路に沿って歩いてから、丘の上を目指して坂を上ります。始終古泉はぶつぶつ言っているよ  
うでした。  
 古泉の携帯電話は予想通り北高グラウンドに落ちていました。二手に分かれて探していると、ピッチャーマ  
ウンド付近を捜していた古泉から「信じられません」と声があがったのです。近寄っ てみれば、端の部分が割  
れてメッキがはがれているものの携帯電話は液晶部分とデータは無事でした。古泉はますます食いついて  
きました。  
「どうか種明かしをしてください。好奇心をもう押さえつけられそうにありません」  
「二度手間は面倒だからメンバーの前で披露する時でいいじゃない。また私に教えてもらうつもり?」  
「もっと時間があれば考えるのですけど、今は早く知りたいんです。そこをどうにか」  
「考えている格好だけじゃない。だらしない。それよりも気になることがあるわ」  
 
 後ろから子犬みたいについてきた古泉と向き合います。睨み付けると距離をとって本気なのだと伝えます。  
「古泉、ビルでの発言を忘れていないでしょうね。SOS団と機関の使命で揺れているなんて言いたかったので  
しょうけれど。  
 私の質問に包み隠さず答えなさい。あなたは自分がSOS団に欠 かせない存在と成り得た、そう確信したか  
らあんなことを言ったのでしょう。一年が過ぎて団員として団の一角を占めることに成功したと判断したから、わ  
ざわざ私に聞かせたんじゃないの。そう でなければそれとなく匂わせたとしても他のメンバーの前で漏らすなんて  
軽率な真似はしないはずよ。どう、図星でしょう」  
 古泉は足を止めて直立しました。次から次へと濁流のように押し寄せる感情を言葉にして浴びせかけます。  
「わかりません」  
「今後は下手を打つようなことがあっても、謀反の可能性を理由に切り捨てられないだろうと考えた。損得勘定  
をすれば機関としてもあなたをSOS団に通わせるべき。間近で得られる情 報は何より代えがたいものだから  
ね。去年の春頃ならいざ知らず、今あなたがいなくなったら涼宮さんの精神はどうなるか。必死の捜索が行わ  
れるでしょう。  
 仮にどこかの組織の手によって拉 致監禁されたとしても、涼宮さんが不安に思い願った結果あなたはいつ  
のまにか元の場所に無事開放されていたりするかもしれない」  
「それもわかりません」  
「あなたの行動はSOS団員としてのそれよ。機関員じゃなくてね。どういった心づもりなの」   
「……確かにそうでしょう」  
 心情を吐露しただけの古泉に、どうして私はこんなことを言わなければならないのか。閉鎖空間の拡大を防  
ぎ涼宮さんの行動を監視するための機関に所属している、という同僚よりも もっと大きな私たちを結ぶ絆。  
 それだけの理由によるものです。もしかしたらたった今私たちの間には決定的な、修復不可能な亀裂ができ  
たかもしれません。これからまだまだ広がっていくだ けの溝が私たちの袂を分けたなら、遅かれ早かれいずれそう  
なる運命にあったのでしょう。  
 とっくに古泉の気持ちは離れていた、踏ん切りをつけられないだけだったのかも、といじけた内省の声に踊らさ  
れるままで私は抗いもしませんでした。  
「帰ってからじっくり聞かせてもらうから覚悟を決めておきなさい。吊るし上げるつもりはないけれど今日は見逃  
せない発言ばかりだったわ。許して頂戴」  
「話を聞いてください」 違うと主張したいのでしょう。  
 古泉がついと一歩踏み出して地面の水溜りを跳ねたのです。しかししぶきが起こらずぬかるみに突っ込んだ  
ように足をとられたので、傍目にも変だなと理解した瞬間、爆発的な勢いで水 溜りが隆起しました。  
 地面から次々と光が染み出して、やがてひとつの柱になります。膨張を続ける光はどこまでも空間を侵食し  
続けて、天の月に届くほどとなってようやく全貌を現しました。間近で見れば見 上げることもかなわないほどの  
巨躯が青白くてらてら光っています。  
 わずかに動いただけで私たちはその足の下敷きとなってしまいそうでした。  
 足首を絡めとられて逆立ちのまま古泉は持ち上げられます。暗闇の奥でうごめく器官と視線が交差して、嫌  
悪感に駆られた古泉は脱出しようともがきました。神人とすればこそばゆくて 身震いした程度だったのでし  
ょう。  
 
 しかしそれなりの背があるといえ神人の大きさとは比べ物にならない古泉は街路樹の頂ほどの高さから  
放り出されたました。古泉は、どうにかバランスをとって体勢を変えますが変身する間もありません。私が危  
ないと思って手をのばすよりも先に、背中から地面へと叩きつけられていました。体がバウンドして鈍い音が連  
続で響きます。神人は 知らん顔で揺れていました。  
 ひっ、と咽喉元まで競りあがった悲鳴を殺して駆け寄って見ると、古泉はうずくまって苦悶の表情で痛みを  
耐えています。もしもっと勢いをつけて放り出されていたなら、無事ではいられなか ったでしょう。出血はない  
ようですが、傷口を確かめるために触れるだけで体を丸めてから逃れようとします。  
 私は古泉の体を強引に担ぐとその場を離れます。背中のすぐそばで聞こえる泣き声に似たうめきが耐えられ  
ず、一刻も早くその場を逃れようとしました。障害物の見当たらないグラウンドに 現れたことは私たちにとって  
幸運だったのでしょう。当り散らす獲物を見つけられない神人はのたのたと――しかしほんの数歩で――校舎  
に向かいます。とにかくこの学校から脱出しなければ。  
 大丈夫、きっとすぐに支援の能力者がやってくると自分を奮い立たせました。  
 痛みを我慢できず私を引っ掻く古泉に苦労しながらグラウンドを駆け抜けます。校舎を叩き潰すたびに伝わ  
る地震に腐心しながらも、どうにかもう少しで校門を潜り抜けられるところでし た。  
 灰色の陽光の下にいた私たちにふと影がさしたのです。より一層退廃に近づいた空間を奇怪に思い振り返  
って見ると、千切られた旧校舎がグラウンドに叩きつけられ地表がめくれあがった瞬間でした。影の正体に驚  
くよりも早く耳をつんざくような衝撃音と衝撃に吹き飛ばされ、古泉共々地面に這い蹲ります。転がった体に爆  
風が覆いかぶさり、耳鳴りが止まず吐き気を催 しました。  
 ゴミ同然に吹き飛ばされたガラス片や椅子がここまで飛び散ってきました。砂塵が消えやらないうちに第二  
波第三波がやってきて、安全な場所など世界のどこにもないようでした。  
 運動場は深くえぐられ、付近の建物は根こそぎ破壊されました。身を縮こめ、どうにか脱出のチャンスをうか  
がう私に立ち上がった古泉が言います。  
「少し落ち着きました。ありがとうございます、そして申し訳ありません」  
 私の首筋の引っ掻き傷を見て言います。  
 粉塵の奥では数体の神人たちが破壊の対象を探していました。  
「じっとしていなさい。こんな傷よりも、叩きつけられたあなたの方がひどいんだから」  
「同志が戦っているのです。どうして僕一人が逃げ出すことができるでしょう」  
 ようやくやって来た能力者も、粉塵に隠れた神人に狙いを定められないようでただ旋廻を繰り返すばかりで  
した。飛んでくる破片を避けるだけで精一杯。いつもと同じ相手なのに近寄るこ とすらままならない。古泉は落  
ち着いたと言っているものの、脂汗が浮かべてどうにか片膝立ちの体勢を維持しているだけです。  
 何度も咳き込み、つついただけで倒れてしまいそうなのに虚勢 を張って神人を黙視します。  
「フラフラの癖につよがるんじゃないの。怪我人が飛び込んでも迷惑なだけよ」  
「行きます。火花に巻き込まれては危ないから離れてください」  
「無理をしてどうするの、死んだら元も子もないわよ」  
「覚悟の上です」  
 
 この地域をあらかた壊し終えたのか神人は学校を抜け出そうとしていました。  
 どうしてこう聞き訳がないのでしょう。古泉を止められるのなら、と目一杯肺に空気を送り込んで、私は言っ  
てみせます。  
「あなたが今さら機関のために命を捨てて何になるの!」  
「違います!」  
 古泉が吠えて携帯電話を掲げます。  
 待ち受けに設定された、新川、圭一、裕、私、メンバー、そして古泉の集合写真。結成時のものでした。  
「機関が僕を変えてくれたんです! ある日突然、自分は命がけで世界を救うために戦わなければらないと知  
って、部屋の隅で震えていただけの自分と決別させてくれました。要請に応じず怯えて逃げ出した僕を何度で  
も迎え入れてくれました。中学生になったばかりの子供まで戦わせるのは忍びない、この子だけは日常に帰し  
てあげてもいいんじゃないかとさえ。飛び回るだけの僕を 必死でフォローしてくれました。  
 計り知れない恩恵です。誰だって恐怖から逃げ出したかったでしょう、甘ったれていた僕には一生分の借りが  
あるんです。  
 だから今、逃げません」  
 古泉が光に包まれます。火花は古泉の体力そのもののようで弱く散っただけでした。  
 復活した古泉のおかげでしょうか、ようやく一体撃破したものの次々に神人は現れます。能力者はその度飛  
んで行きます。  
 私は立ち上がって頬の汚れをぬぐい、戦いを見ていました。神人があちこちに現れるたびに方向を変えます。  
 しばらくすると一つの赤い球がふらふらとビルの陰に消えていきました。私は我慢できずに迷惑を承知でそ  
の地点へと向かいます。目測だけでその場所をどうにか探し当てる頃になっても戦 いは続いていました。  
 道路に倒れこんでいた古泉はもう立ち上がることもできません。変身も解け、倒れ伏したままひゅうひゅうと  
浅い呼吸を繰り返していました。  
 ――お願いだからもう出てこないで。  
 無常にもすぐそこのビルの向こう隣で光の柱が立ちました。次の神人が生れた証でしょう。底無しに増殖す  
る神人に抗う術を持たず、古泉を庇うようにしたままただ震えるだけ。どうしよう、 古泉だけ置いて逃げるわけ  
にはいきません。他の能力者の限界も近いでしょう、万策尽きたのかと思いました。  
 しかしいつまでたっても破壊活動の音が聞こえてきません。微生物さえ存在しない閉鎖空間で聞こえてくる  
音といえば、神人のもたらす轟音だけです。静けさが破れないことを不思議に 思い恐る恐る眼を開けてみれ  
ば、巨人は微動だにせず廃墟の中で遠くを見据えてただ立ち尽くしています。  
 どういったつもりなの、涼宮さん。  
 先ほどまでの世界を破壊しつくさんと暴れまわる神人と何ら変わりない姿なのに 、魂を抜き取られたように  
棒立ちでいます。最初の一体からどれだけの時間が過ぎたのか、増殖もようやく止まったようでした  
 能力者によって神人は総べて撃破され、ようやく私たちは現実空間へと帰還しました。  
 
 結局神人の行動は涼宮さんの精神状態の変化と判断されましたが、これといった証拠は挙がっていません。  
幾度も会議が紛糾した結果、以前と変わりなく油断することのないよう対処 するようにと通告がありました。  
 体を強く打ったものの古泉の体に異常はありません。日常生活に支障が出ることもなく、週に二回の通院治  
療が義務付けられ、痛み止めが処方されるとしばらくは運動そのものをを控 えるよう言いつけられました。  
 翌日、気分転換に散歩したいのですが、という古泉に連れられて外に出ました。あからさまな嘘だとわかり  
ながらもついていきます。  
 睡眠不足なのか慢性的な疲労なのか、古泉は眠たげに眼をこすります。しかし恒例行事の市内探索を休む  
つもりはないようです。  
 ここしばらく忙しく、団活動にもほとんど参加していなか ったですから。昨日も部室に顔を見せただけだと言  
っていましたね。  
 疑問が一つ。出かけようとする古泉がはいているのは、謎の転校生というイメージのため出番を失ったボロ  
ボロのジーンズでした。普段身につけている清潔そうなシャツやスラックスとは正反 対の薄汚れた衣装で  
す。上着もそれにマッチしたものを選んでいるので見ず知らずの素行不良者みたいですが、間違いなく古泉一  
樹本人でした。  
「涼宮さんの機嫌を損ねるような服装はつつしみなさい。自分の立場がわかっているの」  
「謎の転校生キャラもいいかげんマンネリで新鮮味が薄れてきていると思います。一年経って、新入生も訪れ  
る春の季節ならなおさら。ここは打開策としてアウトローな部分を垣間垣間で 見せていく、なんてどうでしょう。  
 肩を怒らせて町を徘徊すれば、昨日までの僕を知る人はビックリすること請け合いです。電車でご老人に  
席を譲らない現代の若者像もいいですね。どうです、涼宮さんの好きそうな秘密の匂いがするでしょう」  
「ずいぶんなキャラ設定ね、もしかして地?」  
「さあどうでしょう」 心底楽しくて仕方ないと笑います。  
「人を煙に巻いて楽しむのが本当に好きなのね」  
「それに今、涼宮さんの関心は僕たちには向けられていません。想い人である彼の、いわゆる元カノ――本人  
はきっぱり否定していましたけれど――が現れてからというものの団活動に没頭して いるようでその実、元カ  
ノのことで頭が一杯なんじゃないでしょうか。活動計画は立てたものの団員への指示も忘れてぼうっとしてい  
ることがあるほど。気になって仕方がないのでしょう。  
 僕は閉鎖空間の一件もそこがキーポイントなんじゃないかと思います」  
 早速観察対象となった少女。報告写真の中で彼女はやんわりとしていながらも不敵に笑っていました。  
「古泉の服装なんて優先順位からいえば圏外ってことね」  
「それはそれで寂しいものですけれどね。まぁ馴れたものです」  
 白い粉がぱっと舞い上がったようでした。花びらが散って風に運ばれていきます。植えられた桜はすでに半  
分葉桜となっていました。もったいない。機関員は休みをとって花見をする暇もな いのです。  
「ジーンズくたびれているわね」  
「ええ」  
 
 古泉がポケットをつまんで裏返すとぽっかり穴が開いています。特に右の穴は拳ほどの大きさとなっていま  
す。何も入りそうにありません。尻のポケットも大差ないそうです。  
「てっきり所持品だとばかり思っていたわ。でも違った。環境じゃなくて問題はあなた自身だったのね」  
「森さんに指摘されたときは驚いたんですから」 肩をすくめます。  
「ポケットが使いものにならないだなんてよく気付いたわ。自分を褒めたいくらいよ」  
「癖が抜けきらないんですよ。愛用していたものですから生活リズムまでこのジーンズに合わせるようになって。  
 体がついていかず、役に立たないポケットへ誤って手を入れてしまいそうで。服を変えても毎回びくりと震えて  
いただなんてみっともないことこの上ない」  
「だからコントローラを飛ばした時に閃いたのよ、ああコレも無意識なのかなって。古泉がどうしようもなく無意  
識にならざるを得ない場所ってどこだろうって。辿っていったら見事的中していたわ 。でも閉鎖空間で飴を  
突っ込ませてようやく確信がもてたのよ。  
 今だからいうけれど休憩室の時なんて賭け同然だった。あれだけ啖呵を切ったから間違えていた日には生  
き恥だったわ」  
「森さんが半分私のせいといったのもそのためですか。意識にのぼっていなければ落とす事もなかった。しか  
し、電話が無事でよかったですよ。下手すると高度何百メートルから落としていたんですから、全壊は免れな  
かったでしょう。実にラッキーでした。  
 四年分と一年分の動画やら写真が無駄になってしまうところだったんですから、日頃の行いがよいおかげか、  
はたまた神様がどこかで見ていてくれたのか。  
 閉鎖空間 で過ごした時間は僕の方がずっと長いのに、森さんから知らされるとはちょっとショックですよ」  
「ここでも涼宮さんの登場ね」  
 一年分のところで嫌でも気付かされます。そう、問い詰めてやろうと思っていたのですが、古泉が怪我をして  
帰ってきたためお流れとなっていたのですね。  
「今度は私たちが聞かせてもらおうかしら、機関とメンバーのことをどう思っているの」  
 怪我をしているからメンバーの前で晒すのだけは勘弁してあげるわ、とおまけします。古泉はややあって  
口を開きました。  
「僕は以前、一度だけ機関を裏切ってでもあなたたちの味方をする、と言いました」  
「どうして」 地面がぐらついたような感覚。少なからず私はショックを受けました。  
「ただそれだけです。僕がSOS団で築いた信頼関係そのものがこの一言にこめられています」  
「この薄情者」   
 古泉のそばによってシャツの端をつまみました。涼宮さんのそばにいるあなたの行動によって機関員皆が  
生死を分かつかもしれないのに。シャツを強くつまみなおしてから言いました。  
「一度だけ。絶対に一度だけにするって、私に誓いなさい」  
 
 
「僕は――」  
「今ここで約束しなさい」  
「ええと……」  
「できないの?」  
 シャツをつかんで引き寄せ、すがりつきたい気持ちをどうにかしてこらえます。醜い情で気をひいてはいけな  
いのです。本心から機関に帰りたいと古泉が思っていなければ何の意味もないので すから。古泉は低く「あぁ」と  
肯定にも否定にもとれる返事をしました。それがどうしようもなく悔しくて、力を込めて古泉を突き放します。  
 驚いた顔に、  
「帰ってきたらジーンズを私のところに持って来なさい。縫ってあげるわ。不便でしょう」  
 私なりに、いってらっしゃいの意味を込めて送り出します。しかしぴしゃりと。  
「遠慮しておきます」  
 当然不満な私ににべもなく言います。  
「このジーンズは破れているからいいんですよ。縫ってしまうと価値がなくなっちゃうんです。だってそうでしょう、  
機関でのありのままの思い出が詰まっているんですから。綺麗に縫ってしまえばいつ しかこのポケットが破れ  
ていたことさえ忘れちゃいます。余計なものがここを占領したら寂しいじゃないですか。  
 さて、余計な出費をするわけにもいきませんので、この辺りで」  
 言ってから古泉は、迷いを吹っ切るように元気よく歩き出しました。  
 

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