翌日、授業が終わって部室へ向かう準備をしていると、廊下から名前を呼ばれた。
知らない人が、教室の入り口のところに立っている。誰だろう。
俯き加減で、その人の前に行くと、
「長門有希さんだよね。今日、生徒会室に来てくれないかな。
下校時間までなら、何時でもいいからさ。文芸部のことで話があるらしいんだ」
と告げられた。また文芸部の休部問題。そう思った。
それ以外に生徒会から呼び出しを受ける理由が思い当たらない。
機関誌は、まだ発行してない。しかし、今年度中に発行できれば問題はないはず。
なぜ、こんなにしつこく言ってくるのだろう。これで三度目。
来年度の部活予算の配分があるから? でも、今はまだ十二月。
文化祭で機関誌を発行しなかった。その件で、文化祭の後、改選されたばかりの生徒会に
呼び出され、一週間程前にも、再度呼び出しを受けた。
その都度、年度末までには機関誌を発行すると伝えている。それで生徒会は納得したはず。
それ以外に何か用件があるのか、そう訊こうと顔を上げたら、もうその人の姿はなかった。
まただ。なぜ、堂々と対応できないのだろう。
しかし、文芸部の件で生徒会から呼び出されたのだ。無視するわけにもいかない。
何れにしても行かなければならないのなら、用件は、生徒会室で聞けばいい。
休部の件なら、これまで通り、年度末までには機関紙を発行すると伝えればいいだけ。
そう考えて、教室に戻ろうとした。
そのとき、後ろから肩を叩かれ、飛び上がりそうになった。振り向くと、そこに彼がいた。
「よ、長門。どうした? 今日は、部活は休みか?」
少し慌て気味に、首を振って、
「これから」
そう答えた。彼は笑いながら「じゃあ、一緒に行こうぜ」と言った。
彼の笑顔。
わたしは、生徒会からの呼び出しの件を頭の隅に押しやり、カバンを取りに教室に入った。
部室に入り、カバンを置くと、いつものイスに腰掛ける。
彼は、テーブルを挟んで、わたしの斜め前にイスを持ってきて座り、弁当を食べ始めた。
わたしは、彼を視界の隅に捉えながら、何から訊こうか考えていた。
今日こそは話を訊ける。本を読む気にはならなかった。
「訊きたいことがある」
そう言ったのは、彼が、弁当を食べ終え、買って来たお茶を飲みながら、
何かを考えているように天井を眺めているときだった。
彼が、ぽかんとした顔をわたしに向ける。
あなたの知っている世界のことを知りたい。あなたと涼宮ハルヒの関係を知りたい。
やっとの思いでそう言った。やはり、彼を直視することはできない。
図書館のことも訊きたかったが、先ずは、彼が涼宮ハルヒをどう思っているか知りたかった。
彼は、少し驚いたような仕草をし、そして、考え込むような表情を浮かべた後、
両手を頭の後ろで組んで、天井を見上げながら話し始めた。
「そうだな、ハルヒは昨日も言ったように、妙な力を持っている、いや、持っているかも
しれない奴で、それを自覚していないんだ。暇になると何をしでかすか解らん奴で……」
そう話し始めた彼の話の端々からは、涼宮ハルヒに対する愛情や信頼が感じられた。
彼は、涼宮ハルヒを大切に思っている。彼は自覚してないかも知れないけど。
彼女に振り回される彼。でも、彼は、それを嫌がってはいないように思えた。
彼は涼宮ハルヒが好きなのかもしれない。そう思うと、気持ちが沈む。
昨日は、それでも大丈夫だと思ったのに。いや、大丈夫。ちゃんと話を聞かなければ。
「……ってことで、ハルヒと俺の関係は、お姫様と、執事みたいなものだな」
彼の顔に、穏やかな表情が浮かぶ。
どうやら、付き合っているわけではないらしい。何となく安堵感。
一拍置いて、彼は、彼の知っているわたしのことを話し始めた。一瞬、違和感を感じる。
それは訊ねていない。訊きたいと思っていたけど。
「長門は、俺にとって、一言で言えば気になる存在だ」
気になる存在? 心拍数が跳ね上がる。
「いつも冷静で、感情がないんじゃないかと思うくらい表情もない」
彼の話では、彼の知っているわたしは、無表情で無感動。
周囲に溶け込むこともなく、いつも一人で、分厚い本を読んでいる。話す言葉は最小限。
それは、わたしだ。いつも一人きりのわたし。わたしは、彼の世界でも一人だった。
自然と俯き加減になる。
「でも、これは俺の自惚れかも知れないけど、俺にだけは、いつもと違った一面を見せてくれる
と言うか……」
複雑な心境。感情を持たない宇宙人製のアンドロイド。
そのアンドロイドが、感情の片鱗を彼にだけ見せていた、そんな感じらしい。
それは、ロボットが感情を芽生えさせ、人間に恋するときの定番行動なのではないだろうか。
彼は、そんなわたしに同情してたのかもしれない。
「同情?」
そう訊いてみると、
「違う!」
強い否定が返ってきた。思わず身体を竦めてしまう。怒ったのだろうか。
「いや、すまん。怒っているわけじゃないんだ。でも、確かにそう見えるな。同情か」
彼は、軽く溜息をついて、話を続けた。
「そうなのかもしれない。でも、長門には、同情や憐れみって言葉は似合わない。
あいつは、無敵で万能だからな。ただ、俺は、あいつを人として見てしまうんだ。
人じゃないと言うことは理解してるさ。長門に、人の、俺の常識がそのまま当てはまるとは
考えていない。あいつは、それで楽しいのかもしれない。でもな、どうしても納得できないんだよ。
だから、あいつが初めて感情らしいものを見せたとき、俺は、少しだけ嬉しかったんだ」
少しの沈黙。そして、何処となく窺うような視線をわたしに向け、
「……俺は、あいつに人としての幸せってヤツを知って欲しいのさ。
でも、あいつはどう思ってたんだろうな。余計なお世話なのかもしれない……」
そうぽつりと言って、話を締め括った。寂しそうな表情。
彼は、彼の世界のわたしを、彼の子供か何かのように捕らえているようだ。少し残念。
でも、それはそうだろう。身近に現れたアンドロイド。いくら人の形をしていても、
それは人ではないのだ。そのアンドロイドが感情を持ち、人の倫理観を理解したとしても、
アンドロイドと人の間に情愛が生まれることはないだろう。
いや、仮に、そのアンドロイドが人と同じような感情を持ち、人の倫理観や価値観を理解した
としたらどうだろう。それは人と言えるのではないだろうか。人と機械の境界線はどこにある?
彼は、その宇宙人製アンドロイドに同情に近い感情を持っているように思える。
それは、情愛に発展する可能性があるのではないだろうか。
少なくとも、アンドロイドであるわたしは、彼に特別な感情を持っていたとしか思えない。
そして、彼は、そのわたしに人の価値観を理解して欲しいと思っているようだ。
それは、彼が彼の知っているわたしを人間扱いしていたと言うことなのだろうか。
彼と、彼の知っているわたしの関係に思いを廻らせていると、彼が口を開いた。
「今回の世界改変のことで、昨日から色々考えてたんだが、それを話してもいいか?」
そして、躊躇するような素振り。
「お前が俺の知っている長門じゃないってことは解っている。
だから、何っているんだって思うかも知れない。でも、だからこそ、聞いて欲しいんだ。
今のこの世界では、お前にしかこんなことは話せないしな。
で、何か思うところがあれば言って欲しい」
彼の状況認識が聞けそうだ。無言のまま頷く。
彼はイスに座りなおすと、両手をテーブルの上で組み、静かに話し始めた。
「俺は、この世界はハルヒによって改変されたのではないかと思っている。
今まで曖昧に言ってけど、実際、ハルヒは、世界を改変する力を持っているんだ。
それに巻き込まれたことがあるからな。ただ、ハルヒがそれを自覚的にコントロール
できないのは本当だ。俺は、この世界がハルヒによって無意識に改変され、
それに気が付いた長門が、脱出プログラムを仕込んでくれたのではないかと考えている」
何となく苦しそうな表情。
俯き加減で、彼は、互いに組んだ両指を交互に動かしながら話を続けた。
「ハルヒや朝比奈さん、古泉は、能力を持っていないことを除けば、俺の知っている奴らと
同じだ。お前だって、宇宙人でなく人間だとすれば、俺の知っている長門と同じに
見えないこともない。ハルヒは、お前が宇宙人だったなんて知らなかったはずだからな」
彼の視線が、一瞬、わたしを捉え、そしてまた、彼の両手へと移動する。
「ただ、理由がまったく解らん。この世界でハルヒは、古泉と一緒に光陽園に行っている。
改変前は、俺と一緒のクラスだったのにな。
それに、あいつはSOS団を大切に思っていたはずだ。だから、SOS団の存在しない世界を
望むとはとても思えない。実際、昨日、ハルヒは嬉々としてSOS団結成を宣言してただろ?
もし、あいつがこの世界を望んでいたなら、SOS団結成はないんじゃないかと思うんだ」
少しの沈黙。眉を寄せた、何か苦いものを飲み込んだような表情。
「考えれば考えるほど、ハルヒがこの世界を望んだとは思えないんだ。
昨日、光陽園学院前でハルヒに会ったとき、あいつは、むちゃくちゃ不機嫌そうだった。
ここがあいつが望んだ世界なら、あいつが不機嫌なのはおかしいだろ?
そして、SOS団結団を宣言したときの、あの晴れ晴れとした笑顔。
古泉は、ハルヒのあんな笑顔を見たのは初めてだって言ってたから、
光陽園では、あんなふうに笑ったことってなかったんじゃないだろうか。
俺の知っているハルヒは、SOS団で、度々あんな笑顔を見せてたんだ。
なんで、こんな世界に改変したんだろうな」
そして、眉を寄せたまま、不機嫌そうに黙り込んだ。
わたしは、昨日の、涼宮ハルヒの輝くような笑顔を思い出していた。
彼女のあの笑顔は、彼に会えたからではないのだろうか、大好きな彼に。
自分が好きな相手の前から、突然、姿を消す。そして、その相手に自分を探させる。
そうすることで、相手に、自分の存在を再認識させる。そんな小説を読んだことがある。
しかし、相手に自分を再認識させるために世界改変とは、どんなセカイ系なのだろう。
いや、思考が逸れている。
わたしは、彼の話について考え、気になった点について訊いてみることにした。
「世界改変に巻き込まれたことがあると言った」
「え? ああ、そうだ」
「戻った方法は?」
「む、むう……、すまん、それは言いたくない」
「あなたは、何かあれば言えと言った」
「……それはそうだが。そうだな、それは朝比奈さんとお前のヒントがあったんだ」
「…………」
「白雪姫とsleeping beautyってな。すまん、それでカンベンしてくれ」
「…………」
彼の顔が見る間に赤くなっていく。そうなのか。そう思い、気分が落ち込むのを自覚する。
しかし、先程の彼の話では、別に付き合っているわけじゃなさそうだった。
どういうことなのだろう。思い切って訊いてみる。
「あなたと涼宮ハルヒは、恋人同士?」
「違う、断じて違うぞ!」
即答。真っ赤な顔で否定する彼。あまり説得力はない。
実際、ある種、特別な関係だとしか思えない。しかし、恋人同士ではなさそうだ。
もし恋人同士なら、彼はそれを認めるだろう。否定する要素は何もないのだから。
しかし、これで納得できる。彼が涼宮ハルヒを探し出してきた理由。
わたしは、昨日の古泉一樹の話を思い出していた。改変された唯一の世界。
そうなら、涼宮ハルヒが観測者なのだ。世界は観測者の意思により存在する。
彼の言う改変される前の世界では、そうだと言える。
そして、彼は、涼宮ハルヒに選ばれた存在なのだ。
涼宮ハルヒは、この世界でも観測者なのだろうか。
「涼宮ハルヒは無自覚に閉鎖空間を発生させる?」
「ああ、あいつはストレスが溜まると無自覚に閉鎖空間を発生させるらしい」
「ならば、ここの涼宮ハルヒは、能力を失っていると思われる」
彼の話では、昨日SOS団を結成するまで、涼宮ハルヒは不機嫌の極みにいたはず。
「俺もそう思う」
「それは、缶詰の中の缶切り」
「何だって?」
何でも願い事を叶えることができる存在がいたとして、その存在が、願い事を叶える能力の
消失を願ったら。それが実現した時点で、その能力を取り戻すことはできない。
「…………」
呆然とわたしを見つめている彼。瞳に力がない。
「やっぱり、もう……」
でも、指摘できることがある。
「緊急脱出プログラム」
「え? そうだ、あれはどうなんだ? あれはハルヒの力じゃない。長門が……」
何か言いかけて、彼が絶句する。そう、それでも彼は脱出できなかったのだ。
そして、この世界に彼の知っている長門有希はいない。
「ふう」
彼が溜息をついて、
「ま、でも状況は整理できたような気がする。ありがとな、長門」
そう寂しそうに呟いて、話を変えるように、わたしに向き直った。
「お前は、ここでは、どんな風に過ごしてるんだ? やっぱり、一人だけの文芸部員なのか?」
「そう、あなたが知っているわたしと同じ。魔法は使えないけど」
彼の眉が少し上がったように見えた。
「友達は? 休みの日にはどっか遊びに行ったりしないのか?」
「友達は、朝倉さんだけ」
「朝倉だけ……」
休みの日は、家で本を読んでいる。出かけるのは、駅前スーパーと図書館くらい。
だから、外出服も持っていない。制服があれば十分だから。
彼は、驚いているようだった。
「俺の長門もそうだった。だが、あいつは宇宙人だから、それも仕方が無いのかと……」
俺の長門。その言葉に身体が反応する。でも、それは彼の保護者的な考えによる発言。
「長門。お前、それで退屈だとか、寂しいとか思わないのか?」
「そんなことは考えたことも無かった。本が読めれば楽しいから」
彼は、何かに怒っているようだった。
わたしと彼の知っている宇宙人であるわたしを重ね合わせているのかも知れない。
「お前は、宇宙人でもアンドロイドでもないんだろ? 人間なんだろ?」
頷く。
「それなら、もっといろんなことを楽しまないとだめだ。友達作って、休みの日には
一緒に外に出るとかさ」
そして、呟くように言葉を続けた。
「それにしてもハルヒの奴、お前を人間に変えてまで、同じ設定にすることは無いじゃないか。
友人のいない、孤独で無口な文学少女なんてさ。あんまりだと思わないか?」
なんとも答えようがない。
そもそも、わたしには、この世界が作り変えられたという実感がないのだ。
彼の、世界改変に対する認識は相対的なもの。
絶対的な指標がない限り、彼がだけが改変された可能性もあるのだから。
わたしは、困ったような顔をしていたに違いない。
彼は、わたしを見て、何かに気が付いたような、気まずいような顔をして、言った。
「すまん、余計なことを言ったようだ。いや、お前がそれでいいなら別にいいんだが……」
心配してくれている。そう思った。
「わたしは人と接するのが苦手だから」
「そうなのか……。え? それじゃ、俺がここに来るのは……」
「あなたは違う」
思わず口をついて出た強い否定の言葉。彼の驚いた顔。
「あなたが苦手なら、家に招いたりしない」
「あ、そうだな、すまん」
彼は、一昨日のことを思い出したのか、落ち着かないように視線を彷徨わせた後、
話題を変えるように明るい声で言った。
「でも、ハルヒがいるさ。そしてあいつのSOS団がな。
たぶん、これから色々振り回されるだろ。それもまた楽しいもんだぜ。なにしろ、あいつは、
こっちの都合なんて一切考えずに強制的に引っ張りまわすんだからな」
そういって、彼は微笑んだ。
そうかもしれない。それで、わたしも、彼と一緒に行動することができるのだから。
涼宮ハルヒと彼との特別な関係。でも、その意味では、わたしも彼とは特別な関係かも
しれない。わたしが彼を図書館の彼と同一視しているように、彼も、わたしを、
彼の知っているわたしと同一視しているように感じるから。
だから、彼が、彼の現状認識を話してくれたことは、嬉しかった。
気が付くと、もう夕方近い。
窓の外に目をやり、生徒会から呼ばれていたことを思い出した。憂鬱な気分。
「どうした?」
彼の声。文芸部のことで生徒会から呼び出しを受けていることを説明する。休部問題のこと。
「俺も一緒に行こうか?」
いや、これは文芸部の問題。彼は部員ではない。その意味では彼は文芸部とは無関係。
入部して欲しいのだけど、それは彼が決めること。
「いい」
そう彼の申し出を断って、私は席を立った。十五分か三十分程度で終わるだろう。
そう言うと、彼が、
「じゃあ、待ってるよ。もう少し、話があるんだ」
そう言った。
わたしは頷いて、イスから立ち上がった。
生徒会室。ドアをノックして返事を待つ。そして、ドアを開けた。
やはり人の前に出るのは苦痛だ。西日が射す生徒会室で、生徒会長が一人で机に座っていた。
緊張する。部屋の中に生徒会長一人しかいないことも緊張を増幅させる。
なぜ誰もいないのだろう。そう思い、いや、席を外しているだけかもしれないと思い直した。
生徒会長が、わたしを一瞥し、立ち上がる。
「長門さん。文芸部の件だが、今年は機関誌というか会誌は発行するのかね」
やはり機関誌の話。なぜ同じことを何度も聞くのだろう。
今までと同じように、年度末までには出すつもり、そう答える。
「ふむ。なら良いんだが……」
そう一人ごちて、
「噂で聞いたんだが、昨日、騒ぎがあったそうじゃないか」
心拍数があがる。なぜ知っているんだろう。
「他校の生徒と思われる生徒二人が、書道部から部員を一人連れ去って、文芸部に行ったとの
ことだったが、どういうことかな」
「……別に」
やっとそう答えた。
連れ去られた人というのは、昨日、涼宮ハルヒが連れてきた朝比奈みくるのことだろう。
確かに彼女は嫌がっていたが、最後は、涼宮ハルヒのグループに入るといっていたはず。
彼女が、どこかにクレームを言ったとは思えない。
もしそうなら、呼び出されるのは、生徒会からではなく、生徒指導室からなはずだ。
一体、何のつもりで、このようなことを言っているのか。
「それに、先日、一年五組で一騒ぎを起こして、授業をサボった生徒もいたそうじゃないか」
彼? 彼が授業をサボったとは初めて聞いた。たぶん涼宮ハルヒを探しに行ったのだろう。
「その生徒は、ここ何日か文芸部室に出入りしているようだが、彼は部員かい」
「違う」
関係ない。
「君は文芸部では一人だ。そんなところで、男子生徒と二人だけって言うのは感心しないな。
もっと付き合う人を選ぶべきではないかね」
関係ない。この人は、なぜ、このようなことをねちねちと言ってくるのだろう。
文芸部と関係ないことだ。
それに、そんな話は、生徒指導室の領分。生徒会が口を挟むことではない。
機関誌は発行すると言ったのだ。もう用事はない。
わたしは、ドアに向かって歩き始めた。
このまま会長の話を聞いていても、時間の無駄だとしか思えない。
そのとき、生徒会長が、わたしの腕を掴んだ。
驚いて振り向くと、そこに会長の薄笑いを浮かべた顔があった。
「まだ話は終わっていないんだ」
寒気を感じる。この部屋には彼とわたししかいない、そう思った瞬間、背筋が寒くなった。
わたしは、慌てて彼の手を振り解き、早足でドアに向かう。
しかし、会長は、笑みを浮かべたまま、回り込んできてわたしの前に立ちはだかった。
ドアは、彼の後ろ。
咄嗟に、夕日が差し込んでいる窓に向かって走った。誰かを呼ばなくてはならない。
嫌な予感で一杯だった。
その予感は、的中したらしい。
会長は、窓を開けようとしているわたしの肩に手をかけると、わたしを振り回すようにして、
乱暴に窓の横の壁に押し付けた。
背中と後頭部を壁に強く打って、一瞬、呼吸が止まる。なぜこんなことをするのだろう。
先日、彼が問い詰めてきたときとは、まったく違う、乱暴な振る舞い。
いや、考えている場合ではない。とにかく誰か呼ばなければ。
声を出そうと口を開こうとした瞬間、会長の掌で口を塞がれた。
薄ら笑いを浮かべた顔が近付いてくる。
恐怖と嫌悪で、反射的にわたしの口を塞いでいる腕をとり、振り払おうとした。
そのとき、彼の腕に力が入り、わたしの後頭部を壁に打ち付けた。
鈍い音。一瞬、目の前が真っ暗になる。
「あまり、乱暴なことはしたくないんだ。これでも君が好きなのでね」
鳥肌が立つ。何を言っているのだろう。意味が解らない。
男子は、好きな女子に、暴力的に迫るものなのだろうか。
彼がわたしを壁に押さえつけるように身体を寄せてくる。思わず、両腕で自分の胸を隠す。
会長は彼の身体全体で、わたしを押さえつけると、空いてる手で、わたしの太股のあたりを
触り始めた。口を押さえられているので息苦しい。吐き気がする。
「僕は、君が好きなんだ。だから……」
「ぅぐ」
反射的に声を上げる。でも、口が塞がれているので、唸り声にしかならない。
わたしの両足の間に、彼が膝を捻じ込んでくる。
両足が開かないように、膝に力を入れる。太股に彼の膝が当たって、痛みを感じる。
「足を開いたほうがいいよ。痛いから」
そういうと、彼は、膝でわたしの太腿を蹴ったようだ。
強烈な痛みを感じ、呻き声が漏れた。膝から力が抜ける。
「おっと」
そういいながら、彼の足が、わたしの両足の間に割り込んできた。
彼の膝が、わたしを持ち上げる。そこに感じる痛み。なぜ、こんな目に遭うのだろう。
わたしが何をしたと言うのか。
首筋に会長の息がかかる。嫌悪感で、思わず、首を振った。
わたしの口を押さえている手が動いて、わたしは、また後頭部を壁に打つ。
思わず呻き声が出る。眼鏡が飛んだ。視界がぼやけ、大きな耳鳴りがする。
痛み、恐怖、怒り、憎しみ。さまざまな感情が渦巻いて、
わたしは、自分が何をしているのか解らなくなった。
――誰か
両目をきつく瞑り、せめて、この苦痛が早く終わって欲しい、そう思った。
諦めが頭を過ぎった。こんな目に合うくらいなら、そう思ったのかも知れない。
腕の力が抜けそうになる。いや、だめだ。諦めたら、さらに苦痛を強いられるだろう。
会長の手が、制服の上からわたしの胸を弄る。痛い。痛みしか感じない。
思わず、彼のその腕を握る。でも、力が入らない。
あの夢とは大違いだ。あの時の彼とは大違いだ。
会長の膝、会長の手、会長の存在。それは、わたしに苦痛しか与えない。
わたしは、会長の死を半ば本気で願った。
現実を喪失する感じに襲われる。これは夢なのかもしれない。悪夢。
そのとき、何かがわたしの身体に広がった気がした。身体が反転する感覚。
イメージ通りに制御できるのだと言う確信。体中に力が湧き出してくる感じ。
文芸部室で待っているはずの彼の姿が脳裏に浮かぶ。その彼の心配そうな表情。
わたしは、掴んでいた腕を握り締めた。
「うっ、痛、何を、やめろ」
会長が驚いたようにわたしの手を振り解こうとする。
今なら、突き飛ばせる。そう思ったとき、何か大きな音を聞いた。
バタン!
次の瞬間、わたしの頭の横を、何か光るものが通り過ぎる。
「うわっ!」
会長の叫び声。何が起こったのだろう。何でもいい、この苦痛から解放されるなら。
「ぅぐわっ!」
そのような叫び声とともに、会長の身体が崩れ落ちた。わたしの口を塞いでいた手が離れる。
壁にもたれたまま、大きく口を開いて、息を吸う。何が起こったのか。
目を開くと、そこに、朝倉さんがいた。
「長門さん、大丈夫?」
そう心配そうな声で言って、彼女は、うずくまっている会長の頬に、光るものを当てた。
大きなナイフ。なぜ、彼女がそのようなものを持っているのだろう。
「会長さん、随分面白いことしてるのね。婦女暴行は重い罪よ」
「な、何を……」
「あら、言い逃れするつもり? ズボンのベルト、外しちゃってるじゃない。言い逃れできるの?」
「い、いや、これは……」
「安心して。写真撮っといたから」
「なに!?」
「現場写真。生徒会長、生徒会室で下級生に乱暴って感じ?」
「うっ」
「それとも、あんたのそれ切り落とした方がいいかしら。この先、新たな被害者が出る前に」
「ま、まて、これは未遂だ。それにそんなことしたら、お前だってただではすまないぞ」
「じゃあ、試してみる? 無理矢理するのが好きなんだよね。なら、される側の気持ちも
経験しとかないとね」
そういって、朝倉さんが、手に持ったナイフを振り上げる。
「うわぁっ、やめろ、やめてくれ!」
そう叫んで、両手を挙げた会長は、何か呻いて、すぐに両手を下ろした。
そのまま片方の手首を押さえている。
「ふーん。折れたんじゃない。その腕」
「なんだと? くそ、お前か」
獣じみた視線が、わたしに向いた。思わず、顔を背ける。
「自業自得でしょ。二度と、長門さんに近付かないと誓う?」
「ちっ、誓う。だから、それを仕舞ってくれ」
「まあ、停学になっても退学になっても、あんたにとっては、きっといい経験ね」
そして、彼女は立ち上がり、わたしの顔を覗き込んで言った。
「間に合ってよかった。さあ、行きましょ」
先程まで感じていた妙な感覚が消えた。力が抜ける。
痛みと恐怖で身体の震えが止まらず、思うように動けない。
「あ、朝倉さん……わたし……」
「大丈夫、大丈夫よ。長門さんは、わたしが守るんだから」
朝倉さんは、震えの止まらないわたしを抱きしめると、わたしの腕を肩に乗せ、
ゆっくりと歩き始めた。引きずられるように足を出す。太腿に力が入らない。
朝倉さんに引きずられるようにして、生徒会室を出た。
幸い、廊下には誰もいなかった。しばらく廊下で壁にもたれ、気分を落ち着ける。
多少気分が落ち着いてきたところで、朝倉さんは、わたしを女子トイレに連れて行ってくれた。
制服の乱れを直して顔を洗う。気持ちが悪い。何度も制服を払い、顔を洗った。
眼鏡どうしよう。きっと生徒会室だ。でも、しばらくは生徒会室に行きたくない。
かなり時間を掛けて、わたしは、朝倉さんに連れられて文芸部室へ戻った。
ドアを開けたとき、彼がわたしを見て、立ち上がった。
「長門? どうした? 朝倉、お前、まさか……」
「なに言ってるのよ」
「何があった?」
「ちょっとね。生徒会長のおいたが過ぎたみたい」
「なんだと?」
彼が近付いてくる。今は、彼に見られたくない。
わたしは、朝倉さんの後ろで隠れるように小さくなった。彼は愕然としているようだ。
「朝倉、何があったんだ?」
「どう言えばいいかな。でも、長門さんは大丈夫よ。少し絡まれただけ。何もされてないわ」
「何もされてないって……」
そう呟いた彼は、その言葉の意味を理解したのか、口をきつく結んでドアに向かおうとした。
止めなければ。
「大丈夫」
そう言って、俯いたまま彼の前に立つ。ここで彼が出て行けば、騒ぎが大きくになるに違いない。
「長門……」
彼はわたしに向かい、わたしの両肩に手を置いた。制服越しに彼の温もりを感じる。
顔を上げる。彼の心配そうな、でもやさしい瞳。先程までの気持ち悪さが消えていく感じ。
安堵感を感じる。
微笑もうとした。でもだめだった。視界がぼやける。涙が出そうだ。悲しいわけじゃないのに。
涙は見られたくない、そう思いながら視線を落とす。
と、彼の手が肩から離れ、次の瞬間、わたしは、彼の胸の中にいた。
彼の手がやさしくわたしの背中に回される。彼の匂い。あの夢と一緒だ。彼と一緒にいる夢。
わたしは、無意識に彼を抱きしめた。
つい先程、男子に襲われそうになった。なのに、今、彼に抱きついている。
普通なら、しばらく誰とも接触したくないと思うのではないだろうか。
でも彼は違う。彼に抱きしめて欲しかった。彼に抱きしめられると安心するから。
どのくらい彼に抱きついていたのだろう。
ふと、随分恥ずかしいことをしているのだと気が付いた。
わたしは、彼を抱きしめていた両手を離し、俯きながら言った。
「大丈夫」
部室の長テーブルに向かい、ことの顛末を彼に話したのは、それから少ししてから。
生徒会室で、急に生徒会長に迫られ、逃げようとして揉み合いになったこと。
そして、朝倉さんに助けられたこと。
彼は、顔をしかめてわたしの話を聞いていた。話し終わると、
「やっぱり、俺も一緒に行けばよかった。くそっ、今からでも一発殴りに行かんと気がすまん」
と、今にも立ち上がりそうな彼。その彼に朝倉さんが、どこかのんびりした口調で話しかける。
「会長は、たぶん退学ね。まあ、表沙汰になる前に転校すると思うけど。
それに、手首も骨折したみたいだし、今頃は病院に向かってるんじゃない?」
「骨折?」
「興奮してたからね。変な力が入ったんじゃないかな」
そう言って朝倉さんが、わたしに視線を送ってきた。わたしが? でも、よく憶えていない。
「ま、何にしても自業自得でしょ」
投げやりな感じで言った朝倉さんに、彼が反応する。
「そうだな。でも、お前、何処にいたんだ? 長門が危ないってよく解ったな」
「あら、言ったでしょ? あたしは長門さんを放っておけないの。守ってあげたいのよ」
質問の答えになっていない。でも、たしかにおかしいような気もする。
朝倉さんは、いつも、授業が終わるとすぐに下校していたはずだ。
今日に限って何か用事でもあったのだろうか。でも、お陰で助かった。
彼女の、守ってあげたい、という言葉。それは、昨日のことを連想させる。
彼を守らなければならないと思っていたことを。
しかし、わたしは、わたし自身も守れない。それで彼を守ることなんて出来るわけがない。
何となく悲しい気持ちになる。わたしも、朝倉さんのようになりたい。
「まあ、でも、そのお陰で長門が無事だったんだから、感謝しなくちゃな」
「あなたに感謝される覚えはないよ」
「何ってやがる。長門は俺の大事な友人だ。友人を助けてくれた恩人には感謝するさ」
「ふーん、友人ねえ、何時の間に友人になったのかしら」
朝倉さんが片目でわたしを見る。慌てて俯いた。頬に熱を感じる。
「まあいいわ。長門さん、だいぶ落ち着いたみたいだけど、まだちょっと心配だから
今日はあなたが送ってあげて。彼女、眼鏡なくしちゃったみたいだし」
「待て。お前、長門と同じマンションだろ? お前が一緒に帰ったほうが良いんじゃないか?」
「あたしは、ちょっと後始末」
朝倉さんが携帯電話を振りながら、わたしに笑みを見せ、部室から出て行った。
あの写真を使うのだろうか。でも、さすがに、生徒会長に同情する気にはなれない。
「なんだ、あいつは」
そう言いながら彼は、カバンを持つと、わたしに視線を向けた。
「なんだ、不謹慎かもしれないけど、やっぱり、眼鏡はないほうがいいな」
眼鏡のないわたし。聞いたことがある。そう、彼に言われたことがある。
彼、わたし、朝倉さん。朝倉さんが立ち去ってから、彼に言われたはず。
でも、何処で言われたのか思い出せない。
いや、言われたとすれば、彼が部室に来るようになってからなはずだ。
しかし、彼が部室に来るようになってから、眼鏡について言及されたことはなかったはず。
なんだろう、この気持ち。何かが変わっていくような感じ。視界が広がる感じ。
「どうした?」
彼の声で我に返った。彼がドアのところで立っている。
わたしは、カバンを持ったまま頭を振り、ドアに向かった。
まだ、先程の動揺が残っているのかも知れない。
帰宅途中、
「そういや、お前の部屋に朝倉が来たときは驚いたな」
と、一昨日のことを思い出したのか、彼が、何気なく言った。
「朝倉は、あいつが転校したことになったときにハルヒが気にしてたから、この世界で復活した
と考えれば、まあ納得できないこともないんだが、まさか、お前と友達だったなんてな。
しかし、相変わらずバイオレンスなやつだ」
その言葉が頭に引っかかった。ナイフを振り回す朝倉涼子。そういえば、彼の話では、
涼宮ハルヒは、わたしと朝倉さんの関係を知らなかったのではないだろうか。
パズルの欠片。
世界改変。涼宮ハルヒが望んでいない世界。涼宮ハルヒと古泉一樹が別の高校に通っていること。
彼が部室に現れた日の朝に見た夢。朝倉さんの行動。
眼鏡をかけていないわたし。一致しない図書館の思い出。そして、わたしの小説。
彼の知っているわたしが仕掛けた緊急脱出プログラム。
生徒会室で感じた妙な感覚。朝倉さんが言った守るという言葉。
感情を持った宇宙人製アンドロイド。彼と涼宮ハルヒの関係。
これらは、全て、一点に収束する。彼の言っていることは正しかった。
彼が改変されたのではない。この世界が改変されたのだ。