その日、わたしは、市立図書館の存在を知った。
それなりの書籍を保有し、一部を除き、無料で貸してくれるらしい。
わたしは逸る気持ちを抑えられず、その図書館の場所を調べ、一人で出かけることにした。
人の多いところは苦手なのだが、その日は気にならなかった。
期待を胸に入館し、並んだ書架を見て、心が躍った。
数多くの書籍。部室にはない本、高価で入手できそうにない本、希少で入手困難な本。
どれでも無料で借りられるのだ。まるで楽園。
図書館は人類最大の発明だ。
夢中で書架を回り、何冊か読みたい本を手にして、そこで気が付いた。
どうすればいいのだろう。貸し出してもらう方法がわからない。
周りを見回すと、貸し出しカウンターが目に留まった。
あそこで申し込めばよいのだろう。そう見当をつけて、カウンターに向かった。
「…………」
声を出そうとする。でも、職員の人は忙しそうだ。
何となく雰囲気に呑まれて、声をかけられない。どうしよう。
そうこうしているうちに、わたしの後ろに人が並び始め、恥ずかしくなったわたしは、
そのままカウンターの前から離れた。
なぜ堂々としていられないのだろう。自己嫌悪に陥りそうになる。
少し離れた場所から貸し出しカウンターに目を向けると、
借りる人は、何かカードのようなものを提示していた。あれが必要なのだ。
どこで申し込めばよいのだろう。見渡しても、それらしいところはない。
やはり、あのカウンターで申し込む必要があるようだ。
貸し出しカウンターに並ぶ人がいなくなったことを確認し、再度、カウンターの前へ。
「…………」
やはり気が付いてもらえない。
また後ろに並ばれるのも恥ずかしいので、少しカウンターの前をうろつくことにする。
職員の手が空いたら、カウンターの前に行こう。
「あの」
いきなり声をかけられ、身体が硬直しかけた。
「どうしました? その制服、北高ですよね」
振り向くと、男の人がわたしを見下ろしていた。
「…………」
声がでない。悪いことをしてたわけじゃないのに、なぜか後ろめたい気持ちになって、
そのまま俯いてしまった。
「あ、あの、どうかしました? 俺も北高なんで、何か困ってるなら」
やさしそうな声。同じ高校の人。助けてもらえるかも知れない。
うつむいたまま言った。
「……本」
「本?」
「借りようと」
「ああ……」
「どうしていいのか……」
「本を借りたい? 貸し出しカードは?」
「ない」
目を上げると、その人は額に手を当てていた。
わたしは泣きたい気持ちになっていた。いつもこうなのだ。人とうまく話せない。
自分の考えていることを相手に伝えられない。この人もあきれているに違いない。自己嫌悪。
今日は本を借りるのは諦めよう。人が少ないときに、またこよう。
そう思って、本を持ったまま戻ろうとすると、その人が言った。
「ここの本を借りたいのだけど、手続きがわからない。そういうこと?」
思わず振り向き、頷く。
「なら申込書に記入して、貸し出しカウンターに身分証明書と一緒に出せばいいんだけど」
きっと、わたしは途方にくれたような顔をしていたのだろう。
彼は、一つため息をつくと、
「身分証明書、持ってる? 何だったら手伝うよ」
そう言った。その正直そうな顔には、何かの意図があるようには見えなかった。
持っていたカバンから、生徒手帳を取り出し、その人に学生証を見せた。
「これ」
「お? 一年? 俺も一年なんだ。一年五組」
彼はそう言って笑顔を見せ、ここで待ってろよ、と言い残すとカウンターへ向かった。
「すいません。貸し出しカードの申込書ください」
そう言う彼の声が聞こえた。
彼が持ってきた申込書に記入すると、
「後はカウンターに、借りたい本と一緒に出せばいいのさ」
そういって、わたしの腕を取り、言った。
「あ、借りたい本、忘れるなよ」
彼の後についてカウンターへ向かう。職員はやはり忙しそうだ。
「すいません。お願いします」
彼の声に職員が振り向き、申込書を手に取った。怪訝そうに彼を見る。
「ああ、申し込むのは、こっち」
そういって、わたしの肩に手を乗せる。そして、わたしに言った。
「学生証を出して」
彼に言われるままに、生徒手帳を開いて、カウンターに出した。
生徒手帳はすぐに返され、そして、わたしの手には、借りた本と
新しい貸し出しカードが残った。
終わってみれば簡単なこと。でも、そのときのわたしには魔法としか思えなかった。
思わず彼の顔を見つめる。
笑顔を返してくれている。そして、やがてそれは困ったような表情に変わる。
なぜ困った顔をしているのだろう、ぼんやりとそう思った。
次の瞬間、わたしは、結構長い間、彼を見つめていたのだと気が付き、
恥ずかしさで俯いてしまった。
彼はやさしい人だ。
何か言わなくては、お礼を言わなくてはならない。でも、何ていえばいいんだろう。
焦りを覚えつつ、そう考えていると、
「キョンく〜ん?」
と大きな声がして、小学生くらいの女の子が、彼に抱きついてきた。
「こら、図書館で大きな声を出すんじゃない」
妹なんだ、そう言って彼は、その子の頭に手を置いた。はにかんだような微笑み。
かわいい子だな、そう思って彼の妹を見てると、
次に借りるときは、そのカードと一緒に、借りたい本をカウンターに出せばいい。
返すときは、本だけをカウンターに返せばいい。じゃあな。
そう言って、彼は、その妹と一緒に図書館を出て行った。
仲よさそうな兄妹。彼の妹が少しうらやましい。彼らの後姿を見ながら、そう思った。
彼にお礼を言ってない。でも、同じ学校、同じ学年。また会う機会はあるに違いない。
そのときに言おう。
帰宅途中は楽しい気分だった。なぜか道端の風景が違って見える。
それはきっと図書館で本を借りることができたからだけじゃないのかも。
名前聞くの忘れた、そう思ったのは、家に着いてからだった。