わたしは、一人、夜の校門の前に佇んでいた。  
なぜ、こんなところにいるのだろう。冷たい空気。孤独と寂寥。  
 
家に帰ろう。早くあの部屋に帰ろう。  
焦る気持ちで夜道を歩く。気が付くと目の前を朝倉さんが歩いていた。  
彼女が振り向き、やさしい笑顔で、手を差し伸べてくる。  
嬉しい。私は一人ではない。私は彼女の手を握ろうとする。  
 
でも違う。その手を振り払う。彼女の悲しそうな瞳。  
 
あの人が待っている。きっとあの部屋で待っていてくれる。  
だから、今は早くあの部屋に帰らなければ。早くあの人に逢わなければ。  
 
気が付くと、部屋のドアの前に立っていた。急いでドアを開ける。  
誰もない。わたしは部屋の中で座り込む。あの人はいなかった。  
 
そのまま膝を抱えてうずくまる。すると、突然、ドアが開いた。  
 
驚いて振り向くと、あの人が立っている。あの人が来てくれた。  
安堵感に包まれる。わたしは一人ではなかった。  
そして、あの人の許に駆け寄った。  
 
変な夢。わたしはぼんやりと窓の外を眺め、今朝見た夢を思い出していた。  
妙に現実感のある、でも、現実にはありえない、そんな夢。何だったんだろう。  
でもまあいい。夢は夢。わたしは精神分析医ではない。  
きっと、何かで読んだ小説の記憶、その断片だったのだろう。  
そう思いながら、その夢を詩か小説にできないだろうかと、ぼんやり考えた。  
 
文芸部では、年に一冊、活動実績としての機関誌を出さなければならないらしい。  
例年は秋の文化祭で配布していたらしい。  
今現在の文芸部員は、わたし一人だけ。文化祭では、何もしなかった。  
よって、年度末までに、一人で機関誌を作成、配布しなければならないのだろう。  
今は十二月。少なくとも二月中には原稿を揃え、製本作業に入る必要がある。  
あと二ヶ月弱。そろそろ本格的に準備に入らなければならない。  
読んだ本の感想とか、詩や小説もどきも書いてはいるが、完成には程遠い。  
でも、とにかくどんな形であれ、出さないと休部になるかもしれない。  
休部は避けたい。  
 
そんなことを考えているうちに、最後の時限が終わった。  
カバンを持って、急いで部室に向かう。書きかけの小説を書き進めなければならない。  
 
そう、わたしは小説を書いている。小説と言うより短編小説もどき。  
今のところ、とても人に見せられるようなものではない。  
でも、発行する機関誌の、浮き草程度にはなるかも知れない。  
 
それは、悪い魔法使いの女の子と、普通の男子高校生の話。  
女の子は、魔法を使って地球を征服するために、宇宙からやってきた。  
そして、男子高校生と出会い、一目惚れする。  
彼の近くで巻き起こされる色々な騒動。それを彼女は魔法を使って解決していく。  
彼もそんな彼女に心惹かれていく。そして、彼女は彼に想いを告げる。  
その結末は……  
 
……その結末は、まだ決まっていない。  
 
大体、宇宙人と人間で恋愛など成り立つのだろうか、こんな話で喜ぶのは小学生くらい  
なのではないだろうか。そのような後ろ向きな考えを払い落とし、結末を考える。  
そう、そんなことを考えていたら、フィクションなんて読めない。  
 
結末は、やはりハッピーエンドがいい。でも何か一捻り欲しい。どうする?  
 
考えながら歩いていると、何時しか部室の前に着いていた。  
部室の中には誰もいない。少し淀んだようないつもの空気。  
 
カバンを置いて、長テーブルに向かう。  
パソコンの電源を入れる。電源ファンの音が聞こえ、システムが起動し始める。  
このパソコンは古く、システムが立ち上がるまで、少し時間がかかる。  
その間、わたしはイスに座って、窓の外に目をやり、小説の結末を考えていた。  
 
ハードディスクにアクセスする音が消えた。  
わたしは、パソコンに向かうとエディタを立ち上げ、少し書いてみた。  
 
 彼女は、彼の前に立つと静かに口を開いた。  
 「あなたも知っているように、私は人ではない」  
 彼の瞳は、静かに彼女を見つめている。  
 「でも、あなたを好きになった。もう気持ちを抑えることができない」  
 彼は驚いたような顔をした。でも、すぐに穏やかな表情になる。  
 「そうか。何となく知ってたさ。お前はまったく人の常識を知らないからな」  
 そう言って、彼は微笑んだ。  
 その言葉を聞いて、不意に、彼女の顔が歪む。  
 「どうした? 俺もお前が好きだぜ」  
 彼女は、涙を流していた。  
 
なんだろう、この展開。自分で書いてて赤面しそうになる。  
読み直す。だめだ。陳腐。捻りもない。  
 
でも仕方がない。そもそも、わたしは、異性と付き合ったことがない。  
だから、多少表現が陳腐になるのは仕方のないこと。そう自分を慰めてみる。  
 
そもそも文芸部で出す機関誌に、このような告白描写があっていいものなのだろうか。  
少し展開を考え直したほうがいいかも。  
 
天井を見ながら、しばらく考える。  
 
だめだ。何も思い浮かばない。少し間を空けたほうがいいのかも知れない。  
とりあえず、今日はここまでにして、二、三日後にもう一度考えてみよう。  
 
ファイルを保存し、パソコンをシャットダウンする。  
パソコンの電源ファンが止まり、急に、静かになる。  
「ふう」  
ため息をつき、暗くなったディスプレイを何の気なしに眺める。  
その画面に、表情のない顔が映りこむ。能面のような、わたしの顔。  
 
わたしはひどく人見知りをする。  
高校入学後、もう半年も経つのに、異性の友人どころか同性の友人もほとんどいない。  
話しかけられても、うまく返すことができず、すぐに俯いてしまうから。  
みな呆気に取られた後、わたしの前から居なくなる。  
 
入学した当初は、それでも、クラスメイトがいろいろ話しかけてくれた。  
でも、今は、ほとんど会話することもない。  
例外は、同じマンションに住んで、同じ高校に通っている朝倉さんだけ。  
彼女は、明るくて、活発で、気さくで、美人。女子生徒にも男子生徒にも人気がある。  
クラスの委員長で、わたしの親友、と言うか、わたしの友人は、朝倉さんだけ。  
わたしとは正反対。わたしも彼女みたいになれたらと、いつもそう思う。  
 
そんなわたしが、男の人と付き合えるわけもないし、今は、それでもいいと思っている。  
本が読めれば、それで楽しいから。  
ただ、一人だけ、親しくなりたい、できればお付き合いしたいと思っている人がいる。  
それは、新緑の季節、半年ほど前に出会った人。五組の彼。名前は知らない。  
 
わたしは、初めて行った図書館で、彼に助けてもらった。とても嬉しかった。  
彼となら、それほど緊張することなく、普通に会話できるような気がする。  
気がするだけだけど。  
図書館で見た、彼の、彼の妹との仲よさそうな雰囲気は、彼がとても優しい人である  
ことをしているように思う。それは、とても微笑ましい光景だった。  
 
彼の姿は、その後、何度か校内で見かけた。その度、あのときのお礼を言わなければ、  
と思い、そう思いながら、結局、一度も声をかけることができていない。  
ただ姿を眺めるだけ。  
でも、あの人の姿を眺めるだけで、穏やかな気分になる。  
格好がいいわけではないのだけど、一緒にいれば、きっと楽しいに違いない。  
 
でも、彼はわたしのことを覚えていないようだ。  
廊下で擦れ違っても、わたしに視線を向けることはない。それは少し悲しいこと。  
 
もうすぐクリスマス。その夜、あの人と一緒に過ごせたなら。  
そう、あの人と二人で、クリスマス・イブを過ごす自分を想像する。  
他愛のない話をして、一緒にケーキを食べる。  
彼はきっとわたしの詰らない話でも、笑ってくれる。  
わたしもきっと笑っている。いつもの無表情なわたしじゃない。  
そして……  
 
ふと我に返る。わたし、何を考えてるんだろう。思わず、頬に手を当てる。  
熱を感じる。赤面しているのではないだろうか。  
周りを見回し、誰もいないことを確認する。  
誰もいない。誰もいるわけがない。ここは、わたし一人の文芸部室なのだから。  
 
軽く咳払い。  
図書館で借りたハードカバーをカバンから取り出すと、長テーブルに向かった。  
 
本当にわたしは何を考えているのだろう。  
 
どれほどの時間が経過しただろう。  
いきなりドアが開いた。反射的にドアに視線が向く。  
 
開かれたドアの先に立っている人影を見て、一瞬、目を疑った。  
あの人だ。なぜ、彼が? そう思うと同時に、何か既視感のようなものを感じていた。  
そう、この感じどこかで。  
 
どれだけの時間、わたしは彼を見ていたのだろう。凝視していたに違いない。  
彼は、わたしから視線を外すことなく部室に入ると、後ろ手にドアを閉めて言った。  
「いてくれたか……」  
そう、安堵の表情を浮かべて。  
 
彼の声。間違いない。図書館での記憶がよみがえる。  
でも、いてくれたか、とは、どういう意味だろう。約束も何もしていないはず。  
そもそも、あの図書館以降、彼と二人で会ったことはない。  
いつも気付かれないよう、遠くから見ていただけ。  
 
「長門」  
彼の声で我に返る。  
「なに?」  
わたしの名前を知っているようだ。なぜ、わたしの名前を?  
あの図書館でのことを、覚えていてくれたのだろうか。  
 
彼は、お前は俺を知っているか、と訊いた。  
もちろん知っている。図書館で助けてもらった。その後、何度も校内で見かけた。  
そして、朝倉さんのクラスメイト。  
 
「知っている」  
そう答えると、彼はいきなり意味不明なことを話し始めた。  
 
わたしが宇宙人に作られたアンドロイドで、魔法を使うとかなんとか……。  
 
何を言っているんだろう。まったく意味が解らない。  
どこか具合でも悪いのだろうか。大丈夫なのだろうか。  
それとも、誰かの悪戯なのか。  
でも、わたしにそんな悪戯をする人に心当たりはない。  
また、彼がそんな悪戯をするとは思えなかった。  
わたしは、どう答えていいものか解らず、視線を彷徨わせていた。  
 
「……それが俺の知っているお前だ。違ったか?」  
彼はそう締めくくって、わたしを見た。正気に見える真剣な眼差しで。  
 
何がどうなっているのか解らない。でも、悪戯ではないようだ。  
しかし、わたしには、彼の言っていることがまったく理解できない。  
わたしは、彼に何かしたのだろうか。そんなはずはない。  
では、わたしを誰かと勘違いしているか、または、誰かと混同しているのか。  
思い当たる節はない。  
でも、もしかしたら『俺を知っているか』と問われたときに『知ってる』と  
答えたのが悪かったのかも知れない。  
ならば、とりあえず謝って、彼の勘違いを正すべきだろう。  
「ごめんなさい」  
 
彼は、信じられないという顔をした。本気で驚いているようだった。  
わたしは、彼が五組の生徒であることしか知らない、それ以外は知らない。  
そう伝えた。ひどく動揺しているようだった。  
 
「……お前は宇宙人じゃないのか? 涼宮ハルヒと言う名前……」  
宇宙人? どういうことなんだろう。やはり、悪戯なのだろうか。  
「ない」  
そう答えると、彼は、そんなはずはない、と言いながら、こちらに近付いてきた。  
わたしが嘘をついている、そう思ったのだろうか。激昂している。  
 
襲われるかもしれない、そんな恐怖と、彼はそんなことするはずがないと言う思いが  
交錯する。しかし、彼が迫ってくるのを見て、恐怖が勝った。  
思わず立ち上がり、一歩下がる。  
 
彼はこんなことする人じゃない。これは何かの間違いだ。  
 
彼の手が、わたしの肩を掴む。逃げなければ。背中が壁に当たる。逃げ場がない?  
彼の顔が近付いてくる。逃げられない。思わず顔を背ける。心臓が早鐘を打つ。  
 
彼は、わたしに顔を近付けたまま、何か言っていた。  
世界が変わった、とか、ハルヒの代わりに朝倉が、とか、朝倉とお前は同類だ、とか。  
でも、それを聞く余裕はなかった。  
 
わたしは、怖くて悲しくて、彼がなぜこんなことをするのか、そればかりを考えていた。  
乱暴されるかも知れない。それは嫌だ。でもどうして。思考が千切れていくのを自覚する。  
声を上げなければ。悲鳴でも何でも。でもわたしの口から出たのは、哀願のような言葉。  
「やめて……」  
思わず、口をついてでる。声が震える。身体が動かない。  
わたしは顔を背けたまま、固く目を瞑って、目の前の恐怖に耐えていた。  
震えが止まらない。何も考えられない。誰か助けて。  
 
次の瞬間、わたしを揺らしていた彼の動きが止まった。  
 
「すまなかった」  
彼の声。先程までと調子の違う声。  
わたしの肩を掴んでいた彼の手が離れ、気配が薄くなっていく。  
「狼藉を働くつもりはないんだ。確認したいことがあっただけで……」  
 
ゆっくり目を開く。何がおきたのか。  
 
彼は、よろめくようにわたしから離れると、わたしが座っていたイスに腰を下ろし、  
そのまま呆然としている。  
 
わからない。状況が把握できない。  
でも、先程まで彼がまとっていた激情的な気配は、すっかり消失している。  
それでも、わたしは、動くこともできず、ただ立ち尽くしていた。  
 
彼は部室の中を見回し、ちくしょう、と呟くと頭を抱え、うなだれた。  
 
どういうことなのだろう。わたしが嫌だと言ったから?  
そんなことはない。いきなり理由不明で詰め寄られて、嫌だと思わない人はいない。  
 
何か理由がある。あるに違いない。彼は理由なく人に詰め寄ったりしない。  
根拠はないけど、そう思える。  
 
あの図書館でわたしを助けてくれた。やさしく笑いかけてくれた。妹に懐かれていた。  
その彼が、理由なく人に、女子生徒に、詰め寄ったりするとは思えなかった。  
そう、何かがあったのだ。彼を動揺させ激昂させた、何かが。  
 
実際、今、彼は何かに悩んでいるようだ。  
 
ゆっくりと、身体が解れていく。  
まだ鼓動は早いが、気分も少しづつ落ち着いてきた。思考が戻ってくる。  
 
頭を抱えてイスに座っている彼。  
 
と、彼がわたしを見上げて、口を開きかけ、  
何か言いたそうにして、そのまま黙りこくる。そして、立ち上がり、  
「すまん」  
そう謝って、別のイスを持ち、部屋の中央あたりでイスに座ると、また頭を抱えた。  
 
わたしにイスを空けてくれたのだろう。  
大丈夫。今の彼は、図書館で出会ったやさしい彼だ。いつもの彼だ。  
安堵を感じながら、わたしは、彼の姿を見つめ続けていた。  
 
ふと彼が顔を上る。目が合った。思わず、視線を床に向ける。  
 
「長門」  
彼の呼びかけに、身体がびくついた。まだ少し怖い。彼は、パソコンを指差し、  
「それ、ちょっと弄らせてもらっていいか?」  
と言った。  
 
パソコン? ネットにも繋がっていない、こんな古いパソコンを、  
一体どうする気なのだろう。使うだけなら、別に構わないのだけど。  
そう思って気が付いた。小説。彼にあの小説を見られたくない。  
このままパソコンを操作されたら、絶対、見られる。どうしよう。断ろうか。  
 
そう思いながら、彼に視線を向けると、真剣な、助けを求めるような目で、  
わたしを見ていた。  
何か理由がある。もしかしたら、彼のおかしな行動と関係があるのかも知れない。  
でも、あのファイルは見られたくない。少し考えた後、わたしは答えた。  
 
「待ってて」  
見られたくないファイルを隠してからなら、大丈夫だろう。  
 
パソコンの電源を入れる。  
システムが立ち上がるまでの間、何度か彼を見た。彼は座ったまま動かない。  
もし、ファイルを隠す前に彼が近付いてきたら、すぐに電源を切断するつもりだった。  
 
システムが立ち上がると、すぐにフォルダをつくり、そこへ見られたくないファイルを移動。  
その後、そのフォルダ配下の全てのファイルをパスワード付き圧縮ファイルにアーカイブ。  
元のフォルダを全て削除。これで大丈夫。  
 
「どうぞ」  
そう言って、席を立ち、後ろに下がった。  
彼が近付いてくる。先程の記憶が蘇り、少し身体が固くなる。  
 
「悪いな」  
彼はそう言ってイスに座ると、パソコンを操作し始めた。後ろからそれを眺める。  
彼は何かを探しているようだった。何もあるはずはない。  
 
しばらく彼はパソコンを弄っていたが、何もないと判断したのだろう。  
ディスプレイに視線を固定し、少し考えているような素振りを見せ、  
それから、どことなく疲労感を漂わせて、立ち上がった。  
 
「邪魔したな」  
 
その瞬間、何かが頭を駆けた。  
このまま彼が帰ってしまったら、もう会話することもできないかも知れない。  
 
彼は、いきなり部室に飛び込んできて、わたしに乱暴しようとしたように見える。  
でも、彼にそのつもりはなかったはずだ。そうでなければ、その後の行動が解らない。  
彼は冷静に自分の行動を思い返したとき、どう思うだろう。後悔するのでないか。  
わたしを見るたびに、自責の念を覚えるかも知れない。  
二度とわたしに近付こうとしなくなるかも知れない。  
 
それは困る。今の彼は先程の彼とは違う。  
先程の彼は、何か理由があって理性を失いかけてただけなのだ。  
 
それに、気になることもある。  
彼は、わたしが、彼の知っているわたしではないと知って、急に、激昂した。  
それは、わたしが、彼にとって、何か特別なものであるように思える。  
わたしが彼の特別な何か。それは、わたしの感情を揺さぶる考えだ。  
 
理由が知りたい。彼が自分を失いかけた、その理由を。彼がわたしに拘ったその理由を。  
 
また会えるように、またここに来ても良いのだと、そう彼に伝えなければならない。  
どうすれば、彼はそう伝えられるだろう。  
 
目を向けると、彼はドアに向かって歩いていた。  
 
「待って」  
思わず声がでた。彼が立ち止まり、振り向く。怪訝な表情。何か言わなくては。  
何を? 何でもいい、彼との繋がりが保てれば。でも、考えがまとまらない。  
このままでは、彼は行ってしまう。  
 
ふと本棚が目に入った。そうだ。本棚に挟んであった入部届け。  
それを手に取り、彼の前に立つ。まだ少し怖い。でも、大丈夫。  
 
「よかったら」  
彼は怪訝な表情のまま立っている。彼を直視できない。  
 
「持っていって」  
そう言って、入部届けを渡した。  
彼は、呆気に取られたような顔で、それを手に取った。  
 
彼が出て行った部室で、わたしはイスに座っていた。  
まだ、頭の中が整理できていない。少し震えも残っている。  
 
彼は変な女だと思っただろうか。  
いきなり部室に乱入し、問い詰めてきた男に、入部届けを渡す。  
これでは、迫ってきてくださいと言っているようなものだ。  
そう考えて、落ち込んだ気分になる。  
 
しかし、そもそも部室に乱入し、わたしに迫ってきたのは彼だ。  
そして、わたしが何かでないと知って、急に、逆上した。  
何か夢でも見て、寝ぼけていたのだろうか。それにしても。  
まさか、気が違ったなんてことは……。  
いや、問い詰めてきたときの彼の瞳。狂気は感じられなかった。  
 
彼が激昂し、迫ってきたときの彼の表情を思い出す。そして落ち着いた後の彼の表情。  
どちらにも狂気は感じられなかった。あったのは、驚き、戸惑い、怒り、絶望。  
 
それに彼は何か気になることを言っていた。それを聞いたとき、おかしいと思ったのだ。  
何だろう。  
 
そう、朝倉さんだ。彼は、朝倉とお前は同類だ、そう言っていた。  
 
朝倉さんはわたしの友人。唯一の友人で、親友と言っていい。  
でも校内で一緒にいたり、会話をしたことは、ほとんどない。クラスも違う。  
わたしは休み時間をほとんど、この部室で過ごすし、彼女は、クラスメイトと過ごす。  
わたしと彼女が会うのは、マンションの部屋だけだ。  
 
だから、彼は、わたしと朝倉さんの関係を知らないはず。  
 
もしかしたら、朝倉さんからわたしのことを聞いたのだろうか。  
でも、彼と彼女は、それほど親しくないはずだ。単なるクラスメイト。  
それに、彼女から彼の話を聞いた記憶もない。  
 
わたしと彼が知り合いだと知っていれば、朝倉さんが、彼にわたしのことを  
話してもおかしくない。共通の知り合いだから。  
でも、わたしと彼に接点がないと思っているなら、彼女が、わたしのことを  
彼に話すのは不自然だ。  
そして、彼女は、わたしが彼に助けてもらったことを知らないはず。  
図書館のことは、誰にも話してないから。  
 
何かがおかしい。偶然なのだろうか。  
偶然、彼が朝倉さんの名を口走っただけなのだろうか。  
 
それに。  
 
涼宮ハルヒ。彼は何度かその名を言った。聞いたことのない名前だ。  
何となく気になる。  
 
もやもやした気分で、帰宅の準備をする。  
そうだ、家に帰ったら、朝倉さんに聞いてみよう。  
わたしのことを、彼に話したことがあるかどうか。  
 
彼はわたしの名を知っていた。それもやはり気になる。  
半年前に学生証をちらっとみただけで、覚えていられるものなのだろうか。  
 
帰宅し、リビングのこたつ兼テーブルに座る。  
今日は一体何という日だったのだろう。ため息がでる。  
 
晩ご飯どうしよう。買出しに行く気にもならない。何かあっただろうか。  
のろのろと立ち上がると、台所へ向かった。  
 
そのとき、インターホンが鳴った。パネルに向かう。朝倉さんだった。  
彼女は、カレー作りすぎちゃって、そう言いながら、部屋に入ってきた。  
これは好都合。彼のことを聞ける。  
 
「今日ね、妙なことがあったのよ」  
テーブルでカレーを食べながら、話し始める。  
 
「クラスの男子生徒なんだけど、わたしに向かって『どうしてお前がここにいる』ってね」  
彼女の話では、その男子生徒は、昼休みに、すごい剣幕で朝倉さんに向かい、  
お前は転校したはずだ、とか、その席はお前の席じゃない、とか、大騒ぎしたらしい。  
 
嫌な予感。  
 
「そうそう、それでね、ハルヒって生徒、知らないかって訊いてくるのよ」  
やはり彼だ。ハルヒ。涼宮ハルヒ。彼もわたしに、そう訊いてきた。  
「風邪で熱でもあったのかしら。本当にびっくり」  
保健室に行くように進めたらしいけど、午後の授業は普通に受けたらしい。  
 
彼は、その後に部室に来たのだ。教室で、わたしの名前を言うことはなかったらしい。  
もし彼がわたしの名前を出していれば、彼女は、それを言うはずだ。  
 
そして、彼女は、その男子生徒の名前もニックネームも言わなかった。  
やはり、わたしが彼を知っていることは、知らないらしい。  
わたしが彼を知っていることに気が付いていれば、彼の名を出すだろう。  
 
「彼、大丈夫かしら。ちょっと心配」  
 
彼女は、クラスメイトを心配する表情を見せた後、話題を変えた。  
 
朝倉さんが帰ったあと、わたしは部屋で考えていた。  
 
彼は、教室でも騒ぎを起こしていた。  
やはり、何かの狂気に囚われたのだろうか。  
彼がおかしくなったのは、朝倉さんを見てからだったようだ。  
 
気になることはある。  
彼は、わたしと朝倉さんが同類だと言っていた。  
知り合いでも友達でもなく、同類だと。  
わたしと朝倉さんは友人。でも、彼はそれを知らないはず。  
それに、友人関係を指して、同類と言うだろうか。  
それは、もっと密接な関係を指して言うのではないだろうか。  
同じ趣味を持っているとか、同じ仲間だとか。  
その意味では、わたしと彼女は、同類とは言えない。  
 
そして、わたしのことを知っていると言っていた。  
彼の知っているわたしは、宇宙人か宇宙人の作ったアンドロイドらしい。  
そして魔法のような力を使う。それは、わたしではない。  
 
宇宙人、魔法使い。  
彼がわたしの小説もどきを知っているはずがない。誰も知らないはずだ。  
それに、彼が部室のパソコンに触れたのは、彼が落ち着いてからだ。  
 
おかしい。  
ただのうわ言にしては、個々の話が、微妙に合致しているような気がする。  
 
わたしの名前を知っていたこと。わたしが文芸部にいること。  
わたしと朝倉さんの関係。そして、男子高校生と魔法使いの宇宙人。  
 
わたしはしばらく前に読んだSFを思い出していた。  
平行世界。可能世界。  
彼の言っていたことが実現している世界があるのかも知れない。  
わたしの小説もどきの世界が。  
 
いや、そんなことはあり得ない。でも何かが引っかかる。  
エヴェレット。クリプキ。ベピーユニバースや多世界解釈はどうか。  
妙な方向に考えが向かう。やはり彼の妄想だと考えるのが自然なのだろう。  
 
でも、仮に、彼の言っていることが本当だったとしたら?  
彼は何といっていた? そう、世界が変わった、そう口走っていた。  
 
彼は、彼の言うような世界にいて、理由も解らず、この世界に来た。  
彼の世界とこの世界は、彼を取り巻く環境に微妙な違いがあって、  
それゆえ、彼はパニックになった。  
 
決定的に違ってたのは、朝倉さん?  
そして、わたしのところへ来た。その理由を知るために。  
でも、わたしも、彼の知っているわたしとは違っていた。  
彼は、それを受け入れられなかったのだろう。だから、思わず逆上した。  
と、言うことは、わたしは、彼の特別な何かだったのだろうか。  
彼の特別なわたし。それは悪くない。頬が緩む。いや、それはそれとして。  
 
そう考えてみると、辻褄が合っているように思える。  
しかし、そうすると、昨日までの彼はどこに行ったのか。  
 
それにしても、涼宮ハルヒ。  
彼は、涼宮ハルヒをとても気にしていたようだった。  
涼宮ハルヒとは、誰だろう。気になる。  
 
「ふう」  
まるでSFだ。真剣に考えている自分が馬鹿らしくなる。  
 
考えていても思考がループするだけだ。  
明日、彼に会えたら、彼の話を聞いてみよう。何か気が付くことがあるかも知れない。  
会えなかったら? それは考えたくない。  
 
もう、寝よう。  
 
彼の掌がわたしの胸を包む。少しくすぐったいような、そんな感じ。  
彼の顔が近付き、わたしの唇を彼のそれでふさぐ。舌が割り込んでくる。  
絡み合う舌。激しくなる息遣い。  
 
彼は唇を離すと、それをわたしの胸に近付け、軽く挟み、軽く押す。  
身体に電流が流れる感じ。背中の筋肉が収縮する。  
身体の自由が利かない感じ。彼の手が、わたしの腰に回る。  
 
わたしは彼の背中に手を回し、ゆっくり上体を倒す。  
彼が、少しづつ、わたしに身体を預けてくる。  
仰向けになったわたしに、彼の身体がのしかかる。  
彼の重さを感じ、それがとても心地よいことに気が付く。  
 
彼の手がわたしの下半身に触れる。  
彼の指を感じた瞬間、身体が跳ねる。  
 
早く。そう思っていた。早く。  
彼の頭を両手で掴む。彼の髪を。そして、腰を少し浮かす。  
 
そのとき不意に、違和感とひきつるような痛み。思わず声が漏れる。  
 
彼を感じる。彼は口を私の耳元に近付け、わたしの名前を呟く。  
幸せな気分。いつまでもこうしていたい。彼の背中を抱きしめる。  
 
彼が動き始め、そのたびに私の口から息が漏れる。  
何かがせりあがってくる、そんな感じ。  
もっと、深く繋がりたい、そんな感じ。  
 
次の瞬間、彼が膨らみ、痙攣した。私は収縮する。  
彼を感じ、そして、頭の中が真っ白になる。  
 
そのまま、きつく抱きしめあう。鼓動が伝わる。彼は温かい。  
私はとても幸せな気持ちだった。  
 
吐息が聞こえた。  
 
そして……  
 
!!  
飛び起きた。反射的に周りを見回す。わたしの部屋。一人だ。  
自分の姿を確認する。パジャマ。窓からは朝日。  
 
力が抜けた。脱力感。  
 
夢? そう、夢。  
 
何という夢を。  
わたしは恥ずかしくなって、思わず、両手で顔を覆った。顔が熱い。  
 
わたしは、彼と、裸で抱き合っていた。愛し合っていた。信じられない。  
でも、妙に現実感のある夢だった。  
 
わたしは眼鏡をかけ、立ち上がろうとして、動きを止める。  
下着を替えなければ。  
 
なぜ、あのような夢を見たのだろう。  
やはり、昨日の一件が原因だろうか。部室で、彼が迫ってきたことが。  
男の人にあのような形で迫られたのは、初めてだった。怖かった。  
あの時は、恐怖で身動き一つできなかったのに、それが原因であのような夢を見るなんて、  
まるで、変態だ。わたしはどうかしてしまったのか。  
 
でも、あの夢。あの幸福感。あのような気持ちを感じたのも、初めてだ。  
 
一体、何を考えているのだ。  
わたしは頭を振ると、シャワーを浴びるため、浴室に向かった。  
自己嫌悪で一杯だった。  
 
シャワーを浴び、何とか気持ちを落ち着けると、制服に着替え、リビングのテーブルに座った。  
 
ため息が出る。あの夢は、わたしの願望なのだろうか。  
確かにわたしは、彼と親しくなりたいと、お付き合いしたいと考えている。  
でも、今まであのような夢を見たことはなかった。  
想像してたのは、手を繋ぐくらい。抱き合うなんて。  
そもそも、彼とは、ちゃんと話をしたこともないし、手を握ったこともなかった。  
 
やはり、昨日の一件が原因か。  
でも、いきなり迫られて、恐怖を感じるような状況で、なんて考えたくもない。  
 
ただ、彼が身近に迫ってきて、彼の姿を間近で見たことで、それがわたしの  
願望を刺激したのかも知れない。  
 
わたしの願望。何と言うことだ。思考が止まる。  
でも、否定する気にはならない。否定できない。  
夢の中のわたしは、幸せだった。  
無理矢理迫られるのは嫌だけど、あの夢のようにやさしくされたら。  
 
そう思うと、不思議と嫌な気持ちは消えていった。  
 
しばらく、そのようなことを考え、わたしは学校へ向かった。  
今日は会えるだろうか。部室に来てくれるだろうか。  
文芸部に入部してくれると嬉しいのだけれど。  
 
その日から短縮授業で、午前中で授業が終わりだった。  
すぐに、わたしは部室に向かった。  
 
部室に入り、登校途中で買ったサンドイッチを食べ、その後、  
図書館から借りてきたハードカバーをカバンから取り出す。  
そして、いつものイスに座って読み始めた。  
 
彼が来るかも知れないので、小説書きは、しばらく封印。  
やはり、彼には知られたくない。  
 
ハードカバーを読み始めて、すぐ、ドアをノックする音がした。  
返事をすると、ドアが開き、そこに彼が立っていた。  
 
彼の顔を見て、すぐに視線を手元に落とす。  
そのまま見てたら、顔が赤くなるような気がする。  
 
「またきてよかったか」  
彼はそう問い、わたしは頷いた。来て欲しかったから。  
 
彼は部室に入ると、カバンを置いて、そのまま立ち尽くしているようだった。  
さて、何をしたものか、そう考えているように。  
 
雰囲気が、昨日とまったく違う。焦燥も怒りも絶望も疲労もない、普通の彼。  
図書館での彼。今まで、校内で見かけていた彼だった。  
わたしは、内心ほっとしていた。  
 
今日も彼に詰め寄られたら、どうしようかと、少しだけ考えていたから。  
やはり、あのように意味不明な言葉と共に詰め寄られるのには、恐怖を感じる。  
今の彼になら、図書館のことや、昨日彼が言ってたことを訊いても大丈夫だろうか。  
 
彼は本棚に向かい、並べられた本の背表紙を眺めている。  
これ全部お前の本か、彼がそう聞いてきた。前から置いてあったものもある、そう答えて、  
もしかしたらと思いながら、手元のハードカバーを見せて、続けた。  
 
「これは、借りたもの。市立図書館から」  
 
彼は、あまり興味なさそうに、わたしの持つハードカバーを一瞥すると、  
また、本棚に向かった。  
 
図書館のことは、覚えていないようだ。少し悲しい。  
その思いが表情にでそう気がして、また、視線を手元のハードカバーに落とした。  
 
しばらくして、彼は、小説は書かないのかと訊いてきた。心拍数が跳ね上がる。  
なぜ、そんなことを訊くのだろう。  
もしかしたら、昨日、気付かれたのだろうか。いや、そんなはずはない。  
「読むだけ」  
そう否定した。  
彼は、納得したようなそうでないような微妙な表情をしたが、また本棚に視線を戻した。  
それ以上、その話に興味はないらしい。安堵。  
 
彼から話しかけられる度に心拍数が上がる。でも、嫌じゃない。楽しいくらい。  
この部室で、わたしは彼と二人きりなのだ。  
それは、以前から望んでいたものなのだから。  
 
突然、彼が、こちらを振り向いた。焦りの色をその瞳に浮かべて、大またで近付いてくる。  
わたしは、昨日のことを思い出して、急に不安になった。  
彼は、真剣な顔でわたしの前に立つと、少し震える手で、栞を差し出して言った。  
「これを書いたのはお前か?」  
また詰問されるのだろうか。不安を押し殺して栞を見ると、何か書いてある。  
 
『プログラム起動条件・鍵をそろえよ。最終期限二日後』  
 
わたしの字だ。間違いない。似ているとかのレベルじゃない。  
でも、まったく覚えがない。書いてある内容の意味も解らない。  
どういうことなのだろう。  
わたしの字だと答えるのは躊躇いがあるので、わたしの字に似ているけど覚えがない、  
そう答えた。  
彼はわたしの答えを、上の空で聞いているようだった。  
 
そうだろうな、そう呟いて、栞を凝視している。  
 
焦りの色は消え、何か考え込むような表情となり、そして、何かに気が付いたように  
本棚に向かうと、片っ端から本を出して、そのページを捲り始めた。  
 
わたしは、彼が何をしているのか理解できず、ただ呆然と見ていた。  
 
全ての本を調べ終わったのだろう、彼は、長テーブルに向かい、ここで  
弁当を食べてもいいかと聞いてきた。何も問題はないので、頷く。  
彼は弁当を食べながら、ひたすら何かを考えているようだった。  
 
どうしたんだろう。昨日の彼の態度と関係があることなんだろうか。  
変わった世界。朝倉さん。宇宙人であるわたし。涼宮ハルヒ。  
彼は弁当を片付けた後も、テーブルで考え続けているようだった。  
 
とても、話かけられる雰囲気ではない。  
彼の姿を視界の端に捉えたまま、わたしは、どうするか考えていた。  
彼に、図書館のことと、彼の知っているわたしのことを訊きたかった。  
 
先程の栞を見たときの彼は、普通ではなかった。  
何か重大なものを見つけた。そんな感じ。そして、その後、考え続けている。  
あの栞はなんだったんだろう。確かにわたしの字だった。  
もしかしたら、彼の言っているように、もう一人のわたしがいて、  
あの栞に、あの文言を書いたのだろうか。  
 
もう一人のわたし。わたしとは違うわたし。彼の特別なわたし。  
そう考えたとき、今朝の夢を思い出した。妙に現実的な夢。彼と抱き合ってた夢。  
顔が赤くなってくるような気がする。  
 
あの夢が、もう一人のわたしの記憶だと言うことはないんだろうか。  
わたしは二重人格で、宇宙人と称して、彼と知り合いになっていたとか。  
いや、ありえない。いくら二重人格でも、魔法は使えないだろう。  
そういえば、昨日の夢。あれも、不思議な夢だった。  
 
そんなことを考えているうちに、何か変な気持ちになってきた。  
現実感を喪失するような感じ。夢の中のような、そんな感じ。  
 
昨日の朝の夢も、今朝の夢も、彼が出てきた。  
そして、今朝の夢は、どう考えても一線を越えたとしか思えない。  
わたしはその情景を思い出し、顔が熱くなるのを自覚した。  
 
ふと、視界の隅で、彼が動いた。こちらを眺めているような気がする。  
見られてる。そう思うと、動悸が早くなる。  
わたしの考えていることが、知られているのではないだろうか。  
そう思うと、余計に、今朝の夢の内容が脳裏に浮かび、  
息苦しさまで感じるようになってきた。  
 
落ち着かなければ。少し深めに息をする。  
彼の視線が外れ、少しだけほっとする。  
 
息を整え、もう一度、考えをまとめる。  
 
彼は、昨日の逆上を除けば、まったく普通の人に見える。  
今日は、意味不明なことをわめき散らしたりしていない。  
そして、先程の栞。  
彼が言っていたことは、本当なのだろうか。  
 
しかし、わたしが宇宙人だなんてことがあり得るだろうか。  
わたしは、魔法も使えない、普通の女子高生だ。  
 
そうなると、彼は異世界人なのだろうか。この世界の隣にある平行世界。  
その世界では、朝倉さんはいなくて、わたしは魔法使いで、  
彼とわたしは図書館で会っていない。そして、涼宮ハルヒがいる。  
 
訊きたい。彼は、本当に図書館のことを知らないのだろうか。  
彼の本当の考えも訊きたい。彼の現状認識は、どうなっているのだろう。  
 
彼は、わたしの個人的な情報を、他にも知っているのだろうか。  
それが解れば、彼の話も信じられるような気がする。  
 
「今日は帰るよ」  
彼は立ち上がり、そうわたしに言った。  
 
そういえば、もうすぐ下校時間。話を訊けなかった。  
いや、一緒に下校すれば、その道すがら何か訊けるかもしれない。  
 
「そう」  
わたしも立ち上がる。ハードカバーをカバンに入れ、彼が歩き出すのを待った。  
 
彼はわたしに向き直ると、口を開いた。  
「お前、一人暮らしだっけ」  
何気なく確認した、そんな感じ。  
 
落ち着かない気持ちになる。なぜ知っているんだろう。  
彼がそれを知っているはずはない。  
やはり、彼の言っていることは本当なのだろうか。  
適当に言ったことが、事実と合致する確率は、どのくらいだろう。  
軽く眩暈を感じた。  
 
「そう」  
そう答えて、俯く。やはり、この彼は、あの図書館の彼ではないのかも知れない。  
図書館の彼は、わたしが一人暮らしであることを知らないはずだ。  
何となく悲しい気持ちになる。  
 
彼は、わたしの返答に驚くこともなく、  
猫でも飼ったらどうかと言うようなことを言っていた。  
 
本当に彼は、わたしの知っている彼ではないのだろうか。  
彼は、本当にあの図書館でわたしを助けてくれた彼ではないのだろうか。  
どうしても、信じられない。普通にしていれば、何の違和感もないのだ。  
 
でも、彼は、彼が知っているはずのないことを知っている。  
やはり訊きたい。図書館のことを訊かなければ。  
 
そう思い、息を吸うと、  
「来る?」  
そう口走っていた。  
「どこに?」  
「わたしの家」  
何か変なことを言っただろうか。彼は固まっているようだ。そして口を開き、  
「いいのか?」  
そう聞いた。  
「いい」  
そう答えて、彼が固まった理由に思い当たった。  
 
一人暮らしであると認めた後に、家に誘ったのだ。  
普通に考えて、いや、考えなくても、それは特別な意味を持っているのではないだろうか。  
話を訊きたいだけだったのだが、結果的に、変なことを言ってしまった。  
顔が熱くなる。変な女だと思われたに違いない。  
二度しか会っていない女から自宅へ誘われたのだ。普通じゃない。  
彼は断るだろうか。普通は断るだろう。  
 
わたしは俯いたまま、部室の戸締りをして、廊下に出た。  
断るつもりなら、ついてはこないだろう。そのまま歩く。  
彼はついて来ているようだった。断られなかった。そう思い、少し嬉しかった。  
 
彼は二人きりになっても、無理に何かをしようとはしないはずだ。  
でも、そうなっても良いかも、そう考えて、そう考えたことに驚く。  
あの夢のせい。  
 
自宅の扉を開け、彼を招き入れた。  
彼は躊躇することなく、リビングまで進んだ。その顔に、久しぶりだ、と言うような  
懐かしそうな表情が浮かぶのを見て、また落ち着かない気分になる。  
彼はわたしの部屋に来たことがある。そんな確信めいた気持ち。  
 
彼は立ったまま、和室の襖を指差すと、  
「この部屋、見せてもらってもいいか?」  
そう聞いてきた。その部屋は使っていない。なぜその部屋を? そう思ったが、  
何か気になることがあるのかも知れない。  
「どうぞ」  
そう答える。  
 
彼は襖を開け、しばらくその室内を見つめ、襖を閉めた後、こちらに向き直り、  
無言で肩を竦めた。  
 
やはり、彼はこの部屋を、わたしの家を知っているのだ。  
 
コタツ兼用のテーブルに湯のみを置き、お茶を注ぐ。  
気持ちを落ち着け、考えをまとめる。彼がテーブルの向かいに腰を下ろした。  
 
訊かなければならない。  
でも、今、わたしは、彼と知り合いになれた。それは嬉しい。  
彼は部室に来てくれて、家にも来てくれた。  
このまま、余計なことを訊かなくても良いのではないか。  
これで、十分、満足できるのではないか。  
 
しかし、彼が、わたしの記憶にある彼ではないとしたら。  
あの図書館のやさしい彼ではないとしたら。  
 
やはり、訊かなければならない。  
 
そして、しばらく躊躇した後、わたしは口を開いた。  
「わたしはあなたに会ったことがある」  
彼は、驚いたような顔で、わたしを見た。  
 
今年の五月、図書館で、わたしはあなたに会った。  
あなたは、わたしに貸し出しカードを作ってくれた。  
 
「お前」  
彼は目を見開いたまま、一言発して、そのまま絶句した。  
驚いた顔に、何かを思い出したような表情を加えて。  
 
覚えていてくれた。胸が熱くなる。彼はわたしの知っている彼だ。  
続けて図書館での出来事を話す。  
 
彼は、黙ったまま聞いていたが、徐々に、その表情が曇ってくる。  
嫌な予感がした。  
話し終わったとき、彼は、呆気に取られたような顔をしていた。  
そして、そのまま、黙り込んだ。少し寂しげに見えた。  
 
その様子から、彼が、図書館に思い出があるのは確かだと思った。  
そして、それは、わたしの記憶と違うのだということも。  
徐々に気持ちが沈んでいく。  
 
やはり、彼は、わたしの知っている彼ではないのだろうか。  
悲しくなって、わたしは手元の湯飲みを見つめ、その飲み口を指で撫でた。  
 
彼は、覚えているとも、覚えがないとも言わず、ただ、黙っている。  
なぜ黙っているのだろう。  
わたしの記憶と彼の記憶で、違うところがあれば、そう言って欲しかった。  
 
どれほどそうしていただろう。  
彼にわたしの記憶のどこが違うのか聞こうと、口を開きかけた、そのとき、  
インターホンが鳴った。  
 
朝倉さんだった。彼女は、毎日来るわけではない。  
時々、料理をつくりすぎたときだけ、お裾分けに来る。  
昨日来たばかりだ。今日も来るとは思わなかった。  
 
困った。部屋には彼がいる。彼と一緒にいることを朝倉さんに知られたくない。  
何とかごまかして、帰ってもらうわけには行かないだろうか。  
 
インターホン越しに、今は都合が悪いのだと伝えようとしたが、諦めた。  
彼女に口で敵うわけがない。しかたがない。  
でも、別にやましいことをしてたわけでもないのだ。気に病む必要はない。  
そう自分に言い聞かせて、ドアを開けた。  
 
リビングに入った彼女は、驚いていた。  
それはそうだろう。意味不明なことを話していた彼女のクラスメイトが、  
わたしの部屋にいるのだから。わたしと二人きりで。  
彼も彼女の姿を見て、ひどく驚いているようだった。  
 
彼女はおでんを持って来ていた。やはり、作り過ぎたらしい。  
わたしは、小皿と箸を取りに台所へ向かい、彼女は彼に何か聞いているようだった。  
彼の、彼女に対する返答には、何となく棘が感じられる。彼女が苦手なのだろうか。  
少し意外な感じ。でも、それになぜか安堵を感じる。なせだろう。  
 
小皿と箸、練りからしを持ち、台所をでたところで、彼と出くわした。  
驚いて、思わず声がでる。  
 
「帰るよ。やっぱ邪魔だろうしな」  
そう彼は言った。  
まだ、それほど遅い時間ではない。話も中途半端なままだ。  
わたしは、彼から図書館のことを聞いていない。  
 
彼は玄関に向け身体を回す。思わず彼の袖をつまむ。  
 
彼は驚いたように立ち止まり、わたしを見る。  
行かないで欲しい。もう少し一緒にいて欲しい。  
わたしは、ただそんな気持ちで、彼の袖をつまんでいた。  
彼が帰ると言えば、止められないのだ。そう思いながら。  
 
そして、話を聞きたいだけでない、自分のその気持ちも自覚した。  
わたしは彼と、できるだけ一緒にいたい、そう思っていた。  
 
彼は、しばらくそのまま立っていたが、  
「――と思ったが、喰う。うん、腹が減って死にそうだ」  
そう言って、身体を回し、リビングに戻った。  
 
わたしの気持ちを解ってくれたのだろうか。嬉しかった。  
 
その後、わたしと彼、朝倉さんの三人で一緒におでんを食べた。  
朝倉さんの料理は、どれもおいしいのだが、今日のは特別。  
彼と一緒に食べるおでん。とてもおいしい。これで二人きりなら。  
そう考え、朝倉さんを少しだけ疎ましく思った。彼女は何も悪くないのに。  
彼は少し気詰まりなようだった。少し残念。  
 
おでんを食べ終え、朝倉さんは、残り物の保存と、お鍋を明日取りに来る旨、  
わたしに伝えると、立ち上がった。  
それをきっかけにするように、彼も立ち上がる。  
 
まだ話が終わっていない。彼の話を聞きたい。もう少し一緒にいたい。  
そう思ったが、もう時間も遅い。これ以上、引き止められないだろうし、  
彼がここに残った場合、朝倉さんも一緒に残るような気がした。  
それはそれで困る。  
 
それに、わたしは、わたしのことをあらかた話してしまった。  
彼が、自分のことを話したくないと思えば、わたしに話す必要はないのだ。  
そう思うと、気分が沈んでくる。  
 
玄関に向かう彼らの後について、玄関まで行った。  
朝倉さんはもう出ている。彼は、玄関で靴を履いた後、わたしに近付き、  
囁くように言った。  
 
「明日も部室に行っていいか?」  
 
もちろんだ。そう思い、明日も彼に会えるのだと思った。  
急に気持ちが軽くなるのを感じた。とても嬉しかった。  
 
彼は少し驚いた顔をして、通路に出た。  
エレベータホールの彼らを、ドアを少し開けて見送る。  
 
彼らがエレベータに乗ったのを確認して、リビングに戻る。  
帰り際の、彼の言葉と顔を思い出す。少し頬が緩む。  
そして、彼は何に驚いたのだろう、そう思った。  
 
彼が部室にやってきてから、わたしは随分変わったような気がする。  
まだ二日しか経ってないのに。  
なにより、彼のちょっとしたことで、気分が高揚したり落ち込んだりする。  
 
それに、彼の前では、とても積極的になっているような気もする。  
ふだんは、他人に、自発的に何かすることなんてないのに。  
 
そして思う。  
彼が部室のドアを開けたとき、きっと、わたしの何かが変わったのだ。  
そう考えて、何かの引っ掛かりを感じた。  
なんだろう、少しだけの違和感。そういえば、前にもそう感じたような。  
 
いや、今はいい。  
 
彼と一緒なら、わたしは変われる。いつもの気弱で無口、表情の少ない  
わたしから、彼が気に入ってくれるような、そんなわたしに変われる。  
 
後は、彼が、この現実を受け入れてくれれば、なにも問題はない。  
 
その日、わたしは授業が終わるとすぐに部室へと向かった。  
彼は今日も部室に来ると言っていた。昨日は、放課後すぐに彼は来た。  
だから、もうすぐ姿を見せるかも知れない。  
 
何となく気持ちが落ち着かない。何にそんなに期待しているのかと、ふと考えた。  
 
彼に会えること。それから、昨日の話の続きをしたい。  
図書館の記憶。それは、わたしの初恋の記憶なのだ。  
 
しかし、昨日の話では、わたしの記憶は彼の記憶と違っているようだった。  
だから、もう一度、わたしの知っている彼のことを話したかった。  
そして、彼の話を聞きたかった。彼の知っているわたしのことを。  
ここで、話にくいことであれば、また、わたしの家で話してもいい。  
まだ昼だから、時間は十分にある。  
 
そう思い、カバンからハードカバーを取り出すと、いつものイスに座って、  
彼が来るのを待つことにした。  
 
しばらく待っても、彼は来なかった。  
どうしたんだろう。何か急病にでもなって、学校を休んだのだろうか。  
そう考えると、気持ちが落ち込む。もうそろそろ夕方になる。  
 
彼が約束を破るとは思えなかった。いや、約束したわけではない。  
部室に行ってもいいか、そう訊かれ、肯定しただけだ。  
でも、彼は他に行くところがない、そう言っていた。  
ならば、時間が空けば、ここに来るはず。  
 
今日はもう来ないのだろうか。徐々に悲しい気分になる。  
ハードカバーをテーブルに立てかけた。内容はほとんど読んでいない。  
視線をページに落としているだけ。  
 
何かあったのだろうか。  
彼の言っていた、彼の知っている世界。  
また、別の記憶に取り付かれたのだろうか。  
 
彼がどこかの部室に乱入して、誰かを問い詰めている様子を思う。  
首を振り、そんなことはないのだと、自身に言い聞かせる。  
 
そんなことを考えて落ち込んでいると、ノックの音がしてドアが開いた。  
 
「よう、長門」  
彼だ。視線を上げる。少し嬉しそうな顔で、入り口に立っている。  
 
「あ……」  
安堵でつい声がでた。来てくれた。嬉しかった。思わず、吐息が漏れる。  
 
しかし、来たのは彼だけではなかった。  
彼の後から、ポニーテールの、輝くような笑顔の女子生徒が現れた。  
その腕には、小柄なかわいい感じの女子生徒を抱えている。  
そして、最後に、長身の、ルックスのいいと思える体操服姿の男子生徒。  
 
何が起こったのか理解できない。わたしは絶句した。  
彼が連れてきた人に、見覚えはまったくない。  
 
何をするつもりなんだろう。  
 
彼は、部室に入り込んだ人を見渡し、懐かしそうな、そして、嬉しそうな  
顔をしている。  
 
ポニーテールの女子生徒が、わたしに強い視線を向け、口を開いた。  
「そっちの眼鏡っ娘が長門さん? よろしく! あたし涼宮ハルヒ! こっちの……」  
 
続きは耳に入らなかった。  
ハルヒ!? 涼宮ハルヒ! 彼が探していた人。  
 
「……で、そいつは知ってるわよね。ジョン・スミスよ」  
彼女は、彼を指差し、そう言った。  
「ジョン・スミス……?」  
わたしは、ぼんやりと呟いた。  
いや違う。彼はジョンではなく、キョンと呼ばれていたはずだ。そう思い、彼を見る。  
彼は、苦笑いを浮かべているが、特に否定する様子も見せなかった。  
 
また、違う彼になったのだろうか。不安な気持ちでそう思う。  
 
わたしの知っている図書館の彼。  
一昨日、部室に飛び込んできて、わたしに詰め寄った彼。  
今日、知らない人たちをこの部室に連れてきた彼。  
 
解らない。  
でも、今の彼は、昨日から変わっていないように見える。  
普通にわたしに声を掛けたし、何かに悩んでいる素振りもない。  
どちらかというと、探していたものが見つかった、そんな感じ。  
ならば、涼宮ハルヒを探し、見つけてきた、ということなのだろうか。  
 
そもそも、涼宮ハルヒとは、何者なのだろう。  
見る限りでは、特に変わった様子はないように思うのだけど。  
 
ピポ  
 
何かが鳴った。反射的に、目の前にあるパソコンに目を向ける。  
この部室で、電子音を出すようなものは、このパソコンしかない。  
 
見ると、電源が入ったようだ。でも、誰も電源を入れていない。  
パワーオンタイマーなどという機能は、このパソコンに付いていない。  
 
それに、ディスプレイには、いつもの、ブートストラップを示す  
メッセージが表示されない。ディスクも回ってないようだ。  
 
「どいてくれ」  
彼の声だ。有無を言わさない真剣な響きを感じる。わたしは立ち上がり、席を譲った。  
彼の背後で、ディスプレイを見る。  
そこには、プロンプトと共に、メッセージが表示されていた。  
 
YUKI.N> これをあなたが読んできるとき、わたしはわたしではないだろう。  
 
鳥肌が立った。彼が言っていたことが頭を過ぎる。  
彼は、わたしが、彼の知っているわたしとは違う、そう言っていた。  
プロンプトのYUKI.Nとは、有希長門、つまり、それはわたしなのだろう。  
 
頭が混乱する。  
彼の言っていたことは、真実だったのか。彼は、わたしとは違うわたしを知っている。  
今、そのわたしが、このパソコンにメッセージを送っている。  
ネットにも繋がっていないパソコンに。  
 
彼の言葉を思い出す。  
 
――お前は魔法のような力を使って  
 
そう、これは魔法だ。彼の知っているわたしは、魔法を使っているのだ。  
何かが壊れそうだ。信じられない。  
 
メッセージは、緊急脱出プログラムを実行するか否かの選択要求で終わった。  
緊急脱出プログラム。  
それは、昨日、彼が見せてくれた栞に、わたしの字で書いてあった文言。  
 
やはり、彼の言っていたことは本当だったのか。  
そう考えると、彼の話の辻褄が全て合う。  
 
平行世界。いや、可能世界か。  
 
彼の世界のわたしは魔法使いなのだ。  
そして、たぶん、ここに居る人たちも、特別な何かなのだろう。  
それが、緊急脱出プログラムを起動する鍵だったのか。  
 
彼はわたしを正面から見て、  
「長門、これに心当たりはないか?」  
と言った。心当たりなどあるわけがない。  
「ない」  
そう答えると、  
「本当にないのか?」  
そう訊いてきた。  
 
わたしは、悲しみと少しの怒りを感じた。  
「どうして?」  
どうして二度も訊くのか。  
わたしは何も知らない。何か知っていれば、とっくに話している。  
あなたの知っているわたしと、わたしは、違う。そう言いたかった。  
 
彼の信頼を得られていない。そう感じて、わたしは、とても悲しく、  
そして、彼の話を事実と捕らえていなかった自分に腹を立てていた。  
 
彼は、それには答えず、ディスプレイを睨み、何かを考え始めた。  
ディスプレイに彼の真剣な顔が映りこむ。  
 
程なく、彼はわたしを見ると、ポケットから紙片を取り出し、わたしに差し出した。  
「すまない、長門。これは返すよ」  
彼は、緊急脱出プログラムを実行するつもりだ、そう思いながら、  
それを取ろうとした。手が震えて、うまくつかめない。  
彼がいなくなるかも知れない。その思いが、頭を過ぎる。  
 
気が付くと、わたしは、その紙片を掴んでいた。それは入部届。  
彼に文芸部に入って欲しかった。ここで一緒に過ごしたかった。  
しかし、彼の考えは違っていたのだ。涙が出そうになって、思わず目を伏せる。  
 
「だがな」  
彼の声を遠くに聞いた。  
 
「実を言うと、俺は最初からこの部室の住人だったんだ……」  
それ以上は、耳に入らなかった。  
彼は、緊急脱出プログラムを実行するに違いない。  
その結果、何が起きるのかは解らない。  
 
でも、彼か、わたしかどちらかが消えるのは、確かだろうと思われた。  
 
わたしの知る図書館の彼。  
彼の知る魔法使いのわたし。  
 
彼は図書館の彼に戻るのだろうか。  
そうだとしても、もう、わたしは、一昨日以前のわたしではない。  
彼がこの部室に来たとき、わたしは変わってしまったのだ。  
それまでは、遠くから彼を眺めるだけでも満足だった。  
でも、今は彼に恋している。どうしようもないほどに。  
 
彼が、ここ三日間の記憶を失って、一昨日以前の彼に戻ったとしても、  
わたしは戻れない。もう、彼を遠くから眺めて満足することはできない。  
かと言って、彼に近付くこともできそうにない。  
その彼は、文芸部室に来ることがあるだろうか。  
あのドアを開けて、イスに座っているわたしを見ることがあるだろうか。  
 
わたしは、図書館の彼と今の彼を同一視していた。彼を失いたくない。  
 
でも、彼の決断を邪魔することはできない。  
 
彼の腕が動くのを、視界の隅で捕らえた。  
 
そのとき、わたしの脳裏を記憶の奔流が駆け抜けた。  
わたしの記憶ではない。いや、わたしの記憶なのだろうか。  
 
彼が部屋のドアを開け、わたしを見つめる。それは一昨日の夢。  
わたしは、彼に抱きしめられていた。彼はわたしを好きだと言ってくれていた。  
それは、幸せな気分を呼び起こし、今朝の夢を思い出す。  
妙な感覚。これは未来の記憶?  
なぜか、わたしは、わたしの初恋が成就したのだと思い、  
すぐに、これから成就するのだと思い直した。  
それは、心が弾むような思い。  
 
そう、この騒ぎが終わったら、彼を探して文芸部に勧誘しよう。  
彼に機関誌作りを手伝ってもらおう。やはり一人では大変なのだから。  
そして……  
 
そして、突然、何かが終わった。  
 
 
――当該時空連続体の時連続性喪失を確認  
 
 
 
―おわり―  
 
 

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