『馴れ初め』
「大丈夫か、佐々木?」
「…………ああ、かろうじて思考能力は維持してるよ。もっとも、さっきから君の顔が歪んで見えて仕方ないが」
いつもと変わらない僕の口調に、キョンは心配して損したと言わんばかりのガッカリした顔でこちらを見下ろしている。
相変わらず締まりのないその表情は、でも今日に限って僕に安心感をもたらしてくれていた。
いや、それはもしかすると常にそうであって、今日はじめてその事実に気付いたというべきなのかもしれない。
「あんまり無理すんなよ。お前は他人の事に鋭い割に、自分の事には結構いい加減だからな」
「くっくっく、キョン、それは君も同じだろうに」
図星を言われたせいか、キョンは渋い表情で唸っている。
「それにしてもキョン、プリントを届けるくらい別に明日でも良かっただろうに。何か早急に処理しなければならない事象でもあったのかい?」
「いや、まあ、それは確かにそうなんだが、二日も寝込んでると流石に心配だったからな」
そこまで言って、何故かキョンは羞恥心一杯の表情で急にあたふたし始めた。
「か、勘違いするなよ。お前が風邪で寝込んでると聞いたウチのお袋が変な気を回してうるさいもんだから、いつもの減らず口を叩くくらい大丈夫っていうのを確認する為に今日来たようなものであってだな。
でも友人としてちょっとはお前の風邪が気になっていたもんだから、その確認もついでにやろうと思ったり思わなかったり…………」
聞いてもいない事を次々と喋る彼の姿は本当に滑稽で、でも眺めるだけで心が落ち着いていく。彼の締まらない顔と声には、どうやら精神を安定させる作用があるようだ。
しかし理由はどうであれ、人から心配されるというのはなかなか悪くない。
心配してくれる相手がキョンであると、余計にそれが実感できる。
「くっくっく」
「…………どうしたんだよ佐々木、急に笑い出して」
僕の笑い声に、それまで焦ったように喋り続けていたキョンはますます渋い顔でこちらを見やった。
「いや、君には普段から色々世話になっているなと、再認識させられただけだよ。いつも有り難うキョン、心から感謝している」
「あ、ああ、そうか」
憎まれ口を叩かれると思っていたのだろう、身構えていた彼は僕の言葉に虚を突かれた様子だ。
風邪を引いたのはまさに僕の不覚だったが、布団の中から彼の心配そうな表情を観察するのも新鮮な気分である。
こういう貴重な体験を味わえるのであれば、たまに風邪を引くのも悪くはない。
「ま、まあそれはともかく、俺に出来る事があったら何でも言ってくれ。今日は出血大サービスだから、何でもお前の願い事聞いてやるぜ。
あ、でも願い事増やせとか、俺に不可能な願い事とかは無しな」
現実的かつ無粋なフォローを入れる辺りは、本当にキョンらしい。
そんな事を考えている内に僕の悪戯心がざわめき始めたのか、一つの願い事が頭に浮かんだ。
「…………それじゃお言葉に甘えて、一つ要望をあげてみようか」
「お、なんだ?」
僕の声に、身を乗り出すキョン。
あまり近付かれると緊張するのだが、そういう当たり前の事に気付かない辺り、彼は鈍感を具現化した存在であると改めて認識させられる。
「君の体温で、僕を暖めて欲しいんだ」
恐る恐る切り出した僕の言葉に、だけどキョンは驚きながらも笑顔で頷いた。
…………驚いた、冗談で言ったつもりだったのに。どうやら彼を侮り過ぎていたようだ。
そう思いながらも、僕は彼を拒むことなく布団の中へと招き入れていた。
「はじめてなんだから、優しく頼むよ」
「OK、お安い御用だ。任せておけ」
そう言ってキョンは僕と巧みな口吻を交わすと、汗で湿った僕のパジャマを丁寧に脱がし始め――――
「とまぁ、これが僕とキョンの馴れ初めともいうべきイベントだったんだが、涼宮さん聞いてるかい?」
改めて前を見れば、そこには怒り心頭と表現すべき紅潮した顔で、キョンの首を締め上げている涼宮さんの姿があった。
手加減抜きの全力でやっているせいか、タップする余裕すらない彼の身体は中空で小刻みに痙攣している。
昼間人通りの絶えないこの駅前で堂々と殺人未遂行為を実行する辺り、彼女はある意味大物だった。
「…………佐々木さん、それって本当なの?」
「勿論、出来の悪い冗談だよ」
その言葉と同時に、口から泡が噴き出ていたキョンの身体がすとんとアスファルト上に墜ちた。
絞殺の危機からようやく解放された喜びからか、彼は実に旨そうな表情で数分ぶりに味わう新鮮な空気を堪能している。
「そ、そうよね、このアホキョンにそんな大それた真似が出来る筈なんてないわ!」
「全く、涼宮さんの言う通りだ。実態はさっき話したのと逆の展開でね、風邪で寝込んでいた彼を僕が襲ったというのが真相さ」
「…………うがーー!!」
僕の言葉を聞くや否や、涼宮さんは雄叫びを上げながらマウントポジションでキョンを殴打し始めた。