『説得失敗の橘』  
 
「あなたは涼宮ハルヒさんに、あんな力を持たせていたいのですか?  
 それであなたは、いつまでも涼宮さんに振り回されていたい?  
 解っていますか。振り回されるのは、この世界全てなんだってこと。  
 だからですね。あたしは涼宮さんが改変能力を発揮したりしないようにしたいの。  
 そうしたら、あなただってビクビクすることもなくなるのです」  
 
 
 祈るように見上げてくる橘京子に俺はこっそりと嘆息した。  
 ぜぇはぁと息を切らしながら必死の説得を試みる少女に、一抹の気まずさを覚えてやまない……。  
 なんと説明したらいいんだろうな?  
「ふむ、キョン? キミにはなにやら思うところがありそうだね。  
 苦い顔をするのはコーヒーが届いてからでも遅くは無いだろう。  
 まだ幾ばくかの時間が必要のようでもあるし、ぜひ開陳してみてはどうかな?」  
 佐々木に柔らかく促され、座り慣れているはずなのに普段よりも居心地の悪い椅子の上で居住まいを正した。  
「あぁ、なんというかな。つい最近……でもないが……。  
 去年の年末のことなんだが、数日間だけ平和な日常と呼べるかもしれない世界を体験した事があるんだ。  
 宇宙人も未来人も超能力者も神様もどきの存在も、ただの人間になっちまった、そんな世界をな」  
 橘がきょとんとした表情で固まっている。まあそうだろう。こいつの説得の骨子は『アブナイ奴よりマトモな人格者に力を』って事だったからな。  
 だが、俺がいま語ったのは――。  
「橘さんが言うところの『世界を改変する力』そのものが存在しない世界ということかい?」  
 そういうことだ。さすがにこいつは話がはやい。  
「それだけじゃない。さっき言った特殊なステータスを持った連中も、軒並み一般人的な生い立ちの普通の人間になってたのさ。  
 不思議なパワーなんてどこにも存在しない、思い付きで気付かないうちに太陽が二つになったり、勝手に祭り上げた神様に一喜一憂する事もなけりゃあ、成層圏やら時間の壁を超えてまで観察しに来るようなことも無い、そんな世界だ。  
 寝ぼけてたわけでもないし、違う世界に行ってきたわけでもない。  
 そのままほっとけば、今だって平穏な世界に落ち付いていたかもしれん」  
「そっ、そんなの、改変する力を悪用したからじゃないのですかっ!!」  
 椅子を跳ね飛ばして立ち上がった誘拐少女の言葉に思いっきり顔をしかめてやった。  
「ハルヒが世界を変えたわけじゃない。たぶん、そいつにも出来るんじゃないか?」  
 テーブルを挟んだ向かい側に、立地を無視して発生した洞窟の入口みたいな漆黒の存在に顎をしゃくってやった。  
 正確にはハルヒの力を長門が流用して行われたんだが、説明して無駄に知恵を付ける必要もあるまい。  
 それと、誘拐犯が悪用って言うな胸糞悪い。  
「だけど今は平穏な世界としての連続性を維持していない。  
 つまりキミはその世界を看過しなかったんだね。むしろキョン、キミが、かな?  
 橘さんの反応を見る限りでは、世界は一度こちら側を選択され、それに立ち会ったのはごく限られた人間のようだ。  
 そしてその中にはキミも含まれている。違うかい?」  
 違わないさ。  
 しかし、頭の中から捻り出して口からこぼすと随分と大仰な響きになるもんだな。  
 単純に知り合いの配置が気に食わなかった、そしてそんな知人との積み重ねを失いたくなかった、その程度の視野で判断しちまったってのに。世界の選択なんて大袈裟には考えてもみなかった。  
「期限付、一回こっきりの選択肢が、たまたま俺の前に飛び出してきただけだ」  
 実際は探し回って奔走したんだけどな。  
「俺にとっては世界を戻すって一択しか思い付かなかった。だから、今のままなのさ」  
 橘がストンと椅子に腰を下ろすのが見えた。良かったな、椅子が派手にズレてたら、呆然とした表情も台無しのコントになるところだ。  
「やはり面白い。キミはとても面白いよ。できるなら聞かせてくれないかな?  
 一連の状況をと言いたいところだが、まず、どうしてこちらを選んだのかということを」  
「さぁて」  
 寝物語に童話の続きをせがむ童子の如くきらきらした瞳を向けてくる佐々木を傍らに、口を開いて気軽になってきた俺と入れ違いで居心地悪そうにしている橘へ、少しばかり意地悪な笑みを送ってやった。  
 
「こっちの方が面白いと思っちまったのかもな」  
 
「んん……! も、もうっ!」  
 話の腰、というか説明と説得の背骨を折られた橘は、協力者らしき未来人と宇宙人には陰気な無視と無機質な無反応を返され、崇め奉る神様本人のくっくっと喉を鳴らす独特の笑い声を聞くに及んで、勢い良く顔を上げた。  
「手を出して。体験してみればわたしが言ってることを理解してくれるはずです」  
 まずお前が理解しろ。誘拐は大罪で、あの時の恐怖と不安と焦燥と絶望はどうやったって拭えるわけが無い。  
 加えて佐々木本人がいらんと言ってるのに、俺が犯罪者の言い分に納得する理由がどこにある。  
 謝罪されたからといって和気藹々唯々諾々と同調すると本気で思ってるなら、古泉の機関で切開して脳に直接書き込んで貰ってこい。多分保険が適用されない上に、縫合無しかも知れないが。  
「キョン、橘さんの言うとおりにしてあげてくれないか。なんだか可哀想になってきた」  
 古泉で思い出したが、橘は敵対勢力の中では誘拐否定派だったか。なら、少しくらいは妥協しておくか。  
 佐々木の言に頷いて手を伸ばした。俺も可哀想に思えてきたからな。  
「目を閉じて。すぐにすみます」  
 
 
「で、見たのかい? 僕の内面世界とやらを」  
「ああ」  
 幻覚でなけりゃ、行ってきた事になるんだろう。  
 俺が閉鎖空間に入った経験は二度。  
 古泉と入った時は、閉鎖空間の崩壊と共に現実に復帰した。終幕はマッガーレスペクタクルだったな。  
 ハルヒと行った時は……まぁ、ジークムント先生の哄笑が聴こえたくらいだ。この時は世界から消えてたハズなんだが……はて?  
「感想はあるかい?」  
「まぁ、いろいろと」  
 侵略型宇宙ガエルの曹長みたいに「くっくっ」と笑うのはいいが、佐々木、俺はあまり笑える心境からは遠ざかってきたぞ。  
「お恥ずかしい限りだよ。心の中を暴かれたも同然だ。収穫はあったのかい?」  
「どうなんだろうな。まず、そこの誘拐少女に聞きたいんだが、いいか?」  
 キラキラが四割ほど減衰した瞳で見上げてくる佐々木から、氷水……氷をガリガリと咀嚼して喉を潤している橘に視線を振った。  
「橘です。なんですか?」  
「あぁ、スマン。キッドナッパー橘に聴きたいんだが、古泉の……ハルヒが発生させた閉鎖空間にも入ったことがあるんだよな? そして古泉が今の閉鎖空間に入った事も」  
「キョウコ・橘です。えぇ、先程お話した会合の時に。お互いの閉鎖空間には相手側の引率が無いと入れませんが」  
「お前は赤玉になったりは出来るのか? つまり、古泉の側の閉鎖空間に入ったなら解るだろうが、あんな風に空を飛びまわったり出来るのかってことだ」  
「出来ませんよ。そんな必要が無いのですから。佐々木さんの世界ではあんな破壊――」  
 駅前に発生する熱心な勧誘者へと変貌しかけた橘の言葉を遮る。  
「まず質問にだけ答えてくれないか。無人の世界だ、電灯や自動ドアから電気が来てるのは解ったが、バスや電車は動かないだろう。バイクや車は動かせるのか?  
 いや、まどろっこしいな。あの世界はどこまで広がっている?」  
「確かめた事は……。あ! 解りました! 古泉さんが言っていた事ですね? 閉鎖空間が世界全部を覆ってしまったら――」  
「世界そのものが崩壊する、解ってしまうんですとか言ってたな。そしてお前らの方はアレがどこまで広がってるか知らないと来てる。  
 その中心が佐々木だと解ってるなら、海外旅行にでも行って空間の端を確かめたりはしなかったのか?」  
「そんな予算は……。いえ! そんな必要はないじゃありませんか! 佐々木さんの閉鎖空間はあちらの物騒な物とは違うのです。わたし達には解ってしまうのですから」  
 少し痛い所を刺激されたのか落ち込んだ橘だが、すぐに気を取り直してパタパタと身振りを加えて力説してくる。  
 だが……古泉に対応する表裏にしてはちと頼りないな。古泉にはいつも気の回し過ぎや考えすぎを指摘しちまうが、橘には逆の指摘を打擲として加えたくて仕方が無い。  
「橘、お前はハルヒが『能力』を独占していると言ったな。そして佐々木が持つのが相応しいと」  
「は、はい。わかってもらえましたか?」  
 まともに呼ばれてどんだけ嬉しかったのか知らんが、高速で左右する尻尾まで見えそうな顔をするな。古泉なら笑顔の中に憂慮を滲ませるシーンなんだぜ。  
 
「そうじゃない。佐々木が『能力』を受け取ったら、あの世界も多少は変化するんじゃないのか?  
 『能力』を持ってない現状で能力者とあの空間を作り出せた理由は謎だらけだが、古泉側の例の暴れん坊が、お前の言う能力の移動で出現する事が無いと言い切れるのか?  
 古泉が言うには、あれはあれで理性的な思考の発露だと言ってたぞ。現実でなく、限定空間で暴れるからこそ被害が最小限で済む、ってな。超能力者が肝を冷やす以外はさほど影響がないらしい。  
 だが、佐々木がハルヒの『能力』を受け取った時……既にあの空間が世界を覆っていたらどうなるんだ?」  
 あっちの空間の進行が既に完了していたら、それは世界の崩壊を意味するんじゃないんだろうか。  
 佐々木の閉鎖空間は確かに光に満ちていた。だが、あの神人の活動すら求めてしまうほどの寂寞感・寂寥感にはとてもじゃないが馴染めそうにない。  
 ハルヒがストレス発散で壊す為の箱庭を造るのはまだ理解できる。そこに生き物が存在しない理由もだ。  
 だが、そうすると佐々木があの世界を造る理由が無い。観察や散策なら無人である必要も――いや、それが邪魔と感じていたら? それこそが理想だと考えたなら……。  
 超能力者の「なぜか解ってしまうのだから仕方ありません」。これは信じるとしよう。しかし橘の発言には希望的なバイアスが否めない。特に状況が変化した後の予測については。  
「佐々木さんはそんなことを望むような人物ではないのです!」  
「それはハルヒも同じだ。超能力者でなくても解る。今も世界がそのまんまなんだからな。  
 それでだ、今度は佐々木に聴きたい。あの空間が発生した四年前からこっち、大きなストレスを全く感じないで過ごして来たのか?」  
 こいつを言い表すのに泰然自若ほどピタリな言葉の浮かばないが、それでも心的動揺を促す出来事の一つや二つはあっただろう。  
 佐々木にだって苦手な人物傾向があると本人も語っていた事だし、なにより精神的に大きく変容するこの時期にフラットな精神状態を維持していたというのなら、それこそなんらかの精神異常を疑わざるを得ない。  
 精神状態が起伏を失って平坦になるというのは精神障害の前段階として有名だ。そのまま無感動に陥るか、大きな振幅を顕わすかは個人の――  
「そうだね。どの程度で内面世界とやらに影響を及ぼすのか僕には知り得ないのだけれど、それなりにストレスを感じる出来事は相応に経験してきた、とは思うのだが、概ねフラットな精神状態を維持してきたとも自覚しているのが実情だ」  
 ストレスを感じても神人が現れないのなら、それで橘側の閉鎖空間の不完全さを示唆出来ると思ったんだが……佐々木の返答は意外なものだった。  
「僕からも質疑を挙げさせてもらおうか。涼宮さんが不可思議な能力を開花させたのは僕と同じ時期のようだが、きっかけになった出来事が彼女にもあったとすれば、キミには思い当たる節があるのかな?」  
 キラキラの全力展開時から比較すると、残存勢力二割といった瞳を向けてくる佐々木に俺は背筋を震わせた。  
 佐々木の表情は笑顔の分類に入るのだろうが、それでもテンションが……いや、雰囲気が底冷えのするものへと変質し始めている。  
 いや、まず佐々木の質問について考えてみるか。  
 そういえば詳しい時期を問い詰めた事は無かったな。中一の七夕には遡行出来たわけだからそれ以前なんだろう。長門が「有希」の名を選んだのは最初に雪を観測したかららしい。すると冬以前……小学生か? 思い付くのは……。  
「ハルヒが小学六年の事を語ったヤツかな。今のハルヒをハルヒたらしめてるのは、聴いたところだとこれしか思い浮かばないんだが」  
 ぜひ聴かせてくれと促されて、俺はハルヒから聞かされた野球場で受けた衝撃と思考形態の変容を説明した。  
 ほとんど世間話みたいな内容に対する佐々木の落胆は、瞳の輝きの全滅をもって俺に認識させた。笑顔だけを張り付けた表情の中心で、瞳は虚無的な昏さを湛えている。  
 どんな内容を期待していたんだろうな?   
 
 俺はそう考えていても、聞きたいとは思っていなかったのだと後悔する事になる。  
 
「橘さん。あなたとキョンは本当に良くない出会い方を体験したようだね。後で詳しく説明してくれるのかな?  
 それでは、キョン。今度は僕の思い当たるきっかけを披露することにしよう。  
 今まで誰かに話した事もないし、おそらく今日以降に口にする事も無いだろうから是非聴いてくれたまえ。僕としては後日にキミの感想を聴いてみたい。自覚は無いかもしれないがキミの観念的思考は考察の一助に価するものだからね」  
 不吉な予兆を確かに感じていたはずなのに、この佐々木の発言で自分の耳を塞ぐという行動は阻害された。  
「そんなに構えないでくれ。僕の経験もそれほどたいした出来事ではないのかも知れない。主観者である僕自身ですら曖昧にしか記憶していない程なのだ」  
 軽く肩を竦めてからテーブルの上に組んだ手に顎を乗せて訥々と語り出した佐々木に、それまで無反応だった藤原までもが集中する気配を感じた。確認する余裕はなかったが。  
「誘拐というワードがどうにも琴線を爪弾くものだから。いや、冗長に引き伸ばす気は無いよ。簡潔にいこう。  
 僕は小学生生活の終盤の折に誘拐されたことがある。とは言っても休日の半日程度で解放され、目立つ外傷も無く、誰も気付かなかったので事件にもならなかった。目的が営利でも身代金でも無かったからね。  
 単純な略取と監禁、それに付随したあれこれか。顔も知らない相手が吹聴していなければ、僕とそいつの二人だけしか知りようの無い事件だ」  
 写真などの映像を残さなかったのは双方にとって良好に働いただろうね、そう付け足してゆっくりと目蓋を下ろす佐々木。  
 それを開かせたのは橘だ。  
「そ、そんなことって……」  
 俺まで橘並の顔色だとしたら、この店は保健所への通報を余儀なくされるだろうな。今すぐ踏み込んで来てくれ。  
「橘さん、これはあなたの言うわたしの内面世界が構築された時期よりも、少しだけ古い出来事なんです。  
 そちらの彼が言う時空間の断裂だったかな? その向こう側にしか真相は無い。だからあなたは信じたいものだけ信じればいい。  
 今の件から中学に入学して暫く経過するまでの記憶は、紗幕を透して俯瞰したように曖昧模糊としてるので自覚がないのだが、おそらく他覚もないだろう。誰も僕に変化があったとは気付かなかったのだから。  
 もっと重要なトリガーとなる事件があったとしたら、それはそれなりに記憶に残っているとは思うんだけどね。  
 どうやら僕は自失状態でも違和感を感じさせない応対が出来るようだ。聞いているかい、キョン?  
 解放されて帰路についた僕は、家族に対しても上手く取り繕えたらしい。その時期に符合する記憶の中で、最も印象に残っているのが帰宅した時の母との会話だ。  
 『おかえり。なにか良い事でもあったの?』『ただいま。特になにも』。解るかい? 僕は笑っていたらしい。どのような内情から表情を操作していたのか、今となっては思い出せないが。  
 確かに笑える事もあった。服飾の目立つ部位には損傷が無かったが、行為の残滓や出血は引き裂かれた僕の下着で拭い去られ、傷口にそれが詰め込まれていた。身繕いの折にお尻からも出てきた時には失笑を禁じえなかったよ。  
 どんな目にあっていたんだろう、とね。  
 あぁ、これは失礼した。自制していたつもりなんだけが少しばかり話題が外れてしまったようだ」  
 喫茶店の一角で沈黙の帳の包まれたテーブルには、夜鳴き鳥のように陰鬱な佐々木の笑い声だけが響いていた。  
 
「それで、橘さん。あなたとキョンの良くない出会い方は、後で詳しく説明して貰うとして……。  
 わたしに涼宮さんの力が移し込まれたら、あの世界とこの世界にはなにが起こるんだろうね? 楽しみになってきたかな? それとも……?  
 今のわたしには表現力か、力そのものが足りないのかもしないけれど、今でもあの世界にはわたしの内面を象徴する何か紛れ込んでいるのかも知れないね。  
 世界を破壊するような巨大な存在ではなく、世界の広大さに紛れた、等身大の人型の何かが……ところで」  
 
 
  「これからも一人であそこを散策する気概はあるのかな?」  
 
 

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