有酸素運動  
 
 
「キョン、キミは英語圏の人間が絶頂を迎える時に何と表現するか知っているかい」  
 随分と唐突な質問だな、佐々木。  
「知らん」  
 中学校の三年弱で培ってきた俺の英語力ではそういったスラングを語彙の中に含める  
ほどの余裕はないし、当然アメリカ人女性とステディーな関係になったこともなく、また  
恐らくこれからもそういった機会がないであろうことは容易に推測できることであり、  
それを悲しむべきかそれとも余計な学習を必要としないで済むということに安堵すべき  
かと俺が考え始めたところで、佐々木はあっさりと解答を出してきた。  
「勿論ヴァリエーションは色々あるだろうが、典型的なのは "I'm coming." とかかな」  
 それは初耳である。いや、表現自体は聞いたことがあるのだが、確かそれは――  
「相手に急かされてる時に、今すぐ行くという意思表示じゃなかったか?」  
「キミの語学力も、なかなかどうして、大したものじゃないか」  
 いつもの悪戯っぽい微笑を浮かべながら、佐々木は言った。  
 絶対褒めてるんじゃないだろ、それ。  
「確かにキミの言う通り、一般的にはこれは相手に対して自分が今すぐに相手のところへ  
向かう、という意思を伝達するための表現だ」  
「しかしどうして "come" なんだ。行くんなら "go" だろ」  
「それは単純に主語の視点一つだ。自分が相手の方へ行くということは、相手から見れば  
自分が来ることに他ならない。"I'm coming" という言い方は、相手の視点から発言して  
いるのだと見ることができるだろう」  
 なるほど。  
「しかし、僕にとっての本題はそこではない。僕が問題にしたいのは、視点がどうあれ  
英語では忘我の境に至る時に "come" という単語を用いているということなんだ」  
「何故それが問題になる? 今のお前の言では、自分が行くという意味を表すために  
"come" という言葉を使ってもいいんだろ。それが極楽浄土か涅槃か知らないが、  
自分がそこに行こうという時に "come" という単語を使って何が悪い」  
 佐々木は俺の反論など当然見越していたかのように言ってきた。  
「ふむ、キミのいうことは一々もっともなのだけれどね、キョン。それなら別に "go"  
を使っても差し支えはないのではないかな?」  
 俺は言葉に詰まった。まあ確かに俺の反駁では "go" を使ってはいけない理由には  
ならない。いや、しかし極楽浄土やニルヴァーナの視点に立って言えば自分がそこに  
行くわけであるからやはり "go" ではなく "come" を使うべきなのだ、という説明も  
思いついたが、極楽浄土氏の視点なるものの存在可能性を考慮して口に出すのはやめた。  
何も自分から率先して佐々木の横隔膜を震わせてやることもないだろう。  
「まあ、確かに涅槃寂静氏の視点なるものがありうるとすれば、キョンの言う理屈は  
もっともなものだと僕も認めるのに吝かではないが」  
 くっくっと笑いながら佐々木は言う。人の心を勝手に読むのは感心しないぞ。  
 
「キミの不興を買ったとすれば、それは謝らなければならないな。だがね、キョン。  
できれば僕の言い分も聞いてくれないだろうか?」  
「どうせ不可抗力だとか言うんだろう」  
 佐々木は楽しそうに笑った。  
「はは、今度は僕の方が思考を読まれてしまったか」  
 俺は思ったことがそんなにわかりやすく顔に出てるかと一瞬不安にもなったが、  
思い返しても佐々木以外にこんなに思考を的確に読まれた記憶もない。単純にこいつの  
洞察力が人並み外れて優れているのだと考えることにした。  
「別にそんなことで不愉快になったりはしないがな。さっきの話の続きは気になる  
ところだ」  
 俺が言うと、佐々木は思い出したように講釈を再開した。  
「ああ、つまりだ。僕が話したかったのは、この言葉の使い分けに、西洋的なものの  
考え方を見ることができるという説があるということなんだ。キョン、一応聞いておくが、  
キミは絶頂というものをどのように捉えている? もしやと思うが、精神が天堂に  
向かって浮揚するのだ、などと考えてはいないだろうね?」  
 まさか。詳しいことは知らないが、脳だか脊椎だかに一種の電気信号が走るとか、  
そんな感じの話じゃなかったか?  
「そう、現代の医学ではそうやって考える。してみると、日本語での表現方法には  
事実に対するある種の誤謬が含まれていると言うべきではないだろうか。無論それが  
比喩的な表現であることくらいは僕とて理解している。しかしね、それに対して英語圏に  
おいては西洋医学の示すところの事実が、俗語ではあるが一般的な表現の中に認められる  
ということができるのさ。すなわち、英語を母国語とする人間にとっては、絶頂とは  
まさに文字通り自分に対して来るものなんだよ。そしてそれは彼らの医学が示す事実と  
合致するんだ。勿論、現代医学の示す事実の正しさに対する検証可能性という問題も  
あろうが、それを論ずることは今の僕にとっては本旨ではないから、問題にしないでくれ」  
 頼まれたってそんな問題を考えたいとは思わないから安心しろ。  
「そうかい。ではここからが僕にとっての本旨だ」  
「……今までのは何だったんだ。本題じゃなかったのか」  
「本題に至るための前提だったとでも言っておこうか」  
 ――手短に頼む。  
「なに、僕とてそのつもりさ。他でもない、僕の体感時間であと一分程度で、僕は絶頂を  
迎えるだろう」  
 
 
 佐々木はこともなげに言い放った。俺の下で。  
 
 
「なあ、佐々木。今ひとつ前後の文脈が理解できないんだがな。さっきの講義、ありゃ  
一体何だったんだ? まさか何の意味もなくあれだけ長々と喋ってたわけじゃないよな?」  
「半分はイエスで、半分はノーだ。いや、怒らないでくれ。別に謎掛けじゃないんだ。  
まったく言葉通りの意味なんだよ」  
 佐々木の態度は普段と何の変わりもない。  
「つまりだ、話の内容は僕にとっては大した意味はない。僕にとって意味があったのは、  
話し続けるということ、そこにこそあったんだよ」  
 意味がわからない。睦言を交わすならともかく、あんな理屈っぽい話を長々とする  
必要がどこにある?  
「キョン、キミは人間が性的興奮の昂った時に、無意識的に息を止めているということを  
知っているかい?」  
 初耳だな。  
「逆に言えばだ、意識的に呼吸を整え、肺に酸素を送ることによって絶頂に至る  
までの時間を長くすることができるということだ。あくまで理屈の上では、だが」  
「それでさっきの説法というわけか」  
「そういうことさ。内容は別に何でも良かったんだけどね。それこそ日本経済の話でも  
数論を用いた神の存在証明でも。しかしこんな付け焼刃ではキミの持久力の前では甚だ  
無力だったということがよくわかったよ」  
 口調こそいつも通りだが佐々木の息は随分あがってきている。  
 いや、一応言っておくが俺の持久力は人並みだと思うぞ? 比べたことないけどな。  
「それでだ、キョン。未だ恍惚に至らないキミには非常に申し訳なく感じるが、僕は  
一足先に達することになりそうだ。ただね、僕が恍惚に至るにあたって、キミに一つ  
頼みがあるんだ。いや、ひどく言うのが心苦しいんだがね、できればキミには、その時  
には、僕を、」  
「佐々木」  
 珍しく言いよどむ佐々木を制し、俺は言った。  
「爪、思いっきり立てちまっていいぞ」  
 
 そういって俺は、佐々木が俺にそうしているように佐々木の背中に腕を回して、その  
身体を強く抱きしめた。  
 
「キョン、僕は、」  
 佐々木が何か言いそうだったが、どうせ俺のこの行動に対する憎まれ口だろうと  
思ったので、俺はその口を塞ごうとし、両手が塞がっていることに気付いたために、  
自分の唇を使って佐々木の口を塞いだ。  
 
 
 結局、佐々木の身体が落ち着くまで、俺は数分間そうしていた。  
 
 
 その後三度ほど同じやり取りを繰り返し、四度目で俺も果てた。  
 
 
「キョン、キミは恐ろしい人間だ」  
 俺の左腕を枕代わりにしながら佐々木が言った。ああ、どうでもいいが佐々木、  
そろそろ腕が痺れてきたんでな、できれば俺の右側にでも移動してくれないだろうか。  
「残念ながら却下だよ、キョン。僕はこちら側の方が好ましいんだ」  
「どっちも大差ないだろう」  
「それが実は大有りなのさ。こちらの方がキミの心音をより強く感じられるのだからね。  
キミの鼓動は僕を非常に落ち着かせる。キョン、これは一体何故だろうね?」  
 そういう話は心理学者にでも聞いてくれ。俺にはわからん。  
「キミのそういうところが、僕には本当に恐ろしく感じられるよ」  
 佐々木はいつもの微笑に、ほんの少しの悲哀を混ぜたような表情で、俺に言った。  
「どういうところだよ」  
「キミの全くに無自覚なところが、だよ」  
 俺が? 無自覚? 何だそりゃ。  
 考え込んじまった俺を横目に、佐々木は続けてきた。  
「さっきも――そう、さっきもそうだった。僕が忘我の淵で理性をかなぐり捨てて  
決定的な一言を言おうとすると、キミは実に巧妙にそれを回避する。実を言うとね、  
わざとやっているんじゃないかと疑ったこともあったよ。すぐにそうではないんだ  
と理解したけどね。でも、だからこそ尚更タチが悪い」  
 そういう佐々木の様子は普段と変わらないが、どうやら俺を責めているらしいと  
いうことくらいはわかった。だがしかし、一体俺が何をした?  
 ――やっぱりアレか? アレなのか?  
 男に対する時は男口調という佐々木の習癖は、事の最中であろうと変わることが  
ないが、しかしそれは別に佐々木の深層心理が男性的であるというわけではなく、  
どころか常に女性的であるということを俺は理解している。だが俺の前では自分のことを  
僕としか呼ばない少女に対して、その言葉を言うのはちょっと……どころではなく  
かなり躊躇せざるをえない。そういった理由から佐々木にこの言葉を言うのはできるだけ  
注意して避けてきたのだが――どうやら腹を括らねばならないようだ。  
 
「佐々木」  
 俺は佐々木を両腕で抱きしめ、その目を真っ直ぐに見つめた。  
「なんだい、キョン」  
 佐々木の微笑はいつもと変わりない。だが、俺にはわかる。佐々木の目はいつもより  
五割り増しくらいで輝いている。こいつは、俺がその言葉をいうのを期待している。  
「その、なんだ、ええと……」  
 しかし、いざという時になるとやはり照れる。思わず目をそらしてしまう。  
 しかたなしに俺は、佐々木と目を合わせないようにして、その耳に口を近づけた。  
「さっきな。かわいかったぞ」  
 途端、腕の中で佐々木が大きな溜息を吐いた。  
 あれ? 俺、なんか間違えたか?  
「佐々木?」  
 俺の呼びかけには答えず、佐々木は何かを呟いている。  
「他人の意を汲む能力には長けているにも関わらず、自分に対する他人の評価には  
絶望的なまでに鈍感、無自覚、無頓着、と……ねえ、キョン」  
「なんだ」  
「親友として、キミに忠告するよ」  
 親友、の部分を妙に強調しながら佐々木は言った。  
「キミはもう少し、そう、ほんの少しでいいから、自覚的になるべきだ。  
 今のままだとキミは近い将来、女性に刺されることになると思うよ」  
「なってたまるか」  
 まったく、何を言い出すかと思えば。言っておくが俺はそんな刃傷沙汰に巻き込まれる  
ような爛れた生活を送る気はさらさらないぞ。  
「――わかってはいたが、やはりキミはその部分しか論難しないんだな」  
 やれやれとでも言いたげに首を振ると、佐々木は俺の左腕を枕にしたまま目を閉じた。  
このまま一眠りするつもりなのだろう。  
「俺も寝るか」  
 室内とはいえ、十二月の空気は流石に裸の身には冷たい。肩までしっかりと布団を  
被ると、隣に佐々木の体温を感じながら、俺は眠りについた。  
 
 
 
 余談だが、一年後俺は女に刺されることになる。  
 
 

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