その日、涼宮ハルヒはクリスマスの準備に熱中していた。  
彼女だけでなく、ここではクリスマスというものは重要な行事らしい。  
その本来の目的と、実際に行われる行動に乖離が予想されるが、それは重要ではない。  
実際、彼女はクリスマスそのものをさほど重要視しているわけではない。  
それを名目とした一連の行動計画を重視しているのだろう。  
 
いつものように文庫本を読んでいるわたしの頭に、円錐形の帽子をのせ、  
涼宮ハルヒは、全力ではしゃいでいた。悪い兆候ではない。問題はない。  
あの人は優れない視線をわたしに向けたが、その視線はすぐに彼女に移った。  
涼宮ハルヒに対するあの人の憂いは日常である。問題はない。  
ただ、わたしに向けられた視線がすぐに涼宮ハルヒに移り、その後、  
朝比奈みくるに固定され続けていることを除けば。しかしそれも日常。  
ところで、この帽子には何の意味があるのだろう。あとで調べよう。  
 
その日の帰宅途中、いきなり声を掛けられた。  
「あ、あのっ、長門さん」  
振り向くと、そこには同じ高校の男子生徒が立っていた。  
誰だろう。記憶を探す。学校で見たことがある。同級生。それだけ。  
普段わたしに声を掛けるような人は同じクラスでもあまりいない。  
落ち着かない様子で立っているその男子高校生に目を向けた。  
なぜかもじもじしているが、それ以外に変わった様子はない。普通の人間。  
異空間転移などの特異現象も確認できない。  
 
家に帰ろう。  
わたしは彼が普通の人間であることを理解すると、自宅に向かって歩き始めた。  
「ち、ちょっと、ちょっと待ってください!」  
男子生徒は走ってわたしの前に回りこんできた。  
わたしの顔を見て、しかし、すぐに視線を落とすと、言った。  
「あの、ぼ、僕と付き合ってください。その、す、好きなんです」  
付き合う? その意味を考え、それが人間男女間の恋愛関係を指しているのだと気が付いた。  
眼前にいる男子生徒は、わたしとの恋愛関係を構築したいらしい。  
なるほど。用件は理解した。返答する。  
「いや」  
そう答えて、わたしは改めて彼に目をやった。  
今後もわたしに接触してくるようであれば、情報操作をしなければならない。  
「え? な、で、できれば理由を……」  
「いやだから」  
「そ、そうですか」  
少しの時間わたしに視線を泳がせた後、肩を落とし、彼は来た道を戻っていった。  
諦めたようだ。今後、これ以上、わたしに接触しようとはしないだろう。  
 
待機モードから移行し、涼宮ハルヒと同じ高校に入学して人との接触が増えた当初は、  
このようなことが何度かあった。  
しかし、涼宮ハルヒと行動を共にするようになってからは、ぴたりとそのようなこと  
はなくなり、それはそれで都合のよいことだった。  
でも、クリスマスが近付くにつれ、そのようなことがまた少しずつ増えてきている。  
思うに、クリスマスというものは、人に、恋人同士で過ごさなければならないのだと  
いう強制観念を植えつけるものらしい。その理由は不明。  
だが、これ以上、クリスマスとそれが引き起こす人間心理に興味はない。  
 
わたしは自宅に向けて歩き出した。  
好きです、その言葉が妙に思考に残る。あの時、なぜ返答したのだろう。  
彼のわたしに対する興味を消去し、そのまま無言でその場を離れてもよかった。  
彼は自分の心理状態に多少の疑問は感じでも、速やかに彼の日常に復帰しただろう。  
返答したことは、不要な印象を彼に与えかも知れない。  
いや、結果は同じだ。彼は今後わたしに近付くことはない。  
 
考える時間が必要だった。  
 
自宅に戻り、わたしは考え始めた。もうあまり時間がない。  
わたしはまもなく世界改変を実行する。そうするはずだ。蓋然性は高い。  
しかし、その理由、目的が明確でない。いや、まったく解らないわけではない。  
実際、少し前から、わたしは過去の同位体からの同期要求を全て拒否している。  
今のわたしの記憶と感情を過去のわたしに知られたくはないから。  
 
わたしの役割は涼宮ハルヒの観察だった。  
しかし、今では、あの人の観察と保全も役割に入っている。  
あの人に初めて会ったのはこの部屋で、わたしは待機中だった。  
その時点での観測結果からは、少なくとも中学、高校の間は、涼宮ハルヒが普通の  
人間に興味を持つとは思えなかった。だから、情報統合思念体は、普通の人間である  
あの人の存在――涼宮ハルヒが興味を持った人――を特異なものと認識し、  
あの人の観察と保護をわたしの役目に加えた。  
 
そして、それは結果的に驚くべき影響をわたしに与えた。  
わたしが受けた影響は、あの人と行動を共にするようになってからが顕著だった。  
 
わたしは観察者であり、よって、観察対象とは最小限のコミニュケーションが  
成り立てばよい。余計な感情の発露はノイズを生み、不必要な影響を及ぼす。  
観測者の存在は、対象にできるだけ影響を与えないことが望ましい。  
 
しかし、わたしは、もうそれを守れそうにない。  
わたしは、あの人の頼みを断れない。今のところ、妙な依頼は受けてない。  
仮に依頼されたら、あの人の立場で全てを判断し、実施してしまうかも知れない。  
でも、あの人は、あまり変な依頼はしてこないだろう。  
そこは信頼している。ただ根拠はない。  
 
そして、あの人にわたしを意識して欲しい、そう、できれば、いつもわたしの  
ことを見るようになって欲しいと願うようになった。それは、多くの局面で、  
実現している。彼の視線は、わたしを捕らえることが多い。  
それは、コンピュータ研とのゲーム対戦以降、顕著になった。  
わたしは、それを嬉しいと感じるとともに、少し残念にも思っている。  
なぜなら、彼の瞳に浮かぶ感情は、わたしが望むものではないから。  
 
そこまで考えて、わたしの思考は停止する。わたしが望むもの?  
 
思考が揺らぐ。今、わたしは何を考えていたのか。  
わたしの連想記憶は、あの人の姿を次々と引き出す。  
初夏の図書館。嵐の孤島。永遠の夏……。  
わたしに自我を意識させた彼の言葉、労いの言葉……。  
心配そうな視線。労わるような視線。  
眼鏡はないほうがいいと言ってくれた彼。  
 
既にわたしは観察者としての客観性を失っている。  
思えば、文化祭の映画は、わたしの思考に、ある種の影響を与えた。  
わたしは、鍵となる人と共にこの宇宙をあるべき姿へと変える。  
そう、わたしの望みは……  
 
わたしは何を考えているのだろう。  
 
気が付くともう深夜になっていた。  
思考を解放し、床に寝転ぶ。ただ天井を眺める。少し憂鬱な気分。  
 
そう、わたしは、あの人と一つになることを望んでいる。  
もはや、観察対象として彼を観ることは不可能。  
あの人と共にいて、触れ合って、あの人の存在を感じたい。  
 
わたしはあの人が隣にいて、手をつなぎ、話しかけてくる姿を想像する。  
その想像は、わたしを浮き立たせるような気分にさせる。楽しい。  
でもそれは、きっと良くない兆候。  
 
このままでは何も進まない。  
 
くじがある。そう考える。選択は複数。あたりは一つ。  
それは、自分の望む未来。  
線を辿る途中に、横線が次々と書き換えられるあみだくじ。  
 
どれを引く? いや、もう引いてしまったのだ。そして線を辿っている。  
横線は次々と書き換えられ続けている。横線を書き換えているのは、  
わたしと不確定要因。だから不確定要素の意思を推測する。  
しかし、推測には限界がある。ならば、直接、その意思を確認すればよい。  
自分の意思を確定し、不確定要素の意思が確定すれば、結果を得られる。  
わたしの望みを不確定要因が望めば、あたり。  
わたしの望みを不確定要因が望まなければ、はずれ。  
それは一種の賭けだ。  
 
このままでは、わたしは決定的なはずれを引く。それは規定事項。  
 
ふと、今日、わたしと付き合いたいと言ってきた男子生徒を思い出した。  
彼も賭けにでたのだ。そして彼は結果を得た。彼が望んだものではないだろうが、  
納得したのだろう。結果的に、彼は思考の安定を得たに違いない。  
 
うつむき加減でわたしの前に立った、あの男子生徒の姿を思い出す。  
その生徒の姿があの人の姿に変わる。  
あの人は、わたしの記憶にあるままの言葉を発し、わたしは答える。  
 
――嬉しい。これからはいつも一緒。あなたは、わたしのことだけを考えて。  
 
わたしは感情を抑えられなくなり、それは、ある種の身体的反射反応を引き起こす。  
あの人に抱きつく。そして抱きしめられたい。  
 
無意識に胸に手が行き、軽く揉む。無意識な身体動作は障害の兆候。でも。  
これはあの人の掌なのだ。体温、心拍数が上昇する。  
開いた両足の間に指をもぐりこませ、下着の上から擦りあげる。何度も繰り返す。  
突然、内股の筋肉が収縮し、身体を丸めてしまいそうになる。不随意な筋肉の収縮。  
うまく身体を制御できない。両足の間を擦り上げてた指先を口に含み、それを舌で  
嘗め回す。これはあの人の舌。腰を浮かせ気味にして、唾液で濡らした指を下着の  
隙間からすべりこませる。そこはすでに濡れそぼっていて、  
ならば、唾液をつける必要はなかったのだ。思考が上滑りする。  
 
刺激を与え続けることしか考えられず、わたしは胸を揉んでいた手も、  
股間にすべり込ませた。  
 
下着が邪魔。でも、もう脱ぐのも面倒。思考が乱れる。でも、いやじゃない。  
わたしはあの人に愛撫されているのだ。わたしは両手で、わたし自身を弄る。  
 
浮遊感。その瞬間、身体が勝手に反り返り、視界が真っ白になった。  
落ちていく。そして、溶けていく。  
 
それに続く、波に揺られるような感覚の中で、わたしはあることを考えていた。  
 
情報不足。そしてその時は迫っている。  
そう。ならば賭けてみるのも悪くない、はず。  
 
翌日の放課後、部室で私はいつもと同じようにハードカバーを読んでいた。  
いつもの日常。あの人を視線の隅に捕らえる。  
あの人はその日も何度か視線をくれた。あの人に見られる度、わたしは穏やかな、  
それでいて落ち着かない気持ちになる。矛盾。でも、いやじゃない。  
そのわたしの気持ちは伝わらなかったようだ。残念。  
 
その日の活動も終わり、みな帰り始める。  
そして、部室には、帰り支度をしているあの人と、わたしだけが残った。  
「じゃあ、俺も帰るよ」  
「まって」  
そう言ってわたしは、読んでいたハードカバーを本棚に戻した。  
彼は身体をドアに向けたまま、首だけでこちらを向く。怪訝な表情。少し楽しい。  
わたしの感情は、表情に表れていないはずだ。わたしにそのような機能はないから。  
カバンを手に持ち、わたしは言った。  
「一緒にきて」  
「……どこに?」  
「わたしの家」  
「……それってアレか、またハルヒが何かしでかしたのか?」  
「ちがう。相談」  
「相談? なんの?」  
「わたし」  
彼は首を傾げている。彼の表情から否定的な感情は読み取れなかった。  
だから、そのままドアに向かって歩く。  
「ちょ、おい、ちょっとまて。おい、長門」  
後ろから肩を掴まれた。そのまま振り向き、彼を見上げる。彼の手の温もりを感じる。  
断られるのだろうか。少し心配。  
 
彼はそのまま立ち尽くしていたが、諦めたように言った。  
「わかったよ、そんな目で見るな」  
わたしは頷き、ドアに向かった。  
 
帰り道、彼はわたしの少し後を歩いていた。  
並んで、そして手をつないで欲しい。しかし、彼はそのようなことはしない。  
特に話すこともなく、マンションに到着。部屋のドアを開けた。  
「入って」  
おじゃましまーす、と言いながら入ってきた彼を、リビングに通す。  
彼も初めてではないので躊躇することもなく、コタツ兼用のテーブルの前に座った。  
わたしはカバンを置き、台所でお茶の準備。  
 
テーブルに向かい、お茶を出す。  
お茶を飲む様子が少し気に入らない。朝比奈みくるのお茶を飲むように、  
わたしのお茶も飲んで欲しい。  
 
「で、話ってなんだ?」  
まさか、また何か電波なことでも話すつもりか、と言いたげな彼の表情を見て、  
わたしは口を開いた。  
「わたしのこと」  
「ん?」  
彼が、だからなんだ、と言うようにわたしを見る。  
「あなたが好き」  
「え?」  
「抱いて」  
「…………」  
彼が固まった。わたしはテーブルの上の湯飲みを手に取り、少しだけお茶を飲んだ。  
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待て。待ってくれ!」  
そう言って、お茶を飲んでいるわたしを見て、唖然とした表情を見せた後、  
気を取り直したように言った。  
「すまん、わからん。まったく意味がわからん。なにがわからんかもわからん。  
何か聞き違えたんだろうな、俺。ははは、すまん、すまんがもう一度言ってくれ」  
そして、わたしに真剣な目を向けた。  
 
考えてみる。意図は伝わらなかったようだ。少し悲しい。再試行。  
「わたしは、あなたが好き」  
「…………」  
「だから、あなたのものにして」  
「…………」  
彼の表情は変わらない。真剣な表情のまま固まっている。  
やはり、抱いて、とか、あなたのものにして、とか言う言葉は、  
もう少し違う感じで言ったほうがよいのだろうか。例えば朝倉涼子のような甘えた  
感じで言えば、伝わりやすいのかも知れない。彼女の初期設定パラメタ値は保存  
されてただろうか、などと考えたところで、彼が復帰した。  
「ま、ま、ま、まてまてまてまてっ! ちょっと待て!」  
彼は立ち上がり、一歩下がった。  
 
この世に存在し得ないものを見てしまった、そんな微妙な表情。少し腹立たしい。  
「それって、どーゆーことだ!」  
「言葉通り」  
「…………」  
彼は正座したままのわたしに近付くと、両手でわたしの両肩を掴み、顔を覗き込んだ。  
「言ってる意味わかってるか? お前は本当に長門か? まさか……」  
覗き込んでくる彼の目を見る。見開いた目は驚愕と疑いの色を湛えている。  
そして、何か呟いている。何か言った方がよいのだろうか。  
彼はしばらくそのままの体勢でわたしを見つめていたが、やがて、何かに気が付いた  
ように手を離すと、一つ咳払いをした。  
そして、ぎこちない動きで、テーブルの向こうに座った。  
そのままで良かったのに。少し残念。  
 
彼は何度か口を開いたり閉じたりしていたが、やがて決心したように言った。  
「長門。俺には、お前が俺の知ってる長門に見える。でも、俺の長門は、  
そんなことは言わないんだ。一体どうした? 何があったんだ?」  
 
俺の長門、その言葉にわたしの感情が反応する。  
そしてそれが、俺の(知ってる)長門の意であることを理解し、少し残念に思う。  
それから、わたしは言った。  
 
最近のわたしは、ひどく不安定。でも、あなたといると落ち着く。  
あなたの言うことは何でも聞きたい。あなたがわたしを頼ってくるときは、とても嬉しい。  
だから、わたしは、あなたが好き。  
わたしは、あなたのことを考えていると思考が落ち着く。  
あなたの行動が理解できないと、思考が混乱する。  
わたしは、あなたの全てを理解したいと思っている。  
わたしのこの感情は、恋愛感情に近いと理解している。  
あなたがわたしを嫌っていないということは解る。  
よって、あなたは、わたしに対して何らかの興味をもっていると推測できる。  
だから、わたしを抱いて。  
 
説明を終えた私は、またお茶を一口飲んだ。彼は呆然としていたが、やがて口を開いた。  
「最後の『だから』は…… いやいやいや、そうじゃない。とりあえず、それはいい」  
彼は早口で何か呟いた後、言葉を続けた。  
「つまり、お前、俺の知ってる今の長門は、俺を好きになった?」  
肯定。  
「で、俺がお前を好きになることを望んでいる?」  
少し考えて、肯定。  
「つまりは、俺たちが恋人同士になることを望んでいる?」  
少し考えて、否定。  
「少し違う」  
わたしは、あなたが思うような恋人関係になることを、確かに望んでいる。  
しかし、それを叶えるには、あなたの意思、わたしという存在の特殊性、  
涼宮ハルヒの反応など、考慮しなければならない要素が多い。  
実際、それはほぼ実現不可能。  
しかし、一時的な関係であれば可能かも知れない。  
その場合、考慮すべき要因は、あなたの意思のみ。  
一時的な関係であれば、涼宮ハルヒに知られる可能性は低くなる。  
 
このままでは、わたしの自立行動に影響がでることは必至。  
わたしは、わたしの希望が成就したと信じられれば、たとえそれが一時的なもので  
あったとしても、自分があなたの特別な存在だと自覚することができる。  
それが、わたしの不安定な感情を安定させる効果があると推測する。  
わたしは、あなたとの記憶を保持し、それによって、以降の動作の安定を図る。  
だから、一度だけでいい。わたしの願いを叶えて欲しい。  
 
しばらく腕組みをして唸った後、彼は言った。  
「お前、まさか、どっかおかしくなったってことはないよな」  
「おかしくなった。以前のわたしなら、こんなこと言わない」  
「それって、壊れたってことか? 例のほら何だっけ、情報統合なんちゃらには…」  
「物理的に何かが壊れたわけではない。ただ、抑えられなくなった」  
「何を」  
「感情」  
「感情だぁ?」  
「そう」  
 
呆然と座ったままの彼は、スーザン・キャルヴィン監修の工学ハンドブックを探して  
いるようだった。テスト法を知りたいのだろう。それはそれで正しい。  
でも、少し悲しい。  
 
わたしは、感情をできるだけ抑制するよう設定されていた。それは必要なこと。  
わたしは観察者であり、観察者は自身の感情を悟られてはならないから。  
しかし、最近では、特にあなたの前では感情を抑制できなくなってきていることを  
自覚している。本来、そうなることはないはずなのに。  
 
その感情は、わたしの思考に影響を及ぼしている。  
わたしの感情がゆれるのは、あなたの前だけだ。  
だから、その理由を調べ、その原因を突き止めた。  
 
「……なんつーか、その、こういっちゃなんだが、ベタすぎるぜ、長門」  
「そうなのだから仕方がない。現状の認識と速やかな対策が必要」  
「む? う、うん、まぁ、そうだな……」  
 
わたしは、この不安定な状態を改善したい。手段を選ぶ余裕はない。もう限界。  
 
フランケンシュタイン・コンプレックスを初めて理解したような顔で彼は言った。  
「いやだといったら……」  
ふいに思考が平坦になる。  
「わたしの情報結合解除を申請する」  
「結合解除……ってやめろ。それは絶対にダメだ。消えちゃうってことだろ?」  
「情報素子となって本来の場所に戻る。消えてなくなるわけではない」  
「俺の前から消えたら、それは世界から消えたのと同じさ。それはダメだ」  
「…………」  
彼の言葉は温かい。  
 
わたしは、このまま自立行動に支障がでた結果として、暴走したわたしが、  
世界改変を実施したのではないかと考えていた。  
詳細において矛盾を感じるが、この点について、深く考えようとすると思考が揺れる。  
だから考察放棄。  
 
「で、結局、具体的には、何をどうすればいいんだ」  
「性交」  
「な、なにぃ!?」  
「セックス」  
「せ、せっくすぅ?」  
「最初からそう言ってる」  
「え? あ? そ、そうだっけ?」  
彼は額に手をあて、眩暈に耐えているようだ。  
 
あなたの気持ちの問題もあるだろう。  
しかし、あなたはわたしを嫌ってはいないと思う。また、そのような行為に興味も  
持っていると思う。あなたの年齢の男性は、そのような機会を逃すことはない、と  
読んだ書籍にそう書いてあった。それに、男性は、交合による身体的変化はない。  
だから、あなたにとって不都合なことは何もない。  
 
悪徳電話セールスみたいなことを言うな、と描いてある顔で、彼は言った。  
「そうだな。で、俺の精神的影響はどうするんだ?」  
「わたしがきらい?」  
「そんなことはない。ないんだが……」  
何を想像しているのか不明だが、彼は、しばらく顔色を色々変化させつつ、  
黙りこくり、やがて、口を開いた。  
「俺は、お前に世話になっている。だから、お前の頼みは何でも聞いてやりたい」  
そして、しばらく空中に視線を彷徨わせ、何か考えた後、  
「なぁ、とりあえず軽く抱き合ってみるとか、その、なんだ、軽くキスするとかでは…」  
と、呟くように言うと、俯いてしまった。  
 
予想外。もっと簡単に話が進むと予想していた。彼は純潔主義なのだろうか。  
それも悪くない。しかし。健康な男女間でプラトニックラブ。それは幻想。  
それを志向していても、何かしらのトリガーによって、最終的に性的関係へ展開する。  
性的関係までの一般的なバウンダリは、接触、抱擁、接吻、愛撫。  
 
彼は健康な男子高校生。  
仮に精神的恋愛を志向していても、抱き合ったり、キスしたりしているうちに、  
一線を越える可能性が高い。彼の行動パターンは、身体的、精神的問題の存在を否定  
している。  
 
彼のバウンダリは触れ合うことではない。  
それで一線を越えるようであれば、既に朝比奈みくると何とか成っているはず。  
しかし、彼が朝比奈みくると特別な関係を構築した兆しはない。彼は堅い。  
彼にとっては、キス以上の行為で以って特別な関係となる。  
問題はない。  
 
「わかった」  
そう言って、わたしは彼の側に行き、身体を摺り寄せた。今はただ、抱きしめて。  
身体を寄せたとき、一瞬驚いたように身体を硬くした彼は、それでも、わたしの背中に  
手を回し、ぎこちなく抱きしめてくれた。制服越しに温もりを感じて、わたしは、  
ゆっくりと彼を押し倒し、彼の胸に耳をあてた。彼の手がわたしの頭に乗せられる。  
彼の鼓動は早く、そして、心地よく響く。彼の指がわたしの短い髪を梳く。  
目をとじて、わたしは、彼に抱かれて満足そうな顔をする三毛猫を思い出していた。  
あの猫は、いつもこうしているのだ。羨望。  
そして、顔を上げ、彼の顔に近づけようとしたとき、  
 
ぐぅ。  
 
何かが鳴った。  
 
「ぉわ、わわっと。すまん」  
わたしが身体を起こすと、彼が、いやなんかさ、別に腹減ったわけじゃないんだけど、  
とか言い訳しながら身体をおこした。危なかったぜぇ、と聞こえた気がした。  
 
「ご飯?」  
そういえばもう夕食の時間。わたしは立ち上がり、台所へ向かおうとした。  
「もうそんな時間か。じゃあ、俺もそろそろ」  
立ち上がり、お前の話はわかった、考えをまとめて、また明日にでも、などと言いつつ  
カバンを持とうとする。わたしは後ろから彼のベルトを掴んだ。  
「ご飯、食べていって」  
「いや、しかし」  
「…………」  
「わかった。すまん。ご馳走になる」  
彼をテーブルに座らせて台所に向かった。  
彼には申し訳ないが、わたしは状況を進展させなければならない。  
 
千切りキャベツとカレー。彼と二人で食べるカレーは、いつものレトルトカレー。  
なのに、いつもと違う味がした。おいしい。  
 
食べ終わり、彼はわたしの淹れたお茶を飲んでいる。  
食器を片付けながら、合間に視線を送る。彼は朝比奈みくるの淹れたお茶を、いつも、  
幸せそうな表情で飲む。しかし、わたしの淹れたお茶を飲むときはそうでもない。  
やはり悔しい。  
 
片付けが終わり、私は、テーブルに座っている彼に後ろから抱きついた。  
「わ、こ、こら。どうした」  
「続き。抱いて」  
 
立膝で彼の頬に唇をつけてから、身体を回して、彼の膝の上に身体をのせた。  
まだ迷いを浮かべている彼の目を覗き込みながら、ゆっくりと顔を近づけた。  
彼の腕が、ゆっくり、わたしの背中に回される。  
彼の首に両腕を回して、そのまま唇を重ねる。  
 
何度か軽く唇を重ねた後、舌で彼の唇を舐めた。彼の息遣いを感じ、身体が熱くなる。  
急に、強く抱きしめられ、彼の舌が侵入してきた。荒々しく、口内を嘗め回される。  
舌を彼の舌に絡める。互いに何度も舌を入れあい、互いに貪りあう。  
唾液が混じりあい、息遣いが荒くなる。  
その後、ゆっくりと口を離した。わたしはどんな表情をしているのだろう。  
わたしは制服の上に着ているカーディガンを脱ぐと、彼の手を取り、その掌を  
わたしの胸にあてた。  
「お願い」  
「本当にいいのか」  
彼の目には熱情。わたしは頷き、彼はゆっくりとわたしを押し倒した。  
 
脱ぎ散らかした制服や下着が目に入る。仰向けに寝ている彼の胸に耳をあて、わたしは  
彼の鼓動を聞いていた。彼の手がわたしの頭をさすっている。暖かい感情で満たされる。  
先ほどまでの行為を思い出す。少し恥ずかしい。でも嬉しい。  
 
「いまさらだけどさ、本当によかったのか」  
「あなただから」  
「なんだか罪悪感を感じるよ、俺」  
「なぜ?」  
「なぜだろうなぁ……」  
「あなたが罪悪感を感じることはない」  
「長門」  
「なに?」  
「ありがとよ」  
「…………」  
 
彼がなぜ感謝の言葉を言ったのかは解らない。でも気にならなかった。  
そう、わたしは満たされている。彼との確かな絆を感じる。  
このまま時を過ごして行きたい。かつてのわたしに時間経過は意味がなかった。  
でも今はある。きっと彼が言った、あの言葉がわたしの時を開始したのだ。  
 
――また会おう、長門。しっかり、文芸部室でまっててくれよ  
 
それとともに、やはり世界改変は不可避なのだと言う思いが頭を過ぎる。  
 
する前は、すること自体が重要であって、それをすることで感情が安定すると思った。  
それは正解だった。わたしは、彼を愛し、彼に愛された。  
そして、彼の特別な存在になったと感じている。それは思考を安定させる。  
しかし、それで満足できると考えていたことは間違っていた。  
わたしは、今、わたしが体験したことを、彼が他の人と体験することを受け入れる  
ことはできそうにない。少し考えただけで思考が千切れ、感情がうねる。  
 
こうなるとは想定していなかった。  
わたしは今、彼を占有することを、わたしだけの彼であることを切望しているのだ。  
その願いは高確率で成就しない。そう理解しているのにも関わらず、わたしはそれを  
願っている。そう、不思議との出会いを切望する涼宮ハルヒのように。  
 
わたしが彼を諦めない限り、何れわたしと彼の関係は涼宮ハルヒの知るところとなる。  
彼女も彼を求めている。彼は涼宮ハルヒの鍵なのだ。  
そして彼が彼女以外の女性と関係を持つことを許しはしない。  
そうなった場合、大規模情報フレアの発生が高確率で予測される。  
しかし、わたしは彼を諦めることができない。  
 
そしてわたしは、わたしがもはや涼宮ハルヒについての観察者たり得ないことを知った。  
冷静に彼女を観察することは不可能だ。わたしの存在理由は消滅した。  
わたしは情報結合解除を申請するべきなのだろう。  
しかし、彼の前から消えたくはない。  
 
やはり、世界改変は不可避なのだ。  
でも、わたし自身をどう扱うかは、まだ決まっていない。  
それは、これから、わたし自身が決定しなければならない。  
 
なぜ、こうなってしまったのだろう。わたしは壊れてしまった。  
 
「あのさ」  
彼が口を開いた。彼の胸に顔を置いたまま聞く。彼は温かい。  
 
俺は前からお前が好きだったのかもな。  
最初は無表情で何を考えているかわからなくて、でも、だんだん表情が読める  
ようになって、それなりに、お前の考えていることがわかるようになって、  
お前の表情が読めるのは、俺だけだなんて思ってさ。  
そして、SOS団が続く限り、ずっとお前とも一緒なんだなと。  
何時からか、お前にもっと感情を持って欲しい、たまには、感情的になっても  
いいんだぞと思うようになった。たまには微笑を浮かべるとかさ。  
だから、今日のことは、そりゃ驚いたけど、嬉しかったよ。  
お前が、そんな感情のために苦しむのは忍びない。だから、もっと言っていいんだぞ。  
今回ことだって、一度でいいって言ってたけど、何時でも言ってくれ。  
何と言うか、俺、いやじゃないからさ。  
つか、俺のほうからお願いしたいっていうか、いや、その、なんだ、アレだ。はは。  
まぁ、俺も普通の男だし。  
でも、正直、こんな流れで、こんな関係になるとは想像もしてなかった。  
俺自身が流されたようで、何かこう、誘われれば誰とでもやるんじゃないかと思われて  
そうだから、言っとくけど、こうなったことは、俺の意思でもあるんだ。  
俺、お前に惚れてたのかもな。何か順番が逆だな。  
でも、これからもお前と一緒にいたいと思ってる。  
ハルヒのことや何をどうするかなんて、何も考えちゃいないがな。  
ただ、そうだな。  
SOS団のみんなが非常識なプロフィールを持ってなくてさ、単なるお遊び同好会で、  
みんなで集まって騒ぐ。そこには、非日常的なことなんて何もなくて、そんな平穏な、  
そんな世界。そこで、俺とお前が出会ってたら、どうなってたかな。  
そこでは、お前も人間で、読書好きの物静かなただの女の子でさ。  
目が合えば、微笑んでくれたりして。  
お前と付き合うことにしても、何も気にしなくていい、そんな世界。  
 
「おい、どうした?」  
彼が驚いて、わたしを抱いたまま身体を起こした。  
わたしは涙を流していた。彼の胸に顔を埋めて。涙はなかなか止まらなかった。  
わたしにも泣く機能があったのだ。両手を彼の背中に回した。顔を見られたくない。  
「なんでもない」  
「そうならいいんだけど」  
心配そうにわたしの頭を撫でる。彼はわたしの心情を勘違いしてくれるだろう。  
 
とても嬉しかった。そして、とても悲しかった。  
彼の言葉を聞いて、わたしは、世界改変の詳細を理解したのだ。そして明日には。  
でも、もう少し。今は、彼を感じていたい。  
 
しばらくすると、気持ちが落ち着いてきた。彼から手を離し、顔を上げた。  
わたしはどんな顔をしていたのだろう。  
彼の目が驚きに見開かれて、そしてやさしく笑った。  
もう少し抱き合っていたかったが、もう、あまり時間がない。  
とりあえず、散らかった下着と制服をとり、身に着けた。  
彼がやたら恥ずかしそうに服を着ていたのは、なぜだろう。全てをさらした後なのに。  
人はたまに不可解な行動をする。しかし、わたしもそうなのだ。  
 
その後、帰宅する彼をマンションの外まで見送った。  
別れ際、キスを求め、応じた彼の唇を噛んだ。彼は気が付かなかったろう。無痛なはず。  
気が付いて欲しくなかった。  
 
「本当に大丈夫か。そうか、じゃあ、また明日な」  
そう言って彼は歩いていった。街灯に照らされる彼の後ろ姿がぼやける。  
 
待ってる。  
そう、あの文芸部室で。  
 
 
彼と別れ、家に戻った。  
部屋にはまだ彼の温もりが残っていた。それは先程までの彼との行為を思い出させる。  
それはわたしの気持ちを昂ぶらせ、しかし、思考を安定させる。  
 
激しく、そして、甘美な行為。それは互いの存在を浮き立たせ、互いの意識が  
混じりあう。互いに求め、互いに与える。信頼が深まり、互いの意思を感じる。  
言語でしか意思疎通ができないものにとって、それはある種の奇跡。  
世界が変わってしまったように感じる。事実、わたしは変わった。  
 
そして、これからのことを考え、ひどく落ち込んだ。思考が沈む。  
 
彼との関係を維持するには、涼宮ハルヒに対して情報操作を実施する必要がある。  
彼女が能力を失えば、障害は排除される。  
しかし、そのような情報操作には、情報統合思念体のサポートが不可欠。  
涼宮ハルヒへの情報操作申請は、却下されるだろう。  
仮にそれが許可されたとしても、彼女の能力の喪失は、わたしの存在を否定する。  
彼女が能力を失えば、速やかに、わたしは除去されるだろう。  
わたしが存在している理由が、涼宮ハルヒの能力の存在なのだから。  
 
彼はわたしが断らない限り、わたしとの関係を維持するだろう。  
彼はわたしを気遣ってくれる。わたしの気持ちを考えた行動をするだろう。  
それは、何れ、涼宮ハルヒによる世界再構築を引き起こす。蓋然性は高い。  
 
わたしの望みは叶えられない。叶えようとすると必然的は世界再構築される。  
再構築された世界にわたしはいない。いる必然性は皆無。  
 
ならば、わたしの思う世界改変を行う以外に方法はない。  
人であるわたしが彼と出会う世界。涼宮ハルヒがいて、朝比奈みくるがいて、  
古泉一樹がいる。互いに邂逅する世界。  
超能力者も未来人も宇宙人もいない、彼が望んだかも知れない世界。  
 
その世界のわたしは、今のわたしの自我を持たない。持つことはできない。  
わたしの自我はインタフェイスとしてのもの。  
人はわたしのような自意識を持つことはできないし、わたしのような考え方もしない。  
だから、わたしの自我は再構築。その世界のわたしは、きっと彼を見て微笑む。  
彼が望んだ、驚いたり微笑んだりするわたし。  
 
部屋の壁に寄りかかって、先程までの彼との時間を思い出す。  
彼の声、彼の匂い、彼の温もり。そして、彼に抱きしめられる感覚。  
 
涙が流れた。無表情な能面のような顔に流れる涙。なんの笑い話なのだろう。  
彼の笑顔を思う。今なら微笑むこともできるかも知れない。  
そして涙を拭い、準備をはじめた。  
 
もう分岐点はない。これは規定事項だった。  
 
準備を行いながら、涼宮ハルヒと彼が、初めて文芸部室に来た日のことを  
思い出していた。その後に続く、色々な騒動。騒動の中心には常にわたしと彼がいた。  
そして、初めて彼の希望に沿いたいと思ったとき、  
思えば、あの朝倉涼子との対決のあと、眼鏡の再構成を忘れたとき、  
その直後に、わたしは、彼に好意を寄せていることを自覚したのだ。  
 
はじめよう。状態は万全。思考に乱れはない。  
 
これから始まる新たな出会い。  
そこには、わたしはいるが、わたしはいない。  
今の彼を知るものは、誰もいない。  
 
その世界は、一度始まり、そして過去からの介入を受ける。  
その結果どうなるかは、何れ解るだろう。それは彼が選択する。  
 
準備完了。全てのプログラムは揃った。まだ決定していないパラメタは、  
実行時に決定しよう。情報統合思念体のサポートは受けられない。  
スタンドアロンでの情報操作能力には限界がある。  
だから、涼宮ハルヒの能力が必要だ。その能力の発現がトリガーとなる。  
彼女の能力を発現させる方法を思い、少し気持ちが沈んだ。  
 
そして、午前4時前に部屋を出て、学校に向かった。  
 
学校に着き、校舎を見上げる。一瞬の躊躇。そしてわたしは情報操作を開始した。  
涼宮ハルヒは、今日の、わたしの一番大切な記憶を、夢としてみる。  
わたしと彼が愛し合う姿。それはまさに現実のように、彼女の脳裏に投影される。  
彼女にとっては、最大級の悪夢だろう。  
 
次の瞬間、大規模な情報フレアの噴出を検出。  
 
介入を開始。場の状態を確認。状態遷移を把握。変移を追跡。状態の固定。  
次々と変化する場の状態を安定させていく。  
世界は変わる。涼宮ハルヒが望む世界ではなく、わたしの望む世界へ。  
彼が望んだかも知れない世界へ。  
 
わたしは改変後の世界で、彼と知り合いになりたかった。できれば恋人に。  
だから、記憶の断片を残す。わたしだけが彼の存在を知る。  
そして、わたしの彼への想いは、改変後のわたしが想像する物語のなかに残される。  
宇宙人が地球人に片想いする恋物語。  
それは、夢想という形で、改変後のわたしの記憶に残るだろう。  
忘れて欲しくない。  
 
改変後のわたしは、きっと彼を探して近付くだろう。クリスマスも近い。  
二人でクリスマスを過ごしたいと思うはずだ。人間だからきっとそうする。  
クリスマスと人の恋愛感情について、もう少し考察しておけばよかった。  
 
改変後の涼宮ハルヒは、彼に近付こうとするだろうか。解らない。  
でも、できることはしておこう。  
改変後のわたしは、気弱で人見知りの読書好きな、ただの文芸部員に過ぎないのだから。  
フェアじゃないが、この点は、フェアである必要はない。  
なんともいえない気分。  
 
今頃、彼の体内に注入した情報操作因子は、彼を世界改変から守り、  
放課後以降の記憶を改変しているはずだ。  
彼から昨晩の記憶が消えることは残念だが、そうしないと、  
彼はわたしの意図に気付き、それに沿った選択をしようとするだろう。  
わたしは、わたしの想いを知る前の彼に選択して欲しかった。  
 
選択は二択。一つは平穏な世界。もう一つはこのまま継続する世界。  
どちらが選ばれても、わたしの自我は存在しない。  
このまま継続する世界では、わたしは存在は、彼の前から消えるしかない。  
 
問題はない。改変は、もうすぐ終わる。  
 
改変後のわたしに思いを馳せる。わたしとは違うわたしに。  
それは形の違う死と転生。  
 
もうすぐ……。  
 
そこで突然気が付いた。彼は鍵。しかし、涼宮ハルヒだけの鍵ではない。  
あの永遠の一週間から脱出できた理由はなんだったか。  
彼が、涼宮ハルヒの能力を――  
 
――あれ?  
ここは、どこだろう。校門? 学校? 何かとても大事なことを考えていた気がする。  
でも、わたしは家で寝ていたはず。なぜ、こんなところにいるんだろう。  
今は夜? 明け方だろうか。とても寒い。  
ふと気が付いて、急いで着ているものを確認する。制服だ。ほっとする。  
パジャマでなくてよかった。  
周りを見回し、向こうから人影が歩いてくることに気が付いた。  
眼鏡に手を当て、レンズの位置を調整する。  
驚いた。五組の彼だ。とても綺麗な女の人と一緒に近付いてくる。  
なぜ、彼がこんな時間に女の人と一緒に、こんなところへ?  
 
彼は驚きもせず、普段知り合いにでもするようなあいさつをしてから、  
「長門。お前の仕業だったんだな」  
と言った。  
 
わけがわからない。何をいってるんだろう。なぜ、わたしの名を知ってるんだろう。  
「……なぜ、ここに、あなたが」  
とりあえず最初に感じた疑問を声にする。彼が何か言っているがよく解らない。  
なぜわたしがここにいるのか問われた。そういえば何故だろう。  
でも、あまり妙なことを口走って変なやつだと思われたくなかった。  
当たり障りのない返答をする。  
 
彼は少しうんざりしたような表情をした。  
朝倉さんが一緒なら、もう少しまともな対応ができたのではないか、などと  
仕方のないことを思い、うつむく。彼は何かを考えているようだった。  
 
こんな時間に制服を着て、こんなところにいるわたしも変だと思うけど、  
こんな時間に、ほとんど話したこともないわたしに、いきなり声を掛けて、  
悩みながら独り言を呟いている彼も、かなり変なのではないだろうか。  
何かが間違っている。わたしの知っている彼は、そんな人ではなかった。  
 
なぜこんなことになっているのかを考えていると、彼が近付いてきて、  
何か言ったらしい。  
「……、今までの長門が好きなんだ。それと眼鏡はやっぱりないほうがいい」  
始めの方は聞こえなかった。でも、今までの長門? 意味がわからない。  
それはわたしなんだろうか。ただ、彼にとって、わたしが特別らしいことだけは  
解った気がする。それは嬉しい。でも、わからない。何かがひどく間違っている。  
わたしは混乱して、何がどうなっているのか、まったくわからなかった。  
 
彼は綺麗な女の人と何か話している。  
 
夢なら覚めて。  
 
気が付くと、彼がわたしに何かを向けていた。  
思わず彼の手元を見つめ、そこに拳銃ようなものを認めて、身体が凍りついた。  
殺される?  
 
次の瞬間、女の人の短い悲鳴で、わたしは我に返った。  
そこに朝倉さんが立っていた。わたしの親友で、わたしの保護者のような存在。  
なぜここに彼女が? 彼女はあの人に体当たりをしていた。  
 
助かった、そう思った。彼女なら、この状況について教えてくれる。  
しかし、彼女に体当たりされたあの人が、わき腹を抑えて道に倒れたのを見て、  
そして、彼の横腹から血が流れているのを見て、さらに、彼女がナイフを持って  
いるのを見て、わたしは事態がまったく改善されていないのだと悟った。  
気が遠くなりそうだ。  
 
「朝倉……さん」  
彼女がそんなことをするはずはない。  
足から力が抜け、わたしはしりもちをついた。  
 
気が付くと学校にいて、彼が女の人とやってきて、意味不明なことを言われて、  
好きだったと言われて、銃で撃たれそうになって、朝倉さんが彼を殺そうとしている。  
 
笑いがこみ上げそうになる。わたしは、おかしくなったんだ。でなければ、夢だ。  
ほら、その証拠に、わたしがそこに立っている。  
 
「あ……?」  
 
そこに、わたしが立っていた。後ろ姿だが、ちらっと見えた横顔は、わたしだ。  
同じ制服、同じ髪型、同じ顔。ただ、眼鏡をかけてない。  
眼鏡をかけてないわたし。誰かからそんなことを言われたような。  
 
そして、そのわたしに、彼が近付いていた。  
今、朝倉さんに刺されて道に倒れているはずの彼が。  
彼が二人いる。そしてわたしも二人いる。  
 
「どうし……て……」  
 
頭の中が白くなる。何も考えられない。いや、かすかに引っかかることがある。  
眼鏡はないほうがいい、その言葉が蘇る。何時言われたのだっけ。  
彼に? 図書館で? 違う。そのとき言われていれば、きっと今はコンタクトに  
している。彼は貸し出しカードを作ってくれただけだ。  
それ以外に直接会った記憶はない。  
いや、朝倉さんと彼、そしてわたしがどこかで……  
 
気が付くと、目の前にわたしが立っていた。  
そして……  
 
 
わたしは、わたしを自覚した。情報統合思念体の存在を感知できない。  
記憶を辿る。つまり今は世界の改変後。私は世界を改変した。  
その後、再修正プログラムにより、わたしは復元した。  
そして、ここにもう一人のわたしがいる。異時間同位体。未来のわたし。  
 
眼鏡を外す。見渡して、彼を見つけた。朝比奈みくると一緒にいる。  
刺された彼は、現時空の三日後の彼。緊急脱出プログラムを起動したに違いない。  
立っている彼は、彼の異時間同位体。未来の彼。  
彼を見つめる。それが彼の決定だったのだ。  
不思議と失望感は感じない。それが彼の選択。  
それでいい。わたしは結果を得た。  
 
ただ、そこに異時間同位体のわたしがいることが理解できない。  
再製造されたのだろうか。選択的にわたしの自我を再構築したのだろうか。  
何れにせよ、それは、わたしではないのだろう。  
 
わたしは、目の前に立っているわたしに同期を要求した。  
詳細を知る必要がある。  
目の前にいるわたしは、わたしを見つめたままだ。  
その目に浮かぶ感情を観て、わたしは落ち着かない気持ちになった。  
 
わたしは再度同期を要求した。  
「同期を求める」  
「断る」  
「なぜ」  
「したくないから」  
 
目の前に立っている異時間同位体は、わたしだ。わたしと同じ感情を持っている。  
わたしに表情を作る機能があれば、顔には驚愕が浮かんでいただろう。  
 
彼は、このまま継続する世界を選択した。  
その彼は、わたしの想いを、わたしと関係を結んだことを記憶に留めていない。  
情報操作因子は、正しくその役目を果たしたはずだから。  
だから、今の彼は、わたしの気持ちを知らない。  
 
しかし、わたしは、彼と特別な関係となり、その関係を継続したいと切望している。  
そして、その願いを成就することが、涼宮ハルヒによる世界再構築を引き起こすと  
いうことも理解している。  
 
残された方法は、わたしの消去か、自我の再構築しかない。  
自我の再構築は、より厳重に、感情を抑制する方向で行われなければならない。  
なぜなら、それこそが、全ての原因だから。  
 
しかし、目の前のわたしは、わたしと同じ感情をその目に宿している。  
何があったのか。いや、これから何があるのか。まだ、終わってはいないのだ。  
 
そして、それを、目の前にいるわたしは、わたしに知らせたくないのだ。  
わたしが、過去の同位体を同期を拒否したように。  
わたし自身の感情を、過去のわたしに知らせたくなかったように。  
 

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