いつもと変わらぬ気怠い午後の授業。中年の教師は、黙々と黒板を数字や記号で白く
塗り潰していく。書いては消されていく文字は、どこかクレイアニメに似ている。
教師の動きがぴたりと止まり、こちらを振り向いた。やばい。慌てて下を向いて、ノートを
取る振りをする。しばらくそうやって嵐が過ぎ去るのを待ってから、そっと視線だけを上げる。
チョークを持った手で教師が指差した先には谷口がいた。谷口は落ち着きのない四十雀の
ようにキョロキョロと周りを見回した後、恐る恐る自分の顔を指差した。教師が肯定の意を
表すため、深く頷く。谷口は項垂れると、とぼとぼと黒板へと歩いていった。
演習問題を解くのは谷口に任せて、窓の外を眺めた。校庭ではどこかのクラスが体育の
授業中で、ハンドボールに興じている。
再び黒板に向き直ると、ちょうど谷口の書いた答えの上に、教師が黄色のチョークで大き
くバツを上書きするところだった。
がっくりと肩を落とす谷口。校庭から、カキーンと間の抜けた音が聞こえてきた
帰りのHRは、岡部は特に何を言うでもなく、いくつかの連絡事項が書かれた紙を配るだけ
で終わった。担任が教卓から離れると、生徒達も一斉に動き出した。肩を叩いて笑いあった
りしているのは一緒に部活に向かう奴らだろう。俺は鞄を掴むと、その合間を縫って扉へと
向かった。途中、国木田が手を挙げて挨拶してきたので、ひらひらと手を振り返す。
さて、そろそろこの状況をどうにかしてもらいたい。何かにつけて不便で仕方ない。
俺は足早に文芸部の部室へと向かった。
部室のドアをノックする。もちろん朝比奈さんのためだ。こうやってラブコメ的な着替え遭遇
シーンに続くかもしれない芽を律儀に摘み取っている。俺の紳士的な行動を称えて、どこぞの
王室が称号を授与してくれるのも、そう遠いことではないだろう。
中からバタバタと慌てるような音がしたが、返事はなかったので大丈夫だと判断して、扉を
開いた。
「……………………!!」
状況を確認し、慌てて扉を閉めた。いかん、すっかり失念していた。弁解させてもらうと、こ
れは間違ってもやましい気持ちで起こした卑劣な犯罪行為ではなく、過失による事故である。
だが仮に裁判沙汰になれば俺の死刑は免れないだろう。罪状は世界遺産冒涜罪だ。
扉に背を預け気持ちを落ち着けていると、廊下の向こうから古泉が歩いてきて、俺の様子
を不思議に眺め、首を傾げた。
俺が両手を広げて扉を死守する構えを見せると、古泉は少し考え、納得しましたとでも言う
ように微笑んだ。何が分かったのか知らないが、そのにやにや笑いはやめろ。
文句でも言ってやりたい気持ちに苛まれていると、コンコンと部屋の中から控えめなノック
がされた。
ガチャリとドアを開けたのは、顔を真っ赤に染めたメイド服姿の朝比奈さんだ。その顔を見
て、俺は先程の光景を思い出した。顔に血が上るのが分かる。そんな俺の顔を見て、朝比奈
さんは、ますます赤くなる。それを見て俺は……などという赤面のメルトダウンは、古泉が俺
の肩を叩いて止めなければ、いつまでも続いただろう。
まったく、これもすべてハルヒのおかげ……もとい、ハルヒのせいである。
件のハルヒは、まだ来ていない。部室の中には、いつも通り黙々と本を読む長門がいた。
うん、こいつだけは本当の意味でいつも通りだ。案外、読書に適したこの静かな世界を歓迎
しているかもしれない。
俺の不躾な視線が気になったのか、長門は読書を中断して顔を上げると、「なに?」とでも
言うように首を傾げた。何でもない、とでも答えたい所だが、そうも出来ないので、代わりに
首を横に振った。まったく、不便なことこの上ない。
さて、もういい加減うんざりだ。早いとこ、どうにかしてほしい。
古泉の方を向くと、待ってましたとばかりに、鞄から分厚い紙の束を取り出して渡してきた。
ダブルクリップで留められたA4の報告書は、軽く見積もっても3桁に届く枚数だろう。どうやら
こいつの饒舌さは、紙の上でも健在のようだ。
パラパラと捲ると、目次だけで3ページも使っている。もちろん、俺はこんなのを読みたいと
は思わない。だいたい目次を見れば分かるが、ほとんどは可能性や憶測などといった消極的
な内容で、事態解決の役には立ちそうにない。
要旨だけ、ざっと目を通したが、言ってることは『おそらくハルヒの仕業である』ということと、
『原因・対処法は不明』ということの二点だけだ。それぐらい俺にだって分かる。
興味なしをアピールするために、紙資源の浪費の産物を机の上に放り置いた。表紙には、
くだらないタイトルが書かれていた。
『 涼宮ハルヒの沈黙 』
Silent Our Songs / touch the hearts
さて、俺の認識が正しければ、事の起こりは今朝である。
いつものように目覚ましを止め、睡眠と遅刻を天秤に掛けた二度寝チキンランをしていると、
部屋のドアが勢いよく開かれた。起きてこない俺に業を煮やした母親が使わした使い魔の類
に違いない。人に与する、小賢しいエルフだ。
まぁ、これもいつものことで、次に来る展開も読めている。耳元での大音量の「おっはよー」
に備えて、掛け布団を頭を覆うように引き上げた。
……今考えれば、これが失敗だった。この愚行により俺は視覚という重要な外界認識手段
を失い、妹が取ったイレギュラーに対応できなかったわけだからな。
とっとっ、と、小走り気味に駆け寄ってくる足音を布団越しに聴いていたが、タンッという音を
最後に数瞬の間が空いて、
──ぼふんっ
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
声にならない叫び。警告一切無し、掟破りの真剣勝負(シュート)フライングボディプレスは
無防備に弛緩させていた腹部に直撃した。布団の中で悶えること、たっぷり数十秒。卵とじ
ならトロトロの半熟を逃し、完熟になってしまうほどの貴重な時間を無駄にしてから、ようやく
起きあがることが出来た。
情けなくも涙を滲ませながら妹を睨み付けると、何が嬉しいのか、器用なことに声も立てず
にケタケタと笑っている。間違いない、エルフではなくゴブリンの類だ。近隣の善良で木訥な
農夫の方々に迷惑を掛ける前に、きっちりと人間界のルールを教え込むのが肝要だ。
「 … … … … 、 … … … … … … 、 」
…………あれ?
「 … … 、 … … … … 、 〜〜〜 〜〜〜 、… … 」
…………おい、冗談だろ?
妹は、救いのない掬われ金魚のように口をパクパクさせる俺を不思議そうに眺めているが、
もちろん、そんなのに構ってる場合じゃない。
「 … … … … … …、 … … … … … … … … 、 … … … …!」
なまむぎなまごめなまたまご、となりのかきはよくきゃくくうかきだ、ばすばすばすばす!
疑惑を振り払おうと、意味もなく早口言葉を発しようとするが、肺から空気が漏れるだけで、
耳には一切の音声が届かない。必死になって他の言葉も出そうとするが、結果は一緒だ。
ぜぇぜぇと呼吸困難で苦しむまで試したが無駄だった。
おい、洒落にならないぞ。
肩で息をし、別に美味しくも何ともないマイナスイオン含有量不明の空気を肺に補給する。
そのまま二度三度と深呼吸をする。腹が空いていればイライラするのと同様に、酸素が足り
なければ思考もままならないってものだ。まずはゆっくりと呼吸を落ち着けよう。うるさい心臓
も、ようやくマナーモードに切り替わる。最後にもう一度、大きく息を吐き出した。やれやれ、
朝から取り乱したって仕方が無いじゃないか。
しかし、多少なりとも冷静さを取り戻したせいで、逆に現状の認識が出来てしまった。
『声が出ない』
事実を再認識した瞬間、喉元がきゅっと縮み上がった。付け焼き刃の落ち着きなど、スイカ
にかける塩のようなものだ。恐慌を引き立てる名脇役でしかない。
先程の妹のダイブが原因か? それとも昨晩のキムチ鍋か? 新手の病気か? 何だ?
必死に考えを巡らせていると、くいくいと裾が引かれているのに気付いた。視線を向けると
妹が心配そうに俺のことを見上げている。
「………………」
無理矢理に笑顔を作って、大丈夫だとアピールする。痩せ我慢選手権の地区大会初戦くら
いなら通過できるだろう。
ついでに頭を二三度ぽんぽんと叩いてやると、ようやく妹も安心したようだ。うむ、こいつは
詐欺被害者選手権の全国大会で上位入賞が狙えるな。多少ならず心配だが、なに、嘘吐き
に育つよりかはマシだろう。
そのままシャミセンにやるように、わしゃわしゃと髪の毛を掻き回す。妹は口をもにゅもにゅ
と動かして、くすぐったそうな、嬉しそうな、何とも判断に困る微妙な表情をしたが、少なくとも
嫌がってはいないようだ。
わしゃわしゃわしゃわしゃ……いかん、何だかこれは楽しいぞ。
泥沼に陥りそうだったので、慌てて手を離し、終わりだとばかりに、もう一度、ぽんと叩いて
やった。妹は上機嫌になり、にっこりと笑うと、たたたっと一階に下りていった。
足音を聞きながら、自分の心も穏やかになっていることに気付く。先程の付け焼き刃と違い、
しっかりと鍛造されている。うむ、どうやらアニマルセラピーも馬鹿にできないようだ。
ふと疑問に思った。
……あいつ、なんで喋らなかったんだ?
今朝は一度も妹の声を聴いていない。正確に言えば(言えないのだが)、あいつは一度も
喋ってないのだ。
これが仮に長門ならば、まぁそういうこともあるだろう。だが普段あれだけ喧しい妹だ。それ
とも今朝に限って、ヘレンケラーに傾倒したとでも言うのか?
ふと疑惑が湧いた。疑惑は台所で母親に会うことで確信に変わった。一言も喋らないまま、
態度だけで早く朝食を食べて学校に行けと言う。なかなか堂に入っており、昨日今日で身に
付いた技術ではないようだ。年期のなせる技だろう。
つまり、『ここ』では『それ』が当たり前なのだ。
いつもならここらで「やれやれ」とでも言うとこだが、それすらままならない。代わりに、はぁ、
と溜め息を吐いた。
……間違いない、ハルヒの仕業だ。
分かってしまえば、半ば『いつものこと』である。慌てたところで仕方がない。まずは長門に
でも相談しないと始まらない。
と言うわけで、今に至る。本当は昼休みにでも相談したかったのだが、あいにく都合が悪く、
放課後まで延びてしまった。まぁ、幸いハルヒは何をするのか知らないが遅れてくると言って
いた(正確には授業中にノートの切れ端に書かれたメモを渡されたのだが、いちいちこういう
指摘をしていると、話がまったく進められないので、以下は割愛する)ので、作戦会議を行う
のに支障はないだろう。
さっそく、長門に尋ねることにする。長門も心得たもので、俺がどうやって訊こうかと悩む前
に、気を利かせて回答を出してくれた。
右、左と、ゆっくりと首を横に振る。日本では否定の意味で使われる一般的な動作だ。
……つまり、原因不明、対処法不明、か。
これで長門を役に立たないと攻めるのは酷だろう。何せハルヒの起こした面倒だ。気紛れ
によるところも大きいだろう。そんな猫の目すべてに対するマニュアルなど、無くて当然だ。
しかし、長門がダメとなると……
視線を向けると、朝比奈さんはきょとんと不思議そうな表情をした。残念ながら意図は伝わ
らなかったようだ。
とりあえず、口をパクパクと開きノドに手を当て、『声が出せない』ということをアピールする。
しかし朝比奈さんは困ったような表情をするだけで、伝わった様子はない。
ダメか。なら作戦を変え、『声』を表現するため、口の前で手をパッパッと閉じたり開いたり
してみる。これならどうだ?
朝比奈さんは胸元で手を打ち鳴らし、ぱっと花咲くような笑顔になる。よし、成功だ。
しかし朝比奈さんは何故か少し恥ずかしそうな表情をすると、両手を頭の上に付け、まるで
ウサギの耳のようにピョコピョコと動かした。
……朝比奈さん、いったいあなたは俺のメッセージをどう解釈したんですか?
もっとも、その動作は非常に愛らしいので、そのまましばらく続けてもらうことにした。
ピョコピョコ、ピョコピョコ、ピョコピョコ……、ピョコ?
朝比奈さんも、どうやら何か間違っていることに気付いたらしい。段々と不安そうな表情に
変わっていった。いいえ、間違ってなんかいません。それはある意味で大正解です。
さて、しかし長門も朝比奈さんも駄目となると進退窮まった感じだ。とりあえずハルヒの動向
を見て判断するしかなさそうだ。やれやれの代わりに、ため息を一つ。
視界の端で古泉が自分の鼻を指差している。どうした、蓄膿症か? 早めに病院に行った
方がいいぞ。
コンコンとドアがノックされた。噂をすれば、と思ったが、ハルヒならノックなどしない。
誰だろうと疑問に思ったが、そんなのは開ければ分かることだ。一番ドアに近かった俺が、
訪問者を招き入れることにする。
ドアを開けると、目の前にはハルスの描く肖像画のように生き生きとした顔で笑う上級生が
立っていた。説明するまでもないだろうが、鶴屋さんである。俺の顔を見るなり、さらに表情を
明るくして両手を上げた。バンザイ?
とりあえず会釈をして、中へどうぞと道を譲る。しかし鶴屋さんはバンザイ姿勢のまま、そこ
から動かない。どうしたのか訝しんでいると、視線が俺の両手に注がれていることに気付いた。
何となく察して、両手を警察官を前にした犯罪者のように、だらしなく上げる。
鶴屋さんは大満足というように大きく頷くと、
──すぱぁぁぁんっ!
気持ちのいい音を立ててハイタッチをかましてきた。多少手が痺れたが、それ以上に鶴屋
さんの手の平の柔らかさに驚いた。
やるねぇ、とでも言うような表情で俺の胸元をノックするように叩くと、次に古泉の所に行き、
またもやハイタッチをきめた。ふん、俺の方が良い音だったな。
続いて奥に向かい、長門の頭をギュッと抱え込む。ハグというやつだろうか。羨ま……いや、
何でもない。長門の顔が見えないが、どんな表情をしているのか気になる。開放された長門
は、少しの間、鶴屋さんを見上げていたが、興味を失ったのか、また読書を再開した。そんな
長門を見て、鶴屋さんは再び笑い、頭をぽんぽんと叩く。長門はされるがままになっているが、
別に嫌そうな様子は見えない。むしろリラックスしているように見えるのは気のせいだろうか。
最後に朝比奈さんの方へと向かい、おろおろと手を上げられた手に三度目のハイタッチを
すると、飛びつくように首元へと抱き付いた。
…………いや、これはその、何というか。
どうしていいか分からずに慌てた様子を見せる朝比奈さんと、それが楽しくて堪らないという
ように、抱き付いたまま、ピョンピョンと跳びはねる鶴屋さん。朝比奈さんは言わずもがなだが、
鶴屋さんも、なかなかどうしてなので、ここからでも形がふにふにと変わるのが見て取れる。
あの間に挟まることができるのなら、俺は神と悪魔を同時に敵に回してもいいね。
その後、五分以上に渡って、上級生二大美女による濃厚なスキンシップが繰り広げられた。
変な想像をしないように。いたって健全で濃厚なスキンシップだ。しかし声が聞こえないのを
これほど怨んだことはないぞ。この映像に朝比奈さんのミラクルエンジェルボイスが加われば
どれだけ魅力的だったことか。おのれハルヒめ。
鶴屋さんは満足したのか、最後に再び俺とハイタッチをすると、大雨の中のワイパーのよう
にブンブンと手を振って去っていってしまった。けっきょくあの人は何がしたかったんだろうか。
なかば呆然と見送っていたが、ぽんという手を叩く音で我に返り、音の発生源に向き直った。
……なんだ、古泉か。
にやにや笑いのまま、レクチャーするかのように指を立てる。おい、どうでもいいがウインク
はやめろ。
古泉は手近な席に着くと、ペンを取り出し、最初に見せた報告書の裏に何やら書き出した。
当然のようだが、この世界で何か具体的なことを伝達しようとしたら、どうしても筆談になる。
面倒なことこの上ない。言葉がどれほど重要か身に沁みた半日だった。猿に生まれなかった
ことを心から感謝したね。
近付いて紙を覗き込むと、『憶測ですが、』と書かれていた。古泉は試すような目付きで俺を
見上げている。椅子を引き寄せ隣に座り、続きを書けとアゴをしゃくる。古泉は分かりましたと
頷くと、ペンを手渡してきた。
『この半日で気付いたことがありませんか?』
『前置きはいらん。早く結論に移れ』
ざっと走り書きする。古泉の苦笑の気配。
『喋れないと、当然、他の手段を用いることになります』
『?』
おざなりに返答する。
『例えば今やっている筆談ですが、他にもジェスチャアや、表情など様々です』
なるほど。思い出してみると、確かにそのような手段を用いている。だがそれがどうした?
と、いつの間にか、後ろに朝比奈さんが寄ってきている。俺の後ろから覗き込むような体勢
のため、すぐ近くに顔がありドキドキする。古泉、結論はゆっくりでいいぞ。
『他にも増えたことに気が付きませんか?』
しばらく考えるが、こいつの求めているような答えが思い付かない。
『しゃくだが降参だ。いったい何だ?』
古泉はもったい付けたように、ペン先で紙を数度ノックする。
さんざ焦らした後に書かれた文字に、俺はこいつの正気を疑った。
『鶴屋さんですよ』
睨み付けるが、古泉は涼しい顔のままである。すぐ横にいる朝比奈さんも、困ったような顔
をしている。
鶴屋さんが増えた?
馬鹿なことをと思いつつ、その状況を想像してみる。
右にも左にも、前にも後ろにも、見渡す限りに鶴屋さん鶴屋さん鶴屋さん鶴屋さん……
………………うおっ、なんだか物凄く楽しいぞ、それ!
朝比奈さんも同様だったのか、くすくすと笑い出した。普通、ハイテンションな人間が何人も
集まれば、げんなりするものだが、鶴屋さんなら幾人でも大歓迎だ。
とは言え、これでは謎のままだ。そろそろハルヒが来てもおかしくない。結論に移れ。
古泉も俺たちの反応に満足したのか、先程の文に吹き出しを付け加えた。予想していたが、
このスムーズな流れは確信犯に違いない。さて、加えられた文字はたったの3文字。
『鶴屋さん<の行動>ですよ』
鶴屋さんの行動?
先程のことを思い出す。ん、何か見えたくない結論が見えてきたぞ。
『お分かりのようですね』
『知った風な口を書くな』
古泉が肩をすくめる。会話が出来ようが出来まいが、お決まりのジェスチャアだ。
そして、ようやく古泉の出した結論が書かれる。それは先程の予測通りの言葉だった。
『増えたもの、それは【 スキンシップ 】です』
わざわざ強調して書かれた文字を追う。
先程の鶴屋さんとのハイタッチを思い出す。今朝の妹とのやり取りもそうだった。教室でも
国木田を呼び止めるのに、わざわざ肩を叩いたり、思えば今日はやたらと他人に触れる機会
が多かったと言えるだろう。
「………………」
だからと言って、それがどうしたと言うんだ。俺たちが知りたいのは、別に現状認識ではなく、
即物的な解決案だ。
『いったいハルヒは何を望んでるんだ』
古泉は「おや?」とでも言うように、わざとらしい驚き顔をすると、
『ですからスキンシップですよ』
そこでいったんペンを止め、俺を意味あり気に眺めると、『もちろん、あなたとのです』などと、
笑えない冗談を書き加えた。
「………………」
くだらん。古泉の与太話に付き合った俺がバカだった。
クリップから、ここまでの筆談に使った一番上の紙を引き抜いて、クシャクシャと丸める。
古泉はまるで幼子を見るような目付きで、俺の行動を眺めている。気持ち悪いからやめろ。
バン、とノックもなしにドアが開いた。
振り向くまでもない、こんな登場をするのは、この高校中探したって、あいつだけだ。
ハルヒはまるで縄張りの主張をするオランウータンのように、そのままバンバンとドアを叩い
て音を鳴らしている。この世界での、あいつなりの挨拶なんだろう。
……いや、あいつなら普段の世界でもやりそうだ。
唐突にハルヒのドラミングが止まった。どうしたのかと見れば、ハルヒの視線はある一点に
注がれている。
っっヤバイ!
ハルヒは霊長類からネコ科の肉食獣になると、獲物を狙う目付きへと変わった。ターゲット
は俺。正確に言えば、俺の手に握られた紙だ。これを見られたら……!
『……ふーん。キョン、なんかおもしろそうな物を持ってるわね』
そんな幻聴が聞こえてきた。もちろんハルヒは何も言っていないのだが、無駄に多く接して
いるために、言動パターンが読めてしまう自分が恨めしい。
素知らぬ振りで紙を持った手を下ろし、逆の手で、よぉと挨拶をする。もちろん、そんなこと
で誤魔化されるハルヒじゃない。後ろ手に朝比奈さんに紙をパスしようとするが……ダメだ。
か弱いウサギさんは、プレデターに睨まれて怯えている。
『ふっふっふっ。キョン、大人しく渡した方が身のためよ』
手をワキワキとさせて、ゾンビポーズでにじり寄ってくる。ヘタに逃げたところで、掴まるのは
時間の問題だ。かと言って素直に手渡すわけにもいかない。どうすりゃいいって言うんだ。
そうこう考えているうちにも、ハルヒはすぐ近くまで寄ってきている。
古泉は如才なく、何食わぬ顔で残りの紙束を鞄の中に隠すと、「あとはお二人で」とでも言う
ように離れていく。朝比奈さんも怯えながらも、いつの間にか、ちゃっかりと俺を残して部屋の
角へと避難済みだ。長門は……くっ、我関せずで読書の中断すらしていない。
『さぁ……観念しなさい!』
ハルヒはさながら豹のように飛びかかってくる。なんて瞬発力だ。
男と女とは言え、片や校内随一の運動能力を誇る女、片や日々をダラダラと過ごす今時の
駄目な高校生の見本のような男である。勝敗は初めから分かっている。
唯一勝っている身長差を活かし、取られまいと紙を持った手を上へ下へと動かす。
『こら、キョン、早くそれを寄越しなさい!』
『ダメだ。いい加減に諦めろ』
『何言ってるのよ、団長に逆らうつもり!』
『横暴だ。団長は団員のプライバシーを尊重するべきだろう』
『違うわよ。団長は団員のすべてを把握するのが仕事よ!』
『どんな暴君だ!』
何故か言葉を出していないのに、会話が成立している気がする。まさかな。
だが今はそんなことを気にしている場合じゃない。どうする。このままじゃジリ貧だ。
一か八か。このままここに居ても、いつかは取られるだろう。ならば無謀であろうとも、この
部屋から脱出するしかないだろう。まとわりつくハルヒの動きをかわし強行突破。ミレニアム
懸賞問題の方が、まだ勝算がありそうだが、他に手段はない。
伸ばした腕の先に飛びかかろうとハルヒがジャンプしたタイミングに合わせ、バスケのターン
のように体を反転させる。よし、うまくいった。このまま扉を目指して……!
『こらっ、待ちなさ──え?』
すぐには何が起きたかは分からなかった。
足に何かが絡まり、スローモーションで床が近付いてくる。
後から考えれば、運動し慣れぬ俺がターンに失敗して、ハルヒを巻き込みながら転ぶところ
だったのだろう。そんな単純なことも、その時は分からなかった。
咄嗟に思ったのは、***を守らなければ、ということだった。
何を守ろうと思ったのか、その大切なところが抜け落ちている。
とにかく無理矢理体を反転させ、***が床にぶつからないように、俺が下敷きに──
────
────────…………、
一瞬、意識が飛んだようだった。カラカラとハードディスクが回り、再起動が始まる。
何だろう。腕の中に、何か暖かくて柔らかいモノが……
目を開けると、誰かの頭のてっぺんが見えた。艶やかな髪だ。ポニーテールにしたら、さぞ
美しく映えることだろ……──ん?
そこでようやくOSが立ち上がったのか、状況が脳に伝わってくる。後頭部がジンジンと痛む。
きっとコブになっているだろう。背中にある硬い感触は、俺が仰向けに倒れているせいだろう。
呼吸が苦しいので、ろくに受け身も取らずにぶつかったのだと考えられる。そして……
しっかりと抱き締めていた。
残念ながら対象は瞬間移動してきた朝比奈さんでも鶴屋さんでもなく、当然、長門でもない。
もちろん、まかり間違っても古泉でもない。そんなの想像するだけでぞっとする。
では、誰だ?
問うまでもないが、エラーウインドウがファイル名を確認することを拒んでいる。
ゆっくりと腕の中の人物が顔を上げる。
慌てて腕を放すが、時既に遅し。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
ハルヒは顔を真っ赤にすると、
「このっ……な、何するのよ、バカキョン!!」
、 、 、
すぐ目の前で、大声で叫んだ。
さて、以上が半日で収束した、とある事件の顛末だ。
なぜこんな事件が起きたのか、そして、なぜ事件が収束したのかは不明だ。
古泉は色々と理屈を捏ねようとしていたが、既に終わったことに意味を付けたところで仕方
が無いだろう。興味もないので、聞く耳を持たなかった。
そうして、今日も平穏な一日が始まる。
部室に入ると、珍しくハルヒしか居なかった。団長の席にて、ネットでどこぞを巡回している
ようだ。俺が入ってきたことを一瞥すると、何も言わずに視線をモニターに戻した。
鞄を下ろして椅子に座った。あとは手持ち無沙汰だ。背もたれに寄り掛かり、ぎしりと椅子を
鳴らす。
……静かだった。
グラウンドから運動部の声が聞こえる。
どこぞの教室から、吹奏楽の鳴らす楽器の音が聞こえる。
しかし、どれもが遠くて、逆に静けさを感じさせた。
カチカチというクリック音だけが、やけに部屋に響いた。
何となく、魔が差したとしか言いようがない。立ち上がると、ハルヒの横まで歩いていった。
「おい、ハルヒ」
「何よ?」
俺はそれ以上何も言わず、ホールドアップの体勢になる。ハルヒは不思議そうな顔をしたが、
俺の視線の先に気付くと、すぐに立ち上がり、どこか挑戦的な瞳で両手を上げた。
にやりと笑った。
ハルヒもにやりと笑った。
なぜ笑ったのかは、お互いに分からない。
そして────
心地好い音が響いた。