『カシマシ・インフィニット』  
 
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 既にとっぷりと日も暮れ、歩道は街灯のささやかな明かりに照らし出されていた。  
 ダウンストリームに押し潰されてミステリーサークルを形成する麦穂さながら、俺は決断という圧力にこうべを垂れつつ、重い足取りに鞭打ってのろくさと歩を進めている。  
 ここが俺のグリーンマイルかと嘆息し、死刑執行までの時間を少しでも稼ごうとする囚人の心境で空を見上げたんだが……これは逆効果だった。  
 視野の片隅。無常にも決断の時間が間近であることを主張する、街灯時計のデジタルな表示が目に入ってしまったからな。  
 20:42。  
 お前まで俺を急き立てるのか? 無粋に突っ立てるんじゃない。気温だけ表示してろ。  
 ささやかな悪態とともにその朴念仁を握りつぶしたが、もちろん俺がなんらかの不思議な力を持ち合わせているわけもなく、僅かな間だけ視界から姿を消した無粋な街灯時計は、溜息と共に脱力した左腕の先に依然として聳え立っていた。  
 そして右手には携帯電話。メールという名のデジタルな赤紙。  
 最後通牒を伝達したそれは、閉じる事も読み直す事も拒絶した俺の掌の陰で、健気にもその文面を液晶に浮かび上がらせ続けていることだろう。  
 だが、読みなおす必要はないのさ。なにしろ一度目にしただけで頭の中にこびりつき、季節はずれの羽虫のように俺の目の前をフラフラとさまよってやがるからな。  
 
『――――最終期限は21時。貴方が拒否、または決断を遅らせた場合――――』  
 
 しかし、なんでだろうな……。夢想したことが無いと言ったら嘘になる。だが実際渦中の人となるとこんなにも足がすくむとはね。いっそ火中の栗となっていれば弾けるだけの勢いを持てたかもしれない。  
 誰か代わりたい奴がいたら名乗り出てくれ。俺の前に来て――回れ右して絶息するまで全力ダッシュで速やかに視界から消えろ。悪いが、代役がいないからと渋ってるわけじゃないんだ。  
 そして俺自身がこの配役を誰かに譲る気はない。ないんだが……舞台はとても華やかで――眩しすぎた。  
 最前列で暢気に鑑賞していたら、突然のスポットライトとともに主役から手が差し伸べられ、ビビって逃げ出した俺の背中で、静止像のパントマイムのように、動力の切れたオルゴールに鎮座する人形のように、手を差し伸べたままで待ちわびている。  
 俺の下す決断を。  
 俺が舞台に登るのを。  
 俺がゼンマイを巻きなおすのを。  
 煩悶する猶予は慈悲なんだろうか? 与えられた慈悲は、だが無慈悲にも期限付きだ。  
 表示された数字を変える街灯時計が時間が絶えず流れ続けていることを主張し、そして時間切れは拒否と同じく扱われるらしい。  
 悩む事。それが俺にできる精一杯の誠意だと信じていた。だからこそもっと時間が欲しかったんだがな。  
 これが最後の悪あがきさ。  
 俺は指定された時間ギリギリに到着するように、とろとろと決戦の舞台へと引き返していく。  
 
 数分前に逃げ出してきた、長門のマンションへと続く道を。  
 
 
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 事の始まりは週始め、いつもの日常の中から始まった。  
 掃除当番のハルヒに一声をかけると、専属エンジェルから馥郁たる甘露を拝領すべく、俺は足取りも軽やかに部室へと向かっていた。  
 あまりの軽さにお花畑で風に戯れる蝶々のような気分に浸っていたのだが、幸せな昂揚感なんてものは長く続かない宿命にあるらしい。  
「やあ、奇遇ですね」  
 部室棟への渡り廊下で、それこそ花畑が似合いそうなエセ貴公子と合流することとなり、脳内で極彩色の花を撒き散らしていた丘陵はただのドクダミ園へと降格した。嫌がらせか? 白馬にでも乗ってろ。  
「まあ、そう邪険にしないでください」  
「気にするな。ただの習慣だ」  
「そうですか? いえ、僕の方がちょっと過敏だったかもしれませんね。  
 ここ数日ばかり頭を悩ませている事柄が、すこしばかりやっかいでして……」  
 これが普通の男子高校生の会話なら「家庭の問題か?」とか、谷口あたりなら「恋煩いかよ! 俺がアドバイスしてやっからよ! 大船に乗ったつもりで――」などと泥舟の乗船チケットを差し出したりもするんだろうが、  
こいつが誰の専属折衝役なのかを考えれば、思い付く答えはそう多くない。  
 最近はそれなりのイベントを、精力的にこなしていたから安心していたんだがな。  
「ハルヒがらみか?」  
 分かり切ったことを一応尋ねてやる。これも習慣だしな。  
「ええ、涼宮さんがらみです。とはいえ世界崩壊の危機といった深刻なものではないのですが……」  
 肩をすくめて周辺の気配を探るように左右を見渡す、古泉特有のジェスチャーだったのだが……。  
 ん? なんだか妙な違和感を感じるな。ハルヒを除いたSOS団メンバーでは、否定したくとももはや日常ともいえる状況。とはいえ人に聞かれていい話題でもなく、節度は保たないとな、と本能で拒絶しながらも断腸の想いで一歩分0円スマイルに体を寄せたんだが……。  
 古泉、今お前二歩離れなかったか? 失礼だぞ? 普段は俺が離れるんだが。  
「これは失礼。ですが、出来ればこの距離でお願いできますか。ご説明しますので」  
 幸い人影もまばらですしね。と古泉。  
 深刻ではないと断言した割に、顔に貼り付いたインチキスマイルが陰ってるぜ。顔色も――顔色は良いな? 物凄く。うっすらと紅潮してるというか熱でもあるのか?  
 無意識で熱を計ろうと額に手を伸ばしてしまったわけだが、古泉の反応には仰天するばかりだった。  
「はあぅっくっ! や、やめてくらさい!」  
 驚いたろう? 手を振り払って飛びすさり、貼りついた鉄面皮みたいな笑顔が消え、説明魔で饒舌さが売りの古泉が台詞を噛んだんだからな。  
 俺が気付かないうちに、またもや世界は改変されちまったっていうのか? しかし古泉、お前では某眼鏡文学少女程の萌えインパクトは発生しないと思うんだが。ソッチの気は欠片もないわけで、むしろこの鳥肌をどうしてくれる?  
「どうか落ち着いてください! 今からちゃんと説明しますから!」  
 お前が落ち着けよとのツッコミを胸の内だけに留め、息も絶え絶えな古泉が話した内容は以下の通りだ。  
 どうやら最近の機嫌の良さからは判別つかんのだが、ハルヒの奴はまたもやなにがしかのストレスを貯め込んでるようで、半ば無意識下で発生してるため対処の方針も決めがたく、機関でも手をこまねいているらしい。なんだ、概ね普段どおりじゃないか?  
 俺の感想に、これまた珍しく深い溜息をついた古泉が「少しばかり複雑でしてね」と続けた。  
「僕達能力者が閉鎖空間の発生を『なんとなく』感知できるのは説明しましたね?  
 閉鎖空間以外にも『なんとなく』わかってしまうものが他にもあるのです。  
 大規模な閉鎖空間発生の原因となったストレスの種類、と言いましょうか。何を感じてそれを生成したのかが頭の隅で理解できてしまうのです。  
 ああ、安心してください。貴方が不快に思うかと話さなかったのは謝罪します。ですが、涼宮さんの思考を読めるのではありません。テレパシーではなくシンパシーの方が的確に表現できると思います。  
 例えばヒドイ悪夢にうなされて閉鎖空間を発生させたとしましょう。原因が悪夢だとなんとなく知ることが出来ても夢の内容までは伺えない、ということです。箪笥の角に足の小指をぶつけても、我々には肉体的苦痛が原因としか分かりません」  
 いやな発生原因だな……。そんなことで崩壊の危機にさらされるなんて、どんだけ安い世界だよ。  
 
「ストレスが大きいほどに度合いを増して、漠然とした感覚を否応なく共感し翻弄される。これが今回はかなり長期的かつ強烈に、発生直前の状態を維持し続けている為に能力者を悩ませているのです。  
 これでも、こと神人退治に関しては場数を重ねているものですから、状況を改善できない場合には、閉鎖空間の発生が確定するまで安穏と待機するくらいの胆力は養ったつもりだったんです。  
 ですが、この共感現象に関してだけは涼宮さんが基準となっているために、その度合いに慣れる事も無く、且つ本人は無自覚なのに、僕達には知覚できる状態で共感を強制させられているわけで……さすがに歴戦の同志達もヘコんでます」  
 そ、そうか。としか言えない自分が不甲斐ないが、ハルヒ自身も無自覚ならどうやってストレスを発散し得るんだろうな?  
 古泉をして言いにくい要因とは? こいつらしいのからしくないのか、原因に関しては未だハッキリと語らないわけで――あ〜、ハルヒも一応女性の末席の隅の端には席を連ねているわけで……その、月のモノ、とか?  
「……いえ、女性の同僚がうらやむ程、月経に関しては良好のようですよ。  
 重度の疼痛を伴う生理不順による閉鎖空間は、年に一、ニ度有るか無いからしいです。  
 幸いにもその手のストレスには、僕を含めた男性陣はうまく共感できないので胸を撫で下ろすことしきりです。乙女の複雑な心情が働いているのかもしれません。  
 ですが女性陣にはかなりの負担らしく、この場合の閉鎖空間の際には、幽鬼のような様相で、鬼神もかくやといった鬼気迫る活躍を――っと、話が逸れましたね。  
 肝心の原因なのですが……ここまでお話したので是非聴いていただきます。ストレス、では若干ニュアンスが伝わらないでしょう。日本語に直してみてください。解消すべき、ストレス、を」  
 わかったから頬を赤らめるな。流し目を寄越すな。熱い溜息をつくな!  
 出来る事なら耳を塞いで絶叫しながら教室へと引き返したくなっていたのだが……。  
 イライラとか心理的ナントカとか? まあ一番最初に浮かんだのは――  
「……欲求、不満、か?」  
 ヒントと呼べるか判らないが、欲求は満たすもので解消すべきことではないからな。  
 だから、更に赤くなるな! 鳥肌が全身にまわるだろう!!  
「ご名答です。……それも」  
 なんだよ? 全力で聞き流してやるから間を取るな。  
 慎まし気に目を逸らし、可憐な美少年は、  
「…………性的な意味合いで」  
 そう話を締めくくったのだった。  
 ……俺にどうしろと?  
 くすんだスマイリーを視界の隅に追いやり、「あなたにお願いしたいのですが」のような開戦のラッパを耳にする前に、手の届く範囲に近付かず相手を吹き飛ばす必殺技を会得出来ないものかと、俺は脳内で修行に励むのだった。    
 
※  
 
 部室の前で長門1号2号と化した俺達だったが、相手が死ぬエターナルなフォースを伴った吹雪を発動させる事も無く、ついでにドアをノックする気力さえも失って、ただ壁に寄りかかっては三点リーダーを量産していた。  
 物語を動かすのは概ねコイツだと実証すべく、急ぎ足でずんずんと向かってくる諸悪の根源。  
 男二人が長々と話し込んでるうちに掃除を終わらせたのだろうSOS団団長が、自らのアジトへと凱旋するのは夏休みが遅滞無く終了するのと同程度の自明の理なんだろう。頼りない理だな。  
「おっまたせー! な〜にしてんのよ?」  
 いいや、なんにも。  
 コイツがストレスを、ねぇ……いや! 変な想像はしてないぞ。谷口に誓ってだ。  
 あまりにも悩みがなさそうに溌剌としたハルヒに、普段と違った様子を見つけられなかっただけだ。  
「まあいいわ。はいりましょ。やっほー! 入るわよー!!」  
 おいハルヒ。「入るわよ」より早くドアを開放したら声をかける意味がないだろ。既にSOS団の枠を超え、全北高規模で地上に降りた最後の天使と認定された朝比奈さんの着替えが済んでなかったらどうする。  
団最大の良心を自認する俺としては、あられもないその肢体を目撃するような事態には断固として紳士的な――  
「ふえ? はふわぁ!?」  
 朝比奈ボイスを入電! 唸れデビルアイ! 索敵開始! ホーミングモード!!  
「ああん! 少し遅れちゃったみたいね! みくるちゃんの生着替えを鑑賞しそこなったわ!!」  
 俺は胸を撫で下ろしたさ。ホントだぞ?  
 朝比奈さんは既にメイド服を着用済みで、最後の仕上げにフリルで彩られたカチューシャを装着なさってる最中だったらしい。無遠慮に開放されたドアに反射的に声を上げただけのようで、ちっとも残念だとは思ってない。  
 
「もお! 掃除なんて廃止しちゃえばいいのにっ!」  
 お前は学校を薄汚れたスラムにする気か?  
「でもね? みくるちゃん」  
 なんだ? 団長席に向かいながらハルヒ特有のトンデモ演説を開演するするつもりかよ。  
 甘かったね。  
 コイツは小首を傾げた朝比奈さんの脇をすっとぼけた顔で通りすぎると――クルリと反転し、あろうことか背後からアコーデオン奏者みたいに、豊かな胸を揉みしだきだしたのだ!  
 わお! メガ・マック! などと眼福に喜んだりはしないぞ。紳士だからな。  
 しかし久しぶりだな、このパターン。古泉曰くのストレスの発露か? 朝比奈さんがいつもの如く嫌がってるじゃないか。揉むなら自分の胸をだな、その、家人が寝静まった自室で、こう密やかに……ゴクリ。  
「…………」  
 この三点リーダーは俺だが、唾を飲み込んだのは俺じゃないぞ。今日はいったいどうなっちまったんだ? 古泉。お前のキャラじゃないだろう。谷口イツキとでも改名するのか?  
「失礼しました、ですが」  
「はひっ、やややめてくださぁあふっ! あ、いっ、やでふぅ!」  
「ふふふ、油断したわね、みくるちゃん! やっぱり大きくなってるじゃないのっ! 誤魔化そうったってそうは問屋の棚卸で開店休業中よ!」  
「そんなこと、ありまひぅんっ! なないないですぅ〜」  
「そんなこと言っても体は正直よ? それともあたしの手が縮んだのかしらね〜え?」  
「ストレスの減少が見られます」  
「あうぅ、ひっく! もう許ひてくだふわわ!」  
「そうね! 型を取ってプリンを作って見ましょうか!  
 先っちょに付けるのは普通のカラメルでイイ? 苺味がイイかしら? ねぇみくるちゃん?」  
「どちらも嫌ひや、耳は噛まないでくださいぃ! 食べないでぇ」  
「しばらく様子を見るということで納得していただけませんか?」  
「ハルヒ! いい加減にしとけよ。朝比奈さん涙目になってるじゃないか!」  
「バトルロワイヤル形式で優勝者に進呈するの! 勿論我がSOS団も参戦するわよ!」  
 お前は学校をストリートファイト溢れるラストブロンクスにする気か?  
 入室して僅か一分でこの騒ぎだ。『女三人寄ればかしましい』と言うが、無駄にエネルギーを蓄えたハルヒのことだ、一般女性五人分は騒がしいだろう。泣き叫ぶ朝比奈さんも勘定に入れるなら『2かしまし』。  
 この騒乱の中でも読書にいそしむ万能人型インターフェースは、静かなる事風林火山の如しで員数外だしな。  
 いや待て。危うく聞き逃しそうになったが、古泉?  
「久しぶりにコーヒーでもいかがですか? 今日は風も気持ち良いようですし、奢りますよ?」  
 お前達の厄介事の為に無垢な天使を生贄に差し出せというのか! お前と睦まじく魅惑のアロマを啜り込むくらいなら、俺はここで天女が羽衣を剥かれる様を鑑賞……もとい見守る方を選ぶぞ。体面上、苦虫を噛み潰したようなしかめっ面のオマケ付きでな。  
「た〜はすけてへぇぇぁひっ! キョンきゅぅ〜ん……」  
 朝比奈さんからの要望とあれば涙を飲んで……少し本心が漏れたか。  
 しっかし、ハルヒ、お前のそのけしからん指捌きは一体なんだ? 掌で全体を回すように揉みながら、十本の指が独立してランダムにうねくってるじゃないか。どんな乱数表を使ってんだよ。無駄なところまで万能選手なんだな。  
 胸を凝視していたわけでは断じてない。これは断言しよう。失礼を働かないよう焦点はお顔に向けていたからな。ただ猛禽類並の周辺視システムはフル稼働中で、ちょっと虚ろだったかもしれん。  
「もう満足しただろ? 温厚な朝比奈さんだってブチ切れるかもしれないし」  
「なによ。あんたも揉みたいの? じゃあしょうがないから右の方を貸してあげる。あたしは、ふふふ」  
「だから止めとけって! 右手を下げるな! マジ泣きになってるだろうが」  
 いつにも増して度が過ぎてるな。たしかに欲求不満らしい……性的な意味合いで。  
 まぁ、左手の指先まで繊細な動きをこなすのは、ハルヒ的に左手が胸、右手が【禁則事項】といった役割分担の――いかんいかん。ここで身体の一部に血液の過剰供給が行われたら死を意味するな。  
 煩悩よ去れ! だが我が煩悩は108個まであるぞ! 普通だろ、それ? ……よし収まった。  
 なんとかハルヒを引き剥がすと――恐ろしいことに、最後に朝比奈さんから離れたのは耳を甘噛みしていた唇だった――朝比奈さんが肩で息をしながら「ブチ切れたりしないよぅ…そんなふうに思ってたんですかぁ……ふみゅう………」と小声で呟くのが聞こえた。  
 あと長門、今舌打ちしなかったよな?  
 
 まあ落ち着けと団長席にハルヒを押しやりながら、朝比奈さんからそっと距離を取る。もう大丈夫ですよ朝比奈さん。嵐は収まりましたから、カミツキガメにでも噛み付かれたと諦めて気を取り直してください。  
「なによ! 何で邪魔すんの? 女の浪漫は男の浪漫でしょう!?」  
「お前馬鹿だろう」  
 思わず断言しちまった俺に、  
「!! なんですってぇ! アンタ団長様に向かって!!」  
「まあまあ、涼宮さん」  
 助け舟を差し出したのは意外にも古泉だった。  
「可憐な女性たちの無邪気なじゃれあいも、僕達には少々目に毒でして……。  
 どうかご理解いただけたら幸いです」  
「なによ! 古泉君ま…で……うん、そうね、ちょっと刺激が強すぎたかもね」  
 古泉にまで噛みつくかとヒヤヒヤしたが、なんとか矛先を収めてくれたようだ。このへんは副団長としての人徳の差なんだろうか? しかしナイスフォローだ古泉。さっきの利己的な発言は水に流してやろう。  
 なんだハルヒ? 俺を睨みつけたかと思えば視線を下に降ろし、ってどこ睨んでんだよ! 努力の甲斐あって平常状態だよ!  
「フン! 特に議題も無いから今日は先に帰るわ! 戸締りはよろしくねフン!」  
 いーでーキョン! 謎の捨て台詞を残すなハルヒ。  
 ほんと台風みたいな女だ。まだ部室に入って五分くらいだろうに。  
 ドンドンと床を踏み鳴らし、竦み上がった朝比奈さんの脇を抜け、入り口に佇む古泉の前で一瞬の躊躇を見せてから、ハリケーンハルヒは部室から姿を消した。  
 ……なるほどね。古泉の推察に寄れば、エキセントリックに過ぎても中身は意外と常識的で純情な乙女らしい。古泉への反論が尻窄みになるわけだ。さっき水に流したことを水に流していいか?  
 目を向けると、えらいベタな前屈み古泉がそこに居た。今日は失態続きだな……。  
 
※  
 
「…ええと、どうにか一段落つきましたね」  
 歯切れも悪く口を開いたのは古泉だ。自慢の爽やかスマイルもいまや所々ヒビ割れ、部室の空気はとことんまで重かった。  
 ハルヒが帰宅し、俺と朝比奈さんの目を気にしてか、壁際に体を向けたぎこちない歩調で自分の指定席に向かう古泉を、冬の夜空みたいな瞳で無表情に観察していた少女が一人。  
 椅子に腰掛けたまま目を落としていた書籍から古泉へと視線を変え、角度は床と水平に保たれていた。ドコ見てんだよ? 可愛そうだから勘弁してやれ、長門。  
 古泉は羞恥に頬を染めながら自分の席に辿り付くと、無遠慮インターフェースの凝視から逃れようと椅子ごと廊下側へ体を向けたのだが、そちらからは無邪気な小悪魔が慈愛に満ちた甘露を運んできたわけだ。針のムシロとはこの事だろう。  
 あわあわと動作不良を引き起こした朝比奈さんを俺が宥めると、古泉はげんなりした様子で廊下での説明を繰り返した。 語り終えて冷めたお茶を飲み下し、出てきたのがさっきの台詞だ。  
「このような前例は無かったもので、おそらく涼宮さんも今までは定期的に手際良く発散していた、と推測できるのですが……失礼、これは失言でした」  
 『紅は朱より出でて朱より赤し』なんて諺は聞いたことがないが、限界まで真っ赤になってお盆の陰に身を潜めた朝比奈さんに、古泉は言葉を切った。どうにも居心地悪いよな、この話題。  
「この週末は不思議探索も無かったので物理的に距離を取ることで対応していたのですが、どうにも今日一日で僕の神経も随分磨り減ってしまいまして、閉鎖空間を発生させることでストレスが軽減するならば、今回だけは早々の発生を望んでしまうのですよ。  
 他にも想定できる解決手段が無いわけではないのですが……。  
 それと長門さん。あまり見つめないでいただきたいのですが」  
 読書とは違った姿勢で硬直していた長門が顔を上げると、  
「古泉一樹。あなたの身体は現在性的興ふ――」  
「ながっ! 長門さん! すべてをつまびらかにすることが必ずしも美点ではないですよ?」  
「……そう」  
 短い返答を残して定位置定姿勢へと回帰し、この部屋の風物詩である読書体勢へと戻った。  
 ……もしかして凝視してたんじゃなく、今までフリーズしてたのか?  
 解決策は見つかっていないが、長門に求めるのはちょっとな……かといって朝比奈さんでも――まだ紅潮したまま、きょとんと首を傾げているが――荷が重過ぎだろう。  
 でも、もしかしたらこの可愛らしいお顔に似合わず物凄い解決案や、ストレス発散の、その…オカズになるようなあれやこれやが――  
「――そう」  
「? 長門さん?」  
 ポツリと漏らした長門の一言に反応したのは笑顔の残滓を顔面に貼りつけた古泉だった。  
 俺はただ戦慄していた。  
 
 まさか心が読めたのか長門? ――縦にコクリ。  
 今までずっと黙って読んでいたのか? ――横にフルフル。  
 そうか、ホントは心なんか読めないよな? ――縦にコクリ。  
 ……やっぱり眼鏡は無い方がいいな。有希っち。 ――伏し目がちに目を逸らす。  
 キノコ促成栽培キットよろしく全身から三点リーダーを芽吹かせながら、俺は絶句するより無かった。  
「……ジョーク」  
 そ、そうか……腕を上げたな。でも、冗談は止めろ! マジ危ないって! それが本物じゃなかったとしてもビビるって! 意味が分からないし笑えない! いいからその危なっかしいジョークをどっかに封印してくれ!  
 心胆寒からしめられたと同時に何故か脇腹までチクリと疼いたぜ……。汎用人型決戦インターフェースって怖いな……。  
「どうかしたんですか? 何かのゲームか符号ですか?」  
 内心穏やかでないらしく、古泉にしてはまったくらしくない余裕の無い詰問だ。端から見てたら、無言で俺と向き合った長門が頭を上下左右に動かして、謎のコマンドを入力しているように見えたのかもしれん。  
「なんでもない。何か良い案がないか長門とアイコンタクトを取ろうとして失敗しただけだ。他意はない。本当だぞ。  
 とりあえず俺のほうでも何か考えておくが、まああまり期待しないでくれ」  
「あなたに一番の期待を寄せているんですがね。……冗談としておきましょう」  
 殴るぞ? 今なら悠久なる理力のブリザードが出せそうだ。なにせ心胆寒いんでな。とう!  
 俺の魂の中で炸裂した必殺技に気付きもせず、嘆きのエスパーマンこと古泉は肩を竦めた。  
「どうも今日は頭のネジがいくつか緩んでいるようで、もう失礼を働かないように今日はお先に失礼させていただきますね。  
 どうにも頭の中の靄が晴れなくて、少し風にあたってから帰ります」  
 その靄はピンクなんだろうか?  
 片手を上げてそれではと去っていく小泉に、  
「お、おつかれさまでした。あっ! あわっ!」  
 朝比奈さんが挨拶を返す。  
 朝比奈さん、手で目を覆うのはいいんですが、指を開いたり閉じたりはいただけませんよ。古泉も話してる間に落ち着いたでしょうから、あれはただのズボンの皺ですって。多分。  
 
※  
 
 しかし今回の件では俺に出来る事はなさそうだ。  
 朝比奈さんの視線から守るように古泉の送り出した際、  
「パソコンの履歴に、涼宮さんの露出の高い写真の収まったフォルダを開いた形跡や、涼宮さんに似た女優の映像のある、いかがわしいサイトを巡回した痕跡でも残してもらえると、もしかしたら穏便に事が収まるかもしれませんよ。  
 どうです? お願いできませんか? 一番良いのは貴方自身がいかがわしい行――」  
 などと……ボロボロだな、古泉。俺以外は穏便かもしれんが、自分から雷雲に突撃するような趣味はないぞ。スマンが却下だ。  
 本気で頭を冷やして来い。学校なら水道はタダだしな。ついでにカロリーオフだ。思うさま肺を満たすがいい。優しく背中を押して退室を促してやった。  
 自分の席に戻って温くなってしまったお茶で喉と思考を潤すと、朝比奈さんがお代わりの確認をしてきた。  
 ありがたくいただきますよ。今日は呑みたい気分なんです。  
「ふふ。でも、どうしたらいいのかなぁ? 涼宮さんの事……。私が……我慢すれば?」  
「いや! 朝比奈さんが犠牲になることはないですよ! ハルヒが満足するのに何時間かかるか分かったもんじゃないですし、古泉も言ってたように一番良いのはハルヒ自身が自、分…で……その、アレしたほうが……」  
 くそっ! なんて議題を持ち込みやがったんだ。この場合恨み言をぶつける相手はハルヒか? 古泉か?  
「え〜、その、今日みたいな事には強く拒絶した方がいいと思いますよ。調子に乗るとどこまでも遠慮のなくなるヤツですしね。嫌だったらバシッとやっちゃってください」  
 それはそうなんだけど、う〜。と胸元にお盆を抱き締めてなにやら考え込んでしまう朝比奈さん。その程度のお盆では隠し切れていませんよ?  
「涼宮さんだとなんとなく強く言えなくなっちゃって。少しくらいなら絶対にイヤとまでは……人前ではかなり恥ずかしいから許して欲しいけど……でも着替え中とかお風呂の時は、この時代の女の子なら当然のスキンシップだって鶴屋さんが言ってたし……」  
 なに丸め込んでんですか鶴屋さん。  
 
「……もしかしたら私がいけないのかなぁ、なんて……この胸が…好きでこんなになったわけじゃないのに。それは、少しはくらいは誇らしくて、たまに鏡の前でポーズを……  
でも、もうちょっと小さくても困らないと言うか、実際面倒なことも多いし、体を洗う時なんか色々目が届かなかったり、体育の時もちょっと走ると痛かったり、重心が……  
ううん、運動が苦手なだけって言ってしまえばそれだけなんだけど……肩凝りなんか『ちっ』…………え? ひぃっ!」  
 うん、最近耳掻きサボってたかな。幻聴が聞えた気がしたが気のせいだ。  
 妙なツボに入ったのか一人独白愚痴大会に没入していた朝比奈さんが、幻聴に合わせて顔を上げたのも気のせいだろう。  
 ただ、恐怖にゆがんだ可憐なお顔を俺の背後に固定し、全身がガクガクと震わせ始めたのは気のせいでは済まされない。  
 ゆっくりと背後を振り返る。相変わらず読書に励む長門。ページを繰る乾いた音。  
 すると窓の外にでも何か居たんだろうか? 逆さ生首とかな。いや、それなら朝比奈さんの意識は一撃で断ち切られていただろう。それに幽霊モノに関してはルソーの一件でクリアしてるから、まだ姿の見えていない異世界人か?  
 窓の向こうにはまだ黄昏タるには早いらしく、まだ青く澄み切った空が何処までも広がっていた。ふむ。  
 産まれたての雛鳥のようにプルプル震え続ける朝比奈さんに視線を戻すと、なぜか一段と震えがひどくなった。  
 もう一度振り向く。今度は素早く。  
 相変わらず読書に励む長門。ページを繰る乾いた音。そして青い空。  
 また視線を朝比奈さんに戻す、と見せかけて振り向く。少し酔いそうだ。  
 相変わらず読書に励む長門。ページを繰る乾いた音。  
 ……今日はいつもより読書が進むようだな。長門。さっきまで手は止まっていなかったか?  
 今度こそ朝比奈さんに向き直り、大丈夫ですから落ち着いてくださいと支えながら、頭の中でとある呪文を唱え始めていた。呪文を使えるのは宇宙人だけとは限らないんだぜ。知識では知っていても体験したことはないだろう?   
 だるまさんが・こ・ろ・ん――  
「だ!」  
 呪文の効果だろう。絶対零度の瞳から冷気を漏出させた宇宙人の姿を一瞬だけ視覚に捕らえ、次いで驚きに目を見開く無感動文学少女が、動揺も現わに連続してまばたきする様をも捕らえた。  
 不思議な要素が複雑に絡み合ったこの部室が、すでに異空間化していると聴いたのはいつだったか。古泉要素が崩壊した分、今日はバランスが崩れているのかね? ピンク色の霧で。  
 視線を本に戻しては頁を捲り、俺の顔を伺っては本に目線を落とし頁を捲る、そんな動作異常を繰り返す長門を眺めながら、俺はそんなことを考えていた。  
 ――と、パタンと音をたてて本を閉じると、長門はすっくと立ち上がった。  
 ビクッと怯えた朝比奈さんを背後に庇うのは、流石に長門に失礼だろうとそのままの姿勢で問い掛けてみた。  
「どうした?」  
「涼宮ハルヒは」  
 うんうん。長門としても変な行動を取ってしまったことを誤魔化したいんだろ。まかせろ。お前の凡てを許容してやる! さあ来い。  
「その成長過程で、同性異性問わず同年代との接触が希薄だったため、スキンシップに関していくつかの悩みを抱えていると推測される。おそらく渇望と方法と加減」  
 悩みってことは――  
「悩むってことは、自覚があるんですね?」  
 と、これは朝比奈さん。  
 彼女にも分かるように頷く長門。  
「つまり、好意的な接触を試行錯誤したら、今日みたいに暴走してしまうわけか」  
 ハルヒが過ごした普通人だった小学生時代や、孤立気味だった中学生時代に想いを馳せて、チクリと胸が痛んだ。  
 独善的な行動ばかりが目を引くが、仲良くなったら即身内、そして身内には――なぜか俺だけ除外されるが――とことん甘いのがウチの団長である。根は真っ直ぐなイイ奴なんだが、なぁ。  
「そう考えると涼宮さんって」  
 隣の天使がクスリと微笑んだ。  
「なんだか、すごく可愛らしいですよね?」  
 後光が見えます。ああ、可愛らしいのはあなたですよ朝比奈さん。ここが植物園なら今すぐ全ての蕾が花開くでしょう。あのような狼藉を働かれても、微笑で流せるのはあなただけです。  
 明日からハルヒには煎茶ではなく、あなたの爪の垢でも煎じた茶を出すのはいかがでしょう? 焙じて出すのも良いかもしれません。  
 提供者の半分でも可憐さが身につけば北高の双璧として、いや感情を吐露する長門が含めればスリートップとして後世まで伝説を残すことは間違いなく……これはお世辞じゃなく本当に思ってるんだぞ。  
 だから、その、心を読んでたりはしないよね、長門さん?  
 
 俺が長門の視線における温度変化の観察に精を出していると、朝比奈さんの表情がまたもや翳りに沈み込んでいた。  
「今日の様な事があっても、ちょっと拒否しづらくなっちゃったかなぁ。それに古泉君の言っていた件もあるし……」  
「その処置は、古泉一樹の懸念事項に対して適切な処置とはいえない」  
 どう言うことだ? 古泉は少しだがストレス解消になってるようだと言っていたが。  
「その方法を選択した場合、涼宮ハルヒのストレスが半減するまでに要する時間は二時間五十二分」  
「そっそ、それは困りますぅ! そんなに長くされてたらもげちゃいますよう!」  
「――モゲロ――この行為が中断されると高確率でリバウンドを引き起こす」  
 いま何か囁かなかったか? いや待てよ。するとさっきの状況はかなり……。  
 こいつにしては珍しく、死期を告げに来た死神のように厳粛に、だが大きく頷いた。  
「古泉一樹は……おそらく今夜がヤマ」  
 こ、古泉ぃー!!  
「次善策を一つ講じたが、現在私達に出来ることは事態が動くまで静観するだけ」  
「……念の為聞いておくが次善策ってなんだ?」  
「素直ではない気の強い幼馴染系同級生を拘束して【禁じられたワード】する動画の、内容説明とサンプル画像を配布しているサイト……を閲覧した痕跡をパソコンの履歴に配置した」  
 …………。  
「オマケとして、泥酔して反応の乏しい短髪美少女に【禁じられたワード】する連続写真を鑑賞できるサイトと――」  
 泥酔できる年なら少女じゃないだろう。  
「――愉快なほど豊満に過ぎる胸部を搭載したメス猫が【禁じ】のまま【られた】された上に【ワード】の限りを尽くされる、そんなテキストを掲載しているサイトを閲覧した痕跡も、パソコンの履歴に配置した」  
 頼むから三つとも消してくれ。マジやばいって!! 朝比奈さんが赤くなったまま青くなったもんだから今の顔色は紫色だぞ!?  
「特にテキストサイトは秀逸で、涼宮ハルヒの心の琴線に触れるだろう文体と、確かな筆力により内容は深層心理に刻まれ、以降何らかの情報爆発が発生した際、少なからぬ確率で実現するかと思われる」  
 消せ。断固として消せ。おい長門、情報統合思念体の命令はたった今解除された。なんなら、その指令は俺が上書きする。朝比奈さんも居るんだ、消してやってくれ。「ぴぃっ」とか鳴いて動かなくなっちまったろうが。  
 それと【禁じられたワード】ってなんだよ? 多分流行らないと思うぞ。  
「……そう。履歴の消去を実行した」  
 そんな悲しげな表情を見せるな。蘇生途中の朝比奈さんにはわからないようだが、俺にはなんとなく無表情系TFEIが拗ねてるように見えた。  
 だが信頼してるぞ、長門。ただハルヒも居ないことだし、久しぶりに団長席にふんぞり返ってみたい気分だなあ。よっこいしょっと。  
「あ……」  
 どうした長門。なにを驚いている? パソコンの電源スイッチ付近で、日頃の勉学で凝り固まった手首の屈伸運動する度に、どうしてピクピクと反応している?   
「今、確実に消去を確認。信じて」  
 いや疑ってないぞ? 絶大なる信頼を置いてるしな。お前が目を逸らしたから見えないだろうが、今の俺の瞳は純真さにキラキラしてるハズ。  
 安心してくれていいですよ、朝比奈さん。  
「古泉の件は、長門の言うとおり暫く様子を見るしか無いでしょうね。そのうち危険のないスポーツで対抗試合なんてのもいいかもしれません。  
 ハルヒの狼藉に関しては、これはビシっと言ってやって下さい。俺も援護しますし、何よりハルヒの為に必要だと思いますよ」  
 野生の肉食獣達は小さい頃のジャレ合いで、狩りの基本から同属へのスキンシップの加減までを学ぶというしな。ハルヒみたいにハンティングだけ超一流でも、世の中はうまく渡れないもんさ。  
「その件に関しても私からの提案がある」  
 息を吹き返した朝比奈さんの、そうですねという返答に重ねるように口を開いたのは、またしても長門だった。  
「朝比奈みくる、あなたは胸部への過剰な接触を好ましくないと感じている。私には解決策を提供する用意がある。許可を」  
 なぜ許可の部分だけ俺に求める? そこは本人に確認してやってくれ。  
「……そう。……もしあなたが過剰な接触を好み、享楽的な姿を異性に晒すことを密かに望んでいるなら推奨はしない」  
 なぜ部室の出入り口へと向かう? 朝比奈さんは「そんなことありませへぇん!」と半泣きだぞ。  
「でも状況の改善を望むのなら、わたしはあなたの力になりたいと感じている。あなたは……大切な仲間」  
 なぜドアの鍵を弄ってる? 申し出を受けた彼女の方は、感動と喜びに潤んだ瞳を震わせているぞ。   
 
 カチャリという施錠の音を、殺し文句で相殺した長門の顔には、微笑みのようなものと呼べる気がしなくもない表情が浮かんでいたりいなかったり……スマン、今回はうまく読み取れなかった。  
「ありがとうございます! 長門さん! ぜ、是非好意に甘えさせてください!! あ、でもどんな方法なんでしょうか?」   
「今から簡単な処置を行う。涼宮ハルヒが胸部への接触した際、心理的な違和感を想起させる為の遅延起動式ナノマシンを注入。これによって――」  
「処置ってなんなんですかぁ? どんな違和感なんですかぁあ!? ま、まさか長門サイズにあひぇっ! ちが違います、ごめんなさいごめんなさい!?」  
 それ地雷だと思います。あぁ捕まった……ドアには鍵が……。  
「――コレこれによってテテ……あなたは黙るべき。  
 この処置によって涼宮ハルヒが胸部への接触を希望する回数が劇的に減少。接触する際にもあなたの許可を求める状況を高確率で確立すると予測される。  
 ……あなたが不安に感じている身体の外見的な変質・変形は無いと断言する。ナノマシンの効果維持時間は48時間。効果発動時間は10分。発動回数は1回に設定。肉体的にも健康的にも無害」  
「そ、そうなんですかぁ〜?」  
「そう。少なくとも目から破壊光線、胸から不気味ミサイル、耳から奇妙な汁を発射するより健全と断言する」  
「そ、そんなモノ発射してませぇん! それでは、その、おおねお願いしま――」  
「いい。既に許可は取ってある。その時点からあなたの意思は尊重されない。私がさせない。これより状況を開始する」  
 ど、怒涛の勢いだな。長門。でもなんだって朝比奈さんの腕をベチベチを叩いてるんだ?  
「この行為により血流を促進、血管の位置確認を容易にする」  
 そうか。ナノマシンを注入するための準備ってやつか。にしても今までは一度もしていなかったと記憶してるんだが。  
「ナノマシンは毛細血管からでも不備なく注入可能。この行為は儀式」  
 …………。  
「古来より概ね儀式自体に意味は無い」  
 ガブリ、と聞えて来そうな勢いで、叩いたところを避けて噛み付いた長門を尻目に、  
「ひぇ〜え……キョンく…ん、キョンくぅ〜ん〜あうっ」  
 朝比奈さんの『哀らしい』声をBGMとして、ようやく赤く染まり始めた空を眺めていた。  
 あぁ、明日も良い天気になりそうだ。  
 こうして週明けの、日常と非日常の狭間にある一日が幕を下ろし、事件の幕が開かれたのだった。  
 
 

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