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『――――!!』
……ん、あぁ、なんと言おうとしたんだろうな?
頭の中では既に思い付く限りの悪口雑言、罵詈雑言をぶつけているはずだったんだが、とりあえず目の前の状況はこうだ。
俺は突き飛ばそうとした左腕も喜緑さんに掴まれ、その喜緑さんの腕をまたもや長門が掴んでいる。そして理想と現実のギャップに戸惑った俺は、罵声と共に開閉するはずだった口の代わりにまぶたをパチパチパチだ。これ、なんてツイスター?
なんでビクともしないんだよ……反則だろう。
ちなみに俺の右人差し指だけは理想を実現し、喜緑さんのほっぺたをプニプニ突ついている。なにやってんだミギー。
しかし、こうなったら穏便に済ませるように努力しないとな。場の雰囲気を和ませるためにも指はそのままプニプニしておこう。
「え〜、喜緑さん……というわけでここは穏便にいきませんか? 頭を切り替えて」
「わたしは最初かふぁそのつもりです。どの口で言ふゅんですか。頭を挿げ替えますよょ。
それと突つくのはやめてくふゃさい! 涼宮さんに言いつけまふょよっ!?」
説得の効果は抜群だったらしい。
だが、それまで笑顔を崩さなかった喜緑さんが、ここにきて眉を釣り上げたので慌てて人差し指を握り込む。朝比奈さんみたいな口調で落ち付くんだがなぁ。
別にハルヒなんか怖くないぞ。むしろ目の前の長門の瞳が冴え冴えとしてきたのが……それは緊迫感を出してるのであって、俺を睨んでるわけじゃないよな?
「意外に攻撃的なんですね。あなたも、後ろの彼も」
古泉! そう、古泉はどうしてるんだ? まさかトチ狂って喜緑さんを突き飛ばそうなんて考えたんじゃないだろうな!?
両腕を固定されて動きにくいが、なんとか首だけで背後を振り返ると……ちょっとジンときたね。
こいつも怒りを覚えたのか、状況を諌めようとしたのかは解からない。だが、傍観することなく行動に移ろうとしてくれたらしい古泉に、不覚にもちょっとばかり感動した。
カッコイイぞ。一歩踏み出した姿勢で硬直してる様子はかなりユカイだが、それは黙っててやるからな。
しかし、笑顔の消えた緊迫した表情もなかなかレアだが、こいつはにやけてないと納まりが悪いな。
「落ちつけよ、古泉。喜緑さんもこう言ってくれてるし、短気はよくないぞ。
あと、さっき言っていたラプなんとかの悪魔ってなんだ?」
「――――、……――? …………」
予想通り声も出せないらしい。俺も体験したことがあるからな。間違いなく喜緑さんの情報操作だろう。
「喜緑さん、あいつは喋ってないと呼吸できない体質なんですが」
穏便にとはいっても、長門に妙なことをされては困る。戦力は多い方がいい。
「やっぱりそうなんですか? それでは声だけ解除しましょうか」
「いえ、身振りを付けないとカタコトになってしまう病気も患ってるんです」
「……音声だけ遮断したまま解除してみますね。
長門さんが物騒なプログラム構想を始めているので、構築する前に話を進めます」
別段これといった動作や呪文もなく、喜緑さんがそっと目を走らせただけで古泉は体の自由を取り戻したらしい。逆にいえば、また動きを封じるにもそれだけで出来るんだろう。まったくもってやっかいだ。
古泉は一歩だけ前進してたたらを踏み、体勢を立て直してしばらく口をパクパクさせていたが、奇矯な行動は肩をすくめるジェスチャーで締めくくった。
俺も頭を押さえる特有の仕種で返したかったんだが、両手を塞がれているので首をすくめただけで視線を戻す。
本気で臨戦体勢に突入しかけてるらしいからな。古泉の声を封じた意図はわからんが、本腰をいれて長門を弁護する必要がある。
「そのエラーですがね、間違いとかじゃないんですか?」
「わたしも確認したい。わたしはわたしのエラーが許容値に収まっていると判断している。自己で処理できる範囲」
「本人もこう言ってますし、最近は特に変わった事件もなかったんで、そうそうエラーなんて……」
「なにもないからこそ起こるエラーもあるんですよ? わたしが気付くのに遅れたのも同じ理由ですけどね。
このところ大きな変化が無かったものですから、昨日の夕方、長門さんからの情報流出を感知しなければ見逃すところでした」
朝比奈さんに噛み付いた時か……ちょっとハイテンションだったしな。
「長門さんのエラーが、それを認識する領域を圧迫していること。
そして、そこから自他を欺瞞するコードが生成されています」
「……してない」
「長門さんの意思ではないのはすぐ解かりました。
その欺瞞コードは、認識してしまえば解析・排除が容易で、稚拙で無駄が多すぎたんです。
長門さんのクセも見られましたが、たぶん無意識なんでしょうね。
長門さんに自覚してもらえれば……そうですね、ちょっと手を、ここに」
喜緑さんに掴まれた手を引かれて、長門の膝の上に――えぇと、居心地悪いんですが。
TFEIコンビはまだベンチに腰を下ろしたままで、その片方にのしかかるように太腿に手を伸ばす俺は……変質者っぽいな。
「あなたはしゃがんでください。えぇ、もうちょっと近付いて、うん、上目遣いに……そうそう!
さ、有希ちゃんも彼の手を握って。ほら、照れないのっ」
世話焼きのオバちゃんみたいになってますよ。それが地ですか?
まあ、従いますけどね。二人の前にしゃがみ込むと、喜緑さんが両手を解放してくれた。これはチャンスなんじゃないか?
もう逃げる気はないんだが、それでも納得する前にエラーとやらを弄られるのは良い気しない。男の上目遣いなんてあまり良いもんじゃないだろうが、長門、喜緑さんの腕を離して距離を取ってみたらどう――って、え? なんで?
「うんうん、よかったね」
喜緑さんはさっきまでの無機質な笑顔から、ほんわかした暖かい笑顔に切り替わっている。なにがよかったんだろう?
長門は……掴んでいた喜緑さんの手を離し、なぜか俺の掌をギュウギュウと両手で捕まえている。長門?
「…………つい」
今日は視線での会話に失敗してばかりだな。それどころか長門は掴んだ俺の手を凝視したまま、あ、こら、あんまり揉むんじゃない。ムズムズするから!
「まあまあ、気にしないで」
「……気にしないで」
二人がそう言うなら気にしませんが……シリアスはどこにいった?
「最近、図書館に行きましたか?」
唐突ですね。そういえば最近行ってないかな。俺は一人で行くことはないし、この前の探索の時は長門とペアにならなかった。先週は探索自体がなかったしな。長門はどうだ?
「一緒に行くことが大事なんですよ」
「……そう。まさにそう。そういえす。ぜひ、図書館に」
そ、そんなに行きたかったのか。まぁ、襲い来る睡魔との勝率は悪いが、そんな俺でよければいつでも付き合うぞ。
そうだな、今度SOS団みんなで図書館探索に行くのもいいかもな。それならペアにならなくても――ん? なんだよ、喜緑さんも古泉も、困ったものですねってジェスチャーは。いでで! な、長門? ちょっと力が強いぞ。手が痛いんだが。
「まったく……。あなたは最近の長門さんに、なにか違和感を感じませんでしたか?」
「……いや別に。最近ちょっぴりお茶目かなとは思いましたがね。長門も成長しているんだなぁと」
「あなたは無駄なところで度量が広すぎるんです。気付いていて許容するのでは、もっとタチが悪いですよ」
そうは言われても、長門が自分の意見を持って、そして話したり行動してくれるのは嬉しいもんだしな。
古泉、なんでロックも流れてないのに前後にヘッドスパンキングしてるんだ? 今たぶん真面目な会話をしてる最中だ。会話に参加できない禁断症状でも自重してくれ。
「一番タチが悪いのは、重要な部分だけは気付かないところですね」
人を朴念仁みたいに言わないでください。俺ほど心の機微を読むことに長けた高校生はいないと思いますよ。
だから古泉、大人しくしてろ! BGMがヘヴィメタに切り替わったのか知らんが、髪の毛が乱れるほど首を上下してるとそのうちもげるぞ。
「いいですか? 今度『二人で』図書館に行ってきてくださいねっ。
長門さんにとっては、エラーの抑制や解消の為『にも』、そういうささやかなひとときが大切なんです」
そんな恫喝しなくても行きますよ。長門と図書館に行くのは、寝心地が良いのとは別にしても嫌いじゃないんでね。
他にも含みがありそうだったが、俺の睡眠不足解消『にも』重要なのかもしれないしな。いや、寝るのが前提で行くわけじゃあないが。
普段の騒乱とは切り離されたノンビリした時間はわりと好きなんです。本棚に囲まれて少しだけ昂揚してる長門を眺めるのを含めてね。
「……感謝する。喜緑江美里」
そんな光景を想像していたからだろう。長門の表情が少しだけ緩んだ気がした。俺の手に加わっていた握力もな。
なにに感謝したのかいまいち理解できなかったが、思うところがあったんだろうさ。しかし、小指同士を絡めるのは何の関節技だ? 痛くはないが、ちょっとこそばゆい。
「エラーが少し解消できましたか?」
コクリと確かに頷いて、喜緑さんに向けた長門の瞳は、
「それによって、わたしも欺瞞コードの存在を確認。処理能力の規定ラインを超えたエラーの蓄積も認識できた。処置を依頼する」
決断に引き締められていた。それでも少し緊張しているようにも感じて聞かずにはいられない。
「……いいのか?」
「いい。わたしという個……わたしが、わたしであるために必要な措置。
この件では喜緑江美里を信頼している」
「心配しないでください。わたし達がエラーと名付けてしまったものが、長門さんにとっては大切なものだということは理解してるつもりです。
ですから、信じてもらえませんか? わたしは長門さんの敵ではないんです。大丈夫、まかせてください」
二人がこうまで言うなら、もう俺がごねるべきじゃないんだろうな。
そもそも俺が口を出して良い問題なのかも疑問だが、喜緑さんの言葉も真摯なものに感じられたし、俺も長門に暴走してもらいたくはない。
エラーとやらが長門を圧迫していて長門もそれを感じているのなら、俺も誠意をもって頭を下げるべきだろう。
「わかりました。長門を、お願いします」
「ええ、長門さんが認識してくれたおかげで協力して処理出来ます。
極力消去を避け、選別してエラーを圧縮。長門さんが落ち付いたら、少しずつ自分で処理できるように……それでいいですか?」
「……ありがとう」
微かな声量で告げた言葉に、柔らかく微笑みで返した喜緑さんの顔が、そっと長門に近付いてい――え! 俺の目の前でそんな!?
俺はたぶん不埒な想像を交えながら向けられているだろう古泉の視線を遮るべく、目を大きく開いたまま良く見えるようにと頭を動かした。あ、違うぞ、驚きに目を見開きながら、だ。
こつん。長門と喜緑さんの――額が重なったのは数秒だけ。もちろんさっきのは歯がぶつかった音だったりはしなかったぞ。予想通りだ。
これで終りか。やけにあっさり――うん? 長門? 長門の様子がおかしい。
「おい、長門!」
ベンチから崩れ落ちたりはしなかったが、こいつらしくもなく体を弛緩させ半眼でボンヤリとしている。
このデコッパ宇宙ワカメ! 謀ったな! 俺のお父上は悪くない普通のサラリーマンなんだぞ!
「落ち付いて! 安心してください。わたしが行ったのは表層域の調整、情報と処理プログラムの伝達です。
長門さんはいま、えぇと――有希ちゃん個人の、わたしにも知られたくない部分のエラーを処理してるだけですから。
情報統合思念体からのサポートで組み立てたプログラムですから性能は抜群ですよ。
それに長くエラーに接するのを避けたいんです。わたしの中にもあって、今も少しずつ降り積もっているモノですからね。
自分のエラーを処理するので手一杯」
取り乱しかけた俺は、少しだけ憂いを含ませた表情に言葉を失ってしまったが、喜緑さんの言うとおり大丈夫ではあるらしく、繋いだ長門の手が俺の声に反応して強く握られた。
弛緩したままでなにごとか呟いてはいるが問題はないらしい。
喜緑さんも自分の中に育つものに困惑してるんだろうか?
いつもの余裕のある応対は単に反応パターンが豊富なだけで、内心では人知れず頭を悩ませているのかもな。
長門のように灼熱の情報フレアに直火で炙られることは少ないだろうが、喜緑さんも同じ対象を観測してるんだ、無駄にループしちまったあの夏休みも体験し…て……夏休み? エラー?
いやいや、これはもういい! それは考えるな…感じるんだ……そう、寝言でもないんだろうが、長門がむにゃむにゃ呟いてる方に集中してみると――って、おい! いま「キョンきゅぅん」とか言わなかったか!? 言わなかったよな?
まさかお前まであだなで呼ぶんじゃないだろうな? 俺の本名は呪われてんのかと疑いたくなる。
ハルヒは「キョンはキョンでキョン以外の何者でもないのっ!」とバッサリ斬り捨てやがったし、古泉なんか携帯電話をいじりだしたかと思えば、アラームを鳴らして「いけません。急用が入ったようです」とか青ざめた顔で帰宅しやがった。
朝比奈さんに至っては、渋るのを一度だけと約束してお願いしたんだが、口を開いた瞬間頭を抱えて気絶する始末。TPDDの誤作動ですと言ってたが、以来トラウマになってしまったようだ。
というわけで長門、お前には期待していたんだがな。あだなで呼ばれた事もなかったし。
以前軽く話題を振った時には「呼称の変更は推奨できない。また、将来的に現状のまま呼ぶのがより相応しい状況の発生もありえる……から」とかなんとかはぐらかされたうえに、朝比奈さんがお盆ごとお茶を取り落としてしまったり、
ハルヒが「校内探索に行くわよっ!」とかいきなり騒ぎ出し、引き摺り回されたからうやむやになっちまった。そういえばその日、勘がいいのか古泉はサボリだったな。ひどいヤツだ。
だがまあ強要はすまい。もしかしたら俺の本名は、この世界が終わってしまう前兆のラッパと同じ響きを内包しているのかもしれないしな。
不吉な予兆を頭から振り払うと、その代わりでもないんだろうが脇腹がチクリと疼き、ひとり、眉毛を誇示する優等生然とした少女の事を思い出した。
……アイツにもあったんだろうか? 一人で抱えこむには重たいと、そう思うことが。
「あの子が、もしかしたら最初にエラーを感じたのかもしれませんね」
思わず呟いていたらしい。誰の事なのか理解したんだろう。遠く、雲を眺めながら喜緑さんが言葉を返してきた。
もしそうだとしても、その頃の俺には、喜緑さんや長門にも、何も出来なかったんだろうな。久しぶりに再開する状況を引き起こした事件のように、止めることは出来なかったんだろう。
今なら……今の俺達ならなんとかできるんだろうか?
泣いた赤鬼。『転校』してしまった級友。消えてしまう時にも笑顔しか持ちえなかった少女。
「長門さんに借りた本の中にこんな一節がありました。
『別の民族を理解するには服飾を模倣し、同じ物を口にする。なにより言葉を学ぶのだ。
頭の中で翻訳するでもなく、ありのままの言葉そのものを理解できるまでに修得したなら、
それは民族意識下に流れる思想の本質を獲得したことに他ならない。
思想を構築し、表現するための言葉は、その民族の言葉にしか正しく存在しないのだから』」
よくわかりません。今、いい感じでシンミリしてるので静かにしてください。
「有機生命体である人間の姿を得て、
一緒に行動し、会話し、観察し、考察し、
そして思い悩む『わたしたち』は、これから何になっていくんでしょうね?
すこし不安で、とても楽しみなんです」
あぁ、ちょっとだけわかりました。
なるようになれです。なりたいものを見つけて、そして少しでもなりたいものに近付いていければ、それはいいと事だと思いますね。
それくらいで、いいんだと思います。
変化、か……。
――毎日の生活が楽しい方向に変わるような事件だったら、ちょっと素敵かもね――
……あぁ、そうだな。
「いろいろと苦労もかけるとは思いますが、『わたしたち』の長門さんをどうかよろしくお願いしますね」
そんな神妙に頭を下げられても、俺達の答えはもとからひとつですよ。まか――
「まかせてください。僕達なんでもありの愉快団、特に涼宮さんはハッピーエンドがことのほか大好きですな方ですから。
あぁ、やっと話せるようになりました。本当に呼吸困難になるかと思いましたよ」
まかせ――。
……こういうところは意地悪なんですね、喜緑さん。このタイミングで古泉を解放するとは。
「ところで先ほど質問されたラプラスの悪魔なんですが――」
今もいい。別に腹を立ててたりはしないぞ。
「そうですか……それでは時間のある時にでも」
そこまで落ち込まなくてもいいだろうに。
だが肩をすくめる仕種のキレといい、やはり口がきけると調子も上がるんだろう。
「それで喜緑さんにひとつ質問なんですが、よろしいですか?
いえ、長門さんの件は、お互いに信頼して行ったことのようなので、今更僕が口を出そうとは思いません。
先ほど『敵ではない』と仰いましたが、それを伺いたいのです。言葉を変えましょう。あなたは僕達の『味方』なんですか?」
「うふふ、あなたなら気付くと思って黙ってて貰ったんですよ」
クスクス微笑みながら自分の唇を人差し指でなぞる喜緑さん。生徒会長もウットリですね。
だが古泉には通用しませんよ。なぜならこいつはガチではないがバイではないとの保証はどこにも……どうした古泉?
「……いえ、なんだか失礼な視線を感じたもので。
こほん。やはりそうですか……。
あなたの立ち位置からすると、涼宮ハルヒ以外のアクションでの混乱は避けたい。その場合は敵ではないんでしょうね。
ですが、涼宮さんが、いや、涼宮ハルヒの力が主導となった変動の場合……」
「味方にはなれないんです。ええ。収集が付かない場合は別ですが、わたしの目的は力の観測ですから。
こちらから誘発しようとは思いませんが、事が起きれば少し長引いてくれたほうが有難いんです」
「つまり、今がその状況なんですね? そしてこれから起こることが。
先ほどから嫌な予感が止まらないんですよ。ただの勘違いなら良いのですが、あなたには予想がついているんでしょう。
普段のあなたならもうすこし円滑に、速やかに用件を済ませることも出来たはずです。
ならば今の状況は明らかな時間稼ぎ……違いますか?」
難問に答える神童のような古泉と、その出来に満足する塾講師のように鷹揚に頷く喜緑さん。
というか古泉、時間稼ぎだとしたら……まずくないか? 楽しくても弁舌を揮ってる場合ではないんじゃ……。
「内心の動揺を押し隠して、健気にも平常をよそおう朝比奈みくる。彼女は優秀な人材ですね。
そしてあなたも。その洞察と直感はあなた個人の資質ですから、もっと評価されるべきでしょう。
でも、今日は本当に偶然お会いしたんですよ?」
小首を傾げる喜緑さんは、すっかりもとの微笑をデフェルトにした底の知れない存在に戻っちまった。
「あなたのような人物の『偶然』は信用できないのですよ。なぜかはわかりませんが」
鏡を見てる気分だからだろ。
それより急ごうぜ。なにか起こりかけてるんだろ、とは声にならなかった。
長門と繋いでいた手がそっと押し戻されて、注意が逸れちまったからな。
もう大丈夫なのか?
「…………」
さっきまでの状態が状態だ、無言だと不安になるが……僅かに顎を引いて頷く長門の磨かれた黒曜石みたいな瞳に、煌く意思の光をみとめて俺の天秤は安心へと傾いた。
絡んでいた小指が外れると俺達は立ち上がる。視線が集まったのは短い時間だ。
「随分ですね。真相はどうあれ、そういうことにしておいてください。
ああ、なにか始まったようですよ?」
耳目を集めたついでだが、「急ぐぞ」とのセリフはもう手遅れらしい。
部室棟に可愛く顎をしゃくる喜緑さん。
古泉は勢いよく振り返り、長門も静かに視線を向けている。
こういう時だけは一般人属性が歯がゆいな。部室棟を眺めても何処に視線を送ればいいのかわからん。
しかし、長門の調子も戻ったことだし、何をおいても急――
「急ぎましょう!」
……異論はないさ。長門と古泉の異能コンビは足早に部室棟へと向かっていく。
俺は喜緑さんに礼を言っておくべきか悩んだんで出遅れたが、必要はないのかもな。わざと拘束時間を長引かせたらしいし。
二人を追いかけようと向けた背中に、
「このさき、いえ、今回のことではないんですが。
このさきなにがどうなるのか、わたしたちにもわかりません。ですから――」
――それまで、みんなとお幸せに、ね。
そんな声がかけられた。
ベンチに腰掛けた喜緑さん。
その肩に手を置いて、笑顔を湛えた黒髪ロングの少女が佇んでいる、気がした。
まあ、気のせいさ。
俺は、上級生にするにしては雑な、同級生にならそれなりな、片手を挙げるだけの挨拶を残してその場をあとにした。
これから暑くなってくるとちときついが、そうだな、いつか涼しくなったらまたご相伴にあずかるのもいいかもしれない。
落ち付いて味わえなかったが、あつあつのオデンはかなりうまかったはずだ。
そんなことを考えながら、先を行く二人を追いかけた。
脇腹は疼かなかった。
※
※
さて、先に出発した二人組に追いついたのは、これが予想外に早かった。
俺もかなり慌てていたのだが、この二人の本気なら後塵を拝することも出来なかっただろう。
急ぐんじゃなかったのか? まだ振り返ると喜緑さんが見えるぞ。
「……いえ、気持ちは焦っているんですが……感じませんか?」
なにをだ? 俺にはそういった類の変態パワーは――まさか、アレか?
「閉鎖空間か?」
自分で言って胸の奥に苦いものが広がった。
古泉には悪いが、気にかかったのは閉鎖空間そのものじゃあない。閉鎖空間が発生しても、俺に出来るのは「頑張れ古泉」と応援することだけだしな。
俺が一番に恐れたのは、閉鎖空間を引き起こすような『ストレス』をハルヒが感じたのかって事だ。
頭を下げるのに飽きたハルヒが、許しを貰えなかったからといって、不愉快になるような奴ではないと信じたかったし、無体にも朝比奈さんに逆ギレする様子なんか想像も……想像は容易だが、今日は絶対に有り得ないだろう?
我ながら随分としかめつらしい表情だったと思う。それでも、そんなことはないよなと祈りを込めて確認する。
「その件もですが、お聞きしたかったのは……違和感です」
古泉は、「失礼、靴を」と言って自分のゲタ箱に向かっちまった。やっと昇降口か。
一旦バラけてすぐさま廊下に集合。部室棟に向かうが、速度は歩いているとしか言いようが無い。
さっきのラプなんとかの仕返しか? 焦らすなよ。発生してるのかしてないのか。
「違和感です」
いや、そこは繰り返さなくてもいい。
「早く状況を確認したいのですが……足が竦むといいますか、急ぎたくないと強く感じているんです。
風の強い日に板の欠けた古い吊り橋を渡っているような、そんな気分を……あなたは感じていませんか?」
確かに気まずい事件だ。向かう足が渋るのもわかるが、そんな場合じゃないだろう。
まあ、本当に緊急事態ってんなら、暢気に靴を履き替えたりしないんだろうが。
「うまくご説明できないのですが、僕が及び腰になっているのでなければおそらく涼宮さんの力です。
それに、これをご覧ください」
古泉が意味ありげに手を差し出してきた。開いた掌を上に向け、特に何か握っていたわけでもないんだ、が――!
「おまえ、これは!?」
目を凝らさないと見逃しかねないほど微かにだが、手首から先が輪郭線を強調するように赤く瞬いてやがる。
洋画によくある場末のバーのネオンを思わせる淡い光が、切れかけた電飾のように明滅しながら輪郭をなぞって走り、掌の上の何も無い空間にはパチンコ玉ほどの赤玉が――浮いていたが、球形に安定することなくシャボン玉のようにはじけて消えた……。
……確かにただ事じゃなくなったみたいだな。
またぞろ妖しげな生物でも……いや待てよ。コンピ研の部長氏がカマドウマになった事件だと、こことはズレた不思議時空に行く必要があっただろう。古泉の超能力は状況制限付だ。
「気付かないうちに妙な場所に飛ばされちまったとか、それともあの映画を撮った時みたいな変化が出てるのか?」
自販機と会話が成立するような世界とか、挨拶代わりに晴れ時々脳漿が降り注ぐダークワールドは御免だぞ。
「それはありません、と断言できないのが辛いところですね。
校舎内に、あの空間と似た気配がほんの僅かに混ざっている、僕にわかるのはこれだけです」
お手上げってわけか。だが投了にはまだ早い。こいつが本調子に戻っていれば、の話だけどな。
「長門……調子はどうだ?」
「……いい。説明する」
すまんが頼む。さっきの今で負担を増やしたくはないんだがな。
「いい。現在校舎内に複数の力場が形成されている。その全てが涼宮ハルヒによるもの。
ひとつは空間の多層化。校舎内全域に複雑な空間断層が張り巡らされている。
ふたつは精神に作用するもの。発生点への接近を忌避するよう無意識へ働きかけるフィールドと、発生点にいる二人の存在認識を阻害するシールド。
わたしが感知したのはこの三つ」
ハルヒも自覚が無いとはいえ、またけったいな事をしやがるもんだ。
後の二つはなんとなく理解できる。友人を泣かせちまって気まずいから『こっち来るな』『こっち見るな』って事なんだろう。隠そうとする気持ちはわかるが、やることが桁違いだ。
「閉鎖空間に似た感覚は空間の多層化から来てるのでしょうか?」
長門が小さく頷きを返すのが見えた。
気のせいかもしれないが、少し落ち込んでるように見えるな。エラーとやらの処理でテンションが下がったんだろうか?
「通常の閉鎖空間とは少し異なる。観測できた範囲では部室棟が四重に存在。同時に存在し全てが本物。
精神フィールドの影響には個人差があると予測されるが、影響が弱い者ほど涼宮ハルヒから離れた界層へと分散されている」
「おそらくですが、気まぐれ程度では近付かないように人払いをし、目的を持って訪れた人には涼宮さんの存在を感じさせないような、そんな仕組みになっているのではないでしょうか。
そしてその方たちは、気付かずに日常を過ごしている」
そんなところか。単純な造りの旧校舎がいつのまにか、複雑怪奇かつ因縁と恩讐に彩られたウィンチェスター館のごとき迷宮になっていたらしい……とことん迷惑極めたパワーだな。
いくらハルヒでも無関係な人間を、鉄道強盗と早撃ち決闘で賑わう西部開拓時代に飛ばしたりはしないだろうし、異空間と言えば剣呑な響きだが、それでも安全ではあるのだろう。
部活時間真っ盛りだというのに、部室棟に向かうにつれて雰囲気が閑散としてきた理由はわかった。しかし、それだと俺達もハルヒや朝比奈さんに会えないんじゃないのか?
「涼宮ハルヒと朝比奈みくるが存在しているのはこの空間。
一帯に偏在する他層空間への入口を回避しているが、全域が歩行速度にも反応すると判断した。
これ以上速度を上げる事は推奨出来ない」
これには男二人で口を噤んでしまった。黙り込んだままで階段を上る。
……焦って長門を追い越していたらゴールに辿り付けなかったのか。一本道なのに極悪な迷路だな。たしかに古泉の勘の良さは誉められる美徳なのかもしれん。
「到着する前に説明をしたい」
なんだ? 今の状況はだいたい理解できたと思うんだが。
「……そう、ではない。昨日の事。今日の事。
……そして謝罪したい」
一歩前を歩く長門の横顔からでは表情は伺えなかったが、代理でもないのに古泉が目配せしてきやがった。わかってるよ。
「喜緑さんも言ってただろ。ちょっと計算がズレただけさ。
ちょっとお茶目が過ぎたかもしれないが、朝比奈さんの為に良かれとやったことだ。俺も止めなかったわけだし、後で二人で朝比奈さんに――?」
長門は立ち止まっていた。質問に返すわけでもなく頭を左右させる姿はかなり珍しいだろう。
少なくとも、俺と古泉の足が止まるくらいには。
「長門……?」
「どうかしましたか?」
振り返って俺を見上げた長門がもう一度首を振る。
「……そうじゃない。事前に喜緑江美里からの情報を得ていたとしても、昨日と同じ判断を下していた可能性が高い。
わたしは予測を立てる際に、結果よりも結果の後にもたらされる評価に捕われていた。
そのため必要な情報が揃っていたとしても、わたしが望んだ結末へと帰結するように経過予測を歪曲したと思われる。
わたしがわたしとして役に立ったという確信の希求を排除できなかった……わたしの失態」
古泉が「なにもないからこそ……ですか」と小声で呟いていた。喜緑さんの言葉か?
賞賛や感謝を求めるのは、善意を行う見返りとしてはささやかなものだろう。そのくらいは誰にも責められるもんじゃない。
「そして今日の涼宮ハルヒの接触に対して、朝比奈みくるが精神的な要因により惑乱し、対応策の根幹である反応が発現しないまま状況が推移。両名とも正常な思考を行えなくなっていくのをわたしはただ眺めていた。
動揺……していたと思う。制止行動をとるべきだったその状況に動けなかった。
予測の逸脱を許容出来ずに目の前の光景を否定し、わたしは失態を隠匿することまで考えていた」
ごめんなさいと頭を下げて言葉を切った長門に、俺はちょっと微笑んでしまった。誤魔化そうと考えたことまで白状するなんて、どこまでも素直過ぎるやつだ。エラーってやつのせいにする事だって出来たのにな。
それに、知っているか? 自発的に嘘をつこうと考えるのは自我の芽生えらしいぞ。居間に転がってた婦人誌の受け売りだけどな。
子供と同視するのはさすがに失礼だから長門には言えない。だからさっきと同じ事を言うのさ。
「それでもだ。朝比奈さんの為に考えてくれたんだろ? 後で二人で謝りに行こうぜ。許してくれるまでな」
加害者のハルヒも、ある意味被害者といえるんだが……これは本人には内緒にしないとな。心苦しいがやむをえまい。
「確かにちょっと失敗しちまった。そして俺も止めなかったから同罪だ。だから俺には謝らなくていい。
失敗は誰にでもあるし、隠したいと考えるくらいは普通の事なんだ」
「……あなたの期待を裏切った」
長門と目があう。まるでそれが一番辛いと語ってるような瞳に短く嘆息した。
「なあ、長門」
いつまでも成長しない妹と接してるせいか、中々抜け切らないクセが出た。
同学年の女子にはかなり相応しくない応対だが、つい頭の上の手を置いてポンポンとな。まぁいいか。
「なにかあるたんびにお前を頼っちまうのは俺の悪い癖だ。だけどな」
古泉が優しい笑顔で俺達を眺めている。俺もあれくらいうまく笑えてるなら良いんだが。
「だけど、なんでも完璧にこなす必要はないんだ。
お前がSOS団にいるのは、他人よりちょっとばかり不思議な力を持ってるからじゃあない。そんなもんは些細なきっかけだ。
今のお前は団員で、仲間だからここにいる。それだけさ。
それに、俺なんか失敗ばかりだ。お前ももうちょっと肩の力を抜いた方がいいぞ」
「……そう」
いや、肩を落とせとは言ってない。まぁ、なんだ……。
「……とは言っても、なにか大変な事が起こったらまた頼ってしまうだろうから、その時はよろしく頼む」
我ながら情けないが、どうにも格好よく決めるのは向いていないらしい。
「わかった。……ありがとう」
長門も誰かに頼られるのが嬉しいのかもな。頷いた仕種とその瞳には普段の調子が戻っていた。
※
「古泉一樹。あなたにも謝罪したい。ごめんなさい」
「いえ、僕はなにも。昨日は途中でリタイアしてしまいましたしね」
向きを変えて頭を下げた長門に、古泉が微苦笑を返す。
「そうではない……。昨日……喜緑江美里がわたしのエラーを感知した件に関係している」
頭を上げた長門の目は伏せられたままで……おい、どこを見ている?
「な、なんでしょうか? 昨日は喜緑さんとはお会いしなかったのですが」
古泉もモジモジしているから勘弁してやれ。
そういえば喜緑さんも、情報流出のおかげで長門の状態に気付いたと言ってたが、朝比奈さんに噛み付いた時の事じゃないのか? あの時は古泉が退室した後だったぞ。
「あなたが昨日の入室時に、押し付けてきた肉体の一部について――」
「変質者ですかっ!? してませんよそんなことっ」
「…………? 突きつけられた?」
俺に判断を求められても困る……。首を傾げている長門の目にはどう映っていたんだろうな。その、古泉の前屈み具合は。
さすがに俺も判断がつけがたいので、とりあえずは頷き返してやった。ナナメに。
「長門さんっ、事実を改竄しないでください!
あなたもです。お得意の穏便かつ迂遠な言い回しでいいですから、長門さんに真実をありのままに吹き込んでください」
人を煽動者みたいに言うな。自分で言うのもなんだが、俺は竹を割ったような単純な正確の持ち主であり、持って回って捻りを加えた表現は最も苦手とするところだ。しかし、そこまで期待するならば、と――。
「長門、コウノトリがキャベツを運んでくるように、オトコノコには血液とゆう小人さんが集会を開くこともあってだな、その会合場所として体の中心というか本能の中心に、パオを設営することがままあったり、パパあったりするわけで……」
「失礼ですがあなたにはすこしばかり黙っていていただきたいものです」
どっちなんだよ。
「わたしの記録領域におけるその時点の情報に、少なくないノイズが含まれていてうまく認識できない……」
昨日の硬直はパニックだったのか。こいつがたった一日前の出来事を正確に思い出せないとは、かなりの衝撃映像だったらしい。
知識では知っていても、男子たるもの学校では晒したくない醜態ではトップクラスなわけだし、長門としては実際に間近で見たのは始めての経験かもしれん。
「見せ付けられた……? 肉体的変調部位について……」
長門の語彙が容認できる程度まで落ち付いたからなのか、
「……見苦しいものを目に入れてしまったのは僕の責任ですから――」
話題を早いとこ切り上げたかったのかはわからんが、
「――お気になさらず。この話題はここまでにしましょう」
ねっ? ねっ! と鬼気迫る笑顔で念を押してくる古泉に、無情にも頭を左右する長門。
「そうではない。あまりにも威風堂々と誇示されたことにより、混乱状態に陥ったわたしは情報統合思念体に判断を委ねようとして」
「………」
「誤ってその情報を全方位発信してしまった……ごめんなさい」
「…………」
「ちなみに発信回数は15498回」
「……………」
正直は美徳にあらず、とはこのことか?
「なお、この数字は一秒間あたりの回数」
「………………」
そりゃあ……喜緑さんも大慌てで観察に来るわけだ。
「……大丈夫」
とても大丈夫じゃない状態で、チャールズ・ホイットマンばりに三点リーダーを乱射している古泉の代理で聞いてやるが、どう大丈夫なんだ?
「先程情報統合思念体と同期した際に確認したところ、この情報を他の意識存在ももれなく受信したが、通常時との形質差異が大きいため、この情報からあなたを特定することは困難であればいいなとの返信を得た。気にしないように、とのこと」
それは希望的観測だ。思ってたより子煩悩な親分なのかもしれん。バカ親馬鹿だ。
「……きキ気にしてませんよ。ですから長門さんも気にしないでくださいネ。むしろ忘れてくださいっ!」
「……わかった」
小さく頷いた長門も、これ以上古泉の傷口を抉るのは得策でないと遅まきながら気付いたのか、前に向き直ってゆるゆると歩を進めた。
この一連のやりとりが長門の時間稼ぎだったとは思っちゃいない。
それでも気付くべきだったのかもな。復調した長門さえもが足を鈍らせる事態だったのだと。
この日、俺と古泉は、ハルヒ・朝比奈さんペアとの再会を果たせなかった。
校内が一時的に迷宮組曲になった以外は、宇宙的未来的超能力的そしてハルヒ的な不思議現象は発生しなかった。
ただ……いや、後にしよう。先にこれだけ言わせてくれ。
ハルヒ、お前なにやってんだよ……。