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「こんにちは。今日も良い天気ですね」  
 明日からは崩れるそうですが、と不穏に添えて頭を下げてくる上級生に、俺はつられるように腰を折った。  
 長門の台詞は聴かれなかっただろうか?  
 あとじさる長門に確かな足取りで近付く喜緑さんの様子を伺ったが、木漏れ日のように暖かな微笑を湛えた表情はいつもどおりで捉え所が無い。  
「……緋見鳥えみり」  
「長門さん、変な字名を付けないでください」  
「全身を血に緋く染めた犠牲者を楽しげに眺めながら夜空を旋回する様子から――」  
「解説もけっこうです」  
 強敵だな長門。ここは大人しく挨拶だけしてやり過ごそうぜ。  
 俺はこの上級生の事をあまりキライではないんだが、時折見せる翳った微笑みの中に、なにもかもを巻き込んだ創造の事後処理をしてきたような倦怠感がのぞいたり、  
皮肉を含んで「わくわくしたいと願えるのが素敵ですね」とか言った後に「叶えてくれません、誰もね」とトドメと溜息を織り交ぜそうな雰囲気がちと苦手なんだ。  
「あなたはファックアップのはず」  
「いいえ、バックアップではなく独自の観察とあなたの監視を――え? 今なんて言ったの? なんて言いました!?」  
「……なにも。気のせい」  
「言いました! このっ――待ちなさい。お酒もドラッグも二十歳からです!」  
 単純に宇宙人的端末にトラウマができてしまったのかもな。TFEIとやらと密室に放り込まれたら断言してもいい、泣いてしまうかもだ。  
長門なら別だぞ。会話が弾まないことを除けば、胃袋の限界までお茶を差し出されるだけで、なに、のんびり構えてればくつろいだ時間と呼んでいいだろう。  
いや待ってください喜緑さん、ドラッグは年齢問わずダメです。  
 片手で頭を鷲掴みにされた長門を見届け、自販機の前で考え込んでいる古泉に話を振ってやった。  
「おい古泉。喜緑さんがどっちの用件で来たのかはわからんが、生徒会関係ならお前の領分だろう。  
ミシミシいってる長門の頭蓋骨が違う音を立てる前になんとかしてやってくれ」  
 えらく真剣に悩んでるようだが、ジュースの選択よりも状況をみてくれ。古泉の肩を小突くと暫くまばたきを繰り返し、今さら気付いたように喜緑さんに頭をさげた。  
「ああ、これはどうも喜緑さん。挨拶が遅れてしまいました。こんにちは」  
 良いお天気ですね、と添えて頭を下げた。なんだ、常に笑顔を崩さない人間は挨拶に天気を絡めるのがデフォルトなのか?  
 そういえば英語圏とかそのあたりだと、支持政党の会話から始めて手袋を投げつけられないように、最初の会話は当たり障りない、誰の不利益にもならない天気から始めるのがマナーだと聞いたような気がするな。  
譲れないものを胸に貯め込んでると、朝に晴れてても傘を忘れない人間になれるかもしれん。  
「はい、こんにちは。もうすこし離れてくださいね。ナニか飛び散った時制服が汚れてしまいますよ?」  
「これはご親切にありがとうございます。それで今日はどういったご用件でしょうか?  
 生徒会の方は暫く通常の職務で忙しいように伺っていたんですが、なにか別の用向きでも?」  
 俺は暴挙を止めて欲しいのであって、長門がぶちまけられてもいいように距離をとってどうする? 頑張れ折衝役。  
「喜緑江美里。あなたは手を離すべき。危機が迫るとしたらまず古泉一樹」  
「生徒会の会議が少し煮詰まってしまって、気分転換にたまにはお茶以外の飲み物でも振舞おうかと。ここでお会いしたのは偶然ですね。  
 ふふっ、ちょうど長門さんにも早めに伝えたい事があったのを思い出しましたから、幸運な偶然です」  
「ははは、それは偶然ですね。一生徒として今期の生徒会には期待してますのでがんばってください。応援させていただきますよ。  
 おや長門さん、足が地に着いてませんがなにか嬉しいことでも?」  
 だから止めろよ。微笑みの紳士淑女には『偶然』って言葉に別の意味が含まれるのか?  
 買い出しするのになんで自販機の後ろから出てくる必要がある? 明らかに必然だろうがって、うぉあ! 振り払おうとしていた長門の腕がダラリと下がったぞ!  
「ちょ! ちょっと、喜緑さん! 伝えたいことがあったんでしょう!? 相手がいなくなりますって!」  
 慌てて喜緑さんと長門の間に割って入った。脇腹がなぜだかチクリと痛んだが今は構ってられるか。  
 
「俺からも謝りますから、落ち付いてください。ほら長門! 白目むいてないでゴメンナサイしておけ。  
 社会的には柔和な人格者みたいに振舞ってるんだから、形だけ頭を下げておけば何も出来ないはずだ。人目もあるしな。  
 なんというか「人間ごときが」とか「制限端末風情が」とか腹に抱えてそうちょっと怖いが、確か穏健派だか陰険派とか呼ばれてるから表立って行動すること善しとしないんじゃないだろうか。  
 そんなことを考えながら俺は長門の頭を押し下げた。よし、これで万事オーケーだ。  
 とりあえずは今度の件について何か知っていそうだし、穏便にうまく聞き出してから退散していただくか」  
「…………」  
 なんだ? 沈黙が重いな……。一般人としての行動に間違いはないはずだが、まあいい。大丈夫か、長門?  
「……大丈夫。喜緑江美里は本気ではない」  
「そうですよ。仲の良い幼馴染のジャレ合いですから」  
 そうなんですか? 口元を隠してクスクス笑っておいでだが、それにしては随分命懸けな気がしますよ……まあ、本気なら情報結合とやらの解除をするだろうし、それが実行されないならお互いに許容範囲なんだろうか。  
「今はその恐怖の代名詞ともいうべき血に染まったバールのような物を所持していない」  
「そんなものは随分前に処分しました!」  
 も、持ってたんですか。さすがに古泉の笑顔も引き攣っている。怖いものでも…怖いものを見たような……見てしまった表情だ。  
「ちなみに使用されたのは夏季休業時。繰り返された惨劇は3982回にも及び――」  
「ち、違う、違います! アレはちょっとした心理実験で!  
 相手はともかく私の了承と私への状況説明は滞りありませんから半数以上の同意を得ていました!  
 しかも発案者は有希ちゃんじゃないの!?」  
「対外的な自律活動中の愛称での呼称を警告。  
 それに、わたしは提案していない。ただ長い夏休みを快適に過ごせるよう本を貸しただけ。  
 あのような行動にでる事は想定外。私という存在が初めて恐怖した瞬間。隣人は静かに笑う」  
「も、もお、有希ちゃんったら! お茶目さんなんだからぁ。情報データを良く確認してみて。最後の夏休みには何も起こらなかったの。ね? つまりそんな事は起こらなかったのよ?  
 あ! あのとき借りた本を返してないから怒ってるんでしょう!! ほらほら、ちゃんと返しま〜す。染みは残ってませんよ〜」  
「……ちなまぐさい」  
「そんなことありません。この本は『そんな時間を』『経過して来なかった』『ことになっている』んですもの。  
 早く受け取らないとメリ込んじゃいますよ?」   
「………………」  
 なんだか小公女のように、古典的なヒロインとライバルの構図に見えて居たたまれなくなった俺は、長門の胸にグリグリと押しつけられている数冊の本に手を伸ばした。  
 サイズも厚さもバラバラな書籍は少し生暖かったが、長門の胸を埋まっていたからと思うよりも会話から漏れてくる猟奇的なものを連想させて背筋を震わせた。  
 落ち付け俺。どこにかはわからんが喜緑さんが持ち歩いていて温まっただけだ。  
 ……呪われてないだろうな?  
「俺が持ちますよ。俺達もジュースを買いに来ただけなので、そろそろ部室に戻らないといけませんし。  
 なぁ、長門。そろそろ戻ってもいい頃合だろう?」  
 受け取った本を長門に見せるように振ってやり、反対の手で髪の毛をそっと撫でてやった。  
 深い意味はないぞ。少し乱れていたからな。喜緑江美里恐るべしだ。どうした長門? 顎を逸らせて無理に喜緑さんを見下ろして。なんだか勝ち誇ったように見えなくも無いぞ。  
「そ、そうですね。わたしも会議に戻らないと行けませんし、わたしにも待ってる人がいますから!  
 ジュースを買いましょうか。買いましょうか長門さん。長門さんがジュースを」  
 怖いですよ喜緑さん。TFEIとか別にしても怖いです。しかも強請っているように見えます。  
「……なぜ?」  
 鼻先がくっつきそうなくらい顔を近づける喜緑さんに、長門は姿勢を崩さない。うん、ちょっと偉そうだ。  
 普段の態度からは想像もつかないくらい負けず嫌いだしな。知り合いというには少しばかり深い仲でも、理由もなく、しかも強要されて飲料を振舞うことはなさそうだ。  
 
 穏便にすませたい俺は、生徒会とSOS団の分を賄えるだけの金額が財布に残っていたかと軽い胸元を探ってみる。  
「どうしてでしょう? わたしが買うよりあなたが買った物の方が美味しくいただける気がしました」  
「それは詭弁。製造および輸送・保存の観点から誰が購入しても品質および味・量に変化がないのがこの販売保温機器の利点。強いてあげるなら、あなたが購入した際、鉄錆に似た風味が加味されることが懸念される」  
 おい古泉。まだなにを飲むか選んでいるのか? いいから呆っとしてないでお前の財布の中身と生徒会の人数を教えろ。今日の俺の所持金は、紙幣の末端に位置する紙切れがかろうじて一枚だ。  
「長門有希。わたし達は114時間12分前に表層情報域の同期によって情報交換を行いました」  
「……そう」  
「ひとつひとつのプログラムが甘かったですよ? 深層領域の擬似空間操作も秘匿情報封鎖も」  
「……?」  
「ですからわたしに気付かれたんです。進入して閲覧までしてしまいました」   
「!」  
 ここでニッコリの喜緑さん。肉食獣が獲物の喉笛を噛み千切った後の表情を観察すれば、見られるかもしれない満足げな満面の笑顔だな。あとは食べるだけだ。  
 知らない人がみたらファン急増、谷口ランキング急上昇間違いない。  
 長門が身体を震わせなければ俺も魅入られていたんだろうが、この先スマイルが俺のトラウマに追加された日には、どうやって古泉を付き合おうかと頭を悩ませるだけだった。  
「シークレットダイアリーとシミュレートライブラリーを少しだけ。  
 ふふっ。特にシミュレートライブラリーの発生状況C−13『有希、無音、部室にて。』!  
 これなんてもぉどうしましょう台詞の配置が少ないのにあんなに情感たっぷりでしかも長門さん自身が聖地だと感じている場所であんなあんな――」  
 そのとき長門の姿が消えた。  
 ひゅばっ! 風を切る音が聞えたかと思えば、チャリンッ・ガタコンッ・ガシャッ! と三つの音が重なるように同時に聞こえ、驚いて視線を向けた先では顎を支えて「ふむ、なるほど? もしかすると……」などと  
自販機との意思疎通に成功した古泉の髪が舞い上がっており、なにが起こっているのかと頬に両手を添えてクネクネしている喜緑さんの様子を伺えば、その脇に小さな缶を差し出した長門有希の姿があった。マジ一瞬だ。  
「……おすすめ。あなたは饗応をうけるべき。心の友」  
 どうやら和解の調印であるらしい、ささやかな缶飲料のおかげでここは穏便に済みそうだが……朝比奈さんの事を忘れてやいないだろうな? 俺はそろそろ部室に戻りたいんだが……。  
 
※  
 
 そして俺達四人は近くのベンチにたむろして、おのおの喉を潤すなり缶を玩ぶなりしていた。  
 急がないのかって? 喜緑さんがまだ話したいらしく長門を手放さないんだよ。  
 その喜緑さんは長門が差し出した缶飲料を受け取らなかった。  
 別に和平が成立しなかったわけじゃない。「ありがとう長門さん」と鷹揚に頷きながら手を伸ばしたからな。ただ途中で手を止めた、それだけさ。ちょっと好みの飲み物ではなかったらしい。いや、そもそも飲み物なんだろうか?  
 その後、長門が新たに投入した紙幣から幾つかのジュース類を購入し、二枚目のなかばまで至って満足したのか戦利品をベンチに並べて腰を下ろし、その一つを開封した喜緑さん。  
 彼女は、隣で内容物の吸引嚥下にいそしむ長門の髪を優しく撫でている。ここだけ見てれば、ちょっと毛色が違うが仲睦まじい姉妹に見えるんだがね。  
 長門の好意で古泉もご相伴にあずかり、続いて俺も100%果汁と、少し悩んでホットココアを選択した。ハルヒと朝比奈さんの分だ。  
 そこで半端な額となった残金が排出され、さすがに自分の分くらいはだすさと財布を取り出してる間に長門が素早く補充してくれた。  
「悪いな。ご馳走になるよ」  
 顔の前で拝む形で感謝の意を表そうとしていたのだが、その手は長門の指を押さえるのに使用した。  
「……オススメ」  
 すまん、今は冷たいものが欲しい気分なんだ。俺はコーヒーを選択した。  
 大手飲料メーカーのロゴのない自販機というのをご存知だろうか? 大手数社の商品を混在して販売したり、聞き覚えのない会社の見覚えのない商品を販売する際に使われるアレだ。  
 これには希に新規開発商品をテストケースとして陳列する場合もある。アンケートがあるわけでもないので、単純に一定期間内で売れるか残るかだけで判断されるらしい。  
 
 つまり何を説明したいのかと言うと、長門が金銭を投入し、選択を迫るランプが点灯しているのがその珍しい自販機であり、長門がオススメと称して喜緑さんに差し出して拒否され、 
同じく俺に饗しようとしたのが『あたたか〜い』の末席に、手書きでテスト品との札が添えられて鎮座している物体だったのだ。  
 青春に全体力を傾ける運動部員が、息も絶え絶えに水分補給の目的で手を出したらまず死ぬだろう……いやいや、そもそもホットは選ばないのかもしれない。  
 デザインも確定版ではないんだろうが、暗めの黄色地にブラウンのポップ体で『ス〜プ?』と大きく表記され、その右下部にターバンを巻いた明らかにインド人なデフォルメフェイスが張り付いていた。  
 俺の選んだコーヒーも見覚えのないデザインだったが、幸運なことに炭酸が発砲していたりしなかったので、既に空となって空き缶入れとの親交を深めている。  
 喜緑さんは時折長門の髪を撫でる手を休めては缶の底に手を添えて、長門はそれより頻繁に両手で缶を包み込むようにして、それぞれ容器を傾けている。なんだか満足そうだな。うまいのか、それ?  
「…………」  
 感想を聞こうと口を開くより先に長門の動きが止まった。  
 いくぶん哀しそうな瞳で飲み口を見つめているんだが、はて? 快速イーターにしては珍しく、少しずつ堪能しているようだから飲み干すには早いと思うんだが、どうしたんだ?  
「……ツブが詰まった」  
 ……なんだって? 粒々入りか! ライスでも入ってんのか!?  
「ジャガイモ……」  
 具入りかよっ!? サンマ缶の隣かレトルトコーナーで売っとけ!! 自販機に混入するな!!  
「ふふっ、可愛い盛りですよね。さっきのはちょっとした反抗期なのかもしれないですね」  
 四、五才児を愛でるオバチャンみたいなことを口にした喜緑さん。自販機から吐き出された不思議缶詰はスルーなんですね。  
 明らかに飲み口――この場合『食べ口』か?――より大きな具材を封入したらしい、知恵の輪みたいな缶食料と格闘する長門を、他意の無さそうな微笑を浮かべて見守っている。  
 そうしているとまるで善人ですよ。  
「否定はしませんけどね。それにしても、長門に教えたいことがあったんじゃないですか?」  
 まさか、形だけでも年長者に対する礼儀を教えに来たわけではないでしょう?  
「あらあら、そうでした。もうちょっとだけ待ってください。そろそろ……」  
 軽い音をたてて缶を脇に置くと、スカートのポケットから携帯電話をとりだして?  
 軽妙な電子音が鳴り響いた。すごいですね。予知ですか? もういいですか? なんで長門の肩に腕を回しているんですか? 右手のジュースがぬるくなって、左手のココアもぬるくなってきたんですが。  
「電話に出てもよろしいですね? いえ、そのまま動かないでください。そのまま!」   
 脅さなくても待ちますよ。  
 携帯電話といえば、遅くなればハルヒが呼びつけてくれるさと思い立ち、迅速に部室へ向かう事を放棄してみた。  
 トイレで着替えるとか言ってたしな。部屋で待っていても、少し遅れて到着しても、顔を合わせたときに気まずい事には変わりはない。  
「んっ、コホン。はい、喜緑です」  
『喜緑くん! 君は今どこをほっつき歩いているのかね!』  
「ええ、はい、みなさんに何か甘い飲み物でもと」  
『ああ! それは聞いたよ。確かに聞いた。だが何分前のことだったか思い出すのも困難なほど時間が経ってしまっている。  
 君は飲み物ひとつ購入するのにウィンドーショッピングが必要なのかね? 違うだろう?  
 私の知っている喜緑くんは優秀な人材だったと記憶してるのだが、優秀な人材はそもそも重要な会議を放って置かないだろうし、議題があといくつ残っているのか把握してくれているはずだ。  
 となると、君に対する認識を――』  
 いやぁ、すごい剣幕ですね。そろそろ戻った方がよろしいんじゃないかと思いますよ。  
 なにやら電話の相手は白皙の生徒会長みたいな口調で捲し立てている。声もどこかで聞いた気がするな?  
 どうでもいいですけど音量、高くないですか? 明らかに着信音より響き渡ってます。  
 喜緑さんも聞き苦しいんだろうか、携帯電話から耳を離して不快そうに眉をしかめて――    
「Shut a Fuck Up! Pochi!!」  
 喜緑さんが通話口に鋭く囁いたのを聞いて最初は例の呪文かと思った。宇宙人魔法使い的なアレだ。  
 なにしろ電話の相手のみならず、俺と古泉、非常糧食と格闘する長門まで凍り付いたからな。電話越しに心臓を潰す必殺技か?  
 
 余談になるが後日国木田から聞いた生きた英語豆知識によるとだ、[Fuck up!]単体だと「くそったれ!」とか「しくじった!」といった感嘆詞になり、同じ言葉でも状況を  
表す時は「ドラッグやアルコールをキメキメでベロベロ」となるらしい。[Shut a Fuck up!]だと「黙りやがれクソヤロー!」。テストには出ないから覚えないでね。でもファンキーにイこうよ! とのことだ。  
 さて、喜緑さんの電話の相手がケニー・マコーミック並の壮絶な死を遂げたのかと心配になりだした頃、雰囲気と声量を大いに違えた、それでも生存を知らせる声が携帯電話から漏れ出した。  
『――あ……喜緑くん?』  
「コホン。はい、喜緑です」  
『うん、いや…私が君に電話をかけたのだが……すまんが少し混乱してしまったようだ、今なにを話していたんだったかな? 記憶が曖昧になってしまってね』  
「今、ですか? 買い出しに時間をかけすぎて、あなたから叱責を…みんなの前だからってあんなにキツク言うなんて……ちょっと泣いちゃいそうです。わたし、役に立とうと……」  
 喜緑さん、音声だけならそれはそれは哀切な雰囲気を醸し出すんでしょうが、携帯電話のスピーカーをこちらに向けてチラチラ伺いながらわざとらしく洟を啜り上げても、俺にはどうして欲しいのかわかりませんよ。  
 そういえば部室で初めてお会いした時はそんな感じでしたね。  
『ま、待ちたまえ! こちらとしても悪意があったわけじゃあなくてだな、会議はどうでもいいんだがキミがちょっと遅いからアレしちまったっていうか、そんなつもりは無かったんだ、のだ。喜緑クン。  
 ただポーズってもんがあってな、話したはずだろ? エミリンだから話したんだ。お前にだけは隠し事をしたくなかったからな。  
 役職を被ってる間はそういうキャラを演じなきゃなんないが、こんな仮面を被ってる時に話すことなんて信じないでくれ。  
 今だって心配になって…それにお前が側にいてくれないと、その、落ち付かなくてな、不安になるんだ…それでつい……ごめんな』  
「ふふっ、可愛いこと言ってくれたから許してあげますっ。でも口調が崩れていますよ? カ・イ・チョッ♪」  
 どうりで聞き覚えのあると思ったら、そのまんま生徒会長だったのか。  
 あの生徒会長、演技とはいえ厳格な生徒代表、冷徹な生徒会筆頭のフリをそつなくこなすくらいだ、小悪党にも飽きて権益につられたんだと自嘲していたが、俺はえらい胆力と実行力をもつ才人なのかも知れんと感じていた。  
 大学の推薦枠と成績の改竄を望むくらいだから勉学の方はわからんが、それを別として才覚と意気は並の人間じゃないだろう。  
 その隠れた豪傑がこうもトロトロになるとは……恋愛の妙味に関心するべきなのか、悪女エミリンの手腕に戦慄するべきなのか、これは悩むところだな。  
 『うむ、それは大丈夫。休憩を宣言したらなぜか全員部屋から出て行っちまったからな。今は俺だけ……エミリンは、喜緑クンは大丈夫なのか?   
 ナントカいうフザケタ団体の、いけすかないニヤケ野郎に付きまとわれてたりしないか?  
 いや、冴えないトボケ野郎の方が気になるな。あいつがエミリンを見る目つきは自分を見てるようで気に食わん』  
 冴えないトボケ野郎が誰だかわからんが、俺が喜緑さんを見るときに感じるのは、外面に対するささやかな賞賛と内面を察する居心地の悪さ、そして圧倒的な力への恐怖なんだがね。  
「そんな事ありませんよ、一人です。男の子の嫉妬はカッコワルイですよ? ふふっ、でも嬉しい」  
 喜緑さんが囁いた鋭い口調の台詞も気になるな。聞き取れたから宇宙的な呪文じゃないみたいだが、何かのキーワードなんだろうか? ポチ?  
 ……あ〜、深く考えないほうが良いのかもな。どういうプレイに及んでいるか想像するには俺は幼いのかもしれん。バカップルに首を突っ込めるのはバカップルだけだ。  
『んん、ゴホン。すまない、君を信じているんだが羽虫どもは輝きに群がる習性があるものだからな。  
 それで喜緑くん、そろそろ戻ってきてくれるかね? エミリン成分が不足してきて落ち付かないのだが』  
 というわけで、俺はもうツッコんだりしないとたった今決断したので戻ってもいいですか?  
 まぁ、無理なんでしょうけどね。  
 脳が蕩けてしまわないように防衛策として気を逸らしておくかと、なんの気なしにベンチの隅に置いた数冊の本に目を向ける。  
 『エスキモー・初めてのソリ犬教育日誌(命令順位・絶対権威の確立)』  
 ふむ、日本の飼い犬を躾るには動物愛護団体が黙っていない内容が書かれていそうだな……。  
 この本を読んだことはないが、以前読んだソリ犬が題材になった漫画を思い出していた。  
 極寒の地ではエンジンさえも凍りつくらしく、代わりに運搬の役を担うのが犬ゾリだ。  
 
 数頭から数十等の犬たちに牽引させるんだが、移動中に犬達が反抗したり造反したりすると、人間と犬の区別なく絶望的な生命の危機に陥るらしい。過酷な環境で活動できる品種の犬達でも食料や水分を自力で確保できない場所だしな。  
 そんな事態を避けるべく犬たちの為にも心を鬼に、ヨチヨチ歩きの幼犬時代に暴力の限りを尽くして…命令に背かないように……恐怖を、刷り込む………?  
 『サブリミナル・インプリント〜反復記憶:深層意識からの支配〜』  
 『検証・吊り橋効果――逆転する愛欲と恐怖――』  
 …………。  
 バールのようなモノ…繰り返された夏休み……凄惨な血の惨劇………?  
 あなたはいったいなにをしたんですか? 喜緑さん……?  
 なにをしちゃったんですかっ!? なにやっちゃったんですかぁぁああっ!!   
「もおぉ、バカぁ…もうすぐ戻りますから大人しくしていてくださいねっ。  
 人が居ないからってニコチンに浮気したらダメなんですよ?」   
『重々承知しているよ。君の帰りを待ちわびておくとするから早々にな、喜緑くん。  
 ちなみに浮気したら、また私のシガレットをパッケージごと握り潰すのかね?』  
「今度はあなたのシガーを握りつぶします、なんて、ふふっ、いやですねっ! 何を言わせるんですか、もおぉ」  
『ゴホッゴホン! そ、その件についてはまた週末にでも、ふ、二人で協議を重ねるとしよう……それでは!』  
「肌も重ねちゃうんですね。もぉバカバカっ! 切りますからね!」  
 ホントにアノ人ったらぁ、などと小声で咆哮を発し、その禍々しくも短く整えられたピンクの爪を終話ボタンに突き立てた魔物は、耳にこびりつくピッという断末魔も消えやらぬうちに、その屍の生気の失われた液晶画面を長門に見せつけている。  
 逃げろ長門! その海藻類は体重を気にする女性達の心強い味方に擬態しているが、そいつは、そいつは……。  
「ふふん。どうですか?」  
「……べつに」  
 なるほど。長門はよく食べる方だが体重を気にしないからな。海産物に擬態した喜緑さんにも動じないらしい。  
 だが長門、その缶はゆするたびにドプドプと精神衛生上よろしくない音をたてるから、もう諦めて廃棄してくれないだろうか。『もったいないオバケ』になって枕元に現れたら、そのときはライスを炊いてもてなしてやればいい。  
「またまたぁ、羨ましいくせに」  
「……羨ましくないフガ」  
 確かにその携帯電話は小型で可愛いとは思いますが、目に入れても痛くない程ではないと思いますよ。ですから長門の顔にグイグイ押し付けるのは許してやって下さい。  
「有希ちゃんは素直じゃないんだから! ねえ? どう思いますか?」  
 ひぃっ! お、俺ですか? 俺は何も気付いてませんよ! 失礼な表現も考えてません! それに、その、  
「なんと言うか、すごく…サイコ、うなカップルですね……」  
 俺は生死を賭けたこの謎掛けに正解を答えたらしい。  
「いやぁだ〜もぉお! 正直に言われちゃうと照れるじゃないですか、やめてくーだーさーいー!」  
 この上級生が俺達を今まで拘束していたのは、なんの事はない、恋人との仲を見せ付けたかっただけらしい。  
 特にこの、真っ赤になったスフィンクスにクネクネガクガクと揺さぶられて、器用にも無表情のままで不機嫌さを表現している、妹のような、親戚のような、汎銀河的同僚である長門に。  
 
 なぁんてお気楽に考えてしまったのがまずかったんだろう。今回の騒動でもトップスリーに入る恐怖の衝動が俺に襲いかかったのはこの後だ。  
   
※  
 
 喜緑さんまでピンク色のハルヒウィルスに感染したのかもな、と単純に納得していたのは生徒会長との秘められたロマンスに意識を取られていたからだろう。  
 ご両人とも表層人格を偽って学園生活を過ごしているもんだから、身近な人間に惚気たくて暴走しただけ……だと信じたい。  
 俺の頭に浮かんでしまった怖い想像はあくまで想像に留まり、多分もうちょっとマシな状況で展開していたであろう事柄を伝達する際に、なんらかの齟齬が発生しただけなのさ。たぶん。そうであってくれ!  
 『バールのような物』だって多分俺の聞き間違いで、もしかしたら真珠のような物かもしれないし、バァルのような……いかん、それは古い神様だ。イスラエル辺りの。  
 ともかくだ、自分で自分を煽っていたほど喜緑さんに恐怖を抱いてはいなかった。ここまでは。  
「用件はこれで済みましたよね? そろそろ戻りますんで長門を――」  
 
 ハルヒに多少鍛えられているとはいえ、乱暴に揺さぶられては長門でも酔うかもしれないしな。フラフラする長門を見るのは図書館だけで充分だと、今だ捉えて離さない縛鎖のような喜緑さんから長門を開放するべく近付いて――  
「捕まえました」  
 気付いた時には俺の右腕は喜緑さんに、その喜緑さんの腕は長門にガッシリと掴まれていた。  
 え? なんで?  
「あなたは手を離すべき。喜緑江美里。説明を」  
 長門の表情が無表情を通り越して無機質な、透明感を湛えたものに変化していた。なんていえばいい?  
「いきなり臨戦体勢ですね、長門さん。  
このままでいいですから、まず今日の用件を聞いてください」  
「手を離すべき」  
「長門さんは今、説明も求めたでしょう? まず聞いてもらいます」  
 既視感を覚える微笑。ああ、これは喜緑さんの正体を初めて聞いたときに見た気がするな。  
 それと長門、なるほど臨戦体勢だが、まずは話を聞いてみようぜ。俺も背中に嫌な汗が浮かんでるんだが我慢するからさ。  
「落ち付け、長門。それで喜緑さん、会長との幸せな惚気話はだいたい聞かせてもらったと思うんですが」  
「いやですね。あれは仲の良い幼馴染の意地の張り合いみたいなものです。  
少し時間を稼ぎたかったので良い口実ができました」  
「僕達が少しばかり厄介な事態に陥っていると、『あなた』ならご理解いただけると思うのですが、それでもなお、今でなければならないお話ですか? つまり、今回の件になにか関与していると?」  
 自販機との対話は済んだのか。ちょっと頼もしいぞ。舌論を戦わせるのにはもってこいの人材といえる古泉だ。今度からは自販機よりましな相槌を打ってやるからな。  
 ただ、あまり想像したくないんだが、ここで喜緑さんと対立することになっても手は出さないでくれよ。スポーツ万能かつあやしい機関で謎の訓練を受けているかもしれないが、それでも相手は遠い銀河の戦闘民族だ。  
快活な委員長だと思ったらナイフ片手のスーパー通り魔に変身するような種族だからな。身のこなしを活かしてハルヒに泣き付きに行ってくれ。  
「関与というほどの事でもないんです。ニつほど用件がありまして。  
そのうち一つは先ほど終了したんですが、そのせいで用件が増えて三つになってしまいました」  
「それは、なんです? 先ほど申し上げたように僕達は少し立て込んでいましてね。できれば急いで様子を伺いに戻りたいのですが」  
 お前はさっきまで自販機と歓談にいそしんでいただろうが。  
「それについてはまだ大丈夫です。やっと朝比奈みくるが立ち上がれるところまで落ち付いて、涼宮ハルヒが着替えを掻き集めています。これから着替えに場所を移すのでしょう。  
 それで用件の方ですが、ひとつは朝比奈みくるについてです。長門さんの予測が外れた原因といってもいいですね」  
「それは非常に興味深いですね。長門さんの予測と言えばラプラスやマクスウェルの悪魔達もかくやといった精度ですから。  
 僕も今回の状況の逸脱には驚かされましたが、その原因をあなたが知っているのですね? そして教えていただける、と」  
 うちの長門はそんな物騒なもんじゃないぞ。ところでなんだ、アプラスって?  
「ああ、クレジット会社ではありません。物理学の想像上の存在でして、未来予測の――」  
「いや、今はいい。話を進めてくれ」  
 まだ喜緑さんに掴まれたままだしな。早く解放して欲しいんだ。  
 古泉、薀蓄を披露できなかったからってそんなに残念そうな顔をするな。ではのちほど? 後でも不用だ。  
「長門さんが予測を立てるのには不足していたんです。情報か、経験か、あるいはその両方が」  
「そんなことはない。朝比奈みくるとは接触する機会も多く、相手にとって不足はない。親しい友好関係を築いている」  
 そ、そうか? いや、そうだな、うん。でも、ちょっと表現が微妙だぞ。  
「朝比奈みくるは昨晩、帰属する時間平面との通信を行いました」  
「わたしも確認している。定期報告。喜緑江美里はしつこい」  
「情報データの交換を行っていましたが、その中には個人宛ての書簡データも含まれていました」  
「……プライベートには干渉しないほうがいいと判断した。喜緑江美里は悪趣味」  
「内容まではわたしのほうでもすべては把握していませんよ。  
 親しかった友人達からの、そうですね、お手紙みたいなものです」  
「…………?」  
 長門は斜めに首を傾げて沈黙してしまったが、俺にはちょっと理解できてしまった。なるほど……経験ね。  
 
 喜緑さんは付け足される暴言にも動じずに透明な微笑で長門を眺めていたが、その微笑を俺に向けられて少しばかり寒いものを感じていた。表情ではなく、その内容に。  
 朝比奈さんは未来人だ。これは疑う余地もない。任務としてこの時代に送られてきたんだが、もし完了した場合には何処に、いや、『いつ』に帰る?  
 一週間だけ過去に飛んで俺と――鶴屋さんと――過ごし、誘拐みたいな物騒な目にあった事件では、出発した数分後のロッカーに帰還した。だが数年間に及ぶ任務の果ての帰還なら?  
 派遣されていた期間の分だけ経験と成長を伴った彼女が、出発した時間平面のほんの数秒後に戻るとは考えにくい。  
 時間移動は過去現在未来に大きな影響を与えかねない。そう聞いているからな。未来に於いても時間移動は気安く出来る事柄じゃあないんだろう。  
 となれば、未来の就業年齢がいくつか知らないが、どこか遠くの任地についたことにするか、旅行なり引越しなりをしたことにして、帰還するのは彼女の変化が最小限の違和感に留められる、出発時期より未来になるんじゃないだろうか?   
 つまり、相対的に見れば朝比奈さんが居た時代では、ここで過ごしたのと同程度の時間が流れており、その実証になるのが友人からの手紙というわけだ。  
 距離では計れない、もっと遠いどこかから運ばれてきた手紙を読んで、親しかった友人の近況に触れたとき、朝比奈さんは何を感じたんだろうか……それは――。   
「……ホームシック、でしょうか」  
 同じ推測をしたんだろう。俺より早く結論に達した古泉がポツリと呟いた。それはまるで古泉が郷愁を感じてるかのような、哀切を含めた呟きだった。  
 こいつにもあるんだろうな。隔絶した時間という壁と、その向こうに帰っていく朝比奈さんを想像したことが……。胸の奥に広がる冷たい波紋を感じたことが……。  
「そう表現するのが妥当でしょうか。今日の朝比奈みくるの精神面にほんの少しだけゆらぎが発生していました」  
「…………」  
 瞳を俺に向けた長門の視線は「そうなの?」と問い掛けているように思えて、小さく頷いてやったんだが、複雑な構図で掴み合っている腕に視線を戻して黙り込んでしまった。  
 俺も偉そうに語るほどの別離を経験したことはないんだが、まあ、あんまり気にするなよ。その手の感情に疎いのは仕方ないのさ。  
 お前は今まさにその感情の礎となる思い出を積み重ねている真っ最中なんだからな。そのうち理解できるようになってしまうんだろう。たぶん、俺もな。  
「朝比奈さんの心理は、確かに平常ではいられなかったでしょう。  
 ですが、それがどのように作用したのですか? そのあたりが僕にはどうも……」  
「簡単なことですよ。人恋しさが、人肌恋しさに変容するのに理由は要りませんから、ね? ね?」  
 俺に聞かれても困りますよ。長門に聞かれてもたぶん同じです。  
「この情報及び分析の結果と、わたしなりの注釈を添えたものを長門さんに渡すのがひとつ。  
 そして、もうひとつ『だった』のが、長門さんの観察です」  
「どうもはぐらかされている感がいなめません。もうすこし説明いただきたいのですが。  
 それに彼を捕まえている理由もです。何か隠しておられるのでは?」  
「この用件が完了すれば、長門さんが正しく推考出来ると思いますよ。情報の欠落や、いくつかの要素に不備が重なっただけですから。  
 それと、捕まえている理由は簡単なんです。逃げられないように」  
 もし手を離されても、逃げ切れる自信はありませんよ。だからですね――  
「いえ、捕まえたのは長門さんです。あなたを置いては行かないでしょうから」  
 比喩ではなく、背中に浮かびだした嫌な汗が不快な感触を帯びてきた。  
 長門が逃げないように俺を押さえ込んで? 人質ってことか? くそっ、なんだかわからんが、長門、お前は喜緑さんから手を離して逃げる準備をしとけ。  
 いや、しっかりと掴みなおすんじゃなくてだな……無言のまま「まかせて」と頷くな。アイコンタクト失敗。。  
「外辺からの走査観測では情報が足りなかったので、接触観測に切り替えてみたんです。  
 それを分析する時間も、ちょっとだけ必要でした」  
 らしくないとは思ってたが、やたらベタベタしてたのはそのせいか……。  
 にしても、やり方がおかしかないですか? 別に対立しているわけでもないんでしょう。  
「長門さんが嫌がると思ったんですよ。拒否するんじゃないかなぁって。  
 ……そうそう、急いでいるんでしたね。用件を済ませましょうか」  
 背中の汗が、一塊に寄り集まって伝い落ちるのを感じた。  
 
 ついさっき、通話中に考えた喜緑さんに感じる恐怖。  
 正確には、大規模な情報操作を封印された長門を上回るだろう能力にではなく、長門の行動を監視してなおかつ生殺与奪権を握っている、その事実が耐えられないんだ。  
 生まれはどうでも俺達と一緒に騒乱に巻き込まれ、感情を育て始めたこいつが呪文一つで存在しなかったことになる。そんな恐怖。  
 そしてそれを阻むだけの力や手段が俺には殆ど無い。そんな絶望。  
 柔らかな外見に賛辞を送るのは、掴めない内心に尻ごみするのは、恐怖に対峙する勇気が持てずに勝手に偶像化した『温厚で柔和な喜緑さん』ってやつに縋ってるだけなのかもな。偶像のままでいてくれ、と。  
 だが、それでも今は言わせてくれ。  
「長門さんに許容値を超えたエラーの発生と蓄積を確認しました。この情報の伝達が、増えてしまった用件のひとつです」  
 嫌がることを人にしてはいけませんと教わらなかったのか? 宇宙の果ての親分さんに!  
 エラーエラーって簡単に――!  
「残るひとつは……もうおわかりですね?」  
 簡単に言うな!  
 それはな、長門が長門であるために必要なモノなんだよ! そんな言葉で――  
「情報統合思念体からの許可がでました。これで長門有希の許可は不用ですね。では、処理の――」  
 ――このっ!!  
 一瞬で全身が熱くなり、視界が狭くなったが気にならなかった。このとき俺は相手が喜緑さん――宇宙産『とっても・ふしぎで・えげつない・いんたぁふぇいす』だって事もすぱっと忘れていた。  
 忘れちまわないと動けなかっただろうからな。無慈悲に行動する時の彼女達の恐怖にすくんで。脇腹が疼きだしたが知ったことか!  
 
 掴まれていない左手でそいつを突き飛ばすと、そのまま長門を背中に庇い、急いで距離をとる。  
 解放された右手で威嚇するように指を突きつけると、俺は自分でも気付かずに怒声を投げつけていた。  
 
『――――!!』  
 
 

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