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 明けて火曜日。  
 何事も無く放課後であり、不運な割り当てで配分された区域の清掃活動を行う時間帯でもある。  
 掃除当番は一週間毎に交代制なんだが、俺は豪雪地帯で交通ライフラインの確保を命じられたフル稼働する除雪車の如く、全力で机の運搬と整頓を行っていた。  
 昨日は当番じゃなかったろうって? 簡単なことさ。ハルヒに押しつけられちまったんだよ。まあ、押しつけられたってのは正確じゃないけどな。  
 先週は俺が教室掃除の担当だったのだが、歯医者に行くことになった妹に泣き付かれて、初診だけ付添う約束をしていたのさ。それを理由に部活を休ませてくれと、HRの終礼とともにテイクオフ・スタンバイ・システムオールグリーンなハルヒに伝えたところ、「待たせたら可哀想じゃない!」と欠席の許可に加えて、掃除当番の代理まで名乗り出て気持ち良く送り出してくれた。  
 ウチの妹もハルヒにとっては既に準団員の頭数と数えられているのか、実に寛容なことだ。その度量の広さを俺にも示してくれたら……まあ、なにも言うまい。  
 歯科医院って所はいつ行っても恐怖が支配する特殊空間であり、毎日がエブリディの阿鼻叫喚の地獄絵図を展開しているわけだしな。頭一つ下げる分の感謝を支払い黙って妹孝行に励んだのさ。  
 そういうわけで、俺としてはそのときのツケを支払っているだけであり、断固として深い意味があるわけではないんだぞ。そこの女生徒諸君。クスクスしない。  
(なんだか掃除の仕方まで涼宮さんにソックリになってきたのね)  
(そういうところから似てくるものなのかしら)  
(4組の子が休日に、腕を組んだ二人が街を歩いてるの見たって〜)  
 まて! それは多分不思議探索であってだな、単に腕を引きずられていただけだと思うぞ。  
(でも、ひとつひとつの運搬があまいのね)  
(涼宮さんだと机運ぶ時三人に見えるものね)  
(しかもそのスピードで、机の中の物がコトリとも揺れないんだものねぇ)  
 どんな下り最速豆腐配達車だよ。それと今の会話はどれが阪中だろうな?   
 聞えないフリを決めこむ。ツッコミもしないぞ。  
 クラスの中での俺の立場は、ハルヒに付属――隷属でなければいいんだが……――してると認識されがちだが、それなりに溶け込んでると思う。  
 ではハルヒはといえば、阪中を筆頭に数人の女生徒と会話する姿もたまに見られ、苦手だと公言してはばからない谷口をスケープゴートに、希少な男子生徒と稀に意思疎通を成功させることもないではない。  
 腫れ物扱いというか安全装置の壊れた爆弾扱いは残るものの、ハルヒに向けられる視線は意外や意外、概ね好意的なものだった。ゴシップ好きが事件を期待してるだけかもしれないが、ハルヒも入学以来からいくらか成長してる……と信じたい。  
 掃除終了までの自己最短記録を叩き出し――最速ラップはチーム涼宮だろうな――手持ち無沙汰で廊下でダベっていたクラスメイトが入室するのと入れ違い、俺は挨拶もそこそこに教室を出た。  
 そこのカシマシ娘!  
 行ってらっしゃい言うな! 素早く教室に逃げ込むな! アハハなのね〜、は無理があるぞ!  
 阪中め! 代表で阪中めっ! お前の誕生日には無塩バターをプレゼントだ。意味深に目を逸らしながら進呈するからな。首とかいろいろ洗って待ってろよ。ルソーによろしく!  
 
 おっと、それどころじゃない。早いとこ部室に向かわないとな。  
 薄々でもいい、今の状況に危惧を抱いてくれるとありがたい。   
 ハルヒが飛び立ってから既に十分弱。  
 疑うことを知らない純真無垢な朝比奈さんは、律儀にも寄り道せず部室に向かうこと大であり、無自覚という無責任さと桃色ストレスを満載したハルヒ前で、なんの危機感も学習能力も発揮せずに、姫君専用メイド服へとお召し変えなさることだろう。  
 あなたの騎士がただいま参りますのでご自重を! なにとぞご自愛ください! 片眼鏡でハンカチを噛み締めながら、泣き崩れる執事姿の俺しか思い浮かばないのは何故だろうな。  
 
 俺の杞憂で済めばいいんだが、掃除当番の交代を申し渡して飛び出したハルヒの後姿目にした時、頭に角、背中に蝙蝠羽、ケツに尻尾が生えてる気がしてどうにも落ち着かないんだ。  
 長門の施した対抗措置も成果も気になる。昨日は、長門の噛み付きから開放されてからも放心を続ける朝比奈さんを介抱するのに気を取られていて、一体どんな効果を発揮するのか聞きそびれたからな。  
 久しぶりに鶴屋さんでも一緒に居てくれたら少しは安心……いや、嬉々として参加しそうだ。  
 『前門のハルヒ、後門の鶴屋さん』。付け足すなら、『鬼門にイエスマン』、『ナガモンに無口観察者』。  
 ……逃げて、朝比奈さん! 逃げてぇー!! 俺の脳内では既に最悪の状況が構築され始めていた。くそっ! 急がねば! 奴らの手に落ちるくらいならいっそこの手で!  
 油断するとNBAにスカウトされかねない華麗なステップで人の波をかいくぐり、トラベリングもなんのそのとスキーム音も高らかにセンターラインを突破した。まあ、簡単に言えば部室棟への渡り廊下に差し掛かったわけだ。  
「やあ、奇遇ですね」  
 偶然も重なれば必然らしいぜ? 若しくは故意だ。ここで捕まるのは何度目だと思う。  
 これっぱかしも悪いとは思わんが、すまん、今お前にかかわりあってる暇は無い。  
 片手を上げた挨拶だけでこいつの脇を通り抜けたのだが……俺は足を止めて振り返ってしまった。  
「古泉? ……お前は誰だ?」  
 古泉みたいな人物は、見覚えのある仕草で肩を竦めてくれた。ふむ。  
「これはまた随分ですね。哲学的な質問ですが僕は僕です、としか答えようがありません。  
 あなたの一番の親友を自認してるのですが、まだまだ精進が足りませんでしたか? 非常に残念です」  
「いやすまん。お前は古泉だ。その……大丈夫なのか?」  
「おや、気付かれてしまいましたか? 昨晩少し状況が動きましてね。その結果がこの有様です」  
 これ、と言って古泉は目元を指したが、それだけじゃないだろう。一晩でいったいどんな目に会えばそうなる?  
 髪はパサついてこけた頬に後れ毛がかかっている。かてて加えてそのクマだ。衰弱状態を記述する定型文的な表現だが、そのものズバリが目の前に居る。体も一回り細くなった気がするんだが……。  
 無駄な爽やかさが売りの好青年が、一夜にして病弱な深窓の御令息になっていれば、相手が古泉であっても心配せざるを得ない。  
 ひどい扱いだと思うか? これで咳きでもすればサナトリウム文学が一本書き上がるかもしれないぜ。つまり、やつれ果てていてもサマになってやがるのさ。同情も三割減だ。  
「……あとは総白髪でパーフェクトだな」  
「昨日、朝比奈さんの献身的な犠牲によって、状況が快方に向かうかと油断したところにズンッと来ましてね」  
 俺のアドバイスは無視か?   
「リバウンドか……」  
「その表現は実に…的確ですね。予想していたのですか?」  
「まあ長門がな。半端な解消法だと反動が出る……あー、可能性があったらしい」  
 言葉を濁しておく。俺が携帯で忠告することも出来たんだが、その後の騒動でちょっとな、失念していた。  
「教えてくだされば、大変ありがたかったのですが……」  
「お前が変なモノ見せるから混乱してたんだろうよ」  
「……それは、長門さんも女の子ですし……忘れてくれるといいんですが」  
 しょげ返った古泉に、永久保存どころか映像付で情報ナントカいう親玉に送信されて、全宇宙規模で絶賛配信中かもな、とは言わないでやった。  
「それで、大丈夫なのか? 体調の方は」  
「えぇ、まあ。なんといいますか……今日の状況は副次的な産物といいますか……」  
「うん?」  
「あなたとこのような会話をするのはもう少し後かと思っていたのでね、漠然とですが。  
 その、お恥ずかしい限りですが……」  
 えらく歯切れが悪いな。  
「涼宮さんのストレスに触発されたと言いましょうか、僕の、いわゆる僕自身のストレスを発散させれば、いくらか状況が軽減されるのではないかと愚考しましてね。その、処理を試みまして……いや、妙な話をして申し訳ありませんが……」  
 あー……それはまあ話しにくいな。この説明の付かないムズ痒さは我慢してやるから、そうモジモシするな。大っぴらにする話じゃないが、そこまで恥ずかしがらなくてもいいぞ。お前も男の子だしな。なんなら谷口秘蔵のDVDを回してやろうか?  
 
「それで、幸いといいますか、長門さんの言われるリバウンドが起こったのが宵の口でしたので、遅い晩餐を口実に何人か知人をあたりましてね。どうにか約束を取り付けたのですが、そこに大きな落とし穴がありました」  
 うん? 知人?   
 そういうのは一人で、家人が寝静まって、妹が乱入してこないような夜更けにだな……。  
「行為に集中するあまり、自分の欲求と例のストレスがごちゃ混ぜになってしまって、体は限界を感じているのに、頭の中の一部が要求するのをやめてくれない…  
…考えてみれば当然のことなんですが、涼宮さんの状況を改善しないことには消えない類の感覚だと、再認識したのはオールで朝を迎えてからでした」  
 もしかして、俺は手袋を投げつけられているのか?  
「彼女達には悪いことをしてしまったと後悔することしきりです。  
 満足はしてくれたようですが、今朝家を出る時も幾人か失神したまま眠っていましたし……残りの皆さんも足腰が立たないようでして……」  
 彼女『達』ときたか、古泉よ……。  
「……あ、いえ! 違いますよ! 機関とは何の関わり合いのない、れっきとした普通の女性たちです」  
 お前なんか干からびてしまえ! くそっ! 時間を無駄にさせやがって!  
 俺は、ベラボーな超絶倫人でもあることを暴露した、変態超能力者から身を離すように部室へと駆け出した。  
 古泉の裏切り者〜! などと涙が尾を引いたりはしなかったが、しみじみと思う。身近な人物から、こういった生々しい話を聴くのは、中々ショックもんだな。あぁ、古泉が遠い……。  
「待ってください」  
 待つか! そう答える前に俺の隣にはあっさりと古泉が並んでいた。  
「なにか起こったようです。おそらく部室でしょう。はっきりとは言えませんが……様子を伺ってきます」  
「わかるのか?」  
 質問に古泉は返事をしなかったが、俺に向き直ると首をすくめて自分のこめかみを人差し指でトントンとノックし、一足先に部室へと駆けていった。  
 『なんとなく』『わかってしまうんです』か。難儀な職業だな、超能力者ってやつも。  
 いや、俺も走ってはいるのだが、情けない事にぐんぐんと引き離されていく。古泉、お前はどんだけ精力的なんだよ。  
 
※  
 
「どうにも妙な雰囲気です……開けます!」  
 俺が部室の前に辿り付くと、壁に張り付いて中の様子を伺っていた古泉は、一つ頷いてドアを静かに開け放って三歩ほど後退した。  
 お前は入らないのか? 古泉の行動に疑問を覚えたが中の状況も気になるので、入室の順番を押し付け合うことはせずに部室へと半歩踏み入った。ノック無しで入室した際の罵倒を受けるのは、俺こそがふさわしいとでも言うのかね。  
 無難に挨拶でもと上げかけた右手が硬直したのは、まず目に入った長門の様子に気付いたからだ。いつもの指定席から立ち上がった直立不動の姿勢で固まっている。  
 普段から無駄な動作などしないこいつだが、いつもより僅かに開かれた瞳に、小さく開け放たれたままの唇までセットとなれば話は違う。  
 あの長門がだぞ、こんな風に驚く状況を一つだけ無理に挙げるなら、長門のパトロンである主流派の親玉が、初老の紳士姿で「やあ有紀、パパだよ。元気だったかい?」と目尻を下げながら姿を現したら、それはそれは今のように硬直するかもしれない。  
 いやそんな妄想よりもだ、長門の確立した無感動キャラの立場を脅かすモノとは一体なんだ?  
 長門の視線を辿り、視界に飛び込んできたのはいい年したおっさんなんかではやはりなく、ある意味想像どおりの光景だったのだが、それは違う意味では想像もしていなかった光景でもあった。  
 メイド服を装着した愛くるしい書記兼副々団長。  
 その背後から胸に両手を回して、不埒な狼藉を働いているのが自称神聖不可侵な団長。  
 これを日常の風景と認めるにはいささか抵抗があるが、まあ昨日も見た。以前にもそれなりに見た。  
 しかしハルヒのやつは無言であり、相手の様子を伺いながら困惑したような、あるいは混乱したような、らしくない面持ちである。手首と指先だけは謎の生物みたいに妖しく動いてはいたが。  
 そして被害者たるたわわな胸、いや違った、朝比奈さんなのだが……。  
 このような状況なら例外なく大きく身じろぎをして、『それはまるで聴く者全てを勇者に育て上げるような』そんな悲鳴を上げているはずなのに、声もなくただ焦点の定まらない瞳で床を眺めていた。  
 いや、声はあった。部室を満たしているノイズに掻き消されそうなほど微かな声が。  
「――んっ――ふっ―――んくっ―――んん―――」  
 
 その声がノイズに紛れる事は無かった。無かったんだ。なぜならそのノイズも等しく朝比奈さんの口から漏れているのだからな。辛うじて聞き取れる意味を成さない声の合間は、不規則に乱れる浅く短く荒い吐息に埋め尽されていた。  
 見える範囲の肌という肌が完全に紅潮し、加えて乱れた呼吸に虚ろな視線となれば、熱病にでも罹患したのだろうかと疑うところだが、団員思いのハルヒが病人相手に無理強いするわけもなく、  
逆に保健室を通り越して自宅まで――おそらく俺が命令されて――担いで運び込むと、過保護なくらい看病に没頭するだろうことは想像に難くない。  
 となると、ハルヒが手を出したのは常態だったからで、それゆえ朝比奈さんがこの状態になったのなら、それは……マズいんじゃないのか? なんというか、とても。  
 なんだ? なにが起こっている? 考えろ。思い出せ。昨日、そう昨日だ。  
 ハルヒは? 欲求不満? 無自覚だとしても、発散するためにやってるにしちゃあ、ちっとも楽しそうじゃないぞ。  
 朝比奈さんは? 「私が我慢すれば」? 確かに目の前の光景はそう見えなくもない。だがハルヒのためにもならないとの俺の説得に頷いてくれたはずだ。  
 長門は? 解決策の提案? 自分の処置と予測に自信に満ちていた。みたところ朝比奈さんの胸が狂暴な牙を備えて、冒険者たるハルヒの指に噛み付くことも無く、  
鶴屋さんの語尾よろしくにょろーんと延びて、征服者たるハルヒにビンタをかます様子も無い。見た目の変化はないと断言していたしな。  
 古泉は? ズボンの前に小人がビバーグ? テントの中は意気軒昂。今日の話だと盗人ではなく、超能力者猛々しいだな、体の一部が。そんなことはどうでもいい! 背後に古泉の気配を感じると発動する俺の防衛本能が、今はなにも知らせてこない。  
 古泉は何処に行った? なぜ部室に入ってこない? 「とめましょう」と言ってくれたら「そうだな」とすぐにでも朝比奈さんに駆け寄り、「様子を見ましょう」と言いやがったら「そんなわけにいくか」とすぐにでも朝比奈さんに駆け寄るというのに!  
 誰かがどこか違っていた、どころではない。誰もがどこか違っていた。すぐさま朝比奈さんを救助すべく行動を起こせなかった俺を含めて、な。  
 事態が動いたのはゴンッという部室の壁を叩いた音だった。  
 ドアの脇、廊下側から響いたそれは勿論俺がたてたわけじゃない。俺を含めた部室の中の四人が四人とも、身動き取れない状態だったからな。  
 先ほど古泉がドアを開けて身を下げたあたりか? なに考えてやがるこの裏切り者! 俺に銀貨三十枚の価値はないし、一度死んで生き返る特技も無いんだぞ!  
「!」  
 音に反応したのは長門。そちらを見ていなかったが息を飲む気配を感じた。  
 その気配をハルヒも感じたのだろう。怯えたように顔を上げると珍しいことに小さな声で問いかけてきた。  
「キョ――キョン?」  
 耳元で囁かれた声に、遅まきながら反応したのが朝比奈さんだ。  
「――え?――ふぇ―――あ?――――」  
 
 俺だけが停止した部室の中で――状況が――動き出す――――  
   
「――ひョンく、ん――」  
「キョン! これはキョン、これは!」  
 いえ、それはミクルです。  
 慌てだしたハルヒの手が止まったせいだろうか、朝比奈さんの瞳に精彩が戻ってくる。  
 それは、それこそ熱病の類じゃないのかと疑いたくなるような、熱く、潤んだ瞳だった。  
 
「――キョン、くん?――わた、し――?」  
「違うの! これは着替えがみくるちゃんに手伝ってアタシを!」  
 朝比奈さんの視線が俺を捕らえたのは短い時間。まるで幻でも見ているみたいに、形の良い眉を寄せ、またもや焦点のブレ始めた瞳は俺を透過するように、どこか遠く……はるか遠くを……。  
 
「―みて?――なん―――ちがっ、みないで?」  
「そう! 手伝っていたのよ! まだ終わってないんだから出て行きなさっ出てけっ!!」  
 声を出して落ち付いたのか普段の調子を取り戻しかけたハルヒ。俺の視線から朝比奈さんを遮ろうと、おそらく元凶であるはずの腕を暴漢からシークレットサービスへと転職させ、大きく巻きつけるようにその胸を抱き込んだ。  
 
「っい! ま――くる、きて、いや――きちゃう――」  
「み、みくるちゃん?」  
 大きく仰け反った小柄な天の御使いは、蜘蛛の巣に捕われた可憐な蝶を俺に想起させ、天井を眺めたまま小さく震え出した片翼の天使がどこかに羽ばたこうと――。  
 
 予感――ハルヒも感じ取ったんだろうな……気不味い逡巡と混乱。  
 それは確かに、どこかの高みへと至る転落の予兆だった。  
 
「こんな――の、イヤ――て、なんで?――こないで――キョンく――」  
「違うの! 違うんだってば! だってこんなの違うじゃない!?」  
 震えが全身へと広がり、徐々にその度合いを強めると、既に揺れる自分の足では立っていられないのだろう朝比奈さんは、ハルヒに寄りかかるように体を支えていた。  
 
 取り落とすまいと腕に力を込めたハルヒの顔が、既に痙攣としか表現できない震えを押さえつけようと、より強く抱き寄せた為に朝比奈さんの首筋に埋まり――、  
 振り払おうとしたのか、身を竦ませただけなのか、油の切れたブリキ人形みたいにカクカクと首を動かして、自分の胸を覆った腕に、朝比奈さんが、手を、添え、て――。   
 
「あ……」  
 
 誰の漏らした吐息なのか。  
 これが、傾いたジェンガに載せられる最後の積み木。こめかみに押し付けた拳銃の引き絞られたトリガー。絞首刑の十三階段を登り切った後の残酷な、最後の一歩だった。  
 
「ふぅあ、あぁぁ、はっ、ぁぁ ぁ あ あ あ あ あ っああ!」  
 
 絹を裂く、ではなく真綿で首を絞めるような、胸中をざわめかせる悲鳴とも嘆息ともつかない声を上げ、オーシャンブルーの青い海からスカイブルーの青い空へと羽ばたくトビウオの群れのように、  
 
 肌の色を艶やかな桜鯛へと変化させた、人魚姫こと朝比奈さんの肢体が大きく跳ねた――跳ね続けていた。  
 
※  
 
 俺達三人は中庭の片隅にある自販機コーナーへと重い足を運んでいた。  
 あぁ……なんて言えばいい?  
 嬌声をあげて、あられもない痴態を披露するハメになった朝……いやスマン。今のは忘れてくれ。  
 漁場を知らせるカモメのような鳴き声で、陸揚げされた白魚のようにピチピチと跳ねていた朝比奈さんが、どうにかナマ板の……まな板の鯉状態にまで落ち付いてから、それまで肢体を支えていたハルヒが、故郷の河川に鮭か鱒の稚魚を放流するかのような慎重さでもって、彼女を床に降ろしたのはどのくらい経ってからだろうか。よし。こんなもんか?  
「ごめん…みくるちゃん……こんなつもりじゃ…ごめんね……」  
 どこか虚ろな表情でへたり込んだ朝比奈さんの正面に廻り込み、抱き締めて小さな声で謝り続けるハルヒ。  
 無表情のまま、まばたきで涙を払い落とした朝比奈さんがかすかに微かに唸り、洟を啜り上げると、嗚咽から号泣へと変化するのにたいして時間はかからなかったと思う。  
 遅れに遅れて遅きに失した身体の自由を取り戻したのはこのときだったが、ゴールドラッシュの西部人並のやる気でもってしても掛ける言葉が見つからず、俺は一歩、ニ歩と前後左右にウロウロするばかりだった。  
 そんな俺のマヌケなタップダンスに気付いたんだろう、  
「あ! いっ、いつまで突っ立ってんのよバカキョン! 着替えさせるから――」  
「ひっ!? うぇ…うぇっく……うわあぁぁあん!!」  
 叫び出したハルヒの声に小さく悲鳴をあげる朝比奈さん。春の嵐のような号泣、再開。  
 俺の存在を思い出したのか、我らがSOS団のクリオネはその呼称に相応しいサイズになろうと、最大の原因でもある母性に目覚めたコウテイペンギンの陰に身を縮こまらせた。たぶん、そのまま消えてしまいたいんでしょうね……。  
「大丈夫だから、ね? 着替えるだけ……もぉヘンな事しない! 落ち付いたら、ここじゃアレだから、トイレで……着替えとか、ね。大丈夫……。  
 もお! なにやってんのよアホキョン!! なんか甘いジュースでも買ってきなさいよ! あたしが後でちゃんと払うから、とっとと出て行きなさいっ!!」  
 それでも部室に残していくのに躊躇して、ハルヒのらしくない瞳にまたもや硬直しかけていた俺を救ってくれたのは、右手に大きなガマグチを持ち、控えめにブレザーの袖を引いた長門だった。  
「外に」  
 ……確かに俺にできるのはそのくらいだろう。男が残ってたら朝比奈さんが耐えられないだろうしな。残る同性があいつだけっていうのは引っかかるが……。  
 だがな、ハルヒ。俺の鍛えられた読眼術はなにも長門専用って訳じゃない。  
 朝比奈さんの号泣に小声で織り込まれた、「バカ」とか「キライ」といったささやかな罵倒のたびに僅かに歪むお前の表情。虚勢で取り繕った俺を睨み上げる視線には、確かに一つの言葉が込められていたと思う。『たすけて』ってな。  
 
「ああ、ちょっと行ってくる。ハルヒ……ちゃんと謝っとくんだぞ?」  
 中学時代を一人で駆け抜けてきたお前が、そうまで拒絶に怯えるのはなぜだと思う? お前と朝比奈さんが、団長とその配下なんて味気ないカテゴライズじゃあなく、失いたくない、かけがえのない友人なのだとお前自身がわかっているのさ。  
 なら全力で謝り倒すしかない。そうすればきっと許してくれるさ。だからそんなに怖がるな。  
 そんな事しか思い付かない自分が歯がゆいし、相手の寛容さに付け込む様で気が引けるが、随分昔にバニーガールを強要して衆目の中に連れ出した時には、一日休んだだけで天の岩戸を開いてくれたわけで……。  
 ……今度のこれは、一週間くらいで済めばいいんだがな。  
 
「それで、これはいったいどういうことなんだ?」  
 部室棟の全容が視野に収まるくらい離れると、俺と並んで歩く小柄な方に話を振った。  
 さらに隣に古泉。こいつは俺達が部室を出ると廊下に寝転んでいたんで拾って来たわけなんだが、本気で大丈夫なのか? どうやら先程の壁を叩いた音は、ふらついて倒れ込んだ時に手を付き損ねて頭をぶつけたモノらしい。  
 仕方ないので肩を貸して助け起こしたんだが、昨日みたいに拒絶されるかと思いきや、素直に寄りかかり、立ち上がるまでじっと俺を見つめてやがった。お前の視線と息が熱い分だけ俺の背筋が寒くなるんだよ!  
 その場に残して行くわけにもいかず連行したんだが、古泉の方から長門を挟む形で距離を空けてくれたんでどうにか拳をおさめた。掌に爪の跡が残っていそうだ。  
「さぁ? 僕の方は半ば意識を失っていたのでなんとも。一体全体、部室ではなにが起こっていたんですか?」  
 言えるか! 今はお前に聴いてるわけじゃないしな。  
 いつにも増して無口になってしまった対有機体用――いや、今は気を落とした女の子だな。ハタ目にも解るかもしれない微妙なラインで悄然と肩を落としている。  
「……長門?」  
「……違う」  
 絶対的な信頼を置いている長門だが、今日はさすがに頷くだけでは終われないぜ。  
 朝比奈さんの腕に噛み付いたのはまだ昨日の事だ。あれが大きく関わっているのは間違い無いだろう? 責めるわけじゃないが、なにが違うのか説明してもらわないとな。  
「わたしの予測とは違う」  
 どうやったら穏便に切り出せるかと眉をしかめる前に長門が口火を切った。  
「前日に胸部への接触を中断された涼宮ハルヒが、近く同様の接触を謀ることを推察していた」  
 それは当たっているんじゃないのか?  
「障害となるあなたに清掃活動の代行を命じることも推察していた。  
 今日、もしくは明日に状況が発生し、あなたが部室に到着する前に収束する……それがわたしの予測」  
 それで、あぁ…効果維持時間、だったか? その時間が48時間だったわけだ。するとなにが長門の推理と違ったんだ?  
 俺が掃除を早めに済ませちまったから、予想外にその場面に立ち会ったってことなのか?  
 それにしたってあの様子だ。俺がノンビリ掃除に時間を割いたとしてもヘタリ込んだ朝比奈さんを目にしたろうから、やっぱり黙ってられない事態になったと思うんだが……。  
 ん? 待てよ、俺が部室に現れなかったらこうはならなかったのか? 部屋に入るまでは随分と静かだったはずだ。それが俺の存在にハルヒと朝比奈さんが気付いたからこそ、あんな……大騒ぎになったのか?  
 大親友の鶴屋さんを除外すれが、かなり親しい部類だと自認する俺は、枯れ木も山のニギヤカシとはいえれっきとした異性であることは間違いなく、ほんの数分ばかり到着を遅らせるなり、硬直せずに見なかったフリを決め込んでそっとドアを閉じていれば…  
…待て待て! 俺が掃除を手早く済ませ息せき切って駆けつけるのも折り込み済みだったろう。その俺が部室に踏み込んだとき、昨日あれだけ自信に満ちていた長門まで硬直してたんだぞ。  
 つまりその時点で長門も予想しない事態が既に発生していたのであって、その場面で俺が石化するのはごく自然な流れなはずだ。あの瞬間の部室の雰囲気ときたら、それこそメデューサもビックリな破壊力だったぜ。  
 そういえばメデューサは三姉妹だったか。SOS団の女性陣も三人だな。天上天下唯我独尊にして傲岸不遜たるハルヒ。穏やかにして抜群の癒し系朝比奈さん。情けないことに俺の最後の頼みの綱たる長門。  
 
 昔の神話っていうのは随分と曖昧なもんだが、俺の記憶だと「強い女−女王」のメデューサ、「広い海」のエウリュアレ、「力」のステンノ。うん、なんだか似てる気がしなくもない。  
 陰険なアテナに目をつけられるまでは三姉妹とも美貌を誇っていたらしいが、外見だけならウチのかしまし娘だってタメを張れるかもしれん。アテナとペルセウスは誰だろうな。  
 いや一番腹立たしいのはポセイドンか? 昔の神様は随分と色事を好んだようで、三姉妹全員と関係を持ったり持たなかったりと……えぇい! 忌々しい、あぁ忌々しい、羨ましい。俺の目が黒いうちはそんな無節操な輩に――  
「どうでしょう、最初から状況の整理を行ってみては? 僕が持ち込んだ件以外でも頭を悩ませる事件が起こったようですし、関連性もあるのかもしれません。  
 何が起こっているのかまだ理解出来ていないのですが、僕個人の感想を言わせていただければ、長門さんの予測を裏切る事態となると放置出来ない大事ではないかと。もしくはこれから大事に発展するのかもしれません」  
 おっと、現実逃避なのか思考の迷路に落ち込むところだった。しかも本筋と違う方面に大爆走だ。助かったぞ、古泉。こいつは昨日の出来事を知らないんだったか。今日は今日で暢気に廊下で昼寝してやがったし……礼は取り消しておこう。  
 しかし何が起こっているのか把握する必要はある。それも早急にだ。  
 部室の二人は落ち付ける時間が欲しいだろうが、それでもジュースひとつ買うのに下校時間までかけるわけにもいかず、部室に戻るまでになにがしかの方策を立てておかないとな。  
 ここで朝比奈さんが立ち直れずに部室に顔を出さなくなったらどうする? 朝比奈さんの欠けた部室なんてミルクの入ってないコーヒーみたいなもんだ。いやブラック派は今は関係無い。  
 反省は重要だが、自己嫌悪に塞ぎ込むハルヒに至ってはコーヒーの入ってないコーヒーだ。カップの中は空でした。エアコーヒー? バカ言うな。あいつはいつだって煮えたぎってればいいんだよ。  
 熱くても苦くても、文句を言いながら飲み干すのがSOS団流なんだろうさ。となればミルクは絶対必要だ。ミルク伝説だ。  
 SOS団のロゴ入りカップのもと、縁の下から支えるソーサー長門に、折衝する仲介役のスプーン古泉もな。いや最初の映画も今は関係無い。ソーサラー長門に、スプーンマッガーレ古泉じゃあないぞ。  
 ……消去法だと、俺が飲み込む役目を仰せつかるのか? だったらなおさらなんとかせねばなるまい。  
 飲み終えて最初につく吐息は、やはり充足感に満ちたものにしたいからな。  
 
※  
 
 事態を改善するにはこいつの意見も必要だろうと、相変わらず扱いづらい話題だが古泉にも説明することにした。  
 変態的な事件が起こらないよう紛糾する割に、いざ事が起こると原因やら経過やら結末の把握に一番熱心なのが古泉だ。  
 超能力者的なイベントには斜に構えた態度を崩さないくせに、時間遡行のような未来人的、あるいは未知の意識存在のような宇宙人的イベントには、夢見がちな少年みたいなきらっきらした雰囲気が、  
自慢のポーカーフェイスからはみ出していることに、本人は気付いているのかいないのか。まあ、説明魔の性分なのかもしれないが、今回の話題だとテカテカした谷口みたいな雰囲気だぜ?  
 長門のほうがより詳しく説明できるんだろうが、今は落胆もあらわにいつもの寡黙少女だ。  
 しかし……俺も説明できることは少ないな。  
 とりあえず長門が細工したパソコンの件は除外して、朝比奈さんの胸を生贄にすると逆に悪化しそうなので、それに対する防衛措置を長門が提案し、朝比奈さんの同意の上で実行した旨を説明、ああ、例の噛付きでな、と付け足してやった。  
「たぶんそれが関係してるとは思うんだが、今日の部室の有様は俺にはちょっと……説明が付かない」  
「…………」  
「長門さんの対策がどのような効果を発揮したのか気になりますが、現在が長門さんの予測を大きく逸脱している、そこが今回のポイントなんでしょうね。  
 いえ、これは失礼しました。まず最初に長門さんの予測からお聞きするところでしたね」  
 横入りしてすみませんと頭を下げる古泉。この辺はさすがだ。発言を渋る長門の三点リーダーを遮り、そこから論点をずらしてバトンを渡している。詐欺師の論理だな。  
「……わたしは」  
 何をしたかと問い詰められるよりも、どうしてしたかを尋ねられた方が長門としても有り難かったんだろうな。その証拠に、  
 
「――私は涼宮ハルヒの性格から、朝比奈みくる本人の絶対的な拒絶以外では、誰の制止であっても接触行為を阻害しないものと判断した。  
 しかし、朝比奈みくるがそのような言動および行動に至る精神的肉体的実行力は測定できず、古泉一樹の命運は春雷を伴った豪雨の中の風前の灯。  
 だが涼宮ハルヒの秘匿された性質の中から、状況の改善に効果をもたらす素養も見出していた。それが羞恥。  
 おそらく無意識下から発現する忌避的状況に抵触した、性的な意味を大きく内包した大仰な表現の発露が朝比奈みくるから発生することにより、行動を自粛し軽度のコミュニケーションに移行するものと思われた。  
 これは涼宮ハルヒの持つ概念的な同性間接触から逸脱した感想の想起を伴った違和感を発生させるのに加えて、ある特定の異性個人に不穏当な刺激を提供しかつ関心を強める事に対する恐怖およびそれを表層自意識で認知することを善しとしない心理的防壁によって選別選択された絶対的な禁忌として自発的抑止力を伴う楔となる……と予測した。  
 対応策を考察するにあたって、年齢的近似範囲内の普遍的な男性が好む参考文献の検索を実行・閲覧し統計的に妥当と思われる一つの記述に着目――」  
「待ってくれ――なんだかわからない」  
 証拠に、口を開いてくれたが――ちょっと待て。思わず手を伸ばして遮っちまった。これは止めるだろう? わかる奴がいたらここに来て説明してくれ。  
 あと息継ぎは忘れるな。明らかに吸い込んだ空気より排気量のが多いだろ。構造と燃料の違いか? ガソリンエンジンとジェットタービンだと各段に出力と燃費が違うらしいしな。回転数の微調整が利かないところまでそっくりか。  
「なるほど」  
 ここに解る奴がいたか。……別に拗ねてないぞ? 長門の通訳は俺の専売特許じゃないしな。ちぇっ。  
「つまり、あのような破天荒な涼宮さんでも、内面は古式ゆかしい清純な乙女ですから、自分の行動で身近で親しい朝比奈さんがあられもない――いや、破廉恥な?――  
――えぇと、はしたない……えっちな声なり反応を派手に見せ付けてくれるのに耐えられないだろう、と判断したわけですね?」  
 いろいろと言葉に詰まっていたようだが吹っ切れたか……さすがだ古泉。こいつも長門の自発的な行動を少し嬉しく感じているのかもな。結果はどうあれ。コクリと頷く少女を随分と優しい眼で眺めてやがる。  
「どんな参考文献かは置いておきましょう。ですがどんな記述を参考にされたのですか?」   
「……過度に発育した乳房は質量と表面積に比例して神経網が拡散、反比例して触覚器官としての反応を鈍らせる、との記述が多く見られた」  
「……大きければ感度が悪い、という記述ですか? それは……迷信です。  
 身体の大きな人でも針で刺されると痛がるでしょう? 恐竜くらい大きくなると別ですが」  
 どんなサイズだよ。  
「それは違う……恐竜は脳の容量と末端部からの距離から鈍感だと思われがち。しかし脊髄付近に小型の脳ともいえる昆虫のそれに似た神経節が配置され、痛覚による危機伝達に反射的行動を迅速に行っていたとの説もあり、これは――」  
「ああ! 話が逸れてしまいました。すみません! 恐竜も置いておきましょう」  
 さっきからの笑顔は変わらないのに、そつ無く軌道修正する古泉がなんだか……ちょっと怖いぞ?  
「それで、いったい、朝比奈さんに、どんな、処置を?」  
 詐欺師ではなく恫喝者だろう。微笑がそのままだけにえらい迫力だ。長門だってすっかり怯えて小さく――いやまあ普段の姿勢に無表情だが、明らかに目線をさまよわせて足もとの色付きレンガを数えてるじゃないか。  
「ちょっとだけ」  
 すこしばかり宥めた方がいいだろうかと古泉に腕を伸ばした俺が硬直したのは、珍しく指先で一センチくらいのなにかを摘むようなジェスチャーを添えた長門を見たからなのか、  
「皮膚触覚から作用する自律神経系反射中枢の感度を高めた。ちょっと……最大昂揚時の30倍」  
 この言葉に愕然としたからなのか、誰か判断してくれ。  
 男は余り自分の胸に関心が無いしなぁ……ある方が特殊だと信じたいし、それゆえどの程度の威力なのかさっぱりだが……それでも30倍はやりすぎだろ……激辛レトルトカレーじゃないんだからさ。  
「リミッターは設けていた……神経が焼き切れないように」  
「し、しかし、それでも朝比奈さんが乱れた声をあげない可能性もあったのでは? 快感に翻弄される女性たちが必ずしも嬌声を漏らすとは限りません。純真な青少年の夢を壊すようですが――」  
 
 一瞬だけ絶句した古泉だが、すぐさま復帰する。かなり語彙と表現が崩れてるぞ。大丈夫か?  
 あと『青少年で』こっちを見るな。忌々しい。  
「――無反応は自分の技巧の稚拙さと愛情の未熟を攻めるべきでしょう。ですが! 羞恥に指を噛んで声を押し殺す姿、これもまた風情です! 堪え切れずに溢れ出す熱を帯びた吐息に混ざるかすかな――」  
 な、に、を、語ってやがるこの破廉恥野郎!  
「大丈夫。わたしはそのタイプ」  
 な、長門!? お、俺はなにも聞いてないぞ。聞えない聞えない。おい、また話題がズレたぞしっかりしろ古泉ぃい!  
 あと『タイプ』でこっち見るな長門。ちいさく首を傾げるな。『どぉ?』じゃない。  
「――それはまさに朝露に濡れた熱帯雨林の草花のように、曙光に煌き艶やかな彩りと確かな熱気を孕んだねっとりとした一陣の――いけません。そうでした。相手を誘う七つの定理第五章反応編の講義も置いておきましょう。  
 問題は朝比奈さんでしたね。ええと……どうしましょう?」  
 話題に加わったらいつもの古泉に復帰したかと油断したが、こいつはもう駄目だろう。今のが焼き切れる前のフィラメント。燃え尽きる直前の蝋燭だ。豪雨の中の灯火らしいしな……。  
 誰か助けてくれ。ボケとツッコミとボケでは話が収束しないんだよ。  
「朝比奈みくるは」  
 よし長門! お前が頼みの綱だラプンツェル!  
「観測された全ての状況において通常の会話を上回る音量での発声を確認」  
 観測すんな! 気付いてもデータは破棄しろ!   
「音量比で122%。語彙表現ではわたしと比較して37倍もの語句を意識の昂揚に用いている」  
 丹念に飼育された鯉の泳ぐ池で拍手を打ったことがあるか?  
「居住地の防音設備を過信しているが、先々月隣室に越してきた濃密な蜜月を過ごす若夫婦の睦み事に、耳をそばだてる自分の姿を失念している。これは危惧すべき事態。いまそこにある危機」  
 それはもう悠然と泳ぎ寄っては、こう口をパクパクとな。俺の前に来てみろ? 夢に見るくらい教えて差し上げるぜ。  
「わたしと同様のインターフェースであるちみどろえみりからも、友人として助言を呈するよう進言されてはいるが、  
これは全宇宙規模で驚異的なコミュニケート能力を発揮し、親友と呼べる大切な仲間を獲得した私に対する嫉妬から発案された明らかな奸計であるとも判断でき、決断するのに暫くの情報収集を――」  
 いや待て! 待て長門! 話を広げるな敵を増やすな!! 北高ハイスクール赤裸々白書だけでもじゅうぶんマズいが、それはいろいろマズいだろ! 屋根より高いノボリになってる場合ではない。  
 俺の記憶に間違いが無ければ、ちまみれえみりさんはお前の監視者だったはずだ。  
 お前の能力が制限されるきっかけになったクリスマス直前の大ポカ以来、ささいなペケも見逃すまいと重箱の隅を突つくような、掃除直後の障子の枠をなぞる小姑ような、そんな監視に気も休まる暇も無いと愚痴を漏らしたのはお前じゃないか。  
 だったらもうちょっと声を押さえてだな、いや、地球の裏側とか冥王星の果てからでも感知しそうだが――  
 
「なにやら不穏当な発言が聞こえたんですが、気のせいですよね?」  
 
 ――感知したらしい。  
 いつのまに到着していたんだろう。目的地である中庭の自販機コーナーの陰から現れたのは、涼宮ハルヒの観察者にして暴走する長門有希の監視者。ちぬれのえみり――違った、喜緑江美里さんだった。  
 
 

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