緩やかな春風が走り抜け、心地よさを感じる放課後の帰り道。  
 立ち止まっていれば未だに寒さを感じるが、歩くに従って体がほんのりとした暖かさを  
帯びてくる。  
 虚ろな表情をしていた山肌も、徐々に命の息吹が萌えだし、今は梅の花が咲き誇ってい  
て、行き交う登下校の生徒達を楽しませている。  
 
 俺はその花を愛でながら歩いていたのだが、頭の中ではあらゆる思いが交錯し、周り  
の人間からは小難しい面をしているように見えたらしい。  
 
「キョン君、何考えていたの?」  
 俺の隣にいる女生徒が立ち止まって、いたずらっぽい表情でそう尋ねた。  
 今俺の考えていたことを言うわけにもいかず、口元を少し緩めただけで済ます。  
「なに、つまらないことさ」  
 俺はそう言って歩き出した。すると彼女もすぐさま隣に並んで歩き出す。  
 
 唐突だが、俺はある女生徒と付き合っていることになっている。言っておくが、俺が告  
白したわけでも彼女から告白してきたわけでもない。  
 ある深い理由があってだな、俺の本意でこういう仕儀になったわけではなく、まあ、不  
本意だというほどでもないのだが。  
 ええい、俺はいったい、誰に対して言い訳しているんだ?  
 とにかく事の発端から知ってもらうしかないな。  
 
 
 
 
「……あなたにお願いがある」  
 
 ある日の放課後、俺はいつもより早めにSOS団部室にやってきていた。すると、そこに  
は長門がすでに京都にある古刹の仏像のように鎮座しており、静かに本に目を落としてい  
たのだが、ふと顔を上げると、突然先ほどの台詞を淡々と紡ぎ出したのだ。  
 珍しいな長門、お前が頼み事なんて……。  
「いいぜ、お前にはさんざん世話になっているんだ。お金を貸して欲しいだとか、それと  
も勉強を教えて欲しいだとか、あるいは解剖させて欲しいなんてこと以外だったら、大抵  
のことは頼まれてやるぜ」  
「そのどれでもない」  
 だろうな、俺も冗談で言っているんだから。  
「それで、俺は何をすればいいんだ? お前の部屋の掃除か? それとも飯炊き、洗濯、  
薪割り、添い寝……最後のはともかく、まあ、とにかく何でも言ってくれ」  
 
「……添い寝」  
 俺はドキッとして長門を見つめ返す。  
「本気か?」  
「冗談」  
 お前が真顔で言うと、冗談に思えないんだよ……。  
 俺を見つめる長門の瞳は、業務用冷凍庫でサファイア並に硬く凍結されたマグロの目  
のようにひんやりとしていた。  
 そして、その潤いの感じられない瞳のままで、長門は俺に淡々と言った。  
 
「涼宮ハルヒの精神を不安定にして欲しい」  
 
「おい……どういう意味だ?」  
「言葉のまま」  
 ……おいおい、頼むぜ長門さん。それがわからないから聞き返しているんじゃないか。  
「おれにもわかるように、説明してくれないか。いったい俺に何をさせる気だ?」  
 すると、長門はそれには答えず、部屋のドアの先を見るように視線をそこ向けた。次の  
瞬間、ドアがゆっくりと開き、その拍子に外からひんやりとした空気が舞い込んできた。  
まだ3月を少し過ぎただけだから、部屋の内外の温度差を感じ、体をブルッと震わせる。  
「やあ、もうおいでになっていたんですか」  
 
 そんな声とともに、いい加減見飽きたニヤケ面の古泉が先に入り、我が麗しの天使、も  
しくは天照大神の化身とでも言おうか、俺にとってもはや信仰の対象である朝比奈さんが  
続いて入ってきた。  
「キョン君、すぐにお茶の用意をしますね。でも、今日は制服姿のままでごめんなさい」  
 いえいえ、あなたのお姿が拝見できるのであれば、俺はたとえ給食のおばさんのコスプ  
レでも、はたまた虚無僧姿でもいっこうにかまいません。もちろん、制服姿も大歓迎です。  
 朝比奈さんは「ふふっ、ありがとう」と言って、そそくさと給仕の準備に取りかかった。  
 
 古泉は、コートを脱いで一度伸びをするとパイプイスに腰を掛け、おもむろに  
「はて、なにかお話の最中だったのですか?」  
 と言い、改めて俺と長門の間で視線をループさせる。そして、古泉は長門に向き直り、  
糸目を少し開いた。  
「長門さん、ひょっとして例の件に関してですか?」   
 長門が数ミリの首肯。この微妙なサインは、俺をはじめとするSOS団の連中にしか判別  
できないだろう。まあ、自慢と言っていいね。  
 しかし、古泉は長門の俺への願いについて、すでに知っているんだろうか?  
 
「古泉、ひょっとしてお前は長門の言ったことを知っているのか?」  
「ええ、長門さんがどこまで話されたのか僕にはわかりませんが……ですが、あなたは承  
諾なさったのですね?」  
 そう言って古泉は、少しの憂鬱さと、わずかな冷やかしを帯びた目で俺を見る。  
「何のことだ? 俺はただ、ハルヒを不安定にして欲しいと言われただけだぜ。さっきか  
ら詳しい話を長門から聞き出そうとしていたんだが……お前が知っているのなら、代わり  
に説明してくれないか?」  
 説明をできることがそれほどうれしいのか、古泉は幾分表情を緩めた。そして、わかり  
ましたと言って、朝比奈さんから給仕されたお茶を口に含み喉を潤しおもむろに口を開く。  
 
「では、最初にあなたに伺いますが、最近誰かに狙われた、若しくは狙われたと感じたこ  
とがありますか?」  
 何を藪から棒に……。  
 やれやれ、お前がそんなことを言い出すから、思い出してしまったじゃないか。  
「思い出したくもないことだが、俺は以前朝倉に命を狙われたあの事件以降は、他の連中  
に狙われたこという記憶はないぜ」  
 古泉は予想通りという表情を浮かべ、幾分真剣さを増して言葉を続けた。  
「これは、長門さんからの情報で、恥ずかしながら我々も初めて知ったわけですが、実は  
あなたは急進派が放った刺客により、幾度となく命を狙われているのです」  
   
 ……何だって!?  
「それは、本当……か?」  
「……本当。あなたはこれまでに19回命を狙われている」  
 これは長門の弁だ。しかし、衝撃の事実に俺は言葉さえ出ない。なんてこった、長門の  
言うことがもしも真実なら、俺は一ヶ月に二度は命を狙われていることになるんじゃない  
のか……? これはまさに、知らぬが花だ。こんなことを知ってしまったら、おちおち寝  
られやしないぜ。いや、それより精神がおかしくなりそうだ。  
「驚いているようですね。実は、我々『機関』はあなたの身の安全を守ることも任務の  
一つなのですが、先述の通り、我々も長門さんに初めて知らされたという体たらくでし  
て……」  
 
 古泉はいつものスマイル顔はそこにはなく、こいつにはまるで似合わないしかめっつら  
が浮かび上がっている。  
「つまりですね……あなたは知らず知らずのうちに命を狙われ、そして全くあなたが知ら  
ない間に、長門さんをはじめとするTFEIに未然に阻止されていたわけです」  
 ……とんだサプライズだ。刺客から日々命を狙われるなんて、俺は時代劇の世界にでも  
迷い込んだのか? それなら返り討ちにしたいところだが、あいにくと俺の腕っ節はか  
らっきしでまるっきりだ。しかも相手は姿さえ見せない暗殺者ときた。もし長門たちが  
守ってくれなけりゃ、ただ座して死を待つより他はなかっただろうよ。  
 
 で、俺はいったいどうすればいいんだ?  
「ええ、その前に、この度のミッションにおいて、重要な鍵になる方をご紹介しましょ  
う」  
 鍵……だと?  
 古泉は視線を横に滑らせ、「お入り下さい」とドアの外へ声を掛けた。ドアが開くと、  
静寂を保っていた廊下から上履きのゴム底が擦れる音とともに一人の女生徒がゆっくり  
と立ち入った。  
 その姿を見て、俺は驚愕のあまり不意に目の前がブラックアウトしそうになった……。  
 
「キョン君、元気だった? あたし……今日この学校に転入してきたの。ふふ、クラスは  
別になっちゃうけど、今日からまたよろしくね」  
 
―――朝倉だ!  
 
 朝倉は俺達に、にこやかな優等生スマイルを見せると、視線を長門の方に向け、まるで  
目配せをするかのように一瞥した。しかし長門は朝倉を認識しているにもかかわらず、微  
動だにしない。まるで、どうでもいいといった様子だ。朝倉は長門の態度も予想通りと  
いったところなのか微笑を浮かべた。  
「おい古泉、お前は朝倉が鍵だと言ったな。どういうことだ、朝倉こそ俺を狙っていた刺  
客じゃないのか?」  
「あー、キョン君ひどーい。あたしはあのときとは違うわ。今の私は敵じゃないの。むし  
ろ味方だから……ねえ、信じて」  
 そんなこと、にわかに信じられるかよ。何せ俺はお前に殺されかけたことがあるんでね。  
 
「あなたが信じられないのも無理はありません。ですが、僕たち『機関』もかつての事件  
は把握しています。その結果朝倉さんが消滅されたこともね」  
 そこで、古泉はテーブルの上に置かれたままのすでに湯気の立たなくなった緑色の液体  
を流し込むと、さらに説明を続けた。  
「では話を元に戻して続けましょうか。朝倉さんは例の一件により消滅されました。そこ  
で急進派の直接的な干渉が一旦収まった。しかし、最近それが活発化してきたのです」  
 
 古泉の演説の途中だが、ふと気配を感じなくなって朝比奈さんに視線を向けると、彼女  
はうとうとしてテーブルに顔を伏していた。朝比奈さんの幼い寝顔はまさにまどろみの天  
使の姿そのもので、そのご尊顔には抗うことができない魅力にあふれていた。また、彼女  
のごく一部年不相応にふくよかな部位が、テーブルで押しつぶされてややひしゃげたよう  
になっているのも非常に魅惑的だ。このまま家に持ち帰って、神棚にでも飾りたいぜ。  
 
「他派の情報統合思念体にとって、あなたの命を狙うという、急進派のあまりに直接的す  
ぎる干渉は、迷惑以外の何者でもありません。なにせ、事と次第によっては涼宮さんが情  
報統合思念体を消滅せしめることさえあるのです。急進派の暴発は、彼らにとってまさに  
百害あって一利なし、なのです」  
 古泉はさらに続ける。  
「そこで他派の情報統合思念体は苦渋の決断をしたわけです」  
 なにをだ?  
 古泉はことさら神妙な面持ちで俺を見つめる。  
 
「急進派の排除を、です」  
 
 その『彼ら』に生み出されたTFEIである長門や朝倉はまんじりともせず、古泉の話を聞  
き続けていた。  
 
「しかしながら、彼らはいわば知性を伴った概念だけの存在とも言える立場で、彼ら自身  
に急進派を消し去る力はないのです。そこで、彼らは一計を案じました。彼らは朝倉さん  
の残滓をかき集め、急進派の影響力を極力排除した上で再構成し、復活させたのです」  
 なるほどな。だが、それが、お前の言うミッションとやらにどう関係があるんだ?  
「ええ、それをお話ししたいところですが、僕たちも実はそれ以上の詳しい話は長門さん  
から聞かされていませんし、教えていただけません……」  
 長門はまるで無表情だが、「それは禁則事項」とでも言いたげな瞳に見えなくもない。  
 
 古泉は実に残念そうなスマイル顔だ。それでもふっと息を吐いて続ける。  
「今わかっていることは、この度のミッションでは、僕たち『機関』と朝倉さん、そして  
長門さんをはじめとするTFEIの方々、それに涼宮さんが閉鎖空間を生み出すことが必要だ  
と言うことです」  
   
 古泉の長々とした、まるで親戚の法事にでも行ってお経を聞いているような気分にさせ  
る演説がようやく終了した。  
 俺は堪能した。というか、その長広舌に満腹した。これは、長門の無口と古泉の饒舌を  
足して2で割ったらちょうどいいんじゃないかと思ってしまうね。それでは、二人の特  
徴が消えてしまいそうな気がするが、それでもこの二人の存在自体が奇矯じみているから、  
多少はSOS団がまともになっていいんじゃないか?  
 
 しかし、古泉は看過できないことを言った。  
 
「ところで、お前はハルヒに閉鎖空間を作り出すことが必要だと言ったな? ……本気  
か? そんなことになれば、俺はともかく、お前達も苦労することになるんだぜ」  
 すると、古泉は苦笑を浮かべ、決して本意ではないといった様子だ。  
「ええ、それは我々『機関』も承知しています。ですが、これも必要条件とあれば致し方  
ありません。なにせあなたの命がかかっているのですから」  
 それを言われると、俺としては沈黙せざるを得ない。  
「そうか、納得はできないが、理解はした。それで最後の質問だが、俺は何をすればいい  
んだ? 何をさせるつもりだ?」  
 
「今も申し上げましたように、あなたには涼宮さんに閉鎖空間を生み出していただくため、  
彼女の感情をかき乱す行動を取っていただきたいのです。具体的に申し上げますと……」  
 するとそれを遮るように、長門が突如顔を上げ言った。  
「涼宮ハルヒがあと30秒ほどでここに来る」  
 長門、まるで予知能力者だな。いっそこれからはハルヒが問題を起こそうとするたびに  
それを予知してくれるとありがたい。もちろん逃げることは叶わないだろうが、心の準備  
ぐらいならできそうだ。  
 
 程なくして、イノシシか、それとも獲物を追いかけるライオンのように騒々しい音が階  
段を響かせ、空気を伝ってこの部室にまで轟いている。  
 そして、近づいてきた。  
「みんなー、おっくれてごっめーん!」  
 ハルヒはドアを開け放つと、まるでブルドーザーとTGVを掛け合わせたような勢いで突  
入した。しかし勢いは中々止まらず、団長席まで到達して、ようやく弾丸特急ハルヒ号は  
止まった。  
 今度、学校内の標語の募集に応募してやろうか、『気をつけろ、ハルヒは急に止まれな  
い』なんてな。意外と採用されるかもしれんぞ。なんせ、こいつは良くも悪くも有名人だ。  
 
 ハルヒは団長席にどっかと腰を落ち着けると、部屋に見慣れない人物がいることに気づ  
き、そして驚愕の声を上げる。  
「な、なんで!? あなた、朝倉さんじゃない。カナダへ行ったんじゃなかったの? ど  
うしてここにいるわけ?」  
 ハルヒは、落ち着いて座っていた朝倉に対して、まるで旅順要塞から日本兵をなぎ倒す  
ロシア軍の重機関銃のように、のべつまくなしに質問を浴びせかけた。  
 
 そこで古泉は朝倉をフォローするように、ハルヒに説明を行った。  
「朝倉さんはご両親の仕事が早く終わったということで、彼女だけ早めに帰国し、今日こ  
の学校に再び転入されたのです。ああ、それと彼女がここにいらっしゃるのは我がSOS団  
にご関心がおありだそうで」  
 聞いてみればどうと言うことはない理由だったのか、ハルヒは「ふーん、そう」と言っ  
て、さきほどまでのツチノコでも見つけたような好奇心もどこへやら、今はネットの  
チェックに勤しんでいる。  
 
 そういえば、朝比奈さんだが、彼女はさすがに今は目を覚まして、いそいそとハルヒに  
お茶の給仕を行っていたが、その対価だとばかりにハルヒのセクハラ行為を受けている。  
 お茶くみスキルレベル向上の報酬が、ハルヒのセクハラとあっては朝比奈さんも報わ  
れないだろうがな。  
 しばらくの間、ゆったりとした時間が流れていたのだが、それまで団長席の近くにイス  
を置いて座っていた朝倉は、イスを持って立ち上がると、俺の席まで近づき、  
「キョン君、ここいいかしら?」  
 と言うが早いか、俺の意志を聞くまでもなく、朝倉は俺の席の隣に自分のイスをピタリ  
と寄せて座ってしまった。  
 
「な、何をしているのあなたは!? キョン、あんたもデレッとしない!!」  
「し、してない!」  
 しかし、どういうことだ朝倉?  
「なあに、涼宮さん。あたしがキョン君と、くっついているのがそんなに気に入らない  
の?」  
 といって、さらに当てつけがましく俺にくっつき、ハルヒにわざとらしく視線を送る。  
「な、なんですってー? あたしはね、ただ、団員の風紀が乱れることを、団長として見  
過ごすことができないから、こんなことを言ってんの! だから、離れなさい!」  
 
 もはや、何を言っているかわからない。ハルヒ自身もそうだろうがな。しかし、風紀の  
ことをお前が言えた義理か? 学内でバニー姿を惜しげもなく披露するお前がな。  
 しかし、朝倉の攻勢はそれで収まらず、さらに追い打ちを駆けるようにとんでもないこ  
とを言い出した。  
「いやよ。あたしはキョン君と付き合っているの。だから、こうしていたっておかしなこ  
とはないでしょう?」  
「な、なんですって!?」  
「な、なんだってー!?」  
 二人の言葉が同時に部屋の中を駆けめぐる。  
 「ちょっとキョン、なんであんたまで驚いてんのよ?」  
 これは……だな、その……。  
 俺は必死に古泉にSOSのサインを送った。ううっ、朝比奈さんの視線が冷たいぜ。  
 
 すると、古泉は朝倉さんの言うとおりにして下さいと言うかのように、しきりに目配せ  
をする。  
 おい、いったいどうしろって言うんだ?  
「キョン、あんたが彼女と付き合ってるってのは本当なの? さあ、答えなさい。真正直  
にね!」  
 ここに至って、俺は古泉が言った承諾するという言葉の意図するところがようやくわ  
かった。つまり、  
 ―――俺が朝倉の恋人のふりをするということか。  
 
 それでハルヒが閉鎖空間作り出すのかどうかはわからないが、不機嫌になるのは今のハ  
ルヒの形相を見れば間違いはない。  
 つうか、この状況で俺が朝倉と付き合っているなんて言おうものなら……考えたくない  
な。殺気のこもった視線だけで射殺されそうだ。  
 結論、答えはノーだ。とてもじゃないが言えない。古泉や朝倉には悪いが、これだけは  
言えん。  
「キョン、どうしたの? 早く答えなさい!」  
 
 しかし、俺はあわててハルヒに返答しようとするのだが、なぜか体が動かない。口を動  
かすことさえできない。誰の仕業だ? って、考えるまでもないか……。朝倉、恨むぞ。  
「どうやら、答えられないようね。ということは本当なのかしら?」  
 ハルヒは、地獄の餓鬼でさえ逃げてしまいそうな視線で俺を睨め付ける。ああ、俺の人  
生はこれまでか?  
 もちろん、俺の意識の中では、頭を必死に左右にシェイクしているのだが、実際には身  
動き一つできていない。  
 しまいにはハルヒは俺から視線を水平に滑らせ、朝倉を見ると、俺へと再び戻し、  
「そう、わかったわ……キョン、あんた意外に手が早かったのね。朝倉が前に学校にいた  
期間なんてほんの少しだったのに……まさか、有希やみくるちゃんにまで手を出していた  
りはしないでしょうね?」  
 
 ハルヒのやつ、妙な誤解を始めやがった……。  
 だが、幸いにも……かろうじて首が動き、必死に否定。あまりに振りすぎて、首がもげ  
て飛んでいきそうなほどだ。  
 それでも、口は相変わらず動かすことができず、ハルヒの誤解を解くことさえできない。  
結局俺はなすすべなく、押し黙るしかなく、ハルヒは絶対零度の吹雪でも巻き起こしそう  
なほどの不機嫌さでしばらく団長席に座っていたが、急に立ち上がると、  
「あたし、帰る!」  
 と、ハルヒは大股で床に足型の穴が開きそうなほど力を込め、踏みしめながら立ち去っ  
た。  
 俺は去って行くハルヒの顔を見なかった。いや見られなかった。理由は俺にもわからな  
い……。  
 
 後に残された俺たち。静寂が部屋を包む。窓の外に視線を向けると、そろそろ部活終了  
の時間が訪れる頃合いで、窓から西日が赤く差し込み、部屋の色合いを複雑に変化させて  
いた。  
「おい、ずいぶんとやっかいなことをしてくれたじゃないか」  
 やっと声が出せた。体も動く。  
「そう? でも、これでよかったじゃない。むしろ好都合よね」  
 どこが好都合だ。  
「僕の憂鬱度は増していますがね。あの様子では、涼宮さんが閉鎖空間を生み出すのも時  
間の問題ですね。いやあ、さすがはといいましょうか、あなたの女性問題は涼宮さんに覿  
面の効果をもたらしますね」  
 大きなお世話だ。  
 
「そ、それでキョン君、本当に朝倉さんと付き合っているんですか?」  
 朝比奈さん、安心して下さい。これはお芝居です。まごう事なき演技です。  
 少しホッとしたような様子の朝比奈さん。嫉妬というわけじゃないんだろうが、それで  
も少しうれしいぜ。  
「さて、話も終わったことだし、キョン君、帰りましょうか?」  
 何をいきなり言い出すんだ? しかも、お前と一緒に……か?  
「そうよ。 だって、あたしたち付き合っているんでしょ? だったら、一緒に帰るのは  
当然じゃない」  
 
「そうは言ってもだな。今からじゃないとだめか? どうせなら明日からにしないか?」  
 このような状況になっても、しかし俺は煮え切らなかった。俺に何か心のわだかまりが  
あるのか? いや、きっと朝倉に対する警戒心の所為だな。俺はそう決めつけた。根拠は  
なかったが、俺はそう思おうとした。  
 俺は返答に窮して長門に視線を向けると、長門も俺を見つめ、わずかに首肯したように  
見えた。朝倉の言うとおりにしろと言うことか?  
 長門がそういう意見なら、やむをえない。それにこの作戦には俺の命もかかっている。  
なるようになれだ。  
「もう、キョン君。ほら行きましょ」  
 そう言うと、朝倉は躊躇していた俺の手を引いて部屋を出て行った。  
 
 
 
 部活動の時間が終了し、玄関は部活帰りの生徒達でにぎわっていた。  
 今は夕陽がかなり傾きを増し、日差しが運悪く視線に入ってしまう時間帯である。  
 そんな中、俺たちは学校中の注目を集めていた。  
 そりゃそうだろう。朝倉は転入生とはいえ、かなりの人間が彼女を記憶しており、しか  
も朝倉はクラスのアイドル的な存在だったのだ。その朝倉が俺の隣にいて、しかも俺の腕  
に自分の腕を絡めている姿を惜しげもなく披露しているのだ。注目を浴びないはずがない。  
 
 おそらく我が校の男どもにとって、俺の立場は羨望の的なんだろうが、俺にはとてもそ  
の連中に対して優越感を得ると言うことはない。それどころか、ただただ落ち着かない気  
分と、原因不明の罪悪感でいっぱいだ。肘に押しつけられているふくよかな感触を味わう  
余裕もなかった。  
 それでも、学校を後にするとさすがに周囲の嫉妬のこもった視線は落ち着いてきたが、  
隣に朝倉がいるという事実は変わりようがなく、俺としては何でこうなったのかと自問自  
答するしかなかった。  
 
 しばらく歩いていると、ふと朝倉が口を開いた。  
「キョン君、ちょっと聞いていい?」  
 なんだ?  
「涼宮さんのこと、どう思っているの?」  
 藪から棒に、なんつうことを言い出すんだ……。  
「ハルヒのやつは……そうだな、俺を自分の下僕だとばかりに思う存分振り回してくれる  
傍若無人な団長様だな。それ以上の感情は持ち合わせていねえよ」  
 
「へえ、そうなの……それにしてはキョン君、涼宮さんが部室を出て行った後のあなたの  
表情、とてもそれだけには思えなかったんだけど……。どうなのかしら?」  
「……」  
「答え難いことを聞いちゃったかしら……? でもいいわ、あたしの思ったとおりだった  
から、これ以上いじめないでおいてあげるわね」  
 そう言って、朝倉は少しいたずらっぽい表情で俺を見た。  
 
 この後のことはあまり憶えていない。よほど今後のことで思い悩んでいたか、それとも  
心ここにあらずと言った状態だったのだろう。朝倉にほとんど連行のような形で、家まで  
送り届けられたと言うことだけは、かすかに記憶に残っている。  
 
 まるでフルマラソンを全力疾走でゴールまで到達したような、疲労度マキシマムの激動  
の1日はこうして過ぎていった。しかし、この日のことは序章に過ぎなかったのだ。  
 
 
 翌朝が来た。いや、来てしまったと言うべきか……。  
 自然の理として、夜が過ぎれば朝が来るものなのだが、これほど望まない朝というのも  
中々経験しないものだ。俺はいつものように学校に登校していたが、足がまるで鉛入りの  
靴でも履いてしまったかのように、遅々として進まず、あわや遅刻かと言うところだった。  
 それでもなんとか教室にたどり着き、教室に滑り込むと、入った瞬間、谷口と国木田が  
蜜に群がるクロオオアリのごとく近づいてきた。  
 
 どうも今の俺という存在は、刺激に飢えた有象無象にとって格好の好餌だったらしく、  
どうやらクラスの男女問わず、かなりの連中が俺の動向を気にしているらしい。  
 無論、俺と朝倉が付き合っているということについてだろう。  
「ふう……」  
 俺は盛大に溜息を吐き出した。  
 俺がカバンをおいて、早くも疲労感を憶えながら席に着くと、谷口と国木田は、俺の席  
の周囲でイスを持ち寄り陣取った。ちなみにハルヒはいずこかへ放浪の旅に出ており、幸  
いにも後ろの席にはいない。  
 
「キョン、聞いたぜ。おまえ、朝倉涼子と付き合っているんだってな。昨日、仲良さそう  
に腕組んで帰ったそうじゃないか?」  
「それにしても、朝倉さんが日本に帰ってきたのも驚きだけど、その朝倉さんとキョンが  
付き合っているなんて、僕、想像もできないよ」  
 なんて情報の早い奴らだ……。まるで近所の家庭状況を余さず知り尽くしているゴシッ  
プ好きのオバサンだな。  
 
「でも、キョン、涼宮さんのことはどうするの?」  
 何でハルヒがそこに出てくるんだ?  
「そうだぜキョン、お前、涼宮を捨てて朝倉に乗り換えたって言うのか? まったく、罪  
作りなやつだぜ……」  
「だから、なんでそこにハルヒが出てくるんだ? 俺とハルヒは何でもないんだ。お前ら  
勘違いするなよな」  
 俺は言ってやったね。すると、谷口・国木田ともに沈黙したのはいいとして、突如とし  
て胃の中のものを全て吐き出したくなるような悪寒がした。会心の一撃を食らったはぐれ  
メタルのような、そんな感覚……なんだ……?  
 
「あら奇遇ねえ、キョン。あたしもそう思ってたところよ」  
 そこには引きつった笑みを浮かべ、俺を焼き殺さんばかりの闘気を、源泉掛け流しの温  
泉のように湧き出しているハルヒがいた。  
 なんてお約束な展開なんだ……。ラブコメマンガもびっくりだぜ。  
 恐れおののく俺を差し置いて、国木田が物怖じせずハルヒに尋ねた。  
「ねえ、涼宮さん。キョンと別れたっていうのは本当?」  
 どよめく教室。おい、みんな聞き耳立ててたのか……?  
 
 お前はなんと言うことを訊くんだ……。  
「ちょっ……何言ってんのよ? 別れるどころか、付き合ってさえいないわよ! 国木田、  
あんたエロキョンやアホの谷口と違って頭いいんだから、つまらない勘違いはしない方が  
いいわ。だいたい、考えても見なさい。あたしがキョンをそういった対象としてみるわけ  
ないでしょ?」  
 そのセリフ、そっくりそのままお前に返してやりたい。  
「へえ、恋愛対象としてみてないんだ?」  
「そうよ!」  
 
「じゃあ、キョンが朝倉さんと付き合うことはOKなのかな?」  
「……ぐっ、そ、それはダメよ。だって、男女交際は団則で禁止されているんだから……。  
あたしはどうだっていいんだけど、団則に違反しているんじゃしょうがないわよね」  
 そんな団則あったか? どう考えても初耳だ。  
「だって。キョン、どうするの?」  
 どうするったって……そこで俺に振るなよ。ハルヒだけでなくクラス中の注目を集めて  
いるこの状況で、何を言えというんだ?  
 もっとも、作戦上朝倉と付き合っていないというわけにもいかず、かといって付き合っ  
ているとわざわざ言う気にもなれず、どうコメントしたものかと呻吟し、俺の顔には汗が  
滲んだ……。  
 
 だが、幸いにも1ラウンド終了のゴング、もとい、HRを知らせるチャイムに救われた。  
 しかし、まるで不思議な踊りを見せられたように俺の精神力がかなり減ってしまい、今  
は自爆呪文しか唱えられそうにない。  
 
 
 
 日は変わってその数日後、放課後を迎え、俺がいつものようにSOS団アジトであるとこ  
ろの文芸部室に向かおうとしたところ、朝倉によって、拉致同然に教室から連れ去られた。  
 なんでも、ハルヒに対してより大きな影響を与えるため俺に自主的休養、つまりサボ  
タージュを強いたわけなのだ。しかもおまけに、ハルヒの目につくようにわざわざ部室棟  
下の中庭を朝倉に手を捕まれて連行され、衆目にさらす羽目になった。  
 ……おい、なんて罰ゲームだ? いったい俺が何をしたと言うんだ? これでは、ハル  
ヒがイライラを募らせる前に俺の神経がすり減ってしまって、今や極楽浄土から釈迦が垂  
らした蜘蛛の糸のように、すぐにでも切れてしまいそうだ。  
 
 しかもお約束と言おうか、ハルヒのやつはバッチリ逃さず、俺たちの姿を網膜に焼き付  
けて、さらに夢にまで出てきそうなほどの笑みをニヤリと浮かべた。  
 明日が思いやられる。  
 ……やれやれだ。  
 
 
 
 こうして、俺は護送されてゆく犯人のように、朝倉に連れられて帰路についた。これは  
もはや日常の行事になりつつあるようだ。  
 しかし俺という男は、ハルヒや朝倉のような強引きわまりない女に振り回される運命に  
あるんだろうか? そう自問せざるを得なかった。  
 
 その道すがら、朝倉は新しいクラスの様子や、学校での出来事などをさも楽しそうに俺  
に語り、同じTFEIでも長門の『静』に対して、朝倉は『動』なのであると俺にあらためて  
感じさせた。  
 ただ、俺は朝倉との日常にやや馴染んだ感があったが、仮初めとはいえこのまま付き合  
うにはわずかのためらいがあった。いや、ハルヒがどうということではなく、こいつが消  
滅前に見せていた優等生然とした姿が、世を忍ぶための演技と言っていいものであり、そ  
れが今のこの新生朝倉にも当てはまるのではないかと懸念しているのだ。そしてまた、朝  
倉が突然襲いかかるのではないか……と。  
 どうやら、俺は今もあの事件を引きずっているらしい。  
 
 そんなことを考えながらなおも下校路を歩いていたとき、突然朝倉に手を引かれて、通  
常の道を外れた。そして、  
「キョン君、ここで止まって。それと、動かないでね」  
 とささやき、俺が立ち止まったその刹那、目の前を『何か』が通過した。そして、  
 
「ドガッ! バキバキ!!」  
 
 見ると、電柱が袈裟斬りに切断され、音を立てて倒れつつあった……が、次の瞬間、電  
柱の残骸は消え去り、同時に空間が歪んだ。  
 ほどなくして、今俺の目の前に映っている映像が住宅街ではなく、宇宙の果てさえ感じ  
させるような無味無臭で、広大な空間が広がった。  
 これは、紛れもなく俺が朝倉に殺されそうになったとき、その場を支配していた空間だ。  
 俺の脳裏にはあのときの記憶がよみがえり、それとともに戦慄した。  
 
 しかし、今攻撃を仕掛けてきたのは朝倉ではないことは明白で、その朝倉は攻撃を仕掛  
けてきたと覚しき方向に目を向けている。  
 すると何かに気づいたのか、朝倉は高速呪文を唱え、それと同時のタイミングで再び何  
かが走った。しかし俺は避けることもできず、ただ腕を交差させ、顔を守ることしかでき  
なかった。  
 だが、『何か』は俺の直前で、まるで壁にガラスのコップを投げつけたかのように弾か  
れ地面へ落下した。どうやら、朝倉が防御障壁かなんかで俺を守ってくれたらしい。  
 
「そろそろ姿を見せてもいいんじゃない?」  
 朝倉がその方向に向かって言葉を投げかけると、一瞬その空間に輪郭がぼやけた姿が映  
り、徐々にはっきりと人の形をなしていった。  
 姿を見せたのは、長門や朝倉と同じく一見どこにでもいそうな少女だ。ただ、瞳には焦  
点が定まらないような虚ろさが漂っており、長門達とは違い、俺を殺す目的で生み出され  
た、ただの戦闘人形という印象だ。  
 ―――こいつが例の刺客か……?  
 
 俺は姿を現した刺客に慄然とし、まるで救いを求めるように朝倉に視線を向けると、彼  
女は俺を安心させるように微笑み、向きを変えて、刺客の少女を見据えて言った。  
「時が違えば、あなたもあたしの仲間だったのかもしれないけど……ごめんね」  
 朝倉は申し訳なさそうにそう言うと、手を挙げた。  
 次の瞬間、俺を狙ったその少女の四方八方に無数のナイフが現れ、朝倉が手を振り下ろ  
すと同時にナイフが彼女を襲った。  
 
 そして少女は、悲鳴を上げることもなく消滅した。  
 
 まもなく空間は消え去り、俺たちは元の住宅街で佇んでいた。  
 あまりのことに力が抜け、俺はその場にヘナヘナとしゃがみ込みそうになったが、朝倉  
の前であるのでかろうじて耐えきった。  
「キョン君、無事よね? ……これが長門さんが言ってた例の刺客よ」  
 ああ、わかっていたよ。しかし、これだけ急進派狙われているとなると、俺は今後天寿  
を全うできるのか? どうも、そこに疑問を感じるよ。  
 
 そんな俺の嘆きを感じ取ったのか、朝倉はことさら優しげな笑みを浮かべ、俺に言った。  
「大丈夫よ。あたし達がキョン君を守るから」  
 ありがとよ。しかし、俺は朝倉に対する認識を改めねばならないな。  
 もちろん、これだけで朝倉を全面的に信頼するというわけにもいかないが、少なくとも  
俺は今朝倉を信じてみようと思った。  
 
 その夜古泉から電話があり、ハルヒのエネルギーが最大限にまで蓄積され、暴発が間近  
いことを知った。そろそろ総仕上げの時期だとも、古泉はかなり疲れを感じさせる口調で  
言った。  
 やっと、終わりか……。  
 わずか1週間ほどしか経過していないが、俺には1年にも感じられる精神修養の期間  
だった。   
 ただ、朝倉との恋人ごっこがこれで終わりかと思うと、多少惜しい思ったことは否定  
できない。誰にも言えないが……。  
 
 
 
 翌日、俺は登校したが、教室でハルヒと顔を合わせてしまうと、昨日の件に関して鬼  
刑事も真っ青の取り調べが行われるに違いないと考え、だとすればそれをさけるべく、  
朝は時間ギリギリで教室に飛び込み、授業が終わるたびに教室を飛び出し、といったよ  
うにここは三十六計が示すとおり逃げ通した。  
 見てくれ。この涙ぐましい努力を……そこ、決してヘタレとは言わないように。  
 しかし、俺はこのまま逃げ通してやろうと考えていたのだが、やはり問屋は卸してく  
れず、HRの終了と同時に、まるでUFOキャッチャーのツメに掴まれる出来損ないのアニ  
メキャラのぬいぐるみのようにハルヒに首根っこを引っ掴まれ、そのまま部室まで引き  
ずられていった。  
 
 まるで市へ売られていく子牛のように助けを求める俺の視線にも、谷口・国木田はも  
ちろんのこと、クラスの連中も応えてくれることはなかった……。  
 それにしても、今のこいつのパワーならば、足場さえあれば日本列島をもう少し南に  
引っ張ることも出来るんじゃないだろうか……? それより、その有り余る莫大なエネ  
ルギーを発電にでも使ってもらえりゃ、さぞかし環境対策になるだろうよ。  
 しかし、俺を引きずっている間ハルヒは一言も発さず、それでもラスボスの大魔王で  
も復活したような、恐怖感満点の空気だけはひしひしと伝わってきた。  
 ……つうか、俺は今日、生き延びることが出来るのか? 獄門台は勘弁だぜ。  
 
 そして、しばらくハルヒに引きずられ部室に到着した。  
 これから執り行われる軍法会議か、はたまた公開処刑のことに思いをいたすと、別段  
寒くもないのに、ヒマラヤの頂上にでも登ったかと思えるような震えが無性に起こり、  
空飛ぶ雲でも呼んで、そのまま飛び去ってしまいたい気分だった。  
「さあ、ついたわ」  
 ハルヒは部室の中に俺を引きずり込むと、団長席の前で立たせて皆の前で尋問を始め  
た。  
 しかし、そこになぜか喜緑さんがおり、彼女は俺に向けて微笑を浮かべた。だが、疑  
問に思った俺が長門に視線を移すと、長門はわずかに首肯したように見えた。  
 
 喜緑さんがここにいるということは、例のミッションとやらが大詰めを迎えているとい  
うのか……?  
 俺はこの部屋に横溢する切迫した空気を受け、先ほどとはまるで質の違う緊張感を感じ  
ていた。  
 だが、そういった雰囲気をまるで感じ取ることのないハルヒが俺を糾弾すべく、おもむ  
ろに口を開いた。どうやら、喜緑さんのことはまったく視界に入っちゃいない。  
「キョン、あたしが言いたいことはわかっているわよね? 昨日は活動をサボった上に、  
朝倉と腕まで組んで……なんていやらしい。このエロキョン! これは、間違いなく打ち  
首獄門ものよ! でも、一応弁明の機会を与えてあげるから、言いたいことがあったら  
言ってみなさい」  
 
 
 言いたいこと……ね。そりゃあ、もちろんあるさ。だが、本当は朝倉とは付き合ってい  
ない、とか、なぜお前がそんなに怒っているのか、などとは言うわけにはいかないし、  
言ったところで、さらにハルヒの怒りをさらに買うことになるだろうな。  
 だが、俺がまるで口を開かないことを見て取ると、さきほどまで笑みを浮かべていたハ  
ルヒの顔が徐々に怒りを帯びたものに変化していった。女面から般若面にメタモルフォー  
ゼするような、そんな感じだ。  
「ちょっと、キョン。何か言いなさいよ。このままじゃ、あんた罰ゲームをやってもらう  
ことになるわよ」  
   
 ハルヒはいったい、俺に何を言わせたいのだろうか……? しかし、どうせ弁明しよう  
がしまいが、俺にその罰ゲームとやらをさせるつもりだろう? それなら、つまらないこ  
とを言うよりは、沈黙を保つほうが得策だ。  
 しかしハルヒはなおも執拗に返答を迫る。  
 おい、長門、俺はいったいどうしたらいいんだ? そろそろお前の出番だろう。  
 しかし、長門は本に目を落としたまま、こちらを見ようともしない。  
 
「どうして何も言わないの? ひょっとして、あたし達に言えないようなことを朝倉と  
してたんじゃないでしょうね?」  
 おいおい、なんだその飛躍し過ぎて成層圏へ達してしまったような誤解は……?  
 そもそもお前は俺の弁明というか、言い訳を聞きたかったんじゃないのか?  
 それなのに、お前の論点は地震間際の太平洋プレートほどにずれまくっているぞ。  
 
「涼宮さん、そろそろキョン君へのヤキモチを焼くのはやめてくれない?」  
 そんな火に油を注ぐ発言とともにこの部室に入ってきたのは、朝倉だった。  
 これで、俺の知っているTFEIがそろい踏みしたわけか……。  
「なっ、誰がヤキモチよ!? あんた、勝手なことを言わないでよね! あたしがエロキ  
ョンなんかに焼くわけないでしょ? いい? そもそも、恋愛感情なんてのはね……」  
 すると、ハルヒのいつもの口上を途中で遮るように朝倉が口を挟んだ。  
「涼宮さん、そんな言い訳しようとしても、今のあなたの剣幕では説得力ないわよ」  
 
 一触即発のこの状況に、俺はどうしていいかわからず、救いを求めるように周りを見て  
みたが、朝比奈さんはすっかりおびえきってしまっているし、長門はまるで態度を崩さず、  
古泉や喜緑さんと言うと、内心はともかく表面上はほほえみを絶やさず二人のやりとりを  
見つめている。だが、誰も助けてくれそうにない。  
「言い訳じゃないわよ! あたしがアホでロリなエロキョンに恋愛感情を抱くわけがない  
でしょ!」  
 今どさくさに紛れて、不名誉な称号を色々と付け加えてくれやがったな……。  
 
「それなら涼宮さん、あたしが彼に何をしても怒らないのね?  
「何をしてもって、何をするつもりよ?」  
 すると、朝倉は俺に視線を滑らせ、そして、  
「キョン君、ごめんね」  
 朝倉はそう言うと、俺の肩を押さえ、顔を近づけてきた……。  
 俺は声を出すことも、それを拒絶することもできずに戸惑っていると、朝倉のつややか  
な唇はさらに近づいてきた。  
 そして、俺の唇に柔らかな感触が広がった……。  
「…………!!」  
 何が起こっているんだ? 俺の頭は混乱の極みにあった。  
 そして、ようやく理解した。  
 ―――俺は朝倉にキスされているのか?  
 
「なっ……!!」  
「ふぁ……!」  
 ハルヒや朝比奈さん達が息を呑み、驚愕の表情を見せる。あまりのおどろきのためか、  
まだ、何も考えられないようだ。  
「あ、あんたたち……な、なにしてんの!!」  
 しばらくして我に返ったハルヒが、臨界を迎えたウラン235に匹敵する核分裂さなが  
らの怒濤のような怒りを俺たちにぶつけてきた。  
 
 いかん、こいつ……とうとうキレちまったか? どうやら、朝倉が核のボタンを押して  
しまったようだ。  
 誰か、第三師団に出動要請してくれ。それからキティホークもだ。それとも、ICBMが必  
要か?   
 ……いや、すまん。俺が一番動揺していたようだ……忘れてくれ。  
 ハルヒの尋常でない様子を見た朝倉は、俺から体を離し、つかつかとハルヒに近づいた。  
すると朝倉は、何を思ったかハルヒに顔を近づけた……。  
「むっ……!?」  
 
 ハルヒは呻き声を上げ、しかし今まで怒っていたことさえも忘れるほどに、自分の置か  
れている状況が理解できない様子だ。まあ、無理もないが……。  
 俺は目を疑ったね。なんつーか、まるでロケットが太陽系の外へ離脱したような、未知  
の領域に踏み込んでしまった印象だ。  
 つまり……だな、朝倉の唇がハルヒの唇に合わさって、いわゆる女同士のキスをしてい  
るのだ。  
 朝比奈さんは「ほぇ……」と声にならない声を上げて、真っ赤になってその行為を見つ  
めている。  
 俺たちはどうしていいかわからない、そういった空気のなかで、蝋で塗り固められたよ  
うにしてただただそれを眺めていた。  
 
 しかし、ほどなく俺は我に返り、何やら妙な空気を感じ、ふと後ろを振り返ってぎょっ  
とした。というのも、長門と喜緑さんが高速呪文を唱えているのだ。それに朝倉の表情が  
なにやら苦しそうだ   
 いったい、何が起こっているんだ?  
「始まったようですね」  
 そう言って古泉がこちらに近づき、いつになく真剣そうな表情を浮かべて視線を俺に向  
けた。  
「どういうことだ。お前は知っているのか?」  
「いえ、あくまでも僕の予想だったのですが、どうやらビンゴのようです」  
 
 そして古泉は突拍子もないことを言い出した。  
「今回のミッションの要点は、前にも言ったように、涼宮さんの力を利用することにあり  
ます。おそらく今、涼宮さんの力を借りることによって、朝倉さんとのつながりをたどっ  
て情報統合思念体急進派を引きずり出しているのでしょう。そして……ここからは多少想  
像が飛躍してしまいますが、引きずり出した急進派を、涼宮さんが生み出す神人と一体化  
させるのだと思います。そこで、生み出された神人を僕たち『機関』の超能力者が攻撃し、  
思念体もろとも神人を葬り去れば、めでたく終了というわけです」  
 それが、朝倉が復活した理由であり、先ほどから朝倉が行っている一連の行為だという  
ことか?  
 
 しかし、あきれたね。もしそれが本当なら、統合思念体というものはなんという壮大と  
言うか、それとも回りくどいことを考えるんだ? その回りくどさは、まるで、隣の家に  
行くのに反対方向から地球を一周して行くようなもんだ。  
 そんなことを考えるぐらいなら、俺たちを巻き込まずに彼らだけでケリをつけて欲しい  
もんだ。  
 すると、古泉は何かを感じ取ったように動きを止め、こう言った。  
「……閉鎖空間の発生を感知しました……どうやら成功したようです」  
 
 古泉は成功だと言っているが、これからさらにやっかいなことになるんだから、どちら  
とも言えないな。  
 俺はハルヒたちの様子を窺うように、視線をハルヒたちがいる方向へと移してみると、  
ハルヒは全ての力を使い果たしたのか気を失っている。だが、どうやら規則正しく胸が上  
下しているようで、無事らしい。  
 
「では、我々も参りましょうか」  
 古泉は、まるでひげを蓄えた副将軍とやらが、お供の者に声を掛けるように言った。  
 そして、ハルヒを仮設ベッドで寝かせた後、俺たちは古泉に先導され、閉鎖空間が発生  
した場所へと向かった。  
 しかし、俺と朝比奈さんが行く必要があるのか? できれば俺は遠慮したいところだ。  
 それとも、狙われた当人としては、事の顛末を見届けるべきなのか?  
 ともあれ、俺たちは現地に到着した。  
 
 そこは俺たちがよく知っている場所、北口駅前だ。  
 それにしても、閉鎖空間の発生場所は一定しないな。ある時は大都市であったり、また  
あるときは学校と、まさに気まぐれなハルヒの性格から出たチョイスだ。どうせなら、北  
の某国にでも発生させてくれないか? それならむしろ世界平和に貢献するってもんだぜ。  
 
 先導していた古泉は駅前の公園で立ち止まり、すぐさま長門達に視線を向けて目配せし  
た。すると、長門と喜緑さんの口が素早く動き、一瞬目の前が真っ暗になった。  
 次の瞬間、あの仄暗く生命の営みを感じさせない無機質そのもののような空間の中に俺  
たちはいた。  
 そこには俺にとって3度目になるのか、『神人』と呼ばれる青白い巨人が存在し、彼が  
無邪気に腕を振り回すたび、人という知的生命体の作り出した構造物がいともたやすく残  
骸と化した。  
 
 そのすさまじいばかりの破壊劇は、この国を代表する怪獣映画を見ているようなもので、  
まるで現実感のない映像だった。まるで、俺がこの場にいることさえ映画のようだ。  
 ただ、神人の動きには知性は感じられず、情報統合思念体は一体化しているというより  
も、神人に取り込まれ、その本来の能力を神人という枠の中に閉じこめられているといっ  
た印象だ。  
 だが、俺がぼんやりと神人の遊戯を見つめている間に、光り輝く球体と化した古泉をは  
じめとする『機関』の能力者達が飛び立ち、神人に対して攻撃を加えていた。  
 しかしながら、神人は彼らの攻撃に対してまるでダメージを受けていないようで、そ  
の破壊活動は全く衰えない。  
 
 ……まずい。これはどうやら、情報統合思念体主流派達の計算違いだ。以前俺が目撃し  
た時は、古泉達があっさりと退治を完了していたのだが、今回はまるで歯が立たない。  
 もしや神人の中に、統合情報思念体が存在しているせいで、はるかに強力になっている  
のか? そうだとすれば打つ手がないじゃないか……。  
 しばらくすると、光と化していた古泉が力なく戻ってきた。人の姿に戻ると、地面に手  
をついて荒く息をしている。かなり疲労が激しいようで、しばらくは戦闘できそうにない。  
 
「大丈夫か、古泉!」  
「はい……申し訳ありません。少し、いえ……かなり予想外でしたね。我々の攻撃が全く  
通じない、こんなことは初めてです。おそらく、情報統合思念体があの中に存在している  
ことせいで、神人が強化されてしまったのでしょう……重ね重ね申し訳ありませんが、  
我々『機関』の能力者は、しばらくは戦えそうにありません」  
 ああ、しばらく休んでくれ。  
 だが、誰が相手をする? それともここは長門に攻撃してもらうしかないか?  
「それは不可能」  
 なぜだ?  
 
「われわれは、統合情報思念体を攻撃するようにできていない」  
 そうなのか? だが、もし、あえてその意志を示したとするとどうなる?  
「わからない……」  
 長門は珍しく歯切れが悪く、困惑したような表情を一瞬浮かべた。  
「あたしもできないの。ごめんなさい、キョン君」  
 朝倉はそう言い、見ると喜緑さんまでもが首を横に振っている。  
 ただ、朝倉の場合は元の創造主が相手だからさもありなんだが、長門でも無理とはな。  
 これは、どうやら長門やその他のTFEIにもロボット三原則に相当するものがあるらしい。  
だから攻撃することができないということか。  
 
 だったら、どうすればいいんだ……? このままでは、急進派を葬るどころか、まさし  
く世界の崩壊だ。  
 ……まてよ?  
 俺はあることに思いが至り、長門の元へと駆け寄りそれを提案した。  
「……やってみる」  
 そう言うと、長門は朝比奈さんの元へ歩み寄り、おびえている彼女を無視して、白魚の  
ような二の腕に噛み付いた。  
「ひぁっ!」  
 朝比奈さんは小さな悲鳴を上げ、目を白黒させている。  
 
 もうおわかりだろう。かつて映画の撮影時にハルヒによって発現した朝比奈さんの能力、  
『ミクルビーム』だ。しかしそれは、長門によって無効化されていたのだが、打つべき手  
がなく一か八かの策として、再び朝比奈さんにその能力が復活した。長門が封印を解除し  
たのだ。  
「いいですか、朝比奈さんよく聞いて下さい。あなたに今、『ミクルビーム』を撃つ力が  
復活しました。それを使ってあの神人を攻撃して下さい」  
 しかし、朝比奈さんはかぶりを振り、異を唱えた。  
「だ、だめです! キョン君、未来の人間であるあたしが、過去で歴史を大きく変えてし  
まいかねない事に関わることはできないの」  
 
「しかし、このままではあなたのいる過去が、そして、あなたが本来いるはずの未来も消  
滅しかねないんです。ですから朝比奈さん、お願いします。もう、あなたしか頼る人はい  
ないんです」  
「で、でもぉ……」  
 そんな時であった。  
「ドドッ、ゴァッ……!!」  
俺が朝比奈さんを説得している間も神人は破壊行為を止めず、破片の一部が俺たちの頭  
上を襲った。幸い、朝倉と長門の防御障壁によってかろうじて難を逃れた俺たちだが、も  
はや一刻の猶予もなさそうだ。  
「大丈夫? キョン君」  
 
「ああ、すまん……ありがとう朝倉、助かったよ」  
 朝倉に謝意を伝えると、朝倉は俺の無事な姿に安心したようににっこり微笑んだ。  
 すかさず俺は再び朝比奈さんを見据え、説得を続けた。  
 しかし、朝比奈さんは依然として首を縦に振らない。意外に頑固だな……だが、やむを  
えん、ここは緊急事態だ。奥の手を使わせてもらう。  
「しょうがないですね……朝比奈さん、もし協力してもらえないなら、ハルヒにあなたの  
正体をバラします」  
 
 それを聞くと、朝比奈さんはあからさまに動揺し、頬を紅潮させながら上目遣いで恨め  
しそうに俺を睨んだ。  
 朝比奈さんのこんな表情も、たまにはいいな。  
「うぅ、キョン君、卑怯ですぅ……」  
 すみません、朝比奈さん。これも輝ける美しい未来のためです。  
 幸いにも、どうやら俺の真摯な説得(脅迫とも言う)によって、朝比奈さんは快諾  
(?)してくれたようだ。  
 
 時間がもったいないので、俺はすぐさま朝比奈さんの隣りに立ち、関羽に策を授ける孔  
明のごとく攻撃目標を指し示す。  
「朝比奈さん、あれです。あの青白い巨体を攻撃して下さい!」  
 俺の要請を受け、朝比奈さんはあたふたしながらも、まるで教師に指名された小学生の  
ように背筋を伸ばし、だが緊張感の感じられないポーズで攻撃態勢を取った。  
「はいぃ、みっ、ミクルビーム!!」  
 朝比奈さんは、左手をまるでフレミングの法則を表す指の形のようにして目の前にかざ  
し、言葉を放った。  
 すると、朝比奈さんの瞳が一瞬ピカリと光り、光の軌跡を追う間もなく、次の瞬間には  
神人の肩に小さな丸い穴が空き、その向こうが見通せた。  
 
 朝比奈さんの攻撃を受け、神人はやや動揺したようにその巨体が揺らめいている。  
 だが、朝比奈さんの攻撃は確実に効いているものの、相手があの巨体では一撃で葬るこ  
ともできず、このままではただ朝比奈さんをいたずらに消耗させるだけになってしまいそ  
うだ。  
 今のところ朝比奈さんは、まだ疲れを見せてはいないが、かといって油断もできない。  
 すると、長門が近づき、俺にこう言った。  
「先刻、朝比奈みくるの中に潜む涼宮ハルヒの因子の効果を増幅させる処置を講じてお  
いた。そろそろその効果が発揮される。そうなれば、彼女の攻撃力は数倍に跳ね上がる」  
 長門は液体ヘリウムの冷たさがら、液体窒素程度には暖まったような瞳で俺を見つめて  
いた。そして、さらに続ける。  
 
「ただし、その分エネルギーをより多く消耗する」  
「何発も撃てないと言うことか……それで、必殺技は『ミクルビーム』のままでいいの  
か?」  
「どれでもいい。選択権はあなたに委ねる」  
 と言って、いくつかの技を羅列する長門。その中には、鳥形に変形して敵に突撃する技  
や、胸からミサイルが出る技など、妙にマニアックなものもあり、俺にはこの無表情の宇  
宙人の嗜好がよくわからなくなった。だが、まあいい。  
「わかった、俺が決めてやる」  
 俺は躊躇することなく朝比奈さんを手招きすると、彼女は飼い主にまとわりつく子犬の  
ように、小走りでやってきた。 そして俺は、朝比奈さんに彼女が解き放つべき言葉とそ  
の動きを伝えた。  
 朝比奈さんはやや戸惑いながらも俺の伝えた言葉を復唱し、改めて神人に向き直った。  
 
 だが、それに気づいた神人は狙いを俺たちに絞り、辺りの建物を破壊することでその破  
片を俺たちにぶつけようとしていた。  
 しかし、長門と朝倉、そして喜緑さんのフォローにより、その攻撃は頭上で全て弾かれ  
一片たりとも落ちてこない。それでも急がねばならない。  
 
 俺はそこらに転がっていた棒っきれを拾い上げ、それを手渡すと、朝比奈さんは棒を振  
り上げ、天井を突くようにして一度止めた。すぐさま必殺技を発動させるトリガーである  
技の名を叫びながら、中華包丁で叩っ切るような仕草で振り下ろした。  
 
「い、行きますよ、神人さん……ミクル・ダイナミック!」  
 
 朝比奈さんの一閃とともに、巨大な光の刃が神人を目指して上昇し、それは神人の左腕  
を音も立てずに切断すると、彼方へと飛び去った。  
 
 残念ながら、神人に狙われた朝比奈さんが動揺したため狙いを外してしまい、惜しくも  
左腕一本のみを奪ったに過ぎなかったが、俺は確信した。  
 ―――勝てる。  
「朝比奈さん、どうやら勝てそうです! この調子でお願いします」  
「は……はひぃ、が、がんばりましゅ」  
 しかし、朝比奈さんは一発しか必殺技を放っていないにもかかわらず、すでに呂律が回  
らない状態で、表情には疲労の色が濃く消耗が激しい。今も肩で息をしている……おそ  
らく、必殺技を撃つことが出来たとしてあと一度か……?  
 
 これは、長門が言った通り、朝比奈さんに寄生するハルヒ因子の力を増幅させた必殺技  
では、朝比奈さんにとっては負担が大きすぎるようだ。しかし、ということは神人を倒す  
条件がまるで変わってしまうことになる。  
 つまり、あと一発で仕留めなけらばならないのだ。もちろん、長門や朝倉のような常人  
を遙かに超越した能力を持つ宇宙人なら問題はないが、なにせ運動能力に関してはまるで  
期待できない朝比奈さんなのだ。しかも相手は動く攻撃目標の神人ときたもんだ。  
 
 どうする? どうやれば神人を足止めできるんだ?  
 だが、悠長に策を弄している暇はなかった。神人は俺たちを直接踏みつぶすため、なり  
ふり構わず辺りを破壊し尽くしながらやって来た。  
 しかも、左腕を失った影響はごく軽微で、その動きに変化はまるでなく、障害物などま  
るであってないがごとくであり、かえって俺たちの行く手を遮り、逃走路に難渋しそう  
だった。  
「キョ、キョン君、どうしましょう?」  
「ひとまず逃げましょう、朝比奈さん」  
 
 俺は、やもすればしゃがみ込んでおびえそうになる朝比奈さんの手を引いて、駆けだし  
た。もちろん、今も長門達のフォローは期待できるが、統合思念体と同化した神人の攻撃  
力は尋常ではなく、朝倉、長門、喜緑さんの3人をもってしても、神人自身の直接攻撃に  
どこまで持ちこたえられるかは未知数だ。  
 また、さきほど体力を幾分か回復した古泉達が再び飛び立ち、神人に対して必死に攻  
撃を行っているが、やはり効果はない。  
 
 そういった古泉達の攻撃や長門達の足止めなど、今の神人にとってはうるさいハエが飛  
んでいる程度にしか認識しておらず、それらを全て黙殺し、ひたすら朝比奈さんだけを  
追い求めている。  
 だが、いよいよ逃げ切る場所がなくなり、閉鎖空間の見えない壁に阻まれてしまった。  
 おまけに朝比奈さんが瓦礫に躓いて転んでしまい、万事休すだ。  
「いたぃ、ですぅ」  
 俺は何とか朝比奈さんを抱き起こし、とりあえず抱きかかえようとしたが、そのとき神  
人が俺たちを踏みつぶさんと足を高く上げていた。  
 
 ―――やられる!!  
 そう思った瞬間、すぐさま3人の宇宙人が俺の前に立ちはだかり、高速呪文の詠唱と供  
に障壁が張られ、神人の足をはじき返した。  
 しかし、神人はそんなことでめげることもなく、2度3度と執拗に踏みつけてくる。  
 神人のこの連続攻撃には、さすがの3人も持ちこたえるのが精一杯だ。  
 しかも彼女達には、統合思念体と同化した神人を攻撃することが出来ない。  
 このままでは、神人が長門達の障壁を打ち破ることを待つだけか……?  
 
 そんな時だった。突如朝倉が前方から外れると、神人の側面に回り込んだ。そして俺に  
笑みを向けると、  
「残念。でも、こうするしかないわね」  
 すると、朝倉は高速呪文を詠唱し、神人を跳ね飛ばした。  
 ……な、なにを!?   
 さらに朝倉は体をふらつかせながら呪文を唱え、以前長門に危害を加えたときに使用し  
た無数の杭を出現させ、それで神人を貫き体の動きを停止させた。  
 
「キョン君! 今よ、撃って!」  
「お前……今にも倒れそうじゃないか!」  
「いいから、早く!」  
 わかった。  
「朝比奈さん、お願いします」  
 俺の指示に従って、朝比奈さんが再び棒を神人に狙いを定めて振り上げ、そして振り下  
ろした。  
 
「ミクル・ダイナミック!!」  
 
 解き放たれたその言霊とともに、巨大な光の刃が飛び、今度は寸分違わぬ正確さで神人  
の体を真っ二つに分かつ。  
 ……そして、神人は消滅した。  
 さらには、神人と共に情報統合思念体の急進派も滅びたのだ。  
 ようやく……終わった。  
 古泉達は地上に降り立ち、すでに人の形に戻って安堵の表情を浮かべている。朝比奈さ  
んはヘナヘナと地面に座り込み、疲れた表情をしているが、しかしホッとしたような笑み  
を浮かべてもいた。  
 
 長門は無表情、喜緑さんは穏やかな笑みを崩さず、しかし俺にはわかる。いや、俺にし  
かわからないだろうが、この2人は朝倉が神人=情報統合思念体に攻撃を加えたことで、  
少なからず動揺している。それを数ミリたりとも表に出さないでいられるのはさすがと言  
うべきか……?  
 そして、朝倉に目を向ける。すると彼女は満足そうに微笑み、  
「よかった」   
 崩れ落ちるように倒れ込んだ。  
 俺はそれを見て、あわてて抱き留める。だが、朝倉の体は何とも軽々しく、まるで重み  
を感じなかった。  
 
 そして、体の輪郭がすでにぼけている……。  
「朝倉! どうした。おい、しっかりしろ!」  
「キョン君、いいの。あたしたちが情報統合思念体に刃向かえばこうなることはわかって  
いたわ」  
 だったら、どうして……?  
「もともと、この作戦が終わればあたしは消えることになっていたの。それにあの場面、  
あたしがああするしかなかったでしょ? だから後悔はしていないわ」  
 
 すでに足下からその存在が消え始めていながらも、朝倉は話を続けた。  
「あたしね、最初、長門さんの変化を理解できなかった。それは、あたしたちのあるべき  
姿を逸脱していたから。だけど……あなたと短い間だけど過ごせて、今なら長門さんの感  
情が理解できる様な気がするわ」  
「おい、もうしゃべるな。お前、もう消えそうじゃないか」  
 
「今更だけど、ごめんね」  
 何をあやまっている……?  
「あなたを殺そうとしたこと」  
 それはもういい。恨んじゃいない。  
 
「そう、よかった。これでもう、思い残すことはないわ。キョン君、あなたと過ごせて楽  
しかった……ありがとう」  
 朝倉は微笑みながらそう言った。  
 
「まて、消えるな! 朝倉っ!!」  
 
 だが、俺の叫びもむなしく、朝倉はその存在の全てを消し去った。  
 ほどなく閉鎖空間が崩れ去り、元の北口駅前に俺たちは佇んでいた。  
 
 ―――ようやく、終わった。  
 
 だが、俺にはやりきれない思いでいっぱいだった……。  
 
 
 
 あの後、長門と喜緑さんは関係者全員の記憶を操作したそうだ。特に『機関』に関わる  
連中には念入りに……。  
 そりゃそうだろう。昨日行われたことはすなわち、情報統合思念体を消し去る唯一の方  
法なのだから。彼らの記憶を消しておかねば思念体にとって命取りになりかねない。  
 ただ、俺たちSOS団の面々には長門の取り計らいで、記憶は温存された。  
 もちろんハルヒは別だ。あいつには朝倉に関する記憶は余さず消去された。  
 
 
 
 
 明けて翌日の放課後、俺はいち早く部室に到着すると、そこにはすでに古泉が将棋を準  
備して待ちかまえていた。  
 
「あまり機嫌が良さそうではありませんね。まるで失恋でもしたような表情です」  
「大きなお世話だ。ところでな、古泉、俺には少しわからないことがあるんだが、いい  
か?」  
「なんでしょう? 僕が答えられることなら」  
「ああ、たいしたことじゃないんだ。どうして、思念体はあの時、朝倉を俺の恋人にしよ  
うとしたのか、ってな。こう言っては何だが、別に長門や朝比奈さんでもよかったんじゃ  
ないか?」  
 
 俺がそう尋ねると、古泉はくくっと笑った。  
「いえ、すみません。そうですね、あなたはそういう方だ」  
 なんだ、わけのわからんことを。  
「では、お答えしましょう。なに、簡単なことです。もしあなたが長門さんや朝比奈さん  
とお付き合いなさったとすると、涼宮さんはどうするでしょうか?」  
 さあね、朝倉の時のように騒ぐんじゃないのか?  
「いえ、違うと思います。涼宮さんは、あのお二方が相手だった場合は、おそらく身を引  
いていたでしょう」  
「……」  
 
「……まさか情報統合思念体が、有機生命体の恋愛事情にまで通暁しているとは思いませ  
んでしたが、賢明な判断でした」  
 そういって、ゲームを続ける古泉。  
 それにつられて俺も駒を打ち返す。  
「ガチャリ」  
 穏やかなドアの開閉音をたてて入ってきたのは、長門と朝比奈さんという珍しい組み合  
わせだ。  
 
 朝比奈さんは部屋に入ると、カバンをおいてすぐさまお茶の準備に取りかかった。  
 長門はいつものように座席に腰を下ろし、本を開く。  
「長門、昨日はご苦労だったな」  
「いい。あなたには迷惑を掛けた。それに失敗した」  
「失敗? 何のことだ」  
「みんなー、遅れてごっめーん!」  
 俺が長門に聞き返したその時、そのうちドアの修理代金を学校から請求されるじゃない  
かと思わせる勢いでハルヒが飛び込んできた。  
 
 ハルヒはカバンを団長席におくと、朝比奈さんからのお茶をほんの一瞬で飲み干し、や  
おらニタリとした笑みを浮かべた。すると次の瞬間には席を飛び越し、俺のネクタイをつ  
かんでいた。  
「ハルヒ、お前いったい何をするんだ!?」  
「なにをですって? ふん、しらじらしい! キョン。あんた、胸に手を当てて考えてみ  
なさい……どう、思い出したかしら?」  
 
「いや、いっこうにわからん」  
「キョン、しらばっくれるのもいい加減にしなさいよ! あんた、昨日女とキスをしてい  
たでしょう? どういうことなの? あの女はあんたとどういう関係か、さあ、吐きなさ  
い!」  
 あの女というのは朝倉のことか……?  
 おい、長門。お前、ハルヒから朝倉の記憶を消してくれたんじゃなかったのか?  
 
「キョン、ほらさっさと言いなさい! でなきゃ、とっておきの罰ゲームをさせるわよ」  
 やめてくれハルヒ。お前はここで殺人事件でも起こす気か? いかん、首が絞まって意  
識が朦朧としてきた……。  
 
 
 
「……失敗した」  
「それは、朝倉さんに関しての記憶ですか?」  
「そうではない。涼宮ハルヒから、朝倉涼子の記憶を全て消すことには成功した。ただし、  
彼がキスをされた記憶だけがどうしても消せなかった……とても興味深い」  
「なるほど、あの場面だけは涼宮さんの記憶から消すことが、どうしても出来なかったので  
すか……。なるほど、涼宮さんの彼への想いは、それほどまでに強いのですね」  
 
「こら古泉、何をそこでぶつぶつ言っているんだ。いいから早く助けろ!」  
 
 こうしてSOS団には日常が戻ってきた。  
 ……俺の生命の危機を除いては。  
 
おしまい  
 

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