HRの終了と共にいずこへか飛び立っていったハルヒを見送り、朝比奈さんという親鳥から甲斐甲斐しく運ばれるお茶という名のエサをピイピイと待ちわびる雛鳥の心境で、俺は回帰すべき巣穴への扉をノックした。
「…………」
一般的に返事とは言えないが、これを音声無き応答を理解できてしまう俺は、親しくなっても口頭での返答を返してくれない先住民兼同居者兼団活仲間との関係を、円熟と呼んでも言いのだろうかと頭を悩ませながらドアを開ける。
「よお、お前だけか?」
中に居たのは、生徒会の部活動目録に寄るなら名実併せ持ったこの部屋の主、長門有希が窓際隅の特等席で本を――おや? 今日はノートパソコンを開いている長門の姿があった。
ご丁寧にLANケーブルにハブをかませてネットに繋がっているようだが。
珍しいな? コンピ研のバグ取りか何かか?
「…………」
本を開いていないことにも驚いたが、キーボードを前にご自慢の指捌きを披露するでもない長門にも違和感を感じていた。
ネットの海は広大で、乱読と呼べるほど活字を愛するこいつだが、それでもウェブ上のテキストサイトを巡回するとは思えないんだが……。
「……迷っている。許可を」
どうした? またカマドウマ・マキシマムでも繁殖しちまったのか?
だとすると同伴するのはやぶさかじゃないが、俺は「あれはなんだ!?」とか「いったいなにが…?」とか視聴者の心境を代弁する役にしかたたないぞ。
今日の昼休みに知ったんだが、最近閉鎖空間もご無沙汰で暇を持て余した超能力者がいるみたいだから誘ってみるか?
なにしろ大手掲示板に自作のSSを投稿しては感想や批評に一喜一憂するほど情熱を持て余してるらしいからな。
「そう……彼は同志」
おいおい、なんだか堅苦しいな。仲間くらいにしておこうぜ。って! ちょっと待て! なんだか見覚えがあるぞ、そのブラウザ!
「あ……」
「ちょっとPCを見せてもらっていいか? いや、妙な操作はしないから」
「いい。あなたに託す」
やっぱり特定掲示板専用のブラウザか……これは古泉の入れ知恵か?
しかも昼休み古泉が話していたSS関連の場所のようだが……にしてもだ、随分の文字密度の濃い板だな。活字中毒にもなるとこのくらいでないと満足できなくなるのかね?
いやいや待て待て!? 長門、なにを託すんだ?
「投稿する場合は書き込むボタンを。それ以外は閉じるボタンを。れでぃ?」
あ、書き込むかどうかで悩んでいたのか。まあそうだな、ROM専から一歩踏み出すのはなかなか勇気がいる。
流石に長門でも躊躇するんだろう。古泉の話を聞いた後だからなんとなく解る気がするが、感想一つでも受け手にとっては――
「自称力作。鍵はまだ揃わない。つまり未完成。選ぶのはあなた」
しかも書き手かよ!! そして未完かよ!! 選ぶの俺かよ!!
内心のツッコミを押さえ、まあ、悩んでるならしないほうがいいんじゃないのか? と無難に答えておいた。
「そう……わたしという個体も最初はそう考えていた。しかし」
しかし、なんだ? 連載形式に惹かれるようになったのか?
「そうではない。連載形式で順次投稿する方法にも、完成後に一括または分割して投稿する方法にも、長所と短所があることは考察済み。
今回の内容は初めての長編となる。わたしという個体が安定した内容で連載する可能性が未知数であったため、連載形式を選択肢から除外することが最良と判断した。
性格的に普遍的な安定した筆力を持たないわたしは、執筆初期、投稿は全容の完成後に厳重な校正を経て出来うる限りの整合性を保った状態で投下するべきだと考えた。
この件について意気投合友人体と情報の交換を行ったところ「まことによい考えかと」との返答を得て、わたしは引き続き執筆行動を続けていた。
だがそこに無視できないイレギュラー因子があらわれた。それが、エラー。
このエラーは執筆行動をするわたしの中に蓄積し続け、ついには無視できないラインにまで到達した。このままでは自律行動にも支障をきたし、また周囲に甚大な影響を及ぼすことを察知したわたしは、ひとつの回避プログラムを用意した。
鍵である進行状況を把握し、ある程度まで完成した際にのみ順次投稿する方法。連載だけど連載じゃないよという矛盾を孕んだこの逃避――回避プログラムに自律進化の可能性があると判断した。
そして決断に悩むわたしの前に選択を押し付ける都合のいいスケープゴートがあらわれた。それが……あなた」
度を越えた無口だった長門が久しぶりに口を開いたかと思ったら延々電波な事を言いやがっ――最後になにか不穏なことを言わなかったか? 俺の扱いとか尊厳とかが関係するような。まぁいい。
「エラーってのはなんだ? 随分おおげさな呼び方だと思うんだが」
「……うまく文章化できない。でも…読んで。
有機生命体である人間が感じる恐怖という感情に近いとわたしは推測する。
執筆行動が長引くにつれ内容が投下先の需要に適合しているかという不安。
初期プロットの半分を消化した時点で、既に想定容量を超過している不安。
早く投稿しないと、本家からの新刊で現在の内容が破綻することへの不安。
ユニークと感じる文体・内容が住人の感覚からズレていないかという不安。
それがエラー。その凡てを内包し、中途でも投稿して意見・感想を渇望してしまう。これが重大なエラー」
つまり書いてるうちに色々と不安になるからとりあえず反応を貰って活力を補充したくなると、そういうことか?
「……そう」
マウスを握り締めて送信と消去の間でポインタをフラフラさせ、珍しくも逡巡に肩を落とす長門を眺めて俺はそっと嘆息した。
長門が自分のやりたいことを見つけたんだ。迷った時くらい背中を押してやるのも仲間の務めだろうさ。
「やれやれ。そうだな、長門。や―――」
やっちまえ。
やめておけ。
そのどちらを勧めたのか、今となっては思い出すこともできない。なにしろ俺の言葉を遮って、
「みんなー! 今日は大事な死刑の日よっ! わたしより遅れてきたら会議なんだからねっ!!」
ドカンときたからな。爆発音みたいなドアの開け方をするのは一人しか居ない。顔を見なくてもわかる。
「あ……」
視線の先には長門。どうやら衝撃さえ伴っていそうな騒音に驚いてレスエディターを閉じてしまったらしく、普段よりちょっと目を開いて固まっている。テキストファイルは残っているだろうし、ハルヒも来たことだからゆっくり考えてみるといいさ。
「ハルヒ、日本語までおかしくなってるぞ」
「日本語がおかしいのはわざとよ、わ・ざ・と! 見たところみくるちゃんがまだでしょ?
居ないのがキョンだけだったらスイス製の時計並にジャスト正確だったところを急遽アレンジしてみたってワケ!
あと、他におかしなところなんてあたしにはないわよ?」
自覚はないんだな。いやなんでもない。そういえば議題ってなんだよ? 教室では面白い事がないかって騒いでいただろうが。
「ふふん、谷口のアホがね、二次小説? そういうのをネットに投稿してGJを貰ったとか国木田相手に騒いでたのよ。
あ、GJって言うのは拍手みたいなモノらしいわ。我がSOS団も乱入してGJを根こそぎ奪いに行くわよ!
いっそスタンディングGJみたいな新しい賞賛を貰ってきましょう!!」
ギラギラしながら団長専用パソコンの電源を投入するハルヒ。お前は獲物を見付けたジャッカルか。燃えてる時は怖いから言わないが。
その背後に付き従っているニヤニヤした笑い男を俺は睨み付けた。
「お前の仕込か?」
「まさか。あのユニークなご友人はあなたの管轄だったかと」
肩を竦めるハンサム超能力投稿職人は、なぜか普段より爽快な笑みを浮かべてやがった。楽しそうだな。
「そうみえますか? 実際そうなんですけどね。
これもまた青春の1ページを担うと観念して楽しんでみましょう、あなたも。
そして僕も。あなたの感性はとても興味深いですから」
二次小説を書くには原作を知らないと話にならない。ということで俺の前には数冊の文庫本が積まれている。
遅れてきた朝比奈さんに淹れて頂いたお茶を堪能しながらの読書も、これはこれで優雅な放課後なのかもな。後でSSを強要されなければ、だが。
ハルヒはといえば敵情視察とか叫びながらモニタに齧り付き、時折堪え切れずに吹き出したり、かと思えば紅潮して目を潤ませてはマウスをフラフラさせて――例の掲示板の例の板には年齢制限がなかっただろうか?
「ねぇキョン?」
どうしたハルヒ? 俺は現在単純に読書に没頭しているのだが?
「なかなか手ごわいわよ。短めのギャク系だと『面白かった』。
エロ――エロちっくな話だとエロ――いやらし……『艶っぽかった』としか感想が浮かばないのよね。
なんかメチャクチャ長い感想を書き込む人がいるのに理不尽だわ」
「あぁ、その人ですか。匿名性で有名な掲示板ですから、なにか作品を残しているのかわかりませんが、ある意味名物となっていますね」
「感想だから、長いか短いかで優劣はないってわかってるんだけど、なんだか負けてる気分だわ」
感想だからな。優劣を競ってもしょうがないだろう。思ったことを素直に書けばいいんじゃないか?
ああ、朝比奈さん、お茶のお代わりありがとうございます。ん、どうしました?
「ふえぇ、感想ですかぁ。なかなか難しいですよね。わたしも時々感想を書き込んでるんですけど……」
なんと、朝比奈さんまで常連だったんですか。するとあんなSSやそんなSSまで読んじゃっているんですか!?
……いや、聞いた話だぞ。おれは健全な男子高校生だしな。いろいろ持て余しているが。
「へぇ、みくるちゃんがねぇ? これはあたしも本腰いれて感想を叩き込まないと!!」
「そうなんですよぅ。感想に頭を悩ませちゃって……特に1レス容量がぁ」
…………。
「いつも容量オーバーで、頑張って削ってるんですけど……ちゃんと職人さんに伝わっているかなぁって」
「「「おまえかっ!!!」」」
その日、部室に何人かの声が見事に調和した。