「お客さん」
こう言われて俺と朝比奈さんのふたりは長門特製の夕食をご馳走になることになった。
室内に漂う数十種類の香辛料の匂いは、もはやインド料理というより立派な日本人の大衆食と呼ぶほうが相応しいメニュー、カレーのものに違いない。
俺も例外なく子供の頃からの好物であり、朝比奈さんが2人に増殖するという異常事態の渦中にあっても食欲を抑えることは出来なかった。
居間の食卓に並べられたカレーライス3皿。
だが、どうにも様子がおかしい。
自分の席に着いた長門が一言
「食べて」
と、つぶやき自分のカレーを切り崩していく。
だがちょっと待ってくれ、長門。この目の前のカレー、煮込み過ぎなんじゃないか?
具の人参とじゃがいもは角が丸くなっている、と言うより半ば粘体になってるし、ルーのとろみもカレーのものじゃない。これじゃまるでヨーグルトだ。
朝比奈さんもこのカレーを前にして冷や汗を流しているが、その原因は3人前はありそうなその量のためだけではないだろう。
「おかわりは自由」
きっと長門は気を遣ってそんなことを言ってくれてるんだろうが、これをおかわりする人間はいないだろう。
ふと、長門はなにかを思い立ったような顔をして席を立つと、冷蔵庫に向かって歩いていってしまった。
長門が傍にいない今がチャンスと思ったのか、朝比奈さんが俺に涙目を向けながら泣き言を言ってくる。
申し訳ないがその表情は可愛らしい以外のなにものでもなかったが。
「キョンくん…あたし、どうしたら…こんなにも食べられません…」
「む、無理することないですよ。別に残したって長門は怒りゃしませんよ」
「でも…せっかく長門さんがご馳走してくれてるのに…」
「長門の好意が気になるんでしたら、出来る範囲で食べてください。残りは俺がいただきますよ」
出来のほうはちょっとイマイチだが、それでも好物のカレーなら3,4人前食べるくらい容易いだろう。
「すみません。お願いします」
朝比奈さんに、お願いします、などと言われて断れる男などいるはずもない。
当然俺も男にカテゴライズされる生き物の端くれとして、しっかりとそのお願いを受理した。
おっと、長門が戻ってきた。どうやら飲み物を出すのを忘れていたのに気付き、持ってきてくれたらしい。
長門が食卓に置いたそれはコップに注がれた水ではなく、ビン詰めのジュースだった。
色から判断するに、オレンジジュースだろうか?
「ネーポン」
長門が聞き慣れない単語を口にする。それがこのジュースの名前なのか?
「名前はネーブルとポンカンを組み合わせてネーポンと命名」
随分安易だな。
「1本300円」
「高いな、オイ」
1.5リットルのペットボトルが買えるじゃねぇか。このネーポンの内容量はせいぜい500cc程度だってのに。
しかもこのネーポン、ビンにでかでかと、黄色4、黄色5って書かれてるんだが…
添加物をここまで堂々と表示するとは、売る気があんのか?
「この黄色4とか黄色5っていうのはなんですか?」
「合成着色料のことですよ。長門、悪いが他のはないか? なんか工業製品を飲まされるみたいで、いい気がしないもんで」
「わかった」
「ほんと、わがまま言っちまって悪いな」
再び冷蔵庫に向かう長門に向かって俺は謝っておくことにした。
そうだよ。これは長門が悪いんじゃない。製造してるメーカーが悪いんだ。
「どうぞ」
長門が再び戻ってくる。
食卓に置かれ差し出されたそれは、コップに注がれたジュースだった。
外見はさっきのネーポンによく似ている。
「ミスパレード」
長門がまたもや耳に馴染みのない単語を発する。
口に流し込んでみると、やっぱりオレンジジュースの味がした。さわやかな果汁の味は確かにカレーに合うのかもしれない。
「美味しいです、長門さん。ありがとうございます」
朝比奈さんもご満悦の様子だ。
「ちなみに中身はネーポンと一緒」
「えー!?」
え?
それってどういうこと?
「ネーポンとミスパレードは内部の液体の組成になんの違いも見られない。ビンが違うだけ」
「なんじゃそりゃ」
製造メーカーの考えていることがまったくわからない。
朝比奈さんも過去世界の不条理な商売にすっかり呆れてしまっているのか、目が点になっている。
「ちなみにミスパレードは1本250円」
「なんで値段が安くなるんだ!」
首を傾げる長門。買った本人にもわからないらしい。
ネーポンとミスパレード。この飲料にまつわるミステリーは、なんでも知ってるインターフェースでさえ解き明かせないらしかった。