「キョンく〜ん、おっはよー!あっさだよー!!」  
 
早朝の暁を覚えたくない春眠を、120デシベルの騒音と、フライングボディアタックとの  
実力行使によって、冷えたコールタールのように固く閉じられた俺の瞳をこじ開けたのは、  
言うまでもなく我が妹だ。  
さらにあろうことか、マイシスターが放った必殺技は俺のみぞおちを直撃し、しかも笑みを  
浮かべながら、とどめを刺そうとする暗殺者のように2度3度と攻撃を加え、挙句にはその  
はずみで妹の頭が俺の……まあ、その……なんだ、男の朝の生理現象というもので、心持ち  
高めに主張していたある部位に頭突きを喰らわされる結果となり、まさにのっけから死の  
苦しみを味わうことになったわけだ。  
お前はもう少し、兄への優しさを身につけるべきだろう。  
 
 
 
早朝の奇襲攻撃を仕掛け、あまつさえ2カ所もの急所への打撃というおよそ人道にもとる行  
為を行った妹であったが、そんなことには贖罪の意識をかけらも持つはずもなく、まるでミ  
ステリーサークルと遭遇をしたかのような、不思議そうな表情を浮かべつつ、無邪気にも、  
「ねえキョンくん、今あたしの頭に当たった堅くて小さい突起はなあに?」  
……ち、小さくなんてないっ!! 人並みだっ!!  
「それ、何の話?」  
すまん、俺の魂の嘆きが漏れ出たものだ。気にしないでくれ。  
 
妹は何のことかさっぱりわからないといった様子で、まるでチベットスナギツネにでもつままれたような表情だ。  
そこで、俺はさらに畳みかけるように言った。  
「もしもし、そこの無邪気な妹さん、あなたがぶつかったものは、昨日小人たちが俺の寝床に運び込んでしまったエクスカリバーなのですことよ」  
「えくすきゃばれー? キョンくん、それってなあに?」  
 
キャバレーじゃない。エクスカリバーだ!  
なに、エクスカリバーを知らないだと? アーサー王と山羊座の黄金聖闘士が草葉の陰で泣  
いているぞ。罰として、お前は己の不明を恥じて1秒間に3兆回詫びなさい。  
自分でも意味不明な言葉を口からはき出した末に、妹の頭をますます混乱のるつぼに陥れる  
ことに成功した俺は、頭上にハテナマークを放出し続けている妹を部屋から無理矢理追い出  
した。そして、ベッドに腰掛けてほっと一息つき、戦争の後の平和を実感し噛みしめつつ、ベッドから床に足をおろしたところ、  
「キョンくん、今日の約束忘れないでよ!」  
たった今出て行った妹が、扉の向こうからややくぐもった声で一言残していった。  
 
約束? なんのことだ……?  
俺はロダンの考える人ばりのポーズをとり、フロッピーディスク3枚分程度の容量しかなさ  
そうな、我がピンク色の記憶装置から無理矢理記憶のかけらを引っ張りだそうと努めていた。  
昨今のブロードバンド時代に、まるでダイヤル回線で検索した結果を待つかのように少々の  
時間を要したものの、数分の後ようやく、頭の隅でほこりをかぶった様に押し込まれていた  
記憶がこぼれだしてきた。  
そう、今日は妹にある場所への付き添いをするという約束していたのだ。  
 
ある場所とは、SOS団の不思議探索の集合場所であり、かつ探索場所としても認知されてい  
る北口駅前にある大手進学塾「海学園」だ。  
先日、妹がこの春には小学6年生に進級するのに合わせて、我が家では妹の私立中学への進  
学問題が沸き上がった。  
そんなに両親が教育熱心だったのかと俺は疑問に思い、妹自身も当初渋っていたのだが、彼  
女の大の親友であるミヨキチ――吉村美代子と同じ進学先ならばと納得し、妹の気が変わら  
ないうちにと、不足する学力を補うため、両親は妹に進学塾への入塾を勧めた訳だ。  
 
「海学園」とはこの地域における有名進学塾で、難関校にも多くの塾生を送り込んでいる。  
なお、この塾は完全能力別のクラス制で、各授業前の復習テストと、月一回に行われる入塾  
テストを兼ねた公開テストの結果によって、20段階に分かれる所属クラスが毎月上下する  
厳しい制度で塾生達の実力アップを図っている。  
そこに妹を入れようというのだが、もちろん誰でも入れるわけではなく、ある一定以上の学  
力が求められ、俺が今日付き添うところの入塾テストにパスをする必要があるのだ。  
本来なら両親がつきそうか、それとも一人で行くべきなんだが、なぜか妹は俺についてきてほしいとせがみ、親も俺に対して否応なしに命令を下したわけだ。  
まあ、親のすねをガリガリかじっている被扶養者としては、しょうがないがね。  
 
ようやく思案を終えると、俺はいつものように寝間着姿のまま階段をゆっくりと下り  
て洗面所に到達する。日中はやや暖かさを増した早春ではあるが、朝の意外な冷え込みに体  
をブルっと震わせて鏡と対面した。  
まあ、別に朝比奈さんに会うわけも、誰かとデートするわけでもないので、歯ブラシをくわえながらヘアーブラシでセットすればわずか1分で終了だ。  
古泉のように、無駄にツラのいい男ならもう少し時間を掛けるんだろうが、俺にはこれで十分さ。むしろ、セットをするような時間の余裕があるなら、それを睡眠時間に回した方がよほど健康的だ。  
うむ、鏡に映る俺は惚れ惚れするほどに普通だ。  
俺は洗面所を後にするとダイニングにたどり着いたのだが、家族はもうすでに朝食を済ませていて、テーブルに朝食が1セット、取り残された子供のように寂しくそこにあるだけだ。  
 
俺はやむを得ずイスに腰掛けて、むなしく一人朝餉を黙々と口に運んだ。  
「キョンくん、おっそ〜い! あと20分で迎えが来るんだから、急いでー!」  
妹は市販のどんなものよりも強力な目覚まし時計の役割を果たし、早々に起こしたはずであ  
るにもかかわらず、だらしなくも遅れてきた不肖の兄の登場に案の定クレームをつけてきた。  
だが、妹の言葉に俺は違和感を持った。  
おい、迎えって他に誰か付き添うのか?  
すると妹はニヤリと、メドゥーサさえも石化しそうなほどの笑みを浮かべた。  
いかにも悪巧みをしていそうなその表情に俺の背筋がゾクッとする。  
俺はあらためて、もうすぐ小学6年生と言うにはやや幼いその顔を見つめ回答を促すと  
「それは来てのお楽しみだよ、キョンくん。ほらほら、早く食べてしまいなよ」  
 
どちらが年上かわからない妹の言葉に促され、俺は急いで残りを平らげた。  
食後、俺は部屋に戻り身支度を調えるとすぐさまリビングに待機し、もはや終わりの時間にさしかかったニュース番組を見ながらわずかな時間くつろぎのひとときを過ごしていた。  
「ピンポーン」  
どうやら妹の言う迎えが来たようだ。さて、誰だ?  
どうか、ハルヒじゃありませんように。ハルヒじゃありませんように。  
最悪の事態を想定しつつ、それを回避するため俺は雨乞いの生け贄にも似た心持ちで、両手を握りしめ、神と仏と天使とついでに悪魔とそれからその他諸々に祈っておいた。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるの精神だ。ご利益どころか、むしろバチが当たるかもしれないが。  
「おはようございます」  
 
その聞き覚えのある、透き通ったガラスのようなソプラノは、幸いにもハルヒではない。  
すらりとして大人びて見えるその姿形は、まごうことなき妹の無二の親友、ミヨキチだ。  
今日の彼女は、妹の付き添いと云うにはあきらかによそ行きと言えるものの、淡い水色の  
ワンピースが彼女の雰囲気によく調和し、清楚さと少し背伸びをした大人っぽさとを兼ね備  
えている。  
やや誇張しすぎかもしれないが、もし朝比奈さんと並び立てば、どちらが年上に見られるのだろうかと思えるほどだ。  
「やあ、君だったのか」  
「お兄さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします」  
 
ミヨキチは、まるで礼儀のお手本のようなきれいなお辞儀を見せる。  
うーむ、まさに絵に描いたようないいとこのお嬢さんだ。とても我が妹の友達とは思えない。  
まるで妹とは別の世界の人間とさえ思えてしまう。  
何か食ってる物が違うのか、それとも……育ちの良さだろうな。朝っぱらから兄の急所に猛撃を加えるような我が妹には、ミヨキチを見習って欲しいね。  
俺はミヨキチの楚々とした挙措動作に感銘を受けつつ、一つ質問を投げかけてみる。  
「ところで、君は妹に付き添いを頼まれたのかい? 試験中に待っているのも大変だから、  
断っても良かったのに」  
と尋ねると、ミヨキチはかわいらしく首を縦に小さく傾け、  
 
「はい、でも今日はお兄さんも来るって聞いたから、わたし……いえ、な、なんでもありま  
せん!」  
焦っておたおたとしたミヨキチは、急に顔を熟れた有機トマトのように真っ赤にしてうつむいてしまった。  
……俺が来ればいったい何だと云うんだろうか?  
それにしても、たかが入塾テストに俺とミヨキチの付き添いが必要なのか? そんな大げさなものでもなかろうに、疑問だね。  
だが、そんな疑問を問いただす間もなく、準備をすでに整えた妹がまるで緊張感のなさそう  
な表情で、筆記用具の入ったいかにも小学生らしいポーチを携え玄関にやって来た。  
まるで中学生と小学生の姉妹にも見えるミヨキチと妹との対比が非常に興味深い。  
「ミヨちゃん、キョンくん、準備はいい? じゃあ、出発進行!」  
まるでこれから山へハイキングにでも行くようなノリであり、およそ試験を受けに行く人間  
の態度ではなかった。  
俺は妹の縄文杉並の神経の図太さに俺はややあきれながらも、少しうらやましい思いを抱き、  
玄関をゆっくりと出て行く妹の後ろ姿を追った。  
 
 
 
辿り着いたのは北口駅前、目指す塾はSOS団の集合場所からも容易に見え、銀行も入って  
いるビルの中にある。  
ビルの中には、学習意欲を煽り立てる雰囲気がそこかしこから醸し出され、万年劣等生の俺  
にはやや居心地が悪い。  
ハルヒや長門ならどうってことないだろうがな。  
そしてしばらく歩いた末に会場となる教室にたどり着くと、相変わらず緊張感のかけらもな  
い天真爛漫としか表現しようのない妹を送り込むと、その妹の提案により、俺とミヨキチは  
付き添いの保護者用の待合い室には向かわず、試験終了まで駅の周辺で時間をつぶすことに  
した。  
 
すると、妹は俺たちを見送るときに、再びニヘラとし、まるで口の閉まらなくなったシェッ  
トランド・シープドッグのような妙な笑みを見せ、意味のわからない言葉を俺に投げつけた。  
「二人とも仲良くしなよ。キョンくん、ミヨちゃんをよろしくね。じゃあね、いってらっしゃ〜い!」  
まったく、何を考えているんだか  
……そうか、こいつが妙に時代劇の悪代官のような顔をしていたのは、俺とミヨキチを二  
人っきりにするためだったのか……。  
それが何を意味するのかは、少々理解に苦しむところではあるが。  
 
 
淀んでいた気持ちも高ぶるようなすがすがしい晴天の中、俺とミヨキチはビルを後にすると、  
支線の線路を隔てた商業施設の中にある規模の大きな書店に向かうため、踏切を横切ってい  
た。  
俺の50センチ斜め後ろを歩くミヨキチは、多少の緊張感を漂わせながらも上機嫌に見え、 
まぶしいばかりの笑顔を時折見るにつけ、妹の付き添いという貴重な日曜日を、退屈きわま 
りないイベントで過ごす羽目になっていた俺にとっても悪い気分ではなかった。  
その道すがら、ミヨキチは妹からSOS団のことを聞いていたのか、やけに興味津々、どころ  
かそれをを通り越して、熱心にハルヒや朝比奈さんの話を俺から聞こうとした。  
 
もしミヨキチが、SOS団という一般人が関わってはならないクラブとも同好会ともつかない団 
体への入団志望を持っているなら、俺は人生を誤ることはない、君の選択は、虎穴に入ってわ 
ざわざ餌食になるようなものだ、と必死で止めたいところだが、まあ彼女が高校生になるころ 
には、さすがにハルヒがあの部室の主になっていると云うことはないだろうから、さほど気に 
することもないか。  
ただ、俺がハルヒによって俺が振り回されていることと、朝比奈さんの天使の御心のような  
優しさとあどけなさをやや熱気を帯びて語ってしまったため、ミヨキチはなにやら複雑そう  
な表情で俺の話を聞いていた。  
 
そんなこんなで、話に夢中になっていたためか、俺たちはあっという間の行程で目指す書店  
に辿り着いた。  
そして店に立ち入ると、俺たちはしばらく一緒に同じコーナーの雑誌を立ち読みしていたが、  
ほかに読みたい本があるのか、  
「お兄さん、わたしはこっちで見てますね」  
そう俺に声を掛けて、ミヨキチは少女向けのライトノベルコーナーに向かった。  
そして売り場の棚から取り出し、手に取ったライトノベルを立ち読みしている彼女のその姿は 
年相応に見え、妹と同年齢なのだと俺は実感した。  
なにせ小学生生活も残り一年になり、成長という階段を1段抜かしで駆け上がっていくミヨキ 
チに対して、妹は1段上がって半歩戻るといった様子だったからな。差がつくのも無理はない。  
 
さて、俺はと言えばあっちで漫画を立ち読みし、こっちで情報誌を立ち読みしというように、  
自分の知的好奇心を満たしていた。  
しかし、ふと妙な空気を嗅ぎ取った。  
そこで、俺は書店の中を視線を巡らせて確認してみたが、俺の知っている人間など誰もいなかった。  
気のせいか……?しかし、妙な予感がする。  
ここは出た方がいいな。  
俺は今読んでいた雑誌を閉じて元の場所へ戻すと、ミヨキチの姿を求めて売り場を彷徨った。  
そしてミヨキチを見つけると、彼女もそろそろ声を掛けようと思っていたらしく、俺たちはいそいそと建物の外へ歩き出した。  
 
 
建物を後にはしたものの、それでもまだ試験終了には時間があるため、俺たちは駅近くのファンシーショップに寄り道をした。  
このような店に俺が立ち寄ることなど、俺金輪際ないと思っていたし、まるで羊の群れの中にマンボウでも迷い込んだような非常に場違い感があり、非常にいたたまれない気持ちでいっぱいで、床に穴を開けて掘り進んで、地球の反対側に隠れてしまいたい気分だった。  
しかし、楽しそうにヘアアクセサリーを見定めるミヨキチにそうも言えず、また態度もとれないので、俺は他の買い物客の邪魔にならないよう、隅で店のオブジェと化していた。  
 
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ミヨキチはうれしそうに満面に笑みを見せつつ、ある一つの商品を携えて俺の元へ近づいてきた。  
「お兄さん、どうですか? このリボン」  
ミヨキチが持ってきたのは髪留め用のリボンだ。  
「ああ、なかなかいいデザインじゃないか。君にとても似合いそうだ」  
などと、俺は言い慣れないことを述べると、ミヨキチはポッと頬を赤くするとありがとうございます。私これにしますと言ってレジに向かいかけたところ、ふとあることを思いついて呼び止めた。  
 
「今日、妹に付き添ってもらったお礼とお詫びの印に、俺が君にプレゼントするよ」  
我ながら似合わないことをすると思いながらも、遠慮しているミヨキチからやや強引に商品を受け取ると、すぐさま会計を済ませ、とって返してミヨキチに手渡した。  
それを受け取ったミヨキチは、申し訳なさそうな表情を浮かべた後、さもうれしそうに包みを胸に抱きしめ、潤んだ瞳で俺をまっすぐに見つめると、  
「お兄さん、ありがとうございます。私、一生大事に使わせていただきます」  
「大げさだな。でも、そんなに感激してもらえると俺もうれしいよ」  
妹は幸せ者だ。こんなにいい娘さんが友達でいてくれるんだから。  
 
さて、そろそろ頃合いか? そう思ってミヨキチに声を掛け、俺たちは再び北口駅前に向かった。  
俺はたちは連れだって歩き、駅前の公園とその東側にある塾が入居する建物が見えるあ  
たりまでやってきた。  
その公園を取り囲む形になっている道路は、車や歩行者、さらには自転車までもが行き交い、往年の交通戦争を想起させる混沌ぶりだ。  
そして公園の方へ視線を滑らせると、その先には高校生ぐらいの4人ほどの若い男女がたむろしていた。  
「…………!!」  
……今、俺の心臓と脳の働きが数秒間は確実に停止した。  
 
―――ハルヒたちだ!  
 
さっきの書店での予感は、まさかこれのことか? あいつもあそこにいたのか……。  
さほど寒くもなかった冬は、もうとっくに出口を通りすぎてしまったというのに、俺は今更になって寒気を憶えた。ひょっとして俺の体の周辺にだけとどまっているんじゃないか?  
そう考えてしまいそうな、戦慄の瞬間だ。  
あー、言い忘れていたが、俺は妹の付き添いをすると言って、今日のSOS団不思議探索を  
断っている。まさか、ここでかち合うとは思わなかったが。  
いや、あまりの偶然ぶりに俺は何者かの作為すら疑ったほどだ。  
 
 
さて、ここで唐突にクエスチョンだ。  
 
Q、俺は誰と一緒にいる?  
A、妹ではなく、見た目は女子中学生と言っても差し支えない容姿をした美少女、ミヨキチだ。  
 
Q、俺たちを見てどう思う?  
A、俺はデートだとは思わないが、そう誤解する人間もいるかもしれない。  
 
Q、もし、ハルヒに見つかったら?  
A、俺は生きながらにして地獄を見ることになるだろう。というか、考えたくない。  
 
まるでニュートリノの質量を捉えることのできる装置のように、鋭敏なカンを備えるハルヒ  
たちの前で、俺たちがハルヒたちに見つからずに建物の入り口にたどり着くことは、ホワイトハウスに無傷で乗り込むことより至難なことだ。  
 
しかし、今更引き返すわけにもいかない。それならここは知らないふりをして、脇を通り抜けよう。一か八かの賭になってしまうが、あるいはかえって気づかれないかもしれない。  
俺は心配げな表情なをしていたミヨキチを促し、足を速めつつビルへと向かった。  
そして公園の脇を通り抜ける。  
ビルの入り口まであと50メートル、40、30、20……  
よし、逃げ切ったか?  
 
「ちょっと! そこにいるのキョンじゃない!?」  
 
―――全米が恐怖した!  
 
 
意識が遠のいてしまいそうな俺に反比例するように、ハルヒはなぜか不気味に微笑み、手招  
きするその姿はまるで亡者たちに嬉々として審判を下す閻魔大王のようだ。  
そのハルヒの悪魔も真っ青なその瞳に睨み付けられた俺の顔色は、もはや青を通り越して生ける死体の方々のごとく土気色になっている様に思える。  
俺の隣にいるミヨキチは当初キョトンとした表情をしていたが、ハルヒの体から湧いて尽き  
ざる禍々しいオーラを感じたのか、恐れをなして、痛ましくも身震いをさせている。  
 
それでも俺はハルヒの声が聞こえないふりをして、このまま建物の中に避難して、ハルヒと  
いう活火山をやり過ごそうと思ったのだが、なぜか体が言うことを聞かず、まるでローレラ  
イの歌声を聞いてしまった舟人のように、勝手にハルヒたちの待つ公園へと進んでいる。  
そして否応なくハルヒたちの前まで進み立ち止まると、ハルヒはおもむろに口を開いた。  
「よくも、おめおめとあたしたちの前に顔を出せたもんだわね?」  
おまえが呼んだんだろうが。  
「あたしが聞きたいことはわかっているわよね? キョン」  
いや、これは……だな、皇居の堀よりも深い事情があってだな……。  
 
「なんだか微妙な深さね。まあ、いいわ。それなら、聞かせてもらいましょうか? あたし  
や古泉君たちの前で、詳しく説明してちょうだい!」  
……わかった。おまえのプリオン脳にもわかるように説明してやるからよく聞け。  
というわけで、俺は今現在に至る経緯を全てハルヒたちにつまびらかにしたのだった。  
なぜだか、俺がミヨキチと行動する話に差し掛かると、ハルヒの顔色が変化し、表情が引き  
つり気味になったように見受けられたが、まあそれはいい。  
とにかく、俺は話し終えたのだ。  
 
なぜこんなに必死になっているのか、自分でもよくわからんが、それもいい。  
一同納得したようだった。そう、俺は妹の試験が終わるのを待つためにミヨキチと行動して  
いるのであって、やましいことは何もないのだ。  
さすがのハルヒも納得してくれただろう。  
「へえ、そうなの。でも、よかったわねえキョン、そんなかわいい女子中学生とデートがで  
きて」  
全然聞いてねえ。ハルヒは俺がミヨキチと行動していたところだけを切り取って、あげつ  
らっている。  
しかもハルヒはミヨキチのことに気がついていない。  
ハルヒは俺の恋愛小説もどきを読んでいるから、ミヨキチのことがわかっているはずなのに  
だ。  
「あのな……おまえは俺の話のどこをどうとったらそう理解できるんだ? しかもおまえは  
誤解している。この子は中学生じゃない、小学生だ」  
 
「……中学生とじゃなくて、小学生とデートしていたですって? なお悪いわ!こんのロ  
リキョン!!あんたの行為は、団則第225条に違反するんだからね!」  
ハルヒは目をつり上げて何やら喚いている。つうかいつ決まったんだよ、そんな団則。  
そんなにあるんなら、1から254条まで全部詳しく教えてもらいたいね。  
しかし、どうも話がかみ合ってなかったようで、このままではハルヒの誤解が、第一次大戦後のドイツのように際限なくインフレしそうだ。  
ほかの連中はと見回してみると、古泉は困った顔をしているし、長門はいつものように無表  
情、朝比奈さんはおろおろ、助け船を出してくれるような人間はいそうにない。というか、  
今飛び出せば、溶岩流のまっただ中に身を委ねるようなもので、自殺行為に等しいことは明  
白だ。  
 
また、かわいそうなことにミヨキチは貝のように押し黙り、先ほどからずっと俺の背中に隠  
れるようにしている。  
俺としても進退窮まるこの状況下では、彼女に害が及ばないようにガードしてやることしか  
できない。  
正直、神に祈りたい気分だが、古泉たちによるとハルヒにしても神の一種という存在だと見  
なされているのだから、神に祈る行為さえ無意味なことになりかねない。  
そんなときであった。どしゃ降り寸前の雲行きのなか、天佑のような薄日が差し込んだのは。  
 
「キョンくん、おっそーい! もう、試験終わっちゃってるのに来てくれないんだもん。待ちくたびれたよ」  
建物の中から飛び出してきた妹は、俺たちが公園で突っ立っているのを見咎めると、駆け寄  
りマシンガンのように抗議を行った。  
しかし、俺とミヨキチのほかにハルヒをはじめとするSOS団の面々が勢揃いしていることに  
気づくと、やや勢いを落とした。  
そして妹は、公園を覆い尽くすこの剣呑な雰囲気に気づいたのかはわからないが、キョトン  
とした表情を浮かべた。  
 
「あれ? ハルにゃんにみくるちゃん、それに有希ちゃんじゃない。こんなところでどうし  
たの?」  
言いにくいことなんだが妹よ、1人忘れているんじゃないのか? それと、年上のお姉さんにむかってちゃん付けはやめなさい。  
「あら、妹ちゃん、こんにちは。ふうん、キョンの言ってることは嘘じゃなかったのね。う  
うん、こっちの話。ところで妹ちゃん、あなたキョンに付き添いを頼んだのは本当なの?」  
こいつは、俺の話をまるで信用してなかったのか?  
 
「うん、本当だよ。あのね、キョン君とミヨちゃんに付き添ってもらってたんだけど、試験が終わるまで時間があるでしょ? だから時間をつぶしてもらってたの」  
救世主の妹によってこれまでの経緯がハルヒに説明され、それを聞いてようやくハルヒは納  
得したようだった。  
するとどうだ、先ほどまで立ちこめていたオーラは雲散霧消し、ハルヒはまるで時化の後の  
凪のような身の変わりようで、今や妹と談笑していた。  
しかしな、よく考えたら俺とミヨキチを一緒に行動させるようにし向けたのは妹じゃないか。  
ひょっとして諸悪の根源はこいつじゃないのか?  
 
そんなことを考えていると、機嫌を直したハルヒが俺に話しかけた。  
「ねえ、キョン、ところでミヨキチだっけ、あの子本当にかわいいわね。キョンが血迷うの  
も無理はないわ」  
血迷ってなどいない! 確かに美人だが、さすがに小学生を対象とするほど俺も落ちぶれちゃいない。  
「本当に小学生だとは思えないほど大人びているわね」  
まあ、確かにそれは言えるがな。  
 
「胸なんか、有希より大きそうだし」  
「…………」  
おい!  
「それに、みくるちゃんよりしっかりしてそうだし、これは逸材ね。彼女はいずれ、我がSO  
S団にスカウトする必要がありそうだわ」  
「ふぇぇ」  
お前の言うことには一部同意したいところだが、本人たちの前で言ってやるなよ……。  
もちろん長門は平然としているが、それでも何か抗議でもしているようにハルヒをじっと見  
つめているし、朝比奈さんに至っては小学生よりもしっかりしていないと言われたようなも  
ので、少し落ち込んで、地面のタイルの数を数えていた。  
 
しかしながらハルヒは、SOS団女性陣の顔色の変化にはまるで斟酌することなく、今度は妹  
の進路のことについての相談に乗っていた。  
「ねえ、妹ちゃん。あなたがよければ、あたしが毎日勉強見てあげるから、塾に行かなくて  
も志望校に合格させてあげるわ」  
何やら不穏当な発言をしているじゃないか。  
毎日家に来るだと? いや、実際俺も時々ハルヒに家庭教師をやってもらってはいるが、毎  
日は勘弁してくれ。  
今、なぜか俺の脳裏に、ハルヒが俺の家で夕飯まで食っていくなんて情景が浮かんでしまい、一人自己嫌悪に陥ってしまった。  
 
よしてくれよ、史上最大級の台風が毎日俺ん家にやってくるなんて、想像しただけで怖気がするぜ。  
って、おい古泉、なんだ?   
「いえ、なにやら少し口元がゆるんで見えましたので」  
「な、そ、そんな顔などしていない! お前の幻覚だ! お前にはすぐにでも目医者に行くことをおすすめするぜ」  
すると古泉は肩をすくめ、微苦笑を浮かべた。  
 
まったく、何を考えているんだか。  
「さあ、妹ちゃん。どう?」  
頼むから断ってくれ。  
すると、意外な人間が突如口を開いた。  
 
「わたしが毎日家に行って一緒に勉強しますから、涼宮さんが行かなくても大丈夫です!」  
 
ミヨキチのあまりに意外すぎる発言に、一同唖然とする。  
当然、俺や妹もだ。  
ミヨキチは決然とした表情で、ハルヒに対する怯えは見られない。  
「な、な……!」  
さすがのハルヒも二の句が継げないでいる。  
しかし、滅多に見られるもんんじゃないな。呆気にとられたハルヒなんて。  
貴重だからその間抜け面を写真にでも撮って、SOS団の部室の前にでかでかと貼っつけてやろうか? さぞかし怒り狂うだろうぜ。  
なんて考えている場合じゃないな。  
 
和やかな雰囲気から一転、まるでキューバ危機の再来といった様相だ。  
ところで、なぜあのおとなしいミヨキチが、あんなことを言い出したのかよくわからない。  
妹をハルヒに取られたくなかったからか? まさかな。  
すると、ハルヒはなぜか俺を睨み付けて、次にミヨキチの方を向いたが、ふっとハルヒが目をそらすと、再び俺の方に向いて突然言い出した。  
「キョン、あんた春休みが近いけど勉強を怠けてんじゃない? 進級が決まったぐらいで喜んでいるようじゃ、大学進学なんて夢のまた夢よ!」  
何が言いたいんだ? どうもいやな予感がするんだが……。  
 
「キョン、明日からあたしが毎日あんた家に通って、みっちりと勉強を教えてあげるわ。あんたでも公立の大学を狙えるほどにね」  
ハルヒはニヤリとし、獲物をどう料理してやろうかといった風な笑みを見せた。  
そのやりとりを見ていた朝比奈さんは口を押さえ、古泉は微笑ましそうな笑みを浮かべた。  
だが、ミヨキチはややムッとした表情を浮かべたものの、すぐに引っ込めハルヒを見た。  
なぜかはわからないが、俺はミヨキチとハルヒとの間で、鋭く視線同士がぶつかり合うような幻像が見えたような気がした。  
 
ところで、俺に拒否権は……?  
「あるわけないでしょ? これはもう決定していて覆せないことなの。さあ、そうと決まったら、あたしは明日からの準備をするからもう帰るわ」  
ハルヒは実にうれしそうで、100個のLEDを束ねたような満面の笑顔を振りまき解散命令を下した。そして駅へと去っていった。  
 
こうして、なんとも疲労感の残る、ある晴れた日曜日が過ぎ去った。  
 
 
俺はあの日以来、家庭教師のハルヒによる授業を毎日受けている。  
ハルヒが一方的に俺に宣告したあの日の翌日から、彼女の押しかけ家庭教師としての日々が始まったのだ。  
ハルヒは毎日が実に楽しそうで、家に来るときは上機嫌だ。また、俺の部屋で授業を行っているときはいつもの傍若無人ぶりを披露しているのだが、差し入れなどで母親が立ち入ると、途端に良家のお嬢様然とした立ち居振る舞いを見せ、俺の母親をいたく感動させた。  
俺の母親に取り入っても仕方ないだろうに……。  
 
それと、妹のことだが、彼女は塾のテストには合格したものの、ミヨキチと一緒にいる時間が少なくなるとかで、結局入塾を辞退した。  
それでどうしているかと言うと、これもまた宣言通り毎日のようにミヨキチがやってきて、一緒に受験勉強をしている。  
つまり、俺と妹にそれぞれ無料の家庭教師がついたようなもので、確かに効果は上がっている。  
 
ただ、ハルヒとミヨキチは俺の家で顔を合わせても、挨拶こそはしてもあまり会話もせず、たまに両者の間で火花が散っているように感じるのは俺だけだろうか?  
それでもハルヒに対して、恐れることなく対峙できるというのはたいしたもんだ。どこにそんなエネルギーがあるのかわからないが。俺としては十字勲章でも授与してやりたいほどだ。  
 
 
最後に――ある日、俺があの日曜日にプレゼントした髪留め用のリボンでポニーテールを結わえたミヨキチを見咎めたハルヒとの間で鋭い対立があり、それが俺にも飛び火してちょっとした騒動になったのだが、それはまた別の話だ。  
 
おわり  
 

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