〜〜 をとめ(十二章) 〜〜  
 
 気が付くと俺はベッドの上にいて、朝までその格好だったまんまの寝巻きを着て朝指摘された  
まんまな寝癖を作りつつ手の甲はきれいなもんだった。  
 気になることがいくつも脳裏に浮かんできて、確認のために部屋の明かりをつけた俺は周りを  
見回す。ある。そしてない。  
 いつもの部屋。そしてまごうことなき当日の未明であることがわかった。  
 
 託されたあの栞は――  
 
 やはりと言うべきなのか、どこにもなかった。  
 そうだろうとは思っていても、ひょっとしたら残るんじゃないかとも信じていたあいつとの思  
い出の品は、なにひとつ結局は留まってくれなかった。  
 たった一枚のバンドエイドがここまで恋しいと思ったのは、たぶん生まれて二回目か多くて三  
回目だろう。一度は幼いころに近所の溝にはまったとき。その姿が近所のおばさんの顔と一緒に  
やってくるのを切実に請い求めていたのだが、いやあれは逆に待ち焦がれる恋しさだったっけか。  
それも実際には洗ってガーゼあてた上からテープを貼られたわけだが。剥がすとき痛いんだよな、  
あれ。結局医者で3針縫われたし。  
 手の甲を見つめる。いっそあの程度の怪我くらいそのままにしておけばよかったと、このとき  
俺は本気で思った。  
 それと、あの花の絵柄。  
 もっとよく見ておくべきだったと。そうすりゃ下手くそなんでもいいから複製して……  
 やめよう、むなしさが募るだけだ。どうしたってあいつはもういない。  
 だが、あいつはいる。  
 どういうわけか俺は、いつものハルヒがひょっとしていまだ消えたままなんじゃないか、なん  
てこれっぽっちも心配しなかった。  
 あの『先生』が嘘をつくとも思えなかったし。  
 
 体はともかく精神的に疲れていたからだろうか、体の感覚的にはまだ就寝時になっていないは  
ずなのに、目をつぶると知らぬ間に眠ることができていた。  
 と言っても文明の曙光かつファンタジーな世界にいたあの日々の記憶込みなのだが。  
 古い都の話、雨の踊り、幾人かの知己となった人物、そしてあいつとの……。  
 だが、この話は今はよしておくべきだろう。長くなりすぎる。原稿用紙百枚程度じゃ確実にす  
まないし。  
 
 目が覚めると外は明るい。といっても前回の今朝(ややこしいな)目を覚ましたのと変わらな  
い時刻だった。いつもの休日からすればずいぶん早い。  
 
 あの日の、いや二度目の今朝もかなり早く支度をすることになってしまう。トータルでいえば  
あまり眠れなかったのだが、それでも目が覚めると気分的にはリフレッシュされている。俺には  
珍しいくらいの寝覚めのよさだった。起きぬけに俺はさっそくハルヒの携帯にメールを入れてみ  
た。いろいろあったし、念のための確認だ。  
 あいつからの返事は即行で来た。向こうは向こうでとっくに起きて準備していたようだ。  
 
 
           早いですね(#--)  
           Guten Morgen わたしのほうはすでに  
           支度できてます。  
           てか昨日はよく眠れた? ま、今日は  
           よろしく。言ってたように昼の心配は  
           いりません。  
           つーことで楽しみにしといてください  
           軽めに朝は済ませてよし。  
 
 
           絶対に! 遅刻しないこと(重要!)  
 
 
 あまり女の子らしくない(と俺は思う)素っ気ないものだった。ケータイメールなど迂遠なこ  
とするくらいなら直接電話をかけてこいなどと言われなかっただけマシかもしれないが、内容は  
ほとんど業務連絡レベルである。  
 他人に見られてもちっとも恥ずかしくないなこれじゃ。  
 というわけで内容を示したのだが、どうやら昼飯の弁当もほぼ準備し終わっているらしい。  
 時間の感覚はおかしいものの時差ぼけという感じでもなく、むしろリフレッシュした気分なの  
で寝不足なのは気にしないことにする。  
 
 で、既定事項というわけではまったくないだろうが、朝の寝覚めが非常によろしいうちの妹に  
は「デート楽しみ〜? キョンくん?」  
「ハルにゃんのお弁当〜、ひひひ」  
 などをはじめとした数々の冷やかしを予定通り朝っぱらから浴びせられ、行楽日和な天気もそ  
のままに朝の時間はつつがなく進行していった。  
 あのとき最初に着ていた上着にひょっとしてシミなど残っていないかと確認したものの何も付  
着しておらず、強い寂寥の思いにかられたりもしたのだった。  
 なお、自転車で出掛けに思わず「でっぱーつ」と妹の見送る前で言ってしまい、あのときの余  
計な歴史まで再現してしまったのは我ながら不覚である。  
 いや何か大きな摂理とか宇宙意識とかそんな感じの有象無象が俺にそう言わせたんだ、きっと  
そうに違いない、もうそういうことにしておけ。  
 ところでこれは誰が言いだしっぺということになるんだろうね。ひょっとして俺?  
 
 ああ、外せない話題があったな。  
 ひとつ気になってたことがあったので、小学五年生の国語の教科書を見せてくれるよう妹に頼  
んだときのことだ。  
「へー。国語の勉強すんのー、キョンくん」とか言いつつリビングまで持って来てくれた使い古  
しの教科書のページを開くと、最初のほうにあった。  
 たしかこの『新しい友達』だったはず。  
 ペラペラとページをめくる。あの髪の長いハルヒが口にしてた名前が確かにある。  
 読んだ覚えがあったわけだ。  
 せっかくだし、持ってこさせたきりってのもあれだし。そう思って何気なく妹に尋ねた。  
「この話、お前は面白かったか」  
 面白かったというより、難しかったらしい。いったいこれのどこに引っかかるのだろう。肉親  
の国語力と将来の進路について思いを巡らしつつ俺が表情を曇らせていると、  
「ここんとこ」と言いながら、妹はその一文を指でなぞる。  
 
「最後のね、“まりちゃんが二人帰ってきたような気がした”ってとこ」  
 
 
 胸が締め付けられる思いがした。  
 
***  
 
 ハルヒに急き立てられてたときほどじゃないとはいえ、俺なりに自転車をすっとばすこと20  
分程度。行きはまだ楽なんだ。  
 パブロフの犬でもあるまいし、ハルヒは光陽園のほうが当然近いのだからいちいち北口駅の  
『駅前』で待ち合わせするこの習慣もどうしたもんだろうと思うのだが、それでも自然とここに  
足が向いてしまうのはやはり条件反射に近いものなのだろうか。  
 俺はそんなに変わらんからいいけどさ。  
 テンプテーションを引き起こす源はさてなんだろうかと考えながら歩いていると、やはり律儀  
に集合場所で待つ涼宮ハルヒがそこにいた。腕を組んでこっちをにらんでいるのも、予想通りと  
いうかむしろ安心するのはなぜだろう。  
 思えば去年のこの時期に最初のSOS団不思議探索ツアーが開催されたわけで、いま目の前に  
いるハルヒが着ているものまでその時とほぼ一緒というのがなんとも興味深い。  
 意識的にそうしたのだろうか。ちなみに下はデニムの半パンである。  
 思ったとおりではあったが、この日のために買ったとこいつがクラスメイトに喧伝していたら  
しい洋服のことをからかい半分で聞いてみた。  
 なんだ、用意してた服じゃないのか? けっこう楽しみにしてたのに。  
 とまあ、こんな風で。  
 眉をひそめてハルヒが尋ねた。  
「……なんであんたがそんなこと知ってるの? 誰かに聞いたとか。あ、ひょっとして……」  
「うん? ああ、あれだ、鳥が教えてくれたのさ。お前のところには来なかったのか? だとし  
たら、きっと純粋で素直な心を持ってないと聞こえないのかもしれん」  
 これもいっぺん言ってみたかったんだ。あとから思うと恥ずかしい。  
「はぁ? あんたが純粋な心ぉ? 何言ってるの、妹ちゃんの爪の垢を煎じて飲んでもとっくに  
手遅れなくらい根性曲がっててひねくれてるくせに」  
 そこまで捻じ曲がってはいないと思うのだが。  
「第一、それならもっと素直に喜びなさい! あたしと」  
 うん? “あたしと”なんだよ。  
「……別に」  
 なんだよ、“言いたいことあるんならちゃんと最後まで言いなさいよ”って感じだ。  
 そのまんまなこと前に言ってなかったか、お前。  
 照れ隠しで幼馴染が言うような感じがどういうものか実際のところ漠然としていてよくわから  
ないのだが、ひょっとするといまのハルヒのがそうかもしれん。  
「なんも。なんでもないって言ってるでしょ!」とか弁解して、そう、まるで詳しい事情を長門  
に対して事前に言ってなかった俺としばらく口をきいてくれなかったときの朝比奈さんのように  
ぷっくりとふくれ面になった。あれは冬まっただなかの図書館でのことだったな。  
 
 わかったよ。そんな怒った顔すんなって。  
 かわいい怒り方について勉強中なのだろうか。まあなんだ、ああいうのは生まれ持った素質の  
ような気もするが、それにしてもわりといい線いってると一瞬だが思ってしまった。  
 むくれて横を向いていたハルヒがこっちをチラリと見る。  
「だって、こっちのほうが動きやすいでしょ」  
 べつに怒ってるわけではなさそうで、その、思いきって着てきたほうが良かったのではと自問  
しているような、そんな感じかね。  
「そうかもしれん。俺は……ぜひとも見たかったんだけどさ」  
 内心そう思っているのも事実なので、感情豊かに言ってみた。  
 見ると、ハルヒはうつむきかげんになっており、下唇を噛んでなんか忸怩たる表情になってい  
る。  
 なにもそんなに悔しがらなくてもいいのに。  
 運動性のよい衣装はまことに結構だと思うよ。それより――ええっとだ、団長さん、昼飯は期  
待していいんだよな?  
 そのつもりで朝はあんまり食べてないんだぜ?  
 
「当たり前すぎて片腹痛いわ。池谷・関彗星の発見時くらいには期待しておいて損はないわよ、  
あたしが作ったんだから」  
 
 ハルヒの持つバスケットを見る。  
 おそらくサンドイッチではなかろうか。雪山で遭難しかけたときに朝比奈さんと二人で調理し  
たときもたしかに美味かったし、言うだけのことはあるのだろう。  
 部室棟で「経費節約よ」とハルヒが言い、俺もなんとなく納得してしまったものの、よく考え  
ればSOS団の経費から落とせそうなのは行き帰りの交通費くらいで、あとは当然自腹だ。  
 といいつつ、昼飯代が浮くのは俺個人としても助かるのだからその点に文句などあるはずもな  
いんだが。  
 
 そこでふと思い出した。出かけるついでだし、  
「レーザープリンタのトナー、あれ帰りに買っとくか。とりあえず立て替えておくから」  
「うん……あんたもたまには役に立つこと言うじゃない。いいわ、そうしましょ」  
 この地域の都市圏ではセントラルターミナルな繁華街の名前を挙げてハルヒは賛成した。  
 もっと近場の店でいいだろうと言ったら、  
「それはだーめ」と却下された。  
 ……なんでだよ。  
 
 そのあとホームで待ってる頃になってハルヒが、  
「あ。デジカメ忘れてきた」  
 いかにも今気づきましたってな発言だったが、とくに名残惜しそうではない。  
「わざとだろ」  
「…………」  
 だんまりを決めている。図星か。  
 さしずめクラスメイトにあの服着て出かけるとか言っちまってるんだろう。  
 ま、デートじゃねえもんな。その格好でいい。  
「…………」  
 また睨まれた。  
 
 定刻どおりに電車がホームに滑り込んでくる。このままいけば午前中の講演会に今度は間に合  
いそうだ。一応見学旅行でもあるし、『オルガン』関係者かもしれない人物の顔も見ておいたほ  
うがいいだろうと思ったのもある。どうせここまで来たのなら参加しといて損はないだろう。  
 隠そうにもハルヒや俺の顔は是非もなく知られてるだろうしさ。  
 実は話の内容に興味があったなどというのでは決してないのであしからず。  
 内容には全くもって期待していない――とも言い切れないかもだ――が、どうやら隣に座るハ  
ルヒのほうは期待に胸をふくらませ気味だった。  
 そんなにならんでも、今の膨らみくらいでちょうどいいと思うんだが。  
「ちょっと、なに?」 肘で突っつかれた。「どこ見てんのこの……」  
 待ってくれ、誓って変なことなどちょっとしか――って言い訳になってないなこれ。  
「ま。浮かれ気分なのはわかるけどね。そんな目線で他の子見てたら捕まるわよ」  
 耳元でそう囁かれた。  
「わかったから手すりちゃんと持ってろ。バスケットは棚に載せるから」  
 なぜか得意顔のハルヒから弁当入れを受け取った俺はそれを荷物棚に仮置きした。  
 楽しみにしているのは結構だけどさ、たとえば鶴屋さんのような方がこの場に同行していたら、  
“18 till I die”のサビの部分だとかを人目もはばからずにまたぞろ歌いだしそうな上機嫌ぶ  
りである。たまたま出くわしたとしても、相手が鶴屋さんならこいつだって何のしがらみも感じ  
ないだろうからな。  
 
 あんときゃ参ったな――  
 
 古泉の自宅に程近い池での映画撮影が――文化祭で上映したあれだ――あとで起こった一悶着  
を含めて思い出される。  
 ああ恥ずかしい。  
 
 
「ねえ、キョン! いいこと思いついたんだけど」  
 
 経験上、このタイプの笑い顔でなされるハルヒの提案は3:1くらいの割合でろくでもないこ  
とのほうが多い。  
 どうした? なにかよからぬことでも考えたのか?  
「特急よ特急! せっかくあっちの特急乗るんだし、乗り換えじゃロマンスシート確保できない  
でしょ! だから――」  
 終着のターミナル駅までこのまま乗ってくんだと。  
「もう決めたからね!」  
 わかったから、恥ずかしいからそんなにはしゃぐんじゃありません。  
 
 
「ねえ……キョン、聞いてんの!?」  
 
 こんどはなに?  
 降りるやいなや服を引っ張られながら俺は尋ねた。  
「ここはフェアにジャンケンでどう?」  
 なんで?  
「負けたほうが売店でペットボトルおごりジャンケン大会〜〜、ぱふぱふ」  
 ハァ!?  
 お前こんな、立ち止まるだけで邪魔になるくらいの場所でなに言ってるんだ。  
 なんか頭痛くなってきた。  
 すでにハルヒは両腕をを組んで握ったこぶしの中を器用に覗いている。ジャンケンで出すのを  
決めるときにやるあれだ。  
 ハルヒ、言うまいと思ってはいたがお前は小学生か。  
 
 愚痴りつつも歩きながらのジャンケンには勝ったのだが。  
 いかにも恨めしそうな顔で「何がいいの、ちゃっちゃと言いなさい、じゃコーヒーね。これ  
持っててよ。――ああ、もう腹立つ!」と散弾銃のような勢いで捨て台詞を言い残し、ハルヒは  
飲み物を買いに行った。  
 
 けっこうズシりとくるな、このバスケット。  
 
 
「ねえキョン……キョン、ちょっとこっち見て。さっきから気になるんだけど」  
 特急の窓際の席を狙いどおり確保したハルヒだ。  
 声のトーンを抑えているのは――なんだ、辟易してることにようやく気づいたのか。  
 
「あんた、今日ちょっと変よ、うん。やっぱり」  
 
 …………。答えに詰まる。  
 
「変って、どう変なんだ」  
 
「うん、」  
 うまい言葉が見つからないのか、ハルヒも逡巡した。  
「どうって言われるとあれなんだけど――なんか遠い目してるっていうか……。なにかあった  
の?」  
「いや……」  
 言えやしない。でもそれで納得はしてくれまい。  
 
 だから――  
 
「あの七夕の日……」  
 
「え……?」  
 
「お前、言ってたよな、『七夕にはちょっとした思い出があるの』って」  
 
「…………」 息も忘れたように真剣な顔で聞いている。  
 長い睫毛を通して見える黒い瞳が眩しいと、そのとき俺は思った。  
 
 うぬ、なんて言ったらいいんだろう。俺にもちょっとした思い出っていうか、思い出というの  
とは違うがそれに沈潜していたくなったというか……だめだ、うまく言えない。  
 口をついて出た言葉は、  
「短冊、というか栞に絵を描いて今も使ってるとか、してない……よな」  
「栞?」 自分とのつながりが見いだせないらしい。  
 だろうと思う。  
 もう終わった話なんだ。夢だったのかもしれん。あとからずしんとくる、悲しい夢。  
 
「そう――」  
 
 固定していた視線を俺から外して、ハルヒはつぶやいた。  
 過ぎ行く景色を眺めている。  
 
 ひょっとしてわかってくれたのか、そうでなくとも何かを感じてくれたのかは微妙だが、そ  
れっきりこの件については追及してこなかった。  
 
 ハルヒ、お前……  
 
 口をつぐんだこいつの横顔に憂いの色が混じっていたことを、ようやく俺は知った。  
 
 普段近くで俺を見てるからだろうか。どうしようもなく割り切れない俺の中のわだかまりみた  
いなのを見抜いてたということか? ハルヒ……  
 ひょっとするとさっきのはしゃぎっぷりも、そんな俺を気にしてわざと威勢よく振舞っていた  
んじゃ……。そうも思えてきた。  
 
 
 私鉄の最寄り駅を降り、山手の会場付近まではタクシーを使うことにする。  
 経費で落としてもらえるはずだ。  
 あのハルヒと俺は、駅を出たすぐ前にあるこのハンバーガーショップに入ったんだったな。  
 
 スムーズにタクシーを拾えた。行き先を聞いた運転手には一回聞きなおされたあと、「あーあ  
の高校の近くね」と言って納得された。かようにマイナーなイベント会場で、周囲にもそれくら  
いしか目立つ建物がないのだろう。  
 そういや古泉のあれは只の散歩だったのだろうか。わずかに、ごく微量に引っ掛かるこの違和  
感の原因がよくわからない。何を思い出したいのかが思い出せない、とでもいうか。  
 とまれ、個人的にはこの『謎の古代遺跡を解き明かす体験型期間限定アトラクション』会場に  
到着するのも入るのもお久しぶりという感覚なのだがそれは隣りの女には秘密だ――というより  
言えない。  
 
 もう一人のせいで恥ずかしかったりしみじみしたくなったりと、道中いろいろあった。  
 しみじみしたが、エスパルスのサポーターだからというわけでも特にないのであしからず。  
 それでもやけにあっけなく会場前にまで来れたような気がする。個人的に気が楽なのも大きい  
だろうが、一度たどった道のりだということもあるんだろう。  
 それに道中、精神分析担当ではない俺から見ても基本的に気分高揚気味だろうとわかるハルヒ  
が何かと俺に話題をふってきたので、いつのまにやら到着していたという感覚だ。  
 
 そろそろだ。タクシーのメーターを確認しつつ時刻を見る。ちょうどいまごろあの遊歩道あた  
りをうろついている時間だ。おそらく古泉の野郎が。  
 
「ここね――」 「だな」  
 車を降りた先に、藪を開いた宅地造成地に建てたような、拡大版テント村のようなアトラクシ  
ョン会場が見える。  
 どうだい、この手作り感あふれるしょぼい造り。自治会の地蔵盆の設営や北高文化祭レベルの  
人員で作りましたと言われてもあまり違和感を感じないくらいだろ?  
 こいつも似たような感想に違いない。  
「なんか……うん、まさにアングラな感じで不思議さんも出てきやすいんじゃないかしら、ねえ  
キョン、あんたもそう思わない?」  
 どうも気に入ったらしい。  
「ちょうどいい時間についたわね。キョン、もうすぐ講演会の時間みたいだしさっそく入りま  
しょ!」  
 輝く瞳は元気の印って言うけれど、まさにそんなフレーズがぴったりなはしゃぎっぷりを見せ  
ている。俺としたことが、こいつが筋金どころか鉄骨入りの変な女であることを失念していた。  
 
 
 アトラクション会場の入り口で、ハルヒのバスケットを保管しておくためコインロッカーの鍵  
を預かり、番号のロッカーに入れた。なんとなく市営プールか銭湯に来たような気分だ。  
 
 さて、講演会自体の会場は敷地内に建つ小ぶりで軽そうなドーム状の建物内で、ひょっとして  
モンゴリアンな可動式住居の応用版なのかもしれない。  
 俺も入るのは初めてになる。中は天井が高く、視聴覚教室程度の広さの部屋で、時期的にも居  
心地はなかなかいいと思う。だいたい50〜60人くらいは入っていた。  
 まずまずの盛況ぶり……なのかね。  
 このなかの多くが『器官』とか『機関』の関係者という可能性だってあるわけで、そのなかに  
見覚えのある顔がいないかどうか見回してみた。  
 とりあえずこの中には知った顔はいないっぽいな。  
 
 講演者の名前がちょっと面白い、というか俺には読めなかった。決して揶揄するつもりはない。  
わりと純粋に感心したのだ。  
 大佛三吾さん、大佛と書いて“おさらぎ”と読むのだそうで、どっからそんな読み方がやって  
きたのだと思っていたらご親切にも講演の最初に教えてくれた。鎌倉の地名にそういう読みをす  
る場所があって、鎌倉時代の有力大名(みたいな人)が当て字したのがその最初らしい。  
 まったく余計なことを思いついてくれたものだ。  
 全国の大仏(と書いてオサラギ)さんすまん。  
 謝まるなら最初から悪態をつくなという話だが、個人的に大仏さんを知らない限りこんなもん  
どうやったって読めねえもんという、決して自分の無知を認めたくないそんな青い気分が俺を知  
らないうちに突き動かしたのだ。だから許してほしい。  
 
「――ねえキョン、何ぶつぶつ言ってんの?」  
 
 となりの女に小声で指摘されて気づいた。やべ。  
 
「いやなんでもない、あるわけがない」  
 
 なんかつぶやいていたらしい。  
 ……たびたびこんなだと医者に診てもらった方がいいかもしれんな、俺――  
 
 …………………  
 …………  
 ……  
 
 いかん。  
 
 眠りに落ちていたようだ。意識を現実に戻してみると、ああ、こともあろうに隣人の肩口にし  
なだれかかっていたのだった。  
 慌てて離れる。  
「その……すまん」  
 小さな声でとなりの女にあやまる俺。  
「…………」 なぜか無言だ。  
 おそるおそる隣を見ると、じっと前を見据えたままの相手はもうパッチリ覚醒したままであっ  
たらしい。  
 さすがは団長と、ここは褒めておこう。  
 あえなく睡魔に敗れ去った不肖の団員(俺)に寄りかかられていたハルヒなわけだが、どうい  
うわけかあえて起こさないでいてくれたのはありがた……恥ずかしいじゃないか。  
 
「『わが百年の命を捨てて、公(きみ)が一日の恩に報ず』と金沢貞将公は御教書の裏に大書し、  
それを鎧の引き合わせに入れ、まさに此処こそ一所懸命なるぞとの心持ちで決死の戦におもむか  
れたのであります……」  
 
 肝心の話が脱線しまくっていた。  
 もうなんかずっとアナクロな感じだが、この熱のこもりようは尋常ではなく、この手の話に相  
当熱烈な思い入れがあるだろうことを感じさせた。歴史マニアの真髄を見る思いだ。  
 関係なさそうな話を延々と聞かされる身にも少しはなってほしいものである。  
 よく寝ないで聞いていられたなハルヒ。聞いてるフリだけかもしれんが。  
 
 さすがに日本中世史熱ばかりではバツが悪いとご本人もお考えなのか、途中からは本題となる  
謎めいた遺跡だとか遺物の話になった。トレンチ――厳密には“試掘溝”のことらしいが本調査  
でも総じて『トレンチ』で通じるらしい――の壁断面図だとか平面図といった結構学術的な図面  
の説明から、テレビで見たことのあるような航空写真やら挙句の果てには怪しいサイトで紹介し  
てそうなオーパーツの類までを、要所で細かい説明を入れつつダイジェストで取り上げていた。  
なんだか興味心が刺激されてきたのは、たぶん俺がそういうのにもともと関心があったからだと  
思うが、それだけでもないかもしれない。  
 
 隣りに座る女の様子がどうとかそっちのけで。俺はしばらく聞き入っていた。  
 写真の中には『水晶どくろ』なんてのもあった。それにまつわる話は眉唾だったが冗談抜きで  
素晴らしい仕事だ。どんだけ時間かかったんだろうな、あそこまで削るの。  
 教師や教材の個性や問題もあるかもしれないが、好奇心を刺激しない授業過程のせいで摘み取  
られていく子供たちの探究心にいまさらながら気づいたような気分になった。  
 いや普通に面白いよ大佛さんの話。  
 そうして指導要領の内容やセンター試験の範囲だけを過不足なく消化していく現在の教育制度  
だとかそんな感じのものに俺が根源的な疑問を抱き始めていると、写真の一枚に見覚えがある―  
―というかありすぎる画像がスライドに映しだされた。  
 くそ蒸し暑い七夕の夜、東中の校庭において白線引きを使って俺が引かされた、なつかしくも  
どこかむずがゆい、見覚えのある模様だ。  
 一枚だけだったけれど。  
 さすがに刮目する俺と、おそらく隣の女。  
 ええと、たしかヘリから撮った写真なんだよな、あれって。  
 少し歪んでいる部分なんか見てるだけで、やたら人使いの荒い中坊の声が今にも聞こえてきそ  
うなくらい鮮明に思いだされる。  
 たぶん、あの写真のドキュメンタリーな内容を今いちばん覚えているのは俺だろうからね。  
 で、犯人であるハルヒのほうを見てみると、ちょうどお互いの目が合った。  
 そうさ、俺だよあの時の共犯者は――  
 そんなカミングアウトを視線にだけは込めてみる。ハルヒのほうも何か言いたそうにみえたが、  
ついっと視線を前に戻した。  
 こいつはこいつでどうやら俺の反応が気になっていたとみえる。  
 謎の地上絵についての説明は当たり障りのないもので、  
「規律違反はたしかによろしくないが、最近の青少年にはなかなか見られない稀に見る探究心・  
行動力の現れとして好意的にみなしたい」などと大佛さんは評価していた。もしかすると、主犯  
の中学一年生(当時)がこの場に来ているとわかってそうおっしゃっているのかもしれない。  
 とは言っても、ほかの聴衆の皆さんからいわくありげな視線を送られることは別段なかった。  
単なる一参加者を越えた存在感を俺らが示していたりするのかと内心気を揉んではいたが、少な  
くともそんな様子は微塵も感じない。  
 これが演技ならたいしたもんだと思う。  
 
 手管を尽くしてレア物を集めたのだろう数々のスライドとその説明には、ほかの聴衆もおそら  
く満足したのではないだろうか。もとから古代史や怪しい話の好きな人が集まってるだろうし。  
 というわけで講演会は無事終了した。前半の脱線話はほとんど聞いてないが、なかなかどうし  
て面白い話が聞けたような気がする。  
 だが、  
「レポートにして提出してもらうからね」  
 そう告げられてやや困ってしまう。なんせ前半の大部分は夢の世界だったし。  
『団長の肩を枕代わりにさせてもらって気持ちよかったです』などと書いてもいいのだろうか?  
「……ばか」とだけコメントされた。  
 
 それにしても予定通りというか記憶どおりのいい天気だ。ちょうど腹も減ってきたので、屋外  
で昼飯にすることになった。“経費節約の一環”としてハルヒが手づから準備してきた弁当なん  
だけどさ。  
 
***  
 
 預けていたバスケットなどをコインロッカーから取り出す。  
 これからどこで昼飯にしようかと、二人で辺りをうろついた。あまり悩むこともない。なにし  
ろ俺としては候補地に心当たりがあったので、ハルヒを其処まで誘導すればそれで済む。  
 
――――と、あそこなんかちょうどいいんじゃないか?  
 
 指差した先には、腰掛けるのにぴったりの石段があった。  
「あんたがいいんならかまわないけど…」  
 こいつにしては珍しいことだが、どうも先客を気にしているらしい。  
「いいって。どうみてもお互いさまってなもんだ。それより早く食べさせてくれ。腹も減ってる  
し、楽しみにしてるって言ったろ」  
 若い男女が店を広げている様子を見ながら俺はそう促した。  
『トンカラリン』の出口付近がちょうど陰もあって良さそうだったのを覚えていたのだ。それは  
ほかの客にとっても同じだろうから、自然と人が集まるのも無理からぬことさ。  
「そうかもね……。うん、わかった」 なんか決心したようにうなづく。  
 てなわけで俺たちはそこに落ち着いた。  
 どこからどう見てもあれだ、昔流行ったっていうピクニックデートみたいだ。  
 
 手洗い場所はあるし石鹸も備え付けてあったのでそこで手を洗ったのだが、ハルヒはおしぼり  
も用意してくれていた。せっかくなのでおしぼりの入ったナイロン袋を開ける。厚意に報いるた  
めにも使わせてもらうことにしよう。  
 ぎっしり入った手ごろなサイズのサンドイッチの群れがそこにあった。  
 パセリの緑がそこにいろどりを加えている。  
「作るのけっこう時間かかったのよ、ついでに家の分も用意したし」  
 だろうね。具材も多彩だ。  
「農家のみなさん、流通ルートを支えてくれてるみなさんに感謝して食べなさい! 太陽とか、  
もちろんあたしにも」  
 そりゃもう。へんな御託だな、それ。  
 
 と、いうわけで俺の脳内戦略会議に緊急議題がもちあがったわけだが――  
 
 こういう状況だと、ほんとうなら食べてる相手の所作一つにも一喜一憂せんばかりに不安げな  
面持ちで「……おいしい?」などとこわごわ聞いてくる女の子に、  
「ああ。とてもおいしいよ。このハムカツサンドの揚げ加減とか味付けなんか、ウチのお袋より  
上手なんじゃないかな、きっといい(以下略)」なんぞと太鼓を持つ展開を想像していいのだろ  
う。こういう場合についての俺の知識に誤りがなければそのはずだ。  
 あてにならないし経験ないけどさ。  
 というか相手が朝比奈さんなら必然かつ確実にそういう方向性を保ちつつ友誼を一歩でも二歩  
でも深める作戦を俺は実行に移すに違いないのだが、いやそうしないともはや自分史上最悪レベ  
ルでの“後悔先に立たず”を実感しかねないのだけど、奥ゆかしさとか殊勝さというものを祝川  
にでも放り込んだまま未だに拾い忘れているものと思われる目の前の娘の場合、どういう展開に  
なるかは想像がつかない。  
 考えてみると結構長い付き合いになるにもかかわらず、こいつと二人きりで弁当を囲んだこと  
なんてないしなあ。  
 当日用アンチョコでも古泉に用意してもらっとけばよかったかなと、ちょこっとだけ思った。  
 
 ……お客さん、ここで笑わないともう笑うとこないよー。  
 
 あー。間が持たん。  
 
 それはそうと、朝比奈さんといえば今ごろどこでどうしておられるのだろう。気になって朝に  
メールを送ってみたとき――この前のアップルティーがおいしかったです是非また……と書いて  
送った――には朝比奈さんらしいほんわかした応答が返ってきた。そういうことなのでたぶん心  
配ないとは思うが。  
 ただ、三行ほどの返事に15分もかかるのはどうしてだか未だにわからない。  
 ところで、どうしてこんなにソワソワしてるんだろうね、俺。  
 
「どう? それ」 きた。  
 わざとらしい素っ気ない言い方で聞いてきたぞ。やたら鋭い目線だ。  
「……ああ、なかなかだ、こ、このカムカット…ハムカツサンドなんか、ウチの母親が作るより  
おいしいかもしれん。いい嫁さんになれ」 あ。  
「んん?」  
 いやその。  
 言ってしまったのは誰のせいでもない、頭の中でベタな台詞を妄想・反芻していた俺が悪い。  
 ドモホ○ンリンクルの品質管理をアピールしたCMを思い出させるほどの真剣さを込めた注視  
されぶりだ。乳液に気持ちってのがあったらこんな感じだろうか。  
 開き直るしかないなこりゃ。  
 ハムカツサンドの製造元(女子高生)からのほとんどガンをとばすような目線に対抗して、俺  
もじっと見返すことにした。  
 視線をそらすのは負け、みたいな感覚のときってあるだろ? それだ。  
 キラキラした瞳に俺が映る。タマゴレタスサンドを持ったままの手が凍ったように動かない。  
「うぁ、と……、そう、よかった」  
 目をしばたかせたハルヒは、焦ったように月並みな返事をした。  
 お互いに下を向く。  
 
「………………」  
「………………」  
 
 気まずい。この前とは逆の方向で。  
 
 なるほど近くで店広げてる睦まじそうなカップルの男はどうやら『ゆきちゃん』と呼ばれてる  
らしいなあなどと、さしあたりどうでもいいことを俺は考えていた。  
 あんたらからは俺たちはどう映ってるんだろう、ちょっと聞いてみたい。  
 
 あれは……モンキチョウか。大きい、同一個体かもしれん。  
 舞台のような配置に思える大きな岩の上のあたりをそいつはせわしない動きで飛んでいた。  
 ひらひらと舞う蝶、なんてのはしょっちゅう耳にするフレーズだが、もっとよく見ろと俺は言  
いたい。たまに。  
 ほら、やつらは盛んに羽をはばたかせて、けして一点に止まらない。上下左右に揺れ動き、き  
わめて機敏かつパワフルなんだ。それを理解したうえで『舞う』と表現している人間はわりと少  
ないんじゃなかろうか。  
 べつにここで熱弁をふるうつもりはないけどさ。  
 
 ところで、旨いのはもちろんそうなのだが、謎の館に避難もとい幽閉中に朝比奈さんとハルヒ  
が作ったときよりも、具材のバリエーションが断然多い。つまり、手間もそれだけかかってるだ  
ろうということだ。  
 そんな気持ちで聞いてみた。  
「なあ、ハルヒ、」  
――――。  
 黙々と食ってる隣りの女がしおらしく顔を上げた。  
「その……これだけ作るの、結構時間かかったんじゃないか?」  
「――ううん、わりと」  
 どっちだよ……。けど、ありがとうよ。  
「あっ、これこれ。けっこう意欲作なのよ。うちの家族にはまずもって好評を博したんだけど、  
ぜひ感想を聞きたいわ」  
 ちまりとひと口つけてから、残りを半分くらいに切って片割れを差し出された。毒見のつもり  
かっておい、バスケットにもまだ同じのがあるじゃないか。  
 かまわず紙コップを取り出してポットから茶を注いで……。  
 ツッコむ間もなく受け取りはしたけど、ちょっと待ってくれ。いまサーモンとたまねぎ・ピク  
ルス入りのを食べ終わるから。  
 じっと見てる。どうも試食するまで待つ構えだ……。  
 
 ……うん、おいしい。食感もいいし、味も。  
 
 ありきたりな語句を並べた言葉なんだけどなるたけ感じたとおりに言ってみる。それからハル  
ヒが紙コップに注いでくれたお茶に口をつけた。  
「やっぱりね」 ちぎった片割れを一口でたいらげたハルヒは、「あんたこういうの好きだと  
思ったから」と言った、と思えばすぐに自分の紙コップに視線を落とす。  
 なんだろう、背中がむずがゆい。照れくさいというか何と言おうか……。  
 
 なんとなく気になったので、あくまでさりげなくそちらを見る。  
 近くに座ってるカップルの女が、こっち見て笑ってるような。  
 例えるなら、キプリスモルフォ……。笑顔ならね。  
 たしなめなくても別にいいよ、ゆきちゃん。  
 諦めと悟りで表情を造ったようなその男が困ったような顔をしているのを見て、シンパシーの  
ような親近感を俺は感じた。  
 ただ苦言を呈すれば、もうちょっと楽しそうな顔をしてやってもいいだろうに。せっかく美人  
と弁当ひろげてるんだしさ。  
 
 視界を戻すと、ハルヒの目線とモンキチョウが入ってきた。既視感が脳裏をふたたびよぎり、  
俺はその情景の中の台詞をしゃべった。  
 
「胡蝶の夢か――」  
 
「は……なにそれ」  
 あれ、なんか怒ってないかハルヒ。続けにくいじゃないか。  
「ええとだ、この世界は飛んでいる蝶の見てる夢かもしれないって話だよ、聞いたことない  
か?」  
「あるけど、それがどうしたの?」  
「いや……」  
 
 だめだ、もう無理。  
 脳内の即興筋書きでは、ここでお前が「何でそんな話を……」と怪訝な表情で聞き返して、そ  
れに俺が「ああ、なんとなく思い出したんだ」とやって、「…………」と無言で説明を求める顔  
をされたところに、「フフ……お前が教えてくれたんだぜ」と決め台詞で締める。  
 それはお前にとっちゃ身に覚えのない話だろうが、飛びまわるあのモンキチョウをしばし見つ  
める俺を見て何かを感じてくれるんじゃあないかと、まあそうなるはずだったのだ。  
 
 うまくいかんもんだね。  
 
***  
 
 昼食後、空になったバスケットをコインロッカーに預け、同じような客の動きに流されつつ俺  
たちもまた体験アトラクションへと向かう。  
 できれば講演で紹介してた展示物のコーナーだけ見てお茶を濁したいところなのだが、  
「なあ、あの水晶ドクロなんてすごいと思ったんだが、あれ見に行かないか。レポートに役立ち  
そうだしさ」  
「あ・と・で・ね」  
 チッチッ、と舌を鳴らして指を左右に揺らし、あっさりハルヒは却下した。  
 そうは問屋が卸しても、御覧のようにSOS団団長が許してくれないのだ。  
「そんなのは最後でいいの。体使って覚えるほうが全然楽しいんだから。ほら、さっさと行くわ  
よ!」  
 仕方ない、また振り回されるか。せいぜい前よりは上首尾にと心がけて。  
 さてと。  
 順路的にいって、最初に進むのは例のごとく『火の輪くぐり』ということになる。  
 実際に目の当たりにすると、これがかなり怖いんだ。あと、今回の懸念はそれだけじゃない。  
 この『火の輪くぐり』に俺とあのハルヒが参加した時、なんだかよくわからないが特別なマー  
キングをされたのだと、あの館で種明かしされた時に聞いた。  
 俺ならずとも、“ひょっとしたら”という不安の一つも脳裏をよぎるってもんだろ?  
 どっちみち入るしかないんだったら、いっそ先に『迷宮』に入っちまおうか。万にひとつ、前  
回と同じ穴の二の舞になる場合も考えに入れて。  
 どちらもあいつは楽しんでたけどな。あのハルヒは……。  
「おいハルヒ」  
 今にも跳んでいきそうなじゃじゃ馬娘を肩で抑えながら俺は言った。  
「なに? いきなり」  
「先に『古代の迷宮』ってやつからにしないか?」  
「なんで? こんなのすぐにゴールできるんだし、先に済ましちゃっていいじゃない」  
 確かにそのとおりだが、  
「あ――、もしかして」 もしかしてってなんだよ。 「あたしのこと心配してたりする? 大  
事な顔に火傷でもされたらどうしよう、とか」 ニヤニヤといやらしい顔つきだ。  
 別にそんなことは……。  
「じゃさ、あんたが手本みせて!」と、掴んでいた腕を逆にとられて入り口にグイグイと押し出  
された。  
 
「おはるちゃんたち……」 うん!? 「一緒に来なくてよかったっしょー。でもぉ、ゆきちゃ  
〜ん、あたしもこわいのだめなの〜、傷物になったら……」  
 なんだ、さっきの(片方が)バカップルな二人でくねくねいちゃついてるだけか。ちょっと  
びっくりした。黙ってさえいればやや痩身のニケのように優美な、マーベラスな美少女ではある  
が。  
 
 そういうわけで、すでに後ろが詰まってしまい進退きわまった俺。  
 ええい、ままよ!  
 アチッ、チッ!! 無駄に力んだせいか、いつもより多目に思える火の粉がどたどた走る俺に  
注ぎ、その熱さをもろに感じさせられた。運営の方も律儀に火力とか安定供給してくれなくても  
いいのに。そういうのは電力会社で間に合ってる。  
 なんとかゴールまでたどり着いたはいいが、対岸の女ども――ハルヒともう一人――は腹を抱  
えてゲラゲラと笑ってやがる。  
 いいから、早くこっちこいよ。  
『迷宮』で二人して迷子になったら俺が何とかするわ、もう――  
 
「うぉりゃ〜♪」 「わりゃぁ〜♪」 「とうあっ!」  
 機動性十分の格好でもあり、長髪をたなびかせての前回挑戦時よりさらに華麗に走り抜けて見  
せた。たまたま見ていた別の客も感嘆の呻きを発している。  
「ふっふーん」  
 いまどきマンガの吹き出しでも出てこないだろうというくらい得意げな効果音だ。  
 俺の心配はむしろこのあとなんだが。このとき手の甲がズキリと痛んだように感じたのはもち  
ろん気のせいだろう。  
 
 効率的な順番だろうとこっちのハルヒにもやはり見込まれたに相違ない、前回の流れをなぞる  
ように同じ順番で進んでいく。  
 俺としては、アクセスポイントを探すなんぞという特殊な目的がない分、内容そのものに自然  
と注意が向いている。  
 会場内は閑散というほど少なくもないが行列ができるほどの人出ではもちろんなく、したがっ  
て配置順に入っていくのが自然な流れになっていた。待ち時間があまりないのは助かるね。  
 
『海底に沈んだ石の都』と題するやたら大げさな名前のついたアトラクションに入る。俺として  
は「またか」という感想でしかないうえにこれまた造りがしょぼいものだった。  
 体力だけはけっこう浪費するんだけどね。  
 そして『未開部族に今も残る通過儀礼の謎』という謳い文句、しかしてその実体はアウトリガ  
も露わなスカイワーク車をうまく組み合わせて準備した、お子様用――という表現で解かってい  
ただけようか――バンジージャンプという、申し訳程度にお飾りの木組みがくっついただけのイ  
ンチキ古代遊びに移った。  
 案の定というべきか、ハルヒはこれが痛く気に入ったらしい。  
 うほーい、とかこっちに手を振ってから、  
「涼宮ハルヒ、二回目いっきまーす!」 同伴者として恥ずかしい。  
 それにしても、精魂込めた舞台よりもほんのついでの企画が人気を博すという主宰者泣かせな  
パターンを見る思いだ。  
 俺としてはこんなのは黙ってパスしたかったのだが、  
「きっと自分が生まれ変わった気持ちになれるわよ、さっさと行ってきなさい!」  
 予想通り強引に連れ出され、仕方なしに本日(俺的には)二回目の自殺行為風飛び降り演習を  
敢行せざるをえなかった。  
 低い低いと自分に言い聞かせながらも足の震えがしばらく収まらなかったのは、高所恐怖症だ  
からとか肝っ玉が小さいからでは決してなく、俺という人間がこんな自殺行為まがいを喜んだり  
しない文明社会の一住人である証拠だと強調しておこう。そうに違いない。  
 
「やっほーゆきちゃ〜ん、見てる〜? まこっちゃん、いっきゃーーす!」とかやたら楽しそう  
な叫び声はあの女だ。  
 下は短パンに穿き替えていたが、  
「ひゃーはっはっは、は〜いコマネチ・コマネチってなかったっけ!?」 また呆けたジェスチ  
ャーを。  
 恥じらいというものはないのだろうか。  
 ピンクがかった黄色い声の主に向かって苦渋の表情を隠さない彼には、部族を越えた魂の連帯  
のようなものを感じたものだった。  
 野蛮人の子孫が相手だと大変ですよね、お互い。  
 古代人社会でもそんな後ろ向きコミュニケーションが成立していたのだろうか。  
 
 むずがる赤ちゃんをすかしなだめるようにして、ようやく“なんちゃってバンジー”からハル  
ヒを連れ出すことに成功した俺は、「どうせここだろ」とばかりに次のアトラクションの入り口  
手前まで子供心満載の団長を引っぱっていった。  
 情けない展開を余儀なくされた前回の記憶が、挽回する気力を俺に与えてくれたらしい。  
 しかし、レポートとかホントはどうでもいいんだろうな、こいつぁ。  
 こっちはハルヒのハイペースに振り回されながら自殺体験ごっこまでさせられて、どっかで座  
りたいくらいに疲れちまってるというのに……。  
 見ると、昼飯時からの顔見知りである二人連れのほうは自販機の前にいた。どうやらここで一  
服するつもりらしい。  
 
 まずいな――  
 
 そいつらに追随して……というわけでもないけど、「バンジーで人生の洗濯を無理強いされた  
気分だったが、終わってみればなるほど自分の心の乾きに気づかされた。いや大いに感化される  
体験だったよ。で、この際だ、心はともかくせめて喉だけでも潤したい」などと適当にこじつけ  
て、自動販売機の方へと俺は流し目を送ったのだが、  
「だめ。あとで」 にべもヘチマもなく拒否された。  
 なんでだよ。  
「なんででもエンデでもいいの」  
 言いつつ送るその流し目の先は――っておい。  
 あのさ。  
 言っておくが他人の女になど興味はない。ましてやあれは変な女というより変態に近い。どち  
らかというと家庭環境を心配したくなってるくらいだ。  
 確かに観察対象としては気になるけど……いやだからなんでもありません。  
 こんなところで粘っていると同行する女のココロ模様に巨大な積乱雲を呼びかねないのでとり  
あえず先に進むことにする。  
 仕方ない、あとで調節するさ。  
 
 横幅の広い階段を玄室へと下りていく。全体が薄暗い照明なのはやはり演出だろうか。  
 前回危うくドジを踏むところだった、というか実際にこけた、そう、『商王墓』だとか『逆さ  
ピラミッド』、『地下世界のジッグラト』などという大層な謳い文句のアトラクションだ。  
 最下層の副葬物などについての頭痛を覚えるような説明書きを読んでるとわかるのだが、この  
墓を造った、あるいは造らされた人々の時代には、首をちょん切って捧げる目的で『異族刈り』  
が、何か事が起るごとに、あるいは年中行事のために行なわれていたらしい。  
 いやもう、こんな時代に生まれてなくてほんとうによかったと、背筋が凍りつく思いがしたも  
のだ。  
 最初にきた際は説明書きなどちゃんと読んでいなかったのであまり感じなかったのだ。読んで  
いたら同じ思いを二度繰り返していたことになる。  
「なんか気味悪いわね、ここ……」  
 王の棺と犬葬のレプリカを見つめる俺に寄り添って、ハルヒがそう漏らした。  
 ああ、同感だ。  
 空調の影響だろうか、風が巻いて下から昇ってくるように感じられる。そんな空気の流れのま  
まにふわりと浮いたハルヒの短めの髪が、それでもちくちくと俺の横顔に当たる。  
 よく知っている髪の毛の匂い。  
 
 蹴つまづいた記憶も生々しい階段の上りは用心したが、どうってこともなかった。  
 別のことに気をとられていたからな。思い出すだに赤面ものの理由だ。  
 
 昼間の川辺の遊歩道と変わらないくらいには人出がある。別の言い方をすれば、それくらいに  
は閑散としているわけだ。近くにあるらしい高校の生徒なのかもしれない若者の姿も混じってい  
るといえ、どちらかといえば中年以上の参加者が目立つ。  
 
 玄室のアトラクションから湿っぽい気分で出て、次のアトラクションへと向かう途中だ。  
「ハルヒ、何か買ってくるから、ここで待っててくれないか」  
 自腹を申し出る。無事に帰るという蓋然性を結果的に高めることになるんなら、これくらい仕  
方ないと思ったわけだ。朝は奢ってもらったし。  
「あ……、いいわ、あたしも行く」  
 さっきので怖くなったということでもあるまいが、自販機までハルヒはくっついてきた。  
 時間を稼ぐことはできそうだ。ただし、遅くなりすぎては元も子もない。  
 珍しく甜茶が売っていたので俺はそれを買った。これ苦手な人も多いけど、俺は好きなんだよ  
ね。  
 ハルヒも同じのを選んだ。飲んだ事あるのか?  
「ううん、ないけど。え、これ甘いお茶なの?」 だよ。 「そう……。ま、いいわ。はじめて  
だったり珍しいってだけで先入観が入るからみんな『変だ』って思っちゃうわけ。あたしはいい  
のよ、」 さっそく口をつけて、「こういうのはね、新たなものに挑戦する気持ちが大事な  
の!」  
 そんな気合を入れないとだめなのか。  
 根性を入れて飲んでみたものの、ハルヒは「うへっ」と微妙な表情になった。  
 大丈夫かね。  
 
 
 俺の視線をトレースしたハルヒがつぶやく。  
「またあの二人と一緒ね――」  
 いいタイミングで風見鶏ペアがやってきた。途中で別の行動を取ったのは、こうなるとかえっ  
て都合よかったかもしれん。  
 すぐ後ろに付くってのがこれ以降我が作戦でのベストポジションだ。  
「案外偽装してあたしたちをスパイしてるんじゃないかしら。ねえキョン、そう思わない?  
だったら面白いのに」  
 いいや。離れないように調節したのは俺のほうだし。  
 って、なに変なこと期待してるんだ、だいたいあんな鬱陶しいカップルに偽装してどんなメリ  
ットがある? そんなのが許されるのはオースティン・パワーズくらいだ。  
「それよそれ。逆転の発想なのよ。初めから変だったらかえってそれ以上怪しまれないでしょ」  
 なるほど。SOS団のことだな。  
「それにしちゃおバカだけど――」  
 あからさまに件の二人を眺めつつ、ハルヒはそう付け加えた。おい、聞こえるぞ。  
 まあどっちもどっちだが。  
 
「こんなのとばせばいいじゃないか。もともと僕はどうだっていい」  
「またまた〜、遠慮するない。あたしはぜんぜんオッケ。ほかならぬ『ゆきちゃん』ならなんぼ  
でも見せちゃる」  
 うら若き乙女のものとも思えぬ赤裸々な会話が漏れ聞こえる。スカートの上から尻のあたりを  
パンパンはたきながら。というよりわざと聞こえるように言ってないか、あの女は。  
 第一、気をつけて進めばそんなに露わになることもなかろうに。  
「わかったから、せめて恥ずかしい思いをさせないでくれ、頼むよ」 嘆く男。  
 まったく同感だね。嘆かわしい世の中だ。  
 しかし、どうやら思惑通りに足を運んでくれそうだ。これは助かる。  
 ハルヒはというと、前を歩く二人はさしあたってどうでもいいようで、  
「いよいよもどってきたわね。さんごちゃんが言ってたやつ。『何の目的で造られたのか謎だら  
け、一説によれば“胎内めぐり”、いや私はそう考えたい』とかなんとか」  
 目前に洞窟探検を控えて張り切っていた。  
 要するに、ふたたび『トンカラリン』の近くまで来たってわけだ。今度は入り口のほうだけど。  
 手の甲の、一度負傷したあたりがまた気になってくる。治ってるのに……というより、怪我を  
する前の状態なのだが。  
 大丈夫、あれはたまたま、偶然だ。不慮の事故ってやつ。  
 口まねはまあいいとして、それにしてもハルヒ、『さんごちゃん』て。  
 
 両側が絶壁になった狭い道が数十メートル続いている。どこで手の甲を切ったのかは覚えてい  
ないが、できるだけ慎重に俺は歩いていた。  
 空は……ただただ白く明るい。  
 レプリカにしては非常に質感の高い両サイドの断崖をペンペンと叩いたりしながら、ハルヒも  
同じように空を見上げていた。  
「ここはえらい気合入れて造ったのね……」  
 そういやあのチケットのイラストや写真に載ってたっけ。『売り切れ必死!』とか自信ありげ  
なことも書いてあったが、そもそも何枚売れたのだろうね。  
 
 あっけないもので、つらつら考えているうちに俺たちは、広い中庭のような場所にいったん出  
た。  
 
「いや参った参った、あてくしとしたことが見せパンじゃないのよね〜。しかもなんと! ゆき  
ちゃん好みの――」  
「うるさいよ。好みなんか話した覚えもない」  
「ああん、でもほかの男のズリネタにでもされちゃったらどうしよ!? したら、ゆきちゃんの  
アッツいので慰めてくんない? でないと死んじゃう〜、ふへへ」  
 誰がするか。見たけど。  
「いいから黙れ。だいたいイヤならここはパスしようって言ったぞ?」  
「いやん、つれないこと言わないでよ、わかってるくせにぃ。あたしら他人じゃないんだし」  
「他人だ、変なこと言うな」  
「いっひひ、隠すな隠すな、あたしのこれ(♀)はゆきちゃんのモ・ノ・よ・ん♪」  
 もうあからさまにセクハラだろ、これ。  
「やめろ、離れてくれ」  
 構わずうねうねしてやがる。これ以上直視できん。  
 
「…………」  
 聞こえてくる耳年増(たぶん)の戯言にさすがに唖然としているハルヒを見ると、もうなんか  
顔どころか耳まで赤くしている。俺の目に気づくと袖を引っぱって、「さっさと行きましょ」と  
うつむき加減で促した。  
 こっちのほうがよっぽど可憐な少女らしい振る舞いだな…。そう思った自分に気づいて、我な  
がらちょっと驚いた。  
 
 出口に向かって徐々に上っていく坑道。途中から急激に狭まり、パッと見だとそれ以上進むの  
を断念してもおかしくないほどだが初めからわかっていることなので構わず進んでいく。どのく  
らい狭いかというと、現代人の平均的な大人ならほとんど這って通らなくちゃならん。ここまで  
来た道からして狭く、人間一人がやっと通れるくらいなのでやめとこうにもいまさら引き返せな  
い。  
 
「いやーーん、こわーい、……こらエロユキいま当たったでしょ。ワザとねワザと」  
「何言ってる、急にバックしてきたのはお前だろ! コラまた!」  
「あはーん、感じちゃったじゃないさ、おイタはまだって言ってるのにぃ。あ〜んもう責任とっ  
てお嫁に貰ってくらっさい♪」  
 アホが一人で盛り上がってやがる。  
 
 待てよ胎内めぐり説だとこの狭い穴はおそらく……いかん、変なことを考えそうだ。  
 古代の人が意匠をこらしたものだという左右のひだひだが、今となっては気になって仕方ない。  
 セクハラ女のせいだ。  
 はじめからあさっての方向を向いているらしいがとにかく異様にパワフルなあのイカレ女に圧  
倒されてしまい、年中無休型女子生徒または祭日の娘として北高を席巻するハルヒすらも比較的  
おとなしい、というか近似的に普通の客と化していたような気がする。  
 いやいや、世界はときに広い。  
 
 襞のような造形の石壁に囲まれた狭い穴を這って通り抜け、俺たちはようやく外界に復帰する。  
 間抜けな会話を聞かされて煩悩に責めさいなまれはしたものの、産みの苦しみを経てまろびで  
たような感覚で、なんとも爽快だった。  
「ふあーー、帰ってきたぁ!」  
 昼食をここで取ったんだったな。そこの半月型のでかい石の向こうで。  
 傷を作ってしまう歴史は幸いにも回避できたらしい。  
 だが一番気がかりな迷宮アトラクション、別名『ウェルカム・インザラヨーク』が残っていた。  
大丈夫だとは言われたが、さてどうかな。  
 
 どうやらあのカップルはまっすぐ『ミノタウルスの迷宮』に向かうようだ。離れないようにし  
なければ。  
 さ、行こうぜ。そう言って促したものの、今度はハルヒがいまいち乗ってこない。  
 どうも『迷宮』行きに不満があるらしい。まあなんとなく理由はわかってるが、これはお前と  
俺のためなんだ。  
 思い切ってハルヒの手をとることにする。さ、ちゃっちゃと行くぞ。  
「…………」  
 わずかに抗議したそうな顔だったが、掴んだ手を振りほどくつもりはないようだ。よかった。  
 相変わらず熱っぽい女のぬくもりを感じながら、アトラクションの入り口に俺たちは向かった。  
 
 そろそろ客足もとだえてきているのか、俺たちを除けば他には数人しか迷宮前にはいなかった。  
 あの絵がフラッシュのように頭をよぎる。《ウェルカム・インザラヨーク》 そして、  
 
 そう、あの強大無比な《扉》――  
 
 色物カップルに遅れまいとした結果か、なんとなく相手もこっちに合わせてくれてたような気  
も今思えばしてくるが、いずれにせよほぼ同時にアトラクションに入ることができた。  
 うまく保険代わりにできそうだ。  
 
‥‥‥‥‥‥‥・  
 
「お昼はあっこでもよかったねえ、おはるちゃん」 「ほんとほんと」  
 
 オールつきの二人乗りボートはどこにもない。  
 目の前の中庭に見えるのは澄んだ湖の縁でもなんでもなく、ただ緑濃ゆい憩いの場がこじんま  
りとであるが広がっている。  
 乳白色のこぎれいなベンチがところどころ並んで、じっさい座って歓談している人の姿もあっ  
た。  
「サンドイッチだったっしょ。豪勢な。やっぱぜんぶ自前?」  
「そーよ、おにぎりと交換したらよかったわね、おいしそうだったもん」  
「あらん、そりゃもったいねえ。言ってくれたらよろこんで差し上げたのに」  
 笑いさざめく二人の少女たち。  
 とくにあの見てくれは際立って良い女の声を聞いていると、なんだかこっちが癒された気分に  
なるほどに透き通って聞こえる。内容さえ目をつぶれば。  
 
 もういろいろ端折ってるわけだが、それくらい何もなかったんだ。ここまで。  
 聞けば、案の定というか近所の公立高校に通っている高校生だという。  
 てっきり痴話を繰り広げる変態さんかと思いきや、通っている高校では生徒会副会長および兼  
任書記まで努めるという自称『まこっちゃん』と、これまた本人によれば“下級生の妹二人が生  
徒会で世話になってるよしみで彼女に同伴しているだけ”という同級生の『ゆきちゃん』の二人  
らしい。  
「と申しておりやすが、実は将来を約束した仲でして。ここだけの話、彼ったらそりゃあもう夜  
はすごいんです、へっへ」  
 などと与力に取り入る悪徳商人のように『まこっちゃん』が言い添えた。「うそつけこの痴女  
め」と罵声を浴びていたけど。  
 
 なんでそんなこと知ってるのかって?  
 というよりいつ互いに会話するようになったのか、だよな。  
 簡単に説明するとこうなる。  
 まずもってハルヒの勘違いから始まったのだが、先ほどから件の女を気にしている俺の様子が  
気に入らなかったらしく、動向に神経を尖らせていたところ、女の『おはるちゃん』というフ  
レーズに思わず反応してしまい、紆余曲折を経て……というほどでもないが、まあ互いに言葉を  
交わすくらいには近づきになったってわけだ。でまあ、気付いたら4人で写メ撮ってたり。  
 なんせこんなインチキくさいイベントをデートコースに選ぶくらいだし、どこか相通じるとこ  
ろがあったってのが真実かもしれん。  
 ときに、ハルヒが自分のことと勘違いした『おはるちゃん』ってのは、このゆきちゃんの妹さ  
んのことだった。  
 
 中庭で娘二人がはしゃいでいたときである。  
「あいつが言ってたことなんだが――」  
 隣りのゆきちゃんがそう前置きした。あの少々特異な感性の人が何をです?  
「せっかくあんないい娘が気合入れて弁当作ってくれてたんだし、もうちょっと楽しそうな顔を  
見せてもいいだろうにって。正直、僕も思った」  
「…………」  
 そういう風に見えてたのか。  
「どんな顔するか気になるもんだろうよ、せっかくキミのために作ったんだから。……ま、これ  
言うと自分を省みてない発言みたいだが」  
 
 こうして知り合いとなった合計四人で、この簡素なアトラクションというか小部屋を覗いて回  
る。  
 イルカがたくさん泳いでいる絵くらいか。模造にしては出来がよくて印象的だったのは。あと、  
やたらでかい壷。パリジェンヌって説明のあった絵も見覚えがあるものだった。  
 
「胸でかいわねー、何食ってああなったのかしら」  
「おはるちゃんもおっきいじゃん? あ、もしかしていつも揉んでもらってるのかな?」  
「自前よ、自前。それよりあなたこそ、やらかそうね胸ね」  
 揉んでやがる……って、おいやめろ! あんたも身をくねらすな。  
「やん♪ なんか変な気分になっちまいやすよお姐さん、やっぱあとでゆきちゃんにいたしても  
らわないと体の火照りがおさまらないかも。うん、もう決定〜」  
 すいません、うちのハルヒの傍若無人は昔からなんです。  
 ゆきちゃんも苦笑してしまう。  
「お互い様だけどさ、変わってるな」 はい。  
 つうか、着替え時の教室や更衣室での会話――について男が妄想してそうな事――をこんなと  
ころにまで持ち込まないでくれ。頼むから。  
 
 かくして変態桃色空間には不覚にもおびき出されたが、局地的異時空間に連れ込まれることは  
この分だとなさそうだ。  
 それにしても、『ラヨーク』か。  
 見世物小屋という意味もあるのだが、わりと雰囲気合ってるかもな。  
 
 で、あっけなく終盤に向かう。  
 いろいろヤキモキさせられた途中の会話はカットしとこう。ゆきちゃんと俺の精神衛生上よく  
ないのでね。  
 といいつつ、全部カットというのも味気ない気がするんで、話の筋に関係ありそうなのを一つ。  
線文字の石版だとかが展示してあった部屋で、まこっちゃんに話しかけられたときの会話だ。  
 
「キョン吉、キョン吉ぃ」  
 人払いをしてから密議を交わす公儀の隠密よろしく声をかけてきたのはともかく。  
 さすがにその呼ばれ方は意表をつかれた。  
 なんだよ「キョン吉」って。俺は平面フロッガーか。  
「なしてこんなマイナーなとこデートに選んだの? てかよく嗅ぎつけたわねって感じかし  
ら?」  
 お互いさまだと思うが……。言いながらハルヒの視線をチェックする。  
「いやーご明察! さいですわ。けどあたしらはここのもんだから、バカっぽいけど面白そうだ  
し来てみたってわけ」  
 訂正しておくとデートじゃない。部活じゃないしさらに言えば同好会未満というか、そこのハ  
ルヒが強引に立ち上げた課外活動に巻き込まれた結果がこれだ。  
「したらば。そっちのおはるちゃんが調べたの? あ、ひょっとしてウチの高校に知り合いでも  
いた?」  
 知らんけど、たぶんいないと思う。  
「同じく巻き込まれ中のしがない超能力者野郎がチケット持ってきた」  
 どうみても嘘っぽいがこれが事実だ。  
「ほうほう。そりゃたまげた」 面白がってくれたらしい。「あたしもそうなのよ? 奇遇ね  
え」  
 
 極冷気が背中を一気に冷やす。こいつら『キカン』か?  
 
「特技はテレパシー」  
 
 痴話じゃなかったのか。って、なんですと!?  
 
 まこっちゃんはニヤニヤして訳知り顔だ。まさか全部読まれてた?  
 
「別の言い方すると『女の勘』よん。だからゆきちゃんみたいな好い男GETできちゃうわけな  
のね」  
 
 “何言ってるんだこいつ” 俺の勘によるとゆきちゃんはそう言いたそうだ。  
「で。あたしのテレパシーによるとさ、」  
 いいっすよ、どうせしょうもないダジャレかなんかでしょ。  
 
「そろそろおはるちゃんヤキモチ焼いちゃってるよ?」  
 
――しまった。  
 むくれた顔でこっちを睨みつけてやがる。女性絡みになると俺の動向にやたら過敏なんだ。  
「……置いてくわよこのバカ!」  
 イタ、痛い、耳引っぱるなって。  
 
 てなわけで、迷宮内のほとんどの部屋・場所は歩き尽くしていた。といってもたいした数でも  
道のりでもなかったが。  
 
「ささ、ご両人、遠慮せず入りよし」  
 彼女はどこの生まれだろう。  
 説明書きを信じれば、ここからすぐ出口に通じているらしい。つまりまこっちゃんの案内して  
いる部屋はこのアトラクションの目的地なのだが、なんともあっけない。まったく迷うこともな  
く着いてしまったもんだ。迷うほどの広さがなかったともいえる。  
 待て待て。罠かもしれん。  
 人を丸呑みにしそうなほど巨大な牛面人身の“くだん”が、あるいは人間の言葉をしゃべる巨  
大な怪鳥が、はたまたグリフォンないし有翼神獣の待ち構えているかもしれないその部屋に、意  
を決して俺は――  
 なーんてな。  
 入ってみるとそこはいままでの部屋とほとんど変わらぬ殺風景ではあるがくすんだエンジ色を  
基調にデザインされた一室で、とりあえず置いてみたといわんばかりの椅子が一つある。その後  
ろのほうには人間一人では手に余りそうなくらい大きな両刃の斧と『重さを実感してみてくださ  
い』という板書があった。いや絶対持てねえってあんなの。  
 そういや、漢字の「王」はこのような大きな斧(父権ひいては王権を表象する鉞)の形をモ  
チーフにした字形らしいとか書いてたのを思い出した。それと似たような意味があったのかもし  
れん。あの暗い地下王墓の説明書き、ついつい読んじまったからな。  
 出口にはご丁寧に矢印までしてあって、付近にトイレもあるんだと。  
 あまりののどかさに拍子抜けした。  
 
 出てみると陽もようやく西に傾いていたことに気づく。  
 一目瞭然のことでもあるけれど、ゆきちゃんたちが言うにはこのあたりの地形ゆえに付近は夕  
方一気に暗くなるらしい。  
 早めに閉まるのはその辺のことも考慮してのことだと彼らは認識しるようだ。  
 
「おはるちゃん、キョン吉ぃ、じゃね、ばーい」  
「まったねー! お二人さん」  
 
 俺としては体験型アトラクションよりはなんぼか楽しみにしていた『特設展示コーナー』から、  
そろそろ帰る間際の挨拶だ。  
 ちなみに俺は、『水晶ドクロ』や『スカラベ』にひとしきり魅せられてたさ。あれはいいもの  
だ。  
 迷宮以後、楽しく過ごさせてもらえたのは彼ら二人のおかげである。そのゆきちゃんたちより、  
俺とハルヒは先に退出した。  
 彼らは地元だし、少々の長居は問題ないようだったから。妹さんかららしい電話攻勢にそろそ  
ろ悩まされつつも、快く送り出してくれた。余談になるが、メールの連弾を面白がっているなか  
で、ふと思いついた俺はゆきちゃんに「お兄ちゃんって読んでもらうコツ」を聞いてみた。  
「解からない。環境とか成り行きだろうよ。それより兄離れしてくれる良い方法を教えて欲しい。  
ぜひ」  
 などと俺にとってもはや未知の分野でしかない話を振られてしまった。その流れで写メを見せ  
てもらえたが。ウチの妹の写真もついでに見せる。  
 結果、こっちに転校したくなった。  
 なんというか、ね。満開の桜も霞みそうな笑顔はもう沈魚落雁閉月羞花の元ネタをさっくりこ  
の娘らということにしたいくらいで、要するに双子そろってものすごく可愛いかった。  
 ここだけの話、朝比奈さんもかくやといった感じだ。  
 全国数万人のみくるファンのみなさんごめんなさい。あと朝比奈さん弱い僕を許して。  
 懺悔ついでにぶっちゃけると、俺がこっちの人間だったらいっそ「お義兄さん」と一方的に呼  
んでゆきちゃんに気味悪がられていたかもしれん。  
 現実にいるんじゃないだろうか。  
 まあなんだ、このあたり登場人物の容姿から何から少年漫画誌のバトル物にありがちなように  
インフレ起こしすぎだろうなどと思うかもしれんが、そこは我慢してくれ。  
 当事者の俺からして思ったんだ、《こいつらリアル明稜帝グループかよ、クリフどこ?》って。  
 あと、なんにせよ美人を見れるのは眼福だろ?  
 
 冗談はともかく。  
 またいつか、どこかで会いましょう、お二人さん。妹さんたちにもよろしく。あとまこっちゃ  
んのお兄さんも。  
 これは言ってなかったっけ。  
 あの陽気な耳年増のほうに同学年の兄貴がいるらしく、しかも同じ高校の生徒会長を務めてお  
り、ゆきちゃんによると始終ニヤけ顔がウザいうえにやたら解説好きなんだとか。成績も相当な  
もので、ほぼ全科目で学年トップクラス、同じく優秀な妹としのぎを削っているらしい。  
 まったく、あの女も底がしれん。  
 
 
 バスケットをふたたびロッカーから取り出して、あとは帰途につくだけ。なんかホッとするね。  
安堵の溜息ってのが本当に出てきた。  
 せっかくだし、無事だったら最後に寄ろうと密かに決めていた売店を覗く。  
 
「ねえ。これってさ、よく知らないんだけど北海道土産じゃないの?」  
 
 俺も前からそう思ってたんだが、とにかく謎の古代遺跡に関係のある木彫りのクマなんだろう、  
しかもシャケを咥えた。そっとしておいてやってくれ。  
 てかマリモちゃんまで置いてあったぞ。どういうことだよ。  
 
 …………。  
 
 朝比奈さんへの土産について熟考を重ねていたとき、見つけた“それ”。  
 “それ”に気づいたとき、急に胸が締め付けられた気がした。  
 
 あのハルヒのものとは違うけど、そこには見覚えのある花の絵があったのだ。  
 
 そう、あいつには何も……。  
 
 もうひとつ、長門への土産はこれにしよう。  
 かわいらしい花ショウブ柄の栞を手にとって、隣りで小物を品定めするハルヒにそう提案した。  
 
 余談だが、売店で見つけていたハルヒの落書き――校庭の模様のこと――が入った絵はがきを、  
俺は会場を後にする前に買っておいた。ハルヒがいない隙にバスケットに忍ばせておく。  
 まあ、ちょっとしたいたずら心さ。  
 
 
 帰りの話になる。  
 さすがに遊び疲れたんだろうか。座れそうな電車を選んで乗り込んでからものの5分でハルヒ  
は眠りに落ちていた。  
 膝の上のバスケットを落としかねないので、俺の膝に避難させておく。  
 午前はこっちが借りたことだし、そっとしておこう。たぬき寝入りかもしれないけど。  
 わりと寛大な気持ちのまま俺は、かわいい寝顔を肩口から覗かせているハルヒに、そのままし  
ばらく肩と肘を提供することにした。  
 胸が高鳴っていなかったかといえば、間違いなく動悸は速まってたと思う。それになんか顔が  
熱っぽかったさ。  
 たぶん、こいつもそうだったんだろうね。  
 
***  
 
「これだけでいい?」  
 
 いい。一本あれば当分大丈夫だろうし、第一それ高いし。  
 そう言ってさっさと買い物をすます。  
 ひきもきらぬ店内の人だかり。どこからこれだけの人が集まってくるのかね、まったく。かく  
言う俺もその中の一人なわけだが。  
 言い出したことはよかったにしても、現在使ってるプリンタの機種名を二人とも知らなかった  
ので、そのあたり抜かりのなさそうな古泉に電話して聞いたらあっさりと判明して助かった。さ  
すがは副団長と一応ほめておこうか。  
 
 帰りに寄ろうと約束していた家電大型量販店での話だ。  
 
 バスケットを持ったままなのが俺としては少なからず恥ずかしいのだが、持っている当のハル  
ヒは案の定というか問題ないみたいなので、ま、いいとしよう。  
 
 しかしそれだけでは終わらなかった。考えて見りゃ十分予想できたんだけどな。  
「せっかくだし」というハルヒにせがまれ、不承不承連れられたのはおしゃれな雰囲気で俺をた  
じろがせる専門店街だ。  
 ハルヒには心に決めた店がすでにあった。なんでも四角錐型のチョコレートケーキなどで人気  
を博しているのだそうで、グルメ雑誌で取り上げられるほど評判の店らしい。半ば強引に俺を  
引っぱってきた女の予測にたがわず、店内は若い女性で賑わっている。  
 さらに驚いたことには、ハルヒはいつのまにか電話予約まで入れていた。  
 なんという周到さ。  
「キョンとこの分も二つね。お母さんと妹ちゃんきっと喜ぶわよ。代金は立て替えとくから今度  
でいいわ」  
 しかも自分の分は無いんだと。なんでかって? 俺も変に思って聞いたら、  
「超人気なのよこれ。欲張ってたくさん頼んだせいで買えない人がいたらかわいそうでしょ」  
 だったらなんでウチの分まで予約するんだ、頼まれてもないのに。  
 俺がそう言うと今度は黙秘に入りやがった。  
 確信したね。こいつは最初からここに寄るつもりだったに違いない。クラスメイトに話を聞き  
まくった挙句ここに決めたんだろう。  
 そういや密かに忍ばせていた絵はがきも見つかっちまった。それを見たハルヒはすこしだけ変  
な顔をして、  
「これ、あんたが?」  
「ああ、俺。自腹でな」  
「そう」とだけ言って、あとはノーコメントだった。  
 
 寄り道でここまで来たのはいいとしよう。が、帰りが少し遅くなりそうだ。  
 
「もうこんな時間ね――」  
 日の長い季節なので外はまだ十分に明るいけどさ。  
「あたし、なーんかお腹すいちゃったわ」  
 何が言いたいんだろう、物欲しそうな目をしてやがる。  
「なんだよ、はっきり言えよ」  
「…………」  
 見つめ攻撃か。  
 いつの間にやら伝授されていたというのか、長門みたいだな。  
 やれやれ。肩をすくめて降参の合図。  
 どうも予想外の出費を覚悟しないといけないようで、父さん。  
 
 本当のところ、こんなことだろうとはだいたい読めてたけどね。  
 
 
 交渉を重ねた結果、もったいないというか金も無いし、この時間ならいつもの店がまだ開いて  
るだろうということで話をなんとかまとめ、最後は北口駅前の喫茶店に二人して入ることになっ  
た。  
 なじみの店ってやつだ。  
 もちろん、お互いの家には連絡してる。そういうとこはきっちりしてる娘なのだよ、傍若無人  
にみえて。  
 はなから奢らせるつもりなのか、やけに嬉しそうな涼宮さんだったとさ。  
 
 へ? お前だって満更じゃなかったんだろうって?  
 いろいろあったけど、どうにかつつがなく帰ってこれたんだ。嬉しくないわけがない。  
 
 そうだろ?  
 
 どうしたって生きてるかぎり一人で背負ってくしかない悲しみ事ってのがあるんだ。消えち  
まった人の思い出は、まだ生きてる人にしか残らないから。  
 それは悲しい。考えたくもないくらい。  
 でも、泣き叫んだところでそれを帳消しにはできないのだ。  
 それに、生きているからこそ人は何かを負うことができる。描きなおした花と栞の思い出、  
貼ってくれた絆創膏の記憶、そしてあいつの肌のぬくもりも。  
 
 消えてしまったあいつから、俺は少なくともそのことを学んだ。そう信じてる。  
 いや、嘘でもいい、せめてそう信じたいんだ。  
 
 あいつに会った記憶のために。  
 
 だからこそ……  
 
 あいつがそのために去ってゆき連れ戻してくれたもう一人の“自分”――俺の指摘以来その麗  
しい髪を短く揃えたままの隣りの女――と二人で帰ってこれた、ただそれだけのことが、俺に  
は無性に嬉しかったんだ。  
 
 

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