〜〜 るてん(十一章) 〜〜  
 
 二人の残された時に水を差すことがないようにと先生は考えたに違いない。部屋を出た彼は少  
年達と共に別の部屋のソファに腰掛けていた。こじんまりとしているけれど、テーブルを囲むソ  
ファと調度品は趣味のよいものだ。  
 未来から任務を帯びて遣わされているのであろう彼が、別の誰かさんと電話で話していた部屋  
でもある。  
 蛍光灯ではないランプが二つ点っている。ほの暗いが温かみのある色調で、ソファのあたりが  
浮かび上がって見えている。  
 
「……いっそ《鏡》の景色なんか消さんかったらいいんちゃうか、いっちゃんよ」  
 
 ハルヒが去った後の話をしているらしい。鏡の景色とはなんだろうか。  
 糸の示す道ををたどった少年は沈黙していた。先生の言葉には『機関』の少年が答えた。  
「そうですね。知らないままのほうがいいのかもしれません」  
 顎に手を添えて考える格好をしている。  
「でも……きっと後悔すると思うんです。彼というより、僕自身が」  
 声をややひそめているのは、漏れ伝わることを恐れているのだろうか。  
「吐露したいと思っています、できれば」  
 もう一度光を纏う予定である男が言った。  
「《扉》を破棄することは仮想的なこの時空を消去することと同義であると」  
 
 仮想的な時空。  
 考えてみると不可解なことがあった。未来からやってきた(と思われる)少年がここで電話を  
していた相手が誰であれ、その相手が存在するのはハルヒが北高にいなかった“あの世界”では  
なかっただろう。  
 記憶情報の改竄に巻き込まれなかった少年の経験から推察されるように、その中で暮らす人は  
ごくごく普通の生活を送っていて、現に朝比奈みくるや古泉一樹、長門有希さえも特殊な背景を  
もたなかった。  
 したがって、普通の世界では『機関』に存在理由が無いように『器官』も必要なかったに違い  
ない。必要ないということは、おそらく存在していないということだ。また人間関係という観点  
からいえば、特殊な属性を削除された人ほど本来の世界との乖離は大きかったはずだ。  
 少年の電話の相手が以前からの知り合いであるという仮定が正しいとすれば、それは彼の未来  
人としての立ち位置に深く関わるものであり、その立ち位置をもたない彼ならば知り合うことの  
なかった相手である可能性が高い。仮に知っていたとしても、互いの関係は大きく異なっている  
はずだ。  
 さらに言うなら扉の絵の力が強くなった最初の日も。異変の渦中にある館ですでに力が発動し  
ていたにもかかわらず、連絡は電話でついた。  
 すでに“異世界”にいるはずの相手だったのに。  
 
 おそらく、外界からの・または外界への、特定の連絡を選択的に受容するように構築されてい  
たただし、あくまで本来の時空から突き出た出島のような形で。  
 ものと思われる。あるいは排除しないように。  
 この点について付け加えると、『ウェルカムインザラヨーク』の中庭でもそうだった。  
 
 扉の絵の“閾”によって同定された世界なるものの実体について考えさせられる。  
 すなわち、ここは“どこ”なのかと――  
 
「どう思うやろね、彼」  
「…………」  
 元・謎の転校生はただ目を細めた。  
 
 おそらく、外界からの・または外界への、特定の連絡を選択的に受容するように構築されてい  
たただし、あくまで本来の時空から突き出た出島のような形で。  
 ものと思われる。あるいは排除しないように。  
              ↓  
 おそらく、外界からの・または外界への、特定の連絡を選択的に受容するように構築されてい  
たものと思われる。あるいは排除しないように。  
 ただし、あくまで本来の時空から突き出た出島のような形で。  
   
 
 テセ氏(仮名)が時間を確認する。「そろそろか」  
「ぜんぶ話しといて、あの絵でみんな忘れてもらうんか? ワシらのとこにしたらその方が都合  
がええかもしれんけど」  
「あの《望み》ですか」  
 親指と人差し指で眉間を押さえ、やや深刻な視線をテーブルに落としている。  
「変な力が付いてから二枚目に描いたんがあれやけど、あの絵は初めから別格やったな。ヒトの  
心に入り込める、怖いけど綺麗な絵。……そうする?」  
 花壇に落ちていた記憶装置を先に拾ってみせたことのある少年、それから青い巨人を刈る少年  
を順に見て笑いかける。含みのある笑いには見えないが。  
「どうせ忘れるんやから『平行世界なんかない。あの涼宮さんはどこにもおらへん』と言いきっ  
てしまうか?」  
 
 それに直接は返答せず、古泉一樹は謎めいた韻文を読むような物言いをした。  
 
「ここは“墜地”ではなく、形ある何かですらない。情報の流れの片隅でわだかまった泡沫(う  
たかた)、あるいは淵によどんだ水。あの絵の“閾”によって恣意的に意味を付されたもの。現  
実世界のいわば真下に位置していて実際には虚無に近い。招かれた観察者の意識をもって構築し、  
その中でだけ知覚できる虚偽の事物。それでいて我々の世界の有り様さえ舞台のように演出しよ  
うとする――」  
 
「誰に言うてるん?」 それ以前に意味がわからない。  
 
「…………見えざる世界への道、その門の先に」  
 ためらいがちに一樹は答えた。  
「“インビジブル・ハンド”さん?」  
「…………」  
「けどなあ。涼宮さんのおる場所がもしほんまにあったら、きっとあのままの涼宮さんがいるん  
やろ。もしかしたらあの絵はどっかに作ってるのかも知れん。わしらが知らないだけで」  
 おやっさんのゆったり構えたフォローが終わらないうちに、非情とも思える宣告がなされた。  
 
「模擬的平行世界の涼宮ハルヒがあの部屋から完全に消失した――」  
 
 ハルヒたちのマーカーを脳内デバイスによって知覚できるものと推察される少年は、意識的に  
表情を消しながら二人にそう告げた。  
 感情を加えず事実だけを伝えようと心がけたものらしい、時報を読みあげるような彼の口ぶり  
が、かえって言葉の重みを増したようにも思える。  
 
***  
 
 部屋に戻った三人と行き違うようにして、中に残っていた少年は出て行こうとしていた。  
 うつむいたまま彼は『先生』に手洗いの場所を尋ねた。おそらく顔を洗いたかったのだろう。  
「ああいう顔されるとなあ……」  
 彼の背中を見送ったあと、先生はぼそりとつぶやいた。  
 
 戻ってきた彼を待ち受けていたのはなかば事務的な一連の流れへの同意の要請だった。  
 第二の懸案事項である《扉》の破棄を行なうこと、洋館の時空復帰と時間遡行、涼宮ハルヒの  
時間軸復帰に全員があわせるという内容である。  
 彼らが立っているはずの“世界”についての冷酷ともいえる説明は差し控えられた。鏡の絵が  
映していたものを取り払うことで、それとなく明かすつもりなのかもしれない。  
 先生が一連の話をまとめる。  
「扉の絵の力の名残りをこの絵描きの絵がしばらく映す。扉が無くなったら直ちにこの家を元の  
世界に戻すようにしとく」  
 時間遡行の際、館の内部の状態が過去にさかのぼることはない。ただし半日分の肉体的消耗な  
どを取り去った状態でいわゆる有機情報連結の再生成も行なわれるという。  
 その際、記憶情報に手を加えることになっていると先生は言った。  
 
「どうする? あんたのそのバンドエイドの傷とか元に戻す? 記憶は――まあワシらんとこに  
してみたら忘れてもらった方が助かるやろうけど。どっちでもええで」  
 
 取りようによっては脅迫なのかもしれないけれど、そんな圧力は微塵も感じさせない。これは  
彼の人徳といえるだろう。  
 
 ハルヒに一番近い友人の返事を聞いた先生は、ほかの二人にも記憶改変について尋ねた。未来  
人の少年は「どっちでもいいです」と、敬語を使う意味に疑念を生じさせるほどぶっきらぼうな  
態度で答える。  
 他方、  
「できればあの涼宮さんの姿くらいは覚えていたい気持ちもありますが」  
 冗談を言っているつもりなのかよくわからない、団員その1にはおなじみの曖昧な笑みを浮か  
べて一樹は言った。  
 それ以上の彼らからのリクエストはなかった。  
 
 扉の絵の破棄を執行する準備に入る。  
 
「なあ古泉」  
「なんでしょうか?」  
 絵描きの絵に向かう一樹に、ツッコミ役の多い相方が声をかけた。  
「ここだけの話、あの時のお前は一人だったのか?」  
 午前中の遭遇時のことに違いない。  
「さて……僕はどう返事すると思いますか?」  
 質問返しをしながら、エレガントな動きで指を――  
「あのな。お前がやると気持ち悪いんだよ。あれは長門だから良かったんであってだな」  
 特進クラスの同級生は「ふっ」と薄く笑った。「正解です」  
「男に向かって男がやると気持ち悪いだけだ」  
「そうですか……」  
「そうだ」  
 古泉くんにはとりあえず肩を落とすなと言いたい。いろんな意味で。  
『先生』と糸を手繰った男は、まもなく焼き尽くされるであろう扉の絵を黙って見つめている。  
 
「ま、ハルヒの言ってた『涵養日』だし、俺もとやかく言うつもりはないからそこは安心してく  
れていい。で、どうなんだ?」  
「フフ。それは、やはり『あれ』でお願いします……フフ」  
「……フン」  
 未来人の少年を真似したかのように、最後は鼻を鳴らした。  
 
 
「《鏡》にたいする《望み》の効力を《シェル》によって遮断します」  
 
 絵描きの絵の前に立つ古泉少年が宣言した。こうすることで間接的に教えているつもりなのだ  
ろうか。  
 この世界が実体のないものであることを。  
 即座に変化が現れる。  
 そう、窓の外の景色が一瞬にして消えた。窓からこぼれる光によって見えていたはずの木立や  
生垣もすべて消え、見ていると圧迫されそうなくらい濃密な、まさに暗闇が垂れ込めた。  
 同じ一枚の絵《望み》すなわち《シェル》が、片や想念を引き出して鏡の絵にそれを映させ、  
他方でその効力を遮断したのだ。  
 
 一樹が示唆していたように、観察者の存在があってはじめて窓の外の景色は固定される。それ  
を景色として映すことが《鏡》によってなされていたらしい。いわば想念の視覚的な具象化であ  
る。《扉》によって構築された仮想世界を、観察者の意識という異なるレイヤにまで連絡する役  
目を《望み》が担い、有効化された範囲を視覚情報として《鏡》が構築する。  
 一見まどろっこしい仕組み。  
 これは、《扉》の力が自在に発揮された場合に生じる結果について『先生』自身が危惧し、最  
大限これを慎重に扱った結果であった。  
 本当に世界を構築してしまうかもしれないという予感を抱いたのだ。  
 
 口頭ではそれらを説明されずじまいの彼だったものの、ようやく窓の外の異変に気付いた。密  
談の内容から考えると、むしろ気付かされたというべきだろう。  
 これも案の定というべきか、絵描きの絵に直面していた少年に詰問する。  
 
「待て……あれはどういうこった。何なんだここは」  
 
 しかし、一樹ではないもう一人の若者がそれに応じた。  
 
「あの女は無から出て無に帰った。それだけさ」  
 
「なに?」 そう言って相手に詰め寄る。  
 さすがに犯罪行為を白昼堂々と決行するだけのことはあった。キョンの剣幕に対しても怖気ず  
くどころかさらにまくし立ててみせる。  
「あんたのひと言があったら――そう『残ってくれ』という。そうしたらあの女は考え直してた  
んじゃないのか? それがわからないほど愚か者でもないだろう。だがあんたはそうしなかっ  
た」  
 態度は悪いけれど思いのほか道理のある内容だ。  
 彼女にキョンと呼ばれた少年も激情は抑制しつつ、ただし顎関節症の痛みに耐えている出勤途  
中のサラリーマンのような顔をして言った。  
「お前に何がわかるんだ?」  
「……あの女がもうどこにもいないってことかな」  
 冷徹に言い放った未来人に向かって、  
「お前に何がわかる……」 胸に手をあて、呻くようにくりかえした。  
 
 バンドエイドは手の甲に残っている。だがハルヒに託された栞は彼のポケットから消えていた。  
 
 そうして彼は思い知ったのだろう。彼女の帰属する世界を呼び戻すことはできないのだと。  
「わたしはわたしではない」ことの意味を。  
 この先たとえ“あちら”に行くことがあったとしても、そこにいるハルヒは同じだがやはり違  
うのだと……  
 
 少年達のやり取りを、『先生』と一樹はただ黙って聞いていた。  
 
 悶着で中断したとはいえ、その絵に時がくる。  
 強大な力を宿し、《審判者》また《恣意》とも呼ばれる絵に。  
 そしてあの荘重な扉の絵――世界の中にあって規格外となってしまった実在に。  
 
 絵描きの絵が古泉一樹を“カンバスとして映す”と、先生に光をぶつけた時のように彼の手が  
赤らんで輝きだす。  
 今回はそれでは留まらなかった。一樹の体全体が次第に発光しはじめ、赤味がかかっていた光  
が次第に他の色を呈するようになる。ときに電離した窒素分子の放つような青みがかった色に、  
あるいは赤い光と混じってピンクがかっても見え、さらには日光の色に近い白みがかった輝きに  
収束していく。  
 正視できるギリギリの時点でこの部屋唯一の一般人が見た一樹の姿は、いわゆる天使の後光が  
全身を覆うようなものだったに違いない。  
 
「いっちゃん、あんた自分でぶつかるつもりか?」  
 
 顔を腕で覆いながら先生が声を上げた。  
 声のほうを向いて薄く笑ったようにも見えた。すくなくとも否定しなかったようだ。  
 扉の絵にまっすぐ対峙して、身構えるように上体を落とし――――  
 
 !?  
 
 激しいが熱を感じない光の衣で全身を覆ったまま、超能力者の男はしばし立ちすくんでいる。  
「まさか……」  
 正視できない顕現の中で、少年がそう呟いたように聞こえた。  
 
「……いっちゃん?」  
「………………」  
 まっすぐ見つめることはもう出来なかったので、彼がどんな表情だったのかは誰にもわからな  
い。  
 しかし彼が何かに動揺したのはその沈黙の長さから容易に察することができた。  
 
 だが突然、彼の放つ光の揺らぎが鎮まった。ためらいを吹っ切ったかのように。  
 すると、それまでよりさらに強く白い光が少年の全身を完全に覆い、みなぎりあふれた。  
 動揺していたときに彼の放射していた壮絶な輝きがそれでもやや散漫だったことがわかる。  
 
 そして統制の取れた、より強烈な光の凝集が起こり…………  
 
 バァァァーーーーンッ!!!  
 
 それ自体は一秒を数十に割った一つ分くらいの刹那のことだったろう。人の叫び声のような残  
響がはじけて、建物を数瞬揺らした。  
 
 部屋の真ん中にあった扉の絵は跡形もなく消えていた。蒸発した水のように。  
 ただちに洋館の時空が歪みだす。  
 
 事前に先生が告げていたとおりに自分たちが帰還したことを、3人の若者はそれぞれの寝床で  
知ることになるだろう。  
 それを覚えていれば、だけれど。  
 
 扉の絵は破棄された。  
 一樹が驚愕して見つめたものはなんだったのか。それは謎のままに終わった。おそらく古泉一  
樹当人すら思い出すことはない。  
「あの時、扉の絵は自ら防御を解いた」  
 そうでなければ打ち破ることはできなかっただろう。《シェル》を凌ぐほとんど無限にすら思  
える防御能を有していたのだから。  
 消し去られていたのは少年の体だったはずだと、先生はのちに語った。すべての結末がついて  
から、さらにそのあと、くるはずのない返事を待つ人のように。  
 なぜ少年を助けたのか。それもまた謎となった。  
 
 
 そして、髪の長いあの涼宮ハルヒの世界への道を知る者は、生きる者の世界にはいない。  
 
 おそらくは、見えざる世界への道を拓いた実在を除いて。  
 
 
 なお、《扉》にももう一つの呼称が付けられている。『先生』がそう呼んだのではないらしい  
のだが、じっさい大仰なものであり、それは《神の門》であった。  
 
***  
 
「ふう……」  
 
 溜息をついてペタンと床に座りこんでお茶を口に運んでいるのは、どこからどうみてもウサギ  
のお姉さんである。いやバニーガール姿でもそういう格好が印象に残っているからという比喩で  
もなくて正真正銘の……というわけでもないが、白無垢のウサギの着ぐるみの中から覗くその顔  
は誰あろうウサギのお姉さんこと朝比奈みくる本人である。  
 と思われる。  
 時刻は午後6時。あのハルヒたちが洋館に“帰還”したのとほぼ同時刻だ。  
 やはりどこぞからの帰還を果たしたらしいけれど、こちらは仮想空間ならぬ仮装パーティーに  
でも行ってこられたのだろうか。  
 どうも違う。  
 ここで脱いだらしい普段着がまとめてある様子からすると、ごくごく普通の私服でのお出かけ  
から帰ってきたみくる嬢は、どうやら自宅でウサギの着ぐるみに着替えたらしい。  
 なんでやねん。  
 
 というか、ひょっとしてあんたそれ取りに行ってたんですかい……  
 
 どこかでお披露目するつもりなのだろうか、その格好。ものすごくかわいいのは間違いないの  
で、見せて悪いものでもないでしょうけど。  
 
 こじんまりとした和室でちょこんと正座する彼女は、なぜかいくぶん気鬱な様子である。  
ひょっとして気分転換が彼女の場合すでに着ぐるみとかコス衣装とかになってしまってるのでは  
ないかと若干の不安を感じさせるものの、大人の朝比奈さんはコスプレ衣装の数々を「恥ずかし  
いもん」とおっしゃっていたのでそれほどマニアックな路線には進まないはずである。  
 テーブルの湯飲みを器用に持って口に運ぶ。かわいいがコントのようだ。  
 耳の片方がやや寝ているのもなにかのツボに入っている。  
 とにかくこの様子だと、午前中に自分の携帯と固定電話に着信があったことにはまだ知らない  
らしい。  
 あまり連絡事項とか電話などを確認しない駐在員さんなのだろうか、それでいいのか未来人。  
 
 しかしまあ安堵感を感じさせる御姿なのも事実で、人間やっぱギスギスしててもつまらないよ  
ねと、あらためて人生について考えさせられるほどだ。  
 もういっそ、今日の出来事など気づかずじまいでもいいのかもしれない。  
 
 ま、そうなるみたいなんですけどね。  
 
 
―― 断章・後 ――  
 
 茫漠としていて形のなかったそれが地のような形を取りはじめたのは、垂れ込めていた濃密な  
闇を“上方”から切り裂いて現れた何かの顕現――マニュフェスト――に照らされてからだった。  
 
 磨き上げた碧玉のような流体の面が現れた。水だろうか。  
 
 音によるのではないかもしれない。けれどその顕現から“声”が広がった。  
 
〈“……夢を心の力で呼び覚まし……”〉  
 
 それを聞いている誰かがいるのだろうか。一連の別れの言葉を詩い、さらにそれは告げた。  
 
〈あなたの心が宿すとき、この扉もまた開くでしょう。そのときがきたら〉  
 
 顕現の“手許”にわだかまった光のしずくが揺らめいて見える。  
 
〈おまけにつけたわたしの心もどうか連れ出してください……〉  
 
 しずくはしだいに大きくなっていく。  
 
〈“Skazhi: est’ pamjat’ obo mne,Est’ v mire serdtse,gde zhivu ja...”〉  
 
 
 しばらく経つとそのしずくははっきりと形をとるようになった。  
 顕現がそれを“手”から放つ。  
 琥珀金が白い光線を反射するときのように見えるその炎は次第に降下し、流体(水?)の中に  
入っていった。  
 するとその表面は波立ち、その全体が淡く金色に光った。  
 
〈それまで、ほんのしばらくの間、あなたの宿したものは共に休むのです〉  
 
 誰かに語りかけただろう“声”を発し終えたそれはふたたび上昇し、やがて消えた。  
 暗がりの中から現れ水の面のように形をとっていたものは、黄金色に輝く炎を内に秘めたまま  
ふたたび見えなくなった。  
 
 そんな夢だった。  
 

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