〜〜 ぬくもり(十章) 〜〜
そのあとハルヒが部屋を出た。
誘拐犯の少年は自分の紅茶を飲み干してから先生となにやらしゃべっている。他愛のない四方
山話のようだ。
《鏡》と題する絵をしばらく見つめていた早熟の倦怠期少年がおもむろに尋ねた。
「なあ古泉、いくつか疑問がある。正確に言うと疑問が湧いてきたんだが」
「……なんなりと」
隣りに立っていた彼は常に増して慇懃な返事をした。
おそらく自分の中で整理をつけていたのだろう、キョンは手短かに質問を並べていく。
T 一連の出来事のきっかけとなった特設ウェブサイトが絵とどのように関係しているのか。
U そもそも扉の絵とはどのような力を持つものなのか。
V 先生の言う“絵の力が突然大きくなった”とは如何なることか。
W なにより“こちらの”ハルヒは今どこにいるのか。
一番目の質問に一樹が答え終わる頃には少女も戻ってきた。
一樹の説明に従がえば、《リンケージャ》が先生の意思を媒介としてログイン後のトップペー
ジに“宿り”、視覚情報としてそれを見たハルヒとの橋渡しをまず行なった。
そして《扉》が時限発火装置のように彼女の内部でカウントダウンを開始した。
「適切な表現では全くありませんが」と前置きしながら一樹が説明したところに従がえば、彼女
の内部において異空間がいわばアーカイブされていたと考えられるという。
文芸部の部室そのものはすでに異空間化しており、ただちに展開・発動することはないという
外的状況も考慮に入れられていた。そして定められた時間――おそらくこの日の深夜〜早朝――
に、
彼女の内部に留まっていたアーカイブが展開され、異空間を情報としてダウンロードさせる力
を持つ《扉》によって入れ替わりは遂行された。
三人はふたたび扉の絵の前に立つ。
「この絵は、まさに規格外なのです」 一樹が言った。
「空間的距離も次元断層さえも、この絵の特性発動を妨げるものとはなりません」
先生とも話の輪に加わる。
テセ氏(仮)は、手持ち無沙汰なだけかもしれないが会話の聞こえる場所には居る。
「涼宮さんがあのサイトを見た時、時間遡行者による時空改変を事前にブロックするタスク、T
FEIによる情報操作能力への選択的防衛措置も同時に講じられました」
壁に掛かった絵を指差して、
「あの《シェル》にはそのような力があります。もちろん、彼女らがその気になれば涼宮さん本
人やあなたの注意を喚起するくらいはできたでしょうし、時間遡行者が間接的に干渉する方法も
あるでしょう」
「…………」 三者三様に黙している。
未来人の少年は憮然として、ザンバラ頭は真意を探るような目つきで、長髪の麗人は――傷口
を見つめるような表情で。
沈黙を破ったのは特殊でないほうの少年だった。
「ひょっとしてあの日…じゃない今日か。今日の朝、お前の居場所がわからないって長門が言っ
てたのはそいつのせいなのか?」
よどみないトークを身上としている一樹にしては返答までに時間が掛かる。
「――彼女がそう言っていたのでしたらそうかもしれませんね。僕自身にはそのような認識はあ
りませんでしたが。走査対象の存在確率や“事象収斂”に、ある種の揺らぎを生じさせることに
よってそのようなことが可能になる……とまあ、このように思索を弄ぶことくらいしか僕にはで
きません」
「あの迷宮であんたらの位置をマーカーから特定できなかったのも似ていた」
床を見つめながらそう言ったのはみくる誘拐時に緑色のワゴン車に乗っていた少年だ。迷宮か
ら二人を連れ出したときに口にしていた“マーカー”にふたたび触れる。
「外から探知した時には、どの部屋にも居るようでいてしかもどの部屋にも居ない……そんな風
に見えた。中庭の位置情報も異状だった」
「それは、小楽園という意味でもある《ラヨーク》の仕掛けがおそらく及んでいたのでしょう。
あの絵は局地的非侵食性融合異時空間を任意に発現させるものだと聞いています」
ややこしい用語をつらつらと述べ立てる。たいしたもんだ。
「マーカーって、あのサイトか?」 通称キョンがどちらにともなく聞いた。
「違う。『火の輪くぐり』だ。あんたが入ったときに付いたんだろう」
誘拐未遂だった少年はハルヒに向かってそう言う。
「解析して同じマーキングを施すことで、僕も異空間化した迷宮に入ることができた」
「おとぎ話のホワイトナイトといったところですね、スマートな手助けだったそうで」
揶揄しているのか素直に褒めているのかどちらとも取れそうな響きが一樹の言葉にはあった。
「実にくだらない。児戯に等しいものだよ、あの時はそうせざるを得なかったから僕もそうした
までだ。ふん、まったくつまらない」と口の中に入った砂を吐きすてるように言った。ひょっと
してそういう口調が彼の基本なのかもしれないが。
「ところで先生、望みの絵についてですが」
先生はわずかに顔を動かして応じた。
「あの《シェル》は他の絵の効力を遮断する力がある――そうでしたね?」
首を縦に振る。
「また己以外の一切の影響力を一定の範囲内において排除しつづけると。ほとんどいかなる諸力
をもそれを無効化してしまう、きわめて強力なものです。先生が“許可”しない限り。先ほどお
見せしたとおりです。先生の髪の毛一本といえ僕に許された能力では傷つけることができません
でした」
「あれは別格」 先生がそう表現した。
「なるほどあの絵がすごいのは分かったよ」 質問者はそう言って一樹に正す。
「じゃあこの絵はどうなんだ。そりゃ異空間とか出てくるんだから尋常じゃなさそうだが、どう
してこの絵のためにハルヒが――いや、」
ロングヘアのハルヒからの強い目線に気付いたらしい。
「……お前らがスクランブルな状態になるんだ?」
「局地的非侵食性融合異時空間の限定的な発現ならば見世物小屋の絵にも可能です。すでに3人
とも体験なさったように。他方、この絵は今や」 噛んで含めるような口ぶりだ。「在りうべか
らざるモノ、世界の枠組みを変化させる力を持つモノとなっています。世界にとっての規格外と
いう意味で」
「さっきも言ってたな、そういや」 「そうでしたね」
未来派の彼にとっては周知なのだろうか。この話にはそれほど興味がないかのように窓の外に
目を移していた。
変態するニキビ治療薬(一部本人談)が続ける。
「またこの絵に《シェル》の抑制力は働かない。場所的な制約もない。実のところ他の絵による
媒介などこの絵は必要としません。獲得したいと絵自体が願う事象、それが具現化されると『オ
ルガン』内のある人たちは結論付けているそうです」
「そんなアホみたいな力を? これが? まるでハルヒみたいだ」
「…………」 少女と彼の目が合う。「なによ、わたしはこんなに平べったくないわよ」
口を尖らせて異議を唱える。
顔を見合わせたSOS団の男性二人はそろってニヤケ顔になった。
「まあ、事実かどうかはわかりませんよ。少々誇大妄想じみているように僕は思います。はっき
りしている力といえば、パラレル化した世界に接続させる力もこの絵は持っています。もっと言
えばこの絵の“閾”が世界そのものを同定する。そして……」
重大なことを言うつもりらしい。注意をひきつける間を置いてから一樹はハルヒに向かって告
げた。
「我々がいま立っているここは、すでにあなたの――涼宮さんの帰属する世界です」
そう言いながら、誘拐犯でもあった少年を見る。勝手に進めてろと言わんばかりに少年は手首
を翻した。
「ここは再改変されてない世界ってことなのか?」
それには答えなかった。すぐに別の質問がでたのだ。
「閾ってなに?」 主人公である少女が尋ねる。
たしかにあまり使われない語だろう。そのうえ一般的な意味とは違う感じだ。
「それは、」 言葉を探しているのだろうか、わずかに詰まる。
「この世界を同定し同位体を構築するための情報知覚能、そんなところでしょうか。つまり、こ
の建物が時空間の枠を越えるための力かと」
余計にわけの分からない説明になった気もする。
「異世界に通じる扉ってことか? 絵自体が願うってどういうこった?」
「この絵はね、ほんま言うたら描いたワシにもわからんのよ」
問い詰める勢いを遮るように先生が口を挟んだ。
「本当のところは誰も知らん、知っとるのはこの絵を造ったもんだけでしょ。これ言い出したら
絵になんかの力が宿ることがそもそも変な話やけど、この絵は飛びぬけとる」
「これは先生が描いたのでは?」
ハルヒとキョンが多少の異句で同じことを口にした。
答えるまでもなくそうだろう。先生は飲みかけのコーヒーの残っているテーブルの方を向いて、
「とりあえず座ろうや」と一同に促した。
「この扉の絵な」
テーブルに着いたあと、一呼吸おいてからそう切り出した。かの絵の来歴について先生は回想
していく。
まず、先生にエンチャントの異能が宿ったのはおよそ4年前のことだった。そのことに気付い
て以来、自分の描いた絵の力について即座に看破することが先生にはできる。
ただし、
「強すぎるとようわからんこともあるよ。絵描きとあれと扉の絵はそう」
あれとは望みという題の絵のことだ。
自称『器官の幽霊構成員』となったのは深い理由はなく成り行きのことだった。
そして敵性組織である『機関』への対抗策として観光地に建つ洋館での軟禁状態を余儀なくさ
れていた時期がしばらく続く。しかし、望みという題の付いた《シェル》の影響力を出先でも展
開させることのできる《窓》を描いて以降は、ある程度自由に『先生』も出歩くことができるよ
うになった。
緊急時に洋館へと戻るための手段としては《ウェルカムインザラヨーク》を同じく窓の絵を介
して展開させることで可能だったものの、それだけだと任意の場所から別の任意の場所への移動
には使えない。
それならばと、未来のネコ型ロボットの繰り出す有名な扉、少年少女のあこがれとして名高い
移動装置のような権能を宿す絵を描くことを志したのが発端だった。比較的最近のことらしい。
だが、描きあげたその絵には意図した力はなかった。
発動させた場合、移動先を固定させることが出来ないのだった。いわば“どこからかドア・ど
こへだかドア”でしかなく、非常に扱いづらいためにいずれ破棄されるか、もしくは保管場所で
埃をかぶるのみと思われていた。先生自身あきらめていたようだ。
「そのつもりやってんけど――」 穏やかそうな視線を絵に注いで先生は言った、「あの電話が
あった日に、あの絵は変わってもうてね」
その日、この洋館でも自宅でもない場所にいた先生のもとに一本の電話着信があった。自宅か
ら転送されて繋がったその電話は、カモフラージュとして役立つからという『器官』の示唆と後
援で定期的に洋館で開催されるようになっていた絵画教室の生徒からだった。
「スケッチの上手い娘さんで」
それから思い出したように付け加えた。
「たしか、涼宮さんと同級生やったんとちゃう?」
そう言って古泉一樹の方を見た。微笑んでいる彼はそれについてはコメントしなかったが。
迷宮案内人だった男が三杯目の紅茶を口にした。今度はレモンティーのパックで。
熱いものに触れた指で耳たぶをつかむ伝統はどうやら未来でも生き残っているらしい。
ハルヒらと同級生かもしれないその娘からの電話内容は、「そろそろ帰ろうとしたのだが、な
ぜか洋館から出ることができない」というものだった。
この時点での扉の絵がすでに任意の場所への移動を可能にするものだったなら、それを用いる
ことも最終的には考えたかもしれない。もちろん、超常的な力を有するものであることを安易に
明らかにするわけにもいかず、それを隠蔽することを目的として開かれた集まりでもある。
その考えでいくと、どのみちこの選択肢は選べなかっただろうともいえる。
ではどうするか。
とにかく急ぐ必要があった。いち早く異変に気付いたこの生徒については手遅れかもしれない
が、教室に残された人たちには可能な限り何事もなかったように事を運ぶ必要があった。
先生の言葉を借りれば、
「普通に帰ってもらわんといかんわな」ということだ。
たまたま忙しくしていた先生は「こちらから連絡するのを待つように」ととりあえず告げる。
その日の絵画教室の講師は『オルガン』から見て一般人であり、詳しい事情を告げるわけにはい
かなかったのだ。
目前の用事に目処をつけてから直ちに彼女に電話をかけたのだがどうにも繋がらない。いや繋
がっていたのかもしれないがやきもきして待っていると耳慣れない呼び出し交換のアナウンスが
聞こえ出す始末だ。
不審に思いながらもいったんあきらめ急遽《窓》――アクセスポイント――を自宅から移して
《ウェルカム・インザラヨーク》を呼び出そうとしていた。
そこに、最初に連絡してきた生徒からの電話があり、最低限の事情を説明してから男性は自ら
を洋館に転送したのだった。
その際、通常は必要のない望みと呼ばれる絵の影響力も発動させる必要があったという。
「つまり《扉》の“閾”がすでに生じていたということですか」
質問してきた二枚目の若者に先生は「そんな感じ」と答え、深く頷いた。
「あんたらの言う規格外になってもうたんはそのとき以来よ」
少女が機転を利かせてくれたこともあって他の人たちは異変に対して奇妙なほど納得してくれ
ていたらしい。
「だいぶ助かった。あれで人を弄くるのは嫌やもん――」
新たな力を獲得した扉の絵に気付いた先生が館を本来の時空に接続しなおすことで、その場を
うまく切り抜けることができた。
扉の絵に超越的な力が付与された時の経緯を説明した先生は、「喉が渇いた」と言ってコー
ヒーに手を伸ばす。
「後ろのこれ、見てのとおり湯飲みの絵。このおかげで」
先生の座るちょうど後ろにある小さな絵に皆の目線が集まった。
「この部屋の湯飲みに入った熱いのがちょっとだけ冷めにくうなっとるんやで。あんたらの分も
そう。ええじゃろ」 嬉しそうだ。
湯たんぽ・近所の親父・駆けつけ三杯……そんな生活密着型の用語が浮かんでくる。
こじんまりとした効用が入浴剤の宣伝文句のようだ。
「わしゃこういうのが好きや」
相変わらずほんわりとした語り口調の『先生』は、だがどことなく寂しそうにも見えた。
ライバル組織の若き構成員が、“扉の絵の力が突然大きくなった”ときの話を引きついだ。
「それ以来――といっても最近のことですが――あの絵は対立する勢力間のパワーバランスを大
きく揺るがすものであると次第に認識されるようになりました。その力を盾にすれば、涼宮さん
に対してもっと決定的なアクションを取れるという主張がなされるようにも」
ピストルの形を手で作って見せる。少女自身は何も言わなかったが、隣の少年は見咎めるよう
な顔を一樹に向けた。
「さきほど説明したとおり、『オルガン』の内部は不統一です。涼宮さんという宇宙規模での不
確定要素についての期待値の差……ああ、こんな言い方は失礼かと思いますがどうかご容赦を」
もっと他の言い方があるだろうにと思えるが、うなじのあたりを手でさすりながら断わりを入
れ、相変わらず颯爽とした声の少年が説明を続ける。
「『オルガン』にかぎらず、意見の相違はあなたに相対する態度の違いに結局のところ収斂する
と言って過言ではありません。それがすべてとさえ言い切ってもよいと……個人的には思えま
す」
「何が言いたいんだ?」 ハルヒ自身より先に隣りの男が聞き咎めた。
「前提として、『機関』の多数派が現状維持をもっとも好ましいと考えているのは事実です。そ
して僕は彼女を――入れ替わった涼宮さんを元の時間軸に戻すことを目下のところ最大の目的と
しています。立場上はね」
最後の一言に比重を加えて告げた。
「人をバーター取引の品物のように言うもんだな。いつものことだが」
苛立たしそうに悪態をついたのは少女を気遣ってのことだろう。彼女の顔を見やる。
「……ううん。わたしはいいから」
視線をやや落としたままハルヒはそう答えた。
見ると、スティックシュガーの袋を箸置きの形に折りたたんでいる。器用なものだ。
対する一樹は恐縮したのか、
「ええ。あなたの言うとおりです。本心から申し訳なく思っています。状況を俯瞰的に見ようと
する癖が、時としてチェスや将棋の駒のように人を見なす悪癖に……」
笑いの成分をそぎ落としたように見える。さらには心持ち肩を落としているような。
「わかったよ。自己批判は別の機会に存分にやってくれや」
ハルヒに触発されたのか、丸めていた空の袋を手で弄んでいる。
「まあ、悪い癖は人それぞれだ……俺が言うのもなんだが。で、『機関』がどうしたって?」
「……失礼な言い方になるかもしれません。そこはどうか寛恕のほどを」
そう二人に言った現役エスパーが表情と話を戻す。
「我々の『機関』と比較して、『オルガン』内の多数意見は涼宮さんの世界改変能力をむしろ活
性化させるべきと考えている……そういう認識でよろしいですか」
「わしゃどうでもいいけど、まあそんな話みたいやね」
「同時に、世界の枠組みを作り変えてしまう力をどうにかして鎮めようという意見も強くありま
す。すでに世界に存在する諸要素で十分だとする意見が。宇宙的・未来的各勢力あるいは超能力
的な何かを授けられた人が少数ながら実在するという、現時点での世界のまま安定させておきた
いと」
「お前らもそうじゃないのか?」 自らを凡人と呼ぶ少年が嘴を入れた。
「はい。これは『機関』の総意にも近いものです。とはいえ涼宮さんをいわば封印してしまって
いいとする点では異なり……少なくとも異なっていました。ただ、『機関』内にもこの考えに共
感する人がいる」
説明役を買って出ている少年は、いつもの笑顔より唇の両端をつり上げて先生を見た。何か含
むものがあるのだろうか。
「彼女の代わりを担い、かつ扱いやすいものがあればそのほうがいいと――まさに今あの絵の力
でそうしているように。そして、」
「古泉」
弁士注意とばかりに声がかかった。
「……申し訳ありません」
「代わりってのがわからん。どういうことだよ」
「それは……環境を作り変える彼女の力を彼女自身と切り離している今の状況に鑑みて言うなら
あの絵の力、もう一人は――ああ、これはまた別の話です……。前者の場合、焦点となるのはあ
の絵の扱いですが」
「焼却処分じゃねーのか?」
要領を得ない説明にうんざりする生徒のような顔をしている。
「そういったことも含めて、絵の能力を発動させ制御することができるのは『先生』ただ一人だ
という話です」
「らしいね……ほんまいうたら“インビジブル・ハンド”さんやけど」
コーヒーの入ったカップを口元まで運んだまま親父さんは言った。
「いずれにせよ、あとは涼宮さん次第ということです。もっとも、」
いわくありげな目で向かいの少年を見つめながら言った。
「こちらの『未来人』さんにとっての既定事項には何が書かれているのか、それはわかりません
が」
タコ糸の少年の様子に気付いていたようだ。
自分を抑えながら反対意見を聞く若手の企画提案者がいたら似たような表情をするかもしれな
い。そんな顔で彼は聞いていた。
「……ふん」
腕を組んで目を瞑った少年は、ただ鼻を鳴らして答えの代わりにした。
外はいよいよ暗くなっていく。すでに夕餉の時間だがそれについては誰も言及しない。物語の
佳境に入ってからわざわざトイレ休憩を挟むような真似はできないように。
「すくなくとも僕自身はあなたの選択を尊重したいと思っています。先生は――」
先生は同意を与えた。
「ありがとうございます。我々の結論はこうです」
扉の絵をじっと見つめた。隣りの少年に聞こえないくらいの小さな溜息とともに。
「涼宮さんの世界――正確には“彼女”が造りかえた世界ですが――そこに通じる唯一の扉をこ
のあと破棄します。そうなればもう引き返すことはできません」
「…………」
斜め向かいに座る沈黙したままの少女に語りかける。
「いまあなたの前にある選択肢は二つ。我々……彼の帰属する世界に共に戻るか、扉の閾を介し
て元の居場所に復帰するか……」
「わたしは……」
「あなたは、涼宮ハルヒそのものです。外見上のわずかな差異、つまり髪の長さの違いは状況を
自覚するための助けとして敢えて付加されたもの。その証拠に」
自身のコメカミを指さしてみせた。
「ご自分のロングヘアにあなたの家族がまるで気づかなかったことを疑問に思われたはずです。
違いますか?」
「え? そりゃ思ったけど……あとで」
隣りの少年をちらりと見て言った。
「おそらく、光学的情報を知覚するプロセスに対しわずかな操作を施したのでしょう。あなたが
家族と認識する対象に、《扉》を介してあの鏡の絵が……という認識でいいですか?」
ややこしい言い回しではあるけれどハンサムくんが別の絵に言及した。人間の知覚を操作でき
るのが《鏡》ということだろうか。
「というよりも。扉の絵があの鏡の絵の力を真似しよったんやで。もともと朝飯前でできるんか
もしれんし」
「なるほど……」 一樹は思案顔に見える。
またしても扉の絵を擬人化して語る先生だ。たぶん実感としてそうなのだろう。
「いずれにせよ、あなたのほかに涼宮ハルヒという人物はいない。すくなくとも扉の絵によって
繋がっている世界間ではそうです」
「待て。ハルヒはいないって?」
「入れ替わりというのは意識レベルでのことです。彼女の意識は物質に依存しない形で保存され
ています」
こんなことを突然言われて『はいそうですか』などと返事していたらそれこそ頭のネジが抜け
落ちた痛い子なのだろうが、幸い(?)なことに彼にとっては突拍子もないとはすでに言えない。
したがってそれほど驚いてはいないはずだ。一樹の言葉を信じるかどうかはまた別問題であるが。
「正確さを欠くかもしれません。ただ長門さんの言葉を借りるなら、その情報は『有機情報連結
を解除』された状態で仮想的時空間にアーカイブ化……いわばコールドスリープ状態にある。そ
れを解凍するか保持するか」
「解凍って……どうつじつま合わせるんだ」
とある七夕の日に、朝比奈みくると彼は一緒の部屋でまる3年間の時間凍結を施されたもの
だった。あの時の二人にとっては時間的な矛盾は織り込みずみだったし、長門有希による説明も
あった。しかしハルヒにとってはそうではない。不自然な時間の経過はそのまま不自然なものと
して認識されかねない。
「おっしゃるとおりです。ですから涼宮さんを元に戻す場合、時間をさかのぼる必要があります。
ここに居る我々もそうです。彼女には通常の時間の流れを認識してもらう必要もありますし」
時間遡行もまた扉の絵のもつ権能らしい。
「人の命をどうこうは好きじゃないけど、もし涼宮さんがそうしたいんやったら――」
入れ替える直前の涼宮ハルヒの情報を消去せずそのまま継続させることもできると男性は告げ
た。例えるなら細胞分裂かコピーのような。
鶴屋家の元別荘地での事件のさなかに古泉一樹が推察した話を、ふたたび想起させられる。
あの絵の正体とは――?
「あんたがそのまま居るゆうことになるだけ。始めから入れ替えなんか無かったみたいに、元の
まんま。ここにいる涼宮さんは“こっち”の人になったらええ。すぐ馴染むやろ」
ゆっくりとした口調で繰り返す。
「あんたの好きにしたらええ」
沈黙を破ったのは未来人勢力的役割を果たそうとする少年だった。
「それは困る――困ります」
酸化時のナトリウムのように相手を刺激する言辞をしばしば弄する男が異議を唱えた。
とはいえ今はそう激しくもなく、攻撃的な口調でもない。
彼は一樹に対して、
「わかっているはずだが、僕がここにいるのは元の時間平面へ涼宮ハルヒが正常に復帰するのを
見届けるためだ。あの絵を破棄するのがあんたの役目なのと同じだ」
彼としては畏まって言っているつもりだろう。そしてもう一人の少年に訴えかける。
「あの女、いや朝比奈みくるがここにいたとしても同じことを言うだろう。既定事項が履行不可
能な状態を固定させたらどういう結果になるか……あんたも考えてくれ」
「まあ一理あるなあ」 変わらずおおらかなおっさん。
「けどなあ、僕が呼び出したんやし。涼宮さんの力が要るときには代わりに扉の絵で世界を描き
替える、それではまずいんかな」
「…………」
むずかしい顔をして黙りこくる。おそらく考えても見なかった提案だったのだ。
「その方策も含めて、涼宮さんに選んでいただきたいのです。それに先生」
絵の講師と目が合った。
「この世界もしくは情報については僕が教えたのですから、あの絵によって同定されたこの世界
の涼宮さんを連れ出したきっかけは僕にあるとも言えます。最初から先生の意図したものではあ
りません」
「なんちゅうか、」と思案顔のおやっさん。「扉の絵が自分から“ここ”に来たがったようにワ
シは思うけど」
自身の使った分による二つ目に加えて隣りの彼の分でも造型した、合計4つの簡易箸置きがハ
ルヒの前に並べてあった。
しゃべらない彼女は何を思うのだろうか。一見したところ淡々とした表情だけども。
「言うても、涼宮さんには悪いと思ってる。迷惑な話でごめんな」
「…………」
「どう言い訳しても、あなたをこんな状況に至らしめたのは我々です。大義名分があったにせよ
あなたにしてみればそれも言い逃れや自己弁護に聞こえるでしょうね……ですからせめて」
静かな部屋に古泉一樹の涼やかな声だけが響く。
「どうか涼宮さんにはフリーハンドで、我々の利害を考慮に入れることなく――」
「ありがと」
長髪が揺れる。ハルヒが一樹に向かって答えた。
また長い髪が揺れた。
「キョン、あんたはどうなの?」
全員の注意が少年の一身に集まる。
彼は見せるべき顔を思いつかないのか、テーブルの上でかたく両手を結んでそれを凝視してい
た。
「………………」
世界の命運をいきなりその手に握らされた小さな人のような、もう二度と見ることは叶わない
だろうとの思いで愛する故郷に別れを告げる老詩人のような……
少女の貼ってくれた絆創膏が、彼の手の甲で無言の証をしているように見える。
そして、ついに言葉はなかった。
「……そう」
ハルヒにはわかったのだろうか。
長門有希の家を去るときに見せたような静かな笑みを浮かべて、彼女は一言だけ、
「けど、いまから帰って晩ご飯残ってるかしら」
それが涼宮ハルヒの意思表示となった。
「――では、」
沈黙を破ったのは年長者の声だ。
「御意思を尊重します。ただ、ここから直接家に帰っていただくわけにはいかない」
玄関先に佇んでいた二人に最初に声をかけたときのように、改まった言葉で『先生』が告げた。
「そうなの?」
「あなたにはこの閾世界の当該時間軸に復帰していただかねばなりません。彼女を呼び戻す際の
情報連結のため、またあなた自身にとっての空白の時間がありますので。そのために《扉》を呼
び覚ましましょう。ですが涼宮さん――」
そう言ってから男性は発動までの時限を告げ、ほかの二人を促がして3人で部屋を出る。
部屋の中には二人が残された。
シックな間接照明の黄色味を帯びた光。
洋室の真ん中あたり、まだ何の変哲もない扉の絵の前で二人は沈黙の中でにらめっこをしてい
る。
刻々と時間は過ぎる。だが何を言っていいのかお互いわからないままだ。
「ああ、ハルヒ」 ようやく男が口を開いた。
「……なによ」
ハルヒが返事してから優に数十秒のあいだ待たせたすえに、ようやく彼は言葉を継いだ。
「こんなこと言うのもなんだが、その……元気出して」
「…………」
「お袋たちによろしくっていうか、そうだな、そっちでいい奴探すとか……その、正直言うと古
泉なんか結構お勧めじゃないかと……ほらあいつ成績もいいし」
おそらく当人も自分が何を言ってるのかわかってないだろう。まっすぐ睨むハルヒに、
「アホ」と一蹴された。
間抜けなやりとりに痺れを切らしたわけではないだろうけれど、扉の絵が次第に変化しだす。
二人は同時にそれを見た。
鏡のような水面に小石を投じた時のような波紋が絵の中心部から広がっていた。
もはや猶予はない、そう告げられているようだ。
「キョン」
「…………」
「ほんとはね、あの映画を見た時から決めてたの」
「え?」
「こっちのあたしに戻ってもらおうって。でも駄目ね、何度も思い直しちゃったし。あの扉の迷
路だって、わかってたのに……」
「…………」 このときの彼は、まさに“なんとも言えない表情”に見えた。
さらに“ノ”(都市の名前らしい)や水辺での二人の思い出に触れ、彼が聞き逃していた言葉
を少女は告白する。
「シャミセンがね、まるで解かってるみたいに返事してくれたっけ」
帰ることを決めていた彼女がつぶやいた言葉をもう一度。
「わたしは“あたし”じゃないから」
彼女の結論だった。
「キョン」
「なんだ? ……ああ、それ」
「そう。持ってて――」
取り出した栞を自分で男の胸ポケットに入れると、長い睫毛を震わせた少女はそのまま彼の胸
に顔を預けた。
少年はわずかにたじろいだあと彼女をその上腕から包むように抱く。
出会った朝、玄関先でそうしたように。
彼女の体に扉の絵の力が及ぶ。音もなく、ただ手足の先から順に肢体が薄まり消えていく。
徐々に淡くなっていく自分の手足に気付いた彼女は、口を軽く尖らせて彼に抗議した。
「キョンあんた、こういうときは目を――」
おそらく肌と肌の触れ合う感覚も薄れていっているのだろう、まだ見えている肢体で強く相手
を抱きしめて告げた。
「やっぱり、つむらないで……」
濡れた瞳がブラックオパールのように煌いている。
これが最後の言葉となった。