〜〜 りんご(九章) 〜〜  
 
 ふたたび、県内某所。  
 長い髪の乙女の訴える眼差しに答えて、風采的にはごく普通といってよい連れの少年が行き先  
不明の旅に立ってしばらく経ったころ。  
 
 実時間はともかく、体感時間として二人にどのくらい経過しただろうか。  
 
 アトラクション『ミノタウルス伝説と迷宮』の出口につながる部屋から《ウェルカムインザラ  
ヨーク》の招待を受けたとき、かすかな兆候に始まり次第に自分自身が流砂のように細かい粒と  
なったような感覚を、閃めく光彩のなかで彼女らが感じていたのかは不明だ。  
 
 だが“招待”を受けた通常人類の二人、片や頼んでもいない苦労が宅配ピザのように気軽に舞  
い込むことで知られる少年、もう一人は卓越した才を持て余したあげく周囲の理解を得られない  
奇矯な振る舞いの数々で知られるようになった少女が、二人して手に手を取り合い“そこ”に現  
れようとした時はそのように見えた。  
 つまり、きめ細かい光の粒が舞い上がり次第に寄り集まって人間の形を成していったように見  
えたのだ。  
 
 建物の入り口に立っていることに気づくまでにはやや時間がかかった。なんとなく精悍な印象  
を増した少年はいかにも何かの作業の続きというように地面を見ていたし、少女のほうは在庫を  
確認しに倉庫に入ってきた事務員のようだった。  
 彼らの一言目からすると、おそらく立場的にそうだったのだろう。  
 
「あんた塩の壷ちゃんと数え……え? あれ」  
「まだ麦酒の――って、おまえ、へ? まだ揃ってないのに……ここ……」  
 
 ああ、その、何といおうか。  
 前後の話につながりようのない特異な体験を二人でしていたようだ。どこかで。  
 
 お互いの、また自分自身の着ているものをまじまじと見つめた二人は、  
「えっと、あれだ、時計時計……」 腕時計をはめているのになぜかポケットをまさぐっている。  
「6時よ、あの日の」  
 玄関の扉からその時間にふさわしい自然光が差し込んでいることからすると、どうやら正しく  
表示しているものと思われる。  
「戻ってきた? ここはどこだ? おまえの家か?」  
「違うわよ。こんな『虹の彼方に』のタラの家みたいなのと」  
 眺め回しながらハルヒはそう言った。おそらく『風と共に去りぬ』の主題歌を映画の題名と勘  
違いしているらしいのは置いておくとして、さしあたって自分達の状況が日常方向に変化したこ  
とは把握できたようだ。  
「んん? ケータイは繋がってるし……」  
 思い立ったように暗色の箇体を操作しだす。少女も彼の携帯電話を覗き込んでいたが、  
「あ……ここって」  
「結構近場っぽいな」  
 彼らの生活圏からさほど離れてはいない、異国情緒あふれる街として有名な大都市の近辺にい  
ることを携帯ブラウザからの付近検索は示していた。  
 
「心配はいらない」  
 とりあえず誰かいないか声をかけようとしたそのとき、鷹揚な声が二人に届いた。  
 おそらく一階の扉の開いている部屋からだ。  
「ようこそ――」  
 姿は見せない。だがそこにいることは判る。  
「《ウェルカム・インザラヨーク》をお受けになったみなさんを鋭意熱烈歓迎いたします」  
 二人は立ちすくんでいる。  
 そう告げた聞きなれない声とは裏腹に、部屋からは二人の見知った顔が現れた。不安げな様子  
を見透かしたかのように。  
「古泉くん?」  
「お前……」  
 そこに居るのは、上着にネクタイ、下はチノパン姿の古泉一樹その人で間違いないだろう。ハ  
ルヒたちが午前に会ったそのままの出で立ちだった。  
 さわやかそうな微笑みと見た目美形なのも相変わらずだ。  
「どうも。お先にお邪魔していました。お疲れさまでしたね、どうぞこちらへ。牛の怪物も巨大  
なタコもメガロドンもここにはいません」  
 んなもん見りゃわかると言いたいところだが、『王座の間』(暫定)を後にしてからいったい  
どんな体験を二人はしてきたのだろうかと若干心配になる台詞だ。あと涼宮さんにとっては望む  
ところである可能性がなくはない。  
「ちなみに今の声はここの『先生』です。あなた方を招待したのは彼です。もちろん固有名詞で  
はありませんが、僕自身を含め知り合いは彼のことを『先生』と呼んでいます」  
 和やかに笑いかけてそう説明する。  
 胡散臭そうにそれを見るザンバラ頭の同級生だが、とにかく『先生』とやらに会わないことに  
は話が先に進まないわけで、不信感はあれどハルヒとともに一樹に付いてその部屋に入った。  
 
「いらっしゃい」  
 
 のんびりとした声で三人を迎えたのは中年の男性だった。  
 6人がけくらいの大きさのシンプルなテーブルに木の椅子が5脚、その一つに悠然と構えて  
座っていた。どこにでもいそうな只のオッサン、そう形容されそうな姿かたちである。  
 
 大小の絵が十点ほど壁に掛かっている。部屋の真ん中あたりに大きな扉の絵。大きい出窓から  
は隣りの洋館が見えていた。手入れの行き届いた芝生が青々と庭に茂り、木立もある。  
 
「紹介します。こちらが――」  
 双方の仲立ち役のつもりだろう、初対面同士を引き合わせる共通の友人のように一樹は動いた。  
まだ幾分ぼんやりとした風情の客二人である。  
「どーも」  
 紹介を受けている最中の口調や仕草からすると、オッサンはのんべんだらりとした性格らしい。  
 やや身構えていた少年だったが、愛想のよさそうなこの年長者が差し出した手には素直に応じ  
た。  
 握手を交わしてから、「ここの絵は――」 彼がそう言いつつ顔を上げる。すでにハルヒはく  
るくると絵を鑑賞して回っている。  
「わたしが描いたものですよ。どーぞ、ご照覧あれ」  
 胡散臭い(と彼の評する)好青年の口許が、なぜか笑いのツボに足をとられた聴衆よろしく吹  
き出しそうにも見える。  
 それにしても照覧とはまた大層な。  
 怪訝そうな顔で一樹を見る彼だ。前回の対面時のような憤然とした様子ではないけどさ。  
「どうしました? ……内心を打ち明けると、挨拶するまえにあなたに殴りかかられるものと僕  
は覚悟していたのですが」  
「ああ。古泉。どうもその――やけに久しぶりな気がしてな。しばらく見ないと変な感じだ」  
「…………」  
 なんともいえない奇妙な表情を笑顔の中に混ぜたように見えた。  
「ねえキョン、古泉くん、これ――」  
 壁に掛かった一点の絵画の前でこの部屋の紅一点が手招きしている。  
 その絵自体というより、その作品名に引っ掛かったようだ。  
「《ウェルカムインザラヨーク》って書いてる」  
「それでご両所を招待したのですよ」と先生が教えた。含み笑いを抑えながら一樹も頷いている。  
「これでって? ね、どういうこと?」 いかにも興味津々だ。  
 もはや遠い記憶のなかでだけ少年エスパーだったような彼にハルヒが尋ねた。  
 一応断っておくが彼は現役の超能力者である。きっと。  
「詳細を余すところなく説明できるわけでは僕もありません。なにしろ、幅広い使い道があるよ  
うなので」  
 前置きするように告げる。  
「ただ、この絵はここにあなた方を招待する力を有しているそうです。そしてその力を実際に  
使ったと」  
「……絵が?」  
「そう。絵が。それを用いて任意の相手を招くのが作者である『先生』というわけです」  
 どういうことだろう。  
 やはりその意味を掴みかねているのか、キョトンとした表情でハルヒはもう一人の被招待者と  
顔を見合わせた。彼の表情も似たようなものだ。  
「この絵だけではありません。この部屋に掛けられているそれぞれの絵が――」  
 差し示す手ぶりがまた絵になる。もう一人の少年にしてみれば腹立たしいくらい。  
「特異的な属性――力を付与されているそうです」  
 当の作者である先生は、驚くべき一樹の説明にあたって頭を軽く掻いていた。もしかして恥ず  
かしいのだろうか。  
 
「あー、つまりだ――」 「すごいじゃない!」  
 触れると火傷しそうなくらいの白熱球のような笑顔でハルヒが叫んだ。男の声をまったく凌駕  
しさる声量だ。  
「ここの絵ってみんなそうなの? この《扉》とかいうでっかい絵もそう?」  
 その目の中にはいったい幾つくらい球状星団が内包されているのだろうかと思わず考えてしま  
う人がいないとも限らないんじゃないか……というのは誇張表現かもしれないが、とにかく大き  
な瞳を輝かせる睫毛の長い少女は部屋の中の絵を食い入るように見つめている。どうも内なる好  
奇心のスイッチが入ったようだ。  
 そういうハルヒの性格をわりと好いている一樹も楽しそうに答える。  
「ここの絵は皆そのはずです。描いたモノのそれぞれになんらかの能力が宿るという一種のエン  
チャント能力ですね」  
 また魔法ファンタジーもののような設定もあったもんだなと思われるかもしれない。学芸員よ  
ろしく解説する一樹くんも似たような感慨を抱いているらしく、  
「これはもう理詰めでは追究できそうもありません。因果を超越した、まさに彼女らしいファン  
タジーの論理の賜物ですね」  
 同感だ。  
「これってさ、わたし思うんだけど」  
 重厚そうな門の描かれた大きな絵に向かって立つハルヒが言った。  
「異世界に通じてる扉とかそんなのじゃない!? 試したことある? どうやったら力が発動す  
るかわかる?」  
「……それはまた後で……」  
 先生がそう言ってドアの方へ歩いていく。  
「ちょっとだけ席を外します。みなさん、ごゆっくり」  
 
 見送るや否や、SOS団の副団長でもある進行役に向かってハルヒが問いただした。  
「ね、古泉くん知ってるんでしょ? この絵、すっごく気になるんだけど」  
 知りたい盛りっぷりを存分に発揮している。  
「そうですね。まあ……さすが涼宮さんといったところでしょうか。これについては先生の言っ  
た通りです。おそらく後でお見せすることになるでしょう。個人的には、こちらの《絵描き》と  
いう絵にもおおいに興味をそそられます」  
 解説役をみずから任じているのだろうか、優雅な身振りを加えながら言った。  
「それはあの人の自画像なのか? そうは見えないが」  
「いえ。自画像というよりもっと内在する思惑とか――己の能力を映すという意味合いが強いよ  
うです。それを意図して描かれてもいるようですし。しかしこれは驚異的な、場合によっては恐  
るべきことを意味している」  
「恐るべきって、どういう意味?」 少女が聞きとがめる。  
「使う人次第ということです。この絵はいわば自動翻訳装置なのです。たとえば先生の意思さえ  
介在すれば彼のようなエンチャント能力が他人にも付与されます。限定された空間でしか働かな  
い僕のような能力の保有者でも、この絵に“映せば”現実世界にそれを現出させることができる  
はずです。その効力は空間限定的、要するにこの近所に限られますが――」  
 そう言って別の絵を指差す。  
「あの《望み》という絵、あれは似たような力が別の分野で付与されているそうです。そしてあ  
なた方が体験した異空間はいわゆる《ラヨーク》によって生ぜしめられた」  
 とにかく素晴らしく強力そうだということは彼の説明からも窺える。  
 
「近所ってさ、半径数百キロの範囲で有効とか?」  
 少女の推測はどこから出てきたのだろう。  
「それは……。例外もあるようですがせいぜい数百メートル程度かと」  
 やや思案顔をみせて答えた。  
「計算合わなくない? こっからだとあの会場まで数十キロは離れてるし」  
「そのとおりです、さすがに鋭い」  
 両手を広げてみせる。彼自身の意図としては“降参”のジェスチャーなのだろう。  
「他の絵の効力を遠隔地で発現させるために描かれたのが、そこに掛かっている窓の絵だそうで  
す」  
 開きかけのガラス窓を描いた絵の前まで一樹は移動する。そばに二人も寄る。見ると、《窓》  
というそのまんまな名称がついていた。  
「あの子、窓がどうしたって言ってたわね。これのことだったの」  
「……あの誘拐野郎が?」  
 未来人の少年を指す代名詞として『誘拐犯』を使ったのだろう。苦々しい口調ではなかった。  
「うん。言ってた」  
「なるほど『誘拐野郎』ですか。あの時の――」  
 そうつぶやいた一樹は、何が面白いのか喉を鳴らして笑った。  
 
***  
 
――……うん、だから……  
 
 開いたドアの向こうから聞こえてくるのは男の声だ。ネイチャーな要請に応じたらしい『先  
生』がのんびりと近づいていく。一樹たちがたった今お話し中の部屋とは別の部屋でのことだ。  
建物自体が洋館なのでここも畳敷きの部屋ではないだろう。  
 
――だからまた今度行こう。ああ悪かったよ、それなら文句は言わないって約束……  
 
 そんな会話を誰と交わしているのだろうか。先生は開いたドアをノックして注意を喚起した。  
 
「え、あ……」  
 
 ドギマギしているのは誰あろう、ハルヒらの糸巻き案内人役を買って出た推定未来人、誘拐野  
郎にしてこの物語中ではテセウスくん(仮称)でもある。不敵な素っ面ばかりが印象的なこの男  
にしては意外な光景に出くわした。  
「聞こえとったで。別にええけど、そろそろあんたも来なさいや」  
 ぬっと部屋の中に顔を覗かせて先生は言った。  
 携帯電話を片付けていたところをみると電話中だったようだ。明るい橙色のケータイをポケッ  
トに突っ込んで、「その……今行きます」とすこし焦ったように少年は応じた。  
「遠慮せんと用件は済ませとき。それからこっち来なさい。それと、」  
 思い出したように付け加える。  
「コーヒーでええ?」  
「……紅茶で」  
 どうやってここまで来たのだろうかという疑問もさることながら、どうもバツが悪そうな少年  
であった。保護司のおやっさんになついた輩のようにも見える。  
 
***  
 
「この窓の絵には、ですから別の名前が――」  
 そう言いかけた長身の二枚目が、物音のしたほうを振り返った。  
 ちょうど扉が開くところだった。  
「コーヒーと紅茶なんやけど、お好きにどうぞ。どっちもインスタント」  
 お盆にカップと紅茶のパックを載せて先生が戻ってきた。テーブルの上にはインスタントコー  
ヒーの瓶とポット、あとおそらく先生自身のカップがすでにあった。  
「まあ立ち話もなんやし、空いてるとこ適当に座りいな」  
 勧められるままに3人は席に着く。  
 広い部屋とはいえいくつもの絵が飾ってあるうえにカンバスが立てかけてもある。こんなとこ  
ろで飲んでもいいのかと心配したのは常識人たることを心がけているキョンくんだったが、先生  
のほうは気楽そうに、  
「別にええよ。ワシいつも飲んどるし」と返事した。「大丈夫と思うけど、まあこぼさんといて  
や」  
 一応はそうもおっしゃった。  
 まあよほど派手にこぼさなければフローリング以外には実害も出なさそうだけど……。などと  
思う間もなく描いた当人がすでにカップにお湯を注いでいる。  
「ほんまやったら晩ごはん用意する時間なんやけど、ごめんねえ」  
 部屋に戻ってきてからいきなり口調が変わったことについてはまだ誰も触れてはいなかったが、  
これまた本人が先んじて弁明した。  
「かしこまった言い方やと肩が凝っていかんわ」  
 
「何の話やったん? あの絵のことやったら《リンケージャ》とか呼んでるんやったっけ、あん  
たらんとこ」  
 先生の言う『あんたらんとこ』とは、古泉一樹の言に従がえば『機関』と呼ばれる組織をどう  
やら指すらしい。  
「……そのようですね」  
 この二人は互いに相手の事情を知っている。  
 聞いた話が事実なら『先生』もまた異能を有しているのだろう。にもかかわらず『機関』の外  
側にいるということは……。  
 涼宮ハルヒの『鍵』扱いされている少年は、怪訝そうな顔で二人を交互に見た。  
 そのうちの一人の視界には窓の絵が入っているはずだ。古泉一樹が見ている窓の絵に別名があ  
ることは彼自身が示唆していた。  
 すなわち《リンケージャ》がその名前なのだろう。  
「そして、あの二つの絵によってお二人はここに通じる扉に導かれたと」  
 一樹に水を向けられた先生が窓の外を眺めて小さく頷いた。  
「そうやね。そうして《扉》を叩いた」  
 現実の窓の外はというと、そろそろ街灯が明るく感じられる程度にはなっていたようだがまだ  
十分に明るかった。外で遊んでいてついつい帰りが遅くなる季節だ。  
 この日ははひねもす穏やかな晴天で、本来ならばハルヒたちの視察小旅行も終わっているはず  
だった。この時間だと彼は帰りの電車か、二人でどこか店にでも立ち寄っていたかもしれない。  
 そういえば、一樹たちのデートは昼食までだったのだろうか。  
 残念なことに聞こうにも知っているのはおそらく本人だけで、自分からそんな話を切り出すと  
も思えない状況である。  
「なら、ここが異世界だったりするわけ? “ノ”に飛んだのってそうよね?」  
「の? それなに?」 おっさんが不思議そうに聞く。  
 そこでノックの音が響いた。「来たみたいやね」 一樹も頷く。  
「どーぞ。開いてるで」  
 
 ドアを開いたのはアトラクションでキョンとハルヒの出会った少年だった。仏頂面はあまり変  
わらないけれど、おやつをおあずけにされてふてくされた子供の顔にも見える。  
 
 見た目平凡な彼が指示代名詞のように用いた『あの誘拐野郎』とは、朝比奈みくる(変装時は  
みちる)誘拐犯の乗ったワゴンに少年が同乗していたことによる。未遂に終わったのはひとえに  
森園生ら『機関』の構成員諸氏の働きによるところが大きい。  
 
「お前もいたのか……」  
「フン。僕のほうが早かった。あそこまで案内して先に行かせてやったわりにはずいぶんと遅  
かったじゃないか。おかげで、その……無駄な時間を過ごすことになった」  
 
 おっさんになにやら目配せしたような、それから困惑気味の目線を向けたようにも見えた。先  
生の方があからさまにニヤニヤとしておられたのが理由だろう。  
「まあまあ、ここ開いてるで。座り。ティーパックどれでも使うて。お湯も……たくさんある  
し」  
 相変わらずのポーカーフェイスでその様子を見物する一樹からは何の感慨も読み取れない。こ  
の少年に対してはとくに腹蔵がないのだろうか。  
「そういえば、糸つかって出たんやって?」  
「あれって――あの部屋の仕掛けって先生がやったの?」  
 未来派の男が答える前にハルヒが尋ねる。  
「そのとーり。《見世物小屋》にようこそってやつやね」  
 彼の先導で出口の部屋までたどり着けた『ミノタウルスと迷宮伝説』の仕掛けのことだ。  
 見た目はほとんど変わらない入り口がずらりと並ぶ“東の宮”が、中庭に横たわる広大な湖を  
渡った二人の眼前にあった。  
 まずは行動とばかりに直感で選んだ扉はことごとく不正解で、そのたびに二人は最初の入り口  
の手前に強制送還されたのだった。  
 いったいどういう仕掛けだったのか。  
 物理的な原理についてはおそらくこの場にいる誰も回答を持ち合わせていないものと思われる  
ので、どういう仕掛けというのはつまり『クイズの答え』ほどの意味である。  
「わりと素直よ、ワシ」  
 どのように素直だったのかというと、入る順番がわかりやすかったという意味だった。要する  
に扉を左からアルファベットに見立てて文字列を追えばよかったという。  
「…………」  
 男の方はクマゼミ捕獲をしくじった子供のような顔をしている。ハルヒはというと――むしろ  
納得した顔だった。ある時点から、ひょっとすると最初から気付いていたのかもしれない。  
 その文字列とは、先生によれば  
『rayo(uまたはo)kuniyo(uまたはo)koso』というものだったらしい。  
 丸括弧内はどちらかを選ぶか、とばしてもよかったのだそうである。やたら融通の利く文字当  
てクイズだ。  
「意外に単純な感じが――」「するよな」  
 息の合った感想ありがとう。  
 
「そらあ、そうしたもん わしが」 先生が鷹揚に答える。  
「解かりようのない問題はなぞなぞというより意地悪でしょーが。そんなんわしゃ好かん」  
 独特のペースでしゃべる人だ。  
「こっちくるときの合言葉と一緒。わりと親切設計でしょ、」  
 のんびり口調で説明した。さらに、  
「そーいやあんた――」 彼女にしては比較的おとなしくしているハルヒに先生が尋ねた。  
 涼宮ハルヒがピアノを習っていたらしいことが二人のやりとりからわかる。  
 先生が言うには、彼女のこの経歴を踏まえたクイズも考えていたのだそうだ。  
 嬰ヘ長調だとかハ長調、いっそドーリア旋法の音階を弾かせたり、耳コピしてもらったメロデ  
ィーを何かで弾かせ、かつ逆行・反行させるとか、平行何度で引き継いでもらって上手く弾けた  
らミッションコンプリートなど、いろいろ考慮してみたという。  
「けど、お連れさんもいることやし面白うないわな、なんのこっちゃ判らんかったら。言うても  
ワシもそんな詳しくないし」  
 耳慣れない用語にいっそ眠気を喚起されつつあった少年に語りかける。  
「そんなのも面白そうね。って、わたしもあんまり自信ないけど」とはハルヒの弁。  
 諸般の事情で割愛された経緯をさらりと述べてから、なんとなく冗談めかしながらも最後の仕  
掛けについて先生は触れた。  
「ほんでもって〈ウェルカムインザラヨーク〉ってかっこよく決め台詞を言う、これよ」  
 不思議そうな顔でハルヒとキョンがお互い顔を見合わせた。  
「――違ったわよね?」  
 未来人はあまり関心なさそうに、黙って紅茶を飲んでいる。  
「…………」 関心はありそうだが、自分の短期記憶に自信がないのか、黙っていた。  
「へ? どゆこと?」  
 さきほど告げた文字列の綴りと〈杯を〉という招待の言葉が聞こえたことをハルヒが説明した。  
 そのとき、確かに『weweretogether』で正解だったのだ。つまり「私たちは一  
緒だった」という意味のアルファベットの文字列。すなわちイギリス語で言った。  
 だが、「わしゃ知らん」ということらしい。そのような選択肢を絡めていたつもりは無かった  
のだと。  
 さらに中庭での出来事に話題が及んだ。  
 濃い青また紫に染まった異様な空と付随する荘厳な音楽はたしかに“舞台演出”として先生が  
意図したものだという。だが広大な湖とそれを渡るに至った展開、ミステリアスな一連のしるし  
については、仕掛け人であるはずの先生はそれらを認識していなかったのだと。  
 
 不思議そうな顔を今度は先生がみせた。一樹もわずかに眉を寄せたようにみえる。  
「あの絵のことはようわからん」と感想を述べる。「誰かほかの者がかかわっとるのか、それと  
も――」  
 よくわからん、とジェスチャーで語った。  
 
「“Burns with love...”」  
 
 コップの中に広がる琥珀色の海を見つめたまま、ハルヒが小さくつぶやいた。  
 彼女は気付いていたのだ。  
 神話の実演よろしく糸をたぐって最後の部屋まで導かれた際に、彼女らはとある言葉をたどっ  
て踏破していた。この様子だとおそらく先生もご存じないもう一つの文字列で、それは  
『burnswithlove』  
 あの巨大な鳥が残したメッセージを現わすかのような順番であった。  
 
「そんな順番だったかな……」  
 細いスティックシュガーを空け、茶色い液体をスプーンでかき回していた男が隣りの女に言っ  
た。  
 彼には聞こえていたのだ。  
 隣りの一樹とその向かいに座ったテセ(仮)が自分を見ているのに気付いた彼は逆に聞き返す。  
「お前ら知り合いなのか? 『先生』は? ハルヒは……」  
「いえ。彼と直接顔を合わせるのは記憶にあるかぎりでは初めてです」  
「…………」  
 誘拐犯の少年は黙っている。しかしわずかに首肯して紅茶をすすった。ストレートで砂糖なし  
だ。  
「『先生』には――」 アイコンタクトで了解を得たようだ。「ときどき絵を習っていましてね、  
ここにも何度か訪れたことがあります」  
 もちろんそれだけではないだろう。異能の力を、それも尋常ではなさそうなものを持つ人物。  
「同時に、『キカン』に属してもおられますので」  
「連中、いやおまえらの仕掛けた罠ってことか、じゃなんでこいつが」 一樹の向かいの少年を  
睨んでいる。  
 つまり『機関』の陰謀に気付いた彼らがハルヒたちを助けるために来た、そういうことなのか。  
 それにしては先ほどの会話は仲間内とは異なるニュアンスだったような――  
「『キカン』違い」  
 気丈そうな娘の瞳が動いた。隣りの男の目もまた先生に注がれる。手にしていた甘そうなコー  
ヒーをテーブルに置き、注目のオヤジがゆっくりと続ける。  
「十二指腸とか盲腸とか、そっちの方に当てる『器官』ね。ま、あんま変わらんけど」  
「つまり我々とは別の組織体……連合体とでも表現した方がより正確かもしれません、以前から  
お話していた“機関のライバル組織”に該当する存在です。先生はそこに属しておられます」  
 先生本人は「わしゃ幽霊部員のつもりやけど」と冗談っぽく笑った。  
「あんた達から見れば」 どこかの未来から時間遡行してきたのであろう少年が口を挟んだ。  
「この人の組織が手を組んでる相手の関係者が僕、まあそんなとこだ。面白くない決め付けだけ  
どね」  
「けど、『器官』に『機関』ってややこしくない? 正式名が別にあるのかしら」  
「確かにそうですね」 あくまで笑顔の古泉くんだ。  
「もっとも、我々『機関』の内部ではまた別の呼称を用いたりもします。お互いにそうでしょう  
ね。また、」  
 赤い光球に幾度となく変身してきたであろう少年は言った。  
「我々の側から言えば、便宜上の理由で彼らのことを『オルガン』とも呼んでいます。『キカ  
ン』では同音異義語で区別が付きませんしね。ただそれだけの理由なんですが」  
 先生を含めて種々雑多な人々から構成された『器官』すなわち『オルガン』について少年は  
淡々と語る。  
「先生のような異才を含め、種々雑多な人々を幅広く包含した緩やかな連合体、それが『オルガ  
ン』の際立った特徴です」  
 
 長たらしい説明をかいつまむと、TFEIないし類する宇宙人勢力に接近を図る組織体や個人、  
未来的な科学技術ないしその影響を調査・把握するために組織された秘密組織や個人、それらが  
幅広いけれど同時に内部統制も比較的弱い状態で連携しているという。その幅広さを古泉一樹は  
一部次のように語った。その一端がうかがえる。  
 
「……また科学的捜査技術の進歩のために宇宙的・未来的叡智を得ようと暗躍する特務機関、電  
気ウナギの研究に一生を捧げる哲人、量子エンタングルメントの応用技術をモチーフにした新し  
いSFを書こうと志す文学少女、さらには一攫千金を夢見て世界の紛争地域を渡り歩く山師集団、  
ラヴクラフトの熱烈な愛読者でもある団地の主婦、はたまた大判焼きの――」  
「もういいわかった」  
 現代人の少年がたまらず中断させる。大判焼き・回転焼き界のいかなる人物が『オルガン』と  
どのように連携しているのか全く不可解ではあるが、とにかくこのまま列挙させておくときりが  
ないくらいの守備範囲の広さを『器官』は誇るという。  
 質が問題なような気もするけれど。  
 しかし血なまぐさい闘争も辞さなかったという一樹のかつての科白が事実そのとおりならば、  
呉越同舟となっているこの現場の行く末も含めて両者の力関係を憂慮したくなる話だった。  
「その話を信じるとしてもだ、なんでお前がここにいる? 敵同士なんだろうに」  
 先生と一樹が互いを見合う。どちらとも、なんでもなさそうな顔をしている。  
 少年のほうが「ククッ」と喉の奥から湧くような笑いを漏らして答えた。「絵を習いに時々。  
本当ですよ」  
 助け舟を求めるように先生を見る。  
「ほうやで」 先生は首肯した。  
「――たしかに、お互いの考えには隔たりがあり、利害もまた対立しています。あなたが懸念を  
抱くのも当然です。また我々の『機関』と違い、『オルガン』は宇宙規模存在の端末とも比較的  
密接な連携を有していて、それ自体がまさに脅威といえるでしょう。ただ、それだけではないの  
です」  
 
 やや間をおいてからその場の全員を見回してこう告げた。  
「この話は涼宮さんに大いに関わるものです、言い換えれば、この仕掛けの種明かしともいうべ  
き。その前にここは一つ――」  
 目くばせされた先生がいかにも暢気な頷きで了解する。  
「この《絵描き》の力を拝借してみましょう。いま僕がここにいるのはそのためでもあります  
し」  
 そう言って立ち上がると、「すみませんが、先生以外の皆さんは一旦テーブルから離れてくだ  
さい」 一同にそう要請した。  
「これからお見せするのは本来『閉鎖空間』においてのみ使うべき能力です。通常空間では起こ  
らないはずの事象――」  
 手のひらを《絵描き》に向かってかざす。  
「我々の機関もそうですが『オルガン』の人たちもこの絵のことは別の名前で呼んでいます。つ  
まり、《アルビトロ》と。スペイン語で『審判者』という意味の……」  
 
「古泉くん、手が!」  
 ハルヒの目の前でそれは始まっていた。一樹のかざした手が赤味を帯びてにぶく光っている。  
「僕も初めての経験です。これは……少々興奮を覚えますね。もっとも、このごろは『神人』相  
手におおわらわで少々参ってもいますが……」  
 朗らかな中にもわずかに真剣な色を帯びた顔になる。  
「今日ここに来たのは他でもありません、この力を用いてその《扉》を焼却し、またそれを見届  
けるため。最重要任務ですので本来なら……いえ、これはどうでもよいことですね。今お見せす  
るのはその余興のようなもの」  
 次第に明るくなる一樹の手。  
 部屋の中央付近にあるひときわ大きなカンバスに描かれた扉の絵を一瞥し、さすがに驚愕した  
顔で自分を見つめている長髪の娘に語りかけた。  
「午前中にお会いした際、『考えておきます』と言いました。どうやらいまお見せできそうで  
す」  
 黙然として腰掛ける男性はなお泰然自若としたものだったけれども、少年少女らは三者三様に  
驚いているようだ。タコ糸の少年ですら一樹の手が光を増す様をただただ凝視していた。彼の未  
来でも滅多なことでは見られない芸当なのだろう。  
 目下のところ現役ぶりを珍しくも見せ付けているエスパー少年の手は、すでに正視に困難を覚  
えるほどに輝いていた。手の平からあふれるようにそれが盛り上がっていき、やがて光の玉を形  
作っていく。  
 いつぞやのカマドウマ退治・追跡行では大いに活躍した赤い玉に似ていた。  
 文字どおりと言っていい『天文学的』な情報の大海の中から、ハルヒは『召喚紋章』をこの世  
界に現出させた。またの名を落書きともいう。  
 それが「扉となった」――Y.N氏談  
 計9人の不幸な一般人(たぶん)が彼女の呼び込んだ災禍に巻き込まれ、諸般ないし世界の事  
情により当の涼宮ハルヒに対して秘密裏に事は処理された。その際には古泉一樹もおおいに活躍  
したはずである。ただハルヒ自身がこの光景を目にするのは、夢の世界や模擬空間を除けば彼女  
史上初めてのはずだ。  
 ただし、より強烈に発光している。  
 
「おい古泉、お前まさか」 寝ぐせがわずかに残る少年が何かに感づいた。  
 あいているほうの手をエレガントに振って、  
「《アルビトロ》の、加えて《シェル》の力をすこしお見せするだけです。心配には及びませ  
ん」  
 光の男がそう返事する。  
「…………」  
 言葉を失ったらしい彼は、ほとんど閉じた目をさらに利き腕で覆った。  
 
 その輝きがさらに増す。質量が小さい玉に凝縮されたような存在感を放つ。  
「よろしいですか?」と尋ねた一樹に「結構」と答えたのは『先生』だ。まるで湯を注いで閉じ  
ていたカップラーメンのフタを開けていいと言うときくらいの気軽さだった。  
 
 微笑みを絶やさないまま、突然、『先生』に向かって光の球を投げつける一樹。  
 
――――!!!  
 
 呆気にとられる三人。何が起きたのか理解する間もないほどの一瞬のことだった。  
 
 投げ付けられた光が当たる瞬間、蒸気がもれる時のような音がして、男性の全身が白い光に包  
まれた。  
「クッ!」  
 未来人の少年も含め、ハルヒたち三人は慌てるがどうすることもできない。熱をほとんど感じ  
させないで光る白いもやの中から、少しの間をおいて声が聞こえる。  
 
「この絵もなあ、描いたワシにもいまいちわからんのよ」 先生だ。  
 
 どうやら無事らしい。  
 次第に光のもやが薄れていき、包まれる前と変わらない姿でコーヒーを飲む『先生』が現れた。  
「光ったのは演出演出。見た目こっちのほうがかっこいいやろ」  
 
 …………。 ハルヒも、一般人の少年も、呼吸を忘れたような真剣さで見つめていた。  
 
「いま彼に叩きつけた光の玉の威力そのものは、『神人』刈りの際に僕が用いる力とほぼ同程度  
でした。涼宮さんはご存じないかもしれませんが……」  
 そう言ってからとなりの少年を見る。  
「つまり、あなたには何度かお見せしたことのある“赤い火の玉”とは段違いに強力だったのに、  
ご覧のとおりかすり傷一つつけることができません」  
「もっとも」と前置きして付け加える、「赤い火の玉というのは便宜上の表現ですが」  
「きみらの“ご活躍”なら僕も見たことがある」と、未来人の男子が口をはさむ。「あれと同程  
度で無傷? 聞いてはいたけど、信じるのに困難を覚えるよ」  
「でも事実そうなんです。仮に僕自身がぶつかっていれば、ただでは済まなかったのは僕の肉体  
のほうでしょう」  
 目を細めて少年に答えた。  
「これが《アルビトラリオ》とも呼ばれる絵描きの絵がカンバスに映す力、そして《望み》とい  
う題がついている絵《シェル》による障壁」  
 同じ絵に《アルビトロ》と《絵描き》以外の呼び名もあるようだ。  
「《アルビトラリオ》というのはすなわち“ほしいまま”と書く『恣意』の意味になります」  
 
「ちょうどええわ……この絵ね」  
 
 席を立った先生が、部屋の真ん中にある扉の絵の前で少年らに語りかけた。  
「先生、ここは僕が――」 「ええよ」  
 先生が制した。  
「いっちゃん――古泉くん。わしが言うわ」  
「…………」 声を掛けられた少年はしばし考えている様子だ。  
 静かに目を閉じ、ふたたび先生を見る。  
「――お気遣いありがとうございます。では」  
 そう言って、席を譲るときのような仕草で先生に話を委ねた。察するに、先生は一樹のことを  
主に『いっちゃん』と呼んでいる。  
「涼宮ハルヒさん、あんたを呼んだんは他でもない僕。それができるようになったのはこの絵の  
力です」  
 
「会場の特別切符からインターネット伝って見たページがあるでしょ、あれが窓の絵につながっ  
とった」  
 ちなみに窓というのは特定のOSの話ではない。悪しからず。  
 
「ホンマ言うたら、こんな手の込んだことせんとそのまんまの涼宮さんを《見世物小屋》に放り  
込めいう話になっててね。《扉》の力で世界から切り離してしまえばもっと安全にあんたを刺激  
できるとまで言い出した」  
 そんなことを夢想させるほど扉の絵は強力なのだろうか。  
「そっから出さんかったらそれで勝ち、そんなこと言う人もおった。扉の絵と涼宮さんと力比べ  
させたらきっと扉の絵が勝つから大丈夫とか、そんなアホみたいなこと言い出した」  
「先生の言うとおり、」  
 さえぎった仮称テセくんの口調には実感がこもっている。  
「まったく、この時間平面上にいる連中は愚か者ばかりだ、どいつもこいつも……」  
 むっとして彼を睨む現代的無能力者の若者。  
「別にあんたのことを言ってるわけじゃない」 気付いた未来人はなぜか彼に弁明した。  
 意外に気を遣う人柄なのかもしれない。  
 先生は薄く笑っているように見える。己の作品を見つめながら。  
「仕方ないんかもしれんけど、この絵の力が突然大きくなってから周りが騒がしくなってもうた。  
いろんな人がやいやい首突っ込んで――」  
「参った」と言いながらハルヒに笑いかけた。「この絵もそうやろう、あんたと比べられて」  
 しかし、力が突然大きくなったとはどういうことなのだろうか。  
 引き続き内部事情が明かされる。  
「劇作家と舞台そのものに大道具が一人反抗するようなもんやって、わし言うたんやけど、せっ  
かちな人にしてみれば『変化のない観察対象に飽き飽きした』いうことなんやろうね。この絵を  
真ん中にして『器官』で綱引きや。古泉くんとこも絡んできた」  
 誰かが言ったような台詞だ。『オルガン』急進派だろうか。  
「それで、ああでもないこうでもないって侃々諤々、内外問わずやりあった挙句に『古代遺跡』  
やろういうことになったらしい。ワシは幽霊会員やし後から聞かされたんやけど」  
 一つの謎が明かされた。  
 つまり、あのアトラクション会場を仕切っていたのは『器官』の関係者だったのだ。  
「それでも涼宮さんをそのまま会場のあの迷宮に案内するのが『器官』の人らの――こっちの  
『器官』ね――考えでしたというわけ。そんなん下手したら何もかも終わってしまう、なんせ愛  
想つかしたら別の世界造ってしまえる人が相手なんやし」  
「…………」 件の少女には答える言葉がないらしい。  
「理屈というかそういう考えで、いっちゃんとこの人らがまあいろいろと」  
「そうですね」  
 いっちゃん、つまり古泉も認めた。  
「涼宮さんを入れ替えるっちゅうウルトラEみたいな解決に持っていこういうことに内々でなっ  
て。そりゃあんたには迷惑なことで。申し訳ないわな」  
「……いえ、わたしは……」 ハルヒとしては複雑な心中なのだろう。  
「いや。謝っても謝り足りんわ。あんたには何の責任もないのに巻き込んでしまった」  
 
 少しのあいだ沈黙が厚い雲のように垂れ込めた。誰も口を開こうとしなかったからだが、先生  
の言葉を待っているようでもあった。  
 窓側の間接照明を点けてから、男性がふたたび語る。  
「好きな言葉は妥協、そんな人もおる。わしゃ結構好きな言葉やね。けど、そう言ってる人が時  
に信用ならんかったりしてな。どこの世界でも、言葉はそれをいたぶるモンによって傷つく。事  
情は複雑にするモンによって複雑になる」  
「それをほぐすのがどんなに大変か」と言い、肝胆あい照らす仲間を見るような目で若者の一人  
を見た。  
 相手は無言のままだ。  
「わし思うんやけど、妥協には二種類ある。折れてまう妥協と、まっすぐにする取り成しと。だ  
いたいは悪い意味で使うやろうけど。まっすぐにするために取り成しする者は、えてしてどっち  
にも嫌われる。敢えて、全部知っててそうできる者なんて滅多におらん」  
 いきなり人生訓のようなことを語りだした先生に、異世界から帰還を果たしたらしい二人は怪  
訝な顔を隠さない。  
「そうそう、」 そのうちの一人に向かって語りかけた。「古泉くん言っとったで。『今日は彼  
に殴り倒されるつもりで来ました』て」  
「先生、その話はいいですから」  
 一樹の慌てた様子にも構わず先生は続けた。  
「この子は大変やったはずやで。むずかしい類の“妥協”のためにいっとう動いとったのはこの  
子よ。『キカン』同士の間に入って、わざと悪態ついてどっちにも嫌われる。その上あんたらに  
も邪険にされそうなことを知ってて、敢えて何も言わんと――」  
「…………」 二人とも黙っている。  
 こちらの少年も一樹に対してはさんざん悪態をついてきたものだ。それらを思い出しているの  
かもしれない。  
「仲良くしてや、ワシみたいな“敵”が言うのも何やけど。それが言いたかっただけ」  
「ああ、いや、そうっすね……」  
 恐縮して頭を掻く。ちょうど寝ぐせのあった辺りを撫で付けるようにして。  
 
「まったく先生も人をからかうのがお好きで。困ります」  
 思わぬところで賞賛されて当惑中の彼が苦情を言った。  
「別にからかってへん」 ひょうひょうとおっしゃる。  
 
「いえ……参りました。僕個人は、こういう場面にあまり慣れていませんし、」  
 深い溜息が漏れ聞こえた。  
 言葉にたがわず困惑気味の表情を浮かべてそう言った超能力少年は、どういうわけかそのまま  
顔を上げる。見上げる天井に目ぼしいものがあるわけではないだろうに。  
 
「困ったものですね――」  
 小さく吐いた息が揺らいで聞こえる。  
 
「まったく、困ったものです……」 天を仰いだままもう一度つぶやいた。  
 

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